日本には怪談はかなりあるけれども、其の多くは仏教から胚胎した因果物語か、でなければ狐狸などの妖怪であって、独立した悪魔のような物語はあまりない。その中にあって備後国の魔王の物語は、ちょっと風がわりであるから紹介してみよう。
寛延年間のことであったらしい。備後国三
それは五月雨の降る
「どんなものか、一つ其の
「そうじゃ、逢ってみたいな」
「それでは二人で
「好いとも、何時往く」
「今晩の
それはもう夕方のことであった。平太郎はひとまず我家へ帰って夕飯をたべ、何時でも出発できるように簑笠まで用意して、時刻を計って再び権八の家へ往ってみると、権八も身のまわりを調えて平太郎の来るのを待っていた。二人は
やがて大熊山の麓に辿り着いて険阻な石高路を登りはじめたが、其の困難は田畦の間の比ではなかった。しかし、何時何処で妖怪に出逢わないとも限らないと思っている平太郎の心は、非常に緊張しているためにさほど苦痛を感じなかった。彼はできるだけ心を
石高路がなだらかになって平坦な場所へ来た。平太郎はいよいよ千畳敷に来たから、妖怪が出るだろうと思いながら、其処を通り越してまた同じような石高路を登って往った。と、石塔らしい物にばったり往き当った。……三次殿の塚だなと思って彼は塔を撫で廻してみた。それはたしかに五輪の塔であった。塚の
小さい雨がぼそぼそと降っていた。彼は闇の中を静に見廻しながら小半時も其処に黙然としていたが、樹の葉に触れる微風の、さ、さ、さ、と鳴るばかりで別に不思議に思うこともなかった。で、もう帰ろうと思いだしたが、此のまま帰っては此処へ来た印がないと思ったので、足もとの草をりとって塔の処に探り寄り、それを塔の一番上の擬宝珠に結びつけて、それから草鞋の紐をなおして降りかけた。
千畳敷の平坦な処へおりたところでふと怪しいものと擦れ違った。それはたしかにものの胴体らしかった。平太郎ははっと思ったのでいきなり刀を脱いて切りつけた。其の刀は金属によってかちりと受け止められた。平太郎はまた刀を揮った。それもまた支えられた。そして、刀の尖端から火花が散った。
「平太郎殿、権八じゃ」と、親しみのある声で云った。
平太郎は刀を引いたが心は許さなかった。
「
平太郎と権八は刀を収めて並んで立った。平太郎の冒険も何の変ったこともなかった。二人は気ぬけがして帰って来た。
五月雨の
そして、二人は門前で別れてそれぞれ家へ入ったが、皆川の中を泳いで帰ったように頭からずぶ濡になっていた。平太郎は
睡りかけていた平太郎の耳に
「おい、どうした、どうした」と、云って声をかけると、僕はやっと我にかえったように起きあがって、
「夢であったか、今大入道が飛び込んで来て、私奴の上にあがって、ぐいぐい押しつけますので、
と、云ってまだ恐ろしそうにきょろきょろしていた。
「
平太郎は僕をしかりつけて置いて己の
此の時権八は寝床の中でうとうととしていたが、平太郎の家で騒がしい音がするので、何事が起ったろうと思って急いで起きて隣の門口まで往った。と、十二三歳になる女の子がちょこちょこと出て来て擦れ違おうとしたところで、女の子は不意に権八の咽喉元に飛びついて両手を咽喉輪にかけた。権八は其のまま気絶した。そして、暫くすると正気になった。もう
「平太郎殿、私じゃ、私じゃ」と、権八が云ったので平太郎はやっと気が注いた。
朝になって
三人の者は行灯の前で、妖怪に対する意見を戦わしていた。
「なに、
「まあ、まあ、後学のために見て置くことさ」と、すまして云うものもある。
其のうちに夜は刻々と更けて往った。そして、丑の刻が満ちて来た。三人は話に飽いて口をつぐんでいた。と、
「茶でも飲もうか」と云いだした。
室の隅には茶の道具が置いてあった。一人が起って往って茶碗を持って来ようとすると、茶碗がふいふいと空間に浮きあがって室の中を廻りだした。と、見る間に行灯がまた浮きあがって人が持って歩くように室の中を廻りだした。三人の者は口が利けなくなった。火鉢が続いて天井の方に舞いあがって灰がぱらぱらと三人の頭に降って来た。三人はたまらず逃げだした。
麦倉邸の怪談はますます附近の評判になった。平太郎の伯父になる川田茂右衛門は、平太郎を一人置くのを心配して、其の日平太郎の家へ来て
「どうか、打ちゃっといてください」と、云って聞き入れなかった。
「年月の御恩を受けながら、こんなことを申しあげますのは、誠に何とも相すまざる儀でございますが、とても私には御奉公が勤まりかねます、どうかお暇をくださりませ」
と、云って無理に出て往った。
中山源七が見舞に来たが、
麦倉邸のまえには
一、此度麦倉屋敷ニ怪事有之 右ニ付村内ハ不申及 近郷近在マデ聞伝エテ群衆ナシ昼夜ノ差別ナク騒ガシケレバ其為ニ百姓共ハ農事ヲ怠リ候儀モ之有哉ニ聞エ且婦女子ニ於テハ驚キ怖ルル者少カラズ候ニ付今日ヨリ当屋敷門前ヘ群集差止候ニ付屹度相守申可者也
寛延二年七月六日
寛延二年七月六日
備後国三次郡布努村村役場
夕方から降って来た雨に平太郎の処へ見舞に来ていた新八郎は、其のまま泊ることになって二人で一つ蚊帳の中に寝ていろいろな話をしていた。
雨はしめやかに降っていた。気の弱い新八郎は平気を粧うて平太郎と話をしているものの、心では妖怪に怖れを抱いていた。で、何かがさがさと音でもすると心をびくびくさして、其の方に恐ごわ眼をやっていた。
鴨居から蚊帳の上に何かことんと落ちて来てくるくると走りだした。新八郎はびっくりして、
「あれは、あれは」と云った。
「妖怪の仕業でしょう、捨てて置くが宜しゅうございます」と、平太郎は笑いながら云った。
新八郎が好く好く見ると、蚊帳の上の物は
翌日になって平太郎は新八郎を送って往って、一日其処で遊んで夕方になって帰ってみると、近隣の
「今晩は、お伽をいたそうと思って来ておる」と云った。
平太郎は心の中におかしかったが、
「それはありがたい」と、云って寝る時分が来ると、後を其の壮佼達に頼んで置いて
「茶碗や行灯が、
夜が更けて来るに従って十月
火鉢の中に炎が燃えあがってそれが見る見る一団の火玉となった。壮佼達は驚いて後に飛び退いた。火玉はくるくると舞うて上にあがるまもなく、畳の上に雷のような音をさして落ちたので、皆胆を潰して庭へ飛びおりて逃げた。
平太郎は其の騒ぎに眼を覚して壮佼達のいた室へ往って見ると、壮佼達は皆逃げて畳の上が二尺四方位薄く焦げていた。平太郎は微笑しながらまた己の寝床へ帰った。
新八郎は其の夜からまた病気になって枕があがらないようになった。
横新田と云う処に上田治太夫と云う知人が住んでいた。平太郎は其の月の十三日、用事が出来て治太夫の許へ往ったが、御馳走になって話しているうちに夜になったので帰って来た。
空には明るい月があった。平太郎は月を見ながらあるいた。路には三芳川と云う川が流れていた。平太郎は其の川の土手を通っていた。清い月の光は川の水に流れてきらきらと揺れていた。瀬に砕ける流れの音がざあざあと鳴るばかりで、
「もし、もし」
女はぐびぐびと肩を動かした。平太郎は続けて声をかけた。
「なんとせられた、お女中、お女中……」
女は顔をあげて恐ろしそうに見た。面長な
「
女は急いで坐りなおして衣裳の乱れをつくろいながら恥かしそうに云った。
「私は
「それは気のどく、
女は俯向いて答えた。
「私は山北と申す処の者でございますが、小さい時に両親に別れて、伯父伯母の世話になって大きくなりましたところで、此の比、其の伯父が病になって、其の日の
「それは気の毒じゃ、なにしろ此処では、精しい話もできない、兎に角、私の家へ往ってからのことにしよう」
平太郎は女を伴れて布努村の
平太郎は更めて女の身の上を尋ねるつもりで、別室へ入って
作平は稲生へ出入する猟師であった。彼は麦倉邸の妖怪の噂を聞いたので、
「西行寺の薬師如来は、霊験のあらたかな薬師でございますから、其の画像を借り受けて、御信心なされますなら、どんな変化でも退散いたします」と云った。平太郎も妖怪の悪戯に困っている処であるから、
「それでは一つ頼もうか」と、云って承知した。
其の時はもう夕方であった。作平は稲生家を出て西行寺へ往ったが、途中で日が暮れてしまった。
「や、曾根の旦那でございますか」
作平といっしょにむこうからも声をかけた。
「作平か、今から何処へ往く」
「私はこれから、西行寺へ用事があって往くところでございます」
「そうか、火無しでは困るだろう、……じゃ、これを持って往け、乃公の方はもう眼をつぶっても帰れる処じゃ」
作平は一度は辞退したが、源之丞がたって云ってくれるので、
暫くして作平が我に帰ったときには、もう怪しい物もおらず、空も晴れて月が明るく射していた。それでも彼はもう西行寺の方へ往くことはできなかった。彼はむっくり起きるやいなや犬の走るように走って帰った。
翌日になって作平は源之丞の家へ往って、起きて出て来たばかしの源之丞の顔を見ると、
「
「なに、提灯を貸した、それは人違いだろう、
平太郎は夜遅くまで作平を待っていたが、とても帰りそうもないので、二更の鐘を聞くと、
(とても今夜は帰らないだろう)と、独言を云い云い寝床の方へ往こうとして立ちあがると、
「おのれ妖怪」と、云いさま脱き打ちに斬りつけた。と、女は煙のように消えてしまった。平太郎は苦笑して刀を収めた。そして、朝になると作平が来て提灯の話をした。平太郎は笑って聞いた。
作平は其の足で西行寺へ往って目的の画像を首尾好く借りて来たので、平太郎はそれを床の間にかけて香を焚き花を供えた。そして、夜になるとそれに灯明をつけて、其の前に坐って静にお経をあげていると、其の画像がひらひらと軸の中から抜けだして
其の夜のことであった。平太郎が寝床の中で眼を覚してみると、生首がうようよと
また
作平に限らず稲生の知人は皆どうかして妖怪を退けたいと思った。向井次郎右衛門は合蹄の罠に妙を得ていると云う猟師を伴れて来た。
其の猟師は重兵衛と云う男であった。彼は平太郎に向って
それは十八日のことであった。夜になると重兵衛は雪隠の中へ入って、その小窓から蹄の方をすかしながら妖怪が来てそれにかかるのを待っていた。宵闇の空は薄く曇って糠星が一つ二つ淋しそうに光っていた。
夜は次第に更けて来た。冷たい風が首筋を撫でまわすように吹いた。重兵衛は小窓の枠に頬を当てて暗い中を見詰めていた。と雪隠の戸にめりめりと音がして、大きな棒のような手が来て重兵衛の首筋を引掴むとともに、外の方へ投りだしてしまった。
其の物音に平太郎は、妖怪が蹄にかかったであろうとおもって、隻手に手燭を点け隻手に刀を執って庭へ出てみると、重兵衛が垣根の傍へ倒れて気絶していた。蹄はと見ると昼間重兵衛がかけたままであった。
「おい、おい、どうした」
平太郎が肩に手をかけて揺り動かすと、重兵衛はやっと正気になった。
「あれや、狸や狐じゃない、天狗じゃ、天狗じゃ」と、彼は声を慄わして云った。
平太郎は運を天に任して妖怪と根比べをするより他に手段がないと思った。で、もう夜伽などしようと云う者があっても皆断って、一人冷然として家を守っていた。
雨の々と降る夜であった。陰山庄左衛門の[#「陰山庄左衛門の」は底本では「陰山庄右衛門の」]弟の正太夫と云うのが見舞に来た。正太夫は平太郎の竹馬の友であった。正太夫は挨拶がすむと、己が差して来た刀を手に執りあげて平太郎に見せて云った。
「これは、兄が殿様から拝領した備前長船の名刀じゃ、妖魔も此の霊徳には叶わないと思われる、今晩は是非夜伽をして、もし現れたら、一刀に斬って退治いたそう」
庄左衛門が主君から長船の刀を拝領したのは、平太郎も知っていて
夜半比になると二人とも話に飽いて来たので黙って坐っていた。と、台所の方から女の首がころころと転がって来た。正太夫はそれを見るといきなり長船の刀を脱いて斬りつけた。首は二つに分れた後でふっと消えた。其の
「大変なことになってしまった」と、云って恨めしそうに折れた刀の方に眼をやった正太夫は、「此の上は是非がない、死んで兄上にお詫をしよう」
彼はこう云って脇差に手をかけた。平太郎はそれを押し止めた。
「これは、貴殿が拙者の難儀を救わんがためにしでかした過ちである、拙者の不調法も同じことじゃ、夜が明けたなら、拙者より庄左衛門殿にお詫をして、貴殿の迷惑にならざるようにいたそう」
「御親切はありがたいが、武士たる者が
平太郎はびっくりして其の手にすがりついたが、もう如何ともすることができなかった。それでも彼は、正太夫の両肩をしっかり抱きかかえて、
「正太夫殿、正太夫殿」と、云って力をつけたが、傷が深いのかみるみる息を引きとってしまった。
哀れな友は己の犠牲になって死んでしまった。平太郎は其の死骸の前に坐って愁然として考えていた……妖怪などのために友を殺したとあっては、世間に対しても申しわけがない。それに、こんなことでは何時妖怪のために生命を落さないとも限らない。どうせ運のない体なれば、
「早まってはいかん、早まってはいかん」と、云ってあわただしく走り込んで来た者があった。平太郎は短刀の手を止めて顔をあげた。それは病気で引籠っていた権八であった。
「何故にそんなことをなされる」と、権八は其の手を掴んで叱るように云った。
平太郎は静に正太夫の切腹をしたことを話して、
「申しわけの切腹であるから、決して止めてくださるな」と、云って権八の手を揮り払おうとした。
「……然らば正太夫の死体はどこにある」と、権八は平太郎の手をしっかり掴んだままで左右を見た。
「貴殿の
権八は首を曲げて
「何も見えないではないか」
平太郎は夢から覚めたようになった。彼の眼には夜の明け離れた室の中が映った。短刀を落して室の中を見廻した。正太夫の死体も柱の下の折れた刀も見えなかった。彼は苦笑して権八を見た。
「すんでのことに、あぶないところであった」と、権八は呆れて眼をった。
八
[#「八」は底本では「六」]七月の末の日となった。妖怪に悩まされはじめてから満一ヶ月目の夜であった。平太郎は行灯の前に一人ぽつねんと坐って前夜のことを考えていた。執拗な妖怪のために既に命を捨てようとした其の愚かさを顧みて、我と我身を嘲っていた。そして、暫くして我に返って前の方に眼をやると、裃を着けて両刀をさした立派な武士が悠然として立っていた。
「おのれ妖怪」と、云いさま平太郎は刀を抜いて起ちあがると、武士は
平太郎は持てあました。彼は刀をかまえたなりに壁の方を見つめていた。
「汝が如何に我を斬らんとするも、とても斬ることはできない、今夜は汝に云うことが有って来ておるから、刀を収めて静に聞け」と、壁の中から声がした。
平太郎はとても
「今こそ我が名を名乗らんが、我は狐狸などの
平太郎はにじりよって其の巻物を手に受けた。
「此処で一読するが宜しからん」と、魔王は云った。
平太郎は云うとおりに其の巻物を開けて中の文字に眼をとおした。其の時二更の鐘が鳴った。
「然らば、我はこれより奥州の金華山に出発する、汝に逢うもこれ限りなるぞよ」と、云って魔王は起って縁側の方へ出て往った。
平太郎も別れが惜しいので後から跟いて往った。庭前には籠が据えてあって、其の傍には天狗のような異形の者が五六十人ばかり、下弦の月の光の下に見えていた。魔王が庭におりるとそれ等の異形の者は、一斉に地上に頭をさげて礼をした。魔王は籠の中にゆったりと乗った。と、空から怪しい雲がおりて来て、其の籠をはじめ異形の者を包んでふうわりと空へ飛んで往った。
九月になって新八郎が死亡したので、平太郎は稲生家を相続することになり、元高五百石を給せられた。此の平太郎は江戸の霞ヶ関にあった藩の上屋敷に来たこともあったので、逢って本人から其の話を聞いたものもあった。