魔王物語

田中貢太郎





 日本には怪談はかなりあるけれども、其の多くは仏教から胚胎した因果物語か、でなければ狐狸などの妖怪であって、独立した悪魔のような物語はあまりない。その中にあって備後国の魔王の物語は、ちょっと風がわりであるから紹介してみよう。
 寛延年間のことであったらしい。備後国三次郡よしごおり布努村ふぬむらに稲生平太郎と云う少年武士があった。彼にはじぶんの出生前からもらわれて来て稲生家を相続することになっている新八郎と云う義兄と、勝弥と云う幼少の弟があったが、新八郎は病身と云うところから、弟とともに新八郎の実家の中山源七方へひきとられて、家には一人のげなんばかりが住んでいた。平太郎は其の時十六歳であった。藩の武芸の師範をしている吉田次郎から三年間武芸を学んで、立派な腕を持っているところから、稲生の小天狗と云われていた。
 それは五月雨の降るころであった。侘しい雨が毎日降っていた。某日あるひ平太郎は雨の間を見て隣家へ遊びに往った。隣家の主人の権八はもと三の井と云う力士で、一度は紀州家の抱えとなっていた大関角力であったが、其の比は故郷へ隠退して附近の壮佼わかものに角力の手ほどきをしてやっていた。
 年齢としには余程の相違はあったが平太郎と権八の二人は非常に気があっていた。二人は隔てのないいろ々な話をした後で、権八がふと大熊山の妖怪のことを云いだした。大熊山は三次郡の西方にある巌石の峨々と聳えた山で、五十丁ばかりも登った処に三よし若狭守の館の跡だと云う千畳敷と呼ぶ処があった。そして、また二十丁ばかりも往くと三次殿の塚と云う五輪の塔があって、其の背後うしろには俗に天狗杉と云う七尋か八尋位もある大杉が、塚を覆うように枝葉を張っていた。
「どんなものか、一つ其の妖怪ばけものに逢ってみたいものじゃないかと[#「ものじゃないかと」は底本では「ものぢゃないかと」]」、権八は云いだした。平太郎も好奇ものずきらしいまなこを輝かした。
「そうじゃ、逢ってみたいな」
「それでは二人で※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)くじびきして、当った者が三次殿の塚のあたりに往ってみようか」
「好いとも、何時往く」
「今晩の亥時よつ比が好いだろう、直ぐ出発ができるようにかまえていて、其のうえで※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)引をして、当った者が出かけようじゃないか」
 それはもう夕方のことであった。平太郎はひとまず我家へ帰って夕飯をたべ、何時でも出発できるように簑笠まで用意して、時刻を計って再び権八の家へ往ってみると、権八も身のまわりを調えて平太郎の来るのを待っていた。二人は紙撚こよりを拵えて※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)にして引いてみると、それが平太郎に当った。
 真黒まっくらな中に雨がしとしとと降っていた。平太郎は簑笠を着け、草鞋を穿いて大熊山の方へ向ったが、覆面させられたようで何も見えない。足を稲田の中へ踏み入れたり、荊棘を踏んだりして路がはかどらなかった。これには平太郎も困りぬいたが、引返しては卑怯だと云われるから、足探りに路を探って進んだ。
 やがて大熊山の麓に辿り着いて険阻な石高路を登りはじめたが、其の困難は田畦の間の比ではなかった。しかし、何時何処で妖怪に出逢わないとも限らないと思っている平太郎の心は、非常に緊張しているためにさほど苦痛を感じなかった。彼はできるだけ心を沈静おちつけて悠然として登って往った。
 石高路がなだらかになって平坦な場所へ来た。平太郎はいよいよ千畳敷に来たから、妖怪が出るだろうと思いながら、其処を通り越してまた同じような石高路を登って往った。と、石塔らしい物にばったり往き当った。……三次殿の塚だなと思って彼は塔を撫で廻してみた。それはたしかに五輪の塔であった。塚の背後うしろに天狗杉のあることを思い出した。彼はまた塚を斜に除けて背後うしろの方へ往って手を拡げて探ってみた。大きな樹の幹に其の指さきが冷たく触れた。……たしかに天狗杉だと彼は思った。彼は其のまま其の根本に腰をかけた。
 小さい雨がぼそぼそと降っていた。彼は闇の中を静に見廻しながら小半時も其処に黙然としていたが、樹の葉に触れる微風の、さ、さ、さ、と鳴るばかりで別に不思議に思うこともなかった。で、もう帰ろうと思いだしたが、此のまま帰っては此処へ来た印がないと思ったので、足もとの草を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)りとって塔の処に探り寄り、それを塔の一番上の擬宝珠に結びつけて、それから草鞋の紐をなおして降りかけた。
 千畳敷の平坦な処へおりたところでふと怪しいものと擦れ違った。それはたしかにものの胴体らしかった。平太郎ははっと思ったのでいきなり刀を脱いて切りつけた。其の刀は金属によってかちりと受け止められた。平太郎はまた刀を揮った。それもまた支えられた。そして、刀の尖端から火花が散った。
「平太郎殿、権八じゃ」と、親しみのある声で云った。
 平太郎は刀を引いたが心は許さなかった。
貴殿あんたをやった後で、心もとなくなって来たから、見に来たところじゃ」
 平太郎と権八は刀を収めて並んで立った。平太郎の冒険も何の変ったこともなかった。二人は気ぬけがして帰って来た。


 五月雨のころは過ぎて世は七月の暑い世界となった。某日あるひの夕方平太郎と権八の二人は、二筋川の方へ納凉に往っていた。夕陽の落ちたばかりの川原へ出て、大きな白い石に腰をかけて話していると、今のさきまで大熊山の方に当ってもくもくと盛りあがったり崩れたりしていた鼠色の雲が、急に空一面に瀰漫すると見る間もなく夕立模様となった。雷光がきらきらとまなこを射て雷が鳴りだした。雷に続いて銀線のような雨が降って来た。二人は驚いて他の納凉客といっしょに、雨と雷鳴の中を走って帰った。
 そして、二人は門前で別れてそれぞれ家へ入ったが、皆川の中を泳いで帰ったように頭からずぶ濡になっていた。平太郎はげなんの六助に寝衣を出してもらってそれを着たが、半路以上もある処を走って疲労つかれたので、其のまま蚊帳の中へ入って横になった。僕は主人の濡れた帷子を竿にかけてからじぶんの室へさがって往った。
 睡りかけていた平太郎の耳にげなんの呻き苦しむ声が聞えて来た。彼は起きあがって僕の室へ往ってみると、僕は仰向けになったままで手足をばたばたと動かしてくるしんでいた。
「おい、どうした、どうした」と、云って声をかけると、僕はやっと我にかえったように起きあがって、
「夢であったか、今大入道が飛び込んで来て、私奴の上にあがって、ぐいぐい押しつけますので、呼吸いきが出なくなりました」
 と、云ってまだ恐ろしそうにきょろきょろしていた。
きさまが臆病だから、そんな夢を見たのだ、しっかりしろ」
 平太郎は僕をしかりつけて置いて己のへやへ帰って寝たが、もう眼が覚めて睡られなかった。と、風が来て有明の行灯の灯を消した。彼は暗い中で眼を開けていると、縁側の障子に真紅な焔が炎々と映った。彼は驚いて飛び起きて障子を開けようとしたが、釘づけにしたようでどうしても開かなかった。しかたなく障子を蹴破って縁側へ出たが、雨戸を締めない戸外そとは真黒で火らしいものはなかった。不思議に思って其のまま立っていると体が引きつるようになって動けなくなった。彼はいよいよ不思議に思いながら見るともなしに庭前にわさきの方へ眼をやった。大きな入道姿の者が眼をぎらぎらと光らして衝立っていた。と、見る間に入道はするすると寄って来て、長い手を延ばして彼の襟がみを引掴んだ。彼は驚いて其の手をねじ放そうとしてうんと力を入れると、其の拍子に後へひっくり返った。枕頭に置いてあった刀に手がかかった。彼はそれをきらりと脱いて起きあがりざまに入道へ切りつけた。入道はひょいと背を屈めて縁の下へするすると入って往った。彼は庭へ飛びおりて縁の下を見たが、低くて入って往けないので畳の上から突き通そうと思って、室の中へ帰ってみると床板ばかりで畳がなかった。ますます驚いて手探りに行灯に灯を点けて見ると、畳は皆室の隅に積み重ねてあった。
 此の時権八は寝床の中でうとうととしていたが、平太郎の家で騒がしい音がするので、何事が起ったろうと思って急いで起きて隣の門口まで往った。と、十二三歳になる女の子がちょこちょこと出て来て擦れ違おうとしたところで、女の子は不意に権八の咽喉元に飛びついて両手を咽喉輪にかけた。権八は其のまま気絶した。そして、暫くすると正気になった。もう黎明よあけに近くなって鶏が其処でも此処でも啼いていた。権八は平太郎の家にもなにか怪しいことがあったではないかと思ったので、急いで門口を入って玄関へ往って声をかけたが返事がない。で、其処の枝折戸を開けて庭へ廻って縁側からあがろうとすると、刀を手にして呆然と立っていた平太郎が妖怪と見あやまって切りつけた。
「平太郎殿、私じゃ、私じゃ」と、権八が云ったので平太郎はやっと気が注いた。


 朝になってしもべの六助が前夜の妖怪の話を触れ歩いたので、其の日のうちに評判になった。平太郎の友人になっている武内伝吉、横井孫作、森川一平の三人が来て、今晩は寝ずの番をして妖怪の正体を見届けると云った。前夜の疲労つかれのある平太郎は後を三人に頼んで置いて、じぶんは一人別室へ往って寝た。
 三人の者は行灯の前で、妖怪に対する意見を戦わしていた。
「なに、妖怪ばけものなんて云うものが、此の世の中にあるものか、一体ばかばかしいことじゃ」と、云う者もあれば、
「まあ、まあ、後学のために見て置くことさ」と、すまして云うものもある。
 其のうちに夜は刻々と更けて往った。そして、丑の刻が満ちて来た。三人は話に飽いて口をつぐんでいた。と、何人たれかが、
「茶でも飲もうか」と云いだした。
 室の隅には茶の道具が置いてあった。一人が起って往って茶碗を持って来ようとすると、茶碗がふいふいと空間に浮きあがって室の中を廻りだした。と、見る間に行灯がまた浮きあがって人が持って歩くように室の中を廻りだした。三人の者は口が利けなくなった。火鉢が続いて天井の方に舞いあがって灰がぱらぱらと三人の頭に降って来た。三人はたまらず逃げだした。
 麦倉邸の怪談はますます附近の評判になった。平太郎の伯父になる川田茂右衛門は、平太郎を一人置くのを心配して、其の日平太郎の家へ来てじぶんの家へ伴れて往くと云いだした。剛胆な平太郎は、
「どうか、打ちゃっといてください」と、云って聞き入れなかった。
 げなんの六助はこれを知ると、平太郎の前へ出て、
「年月の御恩を受けながら、こんなことを申しあげますのは、誠に何とも相すまざる儀でございますが、とても私には御奉公が勤まりかねます、どうかお暇をくださりませ」
 と、云って無理に出て往った。
 中山源七が見舞に来たが、げなんがいなくなったことを聞くと、己の家に使うている八蔵と云う僕を貸してくれた。
 麦倉邸のまえには好事ものずきの村の男が日夜に群集するので、村役人は農事の妨げになると云って其の門前へ掲示をだした。
一、此度麦倉屋敷ニ怪事有之これあり右ニ付村内ハ不申及もおすにおよばず近郷近在マデ聞伝エテ群衆ナシ昼夜ノ差別ナク騒ガシケレバ其為ニ百姓共ハ農事ヲ怠リ候儀モ之有哉ニ聞エ且婦女子ニ於テハ驚キ怖ルル者少カラズ候ニ付今日ヨリ当屋敷門前ヘ群集差止候ニ付屹度相守申可者也
 寛延二年七月六日
備後国三次郡布努村村役場


 夕方から降って来た雨に平太郎の処へ見舞に来ていた新八郎は、其のまま泊ることになって二人で一つ蚊帳の中に寝ていろいろな話をしていた。
 雨はしめやかに降っていた。気の弱い新八郎は平気を粧うて平太郎と話をしているものの、心では妖怪に怖れを抱いていた。で、何かがさがさと音でもすると心をびくびくさして、其の方に恐ごわ眼をやっていた。
 鴨居から蚊帳の上に何かことんと落ちて来てくるくると走りだした。新八郎はびっくりして、
「あれは、あれは」と云った。
「妖怪の仕業でしょう、捨てて置くが宜しゅうございます」と、平太郎は笑いながら云った。
 新八郎が好く好く見ると、蚊帳の上の物はじぶんが昼間穿いて来た下駄であった。と、見ているうちに、ふと消えて無くなった。もうこれで妖怪も出ないだろうと思って眼をつむろうとすると、蚊帳の傍の掛竿にかけてあった帷子の袖の中が、きらりと光って一つの生首が顔を出して、新八郎を見てにっと笑った。新八郎は怖れて蒲団の中にもぐり込んで朝まで慄えていた。
 翌日になって平太郎は新八郎を送って往って、一日其処で遊んで夕方になって帰ってみると、近隣の壮佼わかものが五六人来ていて、
「今晩は、お伽をいたそうと思って来ておる」と云った。
 平太郎は心の中におかしかったが、
「それはありがたい」と、云って寝る時分が来ると、後を其の壮佼達に頼んで置いてじぶんは別室へ往って寝た。
 壮佼わかものは火鉢を中に囲んで三人の同志の逃げ帰ったことを嘲笑していた。
「茶碗や行灯が、自然ひとりでに浮きあがるものではない、眼に見えなくても、其の周囲まわりには妖怪がいて、持ちあげているから、其処を捕まえさえすれば好い」と、云うようなことを物知り顔に説明する者もあった。
 夜が更けて来るに従って十月ごろの陽気のように冷ひやとして来た。壮佼達は襟を掻き合せて顔を見あわした。中には思い出したように話をはじめる者もあったが、其の声が妙に家の隅から隅までを森とさすので、すぐ不安そうに黙り込んだ。
 火鉢の中に炎が燃えあがってそれが見る見る一団の火玉となった。壮佼達は驚いて後に飛び退いた。火玉はくるくると舞うて上にあがるまもなく、畳の上に雷のような音をさして落ちたので、皆胆を潰して庭へ飛びおりて逃げた。
 平太郎は其の騒ぎに眼を覚して壮佼達のいた室へ往って見ると、壮佼達は皆逃げて畳の上が二尺四方位薄く焦げていた。平太郎は微笑しながらまた己の寝床へ帰った。
 新八郎は其の夜からまた病気になって枕があがらないようになった。


 横新田と云う処に上田治太夫と云う知人が住んでいた。平太郎は其の月の十三日、用事が出来て治太夫の許へ往ったが、御馳走になって話しているうちに夜になったので帰って来た。
 空には明るい月があった。平太郎は月を見ながらあるいた。路には三芳川と云う川が流れていた。平太郎は其の川の土手を通っていた。清い月の光は川の水に流れてきらきらと揺れていた。瀬に砕ける流れの音がざあざあと鳴るばかりで、四辺あたり寂然ひっそりとしていた。
 わかい艶かしい女が俯向けになって、白い脛をあらわに草の中に倒れているのが眼に注いた。平太郎は驚いて傍へ寄って其の肩に手をかけた。
「もし、もし」
 女はぐびぐびと肩を動かした。平太郎は続けて声をかけた。
「なんとせられた、お女中、お女中……」
 女は顔をあげて恐ろしそうに見た。面長な※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな顔であった。
わし布努ふぬ村に住む稲生平太郎と申す武士じゃ、何も心配せらるることはない、何といたされた」
 女は急いで坐りなおして衣裳の乱れをつくろいながら恥かしそうに云った。
「私は悪徒わるものの手から逃げて、此の上流かわかみの山の裾から来た者でございます」
「それは気のどく、和女そなたはどうした素性の者じゃ」
 女は俯向いて答えた。
「私は山北と申す処の者でございますが、小さい時に両親に別れて、伯父伯母の世話になって大きくなりましたところで、此の比、其の伯父が病になって、其の日の活計くらしにも困るようになりましたから、私は従来これまでの恩がえしに、身を売りたいと思いましたが、義理堅い伯父故、知らしては許可ゆるしませんから、こっそり知人しりびとに相談しておりますと、伯父の家へ出入する菊次と云う者が、幸い長崎の丸山から女を抱えに来ておる者がある、其の者に逢わしてやろうと申しますから、私は誠とおもいまして、今日の夕方、そっと家を出て、其の男と謀し合してあった場所へ往って見ますと、もう来ておりましたから、後から跟いてまいりますと、私を山中の寂しい処へ伴れ込んで、手籠にしようといたしましたから、私は死んでもそんな悪徒わるものの自由になるまいとおもいまして、此処まで夢中になって逃げてまいりましたが、もう苦しくて、歩けないようになりましたから、倒れておりました、どうかお援けくださいませ」と、女は涙声になって云った。
「それは気の毒じゃ、なにしろ此処では、精しい話もできない、兎に角、私の家へ往ってからのことにしよう」
 平太郎は女を伴れて布努村のじぶんの家に帰って来た。げなんの八蔵は眼を円くして足盥に水を入れて来た。女は極まり悪そうにしてそれで足を洗って座敷へあがった。
 平太郎は更めて女の身の上を尋ねるつもりで、別室へ入って衣類きものを着かえて女のいた処へ往って見ると、女はいなかった。彼は不審に思って室の其処此処を尋ねたが、何処にも見えなかった。僕に聞いても知れなかった。……また妖怪かと彼は気が注いて苦笑した。


 作平は稲生へ出入する猟師であった。彼は麦倉邸の妖怪の噂を聞いたので、某日あるひ平太郎の前へ往って、
「西行寺の薬師如来は、霊験のあらたかな薬師でございますから、其の画像を借り受けて、御信心なされますなら、どんな変化でも退散いたします」と云った。平太郎も妖怪の悪戯に困っている処であるから、
「それでは一つ頼もうか」と、云って承知した。
 其の時はもう夕方であった。作平は稲生家を出て西行寺へ往ったが、途中で日が暮れてしまった。平生いつもであったら月があるが、夕方から急に曇って来たので、路が暗いうえに其処は竹藪の間になった小路であった。暗夜深山へ入って猛獣を狩るのを商売にしている猟師のことであるから、べつに夜路などは気にも止めなかったが、それでも藪の間の小路では暗くて不便であった。困り困り歩いているとむこうの方から提灯の灯が見えた。何人たれか知った人であったらひうちの火を借りて、松明でもこしらえて往こうと思いながら、近づいて見ると、それは日比親しい曽根源之丞と云う武士であった。
「や、曾根の旦那でございますか」
 作平といっしょにむこうからも声をかけた。
「作平か、今から何処へ往く」
「私はこれから、西行寺へ用事があって往くところでございます」
「そうか、火無しでは困るだろう、……じゃ、これを持って往け、乃公の方はもう眼をつぶっても帰れる処じゃ」
 作平は一度は辞退したが、源之丞がたって云ってくれるので、ついに其の提灯を借りて歩いた。藪路を出はずれると寂しい松原が来た。そして、松原の中程まで往ったところで、何かものの気配がしたので脚下を見ながら歩いていた作平は、ふと眼をあげて前を見た。眼の前に身のたけが一丈余もあろうと思われる大きな坊主が、眼をぎらぎらさして衝立っていた。作平はわっと叫んで逃げようとしたが、体内みのうちがすくんで動けなかった。彼は其のまま其処へ倒れて気絶してしまった。
 暫くして作平が我に帰ったときには、もう怪しい物もおらず、空も晴れて月が明るく射していた。それでも彼はもう西行寺の方へ往くことはできなかった。彼はむっくり起きるやいなや犬の走るように走って帰った。
 翌日になって作平は源之丞の家へ往って、起きて出て来たばかしの源之丞の顔を見ると、
昨夜ゆうべはありがとうございました、其の時拝借した提灯は、松原で大入道に逢いまして捨ててかえりましたから、これから往って探して来ます、どうか暫くお待ちを願います」と云った。
「なに、提灯を貸した、それは人違いだろう、わしは昨日は他出しなかったよ」と、源之丞はけげんな顔をした。作平は呆れて衝立った。
 平太郎は夜遅くまで作平を待っていたが、とても帰りそうもないので、二更の鐘を聞くと、
(とても今夜は帰らないだろう)と、独言を云い云い寝床の方へ往こうとして立ちあがると、背後うしろから袖を引く者があった。驚いて揮り返って見ると、前夜の女がにっと笑って坐っていた。
「おのれ妖怪」と、云いさま脱き打ちに斬りつけた。と、女は煙のように消えてしまった。平太郎は苦笑して刀を収めた。そして、朝になると作平が来て提灯の話をした。平太郎は笑って聞いた。
 作平は其の足で西行寺へ往って目的の画像を首尾好く借りて来たので、平太郎はそれを床の間にかけて香を焚き花を供えた。そして、夜になるとそれに灯明をつけて、其の前に坐って静にお経をあげていると、其の画像がひらひらと軸の中から抜けだしてへやの中を廻りはじめた。平太郎は微笑しながらそれを眺めていた。と、暫くして書像は本のように軸の中へ入ってしまった。
 其の夜のことであった。平太郎が寝床の中で眼を覚してみると、生首がうようよとかたわらに集まっていて、彼の顔を見て笑ったり蚊帳の中をころころと転がり歩いた。
 また某夜あるよなどは、平太郎が寝ようと思って戸じまりをして室へ帰って来ると、孕み女が醜悪なさまをしてへやの真中に仰向けになっていた。剛気な彼は笑いながら女の腹の上に腰をかけた。腹はぶくぶくと潰れて蛆がうようよと出て臭気が四方あたりに満ちた。


 作平に限らず稲生の知人は皆どうかして妖怪を退けたいと思った。向井次郎右衛門は合蹄の罠に妙を得ていると云う猟師を伴れて来た。
 其の猟師は重兵衛と云う男であった。彼は平太郎に向ってある寺で大般若経を空中に投りあげて、和尚をはじめ参詣人を恐れさした古狸や、また、某祠を三に見せて人を驚かした古猫やを蹄で捕獲した話などを聞かし、それから室の模様や庭のさまを見きわめたうえで庭の垣根に蹄をしかけた。
 それは十八日のことであった。夜になると重兵衛は雪隠の中へ入って、その小窓から蹄の方をすかしながら妖怪が来てそれにかかるのを待っていた。宵闇の空は薄く曇って糠星が一つ二つ淋しそうに光っていた。
 夜は次第に更けて来た。冷たい風が首筋を撫でまわすように吹いた。重兵衛は小窓の枠に頬を当てて暗い中を見詰めていた。と雪隠の戸にめりめりと音がして、大きな棒のような手が来て重兵衛の首筋を引掴むとともに、外の方へ投りだしてしまった。
 其の物音に平太郎は、妖怪が蹄にかかったであろうとおもって、隻手に手燭を点け隻手に刀を執って庭へ出てみると、重兵衛が垣根の傍へ倒れて気絶していた。蹄はと見ると昼間重兵衛がかけたままであった。
「おい、おい、どうした」
 平太郎が肩に手をかけて揺り動かすと、重兵衛はやっと正気になった。
「あれや、狸や狐じゃない、天狗じゃ、天狗じゃ」と、彼は声を慄わして云った。
 平太郎は運を天に任して妖怪と根比べをするより他に手段がないと思った。で、もう夜伽などしようと云う者があっても皆断って、一人冷然として家を守っていた。
 雨の※(「くさかんむり/粛」、第4水準2-86-77)々と降る夜であった。陰山庄左衛門の[#「陰山庄左衛門の」は底本では「陰山庄右衛門の」]弟の正太夫と云うのが見舞に来た。正太夫は平太郎の竹馬の友であった。正太夫は挨拶がすむと、己が差して来た刀を手に執りあげて平太郎に見せて云った。
「これは、兄が殿様から拝領した備前長船の名刀じゃ、妖魔も此の霊徳には叶わないと思われる、今晩は是非夜伽をして、もし現れたら、一刀に斬って退治いたそう」
 庄左衛門が主君から長船の刀を拝領したのは、平太郎も知っていてひそかに羨ましく思っているところであった。彼は喜んでそれを借りて見たりした。
 夜半比になると二人とも話に飽いて来たので黙って坐っていた。と、台所の方から女の首がころころと転がって来た。正太夫はそれを見るといきなり長船の刀を脱いて斬りつけた。首は二つに分れた後でふっと消えた。其のはずみに刀の目釘が折れて、刃はむこうへ飛んで柱に当って二つに折れた。二人は驚いて顔の色を蒼くした。
「大変なことになってしまった」と、云って恨めしそうに折れた刀の方に眼をやった正太夫は、「此の上は是非がない、死んで兄上にお詫をしよう」
 彼はこう云って脇差に手をかけた。平太郎はそれを押し止めた。
「これは、貴殿が拙者の難儀を救わんがためにしでかした過ちである、拙者の不調法も同じことじゃ、夜が明けたなら、拙者より庄左衛門殿にお詫をして、貴殿の迷惑にならざるようにいたそう」
「御親切はありがたいが、武士たる者が自己おのれの落度を他人に塗つけることはできない……」と、云いながら正太夫は平太郎の隙を見て、脇差を脱いて我と我が腹へ突き立てた。
 平太郎はびっくりして其の手にすがりついたが、もう如何ともすることができなかった。それでも彼は、正太夫の両肩をしっかり抱きかかえて、
「正太夫殿、正太夫殿」と、云って力をつけたが、傷が深いのかみるみる息を引きとってしまった。
 哀れな友は己の犠牲になって死んでしまった。平太郎は其の死骸の前に坐って愁然として考えていた……妖怪などのために友を殺したとあっては、世間に対しても申しわけがない。それに、こんなことでは何時妖怪のために生命を落さないとも限らない。どうせ運のない体なれば、じぶんの犠牲になった友といっしょに死んで、せめてもの申しわけをしようと思いだした。夜はもう明けかけていた。彼は別室へ往って伯父と新八郎に宛てて遺書かきおきを書き、再び正太夫の死骸の前へ往って諸肌を抜いで短刀を腹に擬した。
「早まってはいかん、早まってはいかん」と、云ってあわただしく走り込んで来た者があった。平太郎は短刀の手を止めて顔をあげた。それは病気で引籠っていた権八であった。
「何故にそんなことをなされる」と、権八は其の手を掴んで叱るように云った。
 平太郎は静に正太夫の切腹をしたことを話して、
「申しわけの切腹であるから、決して止めてくださるな」と、云って権八の手を揮り払おうとした。
「……然らば正太夫の死体はどこにある」と、権八は平太郎の手をしっかり掴んだままで左右を見た。
「貴殿の背後うしろにある、私は朋友ともだちを殺した、生きておることはできん」
 権八は首を曲げて背後うしろを見た。其処には何も見えなかった。
「何も見えないではないか」
 平太郎は夢から覚めたようになった。彼の眼には夜の明け離れた室の中が映った。短刀を落して室の中を見廻した。正太夫の死体も柱の下の折れた刀も見えなかった。彼は苦笑して権八を見た。
「すんでのことに、あぶないところであった」と、権八は呆れて眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)った。

[#「八」は底本では「六」]

 七月の末の日となった。妖怪に悩まされはじめてから満一ヶ月目の夜であった。平太郎は行灯の前に一人ぽつねんと坐って前夜のことを考えていた。執拗な妖怪のために既に命を捨てようとした其の愚かさを顧みて、我と我身を嘲っていた。そして、暫くして我に返って前の方に眼をやると、裃を着けて両刀をさした立派な武士が悠然として立っていた。
「おのれ妖怪」と、云いさま平太郎は刀を抜いて起ちあがると、武士はにっと笑って背後うしろの壁の方へ退いたが、其のまま姿は浸み入るように壁の中へ消えた。
 平太郎は持てあました。彼は刀をかまえたなりに壁の方を見つめていた。
「汝が如何に我を斬らんとするも、とても斬ることはできない、今夜は汝に云うことが有って来ておるから、刀を収めて静に聞け」と、壁の中から声がした。
 平太郎はとてもじぶんの手にあうべきものでないと諦めたので、云うなりに刀を鞘に収めて座に返った、すると壁の中から朦朧と初めの武士が出て来て其の前に坐った。
「今こそ我が名を名乗らんが、我は狐狸などのたぐいにあらず、日本国中に在る高山を往来する山本五郎左衛門と云う魔王なるぞよ、此の一月ばかり汝が家に来りて異形を顕わせしは、さる五月雨のころ、汝が大熊山に登りし時、途に往き合いて、其の相をみるに、此の七月汝の身に災の来ることが顕われておったから、それを防ぎつかわさんために来た者で、決して汝に災せんために来りしにあらず」と、云いかけて懐中から巻物を執りだして、「これは蒼生心経術と称うる病者を救うの呪法である、これを汝に遣わすから、習い覚えて病人を救うべし」
 平太郎はにじりよって其の巻物を手に受けた。
「此処で一読するが宜しからん」と、魔王は云った。
 平太郎は云うとおりに其の巻物を開けて中の文字に眼をとおした。其の時二更の鐘が鳴った。
「然らば、我はこれより奥州の金華山に出発する、汝に逢うもこれ限りなるぞよ」と、云って魔王は起って縁側の方へ出て往った。
 平太郎も別れが惜しいので後から跟いて往った。庭前には籠が据えてあって、其の傍には天狗のような異形の者が五六十人ばかり、下弦の月の光の下に見えていた。魔王が庭におりるとそれ等の異形の者は、一斉に地上に頭をさげて礼をした。魔王は籠の中にゆったりと乗った。と、空から怪しい雲がおりて来て、其の籠をはじめ異形の者を包んでふうわりと空へ飛んで往った。

 九月になって新八郎が死亡したので、平太郎は稲生家を相続することになり、元高五百石を給せられた。此の平太郎は江戸の霞ヶ関にあった藩の上屋敷に来たこともあったので、逢って本人から其の話を聞いたものもあった。





底本:「日本怪談全集 ※(ローマ数字2、1-13-22)」桃源社
   1974(昭和49)年7月5日発行
   1975(昭和50)年7月25日2刷
底本の親本:「日本怪談全集」改造社
   1934(昭和9)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Hiroshi_O
校正:大野裕
2012年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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