一
越中の
初夏の風のないむせむせする日の夕方のことであった。その草原から放生湖の方に流れている
「ぶらり火の出る処には、髪を上から掴まれたような女の首がある、
「怕いなあ」
「怕いとも」
「今でも出るじゃろうか」
「出るとも、髪がこんなになった女の首が、ぶらりんと出て来るよ」
ぶらり火のことを話していた十四五に見える小供は、両手で髪の上を掻きあげるようにしながら、獅子鼻の鼻糞の附いている鼻を前へ突き出すようにした。
「松公、
獅子鼻の右横になった松の浮根に竹馬に乗るようにしていた小供が、獅子鼻に向って云った。
「放生の
獅子鼻は何でも知っているぞと云うような得意な顔をした。
「そんな話じゃないよ」
松の浮根に乗っている小供が獅子鼻を押えつけるように云ったので、獅子鼻は面白くなかった。
「それなら、どんな話じゃ」
「ある人が、夏、放生の
松の浮根に乗っている小供の話はそれで終った。獅子鼻の小供は何時の間にかその珍らしい話に釣りこまれていた。
「それでは、彼の島の中にあるお宮は、亀の宮か」
「そうとも」
松の浮根に乗っている小供は、何がおかしいのか笑い顔をした。
「人が鮒になったら面白かろうなあ」
「赤兄公とは何じゃろう」
「城址の桑の木には、どんな蛇がおるのじゃろう」
他の小供も皆その話に釣りこまれていた。すると松の浮根に乗っている小供は声を出して笑いだした。
「なぜ笑や」
獅子鼻の小供が不思議そうにその顔を見た。
「なぜ笑やって、その話は嘘じゃよ、これは
「な、あ、んじゃ、嘘の話か」
獅子鼻の小供をはじめ他の小供も笑いだした。その笑い声のやや納まりかけた時、「あすこへ、江戸から来た小供が来た、小供が来た」と云う者があった。獅子鼻の小供はむこうを見た。
「そうじゃ、彼の子じゃ、だましてやろうか、
松の浮根に乗っている小供が云った。
「俺が知っておる、呼うで来い」
草原の出外れに見える二三軒の藁屋根のある方から
「お前は何と云う名じゃ」
色の白い小供は足を止めた。
「おいらは源吉と云うのだ」
「そうか源吉か、今日からいっしょに遊うでやるから、彼の神様の前へ往って」松の浮根に乗っていた小供は、祠の方へ指をさして「地べたへ坐って、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうと云いな。お諏訪様は小供が好きじゃから、出て来ていっしょに遊うでくれる、なあ、みんな」
松の浮根に乗っていた小供の
「そうじゃ」
「そうじゃ」
「そうじゃ」
源吉と云った小供ははにかむように眼を伏せながら聞いた。
「お諏訪様ってどんなものだ」
「そうじゃ、白い、白い蛇のような姿をしておるよ」
「白い蛇」
源吉はちょっと驚いたように云って相手の顔を見た。
「そうじゃ、白い蛇じゃが、神様じゃから怕いことはないよ」
「そう」
「やってみな」
「そう」
源吉はそう云って邪気の無い眼をくるくるさして対手を見た後に祠の方へ往った。祠の右側に並んだ榎の枝には一条の
「さあ、云いな」
松の浮根に乗っていた小供にうながされて源吉は口を切った
「お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょう」
それは敬虔な云い方であった。それを聞くと小供達の笑い顔が集まった。松の浮根に乗っていた小供は、手をふってそれを押えるようにした。
「お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょう」
源吉は後から後からと繰りかえした。松の浮根に乗っていた小供は、源吉がそうして一心になって
二
源吉は一心になってお諏訪様を呼んでいたが、
「源吉、其処におったか、俺はまあ何処へ往ったかと思いよった」
それは軽い喜びの声であった。翁の面のような顔をした痩せた襦袢に
「お祖父さん」
「今まで一人で、こんな処で何をしておった、お
「お祖父さん、お諏訪様は、小供が好きなの」
「お諏訪様が小供が好きかと云うか、好きとも好きとも、べっしてお前のような小供はお好きじゃとも」
「お諏訪様は、白い蛇になって出て来るの」
「それは俺にゃ判らんが、神信心する者には、お姿を拝ましてくだされるとも」
「お諏訪様は、白い蛇になって、小供といっしょに遊ぶって云ったよ」
「そんなことを
「
「そうか、そうかも判らん、
「あい」
源吉が歩きだしたので為作もそのまま踉いて歩いた。為作は孫が可愛くてしかたがなかった。為作の悴も大工であったが、藩の江戸屋敷の改築のときに江戸へ出た悴は、江戸で腕を磨くことにして、改築が終っても帰らずにそのままずっと江戸にいるうちに、吉原で深くなった女と世帯を持ち、続いて小供も出来たと云うので、江戸へ孫を見に往こう往こうと思っていたところで、昨年の暮になって風邪が元で亡くなり、その新らしい
「お祖父さん、お諏訪様は、どうしたら、出て来てくれるの」
二人は草原を出て麦畑の間を歩いていた。
「毎日、拝みに往って、頼んでおるなら出て来てくださるとも」
「そう」
為作の家は麦畑の間を芦垣で仕切った小家であったが、それでも掘立小屋と違って、床の高い雨戸もきちんと締るようになった家であった。為作は源吉を囲炉裏の傍へ坐らして、自在鉤にかけてある鍋の中から夕飯を盛って
「さあ、うんと喫わんといかんぞ、うんと喫って大きくなってくれ、お前は何になる」
「あたいは侍になるのだ」
「ほう、侍になるのか、侍になって扶持を頂戴するなら、こんな旨いことはないが、侍はまかり間ちがえば、腹を切らにゃいかんが、腹が切れるか」
「切れるよ、腹なら」
「そうか、そいつは
「おっ母は何時戻る」
「もう、おっつけ戻るぞ、夕飯を牧野の旦那が召しあがったら、戻って来る、牧野の旦那は豪い方じゃ、お前に云うても判らんがの」
源吉が箸を置いたところで人の跫音がして入って来た者があった。
「今晩は」
「今晩は」
為作は盃を持ったなりに月の射した縁側の方を見た。四十位の男と三十位の男の顔があった。
「秀と金次か、何か用か」
為作の
「べつに、そう用もないが、話しに来た」
「そうか、明日の家業にさしつかえなけりゃ、話していけ」
二人はちょっと顔を見合して何か云いあいながら腰をかけたが、今度は金次と云う三十男が云った。
「小父さん、仕事はどうぜよ」
「仕事か、飯が喫えんから、あるならするが、この年になっちゃ下廻りの仕事しかできん」
「俺の家にも、納屋を建てたいと云うて、せんから云いよるが」
「銭が出来たら建てるもよかろ、大工なら、善八でも喜六でも、腕節の達者な大工が何人でもある」
「小父さんはできんかよ」
「できんことはあるまいが、年が年じゃ、何時死ぬるやら判らん、受けあいはできんよ」
為作の詞は何処までもぶっきらぼうであいそがない。金次は笑うより他にしかたがなかった。
「姐さんは、まだ戻らんかよ、源吉が独りのようじゃが」
秀がそれとなしに云った。
「戻りとうても戻れんじゃろう、遊びに往ちょるじゃないから」
「そうじゃ、のうし」
秀も後へ続ける詞がなかった。二人は手持ぶさたになったので帰って往った。為作は舌打ちした。
「野良犬どもの対手に、飼っている嫁じゃないぞ、何をうろうろしに来る」
源吉は腹這いになっていた。
「もうお母も戻って来る、もうすこし起きておるがええ」
為作は飯にしていた。と、女の叫び声が聞えて来た。為作は箸をぴたり止めた。
「はてな」と、云って耳を傾けた為作の耳へまた女の叫び声が聞えて来た。「ありゃあ、嫁の声じゃ、畜生、源吉は家におれ、外へ出ちゃいかんぞ」
為作はそう云い云い起ちあがるなり土間へおりて、壁へ立てかけてあった
三
お勝は月の下で背の高い一本の短い刀を差した暴漢に帯の端を掴まれていた。お勝は牧野の家を出て帰りかけたところで、月が明るいので近路をして草原の中を通って来ると、其処の松の陰にその暴漢が待っていた。
小格子ではあるがお職も張って、男あつかいに慣れている彼女は、燃えあがっている対手の心を撫でつけるようにして、隙を見て逃げようとしたところで、対手は野獣の本性をあらわして、帯の端を掴んで引もどそうとしたのであった。
お勝は絶体絶命であった。引戻されて対手の一方の手が肩にかかれば体の自由を奪われなくてはならなかった。お勝は引戻されまいとして夢中になって争った。その
「なにをさらす、この無法者」
物凄い怒り立つ声がして暴漢の前に枴が閃いた。暴漢は立ち
「きさまは、
背の高い短い刀を差した暴漢は、手習師匠をやっている林田与右衛門と云う浪人であった。林田はぎょろりとした眼で対手を見た。何時も見なれている翁の面の為作の顔があった。
「その女子には、俺が話したいことがある、邪魔をすると只ではおかんぞ」
「それは此方から云うことじゃ、この女子は俺の家の嫁じゃ、俺の家の嫁をどうしようと云うのじゃ、この無法者」
為作の手にした枴はまた閃いた。林田はちょと身をかわすなり、その手元につけ入って枴を奪いとってふりかぶった。その林田の眼の前にその時、不意に恐ろしいものが閃いた。それは薙刀を二つ組みあわせたような紫色を帯びた大蟹の鋏であった。林田は驚いて枴を投げ捨てて後へ退った。大蟹の鋏は其処にもあった。
「わッ」
林田は眼を押えて逃げて往った。為作とお勝は暴漢が逃げてくれたので安心して帰って来た。
「彼の無法者の逃げた
「眼を押えて逃げたのですが、どうかしたのでしょうか」
「枴の
「そうでしょうか」
「そうとも、罰じゃよ」
四
翌朝になって為作は、女一人の夜歩きは物騒だから時刻を見はからって迎えに往くと云うことにしてお勝を出し、その後で源吉の守をしながら
為作は
夕方になって為作が仕事をおいて、夕飯の
「お祖父さん」
為作は囲炉裏の傍にいた。
「おう、源吉か、何処へ往っておった、お祖父さんは探しに往こうと思いよったぞ」
「お諏訪様へ往ってたよ、お祖父さん、今日はお諏訪様が出て来たよ」
「なに、お諏訪様が」
「そうよ、おいらが、お諏訪様の前へ往って、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうっていったら、出て来たのだよ」
為作は何のたあいないことを云ってるだろうとは思ったが、源吉が如何にも真面目であるから、鍋の中を掻き混ぜていた手を止めた。
「出て来たって、何が出て来たのか」
「お諏訪様だよ」
「お諏訪様って、どんなお諏訪様じゃ」
「白い蛇よ」
「白い蛇が何処から出て来たよ」
「おいらが、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうと云ってたら、神様の下の石の間から出て来たのだよ」
「それからどうした」
「おいらは、はじめはおっかなかったから、逃げちゃったが、追っかけて来ないの、横に寝たり、とぐろを巻いたりしてるから、おいらが、お諏訪様、輪になっておくんなと云うと、輪になったり、おいらが、お諏訪様、這っておくんなさいと云うと、這ったよ」
「そ、そりゃ、ほんとうか」為作は縁側の方へ這いだすように出て来て、「ほんとうか、源吉」
「ほんとうだよ、それからおいらが、お諏訪様、蟹を
「ほんとうか、ほんとうなら、もったいないことじゃ、そんなことをしちゃ神様の罰があたる、神様へお詫びに往かねばならん」
為作はもう夕飯のことも忘れていた。彼は庭におりて桶の水で両手を洗い、へぎを出して塩と米を盛った。
「源吉、さあ、これからお諏訪様へ往こう」
「またお諏訪様へ往くの」
「往って、お詫びをせんと罰があたる」
「そう」
為作は
二人はその暗い下を往った。お諏訪様の祠を抱くようにして立った榎の古木はすぐであった。其処は月の光であろう
「今日は、何も知りません孫奴が、畏れ多いことをいたしまして、何ともお詫びの申しあげようがございません、それに悴が亡くなりまして、未だ一年の
為作は平
「お前もお詫びをしろ」
源吉は平気であった。
「お諏訪様は、怒りゃしないもの、呼んでみようか」
「こ、これ、何を云う」為作はあわてて遮って、「そ、そんな、もったいないことをしてはならんぞ、なんぼ何も知らん小供じゃ云うても、そんことをしては、神様のきついおとがめがあるぞ」
「だってお諏訪様は、おらの云うとおりにしてくれるのだもの」源吉はすまして云って手を合せながら、「お諏訪様、お諏訪様、ちょいと出ておくんなさい」
「しっ、これ、そ、そんなことを申しあげては、ならんと云うに、聞きわけがない奴じゃ」為作はそう云ってからまたべったりと平蜘のように頭をさげて「お聞きくださいまし、こんな物の判らん小供でございます、どうかお気になされないようにお願いいたします」
一心になってあやまっている為作の耳に嬉しそうな源吉の声が聞えて来た。
「お諏訪様が出て来た、お諏訪様が出て来た、お祖父さん、お諏訪様が出て来た」
「なに」為作はお詫びの
「見えるでしょう、お諏訪様が、おいらの方を向いて来る」
しかし、為作には中も見えなかった。
「見えるでしょう、白い
草、祠、祠を抱いた榎もはっきり見えるが、他には何もなかった。
「お祖父さんには見えない、見えなくても、も、もったいない」為作はとり乱したように云って地べたへ頭をつけて、「こんな小供の云うことをおとりあげくださいまして、ありがとうございます、ありがとうございます」
「お祖父さんは眼やにをつけてるだろう、顔を洗って来ると見えるのだ」
為作は顔をあげなかった。
「もったいない、もったいない、お祖父さんはどうでもええ、ありがとうございます、ありがとうございます、どうかお引取を願います、お前も何時までももったいないことをしてはならん、早う神様にお引取を願うがええ、もったいのうございます、もったいのうございます」
「お祖父さん、お諏訪様は、今輪になったよ」
「これもったいない、もったいないことを云うてはならんぞ」
「お諏訪様、お祖父さんは、お諏訪様が見えんと云います、蟹を伴れて来て見せてやっておくんなさい」
「罰あたり奴が、そ、そんな我がままを申しあげてはならんと云うに、神様、どうぞ、もう、こんな小供の云うことはおとりあげになりませんように」
「蟹が出た、蟹が出た、お祖父さん、お諏訪様が呼んだから、蟹が木の穴からぞろぞろ出て来たよ」
「もったいないと云うに、罰あたり奴が、そんなことを申しあげてはならんぞ」
「出て来たわ、出て来たわ、お祖父さん、一ぱいの蟹よ、見なさい」
「もったいない、もったいない、もったいないことを申しあげてはならんぞ」
為作の頭はその時何かに持ちあげられるようになってふいとあがった。たくさんの小さな沢蟹が紫がかった鋏をあげてぞろぞろと来るところであった。為作はまたべったりと頭を地べたにつけた。
「もったいない、もったいない、こんなもったいない目にあっては、この
為作の感激に充ちた
「この老いぼれ犬、どうも素振りが怪しい怪しいと思っておれば、こんな処でばてれんをやってけつかる」
為作は顔をあげた。其処には前夜の林田が二人の男を伴れて立っていた。林田は前夜の復讐をかねて女を奪いに来たところであった。
「江戸から来ておる
為作はそれよりも神の奇瑞に心を奪われていた。為作はそのまま頭を地べたにつけたのであった。
「お諏訪様、もったいのうございます、誠に何とも申しようがございません、お諏訪様、どうかお引とりを願います」
林田は伴れて来ている二人の男を見て嘲笑った。
「何処にお諏訪様がおるのじゃ、孔夫子は、怪力乱神を語らずと云われた、今の世の中に、神なんかが出て来てたまるものか、今の世にばてれん以上に、怪しいものはない、この比、ばてれんが無うなって、
「もったいない、もったいない、お諏訪様を拝んでおります、お前さんがたの曲がった眼には見えますまいが、孫の眼には見えます、そんなことを云うと罰があたります、お諏訪様もったいのうございます」
林田に
「へっ、そんな鳥の巣のような箱の中に、神様がおってたまるものかい」
泰然と坐って
「お諏訪様は、其処にいるのだよ、蟹を伴れて来ているのだよ」
「何処におる、この寝ぼけ小僧」
林田が叱りつけるように云って前へ一足出た。
「其処にいるのだよ」源吉は静に一間ばかり前に指をさした。
「今輪になっているのだよ」
「寝ぼけ小僧、何を見てそんなことを云う、地べたに草が生えているより他に何がある」
「お祖父さんも見えないというから、お前さんも見えないだろう、顔を洗ってくるがいいや、お諏訪様は白い蛇になっているのだよ」
「ほんとうにおると云うなら、俺がこの足で踏み潰してやる」
林田はそのまま進んで源吉の指をさしている
「お諏訪様が、足に巻きついた」
源吉の詞と同時に林田はあっと云う叫び声を立てながら、毬を投げたように為作の鼻の前をくるくると転げて往った。
五
お勝は牧野の主人の治左衛門に送られて牧野家から帰っていた。それは前夜の事件を話して舅の迎いに来てくれるのを待っていようとすると、治左衛門が月が良いから月を見ながら送ってやろうと云うので、しかたなしに送ってもらうことにしたのであった。
二人は人家を離れて畑路に入ったところで、治左衛門がおずおずした
「お勝殿、わしが今晩、お前を送って来たのは、すこし聞いてもらいたいことがあったからじゃ」
「はい」
「わしは、お前と小供の世話をしたいと思う、お前も知ってのとおり、わしは三年前に
お勝は困ってしまった。
「どうかわしに、世話をさしてくれ、小供はきっと立派な者にしてみせる、為作老人もお前に代って、一生不自由なく世話をしてみせる」
「はい」
「わしは、神に仕える
「それは、もう、お志のほどはよく判っておりますが、これは私の一存にはまいりませんし、それに私は賤しい身分でございますから」
「それはかまわない、わしはお前の素性も聞いて知っておる、わしは、それも承知のうえじゃ、人の魂は、その人の心がけしだいで清められる、どうかわしの世話になってくれ」
「それはもう、旦那様のお志のほどは判っておりますが、まだつれあいが亡くなって一年にもなりませんし、私はそんなことは一切考えないようにしております」
「それは、わしにも判っておる、わしもまだ云う時ではないと思うたが、昨夜のようなことがあって、お前の心が他へそれるようなことがあっては、とりかえしがつかんと思うから」
「ありがとうございます」
二人はその時畑路の
「お勝殿、お前の返事を聞かしてはくれまいか」
「はい」
お勝が返事に困った時、むこうの方で騒がしい人声が起った。
「何かある」
治左衛門はもうその話を続けることはできなかった。彼は二人で其処へ駈けつけることは憚られたが、お勝に対して躊躇することができないので、平気をよそおうて歩いて往った。
祠の前には為作と源吉が立ち、その
六
地下浪人の林田がお諏訪様の蛇を踏んで死んだという奇怪な噂が広まるとともに、町の人の諏訪神社に対する尊崇の念が高まって来て、祠を改築して高壮な社殿にすることになったが、それには諏訪神社の
源吉はその建築の最中でも、お諏訪様と遊ぶことがあった。
社殿はその年の歳末になって落成したので、遷座式を行うことになった。神主は初めから係りあいになっている治左衛門であった。
その日拝殿の正面には、神主の治左衛門が祭壇の方に向って坐り、そのすこし後に源吉が為作に伴れられて坐っていた。そして、町の頭だった人達は拝殿の
時刻が来ると治左衛門が
「あ、牧野の旦那の首に、お諏訪様がいらあ」
拝殿の中はしんとなった。その時治左衛門の体は
「私の心に穢れがあって、明神の思召にかなわない、今日からこのお社の神主は、源吉殿にやらして、私が後見することにします」
そこで源吉は治左衛門の
この少年神主は、その後も時どきお諏訪様と拝殿の前で遊んだが、町の人は其処に沢蟹の群や蛙の群を見ることがあった。