これは小説家泉鏡花氏の話である。
房州の海岸に一人の
「これを」
と云って差しだしたが、坊主は横目でちらと見たばかりで手を出さなかった。女房はやさしかった。それではお
「それでは、これを」
と云ったが、坊主はそれにも見向きもしなかった。女房は
「
と云って事情を話した。皆血の気の多い連中のことだから、
「そいつは
と云って、坊主を取り囲んでさんざんに撲りつけ、倒れるところを
まもなく所天の漁師が帰って来たので、女房はその話をすると、漁師は何かしら気になるとみえて、飯の後で磯へ出てみたが、そこには暗い海が白い牙をむいて猛り狂っているだけで、それらしいものは見えなかった。
漁師はそれから間もなく寝たが、夜が更けて往くにしたがって外はますます荒れ、物凄い浪の音が小さな漁師の家を揺り動かすように響いた。そして、一時すぎと思う
「おうい、おうい」
と云うような悲痛な呼び声が聞えて来た。眠っていた漁師ははっとして眼を開けた。悲痛な人声はまた聞えて来た。
「あ、難船だ」
漁師は飛び起きて女房のとめるのも聞かず、裏口から飛び出して磯の方へ走った。と、すぐ眼の前の岩の上に一人の坊主が突っ立っていた。それを見ると漁師は思わず、
「やい、何してるのだ」
と云った。すると坊主は、ぐっしょりと濡れた
「何だ」
漁師が突っかかるようにすると、坊主はまた黙って家の方へ指をさした。漁師が不思議に思って
「何しやがる」
と云って、いきなり坊主につかみかかろうとした。と、坊主は白い歯を見せてにたにたと笑ったが、そのまま海の中へ飛びこんで見えなくなった。そこで漁師は己の家へ駈けこんだ。家の中では女房が冷たくなった嬰児を膝にして、顔色を変え眼を引きつっていた。