仙術修業

田中貢太郎




 ――支那しな四川省しせんしょうの奥で修業しゅぎょうをしたと云うんだ。気合をかけるとじぶんみゃくがとまるよ、仰向あおむいて胸をらして力を入れると、肋骨ろっこつがばらばらになるそうだ。人間の頭ぐらいげんこくだくことができると云っている。んだか山師やましのようでもあるが、また真箇ほんとう真言しんごん行者ぎょうじゃのようでもある。要するに怪しい男さ、と、云って市内の某警察に署長をしている私の友人が話してくれた。――
 彼はもと十三の時アメリカへ往って乗馬を習い、放牧した野馬やばを乗りこなすのを職業としていた。片手に縄を持ち馬を走らして往って野馬を見るとその縄を投げた。わなになっている縄のはしが野馬の首にかかると力を込めて地上に引き倒し、おのれの馬を棄ててそれに飛び乗り、茫茫ぼうぼうたる曠原こうげんの上を疾走して馬の野性を乗り減らした。
 四川省の白竜山はくりゅうざんと云う山の中だと云ったが、その位置は口にしなかった。その山へ登って仙術を修業する行者達は、わずかにその位置を聞かされただけで山の中のことは一切判らなかった。彼もその行者の一人となって白竜山のふもとへ往ったが、山の四方が懸崖けんがい絶壁になっていて、その中へは一歩も足を入れることができなかった。彼は木の実をい草の実を拾ってその麓を巡礼した。
 猛獣や毒蛇どくじゃおびやかされることもあった。夜は洞穴ほらあな寂寞せきばくとして眠った。彼と同じような心願しんがんを持って白竜山へ来た行者の中には、麓をさまようているうちに精根しょうこんが尽きて倒れる者もあった。そうした死骸に往き当ると穴を掘り、野花やかそなえてねんごろに埋めてやった。
 大森林、大谿谷けいこく奔湍ほんたん、風の音、雨、山をつんざく雷、時雨しぐれ、無心の空の雲、数箇月に渡る雪の世界。こうした巡礼の日が続いていると、夢ともなくうつつともなしに山上さんじょうを鳥のように駆け走る仙人の姿を見るようになった。
 三たび目の野草やそうの花が咲いた。彼は某日あるひ水を飲むために谷川の岸に出た。狭い流れではあるが滝のように流れ落ちる水が岩にぶっつかってすさまじい光景を呈していた。彼はそろそろと岩のかどいおりて水際みぎわに近づこうとした。前岸かわむこうの巨木からさがった鉄鎖てつさのような藤葛ふじかずらが流れの上に垂れて、そのはしが水のいきおいで下流になびき、またね返って下流に靡いているのが見えた。その藤葛が横に靡けば、前岸かわむこうそばだったたいらかな岩のぱなに往かれそうである。彼はそれに眼をつけた。
 背後うしろの山に落ちかけた夕陽の光が、紅葉しかけた前山ぜんざんの一角を赤赤と染めていた。彼は水際みぎわにおりるのをめて藤葛を見つめていたが、どうもその藤葛に山上へ登る秘密があるように思われて来た。彼は思い切って藤葛を目がけて飛んだ。そして、両手がその藤葛にかかるとともに、体の重みが加わって上下になびいていた藤葛はたちまち左右に靡いた。
 彼の体は前岸かわむこうの平らかな岩の上に持って往かれた。彼は三年目にしてはじめて白竜山の本山ほんざんの中へ一歩を入れることができた。彼はよろこんで岩をつとうて往った。岩の間の樹木の中に、人の通った小径こみちらしいものがあった。彼の全身は歓喜に燃えた。彼はどこまでもその小径らしいものにいて登った。
 樹木が尽きて岩山が来た時、が暮れてしまった。彼は洞穴ほらあなを探して入った。青い月が出て洞穴の外は終夜明るかった。そして、朝になって月の光が薄れかけたところで、その前を数十人の跫音あしおとけて往く者がある。彼は驚いて口に出て見た。夢現ゆめうつつの間に見たような仙人の群が鳥の飛びたつようなさまをして走っていた。
 群の最後になった仙人は彼の傍へやって来た。彼は粛然しゅくぜんとして立っていた。仙人はせた手をあげて、彼を招いてから走っている群の方へ往けと云うようにして見せた。彼は仙人の群を追うて駈けだした。最後の仙人も彼のあとから駈けて来た。
 絶壁の上も樹木の間も、平地を往くようにして駈け走った。そして、朝霧のかかった谷川の岸に出てそこでころもを脱いで行水ぎょうずいをやった。皆黙黙として何人だれも一ごんを発する者がない。彼も同じように冷たい氷のような行水をした。
 行水が済むと仙人の群ははじめのみちを走って帰った。彼もその群にまじって帰った。皆それぞれ洞穴ほらあなを持っていた。行水から帰って来るとその日のぎょうにかかった。全身の力を咽喉のどに集めて、わあと云う懸声かけごえをだした。それを一日に一万べんやることになっていた。彼も他人の使わない洞穴を求めてその懸声をはじめた。そして、空腹になれば木の実を探しに往った。それにも山の法則があって、他人のりかけたものに手をつけることはできなかった。手をつけた印には木の葉をしごいてあった。そのうえに木の傍でうばかりで、持って来て貯えて置くことはできなかった。それがためにひもじくなれば二里も三里も遠くに木の実を執りに往くことがあった。
 修業が積んで来るに従って体は枯木のようにせ、眼は垂れて福禄寿ふくろくじゅ老人のようになって来る。そうなると月のなど谷にむかってわあと声をあげると、虎や狼などが群をなして集まって来る。月の光のした岩角いわかどおどり越えてやって来る猛獣の姿は物凄ものすごかったが、彼等は皆猫のようにおとなしかった。仙人達は皆その頭をでてやった。ただひょうだけは仙人達に慣れなかったので、豹と見ると叱声しっせいをたてた。と、豹は恐れて逃げ去った。
 山中さんちゅう暦日れきじつなし、彼はこうした仙人生活を続けたのちに、ビルマから印度いんどにまで往ったのであった。





底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年3月8日作成
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