一握の髪の毛
田中貢太郎
章一は目黒駅へ往く時間が迫って来たので急いで著更えをしていた。婦人雑誌の訪問記者をしている章一は、丸ビルの四階にある編輯室へ毎日一回は必らず顔を出すことになっていて、それを実行しないと編輯長の機嫌の悪いことを知っていながら三日も往っていなかった。章一の幸福に満ちたたとえば風船玉のふわりふわりと飛んでいるような頭の一方の隅には、編輯長の怒りに対する恐れが黒い影となって泥んでいた。それに昨年あたりからヒステリーのようになっている細君のことも影を曳いていた。
「待っているのでしょ、彼奴が」
冷たい嘲を含んだ声が顫を帯びて聞えて来た。彼の女と目黒駅で待ちあわして蒲田線の沿線に在る旅館へ往くことになっている章一はぎくとしたが、しかし、家にばかりいる者がこんな秘密を知ろうはずがなかった。
「何云ってるのだ、痴、この忙がしいのに遊んでいられるか」
章一は袴の紐を結んでいた。章一は右斜に眼をやった。己が今髭を剃っていた鏡台の前に細君の額の出た黄ろな顔があった。
「幾等ごまかしたって、ちゃあんと判ってるわ、彼奴よ」
「彼奴って何だ、何云っているのだ、痴」
「どうせ痴ですよ、痴だからこんな目に逢わされるのですよ、でも、ちゃあんと判ってるわ、彼奴とかってな真似をしてるのを、知らないと思ってるの」
「何がかってな真似だ、云ってみろ、何んだ」
刀圭界の名流として知られている夫人、教育界の先覚者として知られている老女史、某子爵夫人、某実業家の夫人、新らしい思想家として知られている某女史などの壮い己に対する態度を汚く誇張して聞かす癖のある章一は、それを後悔するとともに細君の嫉妬の対象となっている者を早く知りたかった。
「云えなら、何時でも云ってやるわ、云ったらこまるでしょ」
「何が困る、云ってみろ、何んだ」
「昨日も一昨日も、社へも往かないで、ふざけてたのでしょ、彼奴も酷い奴だわ、あれで名流婦人だなんて、ほんとに呆れるわ」
章一はまたぎくとした。細君の詞は己の行を一いち見透かしているようであった。章一はもしや何人かが己の留守に来て、おかやきはんぶんに細君にたきつけたものではあるまいかと思ったが、べつに何人も来たようでないから、細君の嫉妬はどうしても創作でなければならなかった。
「痴、お前は、山崎の奥様とでも、おかしいと思っているのか、痴」
章一はとぼけておいて早く外へ出ようと思った。
「どうせ、痴よ、己の所天を男妾にせられて黙っているのですもの」
「何」章一は耻かしめられてかっとなった。彼はいきなり細君に迫って妊娠のために醜くなっているその黄ろな顔を撲りつけた。「ばか野郎」
痩せた小柄な細君の体は鏡台の方へ倒れかかった。その細君の右の手は章一が髭を剃った金盥の縁にあたった。金盥はひっくりかえって水がこぼれた。妊娠四箇月の細君の体はその金盥の上に横倒れになった。章一は怒りにまかせて足でまたその腰のあたりを蹶た。
「蹶たな、わたしを、親でも蹶やしない、わたしを蹶やがったな」
章一はその詞を聞くと一層怒りが燃えたった。
「け、けしからん、そんな、そんなぶれいな詞をつかうのか」
章一は力まかせに蹶た。細君の叫びとも獣の唸りとも判らないような声がそこに起るとともに、細君の体が起きあがって章一にぶっつかって来た。
「あぶない」
章一の眼の前に小さな白い物がちかちかと光った。それは細君の手にしている剃刀であった。細君の右の下唇には血があった。章一はいきなりその手を捩じあげてくるりと細君の体を前向にした。
「何するのだ」
章一はそこに暗い鬼魅悪いものを見たが、それよりも己に縋って己あるがために生きているように思われていた女が、僅なことにすぐ反抗して己に危害を加えようとする行為があさましくて憎くってたまらなかった。剃刀は畳の上に落ちた。
「それで、おれを殺すつもりか、この狂人」
章一は力を罩めて突き飛ばした。細君の体はよろよろとなって長火鉢と鼠いらずとの間へ往って倒れた。と、そこから苦しそうな呻きが聞えて来た。それは臓腑と臓腑を擦りあわすような呻きであった。
「恐ろしい奴だ、汝はそんな奴か」
脂肪の多い蒼白い肉体が章一の頭を掠めた。章一は目黒駅の片隅に人の視線を避けて己を待っている彼女のことを思いだした。
(もう、すぐ一時だ、痴なことをしている間におそくなった)
章一はすぐ出かけようとしたが、剃刀が気になるのでそれを拾った。
「こんな恐ろしい家に帰るものか、痴、かってにしろ」
章一は次の書斎と寝室になっている室へ往って高机の右の抽斗を開け、手紙や葉書の雑然となっている中へそっと剃刀を入れて、それから帽子を執って外へ出た。彼は一刻も早く目黒駅へ往きたかった。
初夏の明るい埃のたつ日であった。章一は平生のように額の寛い白い顔を左の方に傾げるようにして坂路をおりて往った。足にはゴム草履を穿いていた。坂の下には省線の電車があった。平生なら彼はその電車に乗るのであったが、時間がないのですぐそこに来た円タクに乗った。
自動車は山の手の嫩葉の多い街を往った。目黒駅の片隅には彼女が黒っぽい服装をして、人に顔を見られないように新聞紙の中へ顔をうずめるようにして待っていた。章一はちょと咳をして女の注意を惹くなり、その時発車しようとしている電車の前の方へ乗ると、女はすましてその電車の後から乗った。
二人はそうして多摩川縁の停留場におりて、そこの丘の上にある鉱泉旅館へ往った。嫩葉に包まれたその丘にはさつきが美麗に咲いていたが、女の眼には映らなかった。
「遅かったわ、ね、なにしてたの」
「あいつの、ヒステリーが起ったものですからね」
章一は揮りかえって、女の顔を見てにっと笑った。
「そうお、こわいわ、ね、だけど、なにか、うっかり喋ったじゃないこと、ヒステリーを起さすようなことを」
「まさか」
「でも、男のかたは、なんでもべらべら喋るのですもの、喋ってたじゃないこと」
その鉱泉旅館へ一二回往ったことのある二人は、すぐ多摩川の流れを欄干の前に見る離室へ通された。二人はその離室で午食とも夕食とも判らない食事をしながら話した。章一は酒を飲んでいた。
うとうとしていた章一は、片頬に温な緊縛を覚えたのでふと眼を開けた。艶消電燈のやわらかな明は、黒いねっとりと潤みを持った二つの瞳と熱った唇をそこに見せていた。
「起きなけりゃ厭よ、お起きなさいよ」
潤みを持った瞳が笑うとともに熱った唇がまた隻頬に温く来た。章一の瞳はとろとろとなった。
「厭よ、厭よ、睡っては、こんな良い機会は、めったにないのに、睡ってばかりいちゃ厭よ」
月の面に雨雲がもったりとかかった。章一の眼ははっきり醒めた。と、階子段をあがって来る跫音がして、それが廊下の襖の外に止まった。
「ちょっと失礼いたします」
章一は頭を浮かして耳を立てるようにした。
「何か、用事かね」
「はい、ちょっと」
「ちょっと待ってくれたまえ」
女はそれと同時に羽二重の白い裏の掛蒲団を放ねて外に出ながら、華美な長襦袢の前をつくろいつくろい章一の枕頭に坐った。章一は女が坐ってしまうと襖の外へ声をかけた。
「入りたまえ、入ってもいいよ」
「よろしゅうございますか、では、ちょっと失礼いたします」
襖をそっと開けて大きな円髷に結った受持の婢が入って来た。
「お騒がせしてすみません」と、女の方にちょと挨拶してから、章一の方に向いて、
「あなたさまは、たしか、木村さんとおっしゃいましたね」
章一は腹這いになって敷島を執りながら婢の方を見た。
「そうだ、なんだね」
「今、ね、壮い女の方がいらして、きむらしょういちと、やまざきのおくさまに、これを渡してくださいって、名も何もおっしゃらないで、すぐお帰りになりましたが、お心当りがおありになりましょうか」
婢は手にしていた小さい白い包みをそこへ置いた。章一は意味が判らないので女の方を見た。
「何か持って来ることになっていたのですか」
「わたし、知らないわ」
女にも意味が判らないらしかった。
「なんだろう」
章一が包みに手をかけると女は婢の方へ向いて云った。
「それじゃ、まあ、置いといてくださいまし、後で判るでしょうから」
それを聞くと婢はすぐ出て往った。
「へんね、なんでしょう、開けてごらんなさいよ」
「そうですね、なんでしょう、何人がよこしたのでしょう」
章一は麻のハンケチで包んだ包みを解いた。中には一握り位ある女の髪の毛を円くして入れてあった。章一ははっと思った。
「まあ」
女の声は顫いを帯びていた。章一は石のようになっていた。
「奥さんじゃないこと」
「そうですよ」
二人の間には沈黙が続いた。
「どうしてここにいるのを知ったのでしょう」
「さあ」
「帰りましょう、あなたも帰ってなんとかしなさいよ」
「そうですね」
「帰りましょう、帰りましょう、わたしも早く帰ると都合がいいわ」
章一ももうそうした世界にいるのが厭になっていた。
章一は目黒駅まで来て別れて往く女に心ない挨拶をしてそのまま自動車に乗った。
章一は白山に住む老婦人の許へ往くところであった。こうした場合に章一の往く処はその女の許を措いて他にはなかった。学校を卒業してごろごろしている時、友人の紹介で梵妻あがりで小金を溜めていたその女の許へ金を借りに出入して関係しているうちに、女の田舎のもので女学校へ往っていた今の細君と知りあいになっていっしょになったものであった。
もう十一時であった。章一は電車通りで自動車をおりて爪さきあがりになった狭い横町を往って、社の裏手の樹木の下になったその家を叩いた。
「もう、寝たのですか」
裡では婢の声がした。
「だあ、れ、何方」
「僕だよ、木村、牛込の」
「おや、木村さん」
間もなく玄関のガラス戸が開いたので章一は中へ入った。
「おい、お客さんがあるのか」
「こんなに遅いのに、お客さんはありませんわ」
「朝までいるお客さんだよ」章一は小声で云って笑声をして、「どうだい」
「痴、ね、え」
婢も意味ありそうに小さな声で笑った。
「もう寝てる」
「まだお起きになっていらっしゃいますわ」
「そう、じゃ、御機嫌を伺って来ようか、ね」
章一は玄関をあがって左側の室へ入った。そこにはスタンドを点けて紅いメリンスの大きな座蒲団の上に脊の高い年とった女が腹這いになって、小説のようなものを読んでいた。
「今晩は」
「……木村さん」女は長手な顔をあげて透すようにして、
「今日は、どうしたの」
「多摩川の方へ遊びに往った帰りです、何か御饗応はないでしょうか」
「御饗応よりも、ぜんたい、あなたがたは、どうしたのです」
章一は枕頭へ往って胡座をかいた。
「どうしたって、何かあったの」
「何もないのですが、奥さんが来るし、あなたが来るしさ」
「あれが来たのですか」
「何かあったのでしょ」
章一はそれよりも細君の髪の毛のことを聞きたかった。
「頭を、どうかしてたのですか」
「頭って、頭はなんともなかったわ、頭をどうかしたの」
「それは、幾時比です」
「そうさね、八時半だろうか、お客さんが来て茶の間で話してると、黙って入って来て、何かわたしが云おうとすると、すぐ往っちゃったわ、へんな人、ね、え、何か云いあったの」
「昼間出ようとすると、痴なことを云うものだから、撲りつけてやったのだ、あいつ、この比、よっぽどヒステリーだから、剃刀を持ってかかって来るのだ」
「剃刀を持って、そいつは困ったね、だが、あなたが浮気をするからでしょ」
「どうして、この比は雑誌の方がいそがしくって」
「その雑誌がいけないわ、女の雑誌じゃ、それでなくっても浮気ものだから」
「痴」
「まあ、坐ったら、どう」
年とった女の声には潤おいがあった。章一は気が注いて坐った。
「ゆっくりしちゃいられない、すこしみょうなことがあったから」
「どんなことなの」
「今晩、目黒の前の方へ往って遊んでると、麻のハンケチへ髪の切ったのを包んで、木村章一に渡してくれって、女が来て置いてった、あいつが知ろうはずはないが、昼撲りつけてあるのだから、後をつけて来て、つきとめといて、そんないやがらせをしたかも判らないのだ」
「家を出たのは幾時なの」
「十二時だ、それから目黒の方へ往って、遊んでて、髪を持って来たのが九時比だ」
「九時比に目黒のさきへ往ったと云うのは時間が逢わないが、女と往ってよろしくやってたから、何人かが悪戯をしたのじゃないの」
「何人も知るはずがないのだもの」
「あなた方はそうでも、女の方をつけてたものがあったかも判らないわ、で、家へ帰ってみたの」
「帰らないさ、そうだとまた喧嘩をしなくちゃならないから」
「じゃ、朝、わたしが容子を見に往ってあげるわ」
「明日でいいだろうか」
「やったところで、いやがらせだから、心配はないでしょ、ほんとうに腹が立って、二人のいる処が判ってるなら暴れこむわよ」
「それもそうだ」
「羽織と袴を除りなさいよ」
章一は羽織と袴をとって単衣を脱ぐと女は枕を持って来た。しかし、章一は女の眼の下の曇の深い肉の落ちた顔が気になっていた。
「横になったら、どう」
女は章一を抱え込むようにして横に寝かそうとした。章一は眼をつむって女のするがままになっていた。と、女はけたたましい声をあげて叫ぶなり、章一を衝き飛ばすように起きて、両手を右の足首にやった。そこには手飼の白猫が眼を怒らして牙をむきだして唸っていた。
「畜生ッ、よくもわたしを噛みやがったな」
女は口惜しくてたまらないので隻手で撲りつけようとした。猫はちらちらと眼の前を掠めてどこかへ往ってしまった。
「畜生ッ」
女は口惜しそうに叫んだ。この時章一は起きた。
「どうしたのです」
「どうするものか、あなたが女あさりするものだから、こんなことになったのだ、あなたと云う方は、畜生にも劣った方だわ、わたし、もう、あなたを見るのも厭になった、帰っておくれ」
章一は驚いた。章一は女が発狂したではないかと思った。
「帰れ、帰れ、帰っておくれ、畜生、汝が女狂いをしたばかりに、とうとう俺を殺しちまった、帰れ、帰っちまえ」
女は章一に飛びかかりそうになった。章一は鬼魅が悪いので袴と羽織を鷲掴みにしてそこを飛びだした。
章一は電車通りに出てまた自動車に乗った。章一は己の家へ帰るのが怕いので山崎夫人の許へ往こうとしていた。
夫人の家にはその夜二人の邪魔になるもののいないことは夫人から聞いていたが、書生や婢が多勢いるので都合を聞いたうえでないとすぐには往けなかった。章一は省線の踏切の手前で車をおりた。その踏切の前には自働電話があった。章一はその自働電話で女の都合を聞こうと思った。その踏切には番人がいなかった。章一は急いでその踏切を横切ろうとしてレールの上に往った。と、章一は不意に叫んで倒れた。そこへ右の上から電車が音をたてて来た。章一のすぐ後を歩いていた一人の遊人は、章一の倒れた時その脚下から一疋の猫のような小さな獣の飛びだして走ったのを見た。
厭な気もちで郊外から帰って来た山崎夫人は、寝床の中へ入ってもぐっすり睡れないので寝返りばかりしていたが、そのうちに何かしら注意を促すものがあった。欧風の新らしい寝台に寝ていた夫人は、前の椅子に腰をかけている人影を見つけたのであった。
「何人です、何方」
小さな有明の電燈の光にぼかされた椅子の人は顔をあげた。それは章一であった。
「あなたは」
夫人は起きた。夫人は深夜戸締をかってに開けて入って来た闖入者を咎めずにはいられなかった。
「どうして来たのです」
章一はぐったりとしているような容をしていて何も云わなかった。夫人は起きて往った。
「何人に開けてもらったのです」
同時に章一の体は横に倒れて椅子から落ちた。それは両脚を膝の上から切断せられた血みどろの章一の死体であった。
怪しい死体、両脚を省線の踏切に残した怪しい死体が寝室にあったがために、警察に呼ばれ、新聞に書きたてられた山崎夫人は、三日の後に変死した。そして、章一の細君はその日から失踪して今に生死不明である。――これは明治の晩年に関西の大都市で起った怪奇事件であるが、さしさわることがあるので、場所、姓名をかえたのであった。
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