岐阜提燈

田中貢太郎




※(ローマ数字1、1-13-21)


 真澄ますみはその晩も台所へ往って、酒宴さかもりの後しまつをしているじょちゅうから、二本の残酒のこりざけと一皿のさかなをもらって来て飲んでいた。事務に不熱心と云うことで一年余り勤めていた会社をしくじり、母の妹の縁づいている家で世話になって勤め口を捜しているが、折悪しく戦後の不景気に出くわしたので口が見つからないけれども、生れつきの暢気のんきな彼は、台所の酒を盗み出したり残酒をもらったりして、それを唯一の楽しみにしてなんの不平もなしにその日を送っていた。
 真澄はもう一本の銚子ちょうし皆無みなにしてしまって二本目の銚子を飲んでいたが、なるたけ長く楽しみたいので、一度いださかずきは五口にも六口にもそれをめるようにして飲んだ。そして、思い出したように銚子を持ちあげて見てその重みをはかっていた。
 それは秋のはじめでもう十二時近かった。叔母おば跫音あしおとだけには何時いつも注意を置いていたが、その叔母ももうとうに寝ていることが判っているので、ほとんど持ち前の暢気のんきをさらけ出して眼をつむってとりとめのないことを考えてみたり、時とするとすこし開けてある中敷ちゅうじき障子しょうじの間から外の方を見たりした。外にはうす月がして灰色の明るみがあった。そこには二三本の小松がひょろひょろと立っており、その根元にはそこここにはぎの繁りが見えて虫の声がいちめんに聞えていた。
 真澄はさかずきを持ったなりにまたおもい出したように、ななめに見えている母屋おもやの二階ののきに眼をやった。そこには叔母の好みで夏からけている岐阜提燈ぎふちょうちんがあった。何時も寝る時には消すことになっている提燈の燈が、その晩に限って点いているので彼は不思議に思った。火の始末のやかましい叔母も客の疲れで寝たものであろうか、そうだとするとじぶんが往って消して来なくてはならないと思ったが、座をつのがおっくうであるから、そのうちには蝋燭ろうそくがなくなって消えるだろう、消えてしまえばべつに危険なこともないから、飲みながら消えるのを待とうとずるいことを考えながらまたそのほうへ眼をやった。と、その提燈は何人たれかつるしてある釘からったように、燈の点いたなりにふわふわと下へ落ちて来た。真澄はしまったと思って盃を置いた。
 提燈はそのまま屋根の上へ落ちたが足でもあって歩くように、屋根瓦の上をつるつると滑ってそして下へ落ちた。真澄は不思議に思って提燈を見つめた。その時提燈の燈はちらちらと数瞬またたきするように消えてしまったが、それといっしょに一ぴきの白い犬の姿がそこに見えた。真澄は眼をひかずにそれを見た。
 白い犬の姿はゆっくりと背延せのびをするように体をのびのびとさしたが、やがて歩きだして中敷の前をかすめて裏門の方へ往った。真澄は彼奴あいつおかしな奴だなひとつ見とどけてやれと思った。彼はちあがって中敷ちゅうじきの障子を体の出られるぐらいに開け、そこからそっと庭へおりて、裸足はだしのままで冷びえした赭土あかつちを踏んで往った。
 白い犬は裏門の傍にその姿を見せていた。真澄は怪しい犬に悟られまいと思って、跫音あしおとのしないように足をつまだてて歩いた。そして小松のある処ではその下の方を歩いた。そこは阪急線の別荘地に新築した住宅で、裏門の外は、庭の小松といっしょの小松の生えたまだ自然のままの丘であった。その丘と庭の境には丸竹まるたけすかがきをして、それに三条みすじのとげをこしらえた針金を引いてあった。
 犬の姿はすぐ見えなくなった。真澄はコールターで塗った裏門の扉をそっと開けて、前方むこうすかして見たのちに裏門を出て歩いた。
 小松林の中にはすすきの繁りやはぎの繁りがあった。芒のやわらかな穂が女の子の手のように見える処があった。白い犬はその芒の中に姿を消すことがあった。
 すぐなだらかになった丘の上が来た。そこに横穴の古墳の崩れのような大きな石が土の中からのぞいている処があった。石の周囲には芒や荊棘いばらが繁っていた。白い犬はその石の傍へまで往くと見えなくなった。真澄は立ち止った。
 十六七に見える小柄の女の姿がふと見えた。微黄うすぎいろな衣服きものを着てべにをつけたような赤い唇まではっきり見える。
 真澄は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはってそれを見つめた。と、女の姿は消えてしまった。

※(ローマ数字2、1-13-22)


 真澄はさかずきを持っているじぶんの姿に気がいた。気が注くとともに今のは夢であったのかと思った。夢にしては余りに記憶がはっきりしている。提燈の落ちたこと白い犬になったこと中敷ちゅうじきから裸足でおりたこと、裏門を開けたこと丘の上の石のことそれからわかい女のこと、皆順序だって思い出されるが、ただ丘の上からへやの中へ帰って来た記憶がない。暢気のんきな彼はもうすぐ夢にしてしまって、酒の方へ心を移してまたちびちびとやりだしたが、やがて点滴しずくもなくなったので蒲団ふとんを引き出して寝てしまった。
「もし、もし」
 枕頭まくらもとで己を起しているような女の声がするので、真澄は何か用事が出来てじょちゅうが起しに来たのではないかと思って眼を開けてみた。それは丘の上で見つけた壮い女であった。真澄はそれが別に不思議でもなかった。
「君はさっきの岐阜提燈だね」
 女は笑って聞いていた。
「ぜんたい、君はなんだね」
「べつになんでもありませんよ、あなたのような独身者ひとりものですよ」
「同じ独身者にしても、君の方はいろいろの芸を持ってるが、僕の方は、酒を飲むより他に芸はないのだ」
「あなたは、お酒がすきなの」
「好きだけれども、台所の残り酒しか飲まれないのだ」
「あなたは、暢気のんきね」
「暢気じゃないが、しかたがないよ」
「暢気が好いのですよ、私好きよ、まだお酒が飲みたいのですか」
「飲みたいね」
「じゃ、おあがりなさいよ、あなたにあげようと思って持って来たのですから」
「そうか、そいつはありがたいな」
 真澄が起きあがってみると女の傍にはぜんがあって、その上に一本の四ごうびんと三皿のさかなが置いてあった。
「さあ、おあがりなさいよ、私がおしゃくをしてあげましょう」
 女は四合罎の口を抜いて真澄の持ったさかずきいだ。
「あなたは、ぜんたい何人だれですか」
「何人でもありませんよ、そんなことは好いから、おあがりなさいよ」
「それじゃ聞くまい、聞いたところで、食客いそうろうではなんにもならないから」
「そうですよ、聞いたってなんにもなりませんから、聞かずにいらっしゃい、私が時どきお酒を持って来てあげますから」
「そいつはありがたい」
 真澄はそれから女を対手あいてにして飲んでいたが、何時いつの間にかねむってしまって、朝早く眼を覚ましてみると、いっしょに寝たはずの女もいなければ、正宗まさむねびんぜんもなにもなかった。ただ台所から貰って来た二本の銚子と皿だけが机の上に乗っていた。暢気のんきな真澄は昨夜ゆうべは変な夢ばかり見たものだと思った。
 その夜は客がなかったので酒にありつけなかった。真澄は台所をうろうろして隙があったらたるの口をひねろうと思って隙を見ていたが、じょちゅうと叔母の眼が始終あったのでしかたなしにあきらめて寝たが、睡っているとまた肩をゆすって起す者がある。
「お起きなさいよ、お起きなさいよ」
 真澄が眼を開けてみると昨夜ゆうべの女が来て坐っていた。
「今晩もお酒を持って来ましたよ」
「酒、そいつはありがたいな」
 真澄は起きて枕頭まくらもとに坐った。やはり昨夜ゆうべのような膳へ四合罎と三皿ぐらいのさかなを添えてあった。
「おあがりなさいよ、お酌いたしましょう」
 真澄は女に酌をして貰ってその酒を飲んでいい気もちになって寝たが、朝になってみると女もいなければ膳も正宗の罎もなかった。真澄はまた夢を見たものだと思った。
 女はその晩もまたやって来て真澄に酒を飲ましたが、朝になって見ると同じように女も酒のうつわもなかった。しかし、真澄はもう夢とは思わなかった。夢とは思わないが不思議に女の素性すじょうとか、きちんと締めてある戸締とじまりをどうして開けて来るだろうかと云うような現実的な疑問はおこらなかった。
 女は毎晩のように来た。真澄はもう宵に酒を飲む必要がなくなった。半月ばかりしたところである日叔母のへやへ呼ばれた。
「真澄さん、あんたは、近比ちかごろ体でも悪くはないかね」
「べつに悪くはありません」
「でも、あんたは、このごろ、夜が来ると、独言ひとりごとを云ってるそうじゃないか」
「そんなことはありませんよ」
「でも叔父おじさんが昨夜ゆうべ遅く便所はばかりへ往ったついでに、あんたの室の前まで往ってのぞいてみると、あんたは蒲団ふとんの上へ坐って、何か云ってたと云うじゃないかね、どこか悪いでしょう、おかしいじゃないかね」
 真澄は女のことが知れたのではないかと思った。叔母も叔父も知っていて、じぶんの気を引くためにこんなことを云ってるのだから、なまじっか隠しだてをしないが好いと思った。
「叔母さん、隠したってだめらしいから云いますが、この比、毎晩僕の処へ女がやって来るのですよ」
 叔母は不思議そうな顔をして真澄の顔を見つめた。
「真澄さんは、すこし変だね、あんたが寝床の上に起きあがって、独言を云ってるのは、私がさきに見つけて、叔父さんに云ったのですよ、あんたは、すこし体が悪いよ、明日あすあたり大阪へ往って医者に見て貰ったら、どう」
 真澄は叔母が女のことに一瞥いちべつをくれずに己を病人扱いにしているのがしゃくであった。
「病気じゃありませんよ、女が毎晩ごちそうを持って来てくれるから、話しているのですよ」
「あんたなんかの処へ、何人たれ酔狂すいきょうにごちそうまで持って来るものかね、ほんとにあんたは、どうかしてるよ」
「叔母さんこそ、どうかしてるのですよ、嘘と思や、今晩十二時ごろに来てごらんなさい、きっと来てますから」
「往かなくったって好いよ、あんたは独言ひとりごとを云ってるから、それがほんとなら、今晩来た時に、そのかたから証拠になるものを貰っておきなさいよ」
くしか、指環か、なんか貰っておきますよ」
「でもおかしいのだね、ほんとにあんたは病気じゃない」
「病気じゃありませんよ、大丈夫ですよ」
 その晩女が来て酒を飲みはじめたところで、真澄は叔母と約束したことを思い出して、銚子を持っている女の指に眼をやった。白い小さな指にはめた指環の青い玉が光っていた。
「その指環を、僕に貸してくれないかね」
 女はちょっと指に眼をやってのちに真澄の顔を見た。
「指環、私の指環」
「ああ、その指環だ、一晩貸して貰えば好い、明日あすの晩には返すよ」
「指環をどうするの」
「叔母が、君と毎晩こうして話しているのを聞いて、病気で独言を云ってると、しからんことを云うから、君のことを打ち開けたが、それでもほんとうにしないから、証拠に、君からくしか指環かを借りて、それを見せてやると云ってあるのだ」
「そんな、つまらんことは好いじゃありませんか、ほんとうにしなけりゃしない方が、今のうちはかえって好いじゃありませんか」
「叔母が失敬なことを云うから、見せてやろうと思うのだ、一晩貸して貰おう、好いだろう、一晩ぐらい、売って酒を飲むようなことはないよ」
 真澄は笑いながらさかずきを口へ持って往った。
「では、明日あすの晩まで待って頂戴ちょうだい、明日の晩、好い方のを持って来ますから、これは駄目ですから」
「明日の晩じゃいけない、今晩でないと、叔母がばかにするから、好いだろう、証拠になりゃなんでも好い」
 女は銚子を置いて左の指で指環の玉をいじりながら困った顔をした。真澄はつと手を出して女の右の手をつかんでじぶんの方へ引き寄せた。
「好いじゃないか、何人たれかに叱られるのかね」
 女は体をずらしてぴったりと真澄に寄り添うた。
「そんなことはないのですけど、これは、すこしわけがあって、ちょっとでも抜かれないのですもの」
「おがんでもしているのか」
「そんなことはありませんよ」
「じゃ、好いだろう、貸しておくれよ」
 真澄は好奇心も手伝って右の指を女の指環にかけてとっさにそれを抜こうとした。
いやよ、厭よ、許して頂戴よ」
 女は抜かせまいとして手を引こうとした。真澄はやめなかった。
「厭よ、厭ですよ、あなたは、何時いつものようじゃないのですわ、あれ、厭ですよ」
 指環は抜けかけた。真澄は小声で笑いながら一思いに抜こうとした。
「厭」
 女は叫ぶように云って真澄をけてちあがるなり、ひらひらと中敷ちゅうじきの方へ走って往ったがそのまま姿が見えなくなった。真澄の開けた覚えのない中敷の戸が二尺ぐらいいているのが見えた。

※(ローマ数字3、1-13-23)


 女はその晩限り来なくなった。そのうちに正月が来て三日となった。真澄は上福島かみふくしまにいる友人の家へ年賀に往って非常に酔い、夜の十時ごろ阪急線の電車に乗ってやっと花屋敷はなやしきまで帰って来た。
 そこでは真澄の他に四五人の者がおりた。真澄はその人といっしょにプラットホームに立ったところで、眼の前にわかい女の立っているのが見えた。それはあの女であった。
「ああ、君だね」
 女はにっと笑った。
「あれからさっぱり来なくなったが、おこったかね」
「憤りはしないのですが、あなたと別れる時期が来ましたから、もう往かなかったのですよ、でも、今晩は、お名残なごりに、私の家へ往って話しましょう」
「往っても好いかね」
「好いのですよ、何人だれも他にいないのです、私、一人ですから」
「じゃ、往こう、遠いかね」
「すぐですよ、いらっしゃい」
 女はさきに立って線路を横切って別荘地の方へ往った。真澄は酔った足を引きずってあとからいて往った。
 女はすぐ右側にある家の格子戸を開けて入った。
「ここですから、あとを締めてください」
 二人は玄関をあがって右手の電燈の明るいへやへ入った。
「まあ、お酒を出しましょうね」
「今日はもう好い、うんと酔ってるから」
「では、またのちにあげましょう、今晩はお名残に泊っていらっしゃい」
 真澄は女と他愛のないことを話していたが、何時いつの間にか女が友禅模様ゆうぜんもようのついたきれいな布団を敷いたのでそのまま横になった。
 一睡りした真澄は非常に寒いので眼を覚した。彼は叔父の家の裏手になった丘の上の石の傍で寝ていた。





底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第一巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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