暖かな宵の口であった。
微赤い月の光が
浅緑をつけたばかりの
公孫樹の
木立の間から
漏れていた。浅草観音堂の裏手の林の中は
人通がすくなかったが、池の傍の群集の
雑沓は、活動写真の楽器の音をまじえて騒然たる
響を伝えていた。
被官稲荷の傍の
待合を出た一人の女は、浅草神社の
背後を通って、観音堂の横手に往こうとして、右側の
路ぶちに立った大きな公孫樹の処まで往くと、その幹の陰に隠れていたらしい
中折帽を
冠た
壮い男が、ひらひらと
蝙蝠のように出て来てその女と
擦れ違った。と、その拍子に女はコートの右の
袖に男の手が
触ったように思った。で、
鬼魅悪そうに体を左に
反らしながら足早に歩いて往った。
壮い男の往った方には女の出た待合の
側になった
蕎麦屋の塀の
角があった。月の光はその塀に打った「公園第五区」と書いた
札のまわりを明るく照らしていた。
「山西じゃないか」と、
横合から声をかけた者があった。
壮い男は耳なれた声を聞いて足を止めた。
鳥打帽を
冠た小柄な男が立っていた。
「岩本か、どこへ往く」
「どこと云うこともない、この
辺を歩いていたところだ、君は」
「俺か、俺は
彼と
逢う約束があって、やって来たが、すこし具合の悪いことが出来て、よして他へ往くところだ」
「そうじゃなかろう、投げ込みができなかったろう」
「どうして、
子守を追っかけてる人なんかにゃ、想像はできないよ」
「よせよ、よく山の上のベンチの傍へ来る、
老婆さんだろう」
「野釣りなんかじゃないよ」
「じゃ、造花屋か」
「そんな下等な者じゃないと云うに、まあ好い、これから
倶楽部へ往ってビールでも飲みながら話そう」
二人は笑いながら
伴れだって
仁王門から出て、区役所のほうへ折れて往き、その傍にある小さなバーへ入った。六箇ばかり
据えた
食卓に十人ばかりの客が
飛とびに向っていた。二人は左手の
隅の
食卓についてビールを注文すると、
顔馴染の
肥った給仕女が二つの
洋盃を持って来た。
「話してもらおうかね、今の、おっそろしい広告の
物品は何だね」と岩本は
冷笑かすように云った。
「
咽喉を
潤しておいてから……」と、山西は一口飲んで、隣の
食卓に
正宗の
壜を二三本並べている
髯の黒い男を気にしながら、「もとは
柳橋にいた奴だよ、今は、
駒形堂の傍に、
船板塀に
見越の
松と云う寸法だ、しかも、それが
頗るの美と来てるからね」と小声で云って
笑顔をした。
「好いかい、また、そんな者を追っかけてて、留置場の御厄介になろうと云うのじゃないか、
昨夜千束町の方で、あの出っ歯の刑事にあったら、山西は
近比どうだって、君のことを聞いてたぜ」と、岩本も小声で云った。
「先方からお
出でなすったら、しかたがないじゃないか」
「春になっても留置場は寒いよ」
「どういたしまして、燃えるような
緋縮緬の
夜着がありますよ」二人の
洋盃にビールが無くなっているので、山西はかわりを注文して、それに口を
浸けながら、「もう十日待てよ、
羨しいところを見せてやるから」
「そんなことを云うが、ほんとうかい」山西の話が
平生の話と違っているので、岩本はおひゃらかしをやめて来た。
「ほんとうとも」
「じゃ
映画の説明をしてもらいたいな」
二人はビールに咽喉を
潤しながら夢中になって女のことを話した。この二人は浅草公園を
徘徊する不良の
徒で、岩本は千束町に住んで活動写真の広告のビラを
貼るのが商売、山西は
馬道の
床屋の
伜であった。
次第に客がたて込んで二人の
食卓にも洋服を着た客が来た。岩本はそれに気が
注いて、体をねじ向けて
帳場の上の柱にかかった八角時計に眼をやった。
「や、もう十時半になった、出かける処がある」
「網を張ってるのは、どの方角だい」
「今晩は商用だよ」と云って、にやりと
面疽のある口元で笑って、帽子をなおしながら、「ありがとう」
岩本が出て往くと、山西は給仕女を呼んでビール代を払って、そこを出ようとしたが、入口に垂れた青い
帷をかかげながら、観音堂の裏手で投げ込んだ手紙のことを浮かべて、あの女はもう見たろうかと思った。
戸外はきれいな月の光に
彩られていた。もう活動や芝居がはねかけているので、人通りが多くなっていた。山西は
伝法院の塀に添うて並んだ夜店の前を通って、池の方へ往った。
彼は歩きながら、
明日の晩あたりすぐ来るかも判らないぞ、……八時から九時の間……岩本などが来ていると、
羨ましてやるがなあ、などと、女の来るのを想像していた。彼は
己の店に来る客から、区会議員をしている質屋の主人にかこわれている女が、芸人と関係して
媾曳していると云うことを聞いたので、それを脅迫して手に入れるつもりでその場所を突きとめ、その帰りを待っていて脅迫状を投げ込んだところであった。
……
明日から十日以内に、夜の八時から九時の間に浅草区役所の傍の×××バーへ来てください、
目標には赤いリボンを
羽織の
紐につけております、もし来ない時には、
貴方の旦那に密告するとともに、「浅草公報」に書かします。と書いた脅迫状の文句を浮めてみて、これには困ってきっと来るだろうと思った。
風のない静かな
夜であった。池の
周囲の柳の
樹は枝をまっ
直に垂れていた。闇の
夜には燃えるように見える池のむこうの活動写真のイルミネーションは、月の光にぼやけて見えた。
歩くともなしに
土橋の上まで歩いて往った山西は、ふと橋のむこうから

な
小女の来るのを見た。それは
友禅模様の
鮮麗な羽織を着た十六七の色の白い女であった。
山西の眼は
小女に引きつけられた。
小女は散歩でもしているように、ゆっくりした足どりで歩いて来て、山西と
擦れちがったが、擦れちがう拍子に、眉と眼の間の晴ばれとした黒い
潤のある眼で山西の顔をうっとりと見た。……
伴れはと、
小女の
後を注意したが、三四人の酔った労働者が来るばかりで、その伴れらしい者は見当らなかった。
不良な山西の心が首を
擡げて来た。彼は労働者の群をやり過しておいて、引返して
小女の
後をつけて往った。労働者の群は
小女を追い越しながら、
揮り返って何か云い云い往ってしまった。
小女は左へ曲って林の中へ入った。
微暗い
木立の間にはそこここに
瓦斯燈が
点って、ぽつぽつ人が通っていた。
白粉をつけた怪しい女も通って往った。そのあたりに
飛とびに
据えたベンチには、腰をかけている人の細ぼそと話す声もしていた。中には
蛍火のような煙草の火で鼻の
端を赤く見せている者もあった。
小女はその間を通って静かに
茶店の方へ往った。山西は一
間ばかりの距離を置いてゆっくりと、そしてあたりに注意して歩いた。それは
小女を驚かさないためと、一つは公園を
徘徊している刑事に
睨まれないためであった。
小女の
羽織の
友禅模様は、
蒼白い光の燃えついているように、暗い中にはっきりと見えていた。眼をすえて好く見ると、その模様は従来見なれた
花鳥の模様ではなかった。それは細かな線で海の
藻のような、また見ようによっては水の渦巻のような物を
画いたものであった。
茶店の前を過ぎて水族館の裏手の
藤棚の処まで往くと、傍を通っている人もないので、山西は距離を
縮めて往って声をかけた。
「もし、もし」
小女は歩きながら白い
隻頬を見せた。
「どこへ往くの」
山西は努めて優しい声で云った。
小女の白い隻頬がまた見えて、それが
莞っと笑っているように思われた。山西はもう
小女をぐっと
掴んだように思った。
「いっしょに歩かない」
小女はまたしても隻頬を見せながら歩いた。山西はもう刑事のことも忘れてすぐ
背後に
添うて歩いた。
小女は観音堂を右にして裏手の方へ足を向けた。山西は暗い方へ
己から往くぞ、もう
締めたぞ、と思った。
「君の家はどこ」
山西はますますなれなれしく口を
利いた。
小女は男の口から一歩進んだ
誘いを待っているかのように、体をしんなりとさして歩いた。
「君の家を云っても好いじゃないの」
小女はちょっと足を止めるようにしたが、すぐ歩き出した。山西はその右の手に
己の手をかけようとした。と、二三人の
歌妓らしい
女伴がむこうの方から来たので、出そうとした手をひっ込めた。
二人はもう噴水の前に来ていた。水の噴出をやめた
毘沙門の像が月の光にさらされて
黄ろく立っていた。山西は見るともなしにその毘沙門に眼をやりながら、右側に並んだようになった
小女の手を握ろうとすると、そこには手がなかった。……おや、と思いながら眼をやると、
小女の姿はもうなかった。山西は驚いた。ぐるぐる体をまわして
四辺を見たが、
小女の姿はどこにも見えなかった。
「おかしいぞ」
山西は堂の裏手の方へ走ったが、そこにも
小女の姿は見えなかった。彼はまた噴水の処へ戻って来てその
周囲を走るように探して歩いた。
「どこへ往ったんだ、
彼奴」
山西はその附近の林の中をぐるぐると探して歩いたが、どうしても見つからなかった。それでも彼は
諦められないので、
仁王門の方へも往き、池の
周囲にも往って探したが、とうとう見つからなかった。
山西は区役所の傍の×××バーで脅迫した女の尋ねて来るのを待っていた。
帳場の上にかかった八角時計の針の
遅遅として動いて往くのに注意したり、入口の青い
帷を開けて入って来る客に注意したりした。時計の長針は十時の処を指していた。
……もうあと十分だぞ、やって来るかなあ、と、彼は考えながら無意識に
胸元に眼をやった。
絹大島の
羽織に
著けた茶の
平紐の右の附け根に結びつけた赤いリボンが花のように見えた。彼はその眼をまた入口の方へやった。セルの
袴を
穿いた背の高い学生が出て往くところであった。……ついすると、
待合へ往っていて、
婢でも呼びによこすかも判らないぞ、と、彼はまた思った。
昨夜噴水の
傍で見失った
小女のことがまたしても浮んで来た。彼の心は往くともなしにそのほうへ往った。青い
帷にするような
友禅模様の羽織と、くっきりと白い顔が見えるように思われた。……それにしても、どうしていなくなったのだろう、まさか消えて無くなったではあるまいが、と、彼は不意に消えたようにいなくなった
小女の奇怪な挙動を考えてみた。
彼は椅子の
手擦へ
凭せた
隻手の甲の上に、口元に
黄金を光らした
頬を
斜に凭せるようにしていた。と、時計が九時を打った。……もう九時になったか、と、時計の方へやった眼をまた入口の方へやった。青い
帷は
惰そうに垂れて、
土室の中に漂うた酒と煙草の
匂を吸うていた。
「山西さんどうしたの、今晩はいやにすましてるじゃないの」と唇の厚い給仕女が前の方から云った。
彼は給仕女を見たなりで何も云わなかった。彼は女の来ないのが
待どおしかった。彼はももじりになって入口の方を見ていた。二人
伴の客があったが女の姿は見えなかった。
時計は五分と過ぎ十分と過ぎた。……まだすぐは来ないかも判らないぞ、と、彼は思って来た。……もう一晩二晩待って来ないようなら、も一度投げ込みをやる必要があるぞ……。
小女のことがまた浮んだ。……今晩もいるかも判らない、そう思いだすと、
小女に
逢いたくなって来た。彼は急いで
勘定をすまして
戸外へ出た。
戸外には
昨夜のような月があった。
彼は月の下をぞろぞろと歩いている人の中を注意して、池の傍へ往った。
伝法院の塀をはなれて池の
縁へ出たところで、左の方から来る
人群の中に、
友禅模様の
羽織を着た
小女を
見出した。彼は
静にその方へ寄って往って、その顔をじっと見ながら微笑を送った。
小女もその顔を見返すようにしてうっとりとした眼をした。……今晩こそ見失わないぞ。
「
昨夜は
何時の間に逃げたの」と云って、山西はその顔を
覗き込むようにした。
小女は
莞と笑った顔を向けただけで何も云わなかった。
「名は何と云うの」と、山西はまた云った。
「みなわと云うのよ」と、
小女は小さな声で云った。
「みなわ、みなわさんだね」山西は
小女が可愛くてたまらなかった。
「君はどこだね」
小女は笑顔を向けるだけであった。
「いっしょに歩こうじゃないの」
傍を
擦れちがうものが
己の顔を
覗いて往くのに気が
注いた。彼はちょっと黙って歩いた。
小女は
土橋を渡って山へあがって往った。山西は上のベンチで話ができると思ったので
悦んで
跟いて往った。
「ここで休もうじゃないの」
小女は黙って山を右におりて、小さな池の中に
架けた橋の方へ往った。月の光は
木立に
遮られて
四辺は暗かった。
橋の上に往くと山西はするすると寄って往って、その手を握ろうとした。と、
何時の間にか
小女の姿はなかった。
山西はあわててその
周囲を探した。橋を渡って来た男と女の二人
伴が、橋の上できょろきょろしている山西の顔を見い見い通って往った。
山西は池の
周囲を歩いていた。彼はその晩も×××バーで脅迫してある女を待っていたが、十時近くになってもその姿を見せないので、また
小女を探しに出たのであった。
そのうちに公園内の
興行物が皆はねてしまった。池の
周囲の人影はすくなくなって来たが、
小女は姿を見せなかった。彼は山の上のベンチや林の中のベンチに腰をかけて、疲れた足を休めなどした。
……今晩はだめだぞ、彼は
江川の
玉乗の前を歩きながら
呟いた。彼はもう池の傍をまわるのを
諦めて帰りかけたが、すぐ
我家へ帰って寝る気になれないので、郵便局の傍の肉屋にいる女のことを考えながら歩いた。
その
夜は空に
薄雲があって月の光が
朦朧としていた。人通りはますますすくなくなって、物売る店ではがたがたと戸を締める音をさしていた。
仲店の
街路も
大半店を閉じて
微暗かった。山西は
石畳になった仲店の前を
下駄を
引摺るようにして、電車通りの方へ歩いていた。
ちょうど仲店の
街路の
中央になったところで、右側の横町から折れて来て眼の前に来た女の子があった。それはかの
小女であった。
青光のするような
友禅模様の
羽織の模様がはっきり見えた。
「よ」と、山西は声をかけた。
小女は立ちどまるようにして白い顔を見せた。
「みなわさん、
昨夜もまたまいたね」
小女は
莞と笑った。
「これからどこへ往くの」
小女は電車通りの方へ顔をやってみせた。
「いっしょに往っても好いの」
小女は
頷ずくようにしながら歩いた。山西も
跟いて歩いた。歩きながら、彼は……今晩こそ逃さないぞ、と、女に眼をはなさなかった。
小女は仲店の前を出はずれると、
吾妻橋の方へ向いて車道の
縁を歩いた。もうおしまいになりかけた電車には、ぼつぼつ人が乗り降りしていた。山西はふと
小女を
己の知っている
花川戸の
安宿へ
伴れ込もうと思いだした。
「私の知った処へ寄らない、
饗応するよ」
小女は
莞と笑って見返ったが、
「あっちへ往きましょう」
「往く処があるの」
小女は
頷いてずんずん歩いた。山西は、……この女はどうした者だろう、まさか
野釣でもあるまいが、と思った。不審であったが、
強いて云っては、女を恐れさすと思ったので、女の云うなりになって往った。
二人は吾妻橋の
袂の交番の前を通って往った。入口に立っていた一人の巡査は、
小女と
壮い男の姿をじろじろと見ていた。山西はそれがうす
鬼魅悪かった。
「足が痛くないの」と、山西は巡査に怪しい者でないと云うことを見せるために、
強いて親しそうな口を
利いた。
二人は橋の左側を通って往った。
下駄の音がからころと響いて聞えた。橋の下には
鼠色の
絨氈を敷いたような隅田川の水が、夢の世界を流れている河のように流れていた。
橋の
行詰にも交番があって、巡査は入口に
凭れて眠るようにしていた。山西は安心した。
小女はその
袂を左に折れて
河岸ぶちを歩いた。右側にビール会社の
煉瓦の建物が
乾からびた血のような色をして
聳えていた。そこはもう人通りが無くなっていた。山西はふと
小女はべつに往く処はないが、人のいる処が恥かしいので、それで人通りのない方へ
的もなく歩くのではあるまいかと思った。
「まだ遠いの」と云うと、
小女は、「もう
直ぐよ」と云うような顔をして男の顔を見返った。
「君の家」
小女は頭を
揮った。二人は
枕橋の
袂へ曲ろうとする
角の処へ来ていた。そこには
河岸ぶちに寄って便所があった。その前へ往くと
小女は不意に河岸ぶちの石垣の処まで走って往った。山西はまた逃げられてはならないとおもったので、
後から
跟いて往った。石垣の下にはもう満ちきった
河水が満満と
湛えていた。
小女は
友禅模様の
羽織の
袖をひらひらとさせながら、いきなり水の中へ飛び込んだが、少しも水の音はしなかった。山西は石垣の上に立ち
縮んで、女の体の水の中に消えて往くのを見せられるばかりで、どうすることもできなかった。飛ぶ時に乱れ髪になっていた女の
頭髪も見えなくなった。女の体を
呑んでしまった
大川の水は、何のこだわりもないように
暈された月の光の下を
溶溶として流れた。
山西は石垣の上を右に左に
駈け歩いて、今に女の姿が見えるか見えるかと、水の
面を
覗きながら両手を腰にやって
兵子帯を解き解きしていた。
女の姿は二度と見えなかった。と、山西は
小女に水の中へ飛び込まれてあわてている
己に気が
注いた。彼は人に見つかったら大変だ、と思いだした。彼は
己の責任を忘れて、きょろきょろと
四辺を見廻した
後に、解きかけていた帯をそこそこに
締直して、枕橋の方へ曲って往った。
山西は恐ろしいので翌日から外出をやめて、家の中に小さくなりながら、店へ
執っている二三種の新聞に眼をとおしたり、
我家へ来る客の話に耳を傾けたりして、
己の追い込んだような結果になった水死の
小女の噂に注意していたが、四五日してもそんな噂はなかった。彼はやや安心して、それは死骸が海の方へ流れて往ったので、それで判らなくなったのだろう、そうなれば別に心配することもないと思いだした。それに身の
周囲に気をつけて見ると、夜も昼も出歩いて女を
漁っていた者が、急に家に
引籠っているのが、人の嫌疑を増すようにも思われて来たので、六日目の
夜になって
怖ごわ外へ出た。
そして、歩いているうちに
千束町の造花屋のことを思いだしたので、
仁王門から入って公園の中を横切り、
猿之助横丁と云われている
路次の中へ往った。路次の中へ路次が通じて
迷図のように紛糾した処には、一二年前まで私娼のいた
竹格子の附いた
小家が雑然と
簷を並べていたが、今は皆禁止せられて、
僅かに残った家は、造花屋と云う怪しい看板をかけて店の
小棚に
種種の造花を並べていた。
山西の往こうとする処は、路次から路次に曲って二三軒往った処であった。その
角には赤い
提燈を釣るしたおでん屋があった。一時間ばかり
宵闇をこしらえて出た赤い月の光がその簷にあった。山西はここで一つ景気をつけたいと思ったので、その
暖簾に首を突っ込んだ。学生風の男が一人おでんを
喫っていた。
「一本つけて貰おうか」と、山西は
顔馴染の老人の顔を見て云った。
老人は右の棚から
壜入の酒をとってその口を開け、それを
背後の方へやって、「ほい、お
燗だ」と云った。
そこには
銅壺を
据えた
長火鉢があって、これまでついぞ見たことのない
小女が坐っていた。
「あいよ」
小女は手早く老人の出した壜を
執って銅壺の中へ
浸けた。
「お
肴は何にしましょう」と、老人は長い箸を持ちながら云った。
「
烏賊があるなら、烏賊をもらおうか」
「烏賊はおあいにくさま、がんもどきならありますが」
「じゃ、がんもどきと、はんぺんにしてもらおう」
老人が鍋の中からがんもどきとはんぺんを挟んで山西の前へ出し、それから
盃も出したところで、もうお燗が出来た。山西は台の上に
俯向いて、肴を
喫い酒を飲んだが酒はすぐ無くなった。
「お爺さん、酒のかわりだ」
老人は
新香をちょきちょき切っていた。彼はちょっと手が放せないので、
背後を
揮り返るようにして云った。
「……みなわ、お酒のおかわりだ、
乃公はちょっと手が放せない、お前が
執ってくれ」
みなわ、と云った
詞に、山西はびっくりして
蒸気の
濛濛と立っている鍋越しに
小女の方を見た。
小女は
起って棚の方へ往こうとして、ちらりと客の方を見て笑った。それは眼と眉の間の晴ばれとした、そして、眼にしっとりとした
潤いのある水の中へ飛びこんだ
彼の
小女であった。その
羽織も
鮮麗な
青光のする
友禅模様の
羽織であった。彼は箸を
執り落した。
「お爺さん、もう好い、いくらだ」と、彼は
慄えながら云った。
「じゃ、お酒はよしますか」
「好い、好い、いくらだ」
「二十銭
戴きます」
山西は手を
顫わして
蟇口から十銭
札を二枚出すと、投げるように置いてあたふたと逃げだした。そして、造花屋のことなどは忘れて、人通りの多い
賑やかな方へ賑やかな方へと往ったが、気が
顛倒しているので方角が判らない。同じ
路次へ入ったり出たりした
後に、やっと人通りの多い賑やかな
街路へ出て、やや心を落つけることができた。……それにしても、水の中へ飛びこんだ女が
己の前に姿を見せるのは、たしかに己に恨みがあるからだ、と思った。彼はたまらなく恐ろしかった。
と、電燈の明るいバーが眼に
注いた。彼は急いでその中へ入った。
二条か
三条かに
寒水石の
食卓を
据えた店には、
数多の客が立て込んでいた。彼はその右側へ往って腰をかけた。
「
何人か来てください、お客さんですよ」
左側の一人の客の前へ立って会計をしていた給仕女が、
帳場の方を見ながら云った。と、一人の給仕女がどこからともなく来て山西の前へ立った。
「何を持ってまいりましょう」
「ビールを持って来てもらおう」山西はそう云い云い女の顔を見た。それは眼と眉の間の晴ばれとした今の
小女の顔であった。山西の頭には血が登った。彼はいきなり
起ちあがって
戸外へ逃げだした。
「おい、どうした、何をそんなにきょときょとしているのだ」と
背後から来て肩に手をかけた者があった。
山西はびっくりして立ちどまった。手をかけた者は岩本であった。
「ばかにびくびくしてるが、また、何かやったのかい」と、岩本は笑った。
山西は黙ってきょときょとした眼を岩本の顔へやった。
「どうした、
奥山の
狐にでもつままれたのか」と、岩本はまた笑った。
山西はやっと気が
注いて来た。
「なに、すこし、
心配筋があってね」と、冗談を云ったが、その声は
咽喉にひっかかって聞えた。
「まァ好いや、×××バーに往こう」
岩本が云うと山西は×××バーなら大丈夫だろう、と思った。二人は
伴れだって区役所の傍へ往ったが、山西はまだ安心のできないところがあるので、
前へ立ってバーの入口が入れなかった。彼は岩本の
後から
怖ごわ入って、四五人いる給仕女の顔を一わたり見廻したが、
平生のとおりの
知己の女ばかりで、べつに怪しい顔は見えなかった。
「なにをそんなに、きょろきょろ見ているのだ」
岩本に注意せられて山西ははじめて腰をかけた。
「ビールにしようか」と、岩本が云った。
「俺はウイスキーにする」山西はうんと酔って心を大きく持ちたかった。
やがて岩本の前にビールが来、山西の前にウイスキーが来た。
「四五日見えなかったが、どうしていたのだ」
「店がいそがしいものだから出なかった」
「いやに
殊勝なことを云うぜ、また、刑事から注意でもせられたのだろう、
駒形堂の傍の
船板塀とか
何んとか、変なことを云ってたから……」
「いや、ほんとうに店がいそがしかったよ」
「いやに弁解するところを見ると、お目出たくないことがきっとあったね」
山西はこんなことから罪悪が発覚してはならないと思ったので、極力弁解した。
「ますます弁解が苦しいが、
朋友の
交誼に、店がいそがしかったと云うことにしておいてやろう」と、岩本は
始終笑っていた。
「山西さん、お客さんですよ」と、給仕女の呼ぶ声がした。
山西はびっくりして顔をあげた。入口の処に
小間使風の
壮い女が用ありそうに立っていた。山西はまた怪しい
小女ではないかと思って好く見たが、それは十八九に見える
円顔の女であった。
「山西さん、
貴郎よ」と、給仕女が延びあがるようにして山西を見た。
……あの
妾からではあるまいか、と山西はおもった。彼は急いで椅子を離れて入口の方へ往って、女の顔を見て立った。
「貴郎は、山西
時次さんでございましょうか」と、女が笑顔をした。
「そうです、私が山西時次ですが」と、山西は云った。
女はそれを聞くと
静に
懐から青い封筒の手紙をだして、それを差しだした。
「これを御覧になって、すぐ御返事をいただきとうございます」
山西は封を切って読んだ。……いろいろお話いたしたいことがございますから、
使の者とごいっしょに、眼だたないようにそっとお
出でを願います……などと書いてあった。それは
駒形の女から来たものであった。
「じゃ、ちょっと待っていてください、あすこをすまして来ますから」と、山西は
己の席へ帰って往って、眼を
円くして見ていた岩本の耳元で
囁いた。「ちょっと出かけるから、
後でいっしょに払っといてくれ」と、彼は
蟇口から五十銭札を二枚出した。
「いよいよ駒形か」と、岩本は
羨ましそうに聞いた。
「まあ、そこらあたりさ」山西はさっさと往って女といっしょに出て往った。
岩本は羨ましいうえに
好奇も手伝って、どこへ往くか見たくなったので、己も急いで山西の置いて往った金に
幾等かの金を足して、
食卓の上へ投げだして、
「おい、ここに一円二十銭ある、足りなかったら
翌日の晩だ」と、云って急いで
戸外へ出た。
戸外には
靄が出て月の光がぼやけていた。岩本は駒形と云うので、
先ずバーの前を右の方へ往って見ると、十
間ばかり
前を女と山西が並んで何か話しながら歩いていた。女は小柄な青い
友禅模様の
羽織を着ていた。……小間使にしては

な女だぞ、と彼は思った。
二人は
広小路へ出ると、電車通を横切って、むこう側の歩道を駒形の方へ曲って往った。岩本も十間ばかりの距離を置いてその
後から
跟いて往った。
灰白色の
靄が女の姿を折おり包んで見えた。
駒形堂の前まで往くと、二人は電車の線路を足早に横切って堂の手前からおりて往った。岩本は知られないようにつけながら、……いよいよあの女らしいが、
彼奴どうしてものにしたろう、と、
羨ましくてたまらなかった。
二人は
裏通に出て左の方へ五六
間戻ったが、黒い裏門らしい扉をあけて山西の姿が
前にかくれた。女は
半身を入れて門の扉を締めながら、白い小さな顔を岩本の方へ見せて隠れた。……
畜生、いよいよ入りやがったな、と
舌打しながらその方へ歩いて往った。
船板塀をした二階家があって、
耳門にした
本門の
簷口に小さな
軒燈が
点り、その脇の方に「山口はな」と云う女名前の表札がかかっていた。……俺もただは見逃さないぞ、と、岩本は表札の
文字を二度も三度も読みかえした。
それから五六日して、山西の母親は
千束町の岩本の家へ来て
伜がいなくなったと云った。家を出た日を聞いてみると、それは駒形の女の家へ往った晩であった。岩本はしかたなくその
夜の事情を話して二人で駒形の山口はなと云う家へ往った。
婆やらしい年とった女が取次に出て、その
後から二十五六に見える
円髷の
女主人が出て来た。
「伜がこちら様へあがっておりはしますまいか」と、母親は云った。
「伜って、どなたですか」と、
女主人は不審そうに云った。
「山西時次でございます」
「……山西時次……、そんなかたは知りませんでございます」
「そうでございましょうか、四五日前から
伜がいなくなりましたから、ここにいらっしゃる伜のお
朋友の、岩本さんに聞きますと、伜のいなくなった晩に、×××バーにいた伜の処へ、こちらのお
婢さんが見えて、伜を
伴れて往かれましたのを、この岩本さんが、
好奇につけて来て、裏門からたしかに入るのを見たと申しますから」
女主人は
呆れたようにして聞いていたが、
「それは何かのまちがいじゃありますまいか、裏門から人をお伴れするにしても、私の家の裏門は、河に向っておりますので、船からでなくちゃ入れませんし、そして、
我家の婢と云うのは、どんな女でしたでしょう」と、岩本の方を向いて云った。
「十六七の色の白い、
友禅模様のような
羽織を着ておりました」と岩本が云った。
「……そう、それじゃ、いよいよ私の家じゃありません、私の家には、今お取次した、婆やより他に、婢を置いたことがありません」と、
女主人は云いきった。
二人はつぎほがないのですごすごとそこを出たが、二人の裏門を入る姿をまざまざと見ている岩本は、どうも
腑に落ちないので、門の左側になった裏門らしい処へ往ってみた。コールタで塗った門の扉がたしかにあるので、そっと手をかけてみると扉の
枢はすぐ落ちた。そこはその傍の
問屋の
荷揚場らしい処で、左側に山口家の
船板塀があり、右側に隣の家の
煉瓦塀があった。二人はその中へ入って往った。
行詰に石垣に寄せて
縁側のようにした
一幅の
桟橋がかかっていて、その下には大川の水が物の秘密を包んでいるように
満満と
湛えていた。二人は河の
面を見入った
後に黙って顔を見合して
衝立った。
それから間もなく奇怪な
水魔の噂がつたわるようになった。
山西の
行方は今に判らないと云うことであるが、恐らく永久に判らないだろう。