宇宙を観察するの
途二あり、一は宇宙を「死躰」として
観るにあり、他は宇宙を「生躰」として観るにあり、人生を観察するの途二あり、一は人生を今世に限られたるものとして観るにあり、他は人生を未来に亘るものとして観るにあり。
爰に於て吾人は知る、人間世に処するの途は、現在に希望を置くと、未来に希望を置くとの二岐に分るゝあるのみ。更に去つて歴史を観るに、盛衰興亡の端多く、一去一来の跡空しきも、之を要するに、歴史の中心潮は、未来の希望を現実に適用するにあるのみ。悠々たる天と、
々たる地の間に
孰れの所にか墳墓なる者あらんや、其の之あるは、人間の自から造れる者なり、国民の自から造れる者なり。
印度自から其墳墓に埋もれたり、
羅馬自ら其墳墓に沈みたり、彼等は去れり、然れども彼等を葬りし墳墓は彼等と共に其影を撤したり、天下孰れの処にか墳墓なる者あらんや、世界は墳墓に赴くにあらず、頭を挙げて蛇行するが如き此世界は、遂に「生命」に達すべき者なり。「記憶」渠唯だ記憶のみ、「過去」渠唯だ過去のみ、「未来」には
権あり、「希望」には命あり。
過去現在未来は全宇宙の所有物にして、人間の私有にあらず、時間と空間は人間を、或る立塲に繋げども、人間は過、現、未、の中心に立つて動く者にあらず。然りと
雖、宇宙の人間に対するは蛇の蛙に於けるが如くなるにあらず、人間も
亦た宇宙の一部分なり、人間も亦た遠心、求心の二引力の持主なり、又た二引力の臣僕なり。魚市に
喧囂せる小民、彼も亦た宇宙に対する運命に洩れざるなり、彼も亦た彼の部分を以て、宇宙を支配しつゝあるものなり、この観を以てすれば、王侯将相と彼との間に何の
径庭あらんや。
宇宙に精神あるが如く人間にも亦た精神あるなり、
而して人間個々の希望は、宇宙の精神に合するにあり、人間世界の最後の希望は、全く宇宙の精神に合躰するにあり。唯理論、唯心論、もしくは又た唯物論、彼等何ものぞ、もしくは又た
凡神教、彼等何ものぞ、彼等の一を仮ることなくんば、彼等の一に僻することなくんば、遂に人間の希望を達すること能はずとするか、何が故に唯心論を悪しとするか、何が故に凡神論を悪しとするか、何が故に唯物論を悪しとするか、又た何が故に彼等を善しとするか、空々漠々たる癖論家よ、民友子大喝して曰く、「ベベルの高塔を築かんとするは誰ぞ」と。
彼の唯物論、彼の唯心論、彼の凡神論、彼等は各々其
使命を帯びて来れり、而して彼等は各、其使命の幾分を遂げたり、而して彼等は各々其
誤謬を残したり。看よ人間の歴史は、
恒に善き事をなして、恒に悪しき事を為すにあらずや。恒に真理に近づき、恒に真理に
遠かるにあらずや。恒に進歩して、恒に退歩するにあらずや。然れども記憶せよ、宇宙の精神と、人間の精神とは、恒に進歩にして恒に退歩なる中にありて、相接近しつゝあるにあらずや。唯心論を以て唯物論を
罵るは誰ぞ。唯物論を以て唯心論を罵るは誰ぞ。彼にも粋あり、此にも粋あり、彼にも
糠あり、此にも糠あり、
妄に此の粋を以て、彼の粋を撃たんとするは誰ぞ。
縦に此の糠を以て、彼の糠を排せんとするは誰ぞ。民友子大喝して曰く、「砂丘の上にベベルの高塔を築かんとするは誰ぞ」と。
「造化は終古依然たり、而して終古鮮新なり、」とは善く言はれたるかな。宇宙は実に其中心に於て、一定の方向あるのみ、其外面に於ける進歩と退歩とは、常久に鮮新なる状態を呈するなり、預言者、英雄、詩人、彼等何すれぞ宇宙以外の新物を
貪らんや、彼等も亦た自からの墳墓を造るものなり、百年、千年、万年、あやしきは、Time なり、怖るべきは Time なり、墳墓も亦た Time の為に他の墳墓に投げらるゝなり、墳墓すら其迹を
留めず、
曷んぞ預言者、英雄、詩人を留めんや。営々たる街頭の商児、役々たるレボレトリーの化学者、紛々たる新聞屋の小僧、彼等も亦た彼の預言者と、彼の英雄と、彼の詩人と、其帰着する運命を同うするなり。「腐朽」わが右にあり、「死淵」わが左にあり、剣を
揮ふもの誰ぞ、筆を
弄するもの誰ぞ、天を談ずるもの誰ぞ、地を説くもの誰ぞ、
何れに進歩あらむ、何れに退歩あらむ。然れども、読者よ請ふ汝の謹厳なる眼を開けよ、宇宙の大精神は一定の塲所に安住せず。造化は終古依然たり、然れども、読者よ請ふ汝の霊活なる心を
醒せよ、造化は其中心に於て、宇宙は其中心に於て、必らず何程かの動あるなり。造化彼れ何物ぞ、宇宙の一表現に過ぎざるなり。宇宙既に動あり、造化
豈動なからんや。地球の表面は終始依然たり、然れども其の形状は常に変はりつゝあるなり、要は千年の眼を以て、天文台の観測をなすにあり。これ其の外形に就きて言ふのみ、宇宙果して「死物」なるか、
将た、又「生躰」なるか、吾人が地球と
名くる此の一惑星の中に於て此の変動あり、「死躰」にもせよ「生躰」にもせよ、既にこの変動あるなり、何ぞ知らん、人間と称する此二足動物の上に、激雷の
驟かに震ふが如く、諸天群がり落ちて、火焔
忽ち起りて、一指を投ずるの暇に於て、この終古依然たる天地は、黙示録の
約翰が「われ新らしき天と新らしき地を見たり、
先の天と先の地は既に過たり、海も亦たあることなし」と言ひたる言葉の、空の空にあらざることを実証するの時あらんを。
「信仰個条」彼れ何物ぞ、「
繩墨」彼れ何物ぞ、否な彼等も亦た宇宙の精神の大進歩の道程に於て、何等かの必要に需求せられて出でたるものなり、彼等も彼の唯心論の如く、彼の唯物論の如く、彼の凡神論の如く、相当の敬礼を要求するの権利あるものなり、然れども彼等を崇拝し、彼等を保持し、彼等を以て唯一の標準とせんとするは何物ぞ。聖書を
把つて、屑籠の中より古布と古紙とを分つが如く、或は彼を取り、或は此を取り、而して我が取る所の者は、宇宙の大真理に
適へりと妄信し、他の取る所の者は一理の存するなきが如くに
誣ゆるもの誰ぞ。咄、思想界に於ける病毒の本源は存して爰にあるなり。己れの取る所を奉信するは善し、己れの取る所を以て、他の取る所を妄排す、是を思想界の藪医術と言はずして何ぞや。夫れ藪医術とは外科の医術を言ふなり、而して其の外科たるは、人間の病原を探りて後に其治術を講究するにあらずして、外部に表はれたる病象の一部分を見て、直に膏薬を塗するに留まるなり。咄、藪医術はいかほどに進歩するとも、人世に於て何の功益するところあらんや。信仰個条彼れ自身は、藪医術にあらず、繩墨彼自身は藪医術にあらず、唯心論も亦た然り、唯物論も亦た然り、然れども個の信仰個条を擁し、個の繩墨を擁し、個の善悪論を擁し、個の唯心論を擁し、個の唯物論を擁し、之を以て宇宙を法規する唯一の真理と迷信する輩の手に於て、藪医術の本源は存するなり。
(明治二十六年五月)