悲しき事の、さても世には多きものかな、われは今読者と共に、しばらく空想と虚栄の幻影を離れて、まことにありし一悲劇を語るを聞かむ。
語るものはわがこの夏
霎時の仮の
宿とたのみし家の隣に住みし
按摩男なり。ありし事がらは、そがまうへなる禅寺の墓地にして、頃は
去歳の初秋とか言へり。
二本榎に朝夕の烟も細き一かまどあり、
主人は八百屋にして、かつぎうりを
以て
営とす、そが妻との間に三五ばかりなる娘ひとりと、
六歳になりたる小児とあり、
夫は実直なる
性なれば家業に
懈ることなく、妻も日頃謹慎の質にして物多く言はぬほど糸針の道には心掛ありしとのうはさなり。かゝればかまどの烟細しとは言ひながら、其日其日を送るに太き息
吐く程にはあらず、折には小金貸し出す勢ひさへもありきと言ふものもありけり。
妻の
何某はいつの頃よりか、何となく気欝の様子見え始めたれど、
家内のものは更なり、近所合壁のやからも
左したる事とは心付かず、唯だ年
長けたる娘のみはさすが、母の気むづかしげなるを面白からず思ひしとぞ。世のありさま、三四年このかた金融の
逼迫より、
種々の転変を見しが、別して其日かせぎの
商人の上には軽からぬ不幸を生ぜしも多かり。正直をもて商売するものに不正の損失を
蒙らせ、真面目に道を歩むものに突当りて荷を損ずるやうの事、
漸く多くなれりと覚ゆ。かの夫妻未だ左したる
困厄には
陥らねど、思はしからぬが苦情の元なれば、時として夫婦顔を赤めるなどの事もありしとぞ。
裡家風情の例として、其日に得たる銭をもて
明日の米を買ふ事なれば、米一粒の尊さは余人の
能く知るところにあらず。或日の事とて妻は娘を家に残しつ、小児を携へて出で行きしが、米買ふ銭を
算へつゝ、ふと其口を洩れたる言葉は「もしこの小児なかりせば、日々に二銭を省くことを得べきに」なりし。之を聞きたる
小娘は左までに怪しみもせざりし。その容貌にも殊更に思はるゝところはあらざりしとなむ。
このあたりの名寺なる東禅寺は境広く、樹古く、陰欝として
深山に入るの
思あらしむ。この境内に一条の
山径あり、
高輪より二本榎に通ず、近きを
択むもの、こゝを往還することゝなれり。
累々たる墳墓の地、苔滑らかに草深し、もゝちの人の
魂魄無明の夢に入るところ。わがかしこに
棲みし時には、朝夕杖を携へて幽思を養ひしところ。又た無邪気の友と共に山いちごの実を拾ひて楽みしところなり。
家を出でゝ程久しきに、母も弟も還ること遅し、鴉は
杜に急げども、帰らぬ人の影は破れし
簷の
夕陽の
照光にうつらず。
幾度か立出でゝ、出で行きし方を眺むれど、沈み勝なる母の
面は更なり、此頃とんぼ追ひの仲間に入りて楽しく遊びはじめたる弟の形も見えず。日は全く暮れぬれども未だ帰らず。案じわびて待つうちに、雨戸の外に人の音しければ急ぎ戸を開くに、母ひとり忙然として立てり。その様子怪しげに見えはせしものゝ、いかに悲しき事のありけんとは思ひもよらず。弟は、と問へば、しばし黙然たりしが、何かは知らず
太息と共に、あれは殺して来たよ、と答へぬ。
始めは戯れならむと思ひしが、その
容貌の青ざめたるさへあるに、夜の事とて共に帰らぬ弟の身の不思議さに、何処にてと問ひければ、東禅寺
裡にて、と答ふ。驚ろき呆れて、半ば疑ひながらも、母の言ひたるところに、走り行きて見れば、こはいかに、無残や一人の弟は
倒まに、墓の門なる石桶にうち沈められてあり。其傍になまぐさき血の
迸りかゝれる痕を
見りと言へば、水にて殺せしにあらで、石に撃つけてのちに水に
入たりと
覚たり。気も絶え
入んほどに
愕き惑ひしが、走り還りて泣き叫びつゝ、近隣の人を
呼ければ、漸く其筋の人も来りて死躰の始末は終りしが、殺せし人の
継しき中にもあらぬ母の身にてありながら、鬼にもあらぬ
鬼心をそしらぬものもなかりけり。
東禅寺寺内より高輪の町に出でんとする
細径に覆ひかゝれる一老松あり。昼は
近傍の
頑童等こゝに来りて、松下の細流に小魚を
網する事もあれど、夜に入りては蛙のみ雨を誘ひて鳴き騒げども、その濁れる音調を驚ろき
休ます足音とては、稀に聞くのみなり。寺内に棲みける彼の按摩、その
業の為にはかゝる
寂寥にも慣れたれば、夜出でゝ夜帰るに、こはさといふもの未だ覚え知らず、
五月雨の細々たる陰雨の
中に一二度は
彼燐火をも見たれど、左して怖るゝ心も起らじと言へり。
雨少しくそぼちて、桐の青葉の重げに
垂るゝ一夜、暮すぎて
未だ程もあらせず、例の如く家を出でゝ彼の
老松の
下に来掛りし時、突然
片影より顕はれ
出るものありと見る
間に、わが身にひたとかじりつき、逃げんとするも逃げられず、
胆潰れながらも、其人を見れば、髪は乱れて肩にからみ、色は夜目にも青白ろく、鬼にやあらむ人にやあらむ、と思ふばかり、身はわな/\とふるひて、振り離さん程の力もなくなれり。やうやく気を沈めて其人の
態をつく/″\打ち眺むれば、まがふ
方なき狂女なり。さては鬼にもあらずと心
稍々安堵したれば、
何故にわれを
留むるやと問ひしに、唯ださめ/″\と泣くのみなり。再三再四問ひたる
後に、答へて
曰ふやう、
妾は今宵この山のうしろまで行かねばならずと。何用あつて行くやと問ひければ、そこにて児を殺したる事あれば、こよひは我も共に死なむと思ひてなり。この
言を聞きて、さては前日の
児殺よなと心付きたれば、更に気味あしく、いかにもして振離して逃げんとすれど、狂女の力常の女の
腕にあらず、しばしがほどは或は
賺しつ或はなだめつ、得意客は待ちあぐみてあらむに、いかにせばやと案じわづらふばかりなり。いかに言ふとも一向に聞き入れず、死なねば済まずとのみ言ひ募りて、捕へし袖を
挽きて、吾を彼の山中に連れ行んとす。もし
愈々死なむとならば独り行きても
宜からずやと言へば、ひとりにては寂しき路を通ひがたしと言ふ。幸にも、この時角燈の光微かにかなたに見えければ、声を挙げて巡行の査官を呼び、
茲に始めて蘇生の思ひを為せり。
始は査官
言を尽して説き
諭しけれど、一向に聞入れねば、止むことを得ずして、他の査官を
傭ひ来りつ、遂に警察署へ送り入れぬ。
彼女は是より精神病院に送られしが、数月の後に、病全く
愈えて、その
夫の家に帰りけれど、夫妻とも、元の家には住まず、いづれへか移りて、噂のみはこのあたりにのこりけるとぞ。以上は我が自から聞きしところなり。但し聞きたるは、この夏の事、筆にものして世の人の同情を請はんと思ひたちしは、
今日土曜日の
夜、秋雨紅葉を染むるの時なり。
殺さんと思ひたちしは偶然の狂乱よりなりし、されども、
斯の如き悲劇の、
斯くの如き
徒爾の狂乱より成りし事を思へば、まがつびの魔力いかに
迅且大ならずや。親として子を殺し、子として親を殺す、大逆不道此の上もあらず、
然るに
斯般の悪逆の往々にして世間に行はるゝを見ては、誰か
悽惻として人間の運命のはかなきを思はざらむ。狂女心底より狂ならず、
醒め来りて一夜
悲悼に
堪へず、児の血を
濺ぎしところに行きて己れを殺さんとす、己れを殺す為に、その悲しき塲所に独り行くことを得ず、
却つて路傍の人を連れ立てんことを請ふ、狂にして狂ならず、狂ならずして猶ほ狂なり、あわれや子を思ふ親の情の、狂乱の中に隠在すればなるらむ。その狂乱の
原はいかに。
渠が出でがけに曰ひし一言、深く社会の罪を刻めり。
昨夜は淵明が食を乞ふの詩を読みて、其清節の高きに服し、今夜は
惨憺たる実聞をものして、思はず袖を
湿らしけり。知らぬうちとて、黙思逍遙の好地と思ひしところ、この物語を聞きてよりは、
自からに足をそのあたりに向けずなりにき。かの地に住みし時この文を作らず、却つて今の
菴にうつりて之を書くは、わが悲悼の念のかしこにては余りに強かりければなり。思へば世には不思議なるほどに
酸鼻のこともあるものかな。
(明治二十五年十一月)