まづ祝すべきは
市谷の詩人が俗嘲を顧みずして、この新らしき題目を歌ひたることなり。
残花道人
嘗つて桂川を渡る、期は夜なり、風は少しく雨を
交ゆ、「
昨日も
今日も
五月雨に、ふりくらしたる頃なれど」とあるを見れば梅雨の頃かとぞ思ふ。「霧たちこめし水の
面に、二ツの光りてらすなり、友におくれし螢火か、はた亡き魂かあはれ/\」と一面惨絶の光景を画きて、先づ幽魂の迷執をうつす。それより情死の事由を
列ね、更に一転してその苦痛と応報とを
陳ぶ。「あやなき闇に
凄然じや、
閻羅と見ゆる夏木立」。之より一回転して虚実の中に出没し、視るところのものゝ心裡を写出する一節絶筆なり。
「こゝは処も桂川」、最前の起句を再用して、「造化の筆はいまもなほ、悲惨の景色うつしいで、我はた
冥府の人なりき」といふ末句の如き、千鈞の重ありと云ふべし。これより急調に眼を過ぐるものを言ひ、「三ツ四ツおちし村雨は、つゝみかねたる
誰が涙かな」にて結び、更に「
玉鉾の道は小暗し、たどりゆく繩手はほそし、松風の
筧の音も、身にしみていとうらかなし、」と巧麗婉艶の筆を以て、行路の詩人の沈痛なる同情を醒起す。これより漸く佳境に進みて「影なる人のかたる」を言ひ、或は
平瀉、或は急奔、遂に「われらが罪をゆるせかし、
犠牲となりしは愛のため」にて全篇を結べり。余は残花氏の巧妙と幽思、この篇にて尽くるを見る、明治の韻文壇、斯かる佳品を出すもの果して幾個かあらむ。
試に余をして簡約に情死に就きて余が見るところを言はしめよ。
人の世に生るや、一の約束を抱きて来れり。人に愛せらるゝ事と、人を愛する事之なり。造化は生物を理するに一の法を設けたり、禽獣鱗介に至るまで、
自からこの法に洩るゝ事なし。之ありて万物活情あり、之ありて世界変化あり、他ならず、心性上に於ける引力之なり。人はこの引力の持主にして、彼の約束の
捺印者なり。
余今ま村舎に宿して一面の好画を見たり。雄鶏は外に出でゝ食をもとめ、雌鶏は巣に留りて雛を温む。
孵りて後僅かに半月、或は母鶏の背に
升り、或は羽をくゞりて自から隠る、この間言ふ可からざるの妙趣ありて余を驚破せり。細かに万物を見れば、情なきものあらず。造化の摂理
愕ろくべきものあり。
或は
劣情と呼び、或は
聖情と
称ふ、何を以て劣と聖との別をなす、何が故に一は劣にして、一は聖なる、若し人間の細小なる眼界を離れて、造化の広濶なる妙機を
窺えば、
孰を聖と呼び、
孰れを劣と
称ぶを
容るさむ。
濫りに道法を劃出して、この境を出づれば劣なり、この界を入れば聖なりと言ふは何事ぞ。
情の素たるや一なり、之を運ぶ器と機の異なるに因つて聖劣を分たんとす。世間の道義は之に対して声を励まして正邪を論ず、何ぞ
迂なるの甚しき。文化は人に被らすに数葉の皮を以てす、之を着ざれば即ち曰く、破徳なりと。むしろ
蕃野の真朴にして、情を包むに色を以てせざるに
如かんや。
人の中に二種の相背反せる性あり、一は
研磨したるもの、一は蕃野なるもの、「徳」と云ひ、「善」と云ひ、「潔」と云ひ、「聖」といふ、是等のものは研磨の後に来る、而して別に「情」の如き、「慾」の如き、是等のものは常に裸躰ならんことを慕ひて、
縦に繋禁を脱せんことを願ふ。この二性は人間の心の野にありて、常に相戦ふなり。
電火は人を
戮ろすと謂ふ。然り、
渠は魔物なり。然れども少しく造化の理を探れ、自からに電火の起らざるべからざるものあるを悟れ、天の気と地の気と、相会せざる可からざるものあるを察せよ。自然界に於て
猶此事あり、人間の心界何ぞ常に
静謐なるものならんや。風雨
軈かに到り、迅雷忽ち
轟ろく光景は心界の奇幻、之を見て直ちに繩墨の則を当て、是非の判別を下さんとするは、
豈達士の為すところならんや。
人は常に或度に於て何物かの犠牲たり。
能く何物にも犠牲たらざるものは、人間として何の佳趣をも備へざる者なり。何を以て犠牲たる、何が故に犠牲たるを甘んずるを得るや、美いかな人間の情、好むべきかな人間の心、友の為に身を苦しめ、親の為めに心を痛め、而して自ら甘心し、真実何の悔恨なきを得るは、豈に
讃むべき事にあらずや。「
自己」といふ柱に
憑りかゝりて、われ安し、われ楽しと喜悦するものゝ心は、常に枯木なり、花は
茲に咲かず、実は茲に熟せず。情は一種の電気なり、之あるが故に人は能く活動す。時に或は愁雲恨雨の中に暴然鳴吼をなし、
霹靂一声人眼を愕ろかすことあるも、亦た止むべからず。花なき花は之なり、実なき実は是なり。情死軽んずべからず。
「世の中に絶えて心中なかりせば、二世のちぎりもなからまじ」(旅中、本書を携へず、或は誤字あらん)、と「冥土の飛脚」に言はせたる
巣林子、われその濃情を愛す。人の誠意は情によりて始めて見るべし。沈静は元より沈静の味あり、然れども熱意も亦た、熱意の味あるにあらずや。熱意は人を誠実に駆り、誠実は往々にして人を破却に
逐ふ、破却
素より
悪むべし、然れども破却の中に誠実あり、人死して誠実残る、愛の妙相は之なり、「真玉白玉、
種類あれど、愛に
易ふべき物はなし」、と
市谷の詩人
大に若くなれり。
よしや幻想に欺かるゝ事ありとも、二人が間には一点の
詐偽なく、一粒の疑念なし、二にして一、一にして二、斯の如く相抱て水に投ず。死する時楽境にあるが如く、濁水も亦た甘露を味ふに似たり、万事斯くして了れば、残るものははしたなき世の浮名のみ。浮名も何ぞや。
嗚呼罪なり、然り、罪なり、然れども凡そ世間の罪にして斯の如く純聖なる罪ありや。死は罰なり、然り、罰なり、然れども世間の罰にして斯の如く甘美なる罰ありや。嗚呼狂なり、然り、狂なり、然れども世間の狂にして斯の如く真面目なる狂ありや。幻と呼び夢と呼ぶも理あれど、斯の如く真実なる幻と夢とは、人間の容易に味ひ得ざるところ。之を以てわれは情死を
憫れむ事切なり。
義理人情に感ずること多きもの、情死の主人となること多きは、巣林子の戯曲之を証せり。捉ふるものは義理人情、逃ぐるに怯ならず、避くるに卑しからず、死を以て之を
償ふ、滅を以て之を補ふ、情死は勇気ある卑怯者の処為なり、是を大胆なる無情漢に比すれば如何ぞや。
「そも愛といひ恋といふ、ふかき
意を世の人は、さら/\くまず氷より、霜より冷えしそのこゝろ」、と残花氏の妙句味ひ多しと言ふべし。請ふ、去つて再び「桂川」の一篇を読め、巣林子以後図らずも「情死」は友人を法界の人に得たりけり。
(明治二十六年七月)