ミルトンは
情熱を以て大詩人の一要素としたり。深幽と
清楚とを備へたるは少なからず、然れどもまことの情熱を具有するは大詩人にあらずんば期すべからず。サタイアをもユーモアをも適宜に備ふるものは多くあれど、情熱を欠くが故に真正の詩人たらざるもの
挙て数ふべからず。情熱なきサタイアリストの筆は、諷刺の半面を完備すれども、人間の実相を刻むこと難し。ボルテーアとスウ※
[#小書き片仮名ヰ、160-下-7]フトの偉大なるは、その諷刺の偉大なるに非ずして、其情熱の
熾烈なるものあればなり。ユーモリストに到りては
自ら其趣を異にすれども、之とても亦た隠約の間に情熱を有するにあらざれば、戯言戯語の
価直を越ゆること能はざるべし。
然はあれども尤も多く情熱の必要を認むるはトラゼヂーに於てあるべし。シユレーゲルも悲曲の要素は熱意なりと論じられぬ。熱意、情熱
畢竟するに其
素たるや一なり。情熱を欠きたる聖浄は自から講壇より起る乾燥の声の如く、美術のヱボルーシヨンには
適ひ難し。情熱を欠きたる純潔は自から無邪気なる記載に止りて、
将た又た詩的の変化を現じ難し。情熱を欠きたる深幽は自からアンニヒレーチーブにして、物に触れて響なく、深淵の
泓澄たる妙趣はあれども、巨瀑空に懸つて岩石震動するの詩趣あらず。
凡そ美術の壮快を極むるもの、荘厳を極むるもの、優美を極むるもの、必らず其の根底に於て情熱を具有せざるべからず。内に
欝悖するところのものありて、而して外に異粉ある光線を放つべし、情熱はすべてこのものに奇異なる洗礼を施すものなり、特種の進化を与ふるものなり、「神聖」といふ語、「純潔」といふ語などに、無量の味ある
所以のものは畢竟或度までは比較的のものにして、情熱と
纏繋するに始まりて、情熱の最後の洗礼によりて、終に殆んど絶対的の奇観を呈す。
詩人は人類を
無差別に批判するものなり、「神聖」も、「純潔」も或一定の尺度を以て測量すべきものにあらず、
何処までも
活きたる人間として観察すべきものなり、「時」と「塲所」とに
涯られて、或る宗教の
形に
拘はり、或る道義の
式に
泥みて人生を批判するは、詩人の忌むべき事なり。人生の活相を観ずるには極めて平静なる活眼を以てせざるべからず。
写実は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たるや、自から其の注目するところに異同あり、或は
殊更に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は特更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実に偏りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも
覚束なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭ふものにあらず、然れども卑野なる目的に因つて立てる写実は、好美のものと言ふべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすの弊を免れ難し。
若し夫れ写実と理想と兼ね備へたるものに至りては、情熱なくして如何に其の妙趣に達するを得べけんや。
情熱は
思の反対なり、情熱は
執なり、
放にあらず。凡そ情熱のあるところには必らず
執るところあり、故に大なる詩人には必らず一種の信仰あり、必らず一種の宗教あり、必らず一種の神学あり、ホーマーに於て
希臘古神の精を見る、シヱーキスピーアに於て英国中古の信仰を見る、西行に於て西行の宗教あり、芭蕉に於て芭蕉の宗教あり、唯だ俗眼を以て之を視ること能はざるは、
凡ての儀式と凡ての形式とを離れて立てる宗教なればなり。彼等の宗教的観念は具躰的なるを得ざるも、之を以て宗教なしと言ふは、宗教の何物たるを知らざる論者の見なり。人類に対する濃厚なる同情は、以て宗教の一部分と名づく可からざるか。人類の為に沈痛なる批判を下して反省を促がすは、以て宗教の一部分と名く可からざるか。トラゼヂーも以て宗教たるを得べく、コメデーも以て宗教たるを得べし。然れども誤解すること
勿れ、吾人は彼の無暗に宗教と文学を混同して、その具躰的の形式に
箝めんとまでに意気込みたる主義に
左袒するものにあらず。
宗教(余が謂ふ所の)は情熱を興すに就いて疑ひなく一大要素ならずんばあらず。是非と善悪とを弁別するに最大の力を持てる宗教なかつせば、寧ろブルータルなる情熱を得ることあるとも、優と聖と美とを備へたる情熱は之を期すべからず、宗教的本能は人心の最奥を貫きて、純乎たる高等進化をすべての観念に施すものなり。あはれむべき利己の精神によつて
偸生する人間を覚醒して、物類相愛の妙理を観ぜしめ、人類相互の関係を悟らしむるもの、宗教の力にあらずして何ぞや。
茲に宗教あり、而して後に
高尚なる情熱あり、宗教的本能を離れざる情熱が美術の上に、異妙のヱボルーシヨンを与ふるの力、
豈軽んずべけんや。
いかに深遠なる哲理を含めりとも、情熱なきの詩は
活きたる美術を成し難し。いかに技の上に精巧を極むるものと
雖、若し情熱を欠けるものあれば、丹青の妙趣を尽せるものと云ふべからず。美術に余情あるは、その作者に裡面の活気あればなり、余情は
徒爾に得らるべきものならず、作者の情熱が自からに
湛積するところに於て、余情の源泉を存す。単純なる摸倣者が人を動かすこと能はざるは、之を以てなり。大なる創作は大なる情熱に伴ふものなり、創作と摸倣、畢竟するに、情熱の有無を以て判ずべし、然り、丹青家が無意味なる造化の摸倣を以て事とし、
只管に
虚譫をのみ心とするは、
抑も情熱を解せざるの過ちなり。
顧みて明治の作家を
屈ふるに、真に情熱の趣を具ふるもの果して之を求め得べきや。露伴に於て多少は之を見る、然れども彼の情熱は彼の信仰(宗教?)によりて幾分か常に冷却せられつゝあるなり。彼は情熱を余りある程に持ちながら、一種の寂滅的思想を以て之を
減毀しつゝあるなり。彼がトラゼヂーの大作を成さゞるは、他にも原因あるべけれど、主として此理あればなるべし。紅葉の情熱は宗教と共に歩まず、常に
実際と相追随するものなり、故に彼は世相に対する濃厚なる同情を有すると雖、其の著作の何とやら技の妙に偏して、想の霊に及ばざるは寧ろ情熱の真ならざるに因するにあらずとせんや。美妙に於ては
殆情熱と
名くべきものあるを認めず。舒事家としては知らず、写実家としての彼の技倆は紅葉に及ぶべからず。湖処子を崇拝する人々にして
荐りに彼の純潔を言ふ者あるは好し、然れども余は彼の純潔が情熱の洗礼を受けたるものにあらざるを信ずるが故に、美しき純潔なりと言ふを許さず。嵯峨のやにおもしろき情熱あるは実なり、然れども彼の情熱は寧ろ田舎法師の情熱にして、大詩人の情熱を離るゝこと遠しと言ふべし。頃日古藤庵の悲曲続出するや、読者
孰れも何となく奇異の観をなすと覚ゆ、要するに古藤庵の情熱、
自から従来の作者に異るところあればなるべし、悲曲としての価値は
兎も
角も、吾人は其の情熱を以て多く得難きものと認めざるを得ず。斎藤緑雨におもしろき情熱あるは彼の小説を一見しても看破し得るところなれど、
憾むらくはその情熱の素たる自から卑野なるを免かれず、彼の如く諷刺の舌を有する作者にして、彼の如く野賤の情熱をもてるは惜しむべき至りなり、彼をして一年間も露伴の書斎に
籠もらしめばやと外目には心配せらるゝなり。今日の作家が病はその情熱の欠乏に基づくところ多く、人間観に厳粛と
真贄とを今日の作家に見る能はざるもの、
職として之に因せずんばあらず。好愛すべきシンプリシチーと愛憐すべきデリケーシーとを見る能はざるも、職として之に因せずんばあらず。若し日本の固有の宗教を解剖して情熱と相関するところを発見するを得ば、文学史上に愉快なる研究なるべけれども、之れ余が今日の業にあらず、
聊か記して識者に問ふのみ。
(明治二十六年九月)