「歌念仏」を読みて

北村透谷




 巣林子さうりんしの世話戯曲十中の八九は主人公ヒロインを遊廓内に取れり、其清潔なる境地より取り来りたる者は甚だ少数なるうちに「お夏清十郎歌念仏」は傑作として知られたり。余は「歌念仏」を愛読するのあまり、其女主人公に就きて感じたるところをありまゝに筆にせんとするのみ。し巣林子著作の細評を聴かんとする者あらば、逍遙先生又は篁村くわうそん翁がもとへ行かるべし、余豈巣林子を評すと言はんや。
 中の巻の発端に「かゝる親には似ぬ娘、お夏は深きぬれゆゑに、菩提ごゝろと意地ばりて、嫁入もせいものび/\の」………と書出かきいだして、お夏に既に恋ある事を示せり、しかれども背ものび/\といふところにて、親々の眼には極めて処女をとめらしく見ゆる事を知らせたり。清十郎(即ちお夏の情人こひゞと)が大坂より戻り来りたる事を次に出して、「目と目を合はする二人ふたりなか、無事な顔見て嬉いと、心に心を言はせたり」と有処あるところにて、更に両人の情愛の秘密を示せり。
 しかるに清十郎が沓脱くつぬぎに腰をかけて奥のかたの嫁入支度を見て、平気にて「ハアヽ余所よそには嫁入が有さうな云々しか/″\」と言ひしときにお夏が「又ねすり言ばつかり、おんなじ口で可愛やと云ふ事がならぬか、意地のわるい」と言ふ言葉を聞けば、お夏は既に処女にあらずして莫連者ばくれんもの蓮葉者はすはもののいたづらあがりの語気を吐けり。読んでお夏が「我もむろで育ちし故、母方が悪いの、傾城けいせいの風があるのとて、何処の嫁にも嫌はるゝ、これぞい事幸ひと、なほ女郎の風を似せ」と云ひ出るに至りては、お夏が無邪気なる意気地と怜悧れいりなる恋の智慧を見るに足るべし、「あの立野たちの阿呆顔あはうづら敷銀しきがねに目がくれて、嫁にとらうといやらしい」といふ一段に至りては、彼の恋愛の一徹にして処女らしきところを蔽ふあたはず。
 二人の情通露見したる時に、朋輩勘十郎の奸策かんさく同時に落ち来りて、清十郎が布子ぬのこ一枚にて追払はるゝ段より、お夏の愛情は一種の神韻を帯び来れり。清十郎の胸のうちには恋の因果といふ猛火もえしきりて、主従の縁きるゝ神のとがめを浩歎かうたんして、七苦八苦の地獄に顛堕てんだしたるを、お夏のかたにては唯だ熾熱しねつせる愛情とゆべからざる同情あるのみ。ひそかに部屋の戸を開きて外にいづれば悽惻せいそくとして情人未だ去らず、泣いて遠国につれよとくどく時に、清十郎は親方のなさけにしがらまれて得いらへず、然るを女の狂愛の甚しきにかされて、遂にその誘惑に従はんと決心するまでに至りし頃、うちより人の騒ぎいでたるに驚かされてやみぬ。美術の上にて言ふ時は、お夏のこの時の底から根からの恋慾は、巧に穿うがち得たるところなるべし。
 清十郎の追払れたりし時には未だ分別のちまたには迷はざりしものを、このお夏の狂愛に魅せられし後の彼は、早や気は転乱し、仕損しそこなふたら浮世は闇、跡先見えぬ出来心にて、勘十郎と思ひ誤りてほかの朋輩なる源十郎を刺殺したるも、恋故の闇に迷へばこそ。清十郎既に人を殺して勘十郎の見出すところとなり、家の内外うちそと大騒擾おほさうぜうとなりたる時にお夏は狂乱したり、其狂乱は次の如き霊妙の筆に描出せらる。
「あれお夏/\と呼ぶわいの、おう/\其所にか、どこにぞ、いや/\いや待て暫し、あれは我屋わがやに父の声、我を尋ねて我を呼ぶ、親もゆかしや、つまも恋しや、父は子をよぶ夜の鶴、我はつまよぶ野辺の雉子きじ」又下の巻に入りて「さこいと云ふ字を金紗きんしやで縫はせ」より以下「向ひ通るは清十郎ぢやないか、笠がよく似た、菅笠すげがさが、よく似た笠が、笠がよく似た菅笠がえ。笠を案内しるべの物狂ひ」の一節。「なう/\あれなる御僧ごそうわが殿御かへしてたべ、何処いづくへつれて行く事ぞ、男返してたべなう、いや御僧とは空目そらめかや」の一節。「尋ぬる夫の容形なりかたち、姿は詞に語るとも、心は筆も及びなき、ぼんじやりとしてきつとして、花橘の袖の香に」以下の一節などは、いかにもヲフヱリヤが狂ひに狂ひし歌に比べて多くはぢず。「フオースト」のマーガレツトが其をつとの去りたるあとに心狂はしく歌ひ出でたる「我が心は重し、我平和は失せたり」の霊妙なる歌にくらべても、まで劣るべしとは思はれず。
 疑ひもなく「お夏」は巣林子の想中より生みいだせる女主人公中にて尤も自然に近き者なり、又た尤も美妙なる霊韻に富める者なり。梅川の如き、小春の如き、お房の如き、小万の如き、皆是れ或一種の屈曲を経てりたる恋にあらざるはなし、男の情を釣りたる上にて釣られたる者にあらざるはなし、或事情と境遇の圧迫にあひて、心中する迄深く契りたるにあらざるはなし、然に此篇のお夏は、主人の娘として下僕かぼくに情を寄せ、其情ははじめ肉情センシユアルに起りたるにせよ、のちいたりて立派なる情愛アツフヱクシヨンにうつり、はてきはめて神聖なる恋愛ラブに迄進みぬ。
 著者は元よりフオーストの如き哲学的生産の男主人公を作る可き戯曲家にはあらざりし。然れども清十郎の品格を※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)さがきたれば、忠兵衛、平兵衛、治兵衛、其他の如き暗迷の資性とは趣きを異にするところ多し、お夏の口にて言はせたる「姿は詞に語るとも、心は筆も及びなき」にて、既にその高品のなる事を示し、追ひ払はれたる後に後悔の言葉、または末段の「虚言いつはりを云ふまじと、毎朝まいてう天道氏神を祈りしかども、若き者の悲しさは、只今非業にしなんとは思ひも寄らず」より以下、句々妙味あり、述懐に於て其人品の異凡なる事を示せり。左ればお夏が愛情のおのづからに霊韻を含むやうになるも自然の結果にて、作者の用意浅しと云ふ可からず。
 余は此篇をて巣林子が恋愛に対する理想の極高なるものと言はんと欲す。世に恋愛なるものゝ全く抽き去るを得て、すべて神聖なる宗教的思想の統御に帰する事あらば、恋愛のことを談ぜざるもよし、いやしくも恋愛が人生の一大秘鑰ひやくたる以上は、其素性の高潔なるところより出で、その成行の自然に近かるべきは、文学上に於て希望せざるを得ざる一大要件なり。
 そもそも恋愛は凡ての愛情の初めなり、親子の愛より朋友の愛にいたるまで、およそ愛情の名を荷ふべき者にして恋愛の根基より起らざるものはなし、進んで上天に達すべき浄愛までもこの恋愛と関聯すること多く、人間の運命の主要なる部分までもこの男女の恋愛に因縁すること少なからず。左れば文人の恋愛に対するや、すべからく厳粛なる思想をて其美妙を発揮するをつとむべく、苟くも卑野なる、軽佻けいてうなる、浮薄なる心情を以て写描することなかるべし。
 高尚なる意あるものには恋愛の必要特に多し、そは其心に打ち消す可からざる弱性と不満足と常に宿り居ればなり、恋愛なるものはこの弱性をれうじ、この不満足をいやさんが為に天より賜はりたる至大の恩恵にして、男女が互に劣情をほしいまゝにする禽獣的慾情とは品異れり。プラトーの言へりし如く、恋愛は地下のものにはあらざるなり、天上より地下にくだりたる神使の如きものなることを記憶せよ。野外に逍遙して芬郁ふんいくたる花香をかぐときに、其花の在るところに至らんと願ふは自然の情なり、其花に達する時に之を摘み取りて胸に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさまんとするも亦た自然の情なり、この情は底なき湖の如くに、一種の自然界の元素と呼ぶより外はなかるべし、之を打つとも破るべからず、之を鋳るともけいすべからず、之を抜き去らんとするもくすべからず、宇宙の存すると共に存する一種の霊界の原素にあらずして何ぞや。
 恋愛は詩人の一生の重荷なり、之を説明せんが為に五十年の生涯は不足なり、然れども詩人と名の付きたる人は必らずこの恋愛の幾部分かを解得げとくしたるものなり。而して恋愛の本性をつまびらかにするは、古今の大詩人中にても少数の人能く之を為せり、美は到底説明し尽くすべからざるものにして、恋愛のうちに含める美も、到底説明しえらるまでには到ること能はず、然れども詩人の職は説明にのみ限るにあらずして、説明すべからざる者をその儘に写し出るも亦た詩人の職なれば、詩のしんに入りたる詩人の為すところは、説明に力をめずして、かへつて写実に精をらすにありき。
 写実とは云へども、世の所謂実際派の為すごとく、人間の獣慾を惟一ゆゐいつの目的として描出するのいひにあらず、人間に不完全の認識あるよりして、何物かを得て之をつぐなはんとの慾望は天地間自然の理なれば、此慾望の一転して他の美妙なる位地に思慕を生ずる実情を描写するを、詩人の本領とは云ふなり。バイロンがうたひし如く、己の冷々たる胸に温熱を生じ、己れの頑剛なる質をやはらげて、優柔なる性情を与ふるもの、即ちこの不完全が多少完全になされしちようなり、これを為すもの恋愛の妙力にあらずして何ぞ。
「ロメオ・アンド・ジユリヱット」の著者は、何が故にロメオが欝樹叢中に彷徨はうくわうしたりしやを記せず。彼は唯だロメオに自然なる一種の思慕ある事を顕はすに甘んじたり、一種の思慕とは即ち前に言ひし一種の原素なり、彼は此原素を説明せずして、この原素を写実したり。「ハムレット」の著者は明らかに人々をしてハムレットの恋愛に狂へる者なることを言はしめ、其ヲフヱリヤとの問答に就きて之を確かめんとはせしめたり。これもロメオを書きし恋愛に対する極致と趣を一にして、唯だ是にては他におほいなる不完全不調子の実現を備へたる点に於て異なるのみ。「フオースト」の著者が其主人公をしてマーガレットに近づかしめ、一瞬時に愛情を湧出せしめて、従前の不完全なる観想の大結局を恋愛の中にべたるなど、恋愛の不可抜なる大原素なることを認むるにあらずんば能はざるところとす。
 日本文学史を観じ来れば恋愛に対する理想、余をして痛歎せしむるもの多し。別して巣林子の著作のうちに恋愛の恋愛らしきもの甚だすくなきを悲しまざるを得ず。けだし其のこゝに到らしめしもの諸種の原因あるべし。万有教の教理寂滅の宗教思想より来れる関係、支那文学史との関係、気候風土より発生せる色情の悪風、其他区々あるべしと思はるれど、かく事実として、肉情より愛情に入り愛情より恋愛に移ることを記する著作の多きこと、疑ふ可からず。生命あり希望あり永遠あるの恋愛は、到底万有教国に求むることを得ざるか、そも/\いつかは之を得るに至るべきか、我邦わがくに文学の為に杞憂なき能はず。
「歌念仏」は巣林子の著作中、恋愛を自然なる境地にめて写実したるものゝ上々なる事は、余のひそかに自から信ずるところなるが、自然は即ち自然にてあれど、何の生命もなく何の希望もなく、其初めは肉情に起し、其終りを愛情の埋没に切りて、「よし是も夢の戯れ」と清十郎に悟らせしめたるを見ては、仏教を恨むより外なきなり。文学の極衰極盛を言ふもの、今に之れありと聞く、余は極衰論者に其極衰のいはれを聞かんことを願ひ、極盛論者に其極盛のことわりをきかん事を望む、我邦未来の文学をいかにせばや。
(この論、きはめて不熟なり、編輯期日に迫りて再考のいとまあらず、読者乞ふ之を諒せよ。)
(明治二十五年六月)





底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「女學雜誌 三二一號」女學雜誌社
   1892(明治25)年6月18日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2008年1月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について