人生は戦争の歴史なり。刀鎗銃剣は戦争にあらず。人生即ち是れ戦争。世を殺せし者必らずしも虚栄に
傲る勝利者のみにはあらじ、力ある者は力なき者を殺し、
権ある者は権なき者を殺し、智ある者は智なき者を殺し、
業ある者は業なき者を殺し、世は陰晴常ならず、
殺戮の奇巧なるものに至つては、晴天白日の
下に巨万の民を殺しつゝあるなり。銃鳴り剣閃めき、戦血地を染め、
腥風草樹を
槁らすの時に、戦争の現状を見る、
然れども肉眼の達せざるところ、常識の及ばざるところに、閃々たる剣火は絶ゆる時なきなり。
人の性は不調子なり、人の命は不規律なり、争ふ事を好むは
猿猴よりも多く、満足する事
能はざるは空の鳥に学ばざる可からざるが如し、是非曲直を論ずれども、我利の為に立論するの外を知らず、正邪真偽を説けども、遂に成覚の
見を養ひし事なし、知らず、人間の運命
遂にいかならむ。再び猿猴に返らんとするか。
われ庭鳥の食を争ふを見る、而して争ふ時には常に
少者の逃走するを見る、少者は母鶏の尤も愛する者なり、
而して慾の即時に於ては、尤も愛する者も尤も
悪む者となり、最後、尤も劣れるもの、尤も敗るゝ者となる。これ天則か。天則果して
斯の如く偏曲なる可きか。請ふ、
行いて生活の敗者に問へ、
新堀あたりの九尺二間には、
迂濶なる哲学者に勝れる説明を為すもの多かるべし。
冷淡なる社界論者は言ふ、勝敗は即ち社界分業の結果なり、彼等の敗るゝは敗るべきの理ありて敗れ、他の勝者の勝つは勝つべきの理ありて勝つなり、怠慢、失錯、魯鈍、無策等は敗滅の基なり、勤勉、力行、智策兼備なるは栄達の始めなりと。
われは信ぜず、天地の経綸はひとり社界経済の手にあるを。見ずや、栄達の
中にも苦悩あるを、敗滅の中にも希望あるを。栄達必らずしも勝つにあらず、敗滅必らずしも敗るゝにあらず、王侯の第宅必らずしも福神を宿すところなるにあらず、茅舎の中、寒燈の下、至大なる清栄を感謝するものもあるなり。
今日のみ
凡ての問題の立論点ならば知らず、昨日を知り、又た明日を知るを得ば、勝敗が今日の貧富貴賤を以て断ず可からざる事は明白ならむ。
社界経済の外に吾人を経綸する者あり、吾人は分業の結果を以て甘心する事能はざるの性を有す、吾人は遂に希望を以て生命とするの外あらざるなり。
今日は吾人の永久にあらず。
今日は吾人の明日にあらず、
言を換へて解けば、吾人は今日の為に生きず、明日の為に生くるなり、明日は即ち永遠の始めにして、明日といへる希望は即ち永遠の希望なり。希望は吾人に
囁きて曰ふ、世は
如何に不調子なりとも、世は如何に不公平、不平等なりとも、世は如何に戦争の
娑婆なりとも、別に一貫せるコンシステント(調実)なる者あり。人生のいかに
紛糾せるにも
拘らず、金星は飛んで地球の上に堕ちざるなり、彗星は駆けつて太陽の光りを争はざるなり。大宇宙に純一なるコンシステンシイあるは、流星の時に地上に乱堕するを以て疑ふに足らざるなり。江海の水溢れて天に注ぐ事なく、泰山の土長く地上に
住まることを知らば、地上にも
亦たコンシステンシイの争ふ可からざる者あるを悟らざらめや。何をか調実の物と言ふ、マホメット説けり、釈氏説けり、真如と呼び、真理と称へ、東西の哲学者が説明を試みて
止ざる者即ち
是なり。而して吾人は之を基督といふ。基督にありて吾人は調実を求め、基督にありて吾人は宇宙の経綸を知る。ナザレのイヱスは真理を説きたるにあらず、真理にして真理を発顕したる者なり。
基督の経綸には社界分業の法則あらざるなり。社界経済は人間の労苦より起りて、
弥縫の策に過ぎず、彼と此とを或仮説の法則の下に、定限ある時間の間撞突なからしむるのみ。経済上の問題として世を経営するは寸時の方策のみ。基督の経綸は永遠なり。未来あらず、現在あらず、過去あらざるなり。凡ての未来、凡ての現在、凡ての過去は彼に於て一時のみ。もし天地間、
調実なるものひとり彼ありとせば、心を
虚うして彼の経綸策を講ずる者、
豈智ならずや。
吾人は聞けり、基督は愛なりと。
吾人は聞けり、基督は今も生けりと。
吾人は聞けり、基督は凡ての人類と共にありと。
凡ての人類と共にあり、限りなきの
生命を以て限りなきの愛を有する者、基督なりとせば、天地の事、豈
一の愛を以て経綸すべしとなさゞらんや。紛糾せる人生もし吾人をも紛糾の中に埋了し去らば、吾人も亦た
※血[#「月+(「亶」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)」、80-上-23]を
被ぶるの運を甘んずべし、然れども希望の影吾人を離れざる間は、理想の鈴胸の中に鳴ることの止まざる間は、吾人は基督の経綸を待つに楽しきなり。
博愛は人生に於ける天国の光芒なり、人生の戦争に対する仲裁の密使なり、彼は
美姫なり、この世の美くしさにあらず、天国の美くしさなり、死にも笑ひ、生にも笑ふ事を得る美姫なれども、相争ひ相傷くる者に遭ひては、
万斛の紅涙を惜しまざる者なり。味方の為に泣かず、敵の為に笑はず、天地に敵といふ観念なく、味方といふ思想あらざるなり。基督が世に
遣れる政治家は即ち彼なり。
世は相戦ふ、人は相争ふ、戦ふに尽くる期あるか。争ふに終る時あるか。殺す者は殺さるゝ者となり、殺さるゝ者は
再た殺す者となる。勝と敗と誰れか之を決する。シイザルの勝利、
拿翁の勝利、指を屈すれば幾十年に過ぎず、これも亦た蝴蝶の夢か。誰れか最後の勝利者たる、誰れか永久の勝利者たる。
不調実にして戦争の泉源なりとせば、調実は平和の始めなり。争はず戦はざる事を得るはひとり調実なりとせば、
終に勝たず終に敗れざる者、ひとり調実のみならむ。終に勝たず終に敗れざる者は、真に勝つものにあらざるを得んや。故に曰く、最後の勝利者は調実なりと。調実、言を換ゆれば真理、再言すれば基督。
来れ、共に基督の旗に
簇まらむ。われら最後の勝利者に従ひ、以てわれらの紛糾せる戦争の舞台を撤去せむ。平和は、われらが基督にありて領有する最後の武器なり。
(明治二十五年五月)