第八章
一
「もう半蔵も
王滝から帰りそうなものだぞ。」
吉左衛門は隠居の身ながら、
忰半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ
馬籠本陣の裏二階を降りた。彼の習慣として、ちょっとそこいらを見回りに行くにも質素な
平袴ぐらいは着けた。それに下男の佐吉が手造りにした
藁草履をはき、病後はとかく半身の回復もおそかったところから
杖を手放せなかった。
そういう吉左衛門も、代を
跡目相続の半蔵に譲り、
庄屋本陣
問屋の三役を退いてから、半年の余になる。前の年、
文久二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて
木曾路を通過した
長州侯をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の
諏訪に三日も
逗留を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂
[#「大坂」は底本では「大阪」]、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の
痲疹が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の
除けようもないと聞いては、年寄役の
伏見屋金兵衛なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、
忰の留守に
問屋場の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
当時、将軍
家茂は京都の方へ行ったぎりいまだに
還御のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。
種々な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の
母屋の方へ向いた。
「やあ、
例幣使さま。」
母屋の
囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ
膳に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、
正己は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして
御飯を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも
草鞋ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。
「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい。」
と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集まっているものは皆笑った。
吉左衛門の孫たちも大きくなった。お
粂は八歳、宗太は六歳、三番目の正己が三歳にもなる。どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上るかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。道中で
人足をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の
大嵐にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。
公卿、
大僧正をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が
金の御幣を奉じてねり込んで来て、最近にこの馬籠の宿でも二十両からの
祝儀金をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵が王滝の方へ行っている留守の時だった。
吉左衛門は広い炉ばたから
寛ぎの
間の方へ行って見た。そこは半蔵が清助を相手に
庄屋本陣の事務を見る
部屋にあててある。
「万事は半蔵の量見一つでやるがいい――おれはもう一切、口を出すまいから。」
これは吉左衛門が退役の当時に半蔵に残した言葉で、隠居してからもその心に変わりはなかった。今さら、彼は家のことに口を出すつもりは
毛頭なかった。ただ、半蔵の仕事部屋を見回るだけに満足した。
店座敷の方へも行って見た。以前の大火に枯れた老樹の跡へは、枝ぶりのおもしろい松の
樹が山から移し植えられ、白い大きな
蕾を持つ
牡丹がまた焼け跡から新しい芽を吹き出している。半蔵の好きなものだ。「
松が
枝」とは、その庭の
植樹から思いついて、半蔵が自分の歌稿の題としているくらいだ。しかしそれらの庭にあるものよりも、店座敷の床の間に積み重ねてある書物が吉左衛門の目についた。そこには
本居派や平田派の古学に関したいろいろな本が置いてある。あの平田
篤胤と同郷で、その影響を受けたとも言われる
佐藤信淵が勧農に関する著述なぞも置いてある。
吉左衛門はひとり言って見た。
「これだ。相変わらず半蔵はこういう方に凝っていると見えるなあ。」
まだ朝のうちのことで、毎日手伝いに
通って来る清助も顔を見せない。吉左衛門はその足で
母屋の入り口から表庭を通って、門の外に出て見た。早く馬籠を立つ上り下りの旅人以外には、街道を通る人もまだそれほど多くない。宿場の活動は道路を清潔にすることから始められるような時であった。
将軍の
上洛以来、この街道を通行する諸大名諸公役なぞの警衛もにわかに厳重になった。その年の日光例幣使は高百五十石の
公卿であるが、八
挺の鉄砲を先に立て、二頭の騎馬に
護られて、おりからの強雨の中を
発って行ったといううわさを残した。公儀より一頭、
水戸藩より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あとになってそれが尾州藩よりの警衛とわかった。皇室と徳川
霊廟とを結びつけるはずの使者が、公武合体の役には立たないで、あべこべにそれをぶち
壊して歩くのもあの一行だった。さすがに憎まれ者の例幣使のことで、八挺の鉄砲と二頭の騎馬とで、その身を
護ることを考えねばならなくなったのだ。
毎月上半期を半蔵の家の方で、下半期を
九太夫方で交替に開く
問屋場は、ちょうどこちらの順番に当たっていた。吉左衛門の足はその方へ向いた。そこには
書役という形で新たにはいった
亀屋栄吉が早く出勤していて、小使いの男と
二人でそこいらを片づけている。栄吉は吉左衛門が実家を相続しているもので、吉左衛門の
甥にあたり、半蔵とは
従兄弟同志の間柄にあたる。問屋としての半蔵の仕事を手伝わせるために、わざわざ吉左衛門が見立てたのもこの栄吉だ。
「
叔父さん、早いじゃありませんか。」
「あゝ。もう半蔵も帰りそうなものだと思って、ちょっとそこいらを見回りに来たよ。だいぶ荷もたまってるようだね。」
「それですか。それは福島行きの荷です。けさはまだ峠の牛が降りて来ません。」
栄吉は問屋場の
御改め
所になっている小さい高台のところへ来て、その上に手を置き、吉左衛門はまたその前の
羽目板に身を寄せ、
蹴込みのところに立ったままで、敷居の上と下とで言葉をかわしていた。吉左衛門のつもりでは、退職後の問屋の帳面にも一応は目を通し、半蔵の勤めぶりに安心の行くかどうかを確かめて、青山親子が職業に怠りのあるとは言われたくないためであった。でも、彼はすぐにそんなことを言い出しかねて、栄吉の方から言い出すいろいろな問屋場の近況に耳を傾けていた。
「
大旦那、店座敷(ここは宿役人の詰め所をさす)の方でお茶を一つお上がり。まだ役人衆はどなたも見えていませんから。」
と小使いの男が言う。吉左衛門はそれをきッかけに、
砂利で堅めた土間を通って、宿役人の詰め所の上がり
端の方へ行って腰掛けた。そこは会所と呼んでいるところで、伏見屋、
桝田屋、
蓬莱屋、梅屋とこの四人の年寄役のほかに、今一軒の問屋
九郎兵衛なぞが事あるごとに相談に集まる場所だ。吉左衛門はその上がり端のところに
杖を置いて、腰掛けたままで茶を飲んだ。それから
甥の方へ声をかけた。
「栄吉、問屋場の帳面をここへ見せてくれないか。ちょっとおれは調べたいことがある。」
その時、栄吉は
助郷の人馬数を書き上げた
日〆帳なぞをそこへ取り出して来た。吉左衛門も隠居の身で、駅路のことに口を出そうでもない。ただ彼はその大切な帳簿を繰って見て、半蔵の
認め方に目を通すというだけに満足した。
「
叔父さん、街道の風儀も悪くなって来ましたね。」と栄吉は言って見せる。「なんでもこの節は力ずくで行こうとする。こないだも九太夫さんの家の方へ来て、人足の出し方がおそいと言って、問屋場であばれた侍がありましたぜ。ひどいやつもあるものですね。その侍は土足のままで、問屋場の台の上へ飛びあがりましたぜ。そこに九郎兵衛さんがいました。あの人も見ていられませんから、いきなりその侍を台の上から突き落としたそうです。さあ、
怒るまいことか、
先方は刀に手を掛けるから、九郎兵衛さんがあの大きなからだでそこへ飛びおりて、
斬れるものなら斬って見るがいいと言ったそうですよ。ちょうど表には大名の
駕籠が待っていました。大名は騒ぎを聞きつけて、ようやくその侍を取りしずめたそうですがね。どうして、この節は油断ができません。」
「そう言えば、十万石につき
一人ずつとか、諸藩の武士が京都の方へ勤めるようになったと聞くが、
真実だろうか。」
「その話はわたしも聞きました。」
「
参覲交代の御変革以来だよ。あの御変革は、どこまで及んで行くか見当がつかない。」
こんな話をしたあとで、吉左衛門は思わず時を送ったというふうに腰を持ちあげた。問屋場からの出がけにも、彼は出入り口の障子の開いたところから
板廂のかげを通して、心深げに旧暦四月の街道の空をながめた。そして栄吉の方を顧みて言った。
「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。」
吉左衛門の心配は、半蔵が親友の
二人までも京都の方へ飛び出して行ったことであった。あの中津川本陣の景蔵や、新問屋
和泉屋の香蔵のあとを追って、もし半蔵が家出をするような日を迎えたら。その
懸念から、年老いた吉左衛門は思い沈みながら、やがて自分の隠居所の方へ非常に静かに歩いて行った。彼がその裏二階に上るころには、おまんも
母屋の方から
夫を見に来た。
「いや、朝のうちは問屋場も静かさ。栄吉が出勤しているだけで、まだ役人衆はだれも見えなかった。」
吉左衛門はおまんの見ているところで
袴の
紐を解いて、先代の隠居半六の時代からある古い
襖の前を歩き回った。先年の
馬籠の大火にもその隠居所は焼け残って、筆者不明の大書をはりつけた襖の文字も吉左衛門には慰みの一つとなっている。
「もうそれでも半蔵も帰って来ていいころだぞ。」と彼は妻に言った。「この節は街道がごたごたして来て、栄吉も心配している。町ではいろいろなことを言う人があるようだね。」
「半蔵のことですか。」とおまんも夫の顔をながめる。
「あれは本陣の日記なぞを欠かさずつけているだろうか。」
「さあ。わたしもそれで気がついたことがありますよ。あれの日記が机の上にありましたから、あけるつもりもなくあけて見ました。あなたがよく本陣の日記をつけたように、半蔵も家を引き受けた当座は、だれが福島から来て泊まったとか、お材木方を湯舟沢へ御案内したとか、そういうことが細かくつけてありましたよ。だんだんあとの方になると、お天気のことしか書いてない日があります。晴。曇。晴。曇。そんな日の七日も八日も続いたところがありましたっけ。」
「それだ。無器用に生まれついて来たのは
性分でしかたがないとしても、もうすこしあれには経済の才をくれたい。」
茶のみ友だちともいうべき夫婦は、古風な
煙草盆を間に置いて、いろいろと子の前途を心配し出した。その時、おまんは長い
羅宇の
煙管で一服吸いつけて、
「こないだからわたしも言おう言おうと思っていましたが、半蔵のうわさを聞いて見ると残念でなりません。あの金兵衛さんなぞですら、馬籠の本陣や問屋が半蔵に勤まるかッて、そう思って見ているようですよ。」
「そりゃ、お前、それくらいのことはおれだって考える。だから清助さんというものを入れ、栄吉にも来てもらって、清助さんには庄屋と本陣、栄吉には問屋の仕事を手伝わせるようにしたさ。あの二人がついてるもの、これが普通の時世なら、半蔵にだって勤まらんことはない。」
「えゝ、そりゃそうです――土台ができているんですから。」
「あのお友だちを見てもわかる。中津川の本陣の
子息に、新問屋の和泉屋の子息――二人とも本陣や問屋の仕事をおッぽりだして行ってしまった。」
「あれで半蔵も、よっぽど努めてはいるようです。わたしにはそれがよくわかる。なにしろ、あなた、お友だちが二人とも京都の方でしょう。半蔵もたまらなくなったら、いつ家を飛び出して行くかしれません。」
「そこだて。金兵衛さんなぞに言わせると、おれが半蔵に学問を勧めたのが
大失策だ、学問は実に恐ろしいものだッて、そう言うんさ。でも、おれは自分で自分の学問の足りないことをよく知ってるからね。せめて半蔵には学ばせたい、青山の家から学問のある庄屋を一人出すのは悪くない、その考えでやらせて見た。いつのまにかあれは平田先生に心を寄せてしまった。そりゃ何も試みだ。あれが平田入門を言い出した時にも、おれは止めはしなかった。学問で身代をつぶそうと、その人その人の持って生まれて来るようなもので、こいつばかりはどうすることもできない。おれに言わせると、人間の仕事は一代限りのもので、親の経験を子にくれたいと言ったところで、だれもそれをもらったものがない。おれも街道のことには骨を折って見たが、半蔵は半蔵で、また新規まき直しだ。考えて見ると、あれも気の毒なほどむずかしい時に生まれ合わせて来たものさね。」
「まあ、そう心配してもきりがありません。清助さんでも呼んで、よく相談してごらんなすったら。」
「そうしようか。京都の方へでも飛び出して行くことだけは、半蔵にも思いとどまってもらうんだね。今は家なぞを顧みているような、そんな時じゃないなんて、あれのお友だちは言うかもしれないがね。」
裏二階の下を通る人の足音がした。おまんはそれを聞きつけて障子の外に出て見た。
「佐吉か。隠居所でお茶がはいりますから、清助さんにお話に来てくださるようにッて、そう言っておくれよ。」
清助を待つ間、吉左衛門はすこし横になった。わずかの時を見つけても、からだを横にして休み休みするのが病後の彼の癖のようになっている。
「
枕。」
とおまんが気をきかして古風な昼寝用の箱枕を夫に勧める間もなく、清助は木曾風な
軽袗をはいて
梯子段を上って来た。本陣大事と勤め顔な清助を見ると、吉左衛門はむっくり起き直って、また半蔵のうわさをはじめるほど元気づいた。
「清助さん、今
旦那と二人で半蔵のことを話していたところですよ。旦那も心配しておいでですからね。」とおまんが言う。
「その事ですか。大旦那の御用と言えば、将棋のお相手ときまってるのに、それにしては時刻が早過ぎるが、と思ってやって来ましたよ。」
清助は快活に笑って、青々と
剃っている毛深い
腮の辺をなでた。二間続いた隠居所の二階で、おまんが茶の用意なぞをする間に、吉左衛門はこう切り出した。
「まあ、清助さん、その
座蒲団でもお敷き。」
「いや、はや、どうも理屈屋がそろっていて、どこの宿場も同じことでしょうが苦情が絶えませんよ。大旦那のように黙って見ていてくださるといいけれども、金兵衛さんなぞは世話を焼いてえらい。」
「あれで、半蔵のやり方が間違ってるとでも言うのかな。」
「大旦那の前ですが、お師匠さまの家としてだれも御本陣に指をさすものはありません。そりゃこの村で読み書きのできるものはみんな半蔵さまのおかげですからね。宿場の問題となると、それがやかましい。たとえばですね、問屋場へお出入りの牛でも以前はもっとかわいがってくだすった、初めて参った牛なぞより荷物も早く出してくだすったし、
駄賃なぞも
御贔屓にあずかった、半蔵さまはもっとお出入りの牛をかわいがってくだすってもいい。そういうことを言うんです。」
「そいつは初耳だ。」
「それから、
宿の
伝馬役と在の
助郷とはわけが違う、半蔵さまはもっと宿の伝馬役をいばらせてくだすってもいい。そういうことを言うんです。ああいう半蔵さまの気性をよく承知していながら、そのいばりたい連中が何を話しているかと思って聞いて見ると――いったい、
伊那から出て来る人足なぞにあんなに目をかけてやったところで、あの手合いはありがたいともなんとも思っていやしない。そりゃ中には宿場へ働きに来て泊まる晩にも、
※遣[#「くさかんむり/稾」、18-3]いをするとか、読み書き算術を覚えるとか、そういう心がけのよいものがなくはない。しかし近ごろは助郷の風儀が一般に悪くなって、
博打はうつ、問屋で払った
駄賃も何も飲んでしまって、村へ帰るとお定まりの愁訴だ――やれ人を牛馬のようにこき使うの、駄賃もろくに渡さないの、なんのッて、大げさなことばかり。半蔵さまはすこしもそれを御存じないんだ。そういうことを言うんです。大旦那の時分はよかったなんて、寄るとさわるとそんなうわさばかり……」
「待ってくれ。そう言われると、おれが宿場の世話をした時分には、なんだか
依怙贔屓でもしたように聞こえる。」
「大旦那、まあ、聞いてください。半蔵さまはよく参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言うでしょう。町のものに聞いて見ると、宿場がさびれて来たら、みんなどうして食えるかなんて、そういうことも言うんです。」
「そこだて。半蔵だって心配はしているんさ。この街道の盛衰にかかわることをだれだって、心配しないものがあるかよ。こう御公役の諸大名の往来が
頻繁になって来ては、
継立てに難渋するし、人馬も疲れるばかりだ。よいにも悪いにもこういう時世になって来た。だから、参覲交代のような儀式ばった御通行はそういつまで保存のできるものでもないというあれの意見なんだろう。
妻籠の
寿平次もその説らしい。ちょっと考えると、どの街道も同じことで、往還の交通が頻繁にあれば、それだけ宿場に金が落ちるわけだから、大きな御通行なぞは多いほどよさそうなものだが、そこが東海道あたりとわれわれの地方とすこし違うところさ。木曾のように人馬を多く徴発されるところじゃ、問屋場がやりきれない。事情を知らないものはそうは思うまいが、木曾十一宿の庄屋仲間が相談して、なるべく大きな御通行は東海道を通るようにッて、奉行所へ嘆願した例もあるよ。おれは
昔者だから、参覲交代を保存したい方なんだが、しかし半蔵や寿平次の意見にも一理屈あるとは思うね。」
「そういうこともありましょう。しかし、わたしに言わせると、
九太夫さんたちはどこまでも江戸を主にしていますし、半蔵さまはまた、京都を主にしています。九太夫さんたちと半蔵さまとは、てんで頭が違います。諸大名は京都の方へ朝参するのが本筋だ、そういうことは
旧い宿場のものは考えないんです。」
「だんだんお前の話を聞いて見ると、おれも思い当たることがある。つまり、おれの家じゃ問屋を商売とは考えていない。親代々の家柄で、町方のものも在の百姓もみんな自分の子のように思ってる。半蔵だって、本陣問屋を名誉職としか思っていまい。おれの家の歴史を考えて見てくれると、それがわかる。こういう山の上に発達した宿場というものは、百姓の気分と町人の気分とが
混り合っていて、なかなかどうして治めにくいところがあるよ。」
「だいぶお話に身が入るようですね。」
と言いながら、おまんは軽く笑って、次ぎの間から茶道具を運んで来た。隠居所で沸かした湯加減のよい茶を夫にも清助にもすすめ、自分でも飲んで、話の仲間に加わった。
「なんでも、」とおまんは思い出したように、「神葬祭の一条で、半蔵が九太夫さんとやりやったことがあるそうじゃありませんか。あれから九太夫さんの家では、とかく半蔵の評判がよくないとか聞きましたよ。」
「そんなことはありません。」と清助は言った。「九太夫さんはどう思っているか知りませんが、
九郎兵衛さんにかぎって決してそんなことはありません。そりゃだれがなんと言ったって、お
父さんのためにお山へ
参籠までして、御全快を
祷りに行くようなことは、半蔵さまでなけりゃできないことです。」
「いえ、その点はおれも感心してるがね。なんと言うか、こう、まるで子供のようなところが半蔵にはあるよ。あれでもうすこし細かいところにも気がつくようだと、宿場の世話もよく届くかと思うんだが。」
「そりゃ、大旦那、街道へ日があたって来たからと言って、すぐに
傘をひろげて出す金兵衛さんのような細かさは、半蔵さまにはありません。」
「金兵衛さんの言い草がいいじゃないか。半蔵に問屋場を預けて置くのは、米の値を知らない番人に米蔵を預けて置くようなものだとさ。あの人の言うことは鋭い。」
「まあ、栄吉さんも来てくれたものですし、そう大旦那のように御心配なすったものでもありません。見ていてください。半蔵さまだってなかなかやりますよ。」
「清助さん、」とその時、吉左衛門は相手の言うことをさえぎった。「この話はこのくらいにして、おれが一つ将棋のたとえを出すよ。お互いに好きな道だからね。
一歩ずつ進む
駒もある。一足飛びに飛ぶ駒もある。ある駒は飛ぶことはできても
一歩ずつ進むことは知らない。ある駒はまた、一歩ずつ進むことはできても飛ぶことは知らない。この街道に生まれて来る人間だって、そのとおりさ。一気に飛ぶこともできれば、一歩ずつ進むこともできるような、そんな駒はめったに生まれて来るもんじゃないね。」
「そうすると、大旦那、あの金兵衛さんなぞは、さしずめどういう駒でしょう。」
「将棋で言えば、成った駒だね。人間もあそこまで行けば、まあ、
成り
金と言ってよかろうね。」
「金兵衛さんだから、成り金ですか。大旦那の
洒落が出ましたね。」
聞いているおまんも笑い出した。そして二人の話を引き取って、「今ごろは半蔵も、どこかでくしゃみばかりしていましょうよ。将棋のことはわたしにはわかりませんが、半蔵にしても、お民にしても、あの夫婦はまだ若い。若い者のよいところは、先の見えないということだ、この節わたしはつくづくそう思って来ましたよ。」
「それだけおまんも年を取った証拠だ。」と吉左衛門が笑う。
「そうかもしれませんね。」と言ったあとで、おまんは調子を変えて、「あなた、一番肝心なことをあと回しにして、まだ清助さんに話さないじゃありませんか。ほら、あの半蔵のことだから、お友だちのあとを追って、京都の方へでも行きかねない。もしそんな様子が見えたら、清助さんにもよく気をつけていてもらうようにッて、さっきからそう言って心配しておいでじゃありませんか。」
「それさ。」と吉左衛門も言った。「おれも今、それを言い出そうと思っていたところさ。」
清助はうなずいた。
二
半蔵は
勝重を連れて、留守中のことを案じながら
王滝から急いで来た。
御嶽山麓の
禰宜の家から彼がもらい受けて来た里宮
参籠記念のお札、それから
神饌の白米なぞは父吉左衛門をよろこばせた。
留守中に届いた友人香蔵からの手紙が、
寛ぎの
間の机の上に半蔵を待っていた。それこそ彼が心にかかっていたもので、何よりもまず封を切って読もうとした京都
便りだ。はたして彼が想像したように、
洛中の風物の薄暗い空気に包まれていたことは、あの友だちが中津川から思って行ったようなものではないらしい。半蔵はいろいろなことを知った。友だちが世話になったと書いてよこした京都
麩屋町の染め物屋
伊勢久とは、先輩
暮田正香の口からも出た平田門人の
一人で、義気のある商人のことだということを知った。友だちが京都へはいると間もなく深い関係を結んだという
神祇職の
白川資訓卿とは、これまで多くの志士が
縉紳への
遊説の縁故をなした人で、その関係から長州藩、肥後藩、島原藩なぞの少壮な志士たちとも友だちが往来を始めることを知った。そればかりではない、あの
足利将軍らの木像の首を
三条河原に
晒したという示威事件に関係して縛に
就いた先輩
師岡正胤をはじめ、その他の平田同門の人たちはわずかに厳刑をまぬかれたというにとどまり、いずれも六年の幽囚を申し渡され、正香その人はすでに上田藩の方へお預けの身となっていることを知った。ことにその捕縛の当時正胤の二条
衣の
棚の家で、抵抗と格闘のあまりその場に
斬殺せられた二人の犠牲者を平田門人の中から出したということが、実際に京都の土を踏んで見た友だちの香蔵に強い衝動を与えたことを知った。
本陣の店座敷にはだれも人がいなかった。半蔵はその明るい障子のところへ香蔵からの京都便りを持って行って、そこで繰り返し読んで見た。
「あなた、景蔵さんからお手紙ですよ。」
お民が半蔵に手紙を渡しに来た。京都便りはあっちからもこっちからも半蔵のところへ届いた。
「お民、この手紙はだれが持って来たい。」
「中津川の
万屋から届けて来たんですよ。
安兵衛さんが京都の方へ
商法の用で行った時に、これを預かって来たそうですよ。」
その時お民は、御嶽参籠後の半蔵がそれほど疲れたらしい様子もないのに驚いたというふうで、夫の顔をながめた。「本陣鼻」と言われるほど大きく
肉厚な鼻の先へしわを寄せて笑うところから、静かな口もとまで、だんだん父親の吉左衛門に似て来るような夫の
容貌をながめて置いて、何やらいそがしげにそのそばを離れて行くのも彼女だ。
「お師匠さま、おくたぶれでしょう。」
と言って、勝重もそこへ半蔵の顔を見に来た。
「わたしはそれほどでもない。君は。」
「平気ですよ。
往きを思うと、帰りは実に楽でした。わたしもこれから
田楽を焼くお手伝いです。お師匠さまに食べさせたいッて、今
囲炉裏ばたでみんなが大騒ぎしているところです。」
「もう
山椒の芽が摘めるかねえ。王滝じゃまだ梅だったがねえ。」
勝重もそばを離れて行った。半蔵はお民の持って来た手紙を開いて見た。
もはやしばらく京都の方に滞在して国事に奔走し平田派の宣伝に努めている友人の景蔵は、半蔵から見れば兄のような人だった。割合に
年齢の近い香蔵に比べると、この人から受け取る手紙は文句からして落ち着いている。その
便りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった
石清水行幸の日のことがその中に報じてある。
景蔵の手紙はなかなかこまかい。それによると、今度の行幸については
種々な風説が起こったとある。
国事寄人として活動していた侍従中山
忠光は官位を朝廷に返上し、長州に脱走して
毛利真斎と称し、志士を
糾合して
鳳輦を途中に奪い奉る計画があるというような、そんな風説も伝わったとある。その流言に対して
会津方からでも出たものか、
八幡の行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に
苦々しいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん、町人百姓までこの行幸のために尽力守衛せよというような張り紙を三条大橋の
擬宝珠に張りつけたものがあって、役所の門前で
早速その張り紙は焼き捨てられたという。
石清水は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。
帝にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある
公卿たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため
洛外に
鳳輦を進められたという。将軍は病気、京都守護職の
松平容保も
忌服とあって、
名代の横山
常徳が当日の
供奉警衛に当たった。景蔵に言わせると、当時、
鱗形屋の
定飛脚から出たものとして諸方に伝わった
聞書なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、
「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。
一橋様御名代のところ、
攘夷の節刀を賜わる段にてお
遁げ。」
とある。この「お
遁げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは
叡覧のなかったのに、初めて
淀川の
滔々と流るるのを御覧になって、さまざまのことを
思し召され、
外夷親征なぞの
御艱難はいうまでもなく、国家のために軽々しく
龍体を危うくされ
給うまいと
慮らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、
紫宸殿の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと
認めてある。
聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には
飯田の在から京都に出ている松尾
多勢子(平田
鉄胤門人)のような近い
親戚の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には
想い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の
橋詰めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。
徳川家茂
「右は、先ごろ上洛後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終虚喝を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病を構え、一橋中納言においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守、岡部駿河守らをはじめ奸吏ども数多くこれありて、井伊掃部頭、安藤対馬守らの遺志をつぎ、賄賂をもって種々奸謀を行ない、実もって言語道断、不届きの至りなり。右は、天下こぞって誅戮を加うべきはずに候えども、大樹(家茂)においてはいまだ若年の儀にて、諸事奸吏どもの腹中より出で候おもむき相聞こえ、格別寛大の沙汰をもって、しばらく宥恕いたし候につき、速かに姦徒の罪状を糺明し、厳刑を加うべし。もし遅緩に及び候わば旬日を出でずして、ことごとく天誅を加うべきものなり。」
亥四月十七日
天下義士
この驚くべき張り紙――おそらく決死の覚悟をもって書かれたようなこの張り紙の発見されたことは、将軍家をして攘夷期限の公布を決意せしめるほどの力があったということを景蔵は書いてよこした。イギリスとの戦争は避けられないかもしれないとある。自分はもとより対外硬の意見で、時局がここまで切迫して来ては攘夷の実行もやむを得まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と称する人たちの多いにはうんざりする、ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。一、万石以上の面々ならびに交代寄合、その嫡子在国しかつ妻子国もとへ引き取り候とも勝手たるべき次第の旨、去々戌年仰せ出され、めいめい国もとへ引き取り候面々もこれあり候ところ、このたび御進発も遊ばされ候については、深き思し召しあらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。
このお触れ書の中に「御進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。