第八章
一
母刀自の枕屏風に
いやしきもたかきもなべて夢の世をうら安くこそ過ぐべかりけれ
花紅葉あはれと見つつはるあきを心のどけくたちかさねませ
おやのよもわがよも老をさそへども待たるるものは春にぞありける
新しく造った小屏風がある。娘お
粂がいる。長男の
宗太がいる。継母おまんは屏風の出来をほめながら、半蔵の書いたものにながめ入っている。そこいらには、いたずらざかりな三男の
森夫までが物めずらしそうにのぞきに来ている。
そこは
馬籠の半蔵の家だ。ただの住宅としてはもはや彼の家も広過ぎて、いたずらに修繕にのみ手がかかるところから、
旧い屋敷の一部は
妻籠本陣同様取り
崩して
桑畠にしたが、その際にも
亡き父
吉左衛門の隠居所だけはそっくり残して置いてある。おまんはその裏二階から桑畠のわきの細道を歩いて、食事のたびごとに
母屋の方へと
通って来ている。その年、明治六年の春はおまんもすでに六十五歳の老婦人であるが、吉左衛門を見送ってからは髪も切って、さびしい日を隠居所に送っているので、この継母を慰めるために半蔵は自作の歌を紙に書きつけ、それを
自意匠の屏風に造らせたのであった。高さ二尺あまりほどのものである。
杉柾の緑と白い紙の色との調和も、簡素を愛する彼の好みをあらわしていた。これを裏二階のすみにでも置いて戸障子のすきまから来る風のふせぎとしてもよし、
風邪にでも冒された日の枕もとに置いて
訪う人もない時の友としてもよし、こんな彼の言葉も継母をよろこばせるのであった。
ちょうど、お民も
妻籠の
生家の方へ出かけてまだ帰って来ない時である。半蔵のそばへ来て祖母たちと一緒に屏風の出来をいろいろに言って見るお粂も、もはや物に感じやすい娘ざかりの年ごろに達している。彼女は、母よりも父を多くうけついだ方で、その
風俗なぞも嫁入り前の若さとしてはひどく地味づくりであるが、
襟のところには娘らしい紅梅の色をのぞかせ、それがまた彼女によく似合って見えた。彼女はまた、こうした父の意匠したものなぞにことのほかのおもしろみを見つける娘で、これを父が書く時にも、そのそばに来て墨をすろうと言い、紙にむかって筆を持った父の手から彼女の目を放さなかったくらいだ。もともとこの娘の幼い時分から親の取りきめて置いた
許嫁を破約に導いたのも、一切のものを根から
覆すような時節の到来したためであり、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかないからというのであって、
旧い約束事なぞは大小となく皆押し流された。小さな彼女の
生命が言いあらわしがたい打撃をこうむったのも、その時であった。でも、彼女はそうしおれてばかりいるわけでもない。祖母のためにと父の造った屏風なぞができて見ると、彼女はその
深傷の底からたち直ろうとして努めるもののごとく平素の調子に帰って、娘らしい笑い声で父の心までも軽くさせる。
実に久しぶりで、半蔵は家のものと一緒にこんな時を送った。かねて長いこと心がけたあげくにできた隠居所向きの小屏風のそばなぞにわずかの休息の時を見つけるすら、彼にはめずらしいことであった。二月のはじめ以来、彼がその
懐に
筑摩県庁あての嘆願書の草稿を入れた時から、あちこちの奔走をつづけていて、ほとんど家をかえりみる
暇もなかったような人である。この奔走が半蔵にとって容易でなかったというは、戸長(旧
庄屋の改称)としての彼が遠からずやって来る地租改正を眼前に見て、助役相手にとかくはかの行かない地券調べのようなめんどうな仕事を控えているからであった。一方にはまた、学事掛りとしても、村の万福寺の横手に仮校舎の普請の落成するまで、さしあたり寺内を仮教場にあて、従来寺小屋を開いていた
松雲和尚を相手にして、できるだけ村の子供の世話もしなければならないからであった。子弟の教育は年来の彼のこころざしであったが、まだ設備万端整わなかった。そういう彼は事を好んでこんな奔走をはじめたわけではない。これまで庄屋で本陣問屋を兼ねるくらいのところは
荒蕪を切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違なく、三百年の
宿村の世話と街道の維持とに任じて来たのも、そういう彼らである。いよいよ従来の旧習を葬り去るような大きな革新の波が上にも下にも押し寄せて来た時、彼らもまた父祖伝来の家業から離れねばならなかったが、その際、報いらるることの少ない彼らの中には、もっと強く出てもいいと言い出したものがあり、この改革に不平を
抱いて、謹慎閉門の厳罰に処せられた庄屋問屋も少なくなかったくらいであるが、しかし半蔵なぞはそういう古い事に
拘泥すべき場合でないとして、いさぎよく自分らをあと回しにしたというのも、決して
他ではない。あの東征軍が江戸城に達する前日を期して、陛下が全国人民に五つのお言葉を誓われたことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。あのお言葉こそすべてであった。ところが、地方の官吏にその人を得ないため、せっかくの
御誓文の趣旨にも添いがたいようなことが、こんな山の中に住むものの目の前にまで起こって来た。それは
木曾川上流の沿岸から奥筋へかけての多数の住民の死活にもかかわり、ただ一地方の問題としてのみ片づけてしまえないことであった。それが山林事件だ。
二
「海辺の住民は今日漁業と採塩とによって衣食すると同じように、山間居住の小民にもまた樹木鳥獣の利をもって渡世を営ませたい。いずこの海辺にも漁業と採塩とに御停止と申すことはない。もっとも、海辺に殺生禁断の場処があるように、山中にも
留山というものは立て置かれてある。しかし、それ以外の
明山にも、この山中には
御停止木ととなえて、伐採を禁じられて来た無数の樹木のあるのは、恐れながら庶民を子とする御政道にもあるまじき儀と察したてまつる。」
これは木曾谷三十三か村の総代十五名のものが連署して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件とは、この海辺との比較にも言って見せてあるように、最初は割合に単純な性質のものであった。従来
尾州領であったこの地方では、すべてにわたり同藩保護の下に発達して来たようなもので、各村とも
榑木御切替えととなえて、年々の補助金を同藩より受け、なお、補助の目的で隣国
美濃の大井村その他の尾州藩管下の村々から輸入されて来る米の代価も、金壱両につき
年貢金納値段よりも五升安の割合で、それも翌年の十二月中に代金を返済すればいいほどの格別な取り扱いを受けて来た。いよいよ廃藩置県が実現され、一藩かぎりで立てて置いた制度もすべて改革される日が来て見ると、明治四年を最後としてこれらの補助を廃止する旨の名古屋県からの通知があり、おまけに簡易省略の西洋流儀に移った交通事情の深い影響をうけて、木曾路を往来する旅人からも以前のようには土地を潤してもらえなくなった。この事情を当局者にくんでもらって、今度の改革を機会に
享保以前の
古に復し、木曾谷中の
御停止木を解き、山林なしには生きられないこの地方の人民を救い出してほしい。これが最初の嘆願書の趣意であった。その起草にも半蔵が当たった。彼らがこれを持ち出したのは、木曾地方もまさに名古屋県の手を離れようとしたころで、当時は民政
権判事としての土屋総蔵もまだ在職したが、ちょうど名古屋へ出かけた留守の時であった。そこでこの願書は
磯部弥五六が取り次ぎ、
岩田市右衛門お預かりということになった。いずれ土屋
権大属帰庁の上で評議にも及ぶであろう、それまではまずまず預かり置く、そんな話で、
王滝、
贄川、
藪原の三か村から出た総代と共に、半蔵は福島出張所から引き取って来た。もし土屋総蔵のような理解のある人に今すこしその職にとどまる時を与えたらと、谷中の戸長仲間でそれを言わないものはなかった。不幸にも、総蔵は筑摩県の官吏らに一切を引き渡し、前途百年の計をあとから来るものに託して置いて、多くの村民に惜しまれながらこの谷を去った。
木曾地方が筑摩県の管轄に移されたのは、それから間もなくであった。明治五年の二月には松本を所在地とする新しい県庁からの申し渡し、ならびに
布令書なるものが、早くもこの谷中へ伝達されるようになった。とりあえず半蔵らはその
請書を
認め、ついでにこの地方の人民が松本辺の
豊饒な地とも異なり深山幽谷の間に居住するもののみであることを断わり、
宿場全盛の時代を過ぎた今日となっては、茶屋、
旅籠屋をはじめ、
小商人、近在の
炭薪等を
賄うものまでが必至の困窮に陥るから、この上は山林の利をもって渡世を営む助けとしたいものであると、その請書を出す時には御停止木のことに触れ置いてあった。当時の
信濃の国は長野県と筑摩県との二つに分かれ、筑摩県の管轄区域は
伊那の谷から
飛騨地方にまで及んでいた。本庁所在地松本以外の支庁も
飯田と
高山とにしか取り設けてなかったほどの草創の時で、てんで木曾福島あたりにはまだ支庁も置かれなかった。遠い村々から松本までは二十里、三十里である。何事を本庁に届けるにもその道を踏まねばならぬ。それだけでも人民疾苦の種である。半蔵らの請書はその事にも言い及んであった。東北戦争以来、すでにそのころは四年の月日を過ぎ、一藩かぎりの制度も改革されて、徳川旧幕府の人たちですら心あるものは皆待ち受けていた新たな郡県の時代が来た。これは山間居住の民にとっても見のがせない機会であったのだ。
もともとこの山林事件は明治初年にはじまった問題でもなく、実は旧領主と人民との間に続いた長い紛争の種で、御停止木のことは木曾谷第一の苦痛であるとされていた。こんなに明治になってまた
活き返って来たというのも決して偶然ではない。それは宿村の行き詰まりによることはもちろんであるが、一つには明治もまだその早いころで、あらゆるものに復古の機運が動いていたからであった。当時、深い
草叢の中にあるものまでが時節の到来を感じ、よりよい世の中を約束するような新しい政治を待ち受けた。従来の
陋習を破って天地の公道に基づくべしと仰せ出された御誓文の深さは、どれほどの希望を多くの民に
抱かせたことか。半蔵らが山林に目をつけ、今さらのように豊富な
檜木、
椹、
明檜、
高野槇、それから
※[#「木+鑞のつくり」、13-1]などの繁茂する森林地帯の深さに驚き、それらのみずみずしい五木がみな享保年代からの御停止木であるにも驚き、そこに疲弊した宿村の救いを見いだそうとしたことは無理だったろうか。彼らが復古のできると思った証拠には、最初の嘆願書にも御誓文の中の言葉を引いて、厚い慈悲を請う意味のことを書き出したのでもわかる。やがて、筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、
権中属の本山盛徳が主任の官吏として木曾の村々へ派出される日を迎えて見ると、この人はまた以前の土屋総蔵なぞとは打って変わった態度をとった。もしも人民の請いをいれ、木曾山を解き放ち、制度を享保以前の古に復し、これまで
明山ととなえて来た分は諸木何品に限らず百姓どもの必要に応じて
伐り採ることを許したなら、せっかく尾州藩で保護して来た
鬱蒼とした森林はたちまち
禿山に変わるであろうとの先入主となった疑念にでも
囚われたものか、本山盛徳は御停止木の解禁なぞはもってのほかであるとなし、木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をもあわせすべて官有地と心得よとの
旨を口達した。この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところはことごとく官有地なりとされ、従来の慣例いかんにかかわらず、官有林に編入せられることになる。これには人民一同
狼狽してしまった。
過ぐる月日の間、半蔵はあちこちの村々から
腰縄付きで引き立てられて行く不幸な百姓どもを見て暮らした。人民入るべからずの官有林にはいって、盗伐の厳禁を犯すものが続出した。これをその筋の人に言わせたら、規則の何たるをわきまえない無知と
魯鈍とから、村民自ら犯したことであって、さらに
寛恕すべきでないとされたであろう。
それにつけても、まだ半蔵には忘れることのできないずっと年若な時分の一つの記憶がある。馬籠村じゅうのものが吟味のかどで、かつて福島から来た役人に調べられたことがある。それは彼の本陣の家の門内で行なわれた。広い玄関の上段には、役人の
年寄、
用人、
書役などが居並び、式台のそばには
足軽が四人も控えた。村じゅうのものがそこへ呼び出された。六十一人もの村民が腰縄手錠で宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。七十歳以上の老年は手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは遺族の「お
叱り」ということにとどめられたが、それも特別の
憐憫をもってと言われたのも、またその時だ。そのころの半蔵はまだ十八歳の若さで、庭のすみの
梨の木のかげに隠れながらのぞき見をしていたために、父吉左衛門からしかられたことがある。そんなにたくさんなけが人を出したことも、村の歴史としてはかつて聞かなかったことだと父も言っていた。彼はあの役人たちが吟味のために村に入り込むといううわさでも伝わると、あわてて不用の材木を焼き捨てた村の人のあったことを
想い起こすことができる。「昔はこの木曾山の木一本
伐ると、首一つなかったものだぞ」なぞと言って、陣屋の役人から
威されたのもあの時代だ。それほど暗いと言わるる過去ですら、
明山は五木の伐採を禁じられていたにとどまる。その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を
跋渉して、雑木を伐採したり
薪炭の材料を集めたりすることができた。今になって見ると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もある。寒い地方に必要な薪炭ややせた土を
培うための芝草を得たいにも、近傍付近は皆官有地であるような場所もある。木曾谷の人民は最初からの嘆願を中止したわけでは、もとよりない。いかに本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則のお請けはできかねるというのが人民一同の言い分であった。耕地も少なく、農業も難渋で、生活の
資本を森林に仰ぎ、
檜木笠、めんぱ(
割籠)、お
六櫛の
類を造って渡世とするよりほかに今日暮らしようのない山村なぞでは、ほとんど毎戸かわるがわる腰縄付きで引き立てられて行くけが人を出すようなありさまになって来た。半蔵らが今一度嘆願書の提出を思い立ち、三十三か村の総代として直接に本県へとこころざすようになったのも、この郷里のありさまを見かねたからである。
この再度の奔走をはじめる前、半蔵のしたくはいろいろなことに費やされた。明治五年の二月に、彼は早くも筑摩県庁あて嘆願書の下書きを用意したが、いかに言っても郡県の政治は始まったばかりの時で、
種々な事情から差し出すことを果たさなかった。それからちょうど一年待った。明治六年の二月まで、彼は古来の沿革をたずねることや、古書類をさがすことに自分のしたくを向けた。ある村の
惣百姓中から他村の衆にあてた証文とか、ある村の庄屋
組頭から御奉行所に出した一札とか、あるいは四か村の五人組総代から隣村の百姓衆に与えた取り替え証文とかいうふうに。さがせばさがすほど、彼の手に入る材料は、この古い木曾山が自由林であったことを裏書きしないものはなかった。言って見れば、この地方の遠い
古は山にたよって
樵務を業とする
杣人、切り畑焼き畑を開いて
稗蕎麦等の雑穀を植える
山賤、あるいは馬を山林に放牧する人たちなぞが、あちこちの
谷間に煙を立てて住む世界であったろう。追い追いと人口も繁殖する中古のころになって、犬山の
石川備前守がこの地方の管領であった時に、谷中
村方の宅地と開墾地とには
定見取米、山地には
木租というものを課せられた。もとより米麦に乏しい土地だから、その定見取米も大豆や蕎麦や
稗などで納めさせられたが、年々おびただしい木租を運搬したり、川出ししたりする費用として、貢納の雑穀も春秋二度に人民へ給与せられたものである。さて、徳川治世のはじめになって、この谷では幕府直轄の代官を新しい主人公に迎えて見ると、それが山村氏の祖先であったが、諸事石川備前守の旧例によることには変わりはなかった。
慶長年代のころには定見取米を
御物成といい、木租を
御役榑という。名はどうあろうとも、その実は同じだ。この貢納の旧例こそは、何よりも雄弁に木曾谷山地の歴史を語り、一般人民が伐木と開墾とに制限のなかったことを証拠立てるものであった。もっとも、幕府では木租の中を
割いて、
白木六千
駄を木曾の人民に与え、白木五千駄を山村氏に与え、別に山村氏には東美濃地方に領地をも与えて、幕府に代わって東山道中要害の地たる木曾谷と福島の関所とを
護らせた。それより後、この谷はさらに尾州の大領主の手に移り、山村氏が幕府直轄を離れて名古屋の代官を承るようになって、尾州藩では山中の区域を定める方針を立てた。
巣山、
留山、
明山の区別は初めてその時にできた。巣山と留山とは絶対に人民のはいることを許さない。しかし明山は慶長年間より享保八年まで連綿として人民が木租を納め来たった場所であるからと言って、自由に
入山伐木を許し、なお、木租の上納を免ずる代償として、許可なしに五木を伐採することを禁じたのである。
こんな動かせない歴史がある。半蔵はそれらの事実から、さらにこの地方の真相を探り求めて、いわゆる木曾谷中の
御免檜物荷物なるものに突き当たった。父吉左衛門が彼に残して行った青山家の古帳にも、そのことは出ている。それは尾州藩でも幕府直轄時代からの意志を重んじ、年々山から伐り出す檜類のうち白木六千駄を谷中の百姓どもに与えるのをさす。それを御免荷物という。そのうちの三千駄は
檜物御手形ととなえて人民の用材に与え、残る三千駄は
御切替えととなえて、この分は追い追いと金に替えて与えた。彼が先祖の
一人の筆で、材木通用の跡を
記しつけた御免荷物の明細書によると、毎年二百駄ずつの檜、
椹の類は馬籠村民にも許されて来たことが、その古帳の中に明記してある。尾州藩ですらこのとおり、山間居住の容易でないことを察し、人民にわかち与えることを忘れなかった。郡県とも言わるる時代の上に立つものが改革の実をあげようとするなら、深くこの谷を注目し、もっと地方の事情にも通じて、生民の期待に添わねばなるまいと彼には思われた。
嘆願書はできた。二月はじめから四月まで、半蔵はあちこちの村を
訪ね回って、戸長らの意見をまとめることに砕心した。草稿の修正を求める。清書する。手を分けて十五人の総代の署名と調印とを求めに回る。いよいよ来たる五月十二日を期して、
贄川、
藪原、
王滝、
馬籠の四か村から出るものが一同に代わって本庁の方へ出頭するまでの大体の手はずをきめる。彼も心から汗が出た。この上は、
御嶽山麓の奥にある王滝村を訪ねさえすれば、それで一切の打ち合わせを終わるまでにこぎつけた。彼はそれを早く済まして来るつもりで、自分の村方の用事を取りかたづけ、学校の子供の世話は松雲和尚に頼み、今は妻の帰りを待って王滝の方へ出かけられるばかりになった。
こういう中で、彼は自分のそばへ来る娘の口から、ちょっと思いがけないことを聞きつけないでもなかった。
「お
父さん、おねがいですから、わたしもお供させて。」
そのこころは、父の行く寂しい奥山の方へ娘の足でもついて行かれないことはあるまいというにあるらしい。
これには半蔵も返事にこまった。いろいろにお
粂を言いなだめた。娘も妙なことを言うと彼は思ったが、あれもこれもと昼夜心を砕いた山林の問題が胸に繰り返されていて、お粂の方で言い出したことはあまり気にも留めなかった。
三
お民は
妻籠の
生家の話を持って、和助やお徳を連れながらそこへ帰って来た。
「お民、寿平次さんはなんと言っていたい。」
「木曾山のことですか。兄さんはなんですとさ、支庁のお役人がかわりでもしないうちはまずだめですとさ。」
「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」
半蔵夫婦はこんな言葉をかわしたぎり、ゆっくり話し合う時も持たない。妻籠
土産の
風呂敷包みが解かれ、これは宗太に、これは森夫にと、留守居していた子供たちをよろこばせるような物が取り出されると、一時家じゅうのものは妻籠の方のうわさで持ち切る。妻籠のおばあさんからお粂にと言って、お民は紙に包んだ美しい染め糸なぞを娘の前にも取り出す。お徳の背中からおろされた四男の和助はその皆の間をはい回った。
半蔵はすでに村の髪結い直次を呼び寄せ、伸びた
髭まで
剃らせて妻を待ち受けているところであった。
鈴の
屋の
翁以来、ゆかりの色の古代紫は平田派の国学者の間にもてはやされ、先師の著書もすべてその色の糸で
綴じられてあるくらいだが、彼半蔵もまたその色を愛して、直次の
梳いてくれたのを
総髪にゆわせ、好きな色の
紐を後ろの方に結びさげていた。吉左衛門の時代から出入りする直次は下女のお徳の父親に当たる。
「お民、おれは王滝の方へ出かけるんだぜ。」
それをみんなまで言わせないうちに、お民は夫の様子をみて取った。妻籠の兄を見て来た目で、まったく気質のちがった夫の顔をながめるのも彼女だ。その時、半蔵は店座敷の方へ行きかけて、
「おれは、いつでも出かけられるばかりにして、お前の帰りを待っていたところさ。お前の留守に、お
母さんの
枕屏風もできた。」
そういう彼とても、娘の縁談のことでわざわざ妻籠まで相談に行って来たお民と同じ心配を分けないではない。年ごろの娘を持つ母親の苦労はだれだって同じだと言いたげなお民の顔色を読まないでもない。まだお粂にあわない人は、うわさにだけ聞いて、どんなやせぎすな、きゃしゃな子かと想像するが、あって見て色白な
肥ったからだつきの娘であるには、思いのほかだとよく人に言われる。そのからだにも似合わないような
傷みやすい小さなたましいが彼女の
内部には宿っていた。お粂はそういう子だ。父祖伝来の問屋役廃止以来、本陣役廃止、庄屋役廃止と、あの三役の廃止がしきりに青山の家へ襲って来る時を迎えて見ると、女一生の大事ともいうべき親のさだめた
許嫁までが消えてゆくのを見た彼女は、年取った祖母たちのように平気でこの破壊の中にすわってはいられなかった子だ。伊那の南殿村、稲葉の家との今度の縁談がおまんの世話であるだけに、その祖母に対しても、お粂は
一言口出ししたこともない。半蔵らの目に映るお粂はただただひとり物思いに沈んでいる娘である。
ふと、半蔵は歩きながら思い出したように、店座敷の方へ通う廊下の板を
蹴った。机の上にも、床の間にも、古書類が積み重ねてある自分の
部屋へ行ってから、また彼は山林の問題を考えた。
「あれはああと、これはこうと。」
半蔵のひとり言だ。
隣家からは陰ながら今度の嘆願書提出のことを心配して
訪ねて来る伏見屋の伊之助があり、妻籠までお民が相談に行った話の様子も聞きたくて、その日の午後のうちには半蔵も馬籠を立てそうもなかった。伊之助は福島支庁の主任のやり口がどうも
腑に落ちないと言って、いろいろな質問を半蔵に出して見せた。たとえば、この村々に
檜類のあるところは人民の私有地たりともことごとく官有地に編み入れるとは。また、たとえば、しいてそれを人民が言い立てるなら山林から税を取るが、官有地にして置けばその税も出さずに済むとはの
類だ。
廃藩置県以来、一村一人ずつの
山守、および
留山見回りも廃されてから、伊之助もその役から離れて帯刀と雑用金とを返上し、今では自家の商業に隠れている。この人は支庁主任の処置を
苦々しく思うと言い、木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわることを黙って見ていられるはずもないが、自分一個としてはまずまず忍耐していたいと言って帰って行く。やがて、夕飯にはまだすこし間のあるころに、半蔵は妻と
二人ぎりで店座敷に話すことのできる時を見つけた。
「いや、お粂のやつが妙なことを言い出した。」
とその時、半蔵は娘のことをお民の前に持ち出した。彼はその言葉をついで、
「何さ。おれが王滝へ行くなら、あれも一緒に供をさせてくれと言うんさ。」
「まあ。」
「
御嶽里宮のことはあれも聞いて知ってるからね、何かお参りでもしたいようなあれの口ぶりさ。」
「そんな話はわたしにはしませんよ。」
「あれも思い直したんだろう。なんと言ってもお粂もまだ若いなあ。おれがあのお
父さんの病気を
祷りに行った時にも、
勝重さんが一緒について行くと言って困った。あの時もおれは清助さんに止められて、あんな若い人を一緒に
参籠に連れて行かれますかッて言われた。それでも勝重さんは行きたいと言うもんだから、しかたなしに連れて行った。懲りた。今度はおれ一人だ。それに娘なぞを連れて行く場合じゃない。ごらんな、十八やそこいらで、しかも女の足で、あんなお宮の方へ行かれるものかね。ばかなッて、おれはしかって置いたが。」
「まあ、嫁入り前のからだで、どうしてそんな気になるんでしょう。」
夫婦の間にはこんな話が出る。お民はわざわざ妻籠まで行って来た娘の縁談のことをそこへ言い出そうとして、幾度となく口ごもった。相談らしい相談もまとまらずじまいに帰って来たからであった。半蔵の方で聞きたいと思っていたことも、それについての妻籠の人たちの意見であるが、お民はまず
生家に着いた時のことから、あの妻籠旧本陣の表庭に手造りの染め糸を
乾していたおばあさんやお里を久しぶりに見た時のことからその話を始める。着いた日の晩に、和助を早く寝かしつけて置いて、それからおばあさんや兄や
嫂と集まったが、お粂のようすを
生家の人たちの耳に入れただけで、その晩はまだ何も言い出せなかったという話になる。「フム、フム。」と言って聞いていた半蔵は話の途中でお民の言葉をさえぎった。
「つまり、おばあさんたちはどう言うのかい。」
「まあ、兄さんの意見じゃ、この縁談はすこし時がかかり過ぎたと言うんですよ。もっとずんずん運んでしまうとよかったと言うんですよ。」
「いや、おれは今、そんなことを聞いてるんじゃない。つまり、どうすればいいかッて聞いてるんさ。」
「ですから、お里さんの言うには、まだ
御祝言には間もあることだし、そのうちにはお粂の気も変わるだろうから、もうすこし様子を見るがいいと言うんですよ。そうはっきりした考えがお粂の年ごろにあるもんじゃない。お里さんはその意見です。気に入った
小袖でも造ってくれてごらん、それが娘には何よりだッて、おばあさんも言っていました。」
そんな話から、お民は娘のためにどんな着物を選ぼうかの相談に移って行った。幸い京都
麩屋町の
伊勢久は年来懇意にする染め物屋であり、あそこの養子も注文取りに
美濃路を上って来るころであるから、それまでにあつらえる品をそろえて置きたいと言った。どんな染め模様を選んだら、娘にも似合って、すでに
結納の品々まで送って来ている南殿村の人たちによろこんでもらえるだろうかなぞの相談も出た。
「そういうこまかいことは、お
母さんやお前によろしく頼む。」
「あなたはそれだもの。なんにもあなたは相談してくださらない。」
「そんなお前のようなことを言ったって、おれだって、今――」
「そりゃ、あなたのいそがしいぐらい、知ってますよ。あなたのように一つ事に夢中になる人を責めたってしかたない。まあ、する事をしてください。お粂のしたくはお母さんと二人でよく相談します。あなたはいったい、わたしの話すことを聞いているんですか……」
それぎりお民は口をつぐんでしまって、半蔵のそばに畳を見つめたぎり、身動きもしなかった。長いこと夫婦は沈黙のままで相対していた。奥の
部屋の方に森夫らのけんかする声を聞きつけて、やっとお民はその座を立ち、自分の子供を見に行った。いつものように夕飯の時が来ると、家のもの一同広い囲炉裏ばたに集まったが、旧本陣時代からの習慣としてその囲炉裏ばたには家長から下男までの定められた席がある。子供らの食事する席にも
年齢の順がある。やがて隠居所から
通って来るおまんをはじめ、一日の小屋仕事を終わった下男の佐吉までがめいめいの
箱膳を前に控えると、あちらからもこちらからも
味噌汁の
椀なぞを給仕するお徳の方へ差し出す。お民は和助をそばに置いて、黙って食った。半蔵は継母の顔をながめ、姉娘のお粂が弟たちと並んでいる顔をながめ、それからお民の顔をながめて、これも黙って食った。その晩、彼は店座敷の方にいて、翌朝王滝へ出かけるしたくなぞしたが、ろくろく口もきかないでいるお民をどうすることもできなかった。実に
些細なことが人を
傷ませる。彼に言わせると、享保以前までの彼の先祖はみな無給で庄屋を勤めて来たくらいで、村の
肝煎とも百姓の親方とも呼ばれたものである。その家に生まれた
甲斐には、せめてこういう時の役に立ちたいものだとは、日ごろの彼の願いであって、あえておろそかにするつもりで妻子を顧みないではないのにと、彼はこれまで用意した嘆願書を筑摩県本庁の方へ持ち出しうる日のことを考えて、わずかに心を慰めようとした。木曾谷中に留山と明山との区別もなかった時分の木租のことを万一本庁の官吏から尋ねられた場合にはと、自分で自分に問うて見る。それに答えることは、そう困難でもなかった。ずっと以前の山地に
檜榑二十六万八千余
挺、
土居四千三百余
駄の木租を課せられた昔もあるが、しかもその木租のおびただしい運搬川出し等の費用として、人民の宅地その他の課税は差し引かれたも同様に給与せられたと答えることができた。その晩は、彼は香蔵からもらった手紙をも
枕もとに取り出し、あの同門の友人が書いてよこした東京の
便りを繰り返し読んで見たりなぞして、きげんの悪い妻のそばに寝た。
王滝行きの日は半蔵は早く起きて、
活きかえるような四月の朝の空気を吸った。お民もまたきげんを直しながら夫が出発のしたくを手伝うので、半蔵はそれに力を得た。彼は好きで読む歌書なぞを自分の
懐中へねじ込んだ。というは、戸長の勤めの身にもわずかの
閑を盗み、風雅に事寄せ、歌の友だちを
訪ねながら、この総代仲間の打ち合わせを果たそうとしたからであった。
「どうだ、お民。だれかに途中であって、どちらへなんて聞かれたら、おれはこの
懐中をたたいて見せる。」
と彼は妻に言って見せた。そういう彼は
袴を着け、筆を携え、腰に笛もさしていた。
「まあ、おもしろい格好だこと。」とお民は言って、そこへ飛んで来た娘にも軽々とした夫のみなりをさして見せて、「お粂、御覧な、お
父さんは笛を腰にさしてお出かけだよ。」
「はッ、はッ、はッ、はッ。」
半蔵は妻の手から
笠を受け取りながら笑った。
「お粂、王滝のお宮の方へ行ったら、お前の分もお参りして来てやるよ。」
との言葉を彼は娘にも残した。
したくはできた。そこで半蔵は
飄然と出かけた。戸長の旅費、一日十三銭の定めとは、ちょっと後世から見当もつかない諸物価のかけ離れていた時代だ。それも戸敷割でなしに、今度は彼が自分
賄いの小さな旅だった。馬籠から妻籠まで行って、彼はお民の
生家へ顔を出し、王滝行きの用件を寿平次にも含んで置いてもらって、さらに踏み慣れた街道を奥筋へと取った。妻籠あたりで見る木曾谷は山から伐り出す材木を
筏に組んで流す冬期の作業のための大切な場所の一つにも当たる。その辺まで行くと、薄濁りのした日も緑色にうつくしい木曾川の水が白い
花崗の岩に激したり、石を越えたりして、大森林の多い川上の方から瀬の音を立てながら
渦巻き流れて来ている。
四
「老先生へも久しくお
便りしない。」
野尻泊まりでまた街道を進んで行くうちに、半蔵はそんなことを胸に浮かべた。馬籠を立ってから二日目の午後のこと、街道を通る旅人もすくなくない。
猿を背中にのせた旅の芸人なぞは彼のそばを行き過ぎつつある。あくせくとしたその奔走の途中にふと彼は同門の人たちの方へ思いを
馳せ、師平田
鉄胤の周囲にある先輩らをも振り返って見た。木と木と重なり合う対岸の森の深さが、こちらの街道から見られるようなところだ。
「及ばずながら、自分も復古のために働いている。」
その考えが彼を励ました。彼も、師を忘れてはいなかった。
家に置いて来た娘お粂のことも心にかかりながら、半蔵はその足で木曾の
桟近くまで行った。そこは妻籠あたりのような
河原の広い地勢から見ると、ずっと谷の
狭まったところである。木曾路での水に近いところである。西よりする旅人は道路に迫った
崖に添い、湿っぽい坂を降りて行って、めずらしい草や
苔などのはえている岩壁の下の位置に一軒の休み茶屋を見いだす。半蔵もそこまで行って汗をふいた。偶然にも、通弁の男を連れ、荷物をつけた馬を茶屋の前に
停めて、半蔵のそばへ来て足を休める一人の旅の西洋人があった。それ異人が来たと言って、そこいらに腰掛けながら休んでいた旅人までが目を
円くする。前からも後ろからものぞきに行くものがある。もはや、以前のような外人殺傷ざたもあまり聞こえなくなったが、まだそれでも西洋人を扱いつけないものはどんな間違いを引き起こさまいものでもないと言われ、外人が旅行する際の内地人の心得書なるものが土屋総蔵時代に馬籠の村へも回って来ている。それを半蔵も読んで見たことはある。しかし彼の覚えているところでは、この木曾路にまだ外人の通行者のあったためしを聞かない。試みに彼は通弁の方へ行って、自分がこの地方の戸長の一人であることを告げ、初めて見る西洋人の国籍、出発地、それから行く先などを尋ねた。生まれはイギリスの人で、
香港から横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれるはずの愛知県英語学校の準備をするため、教師として雇われて行く途中にあるという。東海道回りで赴任しないのは、日本内地の旅が試みたいためであるともいう。そのイギリス人は何を思ったか、いきなり上衣のかくしにいれている日本政府の旅行免状を出して示そうとするから、彼はその必要のないことを告げた。そのイギリス人はまた、彼の職業を通弁から聞いて、この先の村は馬を
停めるステーションのあるところかと尋ねる。彼は言葉も通じないから、先方で言おうとすることをどう解していいかわからなかったが、人馬
継立ての駅ならこの山間に十一か所あると答え、かつては彼もその駅長の一人であったことを告げた。
通弁を勤める男も慣れたものだ。異人の言葉を取り次ぐことも、旅の案内をすることも、すべて通弁がした。その男は外国人を連れて内地を旅することのまだまだ困難な時であることを半蔵に話し、人家の並んだ宿場風の町を通るごとに多勢ぞろぞろついて来るそのわずらわしさを訴えた。
「へえ、名物あんころ
餅でございます。」
と言って休み茶屋の
婆さんが手造りにしたやつを客の間へ配りに来た。
唖の旅行者のような異人は通弁からその説明を聞いたぎり、試食しようともしなかった。
間もなく半蔵はこの
御休処とした看板のかかったところを出た。その日の泊まりと定めた福島にはいって懇意な
旅籠屋に
草鞋をぬいでからも、
桟の方で初めて近く行って見た思いがけない旅の西洋人の印象は容易に彼から離れなかった。過ぐる
嘉永六年の夏に、東海道浦賀の宿、
久里が
浜の沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、
下田へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい力でもって、今は早瀬を上る
鮎のようにこんな深い山間までも入り込んで来た。昨日の黒船は、今日の愛知県の教師だ。これには彼も驚かされた。
福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、
行人橋から御嶽山道について
常磐の渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてある
筏を待ち、その渡しをも渡って、以前にも泊めてもらった王滝の
禰宜の家の人たちの声を久しぶりで聞いた。
「お客さまだぞい。馬籠の本陣からおいでたげな。」
「おゝ、青山さんか。これはおめずらしい。」
王滝の戸長遠山五平は禰宜の家からそう遠くない
住居の方で、この半蔵が自分の村に到着するのを今日か明日かと心待ちに待ちうけているところであった。山林事件の嘆願書提出については、五平は最初から半蔵の協力者で、谷中総代十五名の中でも
贄川、
藪原二か村の戸長を語らい合わせ、半蔵と共に名古屋県時代の福島出張所へも訴え出た仲間である。今度二度目の嘆願がこれまでにしたくの整ったというのも、
上松から奥筋の方を受け持った五平の奔走の力によることが多かった。それもいわれのないことではない。この人は先祖代々御嶽の
山麓に住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけての
地方の世話を一手に引き受けて、木曾山の大部分を失いかけた人民の苦痛を最も直接に感ずるものの一人もこの
旧い庄屋だからであった。王滝は馬籠あたりのように木曾街道に添う位置にないから、五平の家も本陣問屋は兼ねず、したがって諸街道の交通輸送の事業には参加しなかったが、人民と土地とのことを扱う庄屋としては尾州代官の山村氏から絶えず気兼ねをされて来たほどの旧い家柄でもある。
半蔵が
禰宜の家に
笠や
草鞋をぬいで置いて、それから
訪ねて行った時、五平の言葉には、
「青山さん、わたしのように毎日山に
対い合ってるものは、見ちゃいられませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです。」
というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼う
鯉か、王滝川まで上って来る
河魚ぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い
青串魚なぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を
諳記じていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。
いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、
山守があり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただしい数に上り、同藩の財源としてもこの森林地帯を重くみていたように世間から思われがちであるが、その実、河水を利用する檜材の輸送には
莫大な人手と費用とを要し、
小谷狩、大谷狩から美濃の綱場を経て遠い市場に送り出されるまで、これが
十露盤ずくでできる仕事ではないという。それでもなおかつ尾州藩が多くの努力を惜しまなかったというは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曾川下流の
氾濫に備えるためで、同藩が治水事業に苦しんで来た長い歴史は何よりもその辺の消息を語っているとも言わるる。もっとも、これは川下の事情にくわしい人の側から言えることで、遠く川上の方の山の中に住み慣れた
地方の人民の多くはそこまでは気づかなかった。ただ、この深い木曾谷が昼でも暗いような森林におおわれた天然の
嶮岨な
難場であり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者の監視を必要としたほどの封建組織のためにも、徳川直属の代官によって
護られ、尾州大藩によっても護られて来た東山道中の特別な要害地域であったろうとは、半蔵らにも考えられることであった。
五平は半蔵の方を見て、
「さあ、これが尾州の方へ聞こえたら、旧藩の人たちもどう言いますかさ。支庁のやり口が本当で、木曾の人民の方が無理だと言いますかさ。なんでもわたしの聞いたところじゃ、版籍奉還ということはだいぶ話が違う。版地民籍の奉還と言いましたら、土地も人民も朝廷へ返上することだと、わたしは承知してます。万民を王化に浴させたい。あの尾州あたりが他藩に率先して朝廷へ返上したのも、その趣意から出たことじゃありませんか。こんなにけが人を出してもかまわないつもりで、旧領の山地を返上したわけじゃありますまいに。」
こんな話の出た後、五平は半蔵の方から預かって置いた山林事件用の書類をそこへ取り出した。半蔵の起草した筑摩県庁あての嘆願書は十五人の総代の手を回って、五平の手もとまで返って来ている。藪原村の戸長を筆頭にして、一同の署名と調印とを済ましたものがそこにある。嘆願書とした文字の上には、うやうやしく「上」と記し「恐れながら書付をもって願い上げ奉り
候御事」の書き出しが読まれる。従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、今般の御改革で郡県の政治を行なわれるについては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたいと述べてある。別に年来の情実を本庁の官吏によく知ってもらうため、谷中の人民から旧領主に訴えたことのある古い三通の願書の写しをも添えることにしてある。
「この古い願書の写しを添えて出すことが大切です。」
「さようだ。今日にはじまった問題でもないことがわかりますで。」
二人はこんな言葉をかわした。いよいよ来たる五月の十二日を期して再度の嘆願書を差し出すことから、その前日までに
贄川に集まって、四人の総代だけが一同に代わり松本へ出頭するまでの手はずも
定まった。もし本庁の官吏から今日人民の難渋する事情を問いただされたら、四人のもの各自に口頭をもって答えよう、支庁主任のさしずによる山林規則には谷中の苦情が百出して、総代においても今もってお請けのできかねる事情を述べようと申し合わせた。
五平は言った。
「この嘆願書の趣意は、官有林を立て置かれることに異存はない。御用材
伐り出し等の備え場も置かねばなるまいから、それらの官有林にはきびしくお取り締まりの制度を立てて、申し渡されるなら、きっと相守る。そのかわり
明山は人民に任せてくれ。新規則以来、人民私有の山地まで官有に
併せられた場処も多くあるが、これも元々どおりに解かれたい。大体にこういうことになりましょう。つまり――一般公平の御処置を仰ぎたい。今のうちに官民協力して、前途百年の方針を打ち建てて置きたい。享保以前の
古に復したいということですな。」
ここへ来るまで、半蔵は
野尻の
旅籠屋でよく眠らず、福島でもよく眠らずで、遠山五平方から引き返して
禰宜の家に一晩泊まった翌朝になって、ひどく疲れが出た。禰宜宮下の主人が里宮の社殿のあるところまで朝勤めに
通って行って、大太鼓を打ち鳴らしてからまた数町ほどの山道を帰るころでも、彼はゆっくり休んでいた。家の人の雨戸を繰りに来る音を聞くようになって、ようやく彼は寝床からはい出した。
「だいぶごゆっくりでございますな。」
と言って、宮下の細君が熱い茶に
塩漬けの小梅を添えて置いて行ってくれるころが、彼には朝だった。
里宮の神職と
講中の宿とを兼ねたこの禰宜の古い家は、木曾福島から四里半も奥へはいった
山麓の位置にある。木曾山のことを相談する必要が生じてから、過ぐる年も半蔵は王滝へ足を運び、遠山の家を
訪うおりには必ずこの禰宜のところへ来て泊まったが、来て見るたびに変わって行く
行者宿の光景が目につく。ここはもはや両部神道の支配するところでもない。
部屋の壁の上に昔ながらの
注連縄なぞは飾ってあるが、
御嶽山座王大権現とした床の間の軸は取り除かれて、御嶽三社を
祀ったものがそれに掛けかわっている。
「青山さん、まあきょうは一日ゆっくりなすってください。お宮の方へ御案内すると言って、
忰のやつもしたくしています。」
と禰宜も彼を見に来て言った。過ぐる
文久三年、旧暦四月に、彼が父の病を
祷るためここへ
参籠にやって来た日のことは、山里の梅が香と共にまた彼の胸に帰って来た。あの時同伴した落合の勝重なぞはまだ前髪をとって、
浅黄色の
襦袢の
襟のよく似合うほどの少年だった。
「あれからもう十一年にもなりますか。そうでしょうな、あの時青山さんにお清書なぞを見ていただいた忰がことし十八になりますもの。」
こんな話も出た。
やがて半蔵は身を
浄め、
笠草鞋などを宿に預けて置いて、禰宜の
子息と連れだちながら里宮
参詣の山道を踏んだ。
「これで春先の
雉子の飛び出す時分、あの時分はこのお山もわるくありませんよ。」
十年の月日を置いて来て見ると、ほんの子供のように思われていた禰宜の子息が、もはやこんなことを半蔵に言って見せる若者だ。
宗教改革の機運が動いた跡はここにも深いものがある。半蔵らが登って行く細道は石の大鳥居の前へ続いているが、路傍に両部時代の遺物で、全く神仏を
混淆してしまったような、いかがわしい仏体銅像なぞのすでに打ち倒されてあるのを見る。その辺の石碑や
祠の多くは、あるものは嘉永、あるものは
弘化、あるものは文久年代の諸国講社の名の彫り刻まれてあるものだ。さすがに多くの門弟を引き連れて来て
峻嶮を平らげ、山道を開き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた普寛、神山、一徳の行者らの石碑銅像には手も触れてない。そこに立つ両部時代の遺物の中にはまた、十二権現とか、不動尊とか、三面六
臂を有し
猪の上に踊る三宝荒神とかのわずかに破壊を免れたもののあるのも目につく。
さらに二人は石の大鳥居から、十六階、二十階より成る二町ほどの石段を登った。左右に
杉や
橡の林のもれ
日を見て、その長い石段を登って行くだけでも、なんとなく
訪うものの心を澄ませる。何十丈からの大岩石をめぐって、高山の植物の間から
清水のしたたり落ちるあたりは、古い社殿のあるところだ。
大己貴、
少彦名の
二柱の神の
住居がそこにあった。
里宮の内部に行なわれた革新は一層半蔵を驚かす。この社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村
蘇門の寄進にかかる記念の額でも、例の二つの
天狗の面でも、ことに口は耳まで裂け延びた鼻は獣のそれのようで、
金胎両部の信仰のいかに神秘であるかを語って見せているようなその天狗の女性の方の
白粉をほどこした面でも、そこに残存するものはもはや過去の形見だ。一切の
殻が今はかなぐり捨てられた。
護摩の儀式も廃されて、
白膠木の皮の燃える香気もしない。本殿の奥の
厨子の中に長いこと光った
大日如来の仏像もない。神前の
御簾のかげに置いてあった経机もない。高山をその中心にし、難行苦行をその修業地にして、あらゆる寒さ
饑じさに耐えるための中世的な道場であったようなところも、全く面目を一新した。過去何百年の山王を誇った御嶽大権現の山座は
覆されて、二柱の神の
古に帰って行った。杉と檜の枝葉を通して望まれる周囲の森と山の空気、岩づたいに落ちる細い清水の音なぞは、社殿の奥を物静かにする。しばらく半蔵はそこに時を送って、自分の娘のためにも
祷った。
禰宜のもとに
戻ってから、半蔵は山でもながめながらその日一日王滝の宿に寝ころんで行くことにきめた。宮下の主人は
馳走ぶりに、
風呂でも沸かそうから、
寒詣でや山開きの季節の客のために昔から用意してある行者宿の
湯槽にも身を浸して、疲れを忘れて行けと言ってくれた。
午後には五平の方から半蔵を
訪ねて来て、
短冊を取り寄せたり、互いに歌をよみかわしたりするような、ささやかな席が開けた。そこへ
紅い
毛氈を持ち込み、
半折の
画箋紙なぞをひろげ、たまにしか見えない半蔵に何か山へ来た形見を残して置いて行けと言い出すのは禰宜だ。子息も来て、そのそばで墨を
磨った。そこいらには半蔵が馬籠から持って来た歌書なども取り散らしてある。
簀巻きにして携えて来た筆も置いてある。求めらるるままに、彼は自作の
旧い歌の一つをその紙の上に書きつけた。
おもふどちあそぶ春日は青柳の千条の糸の長くとぞおもふ 半蔵
五平はそのそばにいて、
「これはおもしろく書けた。」
「でも、この下の句がわたしはすこし気に入らん。」と半蔵は自分で自分の書いたものをながめながら、「思うという言葉が二つ重なって、どうも落ちつかない。」
「そんなことはない。」
と五平は言っていた。
時には、半蔵は席を離れて、ながめを自由にするためにその座敷の廊下のところへ出た。山里の中の山里ともいうべき御嶽のすその谷がその位置から望まれる。そこへも五平が立って来て、谷の下の方に遠く光る王滝川を半蔵と一緒にながめた。木と木の
梢の重なり合った原生林の感じも深く目につくところで、今はほとんど自由に
入山伐木の許さるる場処もない。しかし、半蔵は、他に客のあるけはいもするこの禰宜の家で五平と一緒になってからは、総代仲間の話なぞを一切口にしなかった。五平はまた五平で、そこの山、ここの谷を半蔵にさして見せ、ただ風景としてのみ、生まれ故郷を語るだけであった。
もはや、
温暖い雨は幾たびとなく木曾の奥地をも通り過ぎて行ったころである。
山鶯もしきりになく。五平が
贄川での再会を約して別れて行った後、半蔵はひとり歌書などを読みちらした。夕方からはことに春先のような陽気で、川の流れを中心にわき立つ
靄が谷をこめた。そろそろ
燈火のつく遠い農家をながめながら、馬籠を出しなに腰にさして来た笛なぞを取り出した時は、しばらく彼もさみしく楽しい
徒然に身をまかせていた。
翌朝は早く山をたつ人もある。遠い国からの
参詣者の中には、薄暗いうちから起きて帰りじたくをはじめる講中仲間もある。着物も白、帯も白、
鉢巻も白、すべて白ずくめな山の巡礼者と前後して、やがて半蔵も禰宜の家の人たちに別れを告げて出た。彼が帰って行く山道の行く先には、手にする
金剛杖もめずらしそうな人々の腰に着けた鈴の音が起こった。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい名古屋本町通りの文明社から出る木版彫刻半紙六枚の名古屋新聞が週報ながらに到着するころである。時事の報道を主とする伝聞雑誌のごとき体裁しかそなえていないものではあるが、それらの週報は欧米教育事業の視察の途に上った旧名古屋藩士、田中
不二麿が消息を伝えるころである。過ぐる四年の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな
土産をもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多く人の注意の
的となっていた時だ。その一行、随員従者留学生等総員百七名の中に、佐賀県人の
久米邦武がある。この人は、ただ文書のことを受け持つために大使の随行を命ぜられたばかりでなく、特に政府の
神祇省から選抜されて一行に加わった一人の国学者としても、よろしくその立場から欧米の文明を観察せよとの内意を受け、新興日本の基礎を作る上に国学をもってする意気込みであるとのうわさは、ことに平田一門の人たちに強い衝動を与えずにはおかなかった。地方一戸長としての半蔵なぞが隠れた
草叢の間に奔走をつづけていて、西をさして木曾路を帰って行くころは、あの
本居平田諸大人の流れをくむもののおそかれ早かれ直面しなければならないようなある時が彼のような後輩をも待っていたのである。
五
五月十二日も近づいたころ、福島支庁からの召喚状が馬籠にある戸長役場の方に届いた。戸長青山半蔵あてで。
半蔵は役場で一通り読んで見た。それには、五月十二日の午前十時までに当支庁に出頭せよとある。ただし代人を許さない。言い渡すべき件があるから、この召喚状持参の上、自身出頭のこととある。彼は自宅の方に持ち帰って、さらによく読んで見た。この呼び出しに応ずると、遠山五平らに約束して置いたことが果たせない。その日を期し、総代四人のものが勢ぞろいして本庁の方へ同行することもおぼつかない。のみならず、彼はこの召喚状を手にして、ある予感に打たれずにはいられなかった。
とりあえず、彼は福島へ呼び出されて行くことを隣家の伊之助に告げ、王滝の方へも使いを出して置いて、戸長らしい
袴を着けるのもそこそこに、また西のはずれから木曾路をたどった。この福島行きには、彼は心も進まなかった。
筑摩県支庁。そこは名古屋県時代の出張所にあててあった本営のまま、まだ福島興禅寺に置いてある。街道について福島の町にはいると、大手橋から向かって右に当たる。指定の刻限までに半蔵はその仮の役所に着いた。待つこと三十分ばかりで、彼は支庁の官吏や下役などの前に呼び出された。やがて、掛りの役人が一通の書付を取り出し、左の意味のものを半蔵に読み聞かせた。
「今日限り、戸長免職と心得よ。」
とある。
はたして、半蔵の呼び出されたのは他の用事でもなかった。もっとも、免職は戸長にとどまり、学事掛りは従前のとおりとあったが、彼は支庁の人たちを相手にするのは到底むだだと知っていた。実に瞬間に、彼も物を見定めねばならなかった。一礼して、そのまま引き下がった。
興禅寺の門を出て、支庁から引き取って行こうとした時、半蔵はその辺の屋敷町に住む旧士族に行きあい、わずかの
挨拶の言葉をかわした。その人は、福島にある彼の歌の友だちで、
香川景樹の流れをくむものの
一人で、何か
用達しに町を出歩いているところであったが、彼の顔色の青ざめていることが先方を驚かした。歩けば歩くほど彼は支庁の役人から戸長免職を言い渡された時のぐっと
徹えたこころもちを引き出された。言うまでもなく、
村方総代仲間が山林規則を過酷であるとして、まさに筑摩県庁あての嘆願書を提出するばかりにしたくをととのえたことが、支庁の人たちの探るところとなったのだ。彼はその主唱者とにらまれたのだ。たとえようのないこころもちで、彼は山村氏が代官屋敷の跡に出た。
瓦解の跡にはもう新しい草が見られる。ここが三
棟の高い
鱗葺きの建物の跡か、そこが広間や書院の跡かと歩き回った。その足で彼は大手橋を渡った。橋の上から見うる木曾川の早い流れ、光る瀬、その
河底の石までが妙に彼の目に映った。
笠草鞋のしたくもそこそこに帰路につこうとしたころの彼は、福島での知人の家などを
訪ねる心も持たなかった人である。街道へは、ぽつぽつ五月の雨が来る。行く先に残った花やさわやかな若葉に来る雨は彼の
頬にも耳にも来たが、彼はそれを意にも留めずに、季節がら吹き降りの中をすたすた
上松まで歩いた。さらに
野尻まで歩いた。その晩の野尻泊まりの
旅籠屋でも、彼はよく眠らなかった。
翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、ようやく彼も心の憤りを沈めることができた。いろいろ思い出すことがまとまって彼の胸に帰って来た。
「御一新がこんなことでいいのか。」
とひとり言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔らかな
棗の木の陰から木曾川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。
消えうせべくもない感銘の忘れがたさから、彼はあの新時代の先駆のような東山道軍が岩倉公子を総督にして西からこの木曾街道を進んで来た時の方に思いを
馳せた。当時は新政府の信用もまだ一般に薄かった。沿道諸藩の
向背のほども測りがたかった。何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、あの東山道総督執事が地方人民に応援を求める意味の布告を発したことは一度や二度にとどまらなかった。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき
叡旨であるぞと触れ出されたのもあの時であった。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来
苛政に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその
旨を本陣に届けいでよと言われ、彼も本陣役の一人として直接その衝に当たったことはまだ彼には昨日のことのようでもある。彼半蔵のような愚直なものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込みであった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行なってもらいたいからであった。
小松の影を落とした川の
中淵を右手に望みながら、また彼は歩き出した。彼の心は、日ごろから嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の
権判事がかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿平次の方へ行った。
彼は言って見た。
「相変わらず、寿平次さんは高見の見物だろうか。」
彼の心は隣家伏見屋の伊之助の方へも行った。
「伊之助さんか。あの人は目をつぶっておれと言う。このおれにも――見るなと言う。」
彼の心はまた、村の万福寺の松雲和尚の方へも行った。
「和尚さまと来たら、用はないと言うそうな。」
しかし、彼はあの松雲たりとも禅僧らしく戦おうとはしていることを知っていた。
五月の森の光景は行く先にひらけた。
檜欅にまじる雑木のさわやかな緑がまたよみがえって、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野をあわせてわずかにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧尾州領の山地を没取するのに不思議はないというような理屈からこれは来ているのか、郡県政治の当局者が人民を信じないことにかけては封建時代からまだ一歩も踏み出していない証拠であるのか、いずれとも言えないことであった。ともあれ、いかに支庁の役人が督促しようとも、このまま山林規則のお請けをして、泣き寝入りにすべきこととは彼には思われなかった。父にできなければ子に伝えても、旧領主時代から紛争の絶えないようなこの長い山林事件をなんらかの良い解決に導かないのはうそだとも思われた。
須原から
三留野、三留野から妻籠へと近づくにつれて、山にもたよることのできないこの地方の前途のことがいろいろに考えられて来た。家をさして帰って行くころの彼はもはや戸長ででもなかった。
[#改頁]
第九章
一
八月の来るころには、娘お
粂が結婚の日取りも近づきつつあった。例の
木曾谷の山林事件もそのころになれば一段落を告げるであろうし、半蔵のからだもいくらかひまになろうとは、春以来おまんやお民の言い合わせていたことである。かねてこの縁談の仲にはいってくれた人が
伊那の谷から見えて、
吉辰良日のことにつき前もって相談のあったおりに、青山の家としては来たる九月のうちを選んだのもそのためであった。さて、その日取りも次第に近づいて見ると、三十三か村の人民総代として半蔵らが寝食も忘れるばかりに周旋奔走した山林事件は意外にもつれた形のものとなって行った。
もとより、福島支庁から言い渡された半蔵の戸長免職はきびしい督責を意味する。彼が旧
庄屋(戸長はその改称)としての
生涯もその時を終わりとする。彼も御一新の
成就ということを心がけて、せめてこういう時の役に立ちたいと願ったばっかりに、その職を失わねばならなかった。親代々から一村の長として、百姓どもへ伝達の事件をはじめ、平生
種々な村方の世話
駈引等を励んで来たその役目もすでに過去のものとなった。今は学事掛りとしての仕事だけが彼の手に残った。彼の継母や妻にとっても、これは思いがけない山林事件の結果である。娘お粂が結婚の日取りの近づいて来たのは、この青山一家に
旧い背景の消えて行く際だ。
仲人参上の節は供
一人、右へ御料理がましいことは御無用に願いたし。もっとも、
神酒、
二汁、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに
結納のしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、
白無垢一反、それに酒の
差樽一
荷を祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬ
姑おまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の
宗太なぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から
名主見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の
俤の伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見るたびに、ほんとに父親にそっくりなような娘ができたと思わずにいられない。半蔵は熱心な子女の教育者だから、いつのまにかお粂も父の深い感化を受け、日ごろ父の尊信する
本居、
平田諸大人をありがたい人たちに思うような心を養われて来ている。お粂は性来の感じやすさから、父が戸長の職を
褫がれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸を
傷めたことは一通りでなかった。彼女は、かずかずの
数奇な運命に娘心を打たれたというふうで、
「わたしはこうしちゃいられないような気がする。」
と言って、母のそばによく眠らなかったほどの娘だ。
しかし、お民はお民なりに、この娘を励まし、一方には強い個性をもった姑との間にも立って、戸長免職後の半蔵を助けながら精いっぱい働こうと思い立っていた。以前にお民が
妻籠旧本陣を
訪ねたおり、おばあさんや兄夫婦のいるあの
生家の方で見て来たことは、自給自足の生活がそこにも始まっていることであった。お民はそれを夫の家にも応用しようとした。彼女は周囲を見回した。もっと養蚕を励もうとさえ思えば、広い玄関の次の間から、仲の間、奥の間まで、そこには蚕の
棚を置くこともできるような旧本陣の
部屋部屋が彼女を待っていた。髪につける油を自分で絞ろうとさえ思えば、毎年表庭の片すみに実を結ぶ古い
椿を役に立てることもできた。四人の子を控えた母親として、ことにまだ幼い
二人のものを無事に育てたいとの心願から、お民もその決心に至ったのである。彼女はまた持って生まれた快活さで、からだもよく動く。
頬の色なぞはつやつやと熟した
林檎のように
紅い。
ある日、お民は娘が嫁入りじたくのために注文して置いた染め物の中にまだ間に合わないもののあるのをもどかしく思いながら、取り出す器物の用があって裏の土蔵の方へ行った。入り口の石段の上には夫の
履物が脱いである。赤く
錆びた金網張りの重い戸にも大きな錠がはずしてある。ごとごと二階の方で音がするので、何げなくお民は
梯子段を登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に
蒐集して置いたような古い茶器の類なぞを取り出して思案顔でいる半蔵をそこに見つけた。そこは板敷きになった階上で、おまんの古い
長持や、お民が妻籠から持って来た長持なぞの中央に置き並べてあるところだ。何十年もかかって半蔵の集めた和漢の蔵書も壁によせて積み重ねてあるところだ。その時、お民は諸方の旧家に始まっている売り立てのうわさに結びつけて、そんな隠れたところに夫が弱味をのぞいて見た時は、胸が迫った。
二
土蔵の建物と裏二階の隠居所とは井戸の方へ通う細道一つへだてて、目と鼻の間にある。お民はその足で裏二階の方に姑を見に行った。娘を伊那へ送り出すまで、何かにつけてお民が相談相手と頼んでいるのは、おまんのほかになかったからで。
「お
母さん。」
と声をかけると、ちょうどおまんは小用でも
達しに立って行った時と見えて、日ごろ姑がかわいがっている毛並みの白い
猫だけが麻の
座蒲団の上に背を
円くして、うずくまっていた。二間を仕切る二階の
部屋の
襖も取りはずしてあるころで、すべて吉左衛門が隠居時代の形見らしく、そっくり形も
崩さずに住みなしてある。そこいらには、針仕事の好きな姑が孫娘のために縫いかけた
長襦袢のきれなぞも取りちらしてあって、そこにもお粂が結婚の日取りの近づいたことを語っている。古い針箱のそばによせて、小さな
味醂の
瓶の片づけずに置いてあるのもお民をほほえませた。姑のような年取った女の飲む甘いお酒が押入れの中に隠してあることをお民も知っているからであった。
そのうちに、おまんはお民のいるところへ
戻って来て、
「お民か。お前はちょうどよいところへ来てくれた。稲葉のおそのさん(おまんが里方の夫人)へはわたしから返事を出して置いたよ。あのおそのさんもお前、いろいろ心配していてくれると見えてね、
馬籠から上伊那の南殿村まで女の足では三日路というくらいのところだから、わざわざ諸道具なぞ持ち運ぶには及ばん、お粂の
箪笥、長持、針箱の類はこちらで取りそろえて置くと言ってよこしたさ。手洗い
桶、足洗い桶なぞもね。ごらんな、なんとかこちらからも言ってやらなけりゃ悪いから、御承知のとおりな
遠路なことじゃあるし、お民も不調法者で、したくも行き届かないが、まあ万事よろしく頼む――そうわたしは返事を書いてやったよ。」
「どうでしょう、お
母さん、今度の山林事件が稲葉へは響きますまいか。うちじゃ、もう庄屋でも、戸長でもありませんよ。」とお民が言って見る。
「そんな稲葉の家じゃあらすかい。いったん結納の品まで取りかわして、改めて親類の
盃でもかわそうと約束したものが、家の事情でそれを
反古にするような水臭い人たちなら、最初からわたしはお粂の世話なんぞしないよ。あのおそのさんはじめ、それは義理堅い、正しい人だからね。」
おまんはその調子だ。
ここですこしこの半蔵が継母のことを語って置くのも、山国の婦人というものを知る上にむだなわざではないだろう。おまんも年は取って、切りさげた髪はもはや半ば白かったが、あの
水戸浪士の同勢がおのおの手にして来た鋭い抜き身の
鎗や抜刀をも恐れずにひとりで本陣の玄関のところへ応接に出たような、その気象はまだ失わずにある。そういうおまんの教養は、まったく彼女の母から来ている。母は、
高遠の
内藤大和守の藩中で、坂本流砲術の創始者として知られた坂本孫四郎の娘にあたる。ゆえあって母は初婚の夫の家を去り、その母と共に南殿村の稲葉の家に養われたのがおまんだ。婦人ながらに漢籍にも通じ、読み書きの道をお粂に教え、時には『古今集』の序を
諳誦させたり、『源氏物語』を読ませたりして、
筬を持つことや
庖丁を持つことを教えるお民とは別の意味で孫娘を導いて来たのもまたおまんだ。年をとればとるほど、彼女は祖父孫四郎の武士
気質をなつかしむような人である。
このおまんは継母として、もう長いこと義理ある半蔵をみまもって来た。半蔵があの中津川の景蔵や同じ町の香蔵などの学友と共に、若い時分から勤王家の運動に心を寄せていることを家中のだれよりも先に
看破ったくらいのおまんだから、今さら半蔵がなすべきことをなして、そのために福島支庁からきびしい督責をこうむったと聞かされても、そんなことには驚かない。ただただおまんは、吉左衛門や金兵衛が生前によく語り合ったことを思い出して、半蔵にこの青山の家がやりおおせるか、どうかと危ぶんでいる。
お民を前に置いて、おまんは縫いかけた
長襦袢のきれを取り上げながら、また話しつづけた。目のさめるような京染めの
紅絹の色は、これから
嫁いで行こうとする子に着せるものにふさわしい。
「そう言えば、お民、半蔵が
吾家の地所や
竹藪を伏見屋へ譲ったげなが、お前もお聞きかい。」
おまんの言う地所の譲り渡しとは、旧本陣屋敷裏の地続きにあたる竹藪の一部と、青山家所有のある屋敷地二
畝六
歩とを隣家の伊之助に売却したのをさす。藪五両、地所二十五両である。その時の
親戚請人には栄吉、保証人は峠の旧
組頭平兵衛である。相変わらず半蔵のもとへ手伝いに
通って来る清助からおまんはくわしいことを聞き知った。それがお粂の嫁入りじたくの料に当てられるであろうことは、おまんにもお民にも想像がつく。
「たぶん、こんなことになるだろうとは、わたしも思っていたよ。」とまたおまんは言葉をついで、「そりゃ、本陣から娘を送り出すのに、七通りの
晴衣もそろえてやれないようなことじゃ、お粂だって肩身が狭かろうからね。七通りと言えば、地白、地赤、地黒、総模様、腰模様、
裾模様、それに紋付ときまったものさ。古式の
御祝言では、そのたびにお吸物も変わるからね。しかし、今度のような場合は特別さ。今度だけはお前、しかたがないとしても、
旦那(吉左衛門)が半蔵にのこして置いて行った先祖代々からの山や田地はまだ相応にあるはずだ。あれが
舵の取りよう一つで、この家がやれないことはないとわたしは思うよ。無器用に生まれついて来たのは
性分でしかたがないとしても、もうすこし半蔵には経済の才をくれたいッて、旦那が
達者でいる時分にはよくそのお話さ。」
そういうおまんは何かにつけて自分の旦那の時代を恋しく思い出している。この宿場の全盛なころには街道を通る大名という大名、公役という公役、その他、世に時めく人たちで、青山の家の上段の間に寝泊まりしたり休息したりして行かないものはなかった。過ぐる年月の間の意味ある通行を数えて見ても、
彦根よりする井伊
掃部頭、名古屋よりする
成瀬隼人之正、江戸よりする長崎奉行水野
筑後守、老中
間部下総守、林
大学頭、監察岩瀬
肥後守から、水戸の
武田耕雲斎、旧幕府の
大目付で外国奉行を兼ねた山口
駿河守なぞまで――御一新以前だけでも、それらの歴史の上の人物はいずれもこの旧本陣に時を送って行った。それを記念する意味からも、おまんは自分の忘れがたい旦那と
生涯を共にしたこの青山の家をそう粗末には考えられないとしていた。たとい、城を
枕に
討ち
死にするような日がやって来ても、旧本陣の格式は
崩したくないというのがおまんであった。
お民は
母屋の方へ
戻りかける時に言った。
「お
母さん、あなたのようにそう心配したらきりがない。見ていてくださいよ。わたしもこれから精いっぱい働きますからね。そう言えば、稲葉の家の方からは、来月の二十二日か、二十三日が、日が良いと言って来てありますよ。まあ、わたしもぐずぐずしちゃいられない。」
三
その月の末、平田同門の先輩の中でもことに半蔵には親しみの深い
暮田正香の東京方面から
木曾路を下って来るという通知が彼のもとへ届いた。
半蔵は久しぶりであの先輩を見うるよろこびを妻に分け、お民と共にその日を待ち受けた。今は半蔵も村方一同の希望をいれ、自ら進んで教師の職につき、万福寺を仮教場にあてた学校の名も自ら「敬義学校」というのを選んで、毎日子供たちを教えに行く
村夫子の身に甘んじている。彼も教えて
倦むことを知らないような人だ。正香の着くという日の午後、彼は寺の方から引き返して来て、
早速家の店座敷に珍客を待つ用意をはじめた。お民が来て見るたびに、彼は
部屋を片づけていた。
旧宿場三役の廃止以来、青山の家ももはや以前のような本陣ではなかったが、それでも新たに
布かれた徴兵令の初めての検査を受けに福島まで行くという村の若者なぞは改まった顔つきで、
一人の
村方惣代に付き添われながらわざわざ門口まで
挨拶に来る。街道には八月の日のあたったころである。その草いきれのする道を踏んで遠くやって来る旅人を親切にもてなそうとすることは、半蔵夫婦のような古い街道筋に住むものが長い間に養い得た気風だ。
お民は待ち受ける客人のために
乾して置いた
唐草模様の
蒲団を取り込みに、西側の廊下の方へ行った。その廊下は
母屋の西北にめぐらしてあって、客でも泊める時のほかは使わない奥の間、今は神殿にして
産土神さまを祭ってある上段の間の方まで続いて行っている。北の坪庭も静かな時だ。何げなくお民はその庭の見える廊下のところへ出てながめると
人気のないのをよいことにして近所の
猫がそこに入り込んで来ている。ひところは
姑おまんの手飼いの白でも慕って来るかして、人の
赤児のように
啼く近所の三毛や黒のなき声がうるさいほどお民の耳についたが、今はそんな声もしないかわりに、庭の
梨の葉の深い陰を落としているあたりは小さな獣の集まる場所に変わっている。思わずお民は時を送った。生まれて
半歳ばかりにしかならないような若い猫の愛らしさに気を取られて、しばらく彼女も客人のことなぞを忘れていた。彼女の目に映るは、一息に延びて行くものの若々しさであった。その動作にはなんのこだわりもなく、その毛並みにはすこしの汚れもない。生長あるのみ。しかも、小さな獣としてはまれに見る美しさだ。目にある幾匹かの若い猫はまた食うことも忘れているかのように、そこに軽やかな空気をつくる。走る。ころげ回る。その一つ一つが示すしなやかな姿態は、まるで、草と花のことだけしか思わない娘たちか何かを見るように。
その辺は
龍の
髯なぞの深い
草叢をなして、青い中に点々とした濃い緑が一層あたりを
憂鬱なくらいに見せているところである。あちこちに集まる猫はこの
苔蒸してひっそりとした坪庭の内を彼らが戯れの場所と化した。一方の草の茂みに隠れて、寄り添う二匹の見慣れない猫もあった。ふと、お民が気がついた時は、下女のお徳まで台所の方から来た。その庭にばかり近所の猫が入り込むのを見ると、お徳は縁先にある
手洗鉢の水でもぶッかけてやりたいほど、「うるさい、うるさい。」と言っていながら、やっぱり猫のような動物の世界にも好いた同志というものはあると知った時は、廊下の柱のそばに立って動かなかった。ちょうど、お
粂も表玄関に近い板敷きの方で織りかけていた
機を早じまいにして、その廊下つづきの方へ通って来た。そこはお民やお粂が髪をとかす時に使う小さな座敷である。その時、お民は廊下の離れた位置から娘の様子をよく見ようとしたが、それはかなわなかった。というのは、お粂は見るまじきものをその
納戸の窓の下に見たというふうで、また急いで西側の廊下の方へ行って隠れたからで。
「あなた、ようやくわたしにはお粂の見通しがつきましたよ。」
と言って、お民が店座敷へ顔を出した時は、半蔵は客の待ちどおしさに
部屋のなかを静かに歩き回っていた。お民に言わせると、女の男にあう
路は教えられるまでもないのに、あれほど家のおばあさんから女は
嫁ぐべきものと言い聞かせられながら、とかくお粂が心の進まないらしいのは、全くその方の知恵があの子に遅れているのであろうというのであった。もっとも、その他の事にかけては、お粂は年寄りのようによく気のつく娘で、母親の彼女よりも弟たちの世話を焼くくらいであるが、とも付け添えた。
「何を言い出すやら。」
半蔵は笑って取り合わなかった。
どうして半蔵がこんなに先輩の正香を待ったかというに、過ぐる版籍奉還のころを一期とし、また廃藩置県のころを一期とする地方の空気のあわただしさに妨げられて、心ならずも同門の人たちとの往来から遠ざかっていたからで。そればかりではない。復古の道、平田一門の前途――彼にはかずかずの心にかかることがあるからであった。
正香は一人の供を連れて、その日の夕方に馬で着いた。
明荷葛籠の
蒲団の上なぞよりも、馬の
尻の軽い方を選び、
小付荷物と共に馬からおりて、
檜笠の
紐を解いたところは、いかにもこの人の旅姿にふさわしい。
「やあ。」
正香と半蔵とが久々の顔を合わせた時は、どっちが先とも言えないようなその「やあ」が
二人の口をついて出た。客を迎えるお民のうしろについて、いそいそと茶道具なぞ店座敷の方へ持ち運ぶ娘までが、日ごろ沈みがちなお粂とは別人のようである。子供本位のお民はうれしさのあまり、勝手のいそがしさの中にもなおよく注意して見ると、娘はすぐ下の十六歳になる弟に、
「宗太、きょうのお客さまは平田先生の御門人だよ。」
と言って見せるばかりでなく、五歳になる弟まで呼んで、
「
森夫もおいで。さあ、おベベを着かえましょうね。」
と、よろこぶ様子である。まるで、父の先輩が彼女のところへでも訪れて来てくれたかのように。これにはお民も驚いて、さっぱりとした涼しそうなものに着かえている自分の娘を見直したくらいだ。そこへ下男の佐吉も、山家らしい
風呂の用意がすでにできていることを店座敷の方へ告げに行く。
半蔵は正香に言った。
「暮田さん、お
風呂が沸いてます。まず汗でもお流しになったら。」
「じゃ、一ぱいごちそうになるかな。木曾まで来ると、なんとなく旅の気分がちがいますね。ここは
山郭公の声でも聞かれそうなところですね」
四
やがて半蔵の前に来てくつろいだ先輩は、明治二年に皇学所監察に進み、同じく三年には学制取調御用掛り、同じく四年にはさらに大学出仕を仰せ付けられたほどの閲歴をもつ人であるが、あまりに昇進の早いのを
嫉む同輩のために
讒せられて、山口藩和歌山藩等にお預けの身となったような
境涯をも踏んで来ている。今度、
賀茂神社の
少宮司に任ぜられて、これから西の方へ下る旅の途中にあるという。
半蔵は日ごろの
無沙汰のわびから始めて、多事な街道と村方の世話に今日まであくせくとした月日を送って来たことを正香に語った。木曾福島の廃関に。本陣、
脇本陣、問屋、庄屋、組頭の廃止に。一切の宿場の改変に。引きつづく木曾谷の山林事件に。彼は一日も忘れることのない師
鉄胤のもとにすら久しいこと
便りもしないくらいであったと語った。彼はまた、師のあとを追って東京に出た中津川の友人香蔵のことを正香の前に言い出し、師が参与と
神祇官判事とを兼ねて後には内国局判事と侍講との重い位置にあったころは、(ちなみに、鉄胤は大学大博士ででもあった)、あの友人も神祇
権少史にまで進んだが、今は客舎に病むと聞くと語った。彼らは互いに執る道こそ異なれ、同じ御一新の成就を期待して来たとも語った。香蔵からは、いつぞやも便りがあって、「同門の人たちは皆祭葬の事にまで復古を実行しているのに、君の家ではまだ神葬祭にもしないのか」と言ってよこしたが、木曾山のために当時奔走最中の彼が暗い
行燈のかげにその手紙を読んだ時は、思わず涙をそそった。そんな話も出た。
「暮田さん、あなたにお目にかけるものがある。」
と言って、半蔵は一幅の軸を
袋戸棚から取り出した。それを
部屋の壁に掛けて正香に見せた。
鈴の
屋翁画詠、
柿本大人像、
師岡正胤主恵贈としたものがそこにあった。それはやはり同門の人たちの動静を語るもので、今は松尾
大宮司として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え、その人を中心に東濃地方同門の四、五人の旧知のものが小集を催した時の記念である。その時の正胤から半蔵に贈られたものである。
本居宣長の筆になった
人麿の画像もなつかしいものではあったが、それにもまして正香をよろこばせたのは、画像の上に書きつけてある柿本大人の
賛だ。宣長と署名した書体にも特色があった。あだかも、三十五年にわたる古事記の研究をのこした大先輩がその部屋に語り合う正香と半蔵との前にいて、古代の万葉人をさし示し、
和魂荒魂兼ねそなわる健全な人の姿を今の
正眼に
視よとも言い、あの歌に耳を傾けよとも言って、そこにいる
弟子の弟子たちを励ますかのようにも見えた。
半蔵の継母が孫たちを連れてそこへ
挨拶に来たので、しばらく二人の話は途切れた。これは半蔵の長男、これは三男とおまんに言われて、宗太や森夫も改まった顔つきをしながら客の前へお辞儀に出る。
「暮田さんは信州岩村田の御出身でいらっしゃるそうですね。そういえば、どっか山国のおかたらしい。」とおまんは客に言って、勝手の方から
膳を運ぶお粂を顧みながら、「こんな山家で何もおかまいはできませんが、まあ、ごゆっくりなすってください。」
お粂が持って来て客と父との前に置いた膳の上には、季節がらの
胡瓜もみ、
青紫蘇、枝豆、それにきざみずるめなぞを酒のさかなに、
猪口、
割箸もそろった。おまんがそれを見て部屋から退くころには、正香はもうあぐらにやる。
「どれ、あの記念の扇子を暮田さんにお目にかけるか。」
と半蔵は言って、師岡正胤らと共に中津川の方で書いたものを正香の前にひろげて見せた。平田
篤胤没後の門人らの思い思いに
記しつけた述懐の歌がその扇子の両面にある。
辛い、甘い、限り知られない味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものもある。こうして互いにつつがなくめぐりあって見ると、八年は夢のような気がするとした意味のものもある。おくれまいと思ったことは昔であって、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いを寄せてあるのは師岡正胤だ。
「へえ、師岡がこんな歌を置いて行きましたかい。」
と言いながら、正香はその扇面に見入った。過ぐる文久三年、例の等持院にある
足利将軍らの木像の首を抜き取って京都三条
河原に
晒し物にした血気さかんなころの正香の相手は、この正胤だ。その後、正香が
伊那の谷へ来て隠れていた時代は、正胤は上田藩の方に六年お預けの身で、最初の一年間は紋付を着ることも許されず、ただ
白無垢のみを許され、日のめも見ることのできない北向きの一室にすわらせられ、わずかに食事ごとの箸先を食い削ってそれを筆に代えながら、
襦袢の
袖口から絞る
藍のしずくで鼻紙に
記しつける歌日記を幽閉中唯一の慰めとしていたという。先帝
崩御のおりの大赦がなかったら、正胤もどうなっていたかわからなかった。この人のことは正香もくわしい。
その時、半蔵は先輩に酒をすすめながら、旧庄屋の職を失うまでの自分の
苦い経験を、山林事件のあらましを語り出した。彼に言わせると、もしこの木曾谷が今しばらく尾州藩の手を離れずにあって、年来の情実にも明るい人が名古屋県出張所の官吏として在職していてくれたら、もっと良い解決も望めたであろう。今のうちに官民一致して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという村民総代一同の訴えもきかれたであろう。この谷が山間の一
僻地で、
舟楫運輸の便があるでもなく、田野耕作の得があるでもなく、村々の大部分が高い米や塩を他の地方に仰ぎながらも、今日までに人口の繁殖するに至ったというのは山林あるがためであったのに、この山地を官有にして人民一切入るべからずとしたら、どうして多くのものが生きられる地方でないぐらいのことは、あの尾州藩の人たちには認められたであろう。いかんせん、
筑摩県の派出官は土地の事情に暗い。廃藩置県以来、諸国の多額な藩債も政府においてそれを肩がわりする以上、旧藩諸財産の没取は当然であるとの考えにでも支配されたものか、木曾谷山地従来の慣例いかんなぞは、てんで福島支庁官吏が問うところでない。言うところは、官有林規則のお請けをせよとの一点張りである。その過酷を嘆いて、ひたすら寛大な処分を嘆願しようとすれば、半蔵ごときは戸長を免職せられ、それにも屈しないで進み出る他の総代のものがあっても、さらに御採用がない。しいて懇願すれば官吏の怒りに触れ、
鞭で打たるるに至ったものがあり、それでも服従しないようなものは本県聴訟課へ引き渡しきっと吟味に及ぶであろうとの厳重な口達をうけて引き下がって来る。その権威に恐怖するあまり、人民一同前後を熟考するいとまもなく、いったんは心ならずも官有林のお請けをしたのであった。
「一の山林事件は、百の山林事件さ。」
と正香は半蔵の語ることを聞いたあとで、嘆息するように言った。
「暮田さん、せっかくおいでくだすっても、ほんとに、何もございませんよ。」
と言いながら、お民も客のいるところへ酒をすすめに来た。彼女は客や主人の
膳の上にある
箸休めの
皿をさげて、娘お粂が順に勝手の方から運んで来るものをそのかわりに載せた。遠来の客にもめずらしく思ってもらえそうなものといえば、木曾川の方でとれた「たなびら」ぐらいのもの。それを彼女は
魚田にして出した。でも、こんな山家料理がかえって正香をよろこばせる。
「奥さんの前ですが、」と正香は一口飲みかけた盃を膳の上に置いて、「いつぞや、お宅の土蔵のなかに隠していただいた時、青山君が
瓢箪に酒を入れて持って来て、わたしに飲ませてくれました。あの時の酒の味はよほど身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の味を忘れますまい。」
「あれから、十年にもなりますものね。」と半蔵も言った。
お粂がその時、吸い物の向こう
付けになるようなものを盆にのせて持って来た。お民はそれを客にすすめながら、
「
蕨でございますよ。」
「今時分、蕨とはめずらしい。」正香が言う。
「これは春先の若い蕨を
塩漬けにして置いたものですが、塩をもどして、薄味で煮て見ました。御酒の好きな方には、お口に合うかもしれません。一つ召し上がって見てください。」
「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度お
訪ねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみお目にかかるのは、今度初めてです。よいお嬢さんもおありなさる。」
正香の口から聞けば、木曾のような水の清いところに
生い育つものは違うというようなことも、そうわざとらしくない。お民は自分の娘のことを客の方から言い出されたうれしさに、
「おかげさまで、あれも近いうちに伊那の方へ縁づくことになりました。」
と言って見せた。
正香も伊那の放浪時代と違い、もはや御一新の大きな波にもまれぬいて来たような人である。お民が店座敷から出て行くのを見送った後、半蔵は日ごろ心にかかる平田一門の前途のことなぞをこの先輩の前に持ち出した。
「青山君、あれで老先生(平田
鉄胤のこと)も、もう十年若くして置きたかったね。」と正香は盃を重ねながら言った。「明治御一新の声を聞いた時に、先生は六十七歳の老年だからね。先生を中心にした時代は――まあ、実際の話が、明治の三年までだね。」
「あの年の六月には、先生も大学の方をお
辞めになったように聞いていますが。」と半蔵も言って見る。
「見たまえ。」という正香の目はかがやいて来た。「われわれはお互いに十年の後を期した。こんなに早く国学者の認められる時が来ようとも思わなかった。そりゃ、この大政の復古が建武中興の昔に帰るようなことであっちゃならない、
神武の創業にまで帰って行くことでなくちゃならない――ああいうことを唱え出したのも、あの玉松あたりさ。復古はお互いの信条だからね。しかし君、復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあるのさ。そう無造作にできるものが、復古じゃない。ところが世間の人はそうは思いませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言い出した。それこそ、
猫も、
杓子もですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行なわれましたね。ところが君、その結果は、というと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい。」
「暮田さん、」と半蔵はほんのりいい色になって来た正香の顔をながめながら、さらに話しつづけた。「わたしなぞは、これからだと思っていますよ。」
「それさ。」
「われわれはまだ、踏み出したばかりじゃありませんかね。」
「君の言うとおりさ。今になってよく考えて見ると、何十年かかったらこの御一新がほんとうに成就されるものか、ちょいと見当がつかない。あれで鉄胤先生なぞの意志も、政治を高めるというところにあったろうし、同門には
越前の
中根雪江のような人もあって、ずいぶん先生を助けもしたろうがね、いかな先生も年には勝てない。この御一新の序幕の中で、先生も老いて行かれたようなものさね。まだそれでも、明治四年あたりまではよかった。版籍を奉還した諸侯が知事でいて、その下に立つ旧藩の人たちが民政をやった時分には、すくなくも御一新の成就するまではと言ったものだし、また実際それを心がけた藩もあった。いよいよ廃藩の実行となると、こいつがやかましい。江戸大城の明け渡しには異議なしでも、自分らの城まで明け渡せとなると、中には考えてしまった藩もあるからね。一方には郡県の政治が始まる。官吏の就職運動が激しくなる。成り上がり者の官吏の中にはむやみといばりたがるような乱暴なやつが出て来る。さっきも君の話のように、なかなか地方の官吏にはその人も得られないのさ。国家の事業は窮屈な官業に混同されてしまって、この調子で行ったらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんなはずじゃなかったと思うでしょう。見たまえ、この際、力をかつぎ出そうとする連中なぞが士族仲間から頭を持ち上げて来ましたぜ。
征韓、征韓――あの声はどうです。もとより
膺懲のことは忘れてはならない。たとい外国と和親を結んでも、曲直は明らかにせねばならない。国内の不正もまたたださねばならない。それはもう当然なことです。しかし全国人民の後ろ
楯なしに、そんな力がかつぎ出せるものか、どうか。なるほど、不平のやりどころのない士族はそれで納まるかもしれないが、百姓や町人はどうなろう。御一新の成就もまだおぼつかないところへ持って来て、また中世を造るようなことがあっちゃならない。早く中世をのがれよというのが、あの本居先生なぞの教えたことじゃなかったですか……」
酒の酔いが回るにつれて、正香は日ごろ
愛誦する
杜詩でも読んで見たいと言い出し、半蔵がそこへ取り出して来た幾冊かの和本の集注を手に取って見た。正香はそれを半蔵に聞かせようとして、何か自身に気に入ったものをというふうに、
浣花渓の草堂の詩を読もうか、秋興八首を読もうかと言いながら、しきりにあれかこれかと繰りひろげていた。
「ある。ある。」
その時、正香は
行燈の方へすこし身を寄せ、一語一句にもゆっくりと心をこめて、杜詩の一つを静かに声を出して読んだ。
袴不
二餓死
一、儒冠多誤
レ身
丈人試静聴、賤子請具陳
甫昔少年日、早充
二観国賓
一
読
レ書破
二万巻
一、 下
レ筆如
レ有
レ神
賦料
二楊雄敵
一、詩看
二子建親
一
李
求
レ識
レ面、王翰願
レ卜
レ隣
自謂頗挺出、立登
二要路津
一
致
二君堯舜上
一、再使
二風俗淳
一
此意竟蕭条、……………
そこまで読みかけると、正香はその先を読めなかった。「この
意、
竟に
蕭条」というくだりを繰り返し半蔵に読み聞かせるうちに、熱い涙がその男らしい
頬を伝って止め度もなく流れ落ちた。
五
正香は一晩しか半蔵の家に
逗留しなかった。
「青山君、わたしも賀茂の方へ行って、深いため息でもついて来ますよ。」
との言葉を残して、翌朝早く正香は
馬籠を立とうとしていた。頼んで置いた
軽尻馬も来た。馬の口をとる村の男はそれを半蔵の家の門内まで引き入れ、表玄関の式台の前で小付け荷物なぞを
鞍に結びつけた。
「お
母さん、暮田さんのお立ちですよ。」
と娘に呼ばれて、お民も和助(半蔵の四男)を抱きながらそこへ飛んで出て来る。
「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください。」
とお民は言った。
半蔵はじめ、お民、お粂から下男の佐吉まで門の外に出て馬上の正香を見送った。動いて行く
檜笠が坂になった馬籠の町の下の方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったのである。その時、半蔵は正香の仕えに行く賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が
伊勢神宮に次ぐ高い格式のものと聞くことなぞを語り聞かせた。平安朝と言った昔は、歴代の
内親王が
一人は伊勢の
斎の
宮となられ、一人は賀茂の斎の宮となられる風習となっていたと聞くことなぞをも語り聞かせた。
正香も行ってしまった。例のように半蔵はその日も万福寺内の敬義学校の方へ村の子供たちを教えに出かけて、相手と頼む
松雲和尚にも前夜の客のことを話したが、午後にそこから引き返して見ると、正香の立って行ったあとには名状しがたい空虚が残った。半蔵はそこにいない先輩の前へ復古の道を持って行って考えて見た。彼の
旧い学友、中津川の景蔵や香蔵などが寝食も忘れるばかりに競い合って、互いに突き入ったのもその道だ。そこには四つの像がある。彼は自分の心も柔らかく物にも感じやすい年ごろに受けた影響がこんなにも深く自分の半生を支配するかと思って見て、心ひそかに驚くことさえある。彼はまた平田一門の前途についても考えて見た。
その時になって見ると、先師没後の門人が全国で四千人にも達した明治元年あたりを平田派全盛時代の頂上とする。伊那の谷あたりの最も篤胤研究のさかんであった地方では、あの年の平田入門者なるものは一年間百二十人の多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には
倉沢義髄を出し、南には
片桐春一、北原稲雄、原
信好を出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の
上木頒布に、山吹社中発起の
条山神社の創設に、ほとんど平田研発者の苗床ともいうべき
谷間であった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて
太政官中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、
帝には国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸したもうたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった。
六
王政第六の秋立つころを迎えながら、山里へは新時代の来ることもおそい。いよいよ
享保以前への復古もむなしく、木曾川上流の沿岸から奥地へかけての多数の住民は山にもたよれなかった。山林規則の何たるをわきまえないものが窮迫のあまり、官有林にはいって、盗伐の罪を犯し処刑をこうむるものは増すばかり。そのたびに徴せらるる
贖罪の金だけでも谷中ではすくなからぬ高に上ろうとのうわささえある。
世は革新の声で満たされている中で、半蔵が踏み出して見た世界の実際すらこのとおり薄暗い。まして娘お粂なぞの住んでいるところは、長いこと彼女らのこもり暮らして来た深い窓の下だ。そこにある空気はまだ重かった。
こころみに、十五代将軍としての
徳川慶喜が置き
土産とも言うべき改革の結果がこの街道にもあらわれて来る前までは、女は手形なしに関所も通れなかった時代のあったことを想像して見るがいい。従来、「
出女、入り鉄砲」などと言われ、女の旅は関所関所で食い留められ、
髪長、尼、
比丘尼、
髪切、
少女などと一々その風俗を区別され、乳まで探られなければ通行することも許されなかったほどの封建時代が過去に長く続いたことを想像して見るがいい。高山霊場の女人禁制は言うまでもなく、普通民家の造り酒屋にある酒蔵のようなところにまで女は遠ざけられていたことを想像して見るがいい。幾時代かの伝習はその抗しがたい
手枷足枷で女をとらえた。そして、この国の女を変えた。遠い日本古代の婦人に見るような、あの幸福で自己を
恃むことが厚い、
種々な美しい性質の多くは隠れてしまった。こころみにまた、それらの不自由さの中にも生きなければならない当時の娘たちが、全く家に閉じこめられ、すべての外界から絶縁されていたことを想像して見るがいい。しかもこの外界との無交渉ということは、彼女らが一生涯の定めとされ、歯を染め
眉を落としてかしずく彼女らが配偶者となる人の以外にはほとんど何の交渉をも持てなかったことを想像して見るがいい。こんなに深くこもり暮らして来た窓の下にいて、長い鎖国にもたとえて見たいようなその境涯から当時の若い娘たちが養い得た気風とは、いったい、どんなものか。言って見れば、早熟だ。
馬籠旧本陣の娘とてもこの例にはもれない。祖母おまんのような厳格な監督者からお粂のやかましく言われて来たことは、夜の
枕にまで及んでいた。それは
砧ともいい
御守殿ともいう木造りの形のものに限られ、その上でも守らねばならない教訓があった。固い小枕の紙の上で髪をこわさないように眠ることはもとより、目をつぶったまま寝返りは打つまいぞとさえ戒められて来たほどである。この娘が早く知恵のついた証拠には、「おゝ、耳がかゆい」と母親のそばに寄って、何かよい事を母親にきかせてくれと言ったのは、まだ彼女が十四、五の年ごろのことであった。この早熟は、ひとりお粂のような娘のみにかぎらない。彼女の周囲にある娘たちは十六ぐらいでも皆おとなだった。
しかし、こんな娘たちの深い窓のところへも、この国全体としての
覚醒を促すような御一新がいつのまにかこっそり戸をたたきに来た。あだかも燃ゆるがごとき熱望にみち、
温かい情感にあふれ、あの
昂然とした独立独歩の足どりで、早くこの戸を明け放てと告げに来る人のように。過ぐる明治四年の十一月、岩倉大使一行に
随って洋学修業のためはるばる米国へ旅立った五名の女子があるなぞはその一つだ。それは北海道開拓使から送られた日本最初の女子留学生であると言われ、十五歳の
吉益亮子嬢、十二歳の
山川捨松嬢なぞのいたいけな年ごろの娘たちで、中にはようやく八歳になる
津田梅子嬢のような娘もまじっていたとか。大変な評判で、いずれも前もって渡された洋行心得書を
懐中にし、成業帰朝の上は婦女の模範ともなれとの声に励まされ、
稚児髷に紋付
振袖の風俗で踏み出したとのことであるが、横浜港の方にある第一の美麗な飛脚船、太平洋汽船会社のアメリカ号、四千五百トンからの大船がこの娘たちを乗せて動いて行ったという夢のような光景は、街道筋にいて伝え聞くものにすら、新世界の舞台に向かってかけ出そうとするこの国のあがきを感じさせずには置かなかった。追い追いと女学もお取り建ての時勢に向かって、欧米教育事業の視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中
不二麿が中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化の波が押し寄せ、一方には朝鮮征伐の声が激し、
旧い物と新しい物とが入れまじって、何がこの先見えて来るやかもわからないような暗い動揺の空気の中で、どうして娘たちの心ばかりそう静かにしていられたろう。
九月にはいると、お粂が結婚のしたくのことについて、南殿村の稲葉の方からはすでにいろいろと打ち合わせがある。
嫁女道中も三日がかりとして、
飯田泊まりの日は
伝馬町屋。二日目には
飯島扇屋泊まり。三日目に南殿村着。もっとも、馬籠から飯田まで宿継ぎの送り人足を出してくれるなら、そこへ迎えの人足を差し出そうというようなことまで、先方からは打ち合わせが来ている。
「お粂、よい晴れ着ができましたよ。どれ、お
父さんにもお目にかけて。」
お民は娘のために新調した結婚の
衣裳を家の女衆に見せて、よろこんでもらおうとしたばかりでなく、それを店座敷にまで抱きかかえて行って、夫のいる
部屋の
襖に掛けて見せた。
男の目にも好ましい純白な晴れ着がその襖にかかった。二尺あまりの振袖からは、紅梅のような裏地の色がこぼれて、白と紅とのうつりも悪くなかったが、それにもまして半蔵の心を引いたのは衣裳全体の長さから受ける娘らしい感じであった。
卍くずしの
紗綾形模様のついた
白綾子なぞに比べると、彼の目にあるものはそれほど特色がきわだたないかわりに、いかにも旧庄屋
風情の娘にふさわしい。色は
清楚に、情は青春をしのばせる。
不幸にも、これほどお民の母親らしい心づかいからできた新調の晴れ着も、さほど娘を楽しませなかった。余すところはもはや二十日ばかり、結婚の日取りが近づけば近づくほど、ほとほとお粂は「笑い」を失った。
七
青山の家の表玄関に近いところでは
筬の音もしない。弟宗太のためにお粂が織りかけていた帯は仕上げに近かったが、
機の道具だけが板敷きのところに休ませてある。お粂も織ることに
倦んだかして、そこに姿を見せない時だ。
お民は
囲炉裏ばたからこの機のそばを通って、廊下つづきの店座敷の方に夫を見に来た。ちょうど半蔵は
部屋にいないで、前庭の
牡丹の下あたりを余念もなく掃いているところであった。
「お民、お粂の
吾家にいるのも、もうわずかになったね。」
と半蔵が
竹箒を手にしながら言った。
なんと言っても、人
一人の動きだ。娘を無事に送り出すまでの親たちの心づかいも、容易ではなかった。ことに半蔵としては眼前の事にばかり心を奪われている場合でもなく、同門の先輩正香ですらややもすれば押し流されそうに見えるほど、進むに
難い時勢に際会している。この半蔵は庭
下駄のまま店座敷の縁先に来て腰掛けながら、
「おれもまあ、考えてばかりいたところでしかたがない。あの暮田さんを見送ってからというもの、毎日毎日学校から帰ると腕ばかり組んでいたぞ。」
と妻に言って見せる。
お民の方でもそれはみて取った。彼女は山林事件当時の夫に懲りている。娘の嫁入りじたくもここまで来た上は、男に相談してもしかたのないようなことまでそう話しかけようとはしていない。それよりも、どんな着物を造ってくれても楽しそうな顔も見せないお粂の様子を話しに来ている。
「でも、あの稲葉の家も、行き届いたものじゃありませんか。」とお民が言い出した。「ごらんなさい、お粂が
嫁いて行く当日に、
鉄漿親へ出す
土産の事まで先方から気をつけてよこして、
反物で一円くらいのことにしたいと言って来ましたよ。お粂に付き添いの女中もなるべくは省いてもらいたいが、もし付けてよこすなら、その人だけ四日前によこしてもらいたい、そんなことまで言って来ましたよ。」
「四日前とはどういうつもりだい。」
「そりゃ、あなた、式の当日となってまごつかないように、部屋に慣れて置くことでしょうに。よほどの親切がなけりゃ、そんなことまで先方から気をつけてよこすもんじゃありません。ありがたいと思っていい。あなたからもそのことをお粂によく言ってください。」
「待ってくれ。そりゃおれからも言って置こうがね、いったい、この縁談はお粂だっていやじゃないんだろう。ただ娘ごころに決心がつきかねているだけのことなんだろう。おれの家じゃお前、お
母さん(おまんのこと)は神聖な人さ。その人があれならばと言って、見立ててくだすったお婿さんだもの、悪かろうはずもなかろうじゃないか。」
「何にしても、ああ、お粂のように黙ってしまったんじゃ、どうしようもありませんよ。何を造ってくれても、よろこびもしない。わたしも一つあの子に言って聞かせるつもりで、このお嫁入りのしたくが少しぐらいのお金でできると思ったら、それこそ大違いだよ。こんなに皆が心配してあげる。お前だってよっぽど本気になってもらわにゃならないッて、ね。その時のあれの返事に、そうお
母さんのように心配してくださるな、わたしもお
父さんの娘です、そう言うんです。」
「……」
「そうかと思うと、
神霊さまと一緒にいれば寂しくない、どうぞ神霊さま、わたしをお守りくださいなんて、そんなことを言い出すんです。」
「……」
「まあ、あれでお粂も、お父さん思いだ。あなたの言うことならよく聞きますね。あなたからもよく言って聞かせてください。」
「そうお民のように、心配したものでもなかろうとおれは思うよ。いざとなってごらん、お粂だって決心がつこうじゃないか。」
半蔵は
下駄を脱ぎ捨てて、その時、店座敷の畳の上を歩き回った。庭の
牡丹へ来る風の音までがなんとなく秋めいて、娘が家のものと一緒に暮らす日の残りすくなになったことを思わせる。とかく物言いのたどたどしいあのお粂とても、彼女をこの世に育ててくれた周囲の人々に対する感謝を忘れるような娘でないことは、半蔵にもそれが感じられていた。それらの人々に対する彼女の愛情は平素のことがよくそれを語っていた。十八歳のその日まで、ただただ
慈しみをもって
繞ってくれる周囲の人々の心を落胆させてこころよしとするような、そんな娘でないことは半蔵もよく知って、その点にかけては彼も娘に心を許していたのである。
今さら、朝鮮あたりの娘のことをここに引き合いに出すのもすこし突然ではあるが、
両班という階級の娘の嫁に行く夜を見たという人の話にはこんなことがある。赤、青、黄の原色美しい
綾衣に、人形のように飾り立てられた彼女は、そこに生けるものとは思われなかったとか。飽くまで厚く塗り込められた
白粉は、夜の光にむしろ青く、その目は固く眠って、その
睫毛がいたずらに長いように思われたとか。彼女は全く歩行する能力をも失ったかのようにして人々の肩にかつがれ、
輿に乗せられて
生贄を送るというふうに、親たちに泣かれて
嫁いだのであった。きけば、彼女はその夜から三日の間は昼夜をわかたず、その目を開くことができないのであるという。それは開こうとしても開き得ないのであった。彼女の目は、上下の
睫毛を全く
糊に塗り固められ(またある地方ではきわめて濃い、固い
鬢つけ油を用う)、閉じられているのであったという。これは何を意味するかなら、要するに「見るな」だ。風俗も異なり習慣も異なる朝鮮の
両班と、木曾の
旧い本陣とは一緒にはならないが、しかし青山の家でもやはりその「見るな」で、娘お粂に
白無垢をまとわせ、白の綿帽子をかぶらせることにして、その一生に一度の晴れの儀式に臨ませる日を待った。すでに隣家伏見屋の伊之助夫婦からは、お粂のために心をこめた贈り物がある。
桝田屋からは何を祝ってくれ、
蓬莱屋からも何を祝ってくれたというたびに、めずらしいもの好きの弟たちまで大はしゃぎだ。しかし、かんじんのお粂はどうかすると寝たりなぞする。彼女は、北の上段の
間に人を避け、
産土神さまの祭ってある神殿に隠れて、うす暗くなるまでひとりでそこにすわっていることもある。行くものはさっさと行け。それを半蔵はいろいろなことで娘に教えて見せていたし、お民はまたお民で、土蔵のなかにしまってある古い
雛まで娘に持たせてやりたいと言って、早くお粂の身を堅めさせ、自分も安心したいというよりほかの念慮も持たないのであった。
こういう時の半蔵夫婦の相談相手は、栄吉(半蔵の
従兄)と清助とであった。例の囲炉裏ばたに続いた
寛ぎの
間にはそれらの人たちが集まって、嫁女の同伴人はだれとだれ、供の男はだれにするかなぞとの前もっての相談があった。妻籠の寿平次の言い草ではないが、娘が泣いてもなんでも皆で寄って祝ってしまえ、したく万端手落ちのないように取りはからえというのが、栄吉らの意見だった。
「半蔵さま、お粂さまの荷物はどうなさるなし。」
そんなことを言って、峠村の平兵衛も半蔵を見にやって来る。周旋奔走を得意にするこの平兵衛は、旧組頭の廃止になった今でも、峠のお
頭で通る。
「荷物か。荷物は式のある四、五日前に送り届ければいい。当日は混雑しないようにッて、先方から言って来た。荷回し人はおぼしめし次第だ、そんなことも言って来たが、
中牛馬会社に頼んで、飯田まで
継立てにするのが便利かもしれないな。」
半蔵の
挨拶だ。
九月四日は西が吹いて、風当たりの強いこの峠の上を通り過ぎた。
払暁はことに強く当てた。青山の家の裏にある
稲荷のそばの
栗もだいぶ落ちた。お粂は一日
機に取りついて、ただただ表情のない器械のような
筬の音を響かせていたが、弟宗太のためにと
丹精した帯地をその夕方までに織り終わった。そこへお民が見に来た。お粂も織ることは好きで、こういうことはかなり巧者にやってのける娘だ。まだ
藍の香のするようなその帯地の出来をお民もほめて、やがて勝手の方へ行ったあとでも、お粂はそこを動かずにいた。仕上げた機のそばに立つ彼女の娘らしい
額つきは父半蔵そのままである。黒目がちな大きな目は何をみるでもない。じっとそこに立ったまましばらく動かずにいるこの娘の
容貌には、一日織った疲れに抵抗しようとする表情のほかに浮かぶものもない。涙一滴流れるでもない。しかもその自分で自分の
袂をつかむ手は堅く握りしめて、震えるほど力を入れていた。無言の悲しみを
制えるかのように。
その晩はもはや
宵から月のあるころではなかった。店座敷の障子にあの松の影の映って見えたころは、毎晩のようにお粂もよく裏庭の方へ歩きに出て、月の光のさし入った木の下なぞをあちこちあちこちとさまよった。それは四、五日前のことでお民も別に気にもとめずにいた。その晩のように月の上るのもおそいころになって、また娘が勝手口の木戸から
屋外へ歩きに出るのを見ると、お民は嫁入り前のからだに風でも引かせてはとの心配から、土間にある庭下駄もそこそこに娘を呼び
戻しに出た。底青く光る夜の空よりほかにお民の目に映るものもない。勝手の流しもとの外あたりでは、しきりに虫がなく。
「お粂。」
その母親の呼び声を聞きつけて、娘は暗い土蔵の前の
柿の木の下あたりから引き返して来た。
その翌日も青山の家のものは事のない一日を送った。夕飯後のことであった。下男の佐吉は裏の木小屋に忘れ物をしたと言って、それを取りに囲炉裏ばたを離れたぎり容易に帰って来ない。そのうちに引き返して来て、彼が
閉めて置いたはずの土蔵の戸が閉まっていないことを半蔵にもお民にも告げた。その時は裏の隠居所から食事に通うおまんもまだ囲炉裏ばたに話し込んでいた。見ると、お粂がいない。それから家のものが騒ぎ出して、半蔵と佐吉とは
提灯つけながら土蔵の方へ急いだ。おまんも、お民もそのあとに続いた。暗い土蔵の二階、二つ並べた古い長持のそばに倒れていたのは他のものでもなかった。自害を企てた娘お粂がそこに見いだされた。
[#改頁]
第十章
一
青山の家に起こった悲劇は狭い
馬籠の町内へ知れ渡らずにはいなかった。馬籠は飲用水に乏しい土地柄であるが、そのかわり、奥山の方にはこうした山地でなければ得られないような、たまやかな水がわく。
樋を通して呼んである水は共同の
水槽のところでくめる。そこにあふれる山の泉のすずしさ。深い掘り井戸でも家に持たないかぎりのものは、女でも
天秤棒を肩にかけ、
手桶をかついで、そこから水を運ばねばならぬ。南側の町裏に当たる
崖下の位置に、静かな細道に添い、
杉や
榎の木の影を落としているあたりは、水くみの女どもが集まる場所で、町内の出来事はその隠れた位置で手に取るようにわかった。
うわさは実にとりどりであった。あるものは旧本陣の娘のことをその夜のうちに知ったと言い、あるものは翌朝になって知ったと言う。寄るとさわると、そこへ水くみに集まるもののうわさはお粂のことで持ち切った。あの娘が絶命するまでに至らなかったのは、全く家のものが早く見つけて手当てのよかったためであるが、何しろ重態で、助かる
生命であるかどうかはだれも知らない。変事を聞いて夜中に
駕籠でかけつけて来た山口村の医者
杏庵老人ですら、それは知らないとのこと。この山里に住むものの中には、青山の家の昔を知っていて、先代吉左衛門の祖父に当たる七郎兵衛のことを引き合いに出し、その人は二、三の同僚と共に木曾川へ魚を
捕りに行って、隣村山口の
八重島、
字龍というところで、ついに
河の水におぼれたことを言って、今度の悲劇もそれを何かの
祟りに結びつけるものもあった。
門外のもののうわさがこんなに娘お粂の身に集まったのも不思議はない。青山の家のものにすら、お粂が企てた自害の
謎は解けなかった。ともあれ、この出来事があってからの四、五日というものは、家のものにはそれが四十日にも五十日にも当たった。その間、お粂が生死の境をさまよっていて、飲食するものも
喉に下りかねるからであった。
にわかに半蔵も年取った。一晩の心配は彼を十年も
老けさした。父としての彼がいろいろな人の見舞いを受けるたびに答えうることは、このとおり自分はまだ取り乱していると言うのほかはなかったのである。その彼が言うことには、この際、自分はまだ何もよく考えられない。しかし、治療のかいあって、追い追いと娘も快い方に向かって来ているから、どうやら一命を取りとめそうに見える。娘のことから皆にこんな心配をかけて済まなかった。これを機会に、自分としても過去を清算し、もっと新しい
生涯にはいりたいと思い立つようになった。そんなふうに彼は見舞いの人々に言って見せた。時には彼は村の子供たちを教えることから帰って来て、
袴も着けたままお粂の様子を見に行くことがある。
母屋の奥座敷には
屏風をかこい、土蔵の方から移された娘のからだがそこに安静にさせてある。娘はまだ顔も
腫れ、短刀で刺した喉の傷口に巻いてある白い布も目について、見るからに胸もふさがるばかり。変わり果てたこの娘の
相貌には、お民が驚きも一通りではない。彼女は悲しがって、娘を助けたさの母の一心から、裏の
稲荷へお百度なぞを踏みはじめている。
木曾谷でも最も古い家族の一つと言わるる青山のような家に生まれながら、しかもはなやかな結婚の日を前に控えて、どうしてお粂がそんな
了簡違いをしたろうということは、彼女の周囲にある親しい人たちの間にもいろいろと問題になった。寿平次の妻お里は
妻籠から、半蔵が
旧い
弟子の
勝重は
落合から、いずれも驚き顔に半蔵のところへ見舞いに来て、隣家の主人伊之助と落ち合った時にも、その話が出る。娘心に、この世をはかなんだものだろうか、と言って見るのは勝重だ。もっと学問の道にでも進みたかったものか、と言って見るのはお里だ。十八やそこいらのうら若さで、そうはっきりした考えから動いたことでもないのであろう、おそらく当人もそこまで行くつもりはなかったのであろう、それにしてもだれかあの利発な娘を導く良い案内者をほしかった、と言って見るのは伊之助だ。いや、たまたまこれはお粂の
生娘であった証拠で、おとこおんなの契りを一大事のように思い込み、その一生に一度の晴れの儀式の前に目がくらんだものであろう、と言って見るものもある。お粂の平常を考えても、あの
生先籠る望み多いからだで、そんな悪い鬼にさいなまれていようとは思いがけなかったと言って、感じやすいもののみが知るようなさみしいこころのありさまにまでお粂の
行為を持って行って見るものもある。
その時になると、半蔵は伊那南殿村の稲葉家へあててありのままにこの出来事を書き送り、結婚の約束を解いてもらうよりほかに娘を救う方法も見当たらなかった。しかし、すでに
結納の品を取りかわし、
箪笥、長持から、針箱の
類まで取りそろえてお粂を待っていてくれるという先方の厚意に対しても、いったん親として約諾したことを破るという手紙は容易に書けなかった。せめて
仲人のもとまでと思いながら、かねて
吉辰良日として申し合わせのあった日に当たる九月二十二日が来ても、彼にはその手紙が書けない。月の末にも書けない。とうとう十月の半ばまで延引して、彼は書くべき断わり手紙の下書きまで用意しながら、いざとなると筆が進まなかった。
「拝啓。冷気相増し候ところ、皆々様おそろいますます御清適に渡らせられ、敬寿たてまつり候。陳れば、昨冬以来だんだん御懇情なし下されし娘粂儀、南殿村稲葉氏へ縁談御約諾申し上げ置き候ところ、図らずも心得違いにて去月五日土蔵二階にて自刃に及び、母妻ら早速見つけて押しとどめ、親類うち寄り種々申し諭し、医療を加え候ところ、四、五日は飲食も喉に下りかねよほどの難治に相見え申し候。幸い療養の効ありて、追い追いと快方におもむき、この節は食事も障りなく、疵は日に増し癒え候方に向かいたれども、気分いまだ平静に相成らざる容体にて、心配の至りに御座候。実もって、家内一同へすこしもその様子は見せ申さず、皆々心付け申さず、かかる挙動に及び候儀、言語に絶し、女心とは申しながら遺憾すくなからず、定めし稲葉氏には御用意等も追い追い遊ばされ候儀と推察たてまつり、南殿村へ対しなんとも申し上げようも御座なく候。右につき、御契約の儀は縁なきこととおあきらめ下され、お解き下され候よう、尊公様より厚く御詫びを願いたく候。気随の娘、首切って御渡し申すべきか、いかようとも謝罪の儀は貴命に従い申すべく候。かねて御引き取りの御約束にこれあり候ことゆえ、定めて諸事御支度あらせられ候ことと推察たてまつり、早速にもこの儀、人をもって申し上ぐべきはずに候えども、種々取り込みまかりあり、不本意ながらも今日まで延引相成り申し候。縁談の儀は旧好を続ぎ、親を厚うし候ことにて、双方よかれと存じ候事に候えども、当人種々娘ごころを案じめぐらせし上にもこれあり候か、了簡違いつかまつり、いかんとも両親の心底にも任せがたく候間、この段厚く御海恕なし下され候よう願い上げたてまつり候。遠からず人をもって御詫び申し上ぐべく候えども、まずまず尊公様までこの段申し上げ候。何卒、南殿村へはくれぐれも厚く御詫び下さるよう、小生よりは申し上ぐべき言葉も御座なく候。まずは右、御願いまで、かくのごとくに御座候。
よかれとて契りしことも今ははたうらみらるべきはしとなりにき
尚々、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」
ようやく十月の二十三日に、半蔵は仲人あてのこの書きにくい手紙を書いた。書いて見ると、最初からこの縁談を取りまとめるためにすくなからず骨折ってくれた継母おまんのことがそこへ浮かんで来る。目上のものの言うことは実に絶対で、親子たりとも主従の関係に近く、ほとほと個人の自由の認めらるべくもない封建道徳の世の中に鍛えられて来たおまんのような婦人が、はたしてほんとうに不幸な孫娘を許すか、どうかも彼には気づかわれる。
「お民。」
半蔵は妻を呼んで、当時にはまだ目新しい一銭の郵便切手を二枚
貼って出す前に、この手紙を彼女にも読み聞かせた。
「あなたが、もっと自分の娘のことを考えてくれたら、こんなことにはならなかった。」
お民はそれを言い出しながら、夫のそばにいてすすり泣いた。
これには半蔵も返す言葉がない。山林事件の当時、彼は木曾山を失おうとする地方人民のために日夜の奔走を続けていて、その方に心を奪われ、ほとんど家をも妻子をも顧みるいとまがなかった。彼は義理堅い継母からも、すすり泣く妻からも、傷ついた娘からも、自分で自分のしたことのつらい
復讐を受けねばならなかった。
ある日、彼は奥座敷に娘を見に行った。お粂が顔の
腫れも次第に引いて来たころだ。彼はうれしさのあまり、そこに眠っている娘の額や
頬に自分の
掌を当てたりなぞして、めっきり回復したそのようすを見直した。その時、お粂は例の大きな黒目がちな目を見開きながら、
「お
父さん、申しわけがありません。わたしが悪うございました。もう一度――もう一度わたしも生まれかわったつもりになってやりますから、今度のことは
堪忍してください。」
「おゝ、お粂もそこへ気がついたか。」
と彼は言って見せた。
十一月にはいって、峠のお
頭平兵衛は伊那南殿村への訪問先から引き返して来た。その用向きは、半蔵の意をうけて稲葉家の人々にあい、ありのままにお粂の様子を伝え、縁談解約のことを申し入れるためであった。平兵衛が先方の返事を持ち帰って見ると、稲葉の主人をはじめ先方では非常に残念がり、そういう娘こそ見どころがあると言って、改めてこの縁談をまとめたいと言って来た。
この稲葉家の厚意は一層事をめんどうにした。そこには、どこまでも
生家と青山の家との旧好を続けたいという継母おまんが強い意志も働き、それほどの先方の厚意を押し切るということは、半蔵としても容易でなかったからである。
武士としてもすぐれた坂本孫四郎(号天山)のような人を祖父に持つおまんの心底をたたくなら、半蔵なぞはほとんど彼女の眼中にない。彼女に言わせると、これというのも実は半蔵が行き届かないからだ。彼半蔵が平常も人並みではなくて、おかしい事ばかり。そのために彼女まで人でなしにされて、全く
生家の人たちには合わせる顔がない。彼女はその調子だ。このおまんは傷口の直ったばかりのような孫娘を自分の前に置いて、まだ顔色も青ざめているお粂に、いろいろとありがたい稲葉家の厚意を言い聞かせた。なお、あまりに義理が重なるからとおまんは言って、栄吉その他のものまで頼み、それらの
親戚の口からも、さまざまに理解するよう娘に言いさとした。お粂はそこへ手をついて、ただただ恥ずかしいまま、お許しくだされたいとばかり。別に委細を語らない。これにはおまんも嘆息してしまった。
半蔵は、血と血の苦しい抗争が沈黙の形であらわれているのをそこに見た。いろいろと
生家に掛けた費用のことを思い、世間の評議をも
懸念して、これがもし実の
孫子であったら、いかようにも分別があると言いたげな飽くまで義理堅い継母の様子は、ありありとその顔色にあらわれていた。お粂は、と見ると、これはわずかに
活き返ったばかりの娘だ。せっかく立て直ろうとしている小さな胸に同じ事を苦しませるとしたら、またまた何をしでかすやも測りがたかった。この際、彼の取るべき方法は、妻のお民と共に継母をなだめて、目に見えない
手枷足枷から娘を救い出すのほかはなかった。
「ますます単純に。」
その声を彼は耳の底にききつけた。そして、あとからあとから彼の身辺にまといついて来る幾多の情実を払いのけて、新たな
路を開きたいとの心を深くした。今は
躊躇すべき時でもなかった。彼としては、事を単純にするの一手だ。
そこで彼は稲葉氏あてに、さらに手紙を書いた。それを南殿村への最後の断わりの言葉にかえようとした。
「尊翰拝見仕り候。小春の節に御座候ところ、御渾家御揃い遊ばされ、ますます御機嫌よく渡らせられ、恭賀たてまつり候。降って弊宅異儀なく罷りあり候間、憚りながら御放念下されたく候。陳れば、愚娘儀につき、先ごろ峠村の平兵衛参上いたさせ候ところ、重々ありがたき御厚情のほど、同人よりうけたまわり、まことにもって申すべき謝辞も御座なき次第、小生ら夫妻は申すに及ばず、老母ならびに近親のものまでも御懇情のほど数度説諭に及び候ところ、当人においても段々御慈悲をもって万端御配慮なし下され候儀、浅からず存じ入り、参上を否み候儀は毛頭これなく候えども、不了簡の挙動、自業自悔、親類のほかは町内にても他人への面会は憚り多く、今もって隣家へ浴湯にも至り申さざるほどに御座候。右の次第、そのもとへ参り候儀、おおかた恥ずかしく、御家族様方を初め御親類衆様方へ対し奉り、女心の慚愧耐えがたき儀につき、なにぶんにも参上つかまつりかね候よし申しいで候。小生らにおいても御厚意を奉体つかまつらざる場合に落ち行き、苦慮一方ならず、この段御宥恕なし下されたく、尊君様より皆々様へ厚く御詫び申し上げ候よう幾重にも願いたてまつり候。右貴答早速申し上ぐべきところ、愚娘説諭方数度に及び、存外の遅延、かさねがさねの多罪、ひたすら御海恕下されたく候。尚々、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」
二
とうとう、半蔵もこんな風雨をしのいで一生の旅の峠にさしかかった。人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。平田門人としての彼は、復古の夢の成りがたさにも、同門の人たちの
蹉跌にも、つくづくそれを知って来た。ただほんとうに心配する人たちのみがこの世に残して行くような誠実の感じられるものがあって、それを何ものにも換えがたく思う心から、彼のような人間でも行き倒れずにどうやらその年まで諸先輩の足跡をたどりつづけて来た。過去を振り返ると、彼が父吉左衛門の許しを得て、最初の江戸の旅に平田
鉄胤の門をたたき、誓詞、酒魚料、それに
扇子壱箱を持参し、平田門人の台帳に彼の名をも書き入れてもらったのは安政三年の昔であって、浅い師弟の契りとも彼には思われなかった。その師にすら、「ここまではお前たちを案内して来たが、ここから先の旅はお前たち各自に思い思いの道をたどれ」と言わるるような時節が到来した。これは全く自然の
暇乞いで、その年、明治六年には師ももはや七十二歳の老齢を迎えられたからである。この心ぼそさに加えて、前年の正月には彼は平田
延胤若先生の死をも見送った。平田派中心の人物として一門の人たちから前途に多くの望みをかけられたあの延胤が四十五歳で没したことは、なんと言っても国学者仲間にとっての大きな損失である。追い追いの冷たい風は半蔵の身にもしみて来た。そこへ彼の娘まで
深傷を負った。感じられはしても、説き明かせないこの世の深さ。あの
稲妻のひらめきさえもが、時としては人に徹する。生きることのはかなさ、苦しさ、あるいは恐ろしさが人に徹するのは、こういう時かと疑われるほど、彼も取り乱した日を送って来た。この彼が過去を清算し、もっと彼自身を新しくしたいとの願いから、ようやく起こし得た心というは、ほかでもない。それは平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとする心であった。
半蔵も動いて来た。時にはこのまま
村夫子の身に甘んじて無学な百姓の子供たちを教えたいと思い、時にはこんな山の中に引き込んでいて
旧い宿場の運命をのみ見まもるべき世の中ではないと思い、是非胸中にたたかって、精神の動揺はやまない。多くの
悲哀が神に仕える人を起こすように、この世にはまだ
古をあらわす道が残っていると感づくのも、その彼であった。復古につまずいた平田篤胤没後の門人らがいずれも言い合わせたように古い神社へとこころざし、そこに進路を開拓しようとしていることも、いわれのあることのように彼には考えられて来た。松尾の大宮司となった
師岡正胤、賀茂の少宮司となった
暮田正香なぞを引き合いに出すまでもなく、伊那の谷にある同門の人たちの中にもその方向を取ろうとする有志のものはすくなくない。
山窓にねざめの夜はの明けやらで風に吹かるる雨の音かな
祖の祖のそのいにしへは神なれば人は神にぞ斎くべらなる
この述懐の歌は、半蔵が
斎の道を踏みたいと思い立つ心から生まれた。すくなくも、その心を起こすことは、先師の
思し召しにもかなうことであろうと考えられたからで。
新しい
路をひらく手始めに、まず半蔵は自家の祭葬のことから改めてかかろうと思い立った。元来神葬祭のことは中世否定の気運と共に生まれた復古運動のあらわれの一つで、最も早くその根本問題に目を着け、またその許しを
公に得たものは、士籍にあっては
豊後岡藩の小川
弥右衛門、
地下人(平民)にあっては伊那小野村の庄屋倉沢
義髄をはじめとする。ことに、義髄は一日も人身の大礼を仏門に
委ねるの不可なるを唱え、中世以来宗門仏葬等のことを
菩提寺任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国
曹洞宗四百三か寺に対抗して宗門
人別帳離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するために前後四年を費やして、その資産を
蕩尽してもなお屈しないほどの熱心さであった。徳川幕府より
僧侶に与えた宗門権の破棄と、神葬復礼との奥には、こんな人の動きがある。しかし世の中は変わった。その年、明治六年の十一月には、
筑摩県
権令永山盛輝の名で、神葬仏葬共に人民の信仰に任せて聞き届ける
旨はかねて触れ置いたとおりであるが、今後はその願い出にも及ばない、各自の望み次第、葬儀改典勝手たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達するほどの世の中になって来た。これは半蔵にとっても見のがせない機会である。彼は改典の事を共にするため、何かにつけての日ごろの相談相手なる隣家の主人、伊之助を誘った。
菩提寺任せにしてあった父祖の
位牌を持ち帰る。その
塵埃を払って家に迎え入れる。墓地の掃除も寺任せにしないで家のものの手でそれをする。今の寺院の境内はもと青山家の寄付にかかる土地であるから、神葬の儀式でも行なう必要のあるおりは当分寺の広庭を借り用いる。まったく神仏を
混淆してしまったような、いかがわしい仏像なぞの家にあるものはこの際焼き捨てる――この半蔵の考えが伊之助を驚かした。しかし、伊之助は平素の慎み深さにも似ず、これは自分らの子供たちを教育する上からもゆるがせにすべき問題でないと言い、これまで親しいものの死後をあまり人任せにし過ぎたと言い、旧宿役人時代から彼は彼なりに
在家と寺方との関係を考えて来たとも言って、もし旧本陣でこの事を断行するなら、伏見屋でもこれを機会に祭葬の礼を改めて、古式に復したいと同意した。
半蔵は言って見た。
「やっぱり伊之助さんは、わたしのよい友だちだ。」
今は彼も意を決した。この上は、伊之助と連れだって、今度の布告の趣意を万福寺住職に告げ断わるため、馬籠の北側の位置にある
田圃の間の寺道を踏むばかりになった。
万福寺の松雲
和尚はもとの名を
智現という。
行脚六年の修業の旅を終わり、京都本山の許しを得て名も松雲と改め、新住職として馬籠の寺に落ちついたのは、もはや足掛け二十年の前に当たる。
あれは安政元年のことで、半蔵が父吉左衛門も、伊之助が養父金兵衛も、共にまだ現役の宿役人としてこの駅路一切の世話に任じていたころだ。旧暦二月末の雨の来る日、
美濃路よりする松雲の一行が中津川宗泉寺老和尚の付き添いで、
国境の
十曲峠を上って来た時、父の名代として百姓総代らと共に峠の上の新茶屋まで新住職の一行を出迎えたのもまだ若いころの半蔵だった。旅姿の松雲はそのまま山門をくぐらずに、まず本陣の玄関に着き、半蔵が家の一室で法衣
装束に着かえ、それから乗り物、
先箱、
台傘で万福寺にはいったのであった。
二十年の月日は半蔵を変えたばかりでなく、松雲をも変え、その周囲をも変えた。和尚もすでに五十の坂を越した。過ぐる月日の間、どんなさかんな行列が木曾街道に続こうと、どんな
血眼になった人たちが馬籠峠の上を往復しようと、日々の雲が変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにながめ暮らして、ただただ古い方丈の壁にかかる
達磨の画像を友として来たような人が松雲だ。毎朝早くの洗面さえもが、この人には道を修めることで、
法鼓、
諷経等の朝課の勤めも、
払暁に自ら鐘楼に上って大鐘をつき鳴らすことも、その日その日をみたして行こうとする修道の心からであった。一日成さなければ一日食うまい、とは百丈禅師のような古大徳がこの人に教えた言葉だ。
仏餉、
献鉢、献燈、献花、
位牌堂の
回向、
大般若の修行、徒弟僧の養成、墓
掃除、皆そのとおり、長い経験から、ずいぶんこまかいところまでこの人も気を配って来た。たとえば、毎年正月の八日には馬籠仲町にある
檀家の
姉様たちが仏参を兼ねての年玉に来る、その時寺では十人あまりへ
胡桃餅を出す、早朝から
風呂を
焚く、あとで出す
茶漬けの
菜には煮豆に冬菜のひたしぐらいでよろしの
類だ。寺は
精舎とも、清浄地とも言わるるところから思いついて、明治二年のころよりぽつぽつ万福寺の裏山を庭に取り入れ、そこに石を運んだり、
躑躅を植えたりして、本堂や客殿からのながめをよくしたのもまた和尚だ。奥山の方から導いた
清水がこの庭に落ちる音は、一層寺の境内を街道筋の混雑から遠くした。
こんな静かな禅僧の生活も、よく見れば動いていないではない。大は将軍家、諸侯から、小は本陣、
問屋、庄屋、
組頭の末に至るまでことごとく廃された中で、
僧侶のみ従前どおりであるのは、むしろ不思議なくらいの時である。御一新以前からやかましい廃仏の声と共に、神道葬祭が復興することとなると、寺院は徳川幕府の初期以来保証されて来た戸籍公証の権利を侵さるるのみならず、宗門人別離脱者の増加は寺院の死活問題にも関する。これには各宗の僧籍に身を置くものはもとより、全国何百万からの寺院に寄宿するものまで、いずれも皆強い衝動を受けた。この
趨勢に
鑑み、中年から皇国古典の道を聞いて、大いに松雲も省みるところがあった。和尚がことに心をひかれたのは、人皇三十一代用明天皇第二の皇子、すなわち
厩戸皇子ののこした言葉と言い伝えられるものであった。この国
未曾有の仏法を興隆した聖徳太子とは、厩戸皇子の
諡号にほかならない。その言葉に、神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である、根本
昌なる時は枝葉も従って繁茂する、故に根本をゆるかせにしてはならないぞよとある。これだ。この根本に帰入するのが、いくらかでも仏法の守られる
秘訣だと松雲は考えた。ところがこれには反対があって、仏徒が神道を基とするのは狭い偏した説だとの意見が出た。その声は隣村同宗の僧侶仲間からも聞こえ、隣国美濃にある寺々からも聞こえて来た。そしてしきりにその片手落ちを攻撃する手紙が松雲のもとへ舞い込んで来たのは十通や十三、四通にとどまらない。そのたびに松雲は自己の立ち場を弁解する意見書を作って置いて、それを同宗の人々に示した。かく根本に帰入するのは、すなわち枝葉を繁茂せしめる一つではなかろうか。その根本が堅固であっても、霜雪時に従って葉の枯れ落ちることはある。枝の朽ちることもある。また、新芽を生ずるがある。新しい枝を延ばすもある。皆、天然自然のしからしめるところであって、その根本たりとも衰えることはないと言えない。
大根の枯れさえなければ、また
蔓延の時もあろう。この大根を切断する時は、枝葉もまた従って朽ちることは言葉を待たない。根本を根本とし、枝葉を枝葉とするに、どうしてこれが片手落ちであろう。そもそも仏法がこの国土に弘まったのは
欽明帝十三年仏僧入朝の時であって、以来、大寺の諸国に充満し、王公貴人の信仰したことは言葉に尽くせない。過去数百年間、仏徒の
横肆もまた言葉には尽くせない。その徒も一様ではない。よいものもあれば、害のあったものもある。一得あれば一失を生ずる。ほまれそしりはそこから起こって来るが、仏徒たりとも神国の神民である以上、神孫の義務を尽くして根本を保全しなければならぬ。その義務を尽くすために神道教導職の一端に加わるのは、だれがこれを片手落ちと言えよう。今や御一新と言い、社会の大変革と言って、自分らごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得ない。ただ仏祖の旧恩を守って、道を道とするに、どうして片手落ちの異見を受くべきであろうぞ。朝旨に
戻らず、三条の教憲を
確と踏まえて、正を行ない、邪をしりぞけ、
権衡の狂わないところに心底を落着せしめるなら、しいて天理に戻るということもあるまい。自分らごときは他人の異見を待たずに、
不羈独立して
大和魂を堅め、善悪邪正と是非得失とをおのが狭い胸中に弁別し、根本の衰えないのを護念して、なお枝葉の隆盛に
懸念する。もとより神仏を敬する法は、みな報恩と謝徳とをもってする。これを信心と言う。自分の身に利得を求めようとするのは、皆欲情である。報恩謝徳の厚志があらば、神明の加護もあろう。仏といえども、道理に
違うことのあるべきはずがない。自分らには
現世を安穏にする欲情もなければ、
後生に善処する欲情もない。天賦の身は天に任せ、正を行ない邪に組せず、現世後生は敵なく、神理を常として真心を尽くすを楽しみとするのみだから、すこしも片手落ちなどの欲念邪意があることはない。これが松雲和尚の包み隠しのないところであった。
禅僧としての松雲は動かないように見えて、その実、こんなに静かに動いていた。この人にして見ると、時が移り世態が
革まるのは春夏秋冬のごとくであって、雲起こる時は日月も
蔵れ、その収まる時は輝くように、聖賢たりとも世の乱れる時には隠れ、世の治まる時には道を行なうというふうに考えた。というのは、遠い昔にあの
葦を折る江上の客となって遠く西より東方に渡って来た祖師の遺訓というものがあるからであった。大意(理想)は人おのおのにある、しかもむなしくこれ徒労の心でないものはないと教えてあるのだ。さてこそ、明治の御一新も、この人には必ずしも驚くべきことではなかった。たといその態度をあまりに高踏であるとし、他から歯がゆいように言われても、松雲としては日常刻々の修道に思いを潜め、遠く長い目で世界の変革に対するの一手があるのみであった。
半蔵と伊之助の
二人が連れだって万福寺を
訪ねた時は、ちょうど村の髪結い直次が和尚の頭を
剃りに来ていて、間もなく剃り終わるであろうというところへ行き合わせた。髪長くして
僧貌醜しと日ごろ言っている松雲のことだから、
剃髪も怠らない。そこで半蔵らは勝手を知った寺の囲炉裏ばたに回って、直次が
剃刀をしまうまで待った。
十二、三年も寺に暮らして和尚の身のまわりの世話をしていた人が
亡くなってからは、なんとなく広い囲炉裏ばたもさびしかった。生まれは
三留野で、お島というのがその女の名だった。宿役人一同承知の上で寺にいれたくらいだから、その人とて肩身の狭かろうはずもなかったが、それでも周囲との不調和を思うかして、生前は本堂へも出なかった。世をいといながら三時の
勤行を怠らない和尚を助けて、お島は
檀家のものの受けもよく、台所から
襷をはずして来てはその囲炉裏で茶をもてなしてくれたことを半蔵らも覚えている。
亡い人の数に入ったその女のために、和尚が形見の品を旧本陣や伏見屋にまで配ったことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。
髪結い直次のような老練な職人の腕にも、和尚の頭は剃りにくいかして、半蔵らはかなり待たされた。それを待つ間、彼は伊之助と共にその囲炉裏ばたを離れて、和尚の造った庭を歩き回りに出た。やがて十三、四ばかりになる歯の黄色い徒弟僧の案内で、半蔵は和尚の方丈に導かれた。
「これは。これは。」
相変わらずの調子で半蔵らを迎えるのは松雲だ。客に親疎を問わず、
好悪を選ばずとはこの人のことだ。ことに頭は剃りたてで、僧貌も一層柔和に見える。本堂の一部を仮の教場にあててから、半蔵を助けて村の子供たちを教えているのもこの和尚だが、そういう仕事の上でかつていやな顔を彼に見せたこともない。しばらく半蔵はその日の来意を告げることを
躊躇した。というのは、
対坐する和尚の沈着な様子が容易にそれを切り出させないからであった。それに、彼はこの人が
仏弟子ながら氏神をも粗末にしないで毎月
朔日十五日には
荒町にある村社への
参詣を怠らないことを知っていたし、とても憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主であることをも知っていたからで。
しかし、半蔵の思い立って来たことは
種々な情実やこれまでの行きがかりにのみ
拘泥すべきことではなかった。彼は伊之助と共に、
筑摩県からの布告の趣意を和尚に告げ、青山小竹両家の改典のことを断わった。なお、これまで青山の家では忌日供物の料として年々
斎米二斗ずつを寺に納め来たったもので、それもこの際、廃止すべきところであるが、旧義を存して明年からは米一斗ずつを贈るとも付け添えた。この改典は廃仏を意味する。これはさすがの松雲をも驚かした。なぜかなら、この万福寺を
建立したそもそもの人は、そういう半蔵が祖先の青山
道斎だからである。また、かつて松雲がまだ僧
智現と言ったころから一方ならぬ世話になり、六年
行脚の旅の途中で京都に
煩った時にも着物や路銀を送ってもらったことがあり、本堂の屋根の
葺き替えから大太鼓の寄付まで何くれとめんどうを見てくれたことのあるのも、伊之助の養父金兵衛だからである。
「いや、御趣意のほどはわかりました。よくわかりました。わたしは他の僧家とも違いまして、神道を基とするのが自分の本意ですから、すこしもこれに異存はありません。これと申すも皆、前世の悪報です。やむを得ないことです。まあ、お話はお話として、お茶を一つ差し上げたい。」
そう言いながら、松雲は座を立った。ぐらぐら煮立った
鉄瓶のふたを取って水をさすことも、
煎茶茶碗なぞをそこへ取り出すことも、寺で製した古茶を入れて
慇懃に客をもてなすことも、和尚はそれを細心な注意でやった。
娑婆に
生涯を寄せる和尚はその方丈を幻の
住居ともしているので、必ずしもひとりをのみ楽しもうとばかりしている人ではない。でも、冷たく無関心になったこの世の人の心をどうかして揺り起こしたいと考えるような平田門人なぞの気分とはあまりにも掛け離れていた。
「どれ、
位牌堂の方へ御案内しましょう。おそかれ早かれ、こういう日の来ることはわたしも思っておりました。神葬祭のことは、あれは
和宮さまが御通行のころからの問題ですからな。」
という和尚は
珠数を手にしながら、先に立って、廊下づたいに本堂の裏手へと半蔵らを導いた。
霊膳、茶、
香花、それに
燭台のそなえにも和尚の注意の行き届いた薄暗い
部屋がそこにあった。
青山家代々の位牌は皆そこに集まっている。
恵那山のふもとに馬籠の村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の先祖は、その生涯にふさわしい
万福寺殿昌屋常久禅定門の戒名で、位牌堂の中央に高く光っているのも目につく。黒くうるしを塗った大小の古い位牌には、丸に三つ引きの定紋を配したのがあり、あるいはそれの省いたのもある。その
面に刻した戒名にも、皆それぞれの性格がある。これは僧侶の賦与したものであるが、一面には故人らが人となりをも語っている。
鉄巌宗寿庵主のいかめしいのもあれば、
黙翁宗樹居士のやさしげなのもある。その中にまじって、
明真慈徳居士、行年七十二歳とあるは半蔵の父だ。
清心妙浄大姉、行年三十二歳とは、それが彼の実母だ。彼は伊之助と共に、それらの位牌の並んでいる前を
往ったり来たりした。
松雲は言った。
「時に、青山さん、わたしは折り入ってあなたにお願いがあります。御先祖の万福寺殿、それに
徳翁了寿居士御夫婦――お
一人は万福寺の開基、お一人は中興の開基でもありますから、この二本の位牌だけはぜひとも寺にお残しを願いたい。」
これには半蔵もうなずいた。
三
明治七年は半蔵が松本から東京へかけての旅を思い立った年である。いよいよ継母おまんも例の
生家へ世話しようとしたお
粂の縁談を断念し、残念ながら
結納品をお返し申すとの手紙を添え、染め物も人に持たせてやって、稲葉家との交渉を打ち切った。お粂はもとより、文字どおりの復活を期待さるる身だ。彼が暮田正香の言葉なぞを娘の前に持ち出して見せ、多くの国学諸先輩が求めようとしたのも「再び生きる」ということだと語り聞かせた時、お粂は目にいっぱい涙をためながら父の励ましに耳を傾けるほどで、一日は一日よりその気力を回復して来ている。妻のお民は、と見ると、泣いたあとでもすぐ心の空の晴れるようなのがこの人の持ち前だ。あれほど不幸な娘の出来事からも、母としてのお民は父としての彼が受けたほどの深い打撃を受けていない。それに長男の宗太も十七歳の春を迎えていて、もはやこれも子供ではない。今は留守中のことを家のものに頼んで置いて、自己の進路を開拓するために、しばらく郷里を離れてもいい時が来たように彼には思われた。
半蔵が旅に出る前のこと。ある易者が来て
馬籠の
旅籠屋に
逗留していた。めずらしく半蔵は隣家の伊之助にそそのかされて、その旅やつれのした易者を見に行った。古い袋から
筮竹を取り出して押し
頂くこと、法のごとくにそれを数えること、残った数から陰陽を割り出して
算木をならべること、すべて型どおりに行なったあとで、易者はまず伊之助のためにその年の運勢を占ったが、
卦にあらわれたところは
至極良い。砕いて言えば、願う事の
成就するかたちである。商売をすれば当たるし、尋ね物は出るし、待ち人は来るし、縁談はまとまるという。ところが、半蔵の順番になって、易者はまた彼のためにも占ったが、好運な隣人のような卦は出なかった。
その時の半蔵を前に置いて、首をひねりながらの易者の
挨拶に、
「どうも、あなたが顔色の
艶から言っても、こんなはずはないと思われるのですが。易のおもてで言いますると、この卦に当たった人は運勢いまだ開けずとあきらめて、年回りを
畏れ、随分身をつつしみ、時節の到来を待てとありますな。これはよいと申し上げたいが、どうもそう行きません。まあ、本年いっぱいはお動きにならない方がよろしい。」
とある。
半蔵はこの易者を笑えなかった。家に
戻って旅のしたくを心がける間にも、彼は易者に言われたことから名状しがたい不安を引き出された。そういう彼が踏んで行くところは、歩けば歩くほど
路も狭く細かったが、なお、先師没後の門人に残されたものは古い神社の方角にあると考えて、一歩たりともその方に近づく手がかりの与えらるることを念じた。神社に至るの道はまず階段を踏まねばならないと同じ道理で、彼とてもその手段を尽くさねばならなかった。これは万福寺の住職なぞが言うところの出家の道に似て、非なるものである。彼の願いは神から守られることばかりでなく、神を守りに行くことであった。しかし、この事はまだ家のものにも話さずにある。彼は見ず知らずの易者なぞに自分の運勢を占ってもらったことを悔いた。
五月中旬のはじめに彼は郷里を出発したが、親しい人たちの見送りも断わり、供も連れずであった。過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは
元治元年六月のことであったが、今度はあの時のような庄屋仲間の連れもない。新しい郡県の政治もまだようやく端緒についたばかりのような時で、木曾谷は三大区にわかたれ、大小の区長のほかに学区取り締まりなるものもでき、谷中村々の併合もそこここに行なわれていた。その後の山林事件の成り行きも心にかかって、鳥居峠まで行った時、彼はあの
御嶽遙拝所の立つ峠の上の高い位置から木曾谷の方を振り返って見た。松本まで彼が動いた時は、ちょうどこの時勢に応ずる教育者のための講習会が
筑摩県主催のもとに開かれているおりからであった。松本宮村町
瑞昌寺、それが師範学科の講習所にあてられたところで、いずれも相応な年配の人たちが県庁の募集に応じて集まって来ていた。半蔵が自分の村の敬義学校のために一人の訓導を見つけたのも、その松本であった。
早速彼はその人を推薦することにした。今こそ馬籠でも万福寺を仮教場にあてているが、寺の付近に普請中の仮校舎も近く落成の運びであることなぞをもその人に告げた。小倉啓助がその人の名で、もと
禰宜の出身であるという。至極
直な人物である。このよさそうな教師を村に得ただけでも、彼は安心して東京の方に向かうことができるわけだ。もともと彼は年若な時分から独学の苦心を積み、山里に生まれて良師のないのを悲しみ、未熟な自分を育てようとしたばかりでなく、同時に無知な村の子供を教えることから出発したような男で、子弟教育のことにかけては人一倍の関心を
抱いているのである。
新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心
得べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、
啓蒙ということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよの
類だ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校に
併せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は
塩尻、
下諏訪から
追分、
軽井沢へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで
碓氷峠を下った。
半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き
戊辰以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。場合によっては武力に訴えても朝鮮問題を解決しようとする
西郷隆盛ら、欧米の大に屈して朝鮮の小を
討とうとするのは何事ぞとする岩倉大使および
大久保利通らの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる
慶喜を倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい
征韓論をめぐって、互いにその正反対をかつての
朋友に見いだしたのであった。
明治御一新の理想と現実――この二つのものの複雑微妙な
展きは決してそう順調に成し
就げられて行ったものではなかった。その理想のみを見て現実を見ないものの多くはつまずいた。その現実のみを見て理想を見ないものの多くもまたつまずいた。ともあれ、千八百六十六年以来諸外国政府の代表者と日本国委員との間に取り結ばれた条約の改正も、朝鮮問題も、共にこの国発展の途上に横たわる難関であったことは争われない。岩倉大使が欧米歴訪の目的は、朝廷御新政以来の最初の使節として諸外国との修好にあったらしく、条約改正のことはその期するところでなかったとも言わるる。むしろ大使はその問題に触れないことを約して国を出発せられたともいう。その方針が遠い旅の途中で変更せられなかったら、この国のものはもっと早く大使一行の帰朝を迎え得たであろう。明治五年の五月には、大使らは条約改正の日本全権ででもあって、ついに前後三年にまたがる月日を海の外に費やされた。外国交渉の不結果、随員の不和、言語の困難――これを一行総員百七名からの従者留学生を
挙げて国を離れたことに思い比べ、品川の沖には花火まで揚げて見送るもののあった出発当時の花やかさに思い比べると、おそらく旅の末はさびしく、しかも
苦い経験であったろう。たとい大使らの欧米訪問が、近代国家の形態を視察することに役立ち、諸外国に対する新政府の位置を強固にすることに役立ち、率先奮励して開明の域に突進する海外留学の気象を誘導することにも役立ったとしても、その長い月日の間、岩倉、大久保、木戸らのごとき柱石たる人々が廃藩置県直後のこの国を留守にしたことは、容易ならぬ結果を招いた。郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、
敦賀、
大分、
名東、
北条、その他
福岡、
鳥取、島根諸県には新政をよろこばない土民が
蜂起して、
斬罪、絞首、懲役等の刑に処せられた不幸なものが万をもって数うるほどの驚くべき多数に上ったのも、それらは皆大使一行が留守中にあらわれて来た現象であった。のみならず、時局の不安に刺激され、大使らの留守中を好機として、武力による改革を企つるものが生まれた。
いったい、
薩長土三藩が朝廷に献じた兵は皆、東北戦争当時の輝かしい戦功の兵である。彼らが位置よりすれば、それらの兵をもって朝廷の基礎を固め、廃藩を断行し、長く徳川氏の旗本八万騎のごときものとなって、すこぶる優待さるるもののように考えた者が多かったとのことである。高知藩の
谷干城のような正直な人はそのことを言って、飛鳥尽きて良弓収まるのたとえを引き、彼ら戦功の兵も少々
厄介視せらるる姿になって行ったと評した。当時軍隊統御の困難は後世から想像も及ばないほどで、時事を慨し、
種々な議論を起こし、陸軍省に迫り、
山県近衛都督ですらそのためにしばしば辞職を申しいで、後には山県もその職を辞して西郷隆盛が都督になったほどであったとか。近衛兵の年限も定まって一般徴兵の制による事と決してからは、長州以外の二藩の兵は非常に不快の念を
抱いた。ことに徴兵主義に最も不満なものは
桐野利秋であったという。西の勝利者、ないし征服者の不平不満は、朝鮮問題を待つまでもなく、早くも東北戦争以後の社会に
胚胎していた。
そこへ外国交渉のたどたどしさと、当時の朝鮮方面よりする東洋の不安だ。いわゆる壮兵主義を抱く豪傑連の中には、あわただしい世態風俗の移り変わりを見て、追い追いの文明開化の風の吹き回しから人心うたた浮薄に流れて来たとの
慨きを抱き、はなはだしきは
楠公を
権助に比するほどの偶像破壊者があらわれるに至ったと考え、かかる天下柔弱
軽佻の気風を一変して、国勢の衰えを回復し諸外国の
覬覦を絶たねばならないとの意見を持つものがあるようになった。古今内外の歴史を見渡して、外は外国に侮られ、内は
敵愾の気を失い、人心は惰弱に風俗は日々
頽廃しつつあるような
危殆きわまる国家は、これを救うに武の道をもってするのほか、決して他の術がないとは、それらの人たちが抱いて来た社会改革の意見であった。それには文武共に今日改造の途上にあることを一応考慮しないではないが、ひとまず文教をあと回しにする、この際は断然武政を
布いて国家の独立を
全うするためには外国と一戦するの覚悟を取る、それが国を興すの早道だというのである。そして事は早いがいい、今のうちにこの大計を定め国家の進路を改めるがいい、これを決行する時機は大使帰朝前にあるというのである。なぜかなら、大使帰朝の後はおのずから大使一行の意見があって、必ずこの反対に
出づるであろうと予測せられたからであった。その武政を立つる方案によると、全国の租税を三分して、その二分を陸海軍に費やす事、すでに士族の常職を解いた者は従前に引き
戻す事、全国の士族を配してことごとく六管鎮台の直轄とする事、丁年以上四十五歳までの男子は残らず常備予備の両軍に編成する事、平民たりとも武事を好む者はその才芸器量に応じすべて士族となす事、全国男子の風教はいわゆる武士道をもって
陶冶する事、左右大臣中の
一人は必ず大将をもってこれに任じ親しく陛下の命を受けて海陸の大権を収める事、これを
約めて言えば武政をもって全国を統一する事である。この意見を
懐にして西郷に迫るものがあったが、隆盛は容易に動かなかった。彼は大使出発の際に大臣参議のおのおのが誓った言葉をそこへ持ち出して見せ、大使帰朝に至るまではやむを得ない事件のほかは決して改革しないとの誓言のあることを言い、今この誓言にそむいて、かかる大事を決行するの不可なるを説き、大使帰朝の後を待てと言いさとした。隆盛は
寡言の人である。彼は利秋のように言い争わなかった。しかしもともと彼の武人
気質は
戊辰当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た時にも、剣あるのみの英断に出、徳川氏に対する最後の解決をそこに求めて行った人である。その彼は容易ならぬ周囲の形勢を見、部下の要求の
制えがたいことを知り、後には自ら進んで遣韓大使ともなり朝鮮問題の解決者たることを志すようになった。岩倉大使一行の帰朝、征韓論の破裂、政府の分裂、西郷以下多くの薩人の帰国、参議
副島、
後藤、
板垣、
江藤らの辞表奉呈はその結果であった。上書してすこぶる政府を
威嚇するの意を含めたものもある。旗勢をさかんにし
風靡するの徒が辞表を奉呈するものは続きに続いた。
近衛兵はほとんど
瓦解し、三藩の兵のうちで動かないものは長州兵のみであった。明治七年一月には、ついに征韓派たる高知県士族
武市熊吉以下八人のものの手によって東京
赤坂の途上に右大臣岩倉
具視を要撃し、その身を傷つくるまでに及んで行った。そればかりではない。この勢いの激するところは翌二月における佐賀県愛国党の暴動と化し、公然と反旗をひるがえす第一の
烽火が同地方に揚がった。やがてそれは元参議江藤新平らの位階
褫奪となり、百三十六人の処刑ともなって、
闇の空を貫く光のように消えて行ったが、この内争の影響がどこまで及んで行くとも測り知られなかった。
時には馬、時には徒歩の旅人姿で、半蔵が東京への道をたどった木曾街道の五月は、この騒ぎのうわさがややしずまって、さながら中央の舞台は大荒れに荒れた風雨のあとのようだと言わるるころである。
四
「塩、まいて、おくれ。
塩、まいて、おくれ。」
木曾街道の終点とも言うべき板橋から、半蔵が
巣鴨、
本郷通りへと取って、やがて
神田明神の横手にさしかかった時、まず彼の聞きつけたのもその子供らの声であった。町々へは祭りの季節が来ているころに、彼も東京にはいったのだ。
時節がら、人気を引き立てようとする市民が意気込みのあらわれか、町の空に響く太鼓、軒並みに連なり続く祭礼の
提灯なぞは思いのほかのにぎわいであった。時には肩に掛けた
襷の鈴を鳴らし、黄色い
団扇を額のところに差して、後ろ
鉢巻姿で
俵天王を押して行く子供の群れが彼の行く手をさえぎった。時には鼻の先の金色に光る
獅子の後ろへ同じそろいの
衣裳を着けた人たちが幾十人となくしたがって、手に手に扇を動かしながら町を通り過ぎる列が彼の行く手を
埋めた。彼は右を見、左を見して、新規にかかった石造りの
目鏡橋を渡った。
筋違見附ももうない。その辺は
広小路に変わって、
柳原の土手につづく青々とした柳の色が往時を語り顔に彼の目に映った。この彼が落ち着く先は例の両国の十一屋でもなかった。両国広小路は変わらずにあっても、十一屋はなかった。そこでは彼の懇意にした隠居も
亡くなったあとで、年のちがったかみさんは旅人宿を
畳み、
浅草の方に
甲子飯の小料理屋を出しているとのことである。足のついでに、かねて世話になった多吉夫婦の住む
本所相生町の家まで
訪ねて行って見た。そこの家族はまた、浅草
左衛門町の方へ引き移っている。そうこうするうちに日暮れに近かったので、
浪花講の看板を出した旅人宿を両国に見つけ、ひとまず彼はそこに
草鞋の
紐を解いた。
東京はまず無事。その考えに半蔵はやや心を安んじて、翌日はとりあえず、京都以来の平田
鉄胤老先生をその
隠棲に
訪ねた。彼が
亡き
延胤若先生の
弔みを言い入れると、師もひどく力を落としていた。その日は尾州藩出身の田中
不二麿を文部省に訪ねることなぞの用事を済まし、上京三日目の午後にようやく彼は多吉夫婦が新しい
住居を左衛門橋の近くに見つけることができた。
多吉、かみさんのお
隅、共に半蔵には久しぶりにあう人たちである。よくそれでも昔を忘れずに訪ねて来てくれたと夫婦は言って、早速荷物と共に両国の宿屋を引き揚げて来るよう勧めてくれたことは、何よりも彼をよろこばせた。
「お隅、青山さんは十年ぶりで出ていらしったとよ。」
そういう多吉も変われば、お隅も変わった。以前半蔵が
木曾下四宿総代の庄屋として江戸の道中奉行から呼び出されたおり、五か月も共に暮らして見たのもこの夫婦だ。その江戸を去る時、
紺木綿の切れの編みまぜてある二足の
草鞋をわざわざ
餞別として彼に贈ってくれたのもこの夫婦だ。
もとより今度の半蔵が上京はただの東京見物ではない。彼が田中不二麿を訪ねた用事というもほかではない。不二麿は尾州藩士の田中
寅三郎と言ったころからの知り合いの間がらで、この人に彼は自己の志望を打ちあけ、その力添えを依頼した。旧領主
慶勝公時代から半蔵父子とは縁故の深い尾州家と、名古屋藩の人々とは、なんと言っても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の
藩黌明倫堂に学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の方面に心を砕く人物を出したことも、彼には偶然とは思われない。今は文部教部両省合併で、不二麿も文部
大丞の位置にあるから、この省務一切を管理する人に引き受けてもらったことは、半蔵としても心強い。もっとも、不二麿は民知の開発ということに重きを置き、欧米の教育事業を視察して帰ってからはアメリカ風の自由な教育法をこの国に採り入れようとしていて、すべてがまだ端緒についたばかりの試みの時代だとする考え方の人であったが。
多吉はまた半蔵を見に来て言った。
「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変わりましたろう。去年の春から、
敵打ちの厳禁――そうです、敵打ちの厳禁でさ。政府も大きな仕事をやったもんさね。親
兄弟の
讐を勝手に
復すようなことは、講釈師の昔話になってしまいました。それだけでも世の中は変わって来ましたね。でも、江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さまの御恩を忘れちゃならない、皆それを言ってます。お隅のやつなぞもね、
葵の御紋を見ると涙がこぼれるなんて、そう言ってますよ。」
東京まで半蔵が動いて見ると、昔
気質の多吉の家ではまだ
行燈だが、近所ではすでにランプを使っているところがある。夕方になると、その明るい光が町へもれる。あそこでも、ここでもというふうに。
燈火すらこんなに変わりつつあった。
今さら、極東への道をあけるために進んで来た黒船の力が
神戸大坂の開港開市を促した慶応三、四年度のことを引き合いに出すまでもなく、また、日本紀元二千五百余年来、
未曾有の珍事であるとされたあの外国公使らが京都参内当時のことを引き合いに出すまでもなく、世界に向かってこの国を開いた影響はいよいよ日本人各自の生活にまであらわれて来るようになった。ことに、東京のようなところがそうだ。半蔵はそれを都会の人たちの風俗の好みにも、
衣裳の色の移り変わりにもみて取ることができた。うす暗い行燈や
蝋燭をつけて夜を送る世界には、それによく映る衣裳の色もあるのに、その行燈や蝋燭にかわる明るいランプの時が来て見ると、今までうす暗いところで美しく見えたものも、もはや見られない。多吉の女房お隅はそういうことによく気のつく女で、近ごろの婦人が夜の席に着る衣裳の色の変わって来たことなぞを半蔵に言って見せ、世の中の流行が変わる前に、すでに燈火が変わって来ていると言って見せる。
多吉夫婦は久しぶりで上京した半蔵をつかまえて、いろいろと東京の話をして聞かせるが、
寄席の芸人が口に上る
都々逸の
類まで、英語まじりのものが流行して来たと言って半蔵を笑わせた。お隅は、
一鵬斎芳藤画くとした浮世絵なぞをそこへ取り出して来る。舶来と和物との道具くらべがそれぞれの人物になぞらえて、時代の
相を描き出してある。その時になって見ると、遠い昔に漢土の文物を採り入れようとした初めのころのこの国の社会もこんなであったろうかと疑わるるばかり。海を渡って来るものは皆文明開化と言われて、
散切り頭をたたいて見ただけでも開化した音がすると
唄われるほどの世の中に変わって来た。夏は素裸、
褌一つ、冬はどてら一枚で、客があると、どんな寒中でも丸裸になって、ホイ
籠ホイ籠とかけ出す
駕籠屋なぞはもはや顔色がない。年じゅう
素股の魚屋から、裸商売の
佃から来るあさり売りまで、異国の人に対しては、おのれらの風俗を赤面するかに見える。
旅の身の半蔵は、
用達しのついで、あるいは同門の旧知なぞを
訪ねるためあちこちと出歩くおりごとに、町々の深さにはいって見る機会を持った。東京は、どれほどの広さに伸びている大きな都会とも、ちょっと見当のつけられないことは、以前の彼が江戸出府のおりに得た最初の印象とそう変わりがないくらいであった。ここに住む老若男女の数も、彼にはおよそどれほどと言って見ることもできない。あるいは江戸時代よりはずっと減少していると言うものもあるし、あるいはこの新しい都の人口の増加は将来測り知りがたいものがあろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々の
角に自身番もなく、番太郎小屋もない。わずかに封建時代の形見のような木戸のみの残ったところもある。旧城郭の関門とも言うべき十五、六の
見附、その外郭にめぐらしてあった十か所の関門も多く破壊された。彼は多吉夫婦と共に以前の本所相生町の方にいて、
日比谷にある長州屋敷の打ち
壊しに出あったことを覚えているが、今度上京して見ると、その辺は一面の原だ。大小の武家屋敷の跡は桑園茶園に変わったところもある。彼が行く先に見つけるものは、かつて武家六分町人四分と言われたこの都会に大きな破壊の動いた跡を語って見せていないものはなかった。
でも、東京は発展の最中だ。旧本陣問屋時代に宿場と街道の世話をした経験のある半蔵は、評判な銀座の方まで歩いて行って見て、そこに広げられた道路をおよそ
何間と数え、めずらしい
煉瓦建築の並んだ二階建ての家々の窓と丸柱とがいずれも同じ意匠から成るのをながめた。そこは明治五年の大火以来、木造の建物を建てることを禁じられてからできた新市街で、最初はだれ
一人その煉瓦の家屋にはいる市民もなく、もし住めば必ず青ぶくれにふくれて、死ぬと言いはやされたという話も残っている。言って見れば、そのころの銀座は
香具師の巣である。二丁目の
熊の
相撲、竹川町の犬の踊り、四丁目の角の貝細工、その他、砂書き、
阿呆陀羅、
活惚、
軽業なぞのいろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわいに近い。目ざましい
繁昌を約束するようなその
界隈は新しいものと
旧いものとの入れまじりで雑然紛然としていた。
今は旅そのものが半蔵の身にしみて、見るもの聞くものの感じが深い。もはや
駕籠もすたれかけて、一人乗り、二人乗りの
人力車、ないし乗合馬車がそれにかわりつつある。行き過ぎる人の中には洋服姿のものを見かけるが、多くはまだ身についていない。中には洋服の上に
羽織を着るものがあり、切り下げ髪に洋服で
下駄をはくものもある。長髪に
月代をのばして仕合い道具を携えるもの、和服に白い
兵児帯を巻きつけて
靴をはくもの、散髪で書生羽織を着るもの、思い思いだ。うわさに聞く婦人の断髪こそやや下火になったが、深い窓から出て来たような少女の
袴を着け、洋書と
洋傘とを携えるのも目につく。まったく、十人十色の風俗をした人たちが彼の右をも左をも
往ったり来たりしていた。
不思議な縁故から、上京後の半蔵は、教部省御雇いとして一時奉職する身となった。ちょうど教部省は、文部省と一緒に、
馬場先の地から
常磐橋内へ引き移ったばかりで、いろいろな役所の仕事に、国学の畑の人を求めている時であった。この思いがけない奉職は、田中不二麿の勧めによる。彼半蔵の本意はそういうところにあるではなく、どこか古い神社へ行って仕えたい、そこに新生涯を開きたいとの願いから、その手がかりを得たいばかりに、わざわざ今度の上京となったのであるが、しばらく教部省に奉職して時機を待てとの不二麿の言葉もあり、それにむなしい
旅食も心苦しいからであった。教部省は
神祇局の後身である。平田一派の仕事は、そこに残っている。そんな関係からも、半蔵の心は動いて、師鉄胤をはじめ、同門諸先輩が残した仕事のあとをも見たいと考え、彼も不二麿の勧めに従った。
とりあえず、彼はこのことを国もとの妻子に知らせ、多吉方を仮の
寓居とするよしを書き送り、旅の心もやや定まったことを告げてやった。そういう彼はまだ
斎の道の途上にはあったが、しかしあの
碓氷峠を越して来て、
両国の旅人宿に
草鞋を脱いだ晩から、さらに
神田川に近い町中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦のような気の置けない人たちのそばに自分を見つけた日から、ほとんど別の人のような心を起こした。彼はうす暗い中に起きて、台所の裏手にある井戸のそばで、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い、まず自分の身を
浄めることを始めた。そして毎朝
水垢離を取る習慣をつけはじめた。
今は親しいもののだれからも遠い。一、六と定められた役所の休日に、半蔵は多吉方の二階の
部屋にいて、そろそろ梅雨の季節に近づいて行く六月の町の空をながめながら、家を思い、妻を思い、子を思った。その時になると、外には
台湾生蕃征討の事が起こり、内には西南地方の結社組織のうわさなぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそうたやすく言えるわけのものでもなかったが、しかしなんとなく彼の胸にまとまって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建て直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。
いったん時代から沈んで行った
水戸のことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい党派争いがほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあったことを思い出した。あの水戸人の持つたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられ、井伊大老もしくは
安藤老中のような要路の大官にまで向けられたことを思い出した。彼はそれを眼前に生起する幾多の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが
筑波の旗上げとなり、
尊攘の意志の表示ともなって、
活きた歴史を流れたように、今またそれの形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、
薩摩にも活き返りつつあるのかと疑った。
彼は自分で自分に尋ねて見た。
「これでも復古と言えるのか。」
その彼の眼前にひらけつつあったものは、帰り来る古代でもなくて、実に思いがけない
近つ
代であった。
[#改頁]
第十一章
一
東京の町々はやがてその年の十月末を迎えた。
常磐橋内にある教部省では役所のひける時刻である。短い羽織に
袴をつけ、それに
白足袋、
雪駄ばきで、懐中にはいっぱいに書物をねじ込みながら橋を渡って行く人は、一日の勤めを終わった役所帰りの半蔵である。
その日かぎり、半蔵は再び役所の門を
潜るまい、そこに集まる同僚の人たちをも見まいと思うほどのいらいらした心持ちで、
鎌倉河岸のところに黄ばみ落ちている柳の葉を踏みながら、
大股に歩いて行った。もともと今度の上京を思い立って国を出た時から、都会での
流浪生活を覚悟して来た彼である。半年の奉職はまことに短かったとは言え、とにもかくにも彼は神祇局の後身ともいうべき教部省に身を置いて見て、平田一派の諸先輩がそこに残した仕事のあとを見ただけにも満足しようとした。例の浅草
左衛門町にある多吉の家をさして帰って行くと、上京以来のことが彼の胸に浮かんで来た。ふと、ある町の
角で、彼は足をとめて、ホッと深いため息をついた。その
路は半年ばかり彼が役所へ往復した路である。
柄にもない教部省御雇いとしての位置なぞについたのは、そもそも自分のあやまりであったか、そんな考えがしきりに彼の胸を
往ったり来たりした。
「これはおれの
来べき路ではなかったのかしらん。」
そう考えて、また彼は歩き出した。
仮の
寓居と定めている多吉の家に近づけば近づくほど、名のつけようのない寂しさが彼の胸にわいた。彼は泣いていいか笑っていいかわからないような心持ちで、教部省の門を出て来たのである。
左衛門橋に近い多吉夫婦が家に
戻って二階の
部屋に袴をぬいでからも、まだ半蔵はあの常磐橋内の方に身を置くような気がしている。役所がひける前の室内の光景はまだ彼の目にある。そこには担当する課事を終わって、机の上を片づけるものがある。
風呂敷包みを
小脇にかかえながら雑談にふけるものもある。そのそばには手で
頤をささえて同僚の話に耳を傾けるのもある。さかんな笑い声も起こっている。日ごろ半蔵が尊信する
本居宣長翁のことについて、
又聴きにした話を語り出した
一人の同僚がそこにある。それは本居翁の
弟子斎藤彦麿の日記の中に見いだされたことだというのである。ある日、彦麿はじめ二、三の内弟子が翁の家に集まって、「先生は実に
活神様だ」と話しながら食事していると、給仕の下女がにわかに泣き出したというのである。子細をたずねると、その女の答えるには、実はその活神様が毎晩のように自分の寝部屋へ見える、うるささのあまり、昨夜は足で
蹴ってやったが、そんな立派な活神様では罰が当たって、この足が曲がりはしないかと、それで泣いたのだと言われて、彦麿もあいた口がふさがらなかったというのである。それを聞くと、そこにいたものは皆笑った。その話をはじめた同僚はますます得意になって、「いったい、下女の寝部屋へはいり込むようなものにかぎって、人格者だ」とやり出す。この「人格者」がまた一同を笑わせた。半蔵は顔色も青ざめて、その同僚の口から出たような話がどこまで本当であるやもわからなかったし、また、斎藤彦麿の日記なるものがどこまで信用のできるものかもわからなかったから、それをくどく言い争う気にはならなかったが、しかしそこに集まる人たちが鬼の首でも取ったようにそんな話をして楽しむということに
愛想をつかした。前に本居宣長がなかったら、平田
篤胤でも古人の
糟粕をなめて終わったかもしれない。平田篤胤がなければ、平田
鉄胤もない。平田鉄胤がなければ、結局今の教部省というものもなかったかもしれない。そのことがとっさの間に彼の胸へ来た。思わず彼はその同僚の背中を目のさめるほど一つどやしつけて置いて、それぎり役所を出て来てしまった。それほど彼もいらいらとしていた。
十月末のことで、一日は一日より深くなって行く秋が旅にある半蔵の身にひしひしと感じられた。神田川はその二階の位置から隠れて見えないまでも、ごちゃごちゃとした建物の屋根の向こうに沈んだ町の空が障子の開いたところから彼の目に映る。長いこと彼はひとりですわっていて、あたりの町のすべてが湿った空気に包まれて行くのをながめながら、自分で自分のしたことを考えた。
「いくら人の欠点を知ったところで、そんなことが何になろう。」
と考えて、彼はそれを役所の同僚の話に結びつけて見た。
彼はある人の所蔵にかかる本居翁の肖像というものを見たことがある。それは翁が名古屋の吉川義信という画工にえがかせ、その上に和歌など自書して門人に与えたものの一つである。その清い
眉にも涼しい目もとにも老いの迫ったという
痕跡がなく、まだみずみずしい髪の
髻を古代紫の
緒で
茶筅風に結び、その先を前額の方になでつけたところは、これが六十一歳の翁かと思われるほどの人がその画像の中にいた。翁は自意匠よりなる服を造り、
紗綾形の地紋のある
黒縮緬でそれを製し、
鈴屋衣ととなえて歌会あるいは講書の席上などの式服に着用した人であるが、その
袖口には紫縮緬の裏を付けて、それがまたおかしくなかったと言わるるほどの若々しさだ。早く
老けやすいこの国の人たちの中にあって、どうしてそれほどの若さを持ち続け得たろうかと疑われるばかり。こんな人が誤解されやすいとしたら、それこそ翁の短所からでなくて、むしろ晩年に至るまでも衰えず若葉してやまなかったような、その長い春にこもる翁の長所からであったろうと彼には思われる。彼の心に描く本居宣長とは、あの先師平田篤胤に想像するような
凜々しい
容貌の人ともちがって、多分に女性的なところを持っていた心深い感じのする大先輩であった。そして、いかにもゆったりとその
生涯を発展させ、
天明の昔を歩いて行った
近つ
代の人の中でも、最も高く見、最も遠く見たものの
一人であった。そのかわり、先師篤胤は万事明け放しで、丸裸になって物を言った。そこが多くの平田門人らにとって親しみやすくもあったところだ。本居翁にはそれはない。
寛いふところに、ありあまるほどの情意を包みながら、言説以外にはそれも打ち出さずに、終生つつましく暮らして行かれたようなその人柄は、内弟子にすら近づきがたく思われたふしもあったであろう。ともあれ、日ごろ彼なぞが力と頼む本居翁も口さがない人たちにかかっては、
滑稽な戯画の中の人物と化した。先輩を活神様にして祭り上げる人たちは、また
道化役者にして笑いたがる人たちである。そんな態度が頼みがいなく思われる上に、
又聞きにしたくらいの人の秘密をおもしろ半分に振り回し、
下世話にいう
肘鉄を食わせたはしたない女の話なぞに興がって、さも活神様の裏面に隠れた陰性な
放蕩をそこへさらけ出したという顔つきでいるそういう同僚を彼は片腹痛く思った。きく人もまたすこぶる満足したもののごとく、それを笑い楽しむような空気の中で、国学の権威もあったものではない。そのことがすでに彼には
堪え忍べなかった。
二
「なんだか、ぼんやりした。あのお
粂のことがあってから、おれもどうかしてしまった。はて、おれも
路に迷ったかしらん……」
新生涯を開拓するために郷里の家を離れ、どうかして
斎の道を踏みたいと思い立って来た半蔵は、またその途上にあって、早くもこんな考えを起こすようになった。
すこしく感ずるところがあって、常磐橋の役所も
退くつもりだ。そのことを彼は多吉夫婦に話し、わびしい旅の日を左衛門町に送っていた。彼は神田明神の境内へ出かけて行って、そこの社殿の片すみにすわり、静粛な時を送って来ることを何よりの心やりとする。時に
亭主多吉に誘われれば、名高い講釈師のかかるという両国の席亭の方へ一緒に足を向けることもある。そこへ新乗物町に住む医師の
金丸恭順が
訪ねて来た。恭順はやはり平田門人の一人である。同門の
好みから、この人はなにくれとなく彼の相談相手になってくれる。その時、彼は過ぐる日のいきさつを恭順の前に持ち出し、実はこれこれでおもしろくなくて、役所へも出ずに引きこもっているが、本居翁の門人で斎藤彦麿のことを聞いたことがあるかと尋ねた。恭順はその話を聞くと腹をかかえて笑い出した。江戸の人、斎藤彦麿は本居
大平翁の教え子である、
藤垣内社中の一人である、宣長翁とは時代が違うというのである。
「して見ると、人違いですかい。」
「まずそんなところだろうね。」
「これは、どうも。」
「そりゃ君、本居と言ったって、宣長翁ばかりじゃない、大平翁も本居だし、
春庭先生だっても本居だ。」
二人はこんな言葉をかわしながら、互いに顔を見合わせた。
恭順に言わせると、宣長の高弟で後に本居姓を継いだ大平翁は早く細君を失われた人であったと聞く。そこからあの篤学な大平翁も
他の知らないさびしい思いを経験されたかもしれない。それにしても、内弟子として朝夕その人に親しんで見た彦麿がそんな調子で日記をつけるかどうかも疑わしい上に、もしあの弟子の驚きが今さらのように好色の心を自分の師翁に見つけたということであったら、それこそ彦麿もにぶい人のそしりをまぬかれまい。まこと国学に心を寄せるほどのものは恋をとがめないはずである。よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめるとは、あの宣長翁の書きのこしたものにも見える。
こんな話をしたあとで、
「いやはや、宣長翁も飛んだ
濡衣を着たものさね。」
恭順は大笑いして帰って行った。そのあとにはいくらか心の軽くなった半蔵が残った。「よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめる」とは恭順もよい言葉を彼のところに残して置いて行った。彼はそう思った。もし先輩が道化役者なら、それをおもしろがって見物する後輩の同僚は一層の道化役者ではなかろうかと。まったく、男の女にあう路は思いのほかの路で、へたな理屈にあてはまらない。この路ばかりは、どんな先輩にも
過ちのないとは言えないことであった。あながちに深く思いかえしても、なおしずめがたく、みずからの心にもしたがわない力に誘われて、よくない事とは知りながらなお忍ぶに忍ばれない場合は世に多い。あの彦麿が日記の中にあるというように、大平翁ほどの人がそんな情熱に身を任せたろうとは、彼には信じられもしなかったが、仮にそんな時代があって、蒸し暑く光の多い夏の夜なぞは眠られずに、幾度か寝所を替えられたようなことがあったとしても、あれほど
他におもねることをしなかった宣長翁の後継者としては、おのれにおもねることをもされなかったであろう。おそらく、自分はこのとおり愚かしいと言われたであろうと彼には思われた。それにしても、本居父子の本領は別にある。宣長翁にあっては、深い精神にみちたものから単なる動物的なものに至るまで――さては、源氏物語の中にあるあの
薄雲女院に見るような不義に至るまでも、あらゆる
相において好色はあわれ深いものであった。いわゆる善悪の観念でそれを律することはできないと力説したのが宣長翁だ。彼なぞの最も知りたく思うことは、いかにしてあの大先輩がそれほどの
彼岸に達することができたろうかというところにある。その心から彼はあの『
玉の
小櫛』を書いた翁を想像し、歴代の歌集に多い恋歌、または好色のことを書いた
伊勢、源氏などの物語に対する翁が読みの深さを想像し、その古代探求の深さをも想像して、あれほど儒者の教えのやかましく男女は七歳で席を同じくするなと厳重に戒めたような封建社会の空気の中に立ちながら、実に大胆に恋というものを肯定した本居宣長その人の生涯に隠れている婦人にまでその想像を持って行って見た。
しかし、半蔵が教部省を去ろうとしたのは、こんな同僚とのいきさつによるばかりではない。なんと言っても、以前の神祇局は師平田鉄胤をはじめ、
樹下茂国、
六人部雅楽、
福羽美静らの平田派の諸先輩が御一新の文教あるいは神社行政の上に重要な役割をつとめた中心の舞台である。師の周囲には平田
延胤、
師岡正胤、
権田直助、丸山
作楽、矢野
玄道、それから半蔵にはことに親しみの深い
暮田正香らの人たちが集まって、直接に間接に復古のために働いた。半蔵の学友、
蜂谷香蔵、今こそあの同門の道づれも郷里中津川の
旧廬に
帰臥しているが、これも神祇局時代には
権少史として師の仕事を助けたものである。田中
不二麿の世話で、半蔵がこんな縁故の深いところに来て見たころは、追い追いと役所も改まり、人もかわりしていたが、それでも鉄胤老先生が神祇官判事として在職した当時の記録は、いろいろと役所に残っていた。ちょうど草の香でいっぱいな故園を
訪う心は、半蔵が教部省内の
一隅に身を置いた時の心であった。彼はそれらの諸記録をくりひろげるたびに、あそこにだれの名があった、ここにだれの名があったと言って見て、平田一門の諸先輩によって代表された中世否定の運動をそこに見渡すことができるように思った。別当社僧の復飾に、仏像を神体とするものの取り除きに、
大菩薩の称号の廃止に、神職にして仏葬を執り行なうものの禁止に――それらはすべて神仏分離の運動にまであふれて行った国学者の情熱を語らないものはない。ある人も言ったように、従来
僧侶でさえあれば善男善女に随喜
渇仰されて、一生食うに困らず、葬礼、法事、
会式に専念して、
作善の道を講ずるでもなく、転迷開悟を勧めるでもなく、真宗以外におおぴらで肉食妻帯する者はなかったが、だいこく、
般若湯、天がい等の何をさす名か、知らない者はなかったのが一般のありさまであった。「されば
由緒もなき無格の小寺も、本山への献金によつて寺格を進めらるることのあれば、昨日にび色の法衣着たる身の今日は
緋色を飾るも、また黄金の力たり。堂塔の新築改造には、
勧進、
奉化、
奉加とて、浄財の寄進を俗界に求むれども、実は強請に異ならず。その堂内に通夜する
輩も風俗壊乱の
媒たり。」とはすでに元禄の昔からである。全国寺院の過多なること、寺院の富用無益のこと、僧侶の
驕奢淫逸乱行
懶惰なること、罪人の多く出ること、田地境界訴訟の多きこと等は、第三者の声を待つまでもなく、仏徒自身ですら心あるものはそれを認めるほどの過去の世相であったのだ。
大きな破壊の動いた跡はそこにも驚かれるほどのものがある。利にさとい寺方が
宮公卿の名目で民間に金を貸し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に
鎗玉にあげられた。
仁和寺、大覚寺をはじめ、諸
門跡、
比丘尼御所、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、
御撫物、
祈祷巻数ならびに諸献上物もことごとく廃されて、自今僧尼となるものは地方官庁の免許を受けなければならないこととなった。
虚無僧の廃止、天社神道の廃止、
修験宗の廃止に続いて、神社仏閣の地における女人結界の場処も廃止された。この勢いのおもむくところは社寺領上地の命令となり、表面ばかりの禁欲生活から僧侶は解放され、比丘尼の蓄髪と縁付きと肉食と
還俗もまた勝手たるべしということになった。従来、
祇園の社も
牛頭天王と呼ばれ、
八幡宮も大菩薩と称され、大社
小祠は事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、
天海僧正以来の僧侶の勢力も神仏
混淆禁止令によって根から
覆されたのである。
半蔵が教部省に出て仕えたのは、こんな一大変革のあとをうけて神社寺院の整理もやや端緒についたばかりのころであった。かねて神祇官時代には最も重要な地位に置かれてあった
祭祀の式典すら、彼の来て見たころにはすでに式部寮の所管に移されて、その一事だけでも役所の仕事が平田派諸先輩によって
創められた出発当時の意気込みを失ったことを語っていた。すべてが試みの時であったとは言え、各自に信仰を異にし意見を異にし気質を異にする神官僧侶を合同し、これを教導職に補任して、広く国民の教化を行なおうと企てたことは、言わば教部省第一の使命ではあったが、この企ての失敗に終わるべきことは教部省内の役人たちですら次第にそれを感づいていた。初めから一致しがたいものに一致を求め、協和しがたいものに協和を求めたことも、おそらく新政府当局者の弱点の一つであったろう。ともかくもその国民的教化組織の輪郭だけは大きい。中央に神仏合同の大教院があり、地方にはその分院とも見るべき中教院、小教院、あるいは教導職を中心にする無数の教会と講社とがあった。いわゆる三条の教則なるものを定めて国民教導の規準を示したのも教部省である。けれども全国の神官と共に各宗の僧侶をして布教に従事せしめるようなことは長く続かなかった。専断
偏頗の訴えはそこから起こって来て、教義の紛乱も絶えることがない。外には布教の功もあがらないし、内には協和の実も立たない。真宗五派のごときは早くも合同大教院から分離して、独立して布教に従事したいと申し出るような状態にある。半蔵はこんな内部の動揺しているところへ飛び込んで行ったのであった。役所での彼の仕事は主として考証の方面で、大教院から回して来るたくさんな書類を整理したり、そこで編集された教書に目を通したり、地方の教会や講社から来るさまざまな質疑に答えたりなぞすることであった。彼も幾度か
躊躇したあとで、全く無経験な事に当たった。いかんせん、役所の空気はもはや事を企つるという時代でなく、ただただ不平の多い各派の教導職を相手にして妥協に妥協を重ねるというふうであった。同僚との交際にしても底に触れるものがない。今の教部省が神祇省と言った一つの時代を中間に置いて、以前の神祇局に集まった諸先輩の意気込みを想像するたびに、彼は自分の机を並べる同僚が互いの
生い立ちや趣味を
超えて、何一つ与えようともせず、また与えられようともしないと気がついた時に失望した。のみならず、地方の教会や講社から集まって来る書類は机の上に
堆高いほどあって、そこにも彼は無数のばからしくくだらない質疑の
矢面に立たせられた。たとえば、僧侶たりとも従前の服を脱いで文明開化の新服をまといたいが、仏事のほかは洋服を着用しても苦しくないか。神社仏寺とも古来所伝の
什物、衆庶寄付の諸器物、並びに
祠堂金等はこれまで
自儘に処分し来たったが、これも一々教部省へ具状すべき筋のものであるか。従来あった
梓巫、
市子、
祈祷、
狐下げなぞの
玉占、口よせ等は一切禁止せらるるか。寺住職の家族はその寺院に居住のまま商業を営んでも苦しくないか。もし
鬘を着けるなら、寺住職者の伊勢参宮も許されるかの
類だ。国学の権威、一代の先駆者、あの本居翁が
滑稽な戯画中の人物と化したのも、この調子の低い空気から出たことだ。
「教部省のことはもはや言うに足りない。」
とは半蔵の嘆息だ。
今は彼も再び役所の同僚の方へ帰って行く気はないし、また帰れもしない。いよいよ役所の仕事からも離れて、辞職の手続きをする心に至って見ると、彼なぞのそう長く身を置くべき場所でないこともはっきりした。
三
半蔵が教部省御雇いとしての日はこんなふうに終わりを告げた。半年の奉職は短かったが、しかし彼はいろいろなことを学んで来た。平田派諸先輩の学者たちが祭政一致の企てに手を焼いたことをも、それに代わって組織された神仏合同大教院のような政府の教化事業が結局失敗に終わるべき運命のものであることを知って来たのも、その短い月日の間であった。ここまで御一新に
路を
開けたあの本居翁のような人さえもが多くの俗吏によってどんなふうに取り扱われているかを知って来たのも、またその間であった。
この彼も、行き疲れ、思い疲れた日なぞには、さすがに昨日のことを心細く思い出す。十一月にはいってからは旅寝の朝夕もめっきりと
肌寒い。どうかすると彼は多吉夫婦が家の二階の
仮住居らしいところに長い夜を思い明かし、
行燈も暗い
枕もとで、不思議な
心地をたどることもある……いつのまにか彼はこの世の旅の半ばに正路を失った人である。そして行っても行っても思うところへ出られないようないらいらした心地で町を歩いている……ふと、途中で、文部
大輔に昇進したという田中不二麿に行きあう。そうかと思うと、同門の医者、金丸恭順も歩いている。彼は自分で自分の歩いているところすらわからないような気がして来る。途方に暮れているうちに、ある町の
角なぞで、彼は平素それほど気にも留めないような見知らぬ人の目を見つける。その目は鋭く彼の方を見つつあるもののようで、
「あそこへ行くのは、あれはなんだ――うん、
総髪か」とでも言うように彼には感じられる。彼はまだ
散切りにもしないで、総髪を
後方にたれ、紫の
紐でそれを堅く結び束ねているからであった。そういう彼はまた、しいてそんな風俗を固守しているでもないが、日ごろの願いとする古い神社の方へ行かれる日でも来たら、総髪こそその神に仕える身にはふさわしいと思われるからでもあった。不思議にも、鋭く光った目は彼の行く先にある。どう見てもそれは恐ろしい目だ。こちらの肩をすくめたくなるような目だ。彼はそんな物言う目を洋服姿の諸官員なぞが通行の多い新市街の中に見つけるばかりでなく、半分まだ江戸の町を見るような
唐物店、荒物店、
下駄店、針店、その他紺の
暖簾を掛けた大きな問屋が黒光りのする土蔵の軒を並べた商家の空気の濃いところにすら見つける。どうかすると、そんな恐ろしい目はある橋の上を通う人力車の中にまで隠れている。こういうのが夢かしらん。そう思いながら、なおその心地をたどりつづけるうちに、大きな
河の流れているところへ出た。そこは郷里の
木曾川のようでもあれば、東京の
隅田川のようでもある。水に
棹さして流れを下って来る人がある。だんだんこちらの岸に近づいたのを見ると、その小舟をあやつるのは他の人でもない。それが彼の父吉左衛門だ。父はしきりに彼をさし招く。舟の中には手ぬぐいで髪をつつんだ
一人のうしろ向きの婦人もある。彼は岸から父に声をかけて見ると、その婦人こそ彼を生んだ実の母お
袖と聞かされて驚く。その時は彼も一生懸命に母を呼ぼうとしたが、あいにく声が
咽喉のところへ
干からびついたようになって、どうしてもその「お
母さん」が出て来ない。はるかに川上から橋の下の方へ
渦巻き流れて来る薄濁りのした水の勢いは矢のような早さで、見るまに舟も遠ざかって行く。思わず彼は自分で自分の揚げたうなり声にびっくりして、目をさました。
こんなに父母が夢にはいったのは、半蔵としてはめずらしいことだった。半年の旅の末にはこんな夢を見ることもあるものか。そう彼は考えて、まだ寝床からはい出すべき時でもない早暁の枕の上で残った夢のこころもちに浸っていた。いつでも寝返りの一つも打つと、からだを動かすたびにそんなこころもちの消えて行くのは彼の癖であったが、その明けがたにかぎって、何がなしに恐ろしかった夢の筋から、父母の面影までが、はっきりと彼の胸に残った。これまで彼が
亡き父を夢に見た覚えは、ただの一度しかない。青山の家に伝わる
馬籠本陣、
問屋、
庄屋の三役がしきりに廃止になった後、父吉左衛門の百か日を迎えたころに見たのがその夢の記憶だ。その時にできた歌もまだ彼には忘れられずにある。
亡き人に言問ひもしつ幽界に通ふ夢路はうれしくもあるか
こんな自作の歌までも思い出しているうちに、耳に入る冷たい秋雨の音、それにまじってどこからともなく聞こえて来る
蟋蟀の次第に弱って行くような鳴き声が、いつのまにか木曾の郷里の方へ彼の心を誘った。彼は枕の上で、恋しい親たちの葬ってある馬籠万福寺の墓地を思い出した。妻のお民や四人の子の留守居する家の囲炉裏ばたを思い出した。平田同門の先輩も多くある中で、彼にはことに親しみの深い暮田正香をめずらしく迎え入れたことのある家の店座敷を思い出した。木曾路通過の正香は賀茂の方へ赴任して行く旅の途中で、古い神社へとこころざす手本を彼に示したのもあの先輩だが、彼と共にくみかわした酒の上で平田一門の前途を語り、御一新の成就のおぼつかないことを語り、復古が復古であるというのはそれの達成せられないところにあると語り、しまいには熱い暗い涙があの先輩の男らしい顔を流れたことを思い出した。彼はまた、松尾
大宮司として京都と東京の間をよく往復するという先輩
師岡正胤を
美濃の中津川の方に迎えた時のことを思い出し、その小集の席上で同門の人たちが思い思いに歌を
記しつけた扇を思い出し、あるものはこうして互いにつつがなくめぐりあって見ると八年は夢のような気がするとした意味の歌を書いたことを思い出し、あるものは
辛いとも甘いとも言って見ようのない無限の味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものであったことを思い出した。その時の師岡正胤が扇面に書いて彼に与えたものは、この人にしてこの歌があるかと思われるほどの述懐で、おくれまいと思ったことは昔であるが、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いの寄せてあったことをも思い出した。
やがて彼は床を離れて、自分で二階の雨戸をくった。二つある西と北との小さな窓の戸をもあけて見たが、まだそこいらは薄暗いくらいだった。階下の台所に近い井戸のそばで
水垢離を取り身を
浄めることは、上京以来ずっと欠かさずに続けている彼が日課の一つである。その時が来ても、おそろしく
路に迷った夢の中のこころもちが容易に彼から離れなかった。そのくせ気分ははっきりとして来て、何を見ても次第に目がさめるような早い朝であった。雨も通り過ぎて行った。
「ゆうべは多吉さんもおそかったようですね。」
「青山さん、さぞおやかましゅうございましたろう。
吾夫じゃあんなにおそく帰って来て、戸をたたきましたよ。」
問う人は半蔵、答える人は彼に二階の
部屋を貸している多吉の妻だ。その時のお
隅の
挨拶に、
「まあ聞いてください。
吾夫でも好きな道と見えましてね、運座でもありますとよくその方の選者に頼まれてまいりますよ。昨晩の催しは
吉原の方でございました。御連中が御連中で、御弁当に酒さかななぞは
重詰めにして出しましたそうですが、なんでも百韻とかの
付合があって、たいへんくたぶれたなんて、そんなことを言っておそく帰ってまいりました。でも、あなた、男の人のようでもない。吉原まで行って、泊まりもしないで帰って来る――
意気地がないねえ、なんて、そう言って、わたしは笑っちまいましたよ。」
「どうも、おかみさんのような人にあっちゃかないません。」
「ところが、青山さん、
吾夫の言い草がいいじゃありませんか。おそく夜道を帰って来るところが、おれの
俳諧ですとさ。」
多吉夫婦はそういう人たちだ。
十年一日のように、多吉は深川米問屋の帳付けとか、あるいは茶を海外に輸出する貿易商の
書役とかに甘んじていて、町人の家に生まれながら全く物欲に執着を持たない。どこへ行くにも矢立てを腰にさして胸に浮かぶ
発句を書き留めることを忘れないようなところは、風狂を生命とする奇人伝中の人である。その
寡欲と、正直と、おまけに客を愛するかみさんの
侠気とから、半蔵のような旅の者でもこの家を離れる気にならない。
この
亭主に教えられて半蔵がおりおりあさりに行く古本屋が両国
薬研堀の花屋敷という
界隈の方にある。そこにも変わり者の隠居がいて、江戸の時代から残った俳書、
浮世草紙から古いあずま
錦絵の類を店にそろえて置いている。半蔵は亭主多吉が蔵書の大部分もその隠居の店で求めたことを聞いて知っていた。そういう彼も旅で集めた書物はいろいろあって、その中の不用なものを売り払いたいと思い立ち、午後から薬研堀を
訪うつもりで多吉の家を出た。
偶然にも半蔵の足は古本屋まで行かないうちに懇意な医者の金丸恭順がもとに向いた。例の新乗物町という方へ
訪ねて行って見ると、ちょうど恭順も病家の見回りから帰っている時で、よろこんで彼を迎えたばかりでなく、思いがけないことまでも彼の前に持ち出した。その時の恭順の話で、彼はあの田中不二麿が陰ながら自分のために心配していてくれたことを知った。
飛騨水無神社の宮司に半蔵を推薦する話の出ているということをも知った。これはすべて不二麿が
斡旋によるという。
恭順は言った。
「どうです、青山君、君も役不足かもしれないが、一つ飛騨の山の中へ出かけて行くことにしては。」
どうして役不足どころではない。それこそ半蔵にとっては、願ったりかなったりの話のように聞こえた。この飛騨行きについては、恭順はただ不二麿の話を取り次ぐだけの人だと言っているが、それでも半蔵のために心配して、飛騨の水無神社は思ったより寂しく不便なところにあるが、これは決して左遷の意味ではないから、その辺も誤解のないように半蔵によく伝えくれとの不二麿の話であったと語ったりした。
「いや、いろいろありがとうございました。」と半蔵は恭順の前に手をついて言った。「わたしもよく考えて見ます。その上で田中さんの方へ御返事します。」
「そう君に言ってもらうと、わたしもうれしい。時に、青山君、君におめにかけるものがある。」
と恭順は言いながら、黒く塗った
艶消しの色も好ましい大きな
文箱を奥座敷の
小襖から取り出して来た。その中にある半紙四つ折りの二冊の手帳を半蔵の前に置いて見せた。
「さあ、これだ。」
恭順がそこへ取り出したのは、半蔵の旧友
蜂谷香蔵がこの同門の医者のもとに残して置いて行ったものである。恭順は久しいことそれをしまい込んで置いて、どうしても見当たらなかったが、最近に本箱の
抽斗の中から出て来たと半蔵に語り、あの香蔵が老師鉄胤のあとを追って上京したのは明治二年の五月であったが、惜しいことに東京の客舎で
煩いついたと語った末に言った。
「でも、青山君、世の中は広いようで狭い。君の友だちのからだをわたしが
診てあげたなんて、まったく回り回っているもんですわい。」
こんな話も出た。
飛騨行きのことを勧めてくれたこの医者にも、恭順を通じてその話を伝えさせた不二麿にも、また、半蔵が平田篤胤没後の門人であり多年勤王のこころざしも深かった人と聞いてぜひ水無神社の宮司にと懇望するという飛騨地方の有志者にも、これらの人たちの厚意に対しては、よほど半蔵は感謝していいと思った。やがて彼は旧友の日記を借り受けて、恭順が家の門を出たが、古い神社の方へ行って仕えられる日の来たことは、それを考えたばかりでも彼には夢のような気さえした。
飛騨の山とは、遠い。しかし日ごろの願いとする
斎の道が踏める。それに心を動かされて半蔵は多吉の家に引き返した。動揺して定まりのなかった彼も大いに心を安んずる時がありそうにも思われて来た。とりあえず、その話を簡単に多吉の耳に入れて置いて、やがてその足で彼は二階の
梯子段を上って行って見た。夕日は
部屋に満ちていた。何はともあれ、というふうに、彼は恭順から借りて来た友人の日記を机の上にひろげて、一通りざっと目を通した。「東行日記、
巳五月、蜂谷香蔵」とある。鉄胤先生もまだ元気いっぱいであった明治二年のことがその中に出て来た。同門の故人
野城広助のために霊祭をすると言って、
若菜基助の主催で、二十余人のものが集まった記事なぞも出て来た。その席に参列した先輩師岡正胤は当時
弾正大巡察であり、権田直助は大学
中博士であり、
三輪田元綱は大学
少丞であった。婦人ながらに国学者の運動に加わって文久年代から王事に奔走した
伊那伴野村出身の
松尾多勢子の名もその参列者の中に見いだされた。香蔵の筆はそうこまかくはないが、きのうはだれにあった、きょうはだれを訪ねたという記事なぞが、平田派全盛の往時を語らないものはない。
医者の
文箱に入れてあったせいかして、なんとなく香蔵の日記に移った薬のにおいまでが半蔵にはなつかしまれた。彼は友人と
対坐でもするように、香蔵の日記を繰り返してそこにいない友人の前へ自分を持って行って見た。今は
伊勢宇治の今北山に眠る旧師から、生前よく戯れに三蔵と呼ばれた三人の学友のうち、その日記を書いた香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙をまもる景蔵のようなものもある。これからさらに踏み出そうとして、人生
覊旅の別れ
路に立つ彼半蔵のようなものもある。
四
飛騨国大野郡、国幣小社、
水無神社、俗に一の宮はこの半蔵を待ち受けているところだ。東京から
中仙道を通り、
木曾路を経て、
美濃の中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社に達することができない。旅行はまだまだ不便な当時にあって、それだけも容易でない上に、美濃の
加子母村あたりからはいる
高山路と来ては、これがまた一通りの険しさではない。あの木曾谷から伊那の方へぬける山道ですら、昼でも暗い森に、木から落ちる
山蛭に、
往来の人に取りつく
蚋に、
勁い風に鳴る
熊笹に、旅するものの行き悩むのもあの
山間であるが、音に聞こえた高山路はそれ以上の険しさと知られている。
この飛騨行きは、これを伝えてくれた恭順を通して田中不二麿からも注意のあったように、左遷なぞとは半蔵の思いもよらないことであった。たとい教部省あたりの同僚から邪魔にされて、よろしくあんな男は敬して遠ざけろぐらいのことは言われるにしても、それを
意にかける彼ではもとよりない。ただ、そんな山間に行って身を
埋めるか、埋めないかが彼には先決の問題で、容易に決心がつきかねていた。
その時になると、多くの国学者はみな進むに難い時勢に際会した。半蔵が同門の諸先輩ですら、ややもすれば激しい潮流のために押し流されそうに見えて来た。いったい、幕末から御一新のころにかけて、あれほどの新機運をよび起こしたというのも、その一つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に根ざしたことであった。そういう中で、最も古いところに着眼して、しかも最も新しい路をあとから来るものに教えたのは国学者仲間の
先達であった。あの
賀茂真淵あたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き
貌を明るみへ持ち出すことができた。そこから、一つの精神が生まれた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平田篤胤、および平田派諸門人が次第に実行を思う心はまずそこに
胚胎した。なんと言っても「言葉」から歴史にはいったことは彼らの強味で、そこから彼らは懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼らは健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それにはまずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をも
撓めず欲をもいとわない生の肯定はこの先達があとから歩いて来るものにのこして置いて行った宿題である。その意味から言っても、国学は
近つ
代の学問の一つで、何もそうにわかに時世おくれとされるいわれはないのであった。
もともと平田篤胤が後継者としての鉄胤は決して思いあがった人ではない。故篤胤翁の祖述者をもって任ずる鉄胤は、一切の門人をみな平田篤胤没後の門人として取り扱い、決しておのれの門人とは見なさなかったのが、何よりの証拠だ。多くの門人らもまたこの師の気風を受け継がないではない。ただ復古の夢を実顕するためには、まっしぐらに駆けり出そうとするような物を企つる心から、時には師の引いた線を
超えて
埓の外へ飛び出したものもあった。けれども、その単純さから、門人同志の親しみも生まれ、団結も生まれることを知ったのであった。あの王政復古の日が来ると同時に、同門の人たちの中には武器を執って東征軍に従うものがあり、軍の
嚮導者たることを志すものがあり、あるいは徳川幕府より
僧侶に与えた宗門権の破棄と神葬復礼との方向に突き進むものがあって、過去数百年にわたる武家と僧侶との二つの大きな勢力を
覆すことに力を尽くしたというのも、みなその単純な、しかし偽りも飾りもない心から出たことであった。ことに神仏分離の運動を起こして、この国の根本と枝葉との関係を明らかにしたのは、国学者の力によることが多いのであり、宗教
廓清の一新時代はそこから開けて来た。暗い寺院に肉食妻帯の厳禁を廃し、多くの僧尼の生活から人間を解き放ったというのも、虚偽を捨てて
自然に帰れとの教えから出たことである。すくなくもこの国学者の運動はまことの仏教徒を刺激し、その
覚醒と奮起とを促すようになった。いかんせん、多勢寄ってたかってすることは勢いを生む。しまいには、地方官の中にすら廃仏の
急先鋒となったものがあり、従来の社人、復飾の僧侶から、一般の人民まで、それこそ
猫も
杓子もというふうにこの勢いを押し進めてしまった。廃寺は
毀たれ、
垣は破られ、墳墓は移され、残った
礎や欠けた
塊が人をしてさながら古戦場を過ぐるの思いを
抱かしめた時は、やがて国学者諸先輩の真意も見失われて行った時であった。言って見れば、国学全盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであった。しかも、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えた。
いかに平田門人としての半蔵なぞがやきもきしても、この
頽勢をどうすることもできない。大きな
自然の
懐の中にあるもので、盛りがあって衰えのないものはないように、一代の学問もまたこの例にはもれないのか。その考えが彼を悲しませた。彼には心にかかるかずかずのことがあって、このまま都を立ち去るには忍びなかった。
まだ半蔵の飛騨行きは確定したわけではない。彼は東京にある知人の
誰彼が意見をもそれとなく聞いて見るために町を出歩いた。何も飛騨の山まで行かなくとも他に働く道はあろうと言って彼を引き止めようとしてくれる人もない。今はそんな時ではないぞと言ってくれるような人はなおさらない。久しく
訪ねない鉄胤老先生の
隠栖へも、
御無沙汰のおわびをかねてその相談に訪ねて行って見ると、師には引き止められるかと思いのほか、一生に一度はそういう旅をして来るのもよかろうとの老先生らしい
挨拶であった。
その時になっても、まだ半蔵は右すべきか左すべきかの別れ路に迷っていた。彼は自分で自分に尋ねて見た。一筋の新しい進路は開けかかって来た、神の
住居も見えて来た、今は迷うところなくまッすぐにたどりさえすればいい、この
期に臨んで何を自分は
躊躇するのか、と。それに答えることはたやすそうで、たやすくない。彼が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながらに東西交通の要路に立っていた。この世の動きは、否でも応でも馬籠駅長としての彼の目の前を通り過ぎた。どうして、新旧の激しい争いがさまざまの形をとってあふれて来ている今の時に、そんなことは一切おかまいなしで、ただ神を守りにさえ行けばそれでいいというものではなかった上に、いったん飛騨の山のような奥地に引ッ込んでしまえば容易に出て来られる
境涯とも思われなかったからで。
こういう時に馬籠隣家の伊之助でもそばにいたら、とそう半蔵は思わないではなかった。いかんせん、親しくあの隣人の意見をたたいて見ることもかなわない。この飛騨行きについては、多吉夫婦も実際どう思っていてくれるかと彼は考えた。男まさりな宿のかみさんは婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかったような名もない町人の妻ではあるが、だんだん彼も付き合って見て、
盤根錯節を物ともしないそのまれな気質を彼も知っていた。人は物を見定めることが大切で、捨つべきことは思い切りよく捨てねばならない、それのできないようなものは一生ウダツが揚がらないと、日ごろ口癖のように言っているのもお
隅だ。遠い親類より近い他人の言うこともよく聞いて見ようとして、やがて彼は町から引き返した。
多吉の家では、ちょうど亭主も今の勤め先にあたる
茅場町の店から
戻って来ている時であった。そこへ半蔵が帰って行くと、多吉は彼を下座敷に迎え入れて言った。
「青山さん、いよいよ高山行きと
定りましたかい。」
「いえ。」と半蔵は答えた。「わたしはまだお請けしたわけじゃありませんがね、まあ、行って働いて来るなら、今のうちでしょう。ずっと年を取ってから、行かれるような山の中じゃありませんからね。なかなか。」
その時、多吉はお隅の方を見て言った。「お隅、青山さんが今度いらっしゃるところは、東京からだと、お前、百何里というから驚くね。お国からまだ二十里あまりもある。そうさ、二十里あまりさ。それがまた大変な山道で、馬も通わないところだそうだ。青山さんも、えらい奮発さね。」
そういう多吉はもう半蔵が行くことに
定めてしまっている。お隅は、と見ると、このかみさんもまたしいて彼を止めようとはしなかった。ちょうど師の鉄胤が彼に言ったと同じようなことを言って、これから神職を奉じに行く彼のために、遠く不自由な旅のしたくのことなぞを心配してくれる。
「多吉さん夫婦だけはおれを止めるかと思った。」
間もなく二階に上がって行ってからの半蔵のひとり
言だ。
実のところ、彼はだれかに引き止めてもらいたかった。そして
一人でも引き止めるものがあったら、自分でも思い直して見ようと考えていたくらいだ。いかに言っても、これから彼が踏もうとする
路は遠く寂しく険しい上に、そこいらはもはや見るもの聞くもの文明開化の風の吹き回しだ。何よりもまず中世の
殻を脱ぎ捨てよと教えたあの本居翁あたりが開こうとしたものこそ、まことの
近つ
代であると信ずる彼なぞにとっては、このいわゆる文明開化がまことの文明開化であるかどうかも疑問であった。物学びする
業に心を寄せ、神にも仕え、人をも導こうとするほどのものが、おのれを知らないではかなわないことであった。それにはヨーロッパからはいって来るものをも見定めねばならない。
辺鄙な飛騨の山の方へ行って、それのできるかどうか、これまたすこぶる疑問であった。
五
長い鎖国の歴史をたどると、寛永年代以来世界交通の道も絶え果てていたことは二百二十年もの間にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは徳川幕府の方針であって、諸外国に対する一切の門戸は全く
鎖されたようであるが、それでも一つの窓だけは開かれていた。
はじめて
唐船があの長崎の港に来たのは
永禄年代のことであり、南蛮船の来たのは
元亀元年の昔にあたる。それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十
艘を数え、ある年は
蘭船四、五艘を数えたが、ついに
貞享元禄年代の盛時に達した。元禄元年には、実に唐船百十七艘、
高麗船三十三艘、蘭船三艘である。過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。
正保元年、
明朝が
亡びて
清朝となったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠れるものもすくなくはなく、その後のシナより長崎に渡来する
僧侶で本国の方に名を知られたほどのものも年々絶えないくらいであった。
寛延年代には幕府は長崎入港の唐船を十五艘に制限し、さらに寛政三年よりは一か年十艘以上の入港を許さなかった。これらは何を意味するかなら、海の外にあるものがさまざまな形でこの国に流れ込んで来たことを語るものであり、
荷田春満あたりを先駆とする国学たりとも、言わば外来の刺激を受けて発展したにほかならない。あの本居宣長が儒仏や老荘の道までもその荒い
砥石として、あれほど日本的なものを
磨きあげたのを見ても、思い半ばに過ぐるものがあろう。日本の国運循環して、昨日まで読むことを禁じられてあった
蕃書も訳され、昨日まで遠ざけられた洋学者も世に出られることとなると、かつて儒仏の道の栄えたように、にわかに洋学のひろまって行くようになったことも不思議はない。この国にはすでに蘭学というものを通し、あるいは漢訳の外国書を通して、長いしたくがあったのだ。天文、地理の学にも、数学、医学、農学、化学にも、また兵学にもというふうに。外国の歴史や語学のことは言うまでもない。まったく、新奇を好むこの国の人たちは、ヨーロッパ人が物の理を考え
究めることのはなはだ賢いのに驚き、発明の新説を出すのに驚き、器械の巧みなのに驚き、医薬
製煉の道のことにくわしいのにも驚いてしまった。
当時、外国の事情もまだ充分には究められなかったような社会に、西洋は実にすばらしいものだという人をそう遠いところに求めるまでもなく、率先して新しい風俗に移るくらいのものは半蔵が宿の亭主多吉のすぐそばにもいた。その人は多吉の主人筋に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、
椎茸、それから生糸等を輸出する賢易商であった。そのくせ、多吉は西洋のことなぞに一向
無頓着で、主人が西洋人から手に入れて珍重するという寒暖計の性質も知らず、その気候温度の
昇り降りを毎日の日記につけ込むほどの主人が燃えるような好奇心をもよそに、暇さえあれば好きな
俳諧の道に思いを潜めるような人ではあったが。実際、気の早い手合いの中には、今に日本の言葉もなくなって、皆英語の世の中になると考えるものもある。皮膚の色も白く鼻筋もよくとおった西洋人と結婚してこそ、より優秀な人種を生み出すことができると考えるものもある。こうなると、
芝居の役者まで舞台の上から見物に呼びかけて、
「文明開化を知らないものは、愚かでござる。」
と言う。五代目
音羽屋のごときは英語の勉強を始めたと言って、俳優ながら気の鋭いものだと当時の新聞紙上に書き立てられるほどの世の中になって来ていた。
かくも大きな
洪水が来たように、慶応四年開国以来のこの国のものは学問のしかたから風俗の末に至るまでも新規まき直しの必要に迫られた。日本の中世的な封建制度が内からも外からも
崩れて行って、新社会の構成を急ぐ
混沌とした空気の中に立つものは、眼前に生まれ起こる数多くの現象を目撃しつつも、そうはっきりした説を立てうるものはなかった。というのは、いずれもその空気の中に動いていて、一切があまりに身に近いからであった。半蔵にしてからが、そうだ。ただ馬籠駅長として実際その道に当たって見た経験から、彼の争えないと
想っていることは、一つある。交通の持ち来たす変革は水のように、あらゆる変革の中の最も弱く柔らかなもので、しかも最も根深く強いものと感ぜらるることだ。その力は
貴賤貧富を貫く。人間社会の盛衰を左右する。歴史を織り、地図をも変える。そこには勢い一切のものの交換ということが起こる。あの横浜開港の当時、彼は馬籠本陣の方にいて、幾多の
小判買いが木曾街道にまで入り込んだことを記憶する。国内に流通する小判、一
分判なぞがどんどん海の外へ流れ出して行き、そのかわりとして輸入せらるるものの多くは悪質な洋銀であった。古二朱金、
保字小判なぞの当時に残存した良質の古い金貨はあの時に地を払ってしまったことを覚えている。もしそれと同じようなことが東西文物の上に起こって来て、自分らの持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりにはいって来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た。
月の中旬が来るころには、いよいよ半蔵が水無神社宮司の拝命もおもてむきの
沙汰となった。もはや彼の東京にとどまるのも数日を余すのみとなった。
朝が来た。例のように半蔵が薄暗い空気の中で
水垢離を執り、からだを
浄め終わるころは、まだ多吉方の下女も起き出さないで、井戸ばたに近い勝手口の戸障子も
閉まっていた。そこいらには、町中ながらに鶏の鳴き声が朝霧の中に聞こえていた。
その日、半蔵は
帝の行幸のあることを聞き、
神田橋まで行けばその御道筋に出られることを知り、せめて都を去る前に
御通輦を拝して行こうとしていた。彼はそのことを多吉夫婦に告げ、朝の食事をすますとすぐ
羽織袴に改めて、
茅場町の店へ勤めに通う亭主より
一歩早く宿を出た。神田川について、朝じめりのした道路の土を踏んで行くと、次第に町々の空も晴れて、なんとなく改まった心持ちが彼の胸にわいた。今は彼も水無神社の宮司であるばかりでなく、中講義を兼ねていた。
神田橋見附跡の外には、ぽつぽつ奉拝の人々が集まりつつあった。待つこと二時間ばかり。そのうちに半蔵の周囲は、欄干の支柱にからかねの
擬宝珠のついた古ぼけた橋の
畔から、当時「青い戸袋」と呼びなされた屋敷長屋のペンキ塗りの窓の下の方へかけて、いっぱいの人で、どうかすると先着の彼なぞはうしろにいるものから前の方へ押し出されるほどになった。そのたびに、棒を携えた巡査が前列にあるものを制しに来た。
明治七年十一月十七日のことで、過ぐる年の
征韓論破裂の大争いの記憶が眼前に落ち尽くした霜葉と共にまた多くの人の胸に帰って来るころだ。半蔵はそう思った。かくも多勢のものが行幸を拝しようとして、御道筋に群がり集まるというのも、内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩
艱難の時に当たって、万民を
統べさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろうと。彼は自分の今お待ち受けする帝が日本紀元二千五百余年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い
草叢の中にある名もない民の
一人でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の
氾濫を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、
蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや 半蔵
この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。
さらに三十分ほど待った。もはや町々を
警めに来る
近衛騎兵の一隊が勇ましい
馬蹄の音も聞こえようかというころになった。その
鎗先にかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い
情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を
御先乗と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、
額を大地につけ、
袴のままそこにひざまずいた。
「
訴人だ、訴人だ。」
その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
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第十二章
一
五日も半蔵は多吉の家へ帰らない。
飛騨の
水無神社
宮司を拝命すると間もなく、十一月十七日の行幸の朝に神田橋外まで
御通輦を拝しに行くと言って、浅草
左衛門町を出たぎりだ。
左衛門町の家のものは
音沙汰のない半蔵の身の上を案じ暮らした。彼が献扇事件は早くも町々の人の口に上って、多吉夫婦の耳にもはいらないではない。それにつけてもうわさとりどりである。主人持ちの多吉は
茅場町の店からもいろいろなことを聞いて来て、ただただ妻のお
隅と共に心配する。第一、あの半蔵がそんな行為に出たということすら、夫婦のものはまだ半信半疑でいた。
そこへ巡査だ。ちょうど多吉は不在の時であったので、お隅が出て
挨拶すると、その巡査は区内の
屯所のものであるが、東京裁判所からの通知を伝えに来たことを告げ、青山半蔵がここの家の寄留人であるかどうかをまず確かめるような口ぶりである。さてはとばかり、お隅はそれを聞いただけでも人のうわさに思い当たった。巡査は
格子戸口に立ったまま、言葉をついで、
入檻中の半蔵が帰宅を許されるからと言って、身柄を引き取りに来るようとの通知のあったことを告げた。
お隅はすこし息をはずませながら、
「まあ、どういうおとがめの筋かぞんじませんが、青山さんにかぎって悪い事をするような人じゃ決してございません。宅で
本所の
相生町の方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお呼び出しで国から出てまいりまして、しばらく宅に置いてくれと申されたこともございました。そんな縁故で、今度もたよってまいりまして、つい先ごろまでは教部省の考証課という方に宅から
通っておりました。まあ、手前どもじゃ、あの人の
平素の行ないもよくぞんじておりますが、それは正しい人でございます。」
突然巡査の
訪ねて来たことすら気になるというふうで、お隅は二階の客のためにこんな言いわけをした。それを聞くと、巡査はかみさんの言葉をさえぎって、ただ職掌がらこの通知を伝えるために来ただけのことを断わり、多吉なりその代理人なりが認印持参の上で早く本人を引き取れと告げて置いて、立ち去った。
ともかくも半蔵が帰宅のかなうことを知って、さらに心配一つふえたように思うのはお隅である。というは、亭主多吉が町人の家に生まれた人のようでなく、世間に
無頓着で、巡査の言い置いて行ったような実際の事を運ぶには全く不向きにできているからであった。多吉の
俳諧三昧と、その放心さと来たら、かつて注文して置いた道具の催促に日ごろ自分の家へ出入りする道具屋
源兵衛を訪ねるため
向島まで出向いた時、ふと途中の
今戸の渡しでその源兵衛と同じ舟に乗り合わせながら、「
旦那、どちらへ」と聞かれてもまだ目の前にその人がいるとは気づかなかったというほどだ。「旦那、その源兵衛はおれのことじゃありませんか」と言われて、はじめて気がついたというほどの人だ。お隅はこの亭主の気質をのみ込んでいる。場合によっては、彼女自身に夫の代理として、半蔵が身柄を引き取りに行こうと決心し、帯なぞ締め直して亭主の帰りを待っていた。はたして、多吉が
屋外から
戻って来た時は、お隅以上のあわてかたであった。
「お前さん、いずれこれにはわけのあることですよ。あの青山さんのことですもの、何か考えがあってしたことですよ。」
お隅はそれを多吉に言って見せて、慣れない夫をそういう場所へ出してやるのを案じられると言う。背も高く体格も立派な多吉は首を振って、自身出頭すると言う。幸い半蔵の懇意にする医者、金丸恭順がちょうどそこへ訪ねて来た。この同門の医者も半蔵が身の上を案じながらやって来たところであったので、
早速多吉と同行することになった。
「待ってくださいよ。」
と言いながら、お隅は半蔵が着がえのためと、自分の亭主の着物をそこへ取り出した。町人多吉の好んで着る
唐桟の羽織は
箪笥の中にしまってあっても、そんなものは半蔵には向きそうもなかった。
そこでお隅は無地の羽織を選び、
藍微塵の綿入れ、
襦袢、それに
晒の
肌着までもそろえて手ばしこく
風呂敷に包んだ。彼女は新しい
紺足袋をも添えてやることを忘れていなかった。
「いずれ先方には待合所がありましょうからね、そっくりこれを着かえさせてくださいよ。青山さんの身につけたものは残らずこの風呂敷包みにして帰って来てくださいよ。」
そういうお隅に送られて、多吉は恭順と一緒に左衛門町の
門を出た。お隅はまた、パッチ
尻端折りの亭主の後ろ姿を見送りながら、飛騨行きの話の矢先にこんな事件の突発した半蔵が無事の帰宅を見るまでは安心しなかった。
多吉と恭順とは半蔵に付き添いながら、午後の四時ごろには左衛門町へ引き取って来た。お隅はこの三人を格子戸口に待たせて置き、下女に言いつけてひうち石とひうち
鉄とを台所から取り寄せ、切り火を打ちかけるまでは半蔵らを家に入れなかった。
時ならぬ
浄めの火花を浴びた後、ようやくの思いでこの屋根の下に帰り着いたのは半蔵である。青ざめもしよごれもしているその
容貌、すこし延びた
髭、五日も
櫛を入れない髪までが、いかにも暗いところから出て来た人で、多吉の着物を拝借という顔つきでいる彼がしょんぼりとした様子はお隅らの目にいたいたしく映る。彼は礼を言っても言い足りないというふうに、こんなに赤の他人のことを心配してくれるお隅の前にも手をついたまま、しばらく頭をあげ得なかったが、やがて入檻中肌身に着けていたよごれ物を風呂敷包みのままそこへ差し出した。この中は
虱だらけだからよろしく頼むとの意味を通わせた。
「まずまあ、これで安心した。」と言って下座敷の内を歩き回るのは多吉だ。「お隅、おれは青山さんを連れて
風呂に行って来る。金丸先生には、ここにいて待っていただく。」
「それがいい。青山君も行って、さっぱりとしていらっしゃい。わたしは一服やっていますからね。」と恭順も言葉を添える。
半蔵はまだ借り着のままだ。彼は着物を改めに自分の
柳行李の置いてある二階の方へ行こうとしたが、お隅がそれをおしとどめて、そのままからだを洗いきよめて来てもらいたいと言うので、彼も言われるままにした。
「どれ、御一緒に行って、一ぱいはいって来ようか――お話はあとで伺うとして。」
そういう多吉は先に立って、お隅から受け取った手ぬぐいを肩にかけ、格子戸口を出ようとした。
「お隅、
番傘を出してくんな。ぽつぽつ降って来たぞ。」
多吉夫婦はその調子だ。半蔵も亭主と同じように傘をひろげ、
二人そろって、見るもの聞くもの彼には身にしみるような町の銭湯への道を踏んだ。
多吉が住む町のあたりは古くからある数軒の石屋で知られている。家の前は
石切河岸と呼び来たったところで、左衛門橋の通り一つへだてて
鞍地河岸につづき、柳原の土手と向かい合った位置にある。
砂利、土砂、海土などを扱う店の側について細い
路地をぬければ、神田川のすぐそばへも出られる。こんな倉庫と物揚げ場との多いごちゃごちゃした
界隈ではあるが、旧両国
広小路辺へもそう遠くなく、割合に閑静で、しかも町の響きも聞こえて来るような土地柄は、多吉の性に適すると言っているところだ。
江戸の名ごりのような
石榴口の残った湯屋はこの町からほど遠くないところにある。朱塗りの
漆戸、
箔絵を描いた
欄間なぞの目につくその
石榴口をくぐり、狭い足がかりの板を踏んで、暗くはあるが、しかし暖かい湯気のこもった
浴槽の中に身を浸した時は、ようやく半蔵も
活き返ったようになった。やがて、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、彼が多吉と共にまた同じ道を帰りかけるころは、そこいらはもう薄暗い。町ではチラチラ
燈火がつく。宿に
戻って見ると、下座敷の
行燈のかげに恭順が二人を待ちうけていた。
「金丸先生、今夜はお隅のやつが手打ち
蕎麦をあげたいなんて、そんなことを申しています。青山さんの
御相伴に、先生もごゆっくりなすってください。」
「手打ち蕎麦、結構。」
亭主と客とがこんな言葉をかわしているところへ、お隅も勝手の方から
襷をはずして来て、下女に
膳をはこばせ、半蔵が身祝いにと
銚子をつけて出した。
「まったく、こういう時はお酒にかぎりますな。どうもほかの物じゃ納まりがつかない。」と恭順が言う。
半蔵も着物を改めて来て簡素なのしめ
膳の前にかしこまった。焼き
海苔、
柚味噌、それに
牡蠣の
三杯酢ぐらいの
箸休めで、
盃のやりとりもはじまった。さびしい
時雨の音を聞きながら、酒にありついて、今度の事件のあらましを多吉の前に語り出したのもその半蔵だ。彼の献扇は、まったく第一のお車を
御先乗と心得たことであって、
御輦に触れ奉ろうとは思いもかけなかったという。あとになってそれを知った時は実に彼も恐縮した。彼の述懐はそこから始まる。何しろ民間有志のものの建白は当時そうめずらしいことでもなかったが、行幸の途中にお車をめがけて扇子を投進するようなことは例のない話で、そのために彼は
供奉警衛の人々の手から巡査をもって四大区十二小区の
屯所へ送られ、さらに屯所から警視庁送りとなって、警視庁で一応の
訊問を受けた。
入檻を命ぜられたのはその夜のことであった。翌十八日は、彼はある医者の前に引き出された。その医者はまず彼の姓名、年齢、職業なぞを尋ねたが、その間には彼の精神状態を鑑定するというふうで、幾度か小首をかしげ、彼の挙動に注意することを怠らなかった。それから一応彼を診察したあとで、さて
種々なことを問い試みた。神田橋前まで行幸を拝しに家を出たのは朝の何時で、その日の朝飯には何を食ったかの
類だ。医者の診断がつくと彼は東京裁判所へ送られることとなって、同夜も入檻、十九日には裁判所において警視庁より差し送った書面を読み聞かせられ、逐一事実のお尋ねがあったから、彼はそれに相違ない
旨を答えた。入檻は二十二日の朝まで続いた。ようやくその時になって、寄留先の戸主をお呼び出しになり宿預けの身となったことを知ったという。
「でも、わたしもばかな男じゃありませんか。裁判所の方で事実を問い詰められた時、いくらも方法があろうのに、どうしてその方はそんな
行為に出たかと言われても、わたしには自分の思うことの十が一も答えられませんでした。」
半蔵の嘆息だ。それを聞くと多吉は半蔵が無事な帰宅を何よりのよろこびにして、自分らはそんな
野暮は言わないという顔つきでいる。
多吉は言った。
「青山さん、あなただって今度の事件は、御国のためと思ってしたことなんでしょう。まあ、その
盃をお
乾しなさるさ。」
今一度裁判所へ呼び出される日を待てということで、ともかくも半蔵は帰宅を許されて来た人である。彼にはすでに旧
庄屋としても、また、旧本陣問屋としても、あの郷里の街道に働いた人たちと共に長い武家の奉公を忍耐して来た過去の背景があった。実際、あるものをめがけて、まっしぐらに駆けり出そうとするような熱い思いはありながら、家を捨て妻子を顧みるいとまもなしにかつて東奔西走した同門の友人らがすることをもじっとながめたまま、交通要路の激しい務めに一切を我慢して来た彼である。その彼の
耐えに耐えた激情が一時に
堰を切って、日ごろ慕い奉る
帝が行幸の御道筋にあふれてしまった。こうすればこうなるぞと考えてしたことではなく、また、考えてできるような行ないではもとよりない。ほとばしり出る自分がそこにあるのみだった。
二
身祝いにと多吉夫婦が勧めてくれた酒に入檻中の疲労を引き出されて、翌朝半蔵はおそくまで二階に休んでいた。上京以来早朝の
水垢離を執ることを怠らなかった彼も、その朝ばかりはぐっすり寝てしまって、宿の亭主が
茅場町の店へ勤めに通う時の来たことも知らなかった。ゆうべの雨は揚がって、町のほこりも洗われ、向かい側にある家々の戸袋もかわきかけるころに、下女が二階の雨戸を繰ろうとして
階下から登って来て見る時になっても、まだ彼は大いびきだ。この彼がようやく寝床からはい出して、五日ばかりも留守にした
部屋のなかを見回した時は、もはや日が畳の上までさして来ていた。
「お前の
内部には、いったい、何事が起こったのか。」
ある人はそう言って半蔵に尋ねるかもしれない。入檻に、裁判所送りに、宿預けに、その日からの謹慎に――これらはみな彼の献扇から生じて来た思いがけない光景である。あの行幸の当日、彼のささげた扇子があやまって
御輦に触れたとは、なんとしても恐縮するほかはない。慕い奉る帝の御道筋をさまたげたことに対しても、彼は甘んじてその罰を受けねばならない。
「まったく、
粗忽な挙動ではあった。」
彼の言いうることは、それだけだ。その時になって見ると、彼は郷里の家の方に留守居する自分の娘お
粂を笑えなかった。過ぐる年の九月五日の夜、馬籠本陣の土蔵二階であの娘の自害を企てたことは、いまだに村のものの
謎として残っている。父としての彼が今度のような事件を引き起こして見ると、おのれの
内部にあふれて来た感動すら彼はそれを説き明かすことができない。
午後から、半蔵は宿のかみさんに自分の出先を断わって置いて、柳原の方にある床屋をさして
髭剃りに出かけた。そこは多吉がひいきにする床屋で、老練な職人のいることを半蔵にも教えてくれたところである。多吉が親しくする
俳諧友だちのいずれもは皆その床屋の
定連である。
柳床と言って、わざわざ芝の
増上寺あたりから頭を剃らせに来る
和尚もあるというほど、
剃刀を持たせてはまず名人だと日ごろ多吉が半蔵にほめて聞かせるのも、そこに働いている亭主のことである。
「これは、いらっしゃい。」
その柳床の亭主が声を聞いて、半蔵は二、三の先着の客のそばに腰掛けた。
髷のあるもの、散髪のもの、彼のように
総髪にしているもの、そこに集まる客の頭も思い思いだ。一方にはそこに置いてある新版物を見つけて当時評判な作者
仮名垣魯文の著わしたものなぞに読みふける客もあれば、一方には将棋をさしかけて置いて床屋の
弟子に顔をやらせる客もある。なんと言っても、まだまだ世の中には
悠長なところがあった。やがて半蔵の順番に回って来ると、床屋の亭主が
砥石の方へ行ってぴったり剃刀をあてる音にも、力を入れてそれを
磨ぐ音にも、彼は言いあらわしがたい快感を覚えた。むさくるしく延びた
髭が水にしめされながら剃られるたびに、それが亭主の手の甲の上にもあり、彼の方で受けている小さな板の上にも落ちた。
いつのまにか彼の心は、あとからはいって来た客の話し声の方へ行った。過ぐる日、帝の行幸のあったおり、神田橋外で御通輦を待ち受けた話をはじめた客がそこにある。客は当日の御道筋に人の出たことから、
一人の
直訴をしたもののあったことを言い出し、自身でその現場を目撃したわけではないが、
往来の人のうわさにそれを聞いて気狂いと思って逃げ帰ったという。思わず半蔵はハッとした。でも、彼は自分ながら不思議なくらいおちついたこころもちに帰って、まるで他人のことのように自分のうわさ話を聞きながら、床屋の亭主がするままに身を任せていた。親譲りの大きく
肉厚な本陣鼻から、耳の
掃除までしてもらった。
何げなく半蔵は床屋を出た。
上手な亭主が丁寧に
逆剃りまでしてくれてほとんどその剃刀を感じなかったほどの仕事を味わったあとで、いささか
頬は冷たいというふうに。
その足で半蔵は左衛門町の二階へ引き返して行った。静かな西向きの下窓がそこに彼を待っている。そこは彼が一夏の間、慣れない東京の暑さに苦しんで、よく涼しい風を入れに行ったところだ。
部屋は南に開けて、その外が町の見える縁側になっているが、きれい好きな宿のかみさんは彼の入檻中に障子を張り替えて置いてある。上京以来すでに半年あまりも寝起きをして見れば、亭主多吉の好みで壁の上に掛けて置く小額までが彼には親しみのあるものとなっている。
過ぐる五日の暗さ。彼は部屋に
戻っていろいろと片づけ物なぞしながら、
檻房の方に
孤坐した時の自分のこころもちを思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたのは、かねて
耶蘇教の
蔓延を憂い、そのための献言も
仕りたい所存であったところ、たまたま御通輦を拝して憂国の情が一時に胸に差し迫ったということであった。ちょうど所持の扇子に自作の和歌一首しるしつけて
罷り
在ったから、
御先乗とのみ心得た第一のお車をめがけて直ちにその扇子をささげたなら、自然と帝のお目にもとまり、国民教化の規準を打ち建てる上に一層の御英断も相立つべきかと心得たということであった。
すくなくもこの国の前途をおのが狭い胸中に心配するところから、彼もこんな行為に出た。ただただそれが
頑な心のあらわれのように見られることはいかにも残念であるとするのが、彼の包み隠しのないところである。開国以前のものは皆、一面に西洋を受けいれながら、一面には西洋と戦った。不幸にも、この国のものがヨーロッパそのものを静かによく見うるような機会を失ったことは、二度や三度にとどまらない。かく内に動揺して、外を顧みるいとまもないような時に、歴史も異なり風土も異なり言葉も異なる西洋文明の皮相を模倣するのみで、それと戦うことをしなかったら、末ははたしてどうなろう。そのことがすでに彼には耐えられなかった。そういう彼とても、ただ漫然と異宗教の
蔓延を憂いているというではない。もともと
切支丹宗取り扱いの困難は
織田信長時代からのこの国のものの悩みであって、
元和年代における宗門
人別帳の作製も実はその結果にほかならない。長い鎖国が何のためかは、宗門のことをヌキにしては考えられないことであった。いよいよこの国を開くに当たって、新時代が到来した時、あの
厩戸皇子が遠い昔にのこした言葉と言い伝えらるるものは、また新時代に役立つことともなった。すなわち、神道をわが国の根本とし、儒仏をその枝葉とすることは、
神祇局以来の一大方針で、
耶蘇教徒たりともこの根本を保全するが道であるというふうに半蔵らは考えた。ところが外国宣教師は
種々な異議を申し立て、容易にこの方針に従わない。それに力を得た真宗の
僧侶までが勝手を主張しはじめ、独立で布教に従事するものを生じて来た。半蔵は教部省に出仕して見てこのことを痛感した。外国宣教師の抗議に対して今日のような妥協に妥協をのみ重ねるとしたら、各派教導職の不平も
制えがたくなって、この国の教化事業はただただ荒れるに任せ、一切を建て直そうとする御一新の大きな気象もついには失われて行くであろう。神祇局は神祇省となり、神祇省は教部省となった。結局、教部省というものも今に廃されるであろう。このことが彼を悲しませる。
二百余年前、この国において、ホルトガル人、イスパニア人を追放したころの昔と、明治七年の今とでは、もとより外国の風習も大いに異なっているかもしれない。今の西洋は昔ほど宗門のことを皆願っているというふうではないかもしれない。それはすでに最初の米国領事ハリスがこの国のものに教えたことである。あのハリスが言うように、今のアメリカあたりでは宗門なぞは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧めるようなことはさらにないかもしれない。何を信仰しようとも人々の心次第であるかもしれない。今のヨーロッパで見いだした信仰の基本とは、人々銘々の心に任せるよりほかにいたし方もないと決着したとある。半蔵とても一応そのことを考慮しないではなかったが、しかし自分らの子孫のためにもこれはゆるがせにすべきでないと思って来た。宗教の事ほどその源の清く、その末の濁りやすいものもすくない。わが国神仏
混淆の歴史は何よりも雄弁にそれを語っている。この先、
神耶混淆のような事が起こって来ないとは決して言えなかった。どんな耶蘇の宣教師が渡来して、根気もあり
智りも深くて、人をなつけ、新奇を好むこの国のものに根本と枝葉との区別をすら忘れさせるようなことが起こって来ないとは、これまた決して言えなかった。御一新もまだ成就しない今のうちに、国民教化の基準をしっかりと打ち建てて置きたい。それが半蔵らの願いであった。
静かなところで
想い起こして見ると、あだかも目に見えない細い糸筋のように、いろいろな思いがそれからそれと引き出される。郷里の方に留守居する継母や妻子のこともしきりに彼の胸に浮かんで来た。彼は今度の事件がどんなふうに村の人たちのうわさに上るだろうかと思い、これがまた彼の飛騨行きにどう響くかということも心にかかった。
三
十一月二十九日に、半蔵は東京裁判所の
大白洲へ呼び出された。その時、彼は掛りの役人から
口書を読み聞かせられたので、それに相違ない
旨を答えると、さらに判事庁において先刻の陳述は筆記書面のとおりに相違ないかと再応の
訊問があった。彼が相違ない旨を答えると、それなら調印いたせとの言葉に、即刻調印を差し上げた。追って裁断に及ぶべき旨を言い聞かせられて、彼はその場を退いて来た。
とりあえず半蔵はこのことを多吉夫婦の耳に入れ、郷里の留守宅あてにもありのままを書いて、自分の
粗忽から継母にまで心配をかけることはまことに申し訳がないと言い送った。のみならず、このために帰国の日もおくれ、飛騨行きまで延び、いろいろ心にかかることばかりであるがこれもやむを得ない、このまま帰国は許されないから裁断申し渡しの日が来るまでよろしく留守居を頼むとも言い送った。なお、彼は裁判所での模様を新乗物町の方へ手紙で知らせてやると、月を越してからわざわざ彼を見に来てくれたのも金丸恭順であった。
「青山君、いくら御謹慎中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。せめて両国辺まで出てごらんなさい。台湾の
征蕃兵がぽつぽつ帰って来るようになりましたぜ。」
恭順はこんな話を持って左衛門町の二階へ上がって来た。征蕃兵が
凱旋を迎えようとする市内のにぎわいも、半蔵はそれを想像するにとどめて、わびしくこもり暮らしている時である。恭順の顔を見ると、半蔵は裁断申し渡しの日の待ちどおしいことを言い、その結果いかんではせっかく彼を懇望する飛騨地方の人たちが
思惑もどうあろうかと言い出す。その時、恭順は首を振って、これが他の動機から出た行為なら格別、一点の私心もない憂国の過慮からであって見れば、飛騨の方は心配するほどのことはあるまい、なお、田中不二麿からも飛騨有志あてに一筆書き送ってもらうことにしようと語った末に、言った。
「どうです、青山君、君も新乗物町の方へ越して来ては。」
それを勧めるための恭順が来訪であったのだ。この医者はなおも言葉をついで、
「そうすれば、わたしも話し相手ができていい。まあ、君
一人ぐらい
居候に置いたって、食わせるに困るようなことはしませんぜ。
部屋も貸しますぜ。」
恭順は真実を顔にあらわして言った。その言葉のはしにまじる冗談もなかなかに
温かい。同門のよしみとは言え、よっぽど半蔵もこの人に感謝してよかった。しかし、謹慎中の身として寄留先を変えることもどうかと思うと言って、彼は恭順のこころざしだけを受け、やはりこのままの
仮寓を続けることにしたいと断わった。むなしい旅食は彼とても心苦しかったが、この滞在が長引くようならばと郷里の伏見屋伊之助のもとへ頼んでやったこともあり、それに今になって左衛門町の宿を去るには忍びなかった。
十二月中旬まで半蔵は裁判所からの
沙汰を待った。そのころにでもなったら裁断も言い渡されるだろうと心待ちに待っていたが、裁判所も繁務のためか、十二月下旬が来るころになってもまだ何の沙汰もない。
東京の町々はすでに初雪を見る。もっとも、浅々と白く降り積もった上へ、夜の雨でも来ると、それが一晩のうちに溶けて行く。
木曾路あたりとは比較にもならないこの都会の雪空は、遠く山の方へと半蔵の心を誘う。彼も飛騨行きのおくれるのを案じている矢先で、それが延びれば延びるほど、あの
険阻で聞こえた山間の高山路が深い降雪のために
埋められるのを恐れた。
独居のねぶり覚ますと松が枝にあまりて落つる雪の音かな
さよしぐれ今は外山やこえつらむ軒端に残る音もまばらに
山里は日にけに雪のつもるかな踏みわけて訪ふ人もこなくに
しら雪のうづみ残せる煙こそ遠山里のしるしなりけれ
これらの冬の歌は、半蔵が郷里の方に残して来た旧作である。彼は左衛門町の二階にいてこれらの旧作を思い出し、もはや雪道かと思われる木曾の方の
旧い街道を想像し、そこを往来する旅人を想像し、
革のむなび、麻の
蝿はらい、紋のついた腹掛けから、
鬣、
尻尾まで雪にぬれて行く荷馬の姿を想像した。彼はまた、わずかに
栂の実なぞの
紅い
珠のように枝に残った郷里の家の庭を想像し、木小屋の裏につづく
竹藪を想像し、その想像を毎年の雪に隠れひそむ
恵那山連峰の
谿谷にまで持って行って見た。
とうとう、半蔵は東京で年を越した。一年に一度の
餅つき、やれ福茶だ、小梅だ、ちょろげだと、除夜からして町家は町家らしく、明けては
屠蘇を祝え、
雑煮を祝え、かち
栗、ごまめ、数の子を祝えと言う多吉夫婦と共に、明治八年の新しい正月を迎えた。
暮れのうちに出したらしい郷里の家のものからの
便りがこの半蔵のもとに届いた。それは継母おまんと、娘お
粂とからで。娘の方の手紙は父の身を案じ暮らしていることから、留守宅一同の変わりのないこと、母お民から末の弟和助まで毎日のように父の帰国を待ちわびていることなぞが、まだ若々しい女文字で
認めてある。継母から来た便りはそう
生やさしいものでもない。それには半蔵の引き起こした今度の事件がいつのまにか国もとへも聞こえて来て、
種々なうわさを生んでいるとある。その中にはお粂のようすも伝えてあって、その後はめっきり元気を回復し、例の
疵口も日に増し目立たないほどに
癒え、最近に木曾福島の植松家から懇望のある新しい縁談に耳を傾けるほどになったとある。継母の手紙は半蔵の酒癖のことにまで言い及んであって、近ごろは彼もことのほか大酒をするようになったと聞き伝えるが、朝夕継母の身として案じてやるとある。その手紙のつづきには、男の
大厄と言わるる前後の年ごろに達した時は、とりわけその勘弁がなくては
危ないとは、あの吉左衛門が生前の話にもよく出た。大事の吉左衛門を立てるなら、酒を飲むたびに
亡き父親のことを思い出して、かたくかたくつつしめとも言ってよこしてある。
「青山さん、まだ裁判所からはなんとも申してまいりませんか。」
新しい正月もよそに、謹慎中の日を送っている半蔵のところへ、お
隅は下座敷から茶を入れて来て勧めた。到来物の茶ではあるがと言って、多吉の好きな物を客にも分けに
階下から持って来るところなぞ、このかみさんも届いたものだ。
旅の空で、半蔵もこんな情けのある人を知った。彼の
境涯としては、とりわけ人の心の奥も知らるるというものであった。お隅は
凜とした犯しがたいようなところのある人で、うっかりすると一切女房任せな多吉の方がかえって女房であり、むしろお隅はこの家の亭主である。
「お国から、お
便りがございましたか。」
「ええ、皆無事で暮らしてるようです。こちらへも
御厄介になったろうッて、
吾家のものからよろしくと言って来ました。」
「さぞ、奥さんも御心配なすって――」
「お隅さん、あなたの前ですが、国からの便りと言うといつでも娘が代筆です。あれも手はよく書きますからね。わたしの家内はまた、自分で手紙を書いたことがありませんよ。」
こんな話も旅らしい。お隅の調子がいかにもさっぱりとしているので、半蔵は男とでも
対い合ったように、継母から来た手紙のことをそこへ言い出して、彼の酒をとがめてよこしたと言って見せる。彼が賢い継母を
憚って来たことは幼年時代からで、「お
母さんほどこわいものはない」と思う心を人にも話したことがあるほどだが、成人して家督を継ぎ、旧宿場や街道の世話をするようになってからは、その継母にすら隠れて飲むことはやめられなかったと白状する。
「でも、青山さん。お酒ぐらい飲まなくて、やりきれるものですかね。」
お隅はお隅らしいことを言った。
松の内のことで、このかみさんも改まった顔つきではいるが、さすがに気のゆるみを見せながら、平素めったに半蔵にはしない自分の女友だちのうわさなぞをも語り聞かせる。お
寅と言って
清元お
葉の高弟にあたり、たぐいまれな美音の持ち主で、
柳橋辺の芸者衆に
歌沢を教えているという。放縦ではあるが、おもしろい女で、かみさんとは正反対な性格でいながら、しかも一番仲よしだともいう。その人の芸人
肌と来たら、
米櫃に米がなくなっても、やわらか物は着通し、かりん胴の大切な
三味線を質に入れて置いて、貸本屋の持って来る
草双紙を読みながら畳の上に寝ころんでいるという底の抜け方とか。お隅は女の書く手紙というものをその女友だちのうわさに結びつけて、お寅もやはり手紙はむつかしいものと思い込んでいた女の一人であると半蔵に話した。何も、型のように、「一筆しめしあげ参らせ
候」から書きはじめなくとも、
談話をするように書けば、それで手紙になると知った時のお寅の驚きと喜びとはなかったとか。
早速お寅は左衛門町へあてて書いてよこした。今だにそれはお隅の家のものの一つ話になっているという。その手紙、
「はい、お隅さん、今晩は。暑いねえ。その後、亭主あるやら、ないじゃやら――ですとさ。」
お隅はこんな話をも半蔵のところに置いて行った。
騒がしく、楽しい町の空の物音は
注連を引きわたした竹のそよぎにまじって、二階の障子に伝わって来ていた。その中には、多吉夫婦の娘お
三輪が下女を相手にしての
追羽子の音も起こる。お三輪は半蔵が郷里に残して置いて来たお粂を思い出させる年ごろで、以前の本所相生町の小娘時代に比べると、今は
裏千家として名高い茶の師匠
松雨庵の
内弟子に住み込んでいるという変わり方だ。平素は左衛門町に姿を見せない娘が両親のもとへ帰って来ているだけでも、家の内の空気は違う。多吉夫婦は三人の子の親たちで、お三輪の兄量一郎は横浜貿易商の店へ、弟利助は日本橋辺の
穀問屋へ、共に年期奉公の身であるが、いずれこの
二人の若者も喜び勇んで
藪入の日を送りに帰って来るだろうとのうわさで持ち切る騒ぎだ。
町へ来るにぎやかな
三河万歳までが、めでたい正月の気分を置いて行く中で、半蔵は謹慎の意を表しながらひとり部屋にすわりつづけた。お三輪は結いたてのうつくしい島田で彼のところへも
挨拶に来て、紅白の紙に載せた野村の
村雨を置いて行った。
七草過ぎになっても裁判所からは何の沙汰もない。毎日のように半蔵はそれを待ち暮らした。亭主多吉は風雅の
嗜みのある人だけに、所蔵の書画なぞを取り出して来ては、彼にも見よと言って置いて行ってくれる。腰張りのしてある黄ばんだ部屋の壁も半蔵には慰みの一つであった。
ふと、半蔵は町を呼んで来る物売りの声を聞きつけた。新版物の
唄を売りに、深山の小鳥のような鋭くさびた声を出して、左衛門町の通りを読み読み歩いて来る。びっくりするほどよくとおるその読売りの声は町の空気に響き渡る。半蔵は聞くともなしにそれを聞いて、新しいものと
旧いものとが入れまじるまッ最中を行ったようなその新作の唄の文句に心を誘われた。
洋服すがたに
ズボンとほれて、
袖ないおかたで苦労する。
激しい移り変わりの時を告げ顔なものは、ひとりこんな俗謡にのみかぎらない。過ぐる七年の月日はすべてのものを変えつつあった。燃えるような冒険心を
抱いて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連ですら、追い追いの
粋な風に吹かれては、都の女の
俘虜となるものも多かった。一方には当時
諷刺と
諧謔とで聞こえた
仮名垣魯文のような作者があって、すこぶるトボケた調子で、この世相をたくみな戯文に描き出して見せていた。多吉が半蔵にも読んで見よと言って、下座敷から持って来て貸してくれた『
阿愚楽鍋』、一名牛店雑談にはこんな一節もある。
「方今の形勢では、洋学でなけりゃア、夜は明けねえヨ。」
これは開化の
魁たる牛店を背景に、作者が作中人物の
一人をして言わせた会話の中の文句である。どんな人物の口からこんな文句が出るかというに、にわか
散切りの西洋ごしらえ、フランスじこみのマンテルにイギリスのチョッキを着け、しかもそれは柳原あたりの朝市で買い集めた洋服であり、時計はくさりばかりぶらさげて、外見をつくろおうとする男とある。おのれ一人が文明人という顔つきで、『世界
国尽』などをちょっと口元ばかりのぞいて見た知識を振り回し、西洋のことならなんでも来いと言い触らすこまりものだともある。おもて
華やかに、うらの貧しいこんな文明人はついそこいらの牛店にもすわり込んで、肉鍋と
冷酒とを前に、
気焔をあげているという時だ。
寄席の高座で、芸人の口をついて出る
流行唄までが変わって、それがまた英語まじりでなければ納まらない世の中になって来た。「待つ夜の長き」では、もはや因循で旧弊な
都々逸の文句と言われる。どうしてもそれは「待つ夜のロング」と言わねばならない。「
猫撫で声」というような文句ももはや眠たいとされるようになった。どうしてもそれは「キャット撫で声」と言わねば人を驚かさない。すべてこのたぐいだ。
半蔵は腕を組んでしまって、
渦巻く世相を夢のようにながめながら、照りのつよい日のあたった南向きの障子のわきにすわりつづけた。まだ春も浅く心も柔らかな少女たちが、今にこの日本の国も英語でなければ通じなくなる時が来ると信じて、洋書と
洋傘とを携え、いそいそと語学の教師のもとへ通うものもあるというような、そんな人のうわさを左衛門町の家のものから聞くだけでも、彼は胸がいっぱいになった。
終日読書。
青年時代から半蔵が見まもって来たまぼろしは、また彼の胸に浮かぶ。そのまぼろしの正体を彼は容易に突きとめることができなかった。彼の心に描く「黒船」とは、およそ三つのものを載せて来る。
耶蘇教はその一つ、格物究理の洋学はその一つ、交易による世界一統もまたその一つである。彼なぞの考えるところによると、西洋の学問するものも一様ではない、すくなくも開国以前と以後とでは、洋学者の態度にもかなりな相違がある。今さら、「東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)」と言ったあの
佐久間象山を引き合いに出すまでもなく、開港以前の洋学者はいずれもこの国に高い運命の潜むことを信じて行ったようである。前の高橋作左衛門、
土生玄磧、後の
渡辺崋山、高野長英、皆そういう人たちである。農園と経済学との知識をもつ洋学者で、同時に本居平田の学説を深く体得した秋田の
佐藤信淵のごとき人すらある。六十歳の声を聞いて家督を弟に譲り、隠居して、それから洋学にこころざしたような人は決してめずらしくない。その学問は藩の
公に許すところであらねばならぬ。洋学者としての重い責めをも果たさねばならぬ。彼らが
境涯の困難であればあるだけ、そのこころざしも堅く、学問も確かに、著述も残し、天文、地理、歴史、語学、数学、医学、農学、化学、または兵学のいずれにも後の時代のためにしたくをなし得たわけである。そこへ行くと開国以後の洋学者というものはその境涯からして変わって来た。今は洋学することも割合に困難でなくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師のあることを知るという世の中になって来た。彼の目の前にひらけているのは、実に浅く普及して来た洋学の
洪水だ。
もとよりその中には、開国以前からの洋学者ののこしたこころざしを
承け継ぐ少数の人たちもないではない。しかし、ここに本も読めば筆も立つ旧幕の人の一群というものがある。それらの人たちが西洋を求める態度はすこし違う。彼らは早く西洋の事情に通じる境涯にも置かれてあって、幕府の洋書取調所(
蕃書取調所の後身)に関係のあったものもあり、横浜開港場の空気に触れる機会の多かったものもある。それらの人たちはまた、閲歴も同じくはないし、旧幕時代の役の位もちがい、
禄も多かったものと
寡なかったものとあるが、大きな
瓦解の悲惨に直面したことは似ていた。江戸をなつかしむ心も似ていた。幕末の遺臣として知られた山口
泉処、
向山黄村、あの人たちもどうなったろうと思われる中で、瓦解以前に徳川政府の使命を帯びフランスに
赴いた喜多村瑞見なぞはその広い見聞の知識を携え帰って来て、本所北二葉町の
旧廬から身を起こし、民間に有力なある新聞の創立者として言論と報道との舞台に上って来た。もっとも、瑞見はその出発が幕府
奥詰の医師であり、
本草学者であって、かならずしも西洋をのみ
鼓吹する人ではなかったが、後進で筆も立つ人たちが皆瑞見のような立場にあるのではない。中には、自国に失望するあまりに、その心を見ぬヨーロッパの思慕へとかえるものがある。戯文に隠れて、一般の異国趣味をあおぎ立てるものもある。「なるほど、世の中は変わりもしよう。しかし、よりよい世の中は――決して。」――とは、不平不満のやりどころのないようなそれらの人たちより陰に陽に聞こえて来る強い非難の声だ。半蔵なぞにして見ると、今の時はちょうど遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたその同じ大切な時にあたる。中世の
殻もまだ脱ぎ切らないうちに、かつてこの国のものが漢土に傾けたその同じ心で、今また西洋にのみあこがれるとしたら。かつては漢意をもってし、今は洋意をもってする。模倣の点にかけては同じことだ。どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦わねばならぬ。その意味から言っても、平田篤胤没後の門人としてはこうした世の風潮からも自分らの内にあるものを
護らねばならなかった。すくなくも、
荷田大人以来国学諸先輩の過去に開いた道が外来の学問に圧倒せられて、無用なものとなって行こうとは、彼には考えられもしなかった。
四
裁断申し渡し番付の写し
信濃国筑摩郡神坂村平民