人間灰

海野十三




     1


 赤沢博士の経営する空気工場は海抜一千三百メートルの高原にある右足湖畔うそくこはんに建っていた。この空気工場では、三年ほどの間に雇人やといにんがつぎつぎに六人も、奇怪なる失踪しっそうをした。そして今に至るも、誰一人として帰って来なかった。
 ずいぶん永いことになるので、多分もう誰も生きていないだろうと云われているが、ここに一つの不思議な噂があった。それは彼の雇人が失踪する日には、必ず強い西風が吹くというのである、だから雇人たちは、西風を極度に恐れた。
 丁度この話の始まる日も、晩秋の高原一帯に風速十メートル内外の大西風が吹き始めたから、雇人たちは、素破すわこそとばかり、恐怖の色を浮べた。夜になると、彼等は後始末もそこそこに、一団ずつになって工場を飛び出した。彼等はこんな晩、工場内の宿舎に帰って蒲団ふとんかぶって寝る方が恐ろしかった。皆云いあわせたように、隣り村の居酒屋へ、夜明かしの酒宴さかもりにでかけていった。
 後に残されたのは、工場主の赤沢博士と、青谷二郎あおやじろうという青年技師と、それから二人の門衛だけになった。その外に、構内別館――そこは赤沢博士の住居になっていた――に博士夫人珠江子たまえこという、博士とは父娘おやこにしかみえぬ若作り婦人がたった一人閉じ籠っていた。
 青谷技師も午後八時にはいつものように、トラックを運転して帰っていった。赤沢博士の自室には、まだ永く灯りがついていた。しかし十時半になると、その灯りも消えて、本館の方は全く暗闇の中に沈んでしまった。門衛も小屋の中に引込ひきこんでしまい、あとは西風がわが者顔に、不気味な音をたてて硝子ガラス戸や柵を揺すぶっていた。湖畔の悪魔は、西風に乗って、また帰ってきたのであろうか。
 その夜も余程更けた。
 この空気工場から国道を西へ一キロメートルばかり行ったところに、例の庄内村しょうないむらというのがある。そこには村でたった一軒の駐在所が、国道に面して建てられてあった。宿直の若い警官は伝説の西風に吹かれながら怪失踪事件のことを考えていた。この事件は例の伝説と共に、県の検察当局へ報告されたのであるが、そのうち誰か適当な人物を派遣するという返事がきたきりで、あとは人も指令も来なかった。全く相手にされない形だった。これが直ぐ死骸が出てくるとか、血痕が発見されるとかであれば、大騒ぎとなるのであろうが、地味な失踪事件に終っているために、犠牲者が六人出ても、何にも相手にされないのだと思うと、彼は庄内村の駐在所が大いに馬鹿にされていることに憤慨ふんがいせずにはいられなかった。今夜こそ、もし何かあったら、それこそ彼は全身の勇をふるって、西風に乗ってくる妖魔ようまと闘うつもりだった。
 丁度午後十一時半を打ったときに交番の前を、工夫体の一人の男がトコトコと来かかった。彼の男は、立番の巡査の姿を認めると足早やにスタスタと通りすぎようとした。
「コラ、待てッ――」
 と巡査は叫んで、怪漢めがけて駆けだした。
 長身の痩せ型の男は、巡査の大喝たいかつを聞くと、そのまま足を停めた。そして難なく腕を捕えられてしまった。
「お前は今ごろ何処へゆくのか。ちょっと交番まで一緒に来い」
 男は素直に腕を取られたまま、駐在所の方へ引張られた。巡査は帽子の下から光る一癖ありげな怪漢の眼から視線をはずさなかった。しかし駐在所の灯の所まで引いてきたときには、腰を抜かさんばかりにおどろいた。
 血! 血!
 怪漢の帽子といわず、えりをたてたレンコートの肩先といわず、それから怪漢の顔にまでおびただしい血糊ちのりが飛んでいた。大した獲物だった。
「神妙にしろッ。この人殺し奴!」
 腕力に秀でた巡査は、怪漢の手を逆にねじあげると、たちま捕縄ほじょうをかけてしまった。
「乱暴をするな、なぜ縛るんだ」
 と怪漢は眉をピリピリ動かして云った。
「白っぱくれるな。なぜ縛られるんだか、云うよりも見るが早いだろう」
 そういった巡査は、壁の鏡を外すと、見えるようにその怪漢の前に差出した。怪漢はハッと顔色をかえて、唇を噛んだ。
 大獲物だった。西風の夜のこの獲物は、かもねぎを背負ってきたようなものだった。うっかり居睡いねむりでもしていようものなら、逃げられてしまうはずだった。そうすれば、今夜もまた、怪談だけで済んでしまうことだったろう。全く間一髪の出来事だった。遂に彼は血のついた怪しい男を捕えた。夜が明ければ、空気工場へ自転車で行ってみよう。きっとまた誰か、今夜のうちに失踪しているに違いない。それは一体誰だろうか?
 かの巡査は、だんだん、昂奮してくる自分自身を感じながら、所轄のK町警察署へ、深夜の非常電話のベルを鳴らした。


     2


 殺人鬼捕わる!
 庄内村はひっくりかえるような騒ぎだった。中にも一番おどろいたのは、所轄K町署員だった。血まみれの怪漢を庄内村の交番で捕えたという報があったので、深夜をいとわず丘署長が先登せんとうになって係官一行が駈けつけた。これを一応調べて、とりあえず臨時の調べ室を、丁度ちょうど空いていた村立病院の伝染病棟へ設け(これはちょっと変な扱い方だった)怪漢をその方へ移す。そのうちに夜が明けてホッと一息ついたとき、そこへ電話が掛って来て、ゆうべ西風の妖魔が、空気工場から若き珠江夫人を奪っていったという悲報を伝えた。これは大変だというので、丘署長の一行は、徹夜をして血走った眼を一層赤くしながら、自動車を飛ばして問題の空気工場へ駆けつけねばならなかった。それにしても七人目の犠牲者は今までとはガラリと変って、この空気工場の女王、珠江夫人だとは実に意外な出来事だった。
 丘署長は、リューマチの気味で痛い腰骨こしぼねを押えながら、空気工場の門をくぐった。それは何という不気味な建物だったろう。本署の台帳によってみると、この空気工場の営業品目は、液体空気、酸素ガス、ネオンガスほか数種、それに気球ということであったが、その一風変った営業品はこんな奇怪なる建物から生れるのかと思うと、変な気がした。
 正面の本館というのを入って、応接室に待っていると、そこへ二人の人物が入ってきた。
「やあ、これはどうも……」
 と、先に立った頤髭あごひげのある土色の顔に部厚の近眼鏡をかけた小男が奇声でもって挨拶あいさつをした。それは工場主である理学博士赤沢金弥あかざわきんやと名乗る人物だった。
「私が技師の青谷二郎です。――」
 続いて後に立っていたのが、こんな風に名乗りをあげたが、これは工場主とはちがって、すこし才子走さいしばしっているが、容姿端麗なる青年だった。
「一体どうしたのかネ」と署長は無遠慮な声を出した。
「こう再三失踪者を出すということについては、君の責任を問わにゃならん」
 そういわれた赤沢博士は、眼玉をギョロつかせて署長をにらえた。
「三年来の失踪者が判らんのでは、わし達も警察の存在を疑いたくなりますよ。早く家内を探し出して下さい」
 青谷技師は、その後方で一人気をもんでいる様子だった。
 署長は「では何もかも言うのですぞ」と一喝いっかつして置いて、まず工場主から夫人失踪前後の模様を聴取した。
「わしは昨夜十時頃まで工場にいました」と博士は口だけを動かした。「わしは調べものがあったから、本館二階の自室で読書をしていたのです。十時を打ったので灯を消し、本館を出て、別館へ帰りました。そこはわしと家内との住居すまいてているのです。ところが家内は私を出迎えません。わしは家内の部屋へ行ってみました。家内はそこにも見えません。いろいろ探しましたが影も形もありません。それからこっち、家内を一度も見掛けないのです。わしの知っているのは、それだけです」
「君は夫人がどうしていると思っていたのか」
 と丘署長が尋ねた。
「はい、多分ベッドに寝ていることと思いました。しかしベッドはキチンとしていまして別に入った様子もありません」
「灯りはいていたかネ」
「いいえ、点いていませんでした」
「お手伝いさんかなんかは居ないのかネ」
「一人いたのですが、前々日に親類に不幸があるというので、暇を取って宿下やどさがりをしていました。だから当夜は家内一人きりの筈です」
「何という名かネ。もっとくわしく云いたまえ」
「峰花子といいます。別に特徴もありませんが、この右足湖うそくこを東に渡った湖口ここうに親類があって、そこの従姉いとこが死んだということでした」
「君は夜中に夫人の失踪に気付きながら、なぜ人を呼ばなかったのだ」
「わしは青谷技師以外の[#「以外の」は底本では「意外の」]者を頼みにしていません。それでこれを呼びたかったのですが、技師の家は湖水の南岸を一キロあまり、つまり湖口うみぐちなのですからたいへんです。昼間なら一台トラックがあるのですが、いつも技師が自宅まで乗って帰るので、その便もありません。それで夜が明けて出勤してくるのを待つことにしたのです。第一、わしはもう十年以上も、この工場から一歩も外へ出たことがありませんでナ」
 丘署長はフーンと大きな息をして、赤沢博士の顔を見つめていたが、今度は青谷技師のほうへ向き直った。
「君は昨日、何時ごろ帰っていったのかネ」
「八時ごろです」
「トラックに乗ってかネ」
「そうです」
「どこかへ寄ったかネ」
「どこへも寄りません。家へ真直まっすぐに帰りました」
「夫人の失踪について心あたりは?」
「一向にありません」
 署長はジッと青谷技師を見下ろしていたが、
「君は昨日からその靴を履いていたのかネ」といった。その靴には、生々しい赤土がついていた。この辺には珍らしい土だった。
「はあ……今朝工場の内外を探しに廻りましたので……」
 丘署長はそれから二人に案内させて、工場内の主なる室を案内させた。大きな機械のある仕事場も動力室もしらべた。倉庫や事務室もみた。一番よく検べたものは、赤沢博士の自室と、青谷技師の私室と、それから特別研究室の札の懸っているやや複雑した部屋だった。特別研究室は博士と技師との二人だけが入ることを許されてあったもので、ここで大事な研究がなされた。いろいろと特別の戸棚や、機械や、台などが並んでいたが、別に血痕も見当らなかった。結局、この工場の中には異変が認められなかったので、今度は別館の住居すまいへ行って検べた。この方も博士の言葉を信ずるのに参考になったばかりで、夫人の遺書一つ発見されなかったのである。
「どうも相変らず工場の方は苦が手だ」と署長は痛む腰骨を叩きながら云った。これは帰って、昨夜捕えた血まみれ男を調べる方が捷径はやみちに違いない。
 一行は自動車で引揚げていった。


     3


「村尾某の陳述――」
 と冒頭して鉛筆で乱雑に書きならべてある警察手帖をソッと開きながら、署長席の廻転椅子にお尻をめた丘署長はブツブツ独り言を云っていた。
「村尾六蔵、三十歳か、なるほど……中々面白い名前をつけたものだ。さてその日の足取りは……まず第一が……」
 こんな風に、ゆっくり読みかえしてゆく丘署長の遅いスピードにはとてもついてゆけないから次にその要点を述べる。血まみれの怪漢のこの足取り陳述の中には、この事件を解く重大な鍵が秘められてあったことは、後に至って思い合わされたことだった。
(一)村尾某は東丘村ひがしおかむら(東西に長くよこたわる右足湖の東の地を云う。湖口は東丘村が湖にのぞむところを云う)から、右足湖を越えて、庄内村(右足湖の西の地を云う、空気工場はそれの湖水に臨む湖尻うみじりにある)へ入ろうとしたが途中、東丘村で日が暮れ、湖水にはまだ遠かったこと。
(二)午後七時半ごろ、かなり湖水近くまで来たと思ったときに、一つの墓地に迷いこんだ。そこには、真新しい寒冷紗かんれいしゃづくりの竜幡りゅうはんが二りゅうハタハタとうごめいている新仏にいほとけの墓が懐中電灯の灯りに照し出された。墓標ぼひょうには女の名前が書いてあったが覚えていない。しかし墓は土をかけたばかりで、土饅頭どまんじゅうの形はまだ出来ていなかったこと。
(三)墓の側にはトラックの跡がついていたので、それについて行けば本道に出るだろうと思って辿たどってゆくと、やがて一軒の家の前に出た。標札には「湖口ここう百番地、青谷二郎」としたためてあった。その家の前に湖水の水が騒いでいたこと。
(四)湖水を渡るつもりで舟を探したところ小さいのが一そうあったので、これに乗って西へ西へとぎ出した。西風はだんだん強くなって、船は中々進まない。半分ぐらい来たところで、真正面に空気工場の灯が見えた。元気を盛りかえして漕いでゆくうちに、風が急に変ったものと見え舟が北岸ほくがんに吹き寄せられた。そのとき、ちょっと気がついたのは、たいへん冷い雨が顔に振りかかったことだが、大汗かいているときなので気持ちがよかった。この雨はまもなくんだ。それからは岸とすれすれに湖尻うみじりまで漕ぎつけたこと。
(五)湖尻に上ったのが十時半ごろだった。空気工場の横を通ったがなんだか辺に白いものが見えるので、懐中電灯で照らしてみると、構内に気球が三個、巨体を地上のくいに結びつけられて、風にゆらゆら動いていたこと、工場の中窓には灯がついていないようだった。
(六)それから工場を後にし、大西ヶ原を横断して、庄内村の家つづきまで来たところで、駐在所の巡査に捕えられたこと。
「……なるほど、こいつは面白い」
 と署長は一人でえつっていた。
「なにが面白いものか」
 と署長の頭の上で、頓狂とんきょうな声がした。おどろいて署長がうしろを向くと、そこには彼と犬猿けんえんの間にあるK新報社長の田熊氏が嘲笑あざわらっていた。彼は署長の手帖の中身をスッカリ藁半紙わらばんしに書き写してしまってから、激しい地声じごえでまくし立てた。
「手帖をひろげるなら、こんなくだらんことを見せるのは止して、犯人の名を書いてあるところでも見せたがいいよ」
「オイ貴様、盗人ぬすびとみたいなやつだナ。そんな暇があるなら職務執行妨害罪というのを研究しておけよ」
 田熊は咳払いと共に向うへスタスタ歩いていった。
「どうも彼奴きゃつは苦が手だ。……そこで今のうちに……」
 と署長は、周到に手帖を畳んで冥想めいそうしていると、そこへ庄内村の巡査が入って来て彼の机の前で挙手の敬礼をした。
「報告に参りました」
「ああ、君か。いや御苦労だった。あれはどうだったネ」
 その巡査は、署長の命令によって、今朝から右足湖畔うそくこはんをめぐって捜索して来た者だった。
「御命令によりまして、第一に空気工場へ参りました。午前八時でしたが、気球は地面に四基だけ結んでありました」
「四個?」署長は手帖を拡げて首をかしげた。
「陳述によると、懐中電灯ニヨリ三個ノ気球ヲ認メタ――とある。すると君の報告の方が一つ多いね」
 署長は鉛筆をめ嘗め三個の横に4とかいた。
「第二の、湖尻うみじりで村尾某の乗りました舟を探しましたが見当りませんので」
「舟が見当らぬ? そうか。湖水の中を探ってみるんだネ」
「それからトラックの跡で、墓場から青谷二郎の家までついていたという話でしたが、これはハッキリ見えませんでした。誰かが地均じならしをしたような形跡は見ました」
「フン、フン」と署長はまた手帖へ書きこんで「それからあと、どうした」
「次は新仏のことですが、あれは確かにございました。峰雪乃みねゆきのの墓です。これは初産ういざんに気の毒にも前置胎盤で亡くなりましたので……。この墓については大体おっしゃった通りでしたが、ただ違いますとこは、新仏の上は土が被せてあるというお話でしたが間違いで、もう既に綺麗な土饅頭どまんじゅうができていました」
「ホホウ、そうか」と署長はまた鉛筆を嘗めた。「その次は……」
「もうそれきりです」
「うん、これは御苦労だった。では適宜に引取ってよろしい」
 巡査は署長の方へ向いてペコンとお辞儀した後、側を向いてもう一つお辞儀をし、廻れ右をして帰っていった。
「さあ、これだけ材料が揃えば、まずわしの面目も立つというものだ」
 と署長は呟いた。途端にその背後で例のエヘンという咳払いが聞えたので、署長は急にむしを噛みつぶしたような顔になった。
「なんじゃ、これは一体」
 とベタ一面に鉛筆を走らせた藁半紙わらばんしを署長の鼻先につきつけたのは、もうとっくに帰ったものとばかり思っていたK新報社長の田熊だった。
「こんなまどろこしいことはやめろ。これでは殺人事件は何年たっても解けないぞ。号外だってこれまでに六遍も出しそこなった。犯人の血まみれ男はどうしたのだ。あいつをここへ引擦ひきずり出し給え。一体あの怪漢を、こんどは厳重に囲って見せぬようだが、あれは一体何者だ。とにかくこの次来たときにも、手帖とにらめくらでは、いよいよ新聞で書きたてるぞ、いいか」
 田熊は云うだけのことを云うと、またスタスタと向うへ行った。
「智恵のない奴は、哀れなものだ」そう云ってニッと意味深い笑いを浮べた署長は、また村尾某の陳述書を読みだしたが、
「そうそうこれを頼まれていた」
 彼は電話機をひきよせると、番号を云ってK町の測候所を呼び出した。
「ああ、こっちはK署ですが。あのウ、右足湖を中心とする一帯の風速と風向きとを伺いたいのですが、昨夕から今朝にかけてです。……なるほど、……なるほど」としきりに感心していたが「そうですか、昨夜九時半ごろまでは西風、そこで風向きが一変して南西風に変った。ああそうですか」
 署長はまた何やら手帖の中に丹念に書こんだ。それから立ち上ると側の主任に自動車を命じた。
「わしは一寸庄内まで行って、村尾某に会って、それから都合によって、空気工場へ廻るぞ」といって出かけた。
 後で署員たちは、あの老衰署長が、こんどに限って、どうしてあのように威勢がよかったり、味な調べ方をやるのか不思議がった。


     4


 気短の田熊社長は、彼の社長室の床をドンドン踏み鳴らしていた。彼の脚のすぐそばには、菜葉服なっばふくの工夫が三人ほど、社長の足が飛んでくるのをヒヤヒヤ気にしながら、しきりとなにか針金を床下から引張りだして接ぎ合わせていた。電話工事をやっているらしかった。
「オイ何時までかかるのだ」
「もう直ぐです……」
 丁度いい塩梅に、そのとき工事が完成した。工夫は受話器に耳を懸けて、ラジオのような器械の目盛盤をいじっていたが、やがてニッコリ笑うと、受話器を外して社長へすすめた。
「これで聞えるのだナ。よオし、皆はやく部屋を出てゆけッ」
 一同は足を宙に浮かせて、室を出ていった。
「さあ、これでアノ庄内村の調室の模様がすっかりわかるんじゃ。犯人村尾某の供述を、警察がどんなに隠しても、わしには知れずにゃいないのじゃ。あとできっと丘先生、さぞや腰をぬかすことじゃろう」田熊社長は村尾某の監禁されている調室から秘密に電話線を引けたので、向うの話を盗聴できるというので大変機嫌がよかった。
 間もなく、待ちに待った調べ室の会話が、低音ながら聞えてきた。
(どうも失礼しました)と聞きなれぬ声がした。
(いえ、なに……)といったのは、どうやら丘署長らしい。
(……そんな訳ですから……)と始めの声が伝った。
 なんでも前からの話の続きらしい。(私の推理はですナ、九分どおり実証の上に立っているのですが、惜しいかな後の一分のところが解らないために、結局仮定を出でないのです。その不満足なままで申上げますと、さっきも説明しましたとおり、犯人はその夜強い西風が吹くということを確めた上で、かの粉砕した屍体をたずさえて、気球の一つに乗ったのです。ロープを解くと気球はズンズン上昇します。風が真西から吹いていますから、ごらんなさいこの右足湖の中心線の上に気球は出ます)
 田熊社長は、右足湖の位置の話がでたので周章あわてた。見廻すと、社長室の壁に、右足湖を含むこの辺一帯の購読者分布地図が貼ってあったので、彼は盗聴器一式を両手で抱えて壁際へ移動した。
(……この右足湖の縦の中心線が、正しく東西に走っていることからして、気球を湖水の真中に掲げるには、西風の吹く日を選ぶより外に仕方がなかったのです。さてそれから、程よいところで、彼の犯人は灰のようになった人体の粉末を、気球の上から湖上に向って撒いたのです。西風にしたがって、この人間灰は水面に落ちますが、今申したように気球は中心線上にいるので、灰が多少南北に拡がっても、また東に流れても、うまく湖面の中に落ち、陸地には落ちないのです。
 ことごとくが水中に落ちてしまえば、いずれこれは魚腹の中に葬られることでしょう。そうすれば彼の屍体は完全に抹消されたことになります。なんと素晴らしい屍体処分法ではありませんか)
(なるほど、これア卓越した方法ですネ)
 と丘署長の声が感嘆した。
(この方法で、六人の犠牲者はうまく片づけられたのです。当夜強い西風が吹いていたことは、署長のお持ちになった測候所の風速及び風向きの報告で証明されます。七人目の犠牲者も、同様に気球に載せられ天空高く揚げられたのでした。そして同様にして粉砕屍体は気球の上から湖面へ向けて撒かれたのです。しかし前の六回のときとは違って、二つばかりの誤算が入ってきました。それは犯人のために、実に不幸な出来ごとでありました。
 二つの誤算――その一つは、撒いているうちに、それまで吹いていた西風が急に向きを南西に変えたことです。それがためどんなことが起ったかと云いますと、今まで真東へ飛んでいた人間灰は改めて北東へ流され、遂にその一部は、右足湖の北岸に墜落したのです。ごらんなさい。この壜に入っている異様な赤黒い物こそ、今日私が北岸へでかけて採集してきた七人目の犠牲者の肉片にくへんです)
 田熊社長は、電話で話は盗めても、その人肉じんにくの入った壜を盗視できないことをたいへん口惜くやしがった。
(もう一つの誤算は……)と例の声は云ったが、そのとき思いがけない「ッ」という叫び声が聞えた。(……こりゃ可笑しい。こんなところに変なものが……)とまでは聞えたが、そのあとはガチャリという音を残して、何も聞えなくなってしまった。
 田熊社長は、惜しいところで盗聴器が聞えなくなったので、顔を真赤にして口惜がった。すぐさま、再び工夫を呼んで直させたが、五分ばかりして彼等は、おそる恐る社長の前へまかりでて、云ったことである。
「社長さん、もういけません。向うの方で秘密送話器を切ってしまいました。この方法じゃ盗み聴きはもう駄目です」
 社長は万事を悟って、苦が笑いをした。
「じゃこれから、空気工場へ出かける」
 道々田熊社長は腕組をしながら、あの盗聴から得たさまざまの興味ある疑問について考えた。
「丘署長と、話をしていたのは一体誰だろう。大分腕利きらしいが、あんな男がK署にたかしら?」
 どう考えても、そんな気の利いた人物は考え出せなかった。その疑問はあずかりとしておいてほかにも疑問の種があった。
「話によると、どうやら犠牲者の屍体を粉々に砕いて、気球の上から撒くいう仮定を考えているようじゃったが、一体そんなことは出来るのかしら?」
 人間の死体をバラバラにした事件や、またコマ切れにした事件というのは聞いたことがあるがこの話のように、吹けば飛ぶ位のメリケン粉か灰のようにするという事件はだ耳にしたことがなかった。どうすればそんなことが出来るのだろうか。――こいつは興味あることだったが、更に難問だった。考えてゆくうちに、
「――うん、これだナ」
 と田熊社長は手を打った。あの男が、九分までは解けたが、一分だけ解けぬ問題があるといったのは、このことだと気がついた。あの男にも、どうして人間灰が出来るか、それが判っていないのだ。そうわかると、なんだかアベコベに痛快になった。
「それから、もう一つ電話を切られたところで、――二つの誤算のうち、一つは西風が途端に南西風に変ったという話だったが、もう一つの誤算は……というところで話が切れた。あれは一体どんなことを云うつもりだったろう?」
 ――こいつも考えたが判らない。しかしこの方は、何だかモヤモヤと明るいとでも云ったように、なんだか大変判りそうであった。なんだか既に気がついていることがらの癖に、そいつが一寸胴忘れをして思い出せないという形だった。そのうちに彼の乗った自動車は空気工場の前に来ていた。


     5


 彼は車を降りると、門を入り、玄関からズカズカ中へ入っていった。いつも行きつけているので、玄関脇の大きな応接室へ飛び込むと、そこには一隊の警察官を率いた先客の丘署長が居て、まずい視線をパッタリ合わせた。署長は顔に青筋を立てた。
「いよオ――」と社長は一と声かけた。「いかんじゃないか。折角ひとが聴いとるものを途中で切ってしまうなんて男らしくないぞ」
 またせんを越された署長は、ポカンと口を開いたまま、一言も云えなかった。
 そこへ工場主の赤沢金弥と、青谷技師とが入ってきた。
「やあ、これは……」
 と赤沢氏は、元気のない声で署長に挨拶をした。
「署長さんが必ずここへお出でになると思っていましたよ」
 と、青谷技師の方は愛想よく云った。
「今日は実は……」と署長は苦が手の方を気にしながら、来意を述べにかかった。「液体空気を一壜貰いにやってきたのです」
 赤沢氏はますます泣き出しそうになりながら、幾度もうなずいた。赤沢氏は青谷技師に案内を命じたあとで、
「丘さん」と署長の方に向いた、「どうですか、あの事件は。どの位お判りになりましたナ」とオズオズ尋ねた。
「いや、奥さんの敵は、もうすぐってあげますよ。犯人が屍体を湖水の中に投じたことは判明しました。この上は、犯人がどうして屍体を灰のように細かくしたかと云うことが判ればいいのです」
「ああ、そうですか、」と工場主はブルブルふるえ手を自分の口に当てながら、「すると犯人は誰ですか」
「それはまだ言明げんめいできません。しかしもう解っているも同然ですよ」
「オイ出鱈目もいい加減にせんか」と社長がのさばり出た。
「このボンクラ署長に何が判っているものか。誰かに散々教授をうけていたくせに。つまらんことをしゃべるのを止して、早く任務を果したがよいじゃないか」
 それを見ていた青谷技師は笑いながら、署長たちを工場の方へ誘った。
 工場はたいへん広く、器械は巨人の家の道具のように大きかった。強力なる圧搾器でもって空気を圧し、パイプとチェンバーの間を何遍も通していると、装置の一隅から、美しい空色の液体空気が、ほの白い蒸気をあげながら滾々こんこんと、魔法壜の中へ流れ落ちていた。
 一方では、液体空気をボイラーに入れて、微熱を加えてゆくと、別々のパイプから、酸素ガスやネオンやアルゴンなどの高価なガスがドンドン出てきて、圧力計の針を動かしながら鉄製容器ボンベの中へ入ってゆくのが見えた。
 工場はあまりに広すぎた。署長の腰骨が他人のものとしか考えられなくなった頃、液体空気貯蔵室へ来た。
「君は幽霊じゃあるまいな」と早や道をしてその室に待っていた田熊社長が署長の顔を見ると皮肉を飛ばした。
「わしはもうくの昔、君がこの工場の一隅で八人目の犠牲者になっとることと思って居ったわい」
 丘署長はやりかえしたいのを、青谷技師の前だというので、懸命に我慢をした。
「さあ、液体空気をけてさし上げましょう」そういって青谷技師は、床の上から手頃の魔法壜を台の上に引張りあげた。
「それからついでに、御注意までに、液体空気の性質を実験してごらんに入れましょう」
 青谷技師は、側の棚から、大きい二重硝子ガラス洋盃コップを下ろした。それは一リットルぐらい入るように思われた。次に彼は、床の上から魔法壜をとりあげて、洋盃コップの上に口を傾けた。ドクドクと白いもやが湧いてくる中を例の美しい空色の液体が硝子の器の中に、なみなみとたたえられた。
「どうです、綺麗なものでしょう。広重ひろしげの描いた美しい空の色と同じでしょう」
 丘署長も田熊氏も感心して見惚みとれた。
「なにしろこの液体空気は氷点下百九十度という冷寒なものですから、これにけたものは何でも冷え切って、非常に硬く、そしてもろくなります。ごらんなさい。これは林檎りんごです。これを入れてみましょう」
 技師は赤い林檎を箸の先に突きさして、液体空気の中にズブリと漬けた。ミシミシという音がして、液体空気が奔騰ほんとうした。その後で箸を持ち上げると、真赤な林檎が洋盃コップの底から現れたが、空中に出すと忽ち湿気を吸って、表面が真白な氷でおおわれた。
「さあこの冷え切った林檎は、相当堅くなりましたよ。小さい釘ぐらいなら、この林檎を金槌かなづちの代りにして、木の中に打ちこめますよ」
 技師は小さな釘をみつけて、台の上につきさすと、その頭を凍った林檎で槌がわりにコンコンと叩いた。釘は案にたがわず、打たれるたびに台の中へめりこんでいった。見物の一同は、唖然あぜんとした。
「さあそこで、こんな堅い林檎ですが、これが如何にもろいかお目にかけましょう。ここにハンマーがあります。これで強くなぐってみましょう」
 そういって技師はハンマーをとると、台上の冷凍林檎をにらんだ。
「エエイッ」
 ポカーンと音がして、ハンマーは見事に林檎を打ち砕いた。あーら不思議、林檎はグチャリとなるかと思いの外、一陣の赤白い霧となって四方に飛び散り跡片もなくなった!


     6


「林檎が消え失せた!」
 と署長が叫んだ。
「イヤ今に見えてきます。ほら、この台の上をごらんなさい。赤い灰のようなものが、だんだんたまってくるでしょう。飛び散ったのが、下りてくるのです。――これが粉砕された。林檎の一部です。……」
 丘署長はこのとき棒のように突っ立った。
「ああ判ったぞ。ああ、判ったぞ」
 彼は胸をたたいてわめいた。
「ああ、人間灰事件にんげんかいじけんの謎が遂に解けたぞ、七人の犠牲者は、いずれも液体空気の中に漬けられたのだ。そして氷点下百九十度に冷凍され後、金槌かなんかで打ち砕かれ、あの人間灰に変形されたのだ。よオし判った。犯人は確かに、この空気工場の中にいる!」
 そう署長が叫んだとき、卓上の電話がチリンチリンと鳴った。青谷技師がそれを取上げようとするのを、昂奮こうふんしきった署長は横から行って、ひったくるように取上げた。
「モシモシ。誰か来て下さい」
 と、上ずった悲鳴が聞えた。
「君は誰だ。名乗り給え」
「ああ、近づいて来る。妻の幽霊だ。助けてれッ。ああ、殺されるーッ」
 異様な叫びと共に、電話は切れた、署長の顔は、赤くなったりあおくなったりした。電話の主は工場主の声に違いなかった。
「赤沢氏が幽霊に襲われ、救いを求めている。赤沢氏の室へ案内し給え、早く早く」
「えッ、先生がッ。――」
 青谷技師を先登せんとうに、署長以下がこれに続いて、室外に飛び出した。階段をいくつか昇って、とうとう特別研究室に駆けつけた。
 扉を開いてみると、居ると思った筈の、赤沢博士の姿はどこにも見えなかった。しかし受話器のはずれた電話機が、床の上に転がっていた。してみると只今の恐怖の電話は、この室から掛けたものに相違ない。博士と幽霊とは一体どこに消えたのだろうか。
 一同は顔を見合わせて、沈黙した。
「オイしっかりしろ署長」と田熊社長が叫んだ。「なんか変な音がするじゃないか」
「変な音?」
 なるほどどこやらから、ピシピシプツプツと、異様な音響が聴えてくるのであった。
「うん、見付けたぞ」
 青谷技師が室の一隅へ飛びこんで行った。そこには青いカーテンが掛けてあった。技師はカーテンをサッと引いた。すると衣装室と見えたカーテンの蔭には、洋服は一着もなかった代りに、白いタンクが現れた。そこにある一つのハンドルに飛びついて、それをグングン右へ廻した。
「それは何だ」と署長が叫んだ。
「これは液体空気のタンクです」と技師は云って、一同の方へけわしい眼を向けた。「あなたがた注意をして下さい。その大きな机の後方へ出てくると、生命がありませんよ」
「ナニ、生命がないとは……」
 恐いもの見たさに、一同は首を伸べて、大机の後方をのぞきこんだ。
「いま明けてみますから……」
 青谷技師はかたわらの鉄棒をとって、床の一部を圧した。すると板がクルリと開いて、床の下が見えてきた。床下には普通の洋風浴槽の二倍くらい大きい水槽が現れた。その中を見た一同は、思わずッといって顔をそむけた。その水槽からは湯気のようなものが濛々もうもうと立ちのぼり、その下には青い液体がたたえられ、その中に一個の人体が沈んでいるのが認められた。引き上げてみると、それは外ならぬ赤沢博士の屍体だった。全身は真白に氷結し、まるで石膏像せっこうぞうのようであったが、その顔には恐怖の色がアリアリと見えていた。――青谷技師は、このハンドルを廻さなければ液体空気はなおドンドンこの水槽の中へ入って行く筈だと説明した。
「これは面白いことになってきた」K新報社長はわめきたてた。「これはテッキリ赤沢金弥が犯人じゃろうと思っていたが、赤沢は幽霊に殺されてしまったじゃないか。オイ丘署長、犯人は一体誰に決めるのだ」
 丘署長は、この激しい詰問きつもんって、顔を赤くしたり蒼くしたり、いちじるしい苦悶の状を示した。しかし遂に決心の腹を極めたらしく、大きな身体をクルリと廻わすやいなや、青谷技師に躍りかかった。
「さあもう欺されんぞ。君を殺人犯の容疑者として逮捕する!」
「これは怪しからん」
 青谷技師は激しく抵抗したが、署長の忠実なる部下の腕力のために蹂躪じゅうりんされてしまった。彼の両手には鉄の手錠がピチリという音と共にはまってしまった。しかし署長以外の者は、意外という外に何のことやら判りかねた。
「おうおう、派手なことをやったな。但し君はまさか気が変になったんじゃなかろうネ」とK新報社長がやっと一と声あげた。
 丘署長はそれに構わず、技師を引立てた。
「署長さん――」と青谷はうらめしそうに叫んだ。「これは何が何でもひどいじゃないですか。どうして手錠をめられるのです。その理由を云って下さい」
「理由?――それは調室へ行ってから、こっちで言わせてやるよ」


     7


 青谷技師は調室の真中に引きだされ、署長以下のけわしい視線と罵言ばげんとに責められていた。彼は極力犯行を否定した。
「……判らなきゃ、こっちで言ってやる」と署長は卓を叩いた。「これは簡単な問題じゃないか。あの特別研究室に入るのは、博士と君だけだ。床をドンデン返しにして置いて、その下へ西洋浴槽のようなものをえてサ、それから一方では液体空気のタンクを取付け、栓のひねり具合で浴槽の中へそいつが流れこむという冷凍人間製造器械は、君が作ったものに違いない。博士自身が作ったものなら、遺書も書かずに死ぬというのは可笑おかしい。幽霊に追われたとしても、自分の作ったものなら、そこへ逃げ込むのも可笑しいし、第一ドンデン返しにならんように鍵でも懸けて置きそうなものじゃないか。だから君だけ知っていて、博士をおびやかして墜落させたものに違いない」
「署長さん、それは貴下の臆測おくそくですよ」と青谷はアッサリ突き離した。「ちっとも証拠がないじゃありませんか。それに当時私は貴下の側にいました。それでいて、墜落させたり、幽霊を出したり、そんな器用なことができますものか」
「ウン、まだそんなことを云うか。……夫人殺害のことでも、君のやったことはよく判っているぞ。君はあの夜八時に帰ったということだが、それは確かとしても、工場の門は一度六時に出ているじゃないか。わしが知るまいと思ってもこれは門衛が証明している。そうしたと思ったら、忘れ物をしたというので、七時半ごろ再びトラックに乗って引返してきた。そしてまた八時ごろになって、本当に帰ってしまった。君が引返してきたときには、工場の中には自室で読書に夢中の博士と、別館には婦人が居ることだけで外に誰も居ないと知っていたのだ。そして約三十分の間に、実に器用な夫人殺害と、屍体の空中散華さんげとをやって、八時頃なに食わぬ顔で帰ったのだ。どうだおそれ入ったか!」
「それはこじつけです。私はそんなことをしません」
「夫人を殺害しないと云っても、それを証明することができんじゃないか。君に味方するものはおらん」
「そんなに云うなら、私は云いたいことがあります。これは貴下の恥になると思って云わなかったことですが……」
「ナニ恥とは何だ」署長は眼の色を変えた。
「恥に違いありませんよ。貴下方はあの晩湖水の上空から撒かれた人間灰が、珠江夫人のだと思いこんでいるようですが、それは大間違いですよ。湖畔で採取した人肉の血型けっけい検査によるとO型だったというじゃありませんか。しかし夫人の血型はAB型です。これは先年夫人が大病のとき、輸血の必要があって医者が調べて行った結果です。O型とAB型――一人の人間が同時に二つの血型を持つことは絶対に出来ません。人肉の主と夫人とは全く別人です。貴下はこんな杜撰ずさんな捜索をしていながら、なぜ僕を夫人殺しなどとハッキリ呼ぶのですか」
「ウム。――」
 署長はその瞬間フラフラと、脳貧血におちいりそうになった。実は血型なんてハイカラなものは考えたことがなかった。今となってこんな痛いところを突かれるなんてあるだろうか。彼の威信はこの瞬間地に墜ちた。
「どうです署長さん」なおも青谷は苛責かしゃくの手をゆるめなかった。「僕はそのことだけでも無罪の筈です。僕を苦しめてどうなるのです。それより、なぜあの血まみれの容疑者を責めないのです。あんなあやしい奴をなぜ……」
 そのとき、背面の扉がバタンと明いた。そして青谷の知らない男の声がした。
「怪しいとは僕のことですか」
 ヌックリと青谷の前に立ったのは、長身のひげだらけの工夫体の男だった。作業服はヨレヨレながら、その声は気味の悪いほどしっかりしていた。
「僕こそ無罪ですよ。署長さんの云ったように貴下には手錠が懸るのが本当です。しかしすこし事実の違っている点がありましたから、訂正して置きましょう。この話の方が青谷君のに落ちるでしょうから」
「君は誰です?」
「私ですか。人間灰が湖上へ降り注いでいる真下を舟で渡った男です。やがて帽子から顔から肩先から、けた血で血達磨ちだるまのようになった男です。なるほどこの肉も血も、珠江夫人のではなかった。貴下の言うとおりにネ。血型けっけいO型の人肉は誰だったのでしょう。それは貴下の家から程近い墓場の下に睡っていた女のものでした。峰雪乃みねゆきの――ご存知ですか、この名前を。たった今、その土饅頭をくずして棺桶の中を開いて来ましたが、中は全く空っぽです。貴下はあの晩、一度工場の門を出て墓場へゆき、やみまぎれてこのほとけを掘りだし、工場へ引返したのです。そして人肉散華じんにくさんげをやりました。墓の方は時間が無かったために、壊した土饅頭を作り直す暇がなく、上に土だけかぶせておいたところを、はからずも通りかかった一人の男が見ました。つまりこの僕がネ」
 髭男はニヤリと笑った。
「全くお気の毒でしたネ。人肉散華から再び帰って、貴下は土饅頭を作り、トラックの跡を消したが、それはもう遅すぎました。なぜこんなことをやったか。貴下はその夜かねての手筈で夫人に姿を隠させて、丁度ちょうど夫人が失踪したようにみせたのです。そして万事は赤沢博士に嫌疑がかかり、そしていい加減なところで博士が自滅するように計画をたてたのです。ところが署長のために不意に手錠をかけられてしまったので、狼狽ろうばいのあまり、血型のことなど持ち出して、即座に手錠を解かせるつもりでした。永く手錠をかけられていることは貴下の大不利ですからネ」といって髭男はジロリと青谷の顔を見た。
「なぜ大不利か? 手錠をかけられていることが永いほど、純潔らしい貴下の顔形が曇ってゆくからです。これまで六回に亘って貴下が犯してきた変態殺人がそのまま露見せずに終るとは貴下も考えないでしょう。貴下は全く許すべからざる趣味の人です。貴下は神を忘れている。科学者が神を忘れたときは、いつまでも貴下のようになりやすいものです。こうしているうちにも、湖底にくぐった潜水夫が、六人の犠牲者の遺物を捜しあてて持ってくるかも知れません。……手錠を早くはずして貰いたいために、貴下は反証なんかを挙げて署長をおどろかせたが、貴下は自らの罠にかかったのです。珠江夫人は本館内の貴下の室に隠れていました。夫人は一旦貴下の誘惑にかかりはしたものの前非を悔いて、実は博士の室へ打ち明けに出たところを、博士は幽霊だと駭いたのです。そしてとうとう貴下の仕かけて置いた罠に陥ってあの最期です。僕もあのときは、もっと上等の扮装なりをして一行に加わっていたので、『幽霊』という言葉とかねて血型の相違についての疑問とによって、夫人の生存していることを悟りました。そして一足お先に夫人と共にこっちへ帰っていたのです。逢いたければ夫人をここへ連れてきましょうか」
 一座の駭きの中に、青谷は眼を閉じた。しかし暫くするとまた頭を上げて云った。
「すると貴下は一体誰ですか」
「僕ですか」と髭男が云った。「僕はこの右足湖畔の怪を調べるために、東京から派遣されたこういう者です。犯人を捜す便宜べんぎのため、署長さんに永く隠して貰っていたのです」
 そういって、青谷技師の手錠の上へ一枚の名刺を置いた。それには「私立探偵帆村荘六ほむらそうろく」とあった。





底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
   1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1934(昭和9)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:たまどん。
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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