西湖の屍人

海野十三




     1


 銀座裏の酒場バー、サロンふねを出たときには、二人とも、ひどく酩酊めいていしていた。
 私は私で、黄色いまばらな街燈に照らしだされた馴染なじみの裏街が、まるで水の中につかっているような気がしたし、帆村ほむらのやつは帆村のやつで、黒いソフトを名猿めいえんシドニーのように横ちょに被り、洋杖ステッキがタンゴを踊りながら彼の長い二本のすねをひきずってゆくといった恰好かっこうだった。
 私はそれでも、ロマンチストだからかまわないようなものの、かれ帆村なるものは、商売が私立探偵ではないか。帽子の天頂てっぺんから靴の裏底まで、およそリアリズムであるべきだった。しかるに今夜、彼はそれ等の特徴を見事ふりおとして、身体中がすきだらけであるかのように見えた。もし彼に怨恨うらみのある前科者ぜんかものどもが、短刀逆手さかでに現われたとしたらどうするだろうと、私は気になって仕方がなかった。
 すると、背後から大声でもって、警告してやりたい程、矢鱈無性やたらむしょうに不安に襲われた。この嘔気はきけのようにつきあげてくる不安は、あながち酩酊めいていのせいばかりでは無いことはよく判っていた。近代の都市生活者の九十九パーセントまでが知らず識らずの間にかかっているといわれる強迫観念症きょうはくかんねんしょう仕業しわざにちがいないのだ。
 帆村が蹣跚よろめくのを追って、私が右にヨタヨタと寄ると、帆村は意地わるくそれと逆の左の方にヨロヨロとかたむいてゆくのだった。銀座裏は時刻だから、いたずらに広々としたアスファルトの路面がのび、両側の家はヒッソリと寝しずまり、さまざまの形をした外燈が、半分夢を見ながら足許あしもとを照らしていた。
 酔っ払いにとって、四ツかど至極しごくなつかしいものである。三間先のコンクリート壁体へきたいめるようにして歩いていた帆村は、四ツ角を見付けると嬉しそうに両手をあげ、まるでゴールのテープをるような恰好をして、蹣跚よろけていった。そのとき私は後からそれを眺めていて、急にハッとしたのだった。
 ――その四ツ角へ、別の横丁から、おかしな奴がノコノコやってくる!
 その姿は、本当には薩張さっぱり見えないのだ。それにもかかわらず、見えない横丁に歩いている人間の姿が見えたような気がした。いや、矢張やはりハッキリと見えたのだ。それは不思議なようで、別に不思議はないことだ。私達のように永年ながねん都会にんで、極度に神経を敏感以上、病的にけずられている者は、別に特殊な修練しゅうれんないでも、いつの間にか、ちょっとした透視とうしぐらいは出来るようになっているのだった。これはいつも、そういう話の出たときに、私の言う話であるが、こころみに諸君は身体の調子のよいときに、ポケットの懐中時計をソッとのうちに握って、
(はて、いま何時何分かなァ――)
 と考えてみたまえ、すると目の前に、白い時計の文字盤が朦朧もうろうとあらわれ、短い針と長い針の傾きがアリアリと判るのだ。そうして置いて、てのひらを開き、本当の文字盤を見る。果然かぜん! 一分とたがわず二つは一致している――これでも諸君は信じないというか?
 四ツ角では、帆村ともう一人の黒い影とが、もつれあっているのだった。
 私は、応援してやりたい気持一杯で、ペイブメントを蹴って駈けだしたのであるが、駈けるというよりは、泳ぐというに近かった。
「ぼぼぼ僕は、いいい生きているでしょうか」
 と帆村の前に立つあやしの男が、熱心にたずねている。
 帆村は、その男に胸倉むなぐらをとられたまま、
「ウウ、ううウ」
 と低くうなっているばかりだった。
「ちょいと、僕の身体を触ってみてください。この辺を触ってみて下さい」
 泣かんばかりにの男はわめくのであった。そして帆村を離すと、ベリベリと音をさせて、われとわがワイシャツをきその間からしかばねのように青白い胸部を露出させた。私は、初めてその男の姿をマジマジと観察したのだったが、思ったよりは遙かに、若い男だった。年齢としのころは二十四五でもあろうか。だが非常に憔悴しょうすいしていた。皮膚には一滴のもなく下瞼したまぶたがブクリとふくれてさがり、大きな眼は乾魚ひもののように光を失っていた。
「きみは、おおお面白いことを云う」帆村が口のあたりについているよだれらしいものを手の甲でぬぐながら云うのであった。
「生きているかァ? ウンここにあるのは、きみィの胸ではないか、だッ」
 帆村は腰をかがめ、指先を自分の眼の前にチラチラふるわせて云った。
「では、僕の手を握ってください」
「よオし、握った」
 帆村はよろけながら、怪青年の手をった。
「その手は、僕の身体につながっているでしょうか」
「ばば馬鹿なことを云いたまえ。ついていなくて、どうするものかッ」
「僕がしゃべるときには、この唇が動いているでしょうか」
「なに、唇が……。パクン、パクンあいたり、しまったりしてるじゃねえか、こいつひとめやがって」
 帆村は、気合きあいをかけると、
「ええいッ」
 と青年の頭をガーンと、どやしつけた。
 青年は痛そうな顔一つしない。
 が、彼はたちまち恐怖の色を浮べてわめきだした。
「おおにくむべき幻影げんえいよ。わが前より消えてなくなれ。消えてなくなれ!」
 彼は両眼りょうがんをカッと見開き、この一見意味のない台辞せりふきちらしていたがやがてブルブルと身震みぶるいをすると、パッと身をひるがえして駈け出した。
「それッ、逃がすな!」
 と叫んだ帆村の声は、いつの間にか普段ふだんの、あの胸のすくような名調子に変っていた。
「よオし、つかまえてやる!」
 と私は呶鳴どなった。
(これは冗談ごとではなくて、なにか事件かもしれない)私の酔いは、やっとめかかった。
 私は兵士のように身をていして、怪青年の背後に追いすがった。右のひじをウンと伸すと、運よく彼の肩口に手が触れた。勇躍ゆうやく
「ヤッ!」
 と飛びかかった。
「無念!」
 ひっぱずされて(酒精アルコールたたりもあって)身体が宙にクルリと一回転した揚句あげく、イヤというほど腰骨こしぼねをうちつけた。じっと地面にのびているよりほかに仕方がなかった。帆村が勇敢にも私の身体を飛び越えて、追駈けていったのがぼんやりわかった。だが、こっちは全身がきかないのだ。どこに自分の腕があり、どこに自分の足があるのだか、皆目かいもく見当けんとうがつかなかった。気がついたのは――此際このさい呑気のんきな話であるが――なにかしら、馥郁ふくいくたるにおいとでもいいたいかおりの辺にすることだった。
麝香じゃこうというのは、こんな匂いじゃないかしら)
 そんな風なことを思いながら、夢をみているような気持だった。
 突然、意識が鮮明になった。朝霧が風に吹きとばされて、あたりが急に明るく晴れてゆくように……。
(こんなものを、頭からかぶってたじゃないか)
 私は、真黒いぬのを、顔からとりのけて、上半身を起した。真黒い布と思ったのは、洋服の上衣うわぎだった。
(そうだ。怪しい男をつかまえたっけが、彼奴あいつの上衣なのだ!)
 あやしいかおりも、その上衣から発散することが判ってきた。それにしても、いいにおいだが、なんという異国情調的エキゾティックな香なんだろう。私の手は無意識に伸びて、その上衣のポケットを、まさぐっていた。
(おお、なんだか、入っているぞ!)
 てのひらに握れるほどの大きさのものだった。出してみた。かしてみた。そしてでまわしてみた。何だかびんのようだ。
 突如! 近くで私の名を呼ぶ声がする。私はムックリ起上った。
 横丁をすりぬけて、飛鳥ひちょうのように駈出してゆく人影! やッ、彼奴あいつだ! 彼奴が引返してきたのだ!
 そのあとからバラバラと追ってきたのは、帆村ほむらだった。
「元気をだせ! 走れ、早く!」
 と帆村は私の方に投げつけるように叫んで、怪人物の跡を追った。そのあとから、真夜中ながら弥次馬やじうまのおしよせてくる気配けはいがした。私は弥次馬に追越されたくなかったので、驀地まっしぐらに駈けだした。今度は大丈夫走れるぞと思った。
 その鼠のような怪青年は、目にとまらぬ速さで逃げまわった。街燈が黄色い光を斜になげかけている町角をヒョイと曲るたびに、
「ソレあすこだ!」
 と、怪青年の黒影こくえいが、ぱッと目に入るだけだった。私達と弥次馬とは、ずっと間隔かんかくができてしまった。そして、いつの間にか、まるうちりの、ほりちかくまで来ているのに気がついた。
「あッ、しめた。袋小路ふくろこうじへ入ったぞ。彼奴あいつが、ひっかえしてくるところをおさえるんだッ」
 帆村の声に、私は最後の五分間的な力走りきそうをつづけた。果然かぜんその袋小路の入口へきた。
「待て!」
 帆村は、その入口に忍びよると、倒れるように地にってそッと下の方から、袋小路をのぞきこんだ。
 三十秒、四十秒、五十秒、帆村は動かない。
 三分もってから、帆村は塵を払って立ちあがった。彼は私の耳許でささやいた。
 コートのえりを立て、巻煙草を口にくわえた酔漢すいかんが二人、腕を組みあって、ノッシ、ノッシと、袋小路にまぎれこんだ――勿論、帆村と私とだった。
 その袋小路は、ものの五十メートルとなかった。両側に三軒ずつの家があった。右側は、みな仕舞屋しもたやばかりで、すでに戸を締めている。左側は表通りと連続して、古い煉瓦建の三階建があって、カフェをやっているらしく、ほの暗い入口が見える。その奥は、がっちりした和風建築の二階家で、これも戸が閉まっている。この袋小路のつきあたりは、おほりだった。
 そんなわけで、起きているのはカフェばかりだった。
 私達は、カフェ・ドラゴンとネオンサインで書かれてある入口をのぞいてみた。
「まア、いい御気嫌ごきげんね、ホホッ」
 誰も居ないと思った入口の、造花ぞうかの蔭に女がいた。僕は帆村の腕をキュッと握りしめて緊張した。
「君、君ンとこは、まだ飲ませるだろうな」
「モチよ、よってらっしゃい」
「おいきた。友達甲斐がいに、もう一軒だけ、つきあってくんろ、いいかッ」
 帆村が、私の顔の前で、酔払よっぱらいらしくグニャリとした手首をふった。私にはその意味がすぐわかったのだった。
 入口へ入ろうとすると、
「おッとっとッ」
 急に帆村は、私の腕をもいで、つかつかとお濠端ほりばたまででると、前をまくって、シャーシャー音をたてて小便をした。帆村のやつ、小便にかこつけて、お濠の形勢をうかがっていることは、私にはよく判った。
 入ってみると、そこは何の変哲へんてつもないカフェだった。広いと思ったのは、表だけで、莫迦ばか奥行おくゆきのない家だった。帆村は先登せんとうに立って、ノコノコ三階まで上った。各階に客は四五人ずついたが、私達の探している相手らしいものの姿は、どこにも見当らなかった。
「なに召上って?」
 入口にいた女給が、三階までついてきた。
「ビールだ。で、君の名前は?」
「マリ子って、いうわ、どうぞよろしく」
 イートン・クロップのお河童頭かっぱあたまがよく似合う子だった。前髪が、切長きれながすずしい眼とスレスレのところまでれていた。なによりも可愛いのは、その、発育しきらないようなあごだった。
「おいマリちゃん」すかさず帆村が、彼女の名を呼んだ。「ここ、特別室スペシャル・ルームがあるんだろう。地下室か、なんかに、そこへ案内しろよ」
「地下室なんて、ないわよ。この三階がスペシャルなんじゃないの、ホホッ」
 と、やりかえして、マリ子は下へ降りていった。
 煙草の箱を探そうと思ってポケットへつきこんだ指先に、カチリと硬い物が当ったので、私は思いだした。
「おい、戦利品せんりひんだ」私は、帆村の脇腹わきっぱらをつついて置いてから例の男の上衣うわぎから失敬したものを、卓子テーブルの下にソッと取り出した。
「なんだか、薬壜くすりびんのようだネ」万事ばんじ了解りょうかいしたらしい様子の帆村が、低声こごえで云った。
「レッテルが貼ってある。ボラギノール」と私はかろうじて、薬の名を読んだ。
「ボラギノールって、の薬じゃないか」
 帆村は、謎々なぞなぞ新題しんだいにぶつかったような顔付をして、一寸ちょっと首を曲げた。
 そこへマリ子がバタバタ階段をあがってくる気配がしたので、私は帆村に、あとを聞いてみる余裕もなく、その薬壜をまた元のポケットにしまいこんだ。


     2


 小石川こいしかわ音羽おとわに近く、鼠坂ねずみざかという有名な坂があった。その坂は、音羽の方から、小日向台町こひなただいまちの方へ向って、登り坂となっているのであるが、道幅が二メートルほどの至って狭い坂だった。登り口のところではそうでもないが、三丁ほど登ったところで、誰もがこの坂にかかったことを後悔するであろう。それというのが、この名うての坂は、そのあたりから急に傾斜がひどくなって、足が自然に動かなくなる。そのうえに、路がだんだん泥濘ぬかってきて、一歩力を入れてのぼると、二歩ズルズルと滑りおちるという風だった。それをそば棒杭ぼうぐいつかまってやっと身体を支え、ハアハア息を切るのだった。気がついてあたりを見廻わすと、こわそも如何に、高野山こうやさんまぎれこんだのではないかとおどろくほど、杉やけやき老樹ろうじゅが太い幹を重ねあって亭々ていていそびえ、首をあげて天のある方角を仰いでも僅か一メートル四方の空も見えないのだった。そして急にえとした山気さんきのようなものが、ゾッと脊筋せすじに感じる。そのとき人は、その急坂きゅうはんに鼠の姿を見るだろう。その鼠は、あの敏捷びんしょうさをもってしても、このぬらぬらした急坂を駈けのぼることができないで、いたずらにあえいでいる――これが鼠坂ねずみざかという名のついたいわれであった。
 この坂の、のぼることも降りることも躊躇ちゅうちょされる、その中途に、さらに細い道が横に切ってあって、その奥にちかかった門柱が見える家があった。その家の門は、月のうち、二三日を除いて、滅多めったに開かれることがなかった。門の鈴がリリリンとえた音をさせる日は、大抵たいてい月の上旬にきまっていた。もし気をつけて垣の間からうかがっているならば、訪客は夜分やぶんにかぎり、そして年齢のころは皆、四十から下の比較的わかい男女であって、いずれも相当の身姿みなりをしていることが判ったであろう。
 帆村探偵も、その夜の客にまじっていたのだった。
 彼は階下の待合室で、順番を待っていた。一座には、はかまをはいてあごの先にひげを生やしている男が、しきりに心霊しんれいの物理学について論じていた。その隣りには、半年前に夫をうしなったというまだ艶々つやつやしい未亡人だの、そのめいにあたるという若い女だのが居流いながれていた。帆村はひとり離れて下座しもざにいた。手を伸ばすと、寒そうに光っている廊下がれる。その廊下を出ると幅の狭い段梯子だんばしごが、二階へつづいていた。
「ボワーン」
 と小さい銅鑼どらをうったような音響が、その段梯子の上から流れてきた。
「貴方の番ですよ」
 と、頤髯あごひげのある男がおしゃべりを中止して、帆村の方に合図あいずをした。
 帆村は恭々うやうやしく頭を下げると、しびれのする脚を伸ばして立ちあがった。
 階下の明るさにくらべて、段梯子のうえは、暗闇にちかかった。彼は手さぐりに、のぼって行った。最後の段をのぼりきると、目の前には異様な光景が浮びあがったのだった。
 十畳敷ほどの間が二つ、障子しょうじがあいていた。薄ぼんやりと明りがついている。小さいネオンとうが、シェードのうちに、桃色ももいろかすかな光線をだしていた。とこを背に、こっちを向いて坐っているのは、婦人だった。暗くてよくは判らないが若くはない。その隣には、懐中電燈のった小机こづくえを前にして頭の禿げあがった老人がいた。もう二人、背広姿の若い男がいて、これは婦人の前にかしこまっていた。
「では大竹さん」と老人は、隣の夫人に呼びかけた。
ついでに、も一つやってあげて下さい」
 大竹さんと呼ばれた婦人は、無言でうなずいた。そのとき横顔がチラリと見えたが、四十を二つ三つ越したかと思われるブクブクとえた中年女であることがわかった。
 あとそれにつづいて二人の背広男が、丁寧ていねいに頭を下げた。
あとのかた、まことに済みませんが、もう一つやりますから、少々お待ち下さい」
 老人の静かな声に、帆村もまた無言で応諾おうだくした。
 老人は席を立って、婦人の前にピタリと坐った。右手を婦人のひたいにあげていたが、やがてソッと引くと今度はてのひらを組み、胸のまえで上下に強く振った。
「昭和四年二月十八日歿ぼっす、俗名ぞくみょう宗清民そうせいみんの霊……」
 老人の皺枯しわがれた声が終るか終らないうちに、
「ううッ、ああア」
 と、大竹女史が呻声うめきごえをあげた。
「それ出ました。声をおかけなさい」
 と老人は手をあげて二人に合図をすると、元の小机こづくえの前にかえっていった。
そう先生ですか」
 声をかけたのは、三十四五の男の方だった。
「わしは宗じゃ。今忙しいからあとにこい」大竹女史が目をじたまま、男の声で答えた。
「先生、こっちは曽我貞一そがていいちです。神田仁太郎かんだにたろうを連れてあがりました」
「曽我貞一に、神田仁太郎? そんな名は知らぬぞ」
 男はそのとき何やら早口に云ったのだが、なにか外国語のようでもあり、なんの意味か判らなかった。しかし大竹女史は、喜びの表情をあらわして、答えた。
「わかった。なるほど曽我と神田か」と云ったが、そのあとで急に顔をしかめて、「わしは胸が苦しくてならん」と云った。
「それは先生」曽我貞一と名乗る男は一寸ちょっと云いよどんだが、「先生は御臨終ごりんじゅうの苦しみを続けていらっしゃるのです。目をおましなさい」
「なに臨終だァ? 莫迦ばかをいいなさい生きているものをつかまえて、臨終とは何ごとかッ」大竹女史は、男のようなけわしい顔付をして叫んだ。
「先生は、もうくの昔に死の世界にゆかれました。もう三年も前にくなられたのです」
「わしが死んだ? 死んだものが、お前の顔を見たり、こうやってベラベラしゃべられるかい。ハッハッハッ」女史は、目をじたまま後へりかえって笑った。隣の老人がおどろいて、女史の身体を後からささえたほどだった。
「いえ先生は既に亡くなられました。今日はそれをお教えして、死後の御立命ごりつめいをおすすめに来たのです。先生には死んだような気がなさいませんか」
「そういわれると、どうも、におちないこともあるんだが……」女史は、首をすこし曲げて、何事かを考えている風だった。
「宗先生、試みに、御自分の体を触ってごらんなさい」
 女史は、自分の胸のあたりに両腕を組むようにしてそこらをでるのだった。
「わかりますか、先生、胸のところに、乳房ちぶさがありましょう」
「ほほウ、これはおかしい」女史は自分の乳房を着物の上からギュッと握りしめて不審気いぶかしげであった。
「先生は、幅の広い帯をしめて居られる。太腰ふとごしのまわり、柔らかい膝、そして先生の頭には、豊かな黒髪がある!」
 曽我貞一の言葉につれて、女史は手を動かして、あるいは腰のまわりに恐ろしそうに触れ、膝を押していたが、最後に両手をあげて、房々ふさふさとした束髪そくはつおさえたときに、
「キャッ」
 と一声いっせいわめいた。女史は極度に興奮してその場に立ちあがろうとするのを、隣席の老人は笑いながら後から抱きついて止めた。
ッ、これは女の身体だッ。女の身体だッ。おお、わしの身体を、何処へやった。わしの身体をかえせ!」
 女史は、すそみだれるのも気がつかず、われとわが身を、かき※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしった。
「先生、合点がてんがゆかれましたか」曽我貞一が憎いほど落付いた態度で云った。「先生の身体は、もう亡くなっているのです。それは、先生の霊を生前せいぜんへお迎えするために使っている霊媒メディウムの御婦人の身体なのです。お判りですか」
「なに、霊媒メディウム? これはわしの魂が乗り移っている霊媒の婦人の肉体だというのか。ああ……」女史は頭をかかえて、其の場にうつむいた。やがてその下から泣き声がれてきた。けだものの叫びごえに似た怪しい響をもった泣き声だった。
「ああ、いつの間にか、わしは死んでいた!」
 女史は、なげきのあまりか、容易に身が起せないようであった。
「どうです。今日は、その辺でめておいては……」隣席の老人が、二人に注意した。
 曽我貞一は、連れの神田の興奮に青ざめたような顔をチラリと見たうえで、老人に、止めることを頼んだ。
 老人は、再び大竹女史の前に膝をつくと、何やら呪文じゅもんのようなものを唱え、女史の額のへんを二三度、撫でるようにした。
 女史は、元の女らしさに立帰って、静かに上体を起した。そしてケロリとした顔で、一座を眺めると、やや気まり悪そうに、はだけた前をかきあわせたのだった。
 二人の背広男は、このとき丁寧ていねいなお辞儀をすると、席を立った。場慣ばなれているらしく、始終しじゅうベラベラしゃべった曽我貞一という男、それに反して一語も発しないで、ただ興奮に青ざめていたような神田仁太郎と呼ばれた若い方の男――帆村はそれをぼんやりと見送っているような顔付をしていたが、その実、彼の全身の神経は、網膜もうまくの裏から、機関銃を離れた銃丸たまのように、両人目懸けて落下していたのだった。
     *   *   *
「そのときの若い方のが、昨夜、銀座裏で逢ったの男なのさ」帆村は、抽出ひきだしのなかから新しいホープの紙函かみばこをとりだすと、そう云った。
「神田仁太郎という男だネ」そういって、私は、帆村の室にかかっているブコバックの裸体画らたいがが、正午ちかい陽光ようこうをうけて、まぶしそうなのを見た。
「あの袋小路には、カラクリがある」
「どんなカラクリだい」
「そいつは判らん。だが追々おいおいわかってくるだろう」
「神田仁太郎のことなら、小石川の、その何というのか心霊実験会しんれいじっけんかいみたいなところでけばわかりやしないか」
「既にさっき調べてきた」帆村は苦りきって云うのだった。
「無論、住所は二人とも出鱈目でたらめだった」
「あの神田という青年は、なんだって、あんな恰好で銀座裏なんかに現われたのだい。あれは神田氏だけの問題なので、気が変になったとか或いは酔払よっぱらっていたとか(ここで私はクスリと忍び笑いをしなければならなかった)そういったことだけなのか。それともあれが、もっと大きな事件の一切断面いっさいだんめんだとでも云うのかい」
「もちろん事件だ」帆村は言下げんかに答えた。「わるくすると、われわれの想像できないような大事件かも知れない」
「そんなことは、どうして判るのかい」と私は、帆村が迷惑めいわくかも知れないと思ったが、率直にたずねた。
「それには色々の理由がある」帆村は、やっと気がついたように、一本の紙巻煙草をぬきだして、口にくわえた。「まず、あの怪青年の顔だ。あんなに特徴のある立派な顔は、珍らしいと思う。あれで悄悴しょうすいしていなかったら、貴人きじんの顔だよ。それから例の心霊実験会だ。遂に一語いちごかなかった怪青年と落付いてしゃべっていた曽我という男との間に、ほのかに感ぜられる特殊の関係、それにあの不思議な実験だ。また銀座裏で怪青年が僕になげつけた言葉は、戦慄せんりつなしに聴くことはできない。何か怖ろしいことが、げんに発生している」
「君は、僕のいだ目のめるようなにおいのことも忘れちゃいないだろうネ」
「うん、あれは僕の想像に、裏書うらがきをしてくれるようなものだ」
「ボラギノールの薬壜くすりびんは?」
「ボラギノールの薬壜? そいつは僕の眼前がんぜんに見えるタッタ一本の縄だ、この一本の縄があるばかりに、僕はたちまち今日から何をなすべきかということを教えられている」
「それで何をしようというのだい」
「明日から当分、午前九時から午後一時まで、君はこの事務所へきて、僕の代りに留守番をしていてくれたまえ」
「それで君は?」
 帆村はそれに答えず、煙草に火をつけると、パッパッとうまそうに吸った。
「君はカフェ・ドラゴンの女給がだいぶん、気に入ったようだったネ」帆村は、人の悪そうなわらいをうかべて、私を揶揄からかった。
「ああ、マリ子のことかい」私は、しらばっくれて、云ってやった。「あの子は、この事件に無関係だと思うがネ」
「マリ子のことは、そっとして置いて」と帆村は急に顔面をこわばらせて云った。「あの古煉瓦建ふるれんがだてのカフェ・ドラゴンだが今朝起きぬけに、あの濠向うの仁寿じんじゅビルの屋上へ、測量器械を立てて、望遠鏡で測ってきた」
「ほほう」私は彼の手廻しのよいのにおどろかされた。
「だが遺憾いかんながら、昨夜目測もくそくした室の面積に、煉瓦壁れんがへきの厚さを加えただけの数値しか、出てこなかった。つまり、隠し部屋があるだろうと思ったが、間違いだった」
 私は感歎かんたんのあまり、黙ってうなずいた。
「その代り、すばらしい拾いものをした」
「む、なにを拾ったネ」
「カフェ・ドラゴンと、泥船どろぶねが沢山もやっているお濠との間に、脊の高い日本風の家がある。ところがこの家の二階の屋根にすこしふくれたところがある。鳥渡ちょっとたくらいでは別に気がつかないほどの膨らみだ。トランシットでビルディングの上から仔細しさいに観察してみると、その膨れた屋根は隣のカフェの煉瓦壁れんがへきのところで止っている。僕の眼は、煉瓦壁の上をスルスルってカフェ・ドラゴンの屋根に登っていった。すると其処そこに、大きな煉瓦積の煙突えんとつがあるのだ。ところがこの煙突の根元へ焦点しょうてんわせてみて判ったことだが、灰色のモルタルの色で、この煙突だけは、つい最近出来たものだということが判った。これは面白いことだ。あの二階家にかいやを建てたためにあの煙突ができたと考えることはどうだろう。その次には、二階家につけるはずの煙突を、どうしてとなりにつけたのかと考えてはどうであろうか。さらにもう一つ、日本建の二階家になぜ煙突が入用いりようなのであるかと考えては、いけないであろうか」
 帆村は陶酔とうすい的口調で私に聴かせているのではなく、彼自身の心に聞かせているのであることが明らかだった。
「すると、そのあたりに、怪青年が隠れているというんだね」
「うん、一度入った者は、いつかは出てこなければならない。そうだろう。あとは根気競こんきくらべだ」


     3


 青年漢于仁かんうじんは、今日も窓のそばに、椅子をよせて、遙かに光る西湖せいこの風景を眺めていた。
 空はコバルトに晴れ、雲の影もなかった。このごろは毎日お天気つづきだった。
 湖の左手には、まゆずみをグッとひきのばしたように、蘇提そてい延々えんえんと続いていた。ややその右によって宝石山ほうせきざんの姿がくっきりと盛上り、保叔塔ほしゅくとうらしい影が、天をしていた。いつ見てもうるわしい西湖せいこの風景だった。
 だが、いつ見ても変らぬ風景だったことが、漢于仁かんうじんには物足りなかった。それにこの室の窓は、非常に厚い壁をへだてた彼方に開いていたので、自然しぜん、視界が狭く、窓下そうかのぞくこともかなわなかった。
 この室は、漢于仁の故郷であるところの浙江省せっこうしょう杭州こうしゅうの郊外、万松嶺ばんしょうれいの上に立つ、直立二百尺の楼台ろうだいのうちにあって、しかもその一番高いところにあった。近代風の試みから、この室の天井は、厚い曇り硝子ガラスを貼りつめてあるので、日中は朝から晩まで、陽の光がさし、硝子をとおして大空の青さが見えるようであった。
 せめてこの室の南側なんそくに、もう一つの小窓でもあいていたら、そこからは、風致上ふうちじょうよろしくはないかも知れないが、銭塘江せんとうこうにぎやかな河面かめんが、近眼の彼にも、薄ぼんやり見えたことであろう。
(何故、自分の先祖は、この楼台ろうだいの頂上に、たった一つの小窓しか、明けなかったのだろう)
 漢于仁は、今から一千年も前に、この地を選んで、大土木工事を起した呉王ごおうの意中を測りかねた。だが当時は、唐の壊滅をうけたあとの乱国時代のことだから、いつ呉王をねらって敵国の軍勢が、攻めよせてくまいものでもなかった筈だ。そのときに、鳴弦楼めいげんろうと呼ばれるこの高塔は、望遠鏡の力を借りて四十里彼方かなたに蟻の動くのも手にとるように判ったことだろうし、よしんば敵軍がこの塔下に迫って、矢を射かけても、あたりは十尺もあろうという厚い壁体へきたいだし、開いている窓はたった一つであるから、一筋の矢を送りこむことも不可能だったことだろう。そこに先祖せんぞの用心があったかもしれないのだった。
 だが、今となっては、のろいの小窓以外の、何ものでもない。
「もっとも、私はもう死んでいる身なのだ」
 漢于仁は、そこで大きな溜息ためいきを一つついたのだった。
 帆村探偵が、漢于仁の顔を見たらば、どんなに驚くことだろう。それは、いつか鼠坂ねずみざか心霊しんれい実験会で逢い、それからのち、真夜中の銀座裏で突飛とっぴな質問を浴せかけたあの神田仁太郎という怪青年に瓜二つの顔だったから。しかし、あれは日本での出来ごとだった。ここは疑いもなく、西へ五百里もへだった中華民国は浙江省せっこうしょうでの話だった。
 漢青年は、またいつものように、あの不思議な日以来の出来事を復習し、隅から隅まで緻密ちみつな注意を走らせてみるのだった。
 その頃、彼は故郷の杭州を亡命して、孫火庭そんかていという家扶かふと共に、大日本の東京に、日を送っていた。日本へ渡ったときは、まだ小さい少年だったので、日本語を覚えるのに余り苦労をしなかった。彼はいつしか、家扶の孫火庭がつけてくれた日本名の神田仁太郎という名を愛していた。孫火庭自身も日本人らしく曽我貞一と名乗って、中国人らしい顔色を何処かに振りおとしていた。
 二人の生活は、出来るだけ質素しっそむねとした。孫火庭は、中国料理のコックと称して、方々の料理店を渡りあるいた。そのとき、漢少年を自分のおいだと称して、一緒につれあるいたのだった。
 この数年は、丸の内のおほり近くにあるカフェ・ドラゴンを買いとって、二人は行いすましていた。漢于仁かんうじんは少年期をとびこして、いつしか立派な青年となっていた。そしてその瀟洒しょうしゃたる風采ふうさい偉貌いぼうとは、おのずから貴人きじんすえであることを現わしているかのようであった。彼は、いつとなく、銀座や新宿のカフェ街に出入することを覚えてしまった。彼の男らしい容姿と、豊かなポケット・マネーは、どの店でも女給達をワッワッと騒がせずには置かなかった。
 彼は、孫火庭の忠言も、どこに吹くかというような顔をして、毎日毎夜、東京中をとびまわるのに夢中だった。彼はついに一台の高級クーペを買いこむと、簡単に乙種おつしゅ運転手の免状をとり、その翌日からは、東京市内は勿論のこと、横浜の本牧海岸ほんもくかいがん、さては鎌倉から遠く小田原あたりへまでもドライブした。その結果、彼はらずらずのうちに、スピード狂になっていた。時速四十マイルなどは、お茶の子サイサイであった。警視庁の赤オートバイに追駆おいかけられたこともしばしばだったが、彼はいつも、鼻先でフフンと笑うと、時速六十五マイルという砲弾のようなスピードで、っという間に赤オートバイを豆粒位に小さくすることが慣例であって、その度毎に彼は鼻を高くした。
 恰度ちょうどそのころ、彼には鳥渡ちょっと気懸きがかりな事件が生じた。それは家扶かふ孫火庭そんかていが、一週間ばかりというものは、行方不明になったことだった。彼に行かれては、漢青年は浮木ふぼくにひとしかった。非常に心配して、行く末をいろいろと思いわずらっているところへ、孫火庭がヒョックリ帰ってきた。帰るには帰ってきたが、彼は二人の中国人を連れてきた。一人は、王妖順おうようじゅんといって、孫と似たりよったりの年頃で、もう一人は始めからマリ子と呼ぶ、まだ十七八の少女だった。彼等はほかへ宿をとるという風もなく、カフェ・ドラゴンに寝泊りするようになり、王は毎日外出して夜遅く帰って来る。一方マリ子と呼ぶ少女は、ドラゴンの女給となったのだった。
 そんなことは、漢青年にとって大した問題ではなかった。困ったのは、孫の鼻息が、急に荒くなったことだった。彼はことごとに文句を云った。そうかと思うと、彼は数回にわたって、心霊実験会へひっぱって行った。そこで、漢青年はいくにんとなく、死んだ知友ちゆうの霊と話をした「死後の世界」というものが、なんだか実在するように感ぜられて来たのだった。
 漢青年は「死」という問題に、段々と恐怖を覚えずには居られなかった。人間は、死んだのちでも、死んだことを意識しないでいるものだということが、心霊実験会の多くの実例によって、判ってきたのだった。そのことは一層、漢青年をおびやかした。彼は、京浜国道けいひんこくどうを六十マイルのスピードで走っていて、時々通行人をいたり、荷車に衝突して自分も相当の怪我をしたことが何回もあったことをかえりみて慄然りつぜんとした。ひょっとすると、あのうちのどの事件かで以て、自分は既に死んでしまったのではなかったか。
 そうした不安が、心の片隅に咲きだすと、見る見るうちに空をおお嵐雲らんうんのように拡がっていった。彼は異常の興奮に発汗はっかんしながら、まず胸部をおさえるのだった。それから、幅の広い帯を探し、臀部でんぶで、頭髪かみに触れてみた。もしや指の先に、大竹女史の身体が触ったなら、そのときは万事休すといわなければならない。
 いやいや、霊媒メディウムは、大竹女史に限ったことはないのだ。中には、男の霊媒もあることだった。どの霊媒を通じて、自分の霊魂が、娑婆しゃばを訪問するかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなかった。このごろでは自動車の運転も控え目にして、温和おとなしく、閉籠とじこもっている自室を出ると孫を呼んで、自分が生きているかどうかを、たずねてみた。
 孫の言葉だけでは物足りないときは、マリ子を呼んで、身体の一部にさわらせた。それでも自信が得られないときは、気が変になったようになって、深夜しんやの街を彷徨ほうこうし、逢う人逢う人に、自分が生きているかどうかを判定してくれるように頼むのだった。人々は誰もこの男を同情したり、恐ろしがったりした。
 帆村探偵との出会であいも、その発作中ほっさちゅうの出来事だった。
 だが、その内に、いよいよ本当の運命の日が来てしまった。
 ハッキリした記憶はない。何年何月何日だったかも知らない。漢青年が不図ふと眼をますと、彼は見慣れぬ寝床ねどこに睡っていたことを発見したのだった。明るい屋根の下のへやだった。グルリと見廻わすと、五間四方位の室だった。室内の調度は……。
「おおッ」
 と彼は叫んだ。よく見ると、いちいち、古い記憶のある調度ばかりだった。鶯色うぐいすいろ緞子どんす垂幕たれまく、「美人戯毬図びじんぎきゅうず」とした壁掛かべがけの刺繍ししゅう、さては誤って彼がふちいた花瓶までが、かつて覚えていたと同じ場所に、何事もなかったかのように澄しかえって並んでいたのだった。すると、この室は?
「これは、故郷の杭州に建っている鳴弦楼めいげんろうだ。少年時代に遊びくらした部屋ではないか、おお、あすこには、なつかしい小窓こまどがある。あの外には絵のように美しい西湖せいこが見えるのだ。見たい、見たい、生れ故郷の西湖を!」
 漢青年はムックリ起きようとして、ハッと顔色をかえた。手が無い、足も無いのだ。いや身体全体が無いのだ。「おお、これはどうしたことだ」
 彼は、気が変になったようになって、あたりを見廻した。室内の光景に、不思議はなかった。そして、いや、あった。あった。寝床の上に、彼の足が、長々と横たわっていた。胴もある。おお、手も見えるではないか。
 彼は、再び起きようと試みた。
 だが、驚いたことに、眼でみると、そこに在るに違いない手だの脚だのが、動かそうとなると、にわかに消えてなくなったように感じられるのだ。言葉を変えていうと、全身にすこしも知覚が無いとでも言おうか、いや、それとも少し違うようだ。
 気がつくと、枕頭まくらもとに人間が立っている。見ると一人ではない。三人だった。
 その顔には、覚えがあった。中国服に身を固めた孫火庭と王妖順だった。もう一人はピカピカする水色の絹でこしらえた婦人服のよく似合うマリ子だった。
「これは一体何事だい」
 と漢青年は呶鳴どなった。
「貴方様は、ついくなられました」
 と孫が、いつになくおだやかな口調くちょうで云った。
莫迦ばかを云うな。お前達がよく見えている」
「貴方様はお気付になりませんか」孫は顔を一尺ほどに近づけて云うのだった。「貴方様は京浜国道で、自動車を電柱に衝突なさいまして、御頓死ごとんし遊ばしましたのですぞ。貴方様は幽界ゆうかいにお入りになって、唯今ただいまから幻影げんえいを御覧になっています。われわれも、貴方様の霊のうちにのこる一個の幻影にすぎません。お疑いならば、お手をお触れ下さい」
 そう云って孫は、漢青年の手をとった。彼は自分の手がスウと持上って、孫火庭の身体を撫でているのを見た。しかし孫がそこにいることは、全く感ぜられなかった。青年は唇を噛んだ。
「御覧遊ばしませ。王もマリ子も、貴方様の幻想につれて、これから御意のままの御仕おつかえを致すでございましょう。それからあの小窓から、外をお眺めなさいませ、楚提そていが長くつらなっているのが見えます」
 漢青年は、気がつくと、いつの間にか窓辺まどべによっていた。そこから、西湖せいこの風光が懐しく彼の心を打った。こうして、漢青年の幻想生活が始まった。
 彼は、思い出したように食事をした。死んだものが食事をするとは、変ではないかと考えた。
「それは幻影だ。食事は永い間の習慣だ。そのような種類の幻影は、中々消えるものではない」どこかで、そうささやく者があるようだった。
 漢青年は、幻影を自由に楽しんだ。ことに彼にとって好ましかったのは、マリ子を傍近く呼んで、他愛のない話をしたり、そのはてには思切ったたわむれを演じてみるのだったが、マリ子はどんなひどいことにも反抗しないで、あらゆる彼の欲するところに従った。反抗のない生活――そこにも漢青年は、幽界ゆうかいらしい特徴を発見した。
 だが、それにもきてくると、彼はあらゆるものに注意を向けた。ことに彼を喜ばせたものは、音響だった。どんなかすかな音響であっても、彼は見遁みのがすことなく、その音響が何から来るものであるかについて、考えるのが楽しみになった。ことに、どうしたわけか、この楼台ろうだいが震動すると共に起る音響に対して、興味がひかれたのだった。うっかりしているときには、それを東京時代に経験した自動車の警笛けいてきのように聞いたり、或いは又、おほりの外に重いチェーンを降ろす浚渫船しゅんせつせんの響きのようにも聞いた。しかし、のちになって、それと気がつき、苦笑がこみあげてくるのだった。この杭州の片田舎に、円タクの警笛の響きもないものである。
 そのうちに彼は、知覚のまるで無い他人の手足のような四肢を、意のままに少しずつ動かすことを練習にかかった。それは彼の視覚の援助によって段々と正確に動いて行った。それは非常に大きい喜びに相違なかったのである。
 この調子で身体がうまく動くようになったら、彼は何にいても、この天井の硝子ガラス板をうち破り、そのあなから、楼上ろうじょうへ出てみたいと思った。そして広々としたあたりの風景を見るときのことを考えて、どんなに嬉しいだろうかと、胸をわくわくさせたのだった。
 ところが或日のこと、漢青年は困ったことに出逢ってしまった。それは不図ふと彼が、生前痔疾じしつを病んだことを思い出したのだった。気をつけていると、寝具しんぐや、床の上までもその不快な血痕けっこんが、点々として附着しているのを発見した。
 彼は驚いて、マリ子の幻影を呼ぶと、患部かんぶぬぐわせた。彼女の言葉によると、その痔疾は、かなりひどくなっているそうである。
 それだけならば、漢青年は、我慢をしているつもりだった。ところが彼は問題を惹起ひきおこさずにいられないことになったというのは、幾度いくたびもマリ子に、痔の清掃せいそうを命じているうちに、いままでのあらゆる彼の暴令に、唯の一度もいやな顔を見せたことのない彼女が、この痔疾の清掃には極度に眉をしかめていることに気がついたからであった。
 漢青年は遂に決心をして、家扶かふの孫火庭を呼んで、痔疾じしつの治療をしたいと云った。
 孫は非常に困ったような顔をしたが、
「何分ここは片田舎のことでございますから、杭州へ出まして医師を見つけて来ます間三日間お待ち下さいまし」
 と云った。
「何をいても、早くせい!」
 漢青年は家扶を激励したのだった。
 それから三日目のことだった。
 孫はニコニコして部屋に入ってくると、痔の医師を連れてきたことを報告したのち、
「この医師は、口が利けず、耳も聞こえませんから、何もお話しなさってはなりませぬぞ」
 と、おごそかな顔付をして附加えた。
 そこへ王妖順が、一人の不思議な男を案内してきた。色のせた古い型の長衣を着ていて、いつも口をモグモグさせては、ときどきチュッと音をさせて、真黒い唾をいた。それは多分、よほどみ煙草の好きな男なのだろう。彼はかびくさい鞄を開くと、ピカピカ光る手術道具をとりだした。王と孫が、漢青年の衣類を脱がせた。
(マリ子が居てくれればよいのに、マリ子はどこへ行ったのだろう)
 漢青年は、マリ子が今日は少しも顔を見せないのに不審をうった。
 孫と王とが、漢青年の両脚を抑えつけていると、その噛煙草ずきの医師は、メスを探すやら、ガーゼを絞るやらで、ひとりで手古舞てこまいをしていた。
 漢青年は、退屈を感じて、医師の顔ばかりみていた。ことにそのよく動く唇をあきれて眺めていた。
(これは変だな)
 と、漢青年は胸のなかでつぶやいた。寝台の下でガーゼをしぼっている医師の目は、何事かを彼に訴えるかのように、動いていた。そこの場所では、漢青年の脚を抑えている孫と王の視線が、全く届かないところだった。
 怪しい医師は、警告の目付をしたあとで、唇をビクビクと動かせた。
 漢青年は、しばらくその唇の動くのを見ていたが、
ッ)
 とばかりに、心中驚いた。それというのが、この怪しい医師の唇は、煙草を噛んでいると見せかけて、唇の運動がモールス符号をうっているのだった。それを一々判読してつづってみると次のような文句になった。
「シュジュツゴ、ガーゼヲトッテ、テガミヲミヨ」
「手術後、ガーゼを取って、手紙を見よ」この信号は、繰返くりかえし発信されたのだった。
 口の利けず、耳の聞えない医師は、最後に大きいガーゼをあてて、その周囲を絆創膏ばんそうこうで止めると、遂に一語も発しないで、部屋を出ていった。孫も王も、医師を見送るためにこの室から出た。
 漢青年にとって、チャンスは今だった。
 彼は手を伸ばすと、ガーゼを掴んだ。手を動かす練習をもうすこし遅く始めたのだったら、彼はこのチャンスを、むざむざとがしたかも知れないのだ。
 ガーゼの中には、果して小さく折った紙片しへんが入っていた。彼は口も使って苦心の結果、その手紙というのを開くことに成功した。そこには、漢青年の脳髄をしびらせるほどの重大なことがらがしたためてあった。
「今夜、電燈の消えるのを合図に、天井の硝子ガラス板を破って、のがれいでよ」
 漢青年は、三度ほど読みかえすと、その紙片を丸めて、ポンと口の内へ入れて、呑みこんだ。
 脱走せよ、という者がある。何者とも知れない。しかしこれも「死後の世界」に於ける幻想であろうか。
 これが生きているのだったら、軽々しい行動は考えなければならない。しかし、どうせ死んでいるものなら、二度と死ぬことはないだろう。無聊ぶりょうに困っている自分のことだ。ではやっつけろ――漢青年は決心した。
 だが、今はまだ日中にっちゅうである。西湖の方を眺めると、湖面がキラキラと光っている。屋根の硝子天井の上からは、強い太陽の光線が、部屋中いっぱいにさしこんでいる。脱走しろという、夜分やぶんになるのは中々だ。
 そう思って、漢青年は窓によりかかったまま、硝子天井のどの辺を破ってやろうかと上を見た。
 そのときだった。
 まさにそのときだった。
 これが、天変地異てんぺんちいと、いうものだろうか。
 奇蹟! とは、この事であろうか。
 信ぜられない! 信ぜられない!
ッ!」
 漢青年が見上げていた硝子ガラス天井が、突然真暗まっくらになった。あの、カンカン日の当っていた硝子天井が、一瞬間に光を失ってしまったのだ!
 漢青年の毛髪は、あまりの恐ろしさのために、まるで針鼠はりねずみのように逆立さかだった。
真逆まさか!」
 窓の外を見ようとして振返ったが、そこには同じような暗黒があるばかりで、あの絵のような美しい西湖の姿は、どこにもなかった。
 室内全体が、真暗まっくらだった。
 こんな馬鹿げたことはない。漢青年は、自分の視力が一瞬に亡びたのかと思った。
 それとも太陽が、突如として消滅し、世界が真暗闇にかえったのかとも思った。
「ドドドーン」
 という音響をきいたと思った。
 漢青年は、ハッと気がついた。
「今夜の停電というのが、これだ。そしてこれには、何か根本的の誤謬ごびゅうがある!」
 彼は持っていたニッケルの文鎮ぶんちんを、ヤッと天井と思われる方向めがけて、投げあげた。
 ガラガラと、硝子天井が崩れる音がした。
 その途端に、パッと明るくなった。
 二度目の奇蹟! 太陽は再び珊々さんさんたる光線を硝子天井の上に降りそそいだ。
「畜生! こんなカラクリに、ひとをだましやがってッ!」
 漢青年は、こわれた天井の間から大空を見あげると、そこにはあおい大空のかわりに、もう一層の天井があって、この二つの天井の間に燭力しょくりょくの強い電球がいくつも点いているのが見えた。ああ、この偽瞞ぎまんにみちたインチキ日光に、青年は幾日幾月いくげつを憧れたことだったろう。
 彼は一つうなづくと素早すばやく、西湖せいこを望む窓辺に駈けより、重い花壜かびん※止はっし[#「てへん+発」、304-下-4]となげつけた。ガタリという物音がして、西湖の空のあたりが、二つに裂けて倒れた。これは、近視眼きんしがんの漢青年を利用したパノラマでしかなかったことが暴露ばくろされたのだった。
 外には、どうやら喊声かんせいがあがっているような気配だった。
 だが、どうしたのか、孫も王も、それからマリ子も上ってくる様子がなかった。漢青年は、片手にハンマーをつかむとヒラリと寝台の上に飛びあがり、やッと声をかけると、天井裏にとびついた。彼の全身にはエネルギーが、はちきれるようにあふれているのが感ぜられた。
 彼の手に握られたハンマーは、天井板を木葉微塵こっぱみじんくだいていった。彼は勢いにまかせ、ドンドン上に向って出ていった。
 壁土かべつちのようなものがバラバラと落ち、ガラガラと屋根瓦やねがわらが墜落すると、そのあとから、冷え冷えとする夜気やきが入ってきた。漢青年はそのあなからヒラリと外に飛び出したのだった。
「おお、これは」
 それは見覚えのある銀座裏の袋小路ふくろこうじ相違そういなかった。彼の立っているのは、カフェ・ドラゴンとおほりとの間にある日本だての二階家の屋根だった。ハンマーで打ちぬいて来たのは、一部がとなりの煙突にぬける換気孔かんきこうだった。それは漢青年をして、杭州にある気持を抱かせるについて、二階家の中に建築した彼の密閉室みっぺいしつ換気かんきを行う装置だった。
 しかし、いつもの夜の銀座裏と違うところがあった。
 それは、家の周囲に、幾千人の群集が集っていて、ワッワッと四方へ波のように動いていることだった。どこから射つのやら、ときどきヒューッとうなって、銃丸じゅうがんが耳をかすめて飛び去った。
「おお、此処ここにいましたね、漢于仁かんうじん君」
 いきなり漢青年の背後から声をかけたものがあった。彼はギョッとして、振向くとそこには夜目よめにもそれと判る人の姿があった。それは、例の怪しい医師だった。
「これは一体、どうしたことなのです。そして君は誰です」漢青年の声は火のようであった。
「あなたの祖先そせんの地が、漢于仁君の帰国を待っています」その怪しい医師はパキパキした声で云った。
「なに!」
「一刻も早く御帰国なさい。だが此所ここで御覧のとおり、事態は極度に悪化しています。のがれる路は唯一つ、おほりをくぐって、山下橋やましたばしへ」
 怪しい医師は、小さい包を、漢青年にソッと握らせた。青年は、その手を無言むごんうちに、強く握りかえすと、そのままツツと屋根の上を走ると見る間に、ひらりと身を躍らせて、飛び降りた。大きな水音がきこえると、の怪しい医師は、暗闇の中に、ニッと微笑したのだった。


     4


「昨夜の事件は、当分記事禁止らしいね」私は、片手を繃帯ほうたいで痛々しく釣った帆村に云った。
「それほどのことでもないが」と帆村はニヤリと笑った。
「こっちで騒ぎを大きくしたようなものさ」
「ボラギノール一壜ひとびんで、君があんなに器用な真似をするとは思わなかった」
「君があの壜を拾ってくれなかったら、この事件は今頃どうなっていたか、しれやしない」帆村は、大きく溜息ためいきをついて、そこに脱ぎすててある中国医師の服装の上に目を落とした。
「だが孫火庭が呼びに来てくれるまでは、気が気じゃなかった」
「あの風変りな新聞広告が、きいたのだね」
「ふふ」なにを思いだしたのか、帆村が笑った。久振ひさしぶりに見る彼の笑顔だった。
「漢青年は、うまく脱走したかなァ」
大抵たいてい大丈夫だろう」
 帆村は大して心配していない様子だった。
「それにしても、どうして孫火庭は、漢青年にそむいたんだ」
「大きな金と名誉とを握らされたんだよ」彼は嘔出はきだすように云った。「中華民国の崩壊をなんとかして支えようという某要人ぼうようじんが、孫を買収したのだ。王妖順はその要人の一味だ。もし漢青年が今日こんにちのように切迫せっぱくした時局を知ったなら、彼はどころ故山こざんに帰り、揚子江ようすこう銭塘口せんとうこうとの下流一帯を糾合きゅうごうして、一千年前のの王国を興したことだろう。それは中国の心臓を漢青年に握られるようなものだ。だから当分のうち時局の切迫を漢青年にしらせずに置くことが、必要だったのだ。そうかと云って、彼の生命をつことは、今日あの辺に巨富きょふようしている大人連たいじんれんの怒りを買うことであって、それは不利益だ。そこで漢青年を、ソッと幽閉ゆうへいして置くことになったのだ。それも普通の方法では、漢青年の疑惑を避けることができないから、あのような面倒な道具建どうぐだてをし、の青年の知覚を鈍麻どんまさせて、あの狂言をうったのさ。これは中国人でなければできない用意周到ぶりだよ」
「すると、マリ子という女は、一体どうしたわけのひとなんだね」
「あれは、すこしばかりもうけ仕事をした女にすぎない。無論中国人ではなく、われわれと同じ国籍をもっているんだよ。事件の中に若い女が一人とびだすと、すぐその女が主人公ヒロインになってしまうことが世間には多いが、今度の事件では彼女は一個のワンサ・ガールに過ぎなかった。殺人がなかったことと、それとが、今度の事件の二つの特異性だったとでも、こじつけ迷説めいせつかかげて置くかね。はっはっは」





底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1932(昭和7)年4月号
入力:浦山聖子
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について