1
近頃での一番さむい夜だった。
暦のうちでは、まだ秋のなかに数えられる日だったけれど、太陽の黒点のせいでもあろうか、寒暖計の水銀柱はグンと下の方へ
「ウウウン、今夜は
といったような意味の独言を吐いたのだった。
猟奇趣味が高じて道楽に
大東京の心臓がここに埋まっていると謂われる繁栄の新宿街も、この時間には、まるで湖の底に沈んだ廃都のような感があった。グロテスクな装飾をもった背の高い建物は、
アスファルトの舗道に、凍りつきそうな靴を、とられまいとして、もぐような足どりの帆村荘六だった。
「鐘わァ鳴ァる、鐘わァ鳴ァるゥ。マロニィエのオ……」
どうやら彼はいい気持でいるらしい。傍へよってみると、ジョニー・ウォーカーの香がプンプンすることであろう。どこから今時分でてきたのか知らないが、多分代々木あたりの友人の宅での徹夜
身体がヨロヨロと横へ傾いた拍子に、灯のついていない街灯の鉄柱がブーンと向うから飛んできたように思った。こいつは奇怪なりと、やッとそいつを両腕でうけとめたが、ゴツリと鈍い音がして頭部をぶっつけてしまった。その拍子に正気にかえった。
「おお、つめたい」
そう言って彼は、両手を鉄柱から離した。抱きついた鉄柱は氷のように冷えていた。うっかりそれを抱えた両手は急に熱を奪われて感覚を失い
「氷柱ができるような夜かいな」
眼をこすりこすり幾度も見直しているうちに、帆村はウフウフ笑いだした。
「なアんだ、ネオンサインか。そして此処は正しくネオン横丁。わしゃ、すこし酔ってるね」
それは、新宿第一のカフェ街、通称ネオン横丁とよばれる通りだった。氷柱と見えたのは、消えているネオンサインの硝子管だった。これがまだ宵のうちであれば、赤、青、緑の色彩うるわしい
彼は鉄柱の傍を離れると、なおも
「おや、なんだろう……」
夜の静寂を破って、ドターンというような音響が、突然彼の鼓膜をうった。それは急にどんなものがたてた音であると言い当てられない程の、やや鈍い、さまで大きくない音であって、どうやら、彼の背後一二丁のところから響いてきたように思われたのだった。彼は半ば探偵意識を活躍させながら、一方ではその意識を浅ましく舌打ちしながら、後方をずっと見渡して、またもや別な物音がするかしらと耳を澄ましていたが、それから後はカタリとも音がせず、先刻鼓膜をうった音でさえ静寂の中にとけこんで、あれは自分の耳鳴りであったろうかと疑われるのだった。五分、六分、七分……。
「
ネオン横丁の出口にあたる四ツ角の、薄暗い光の下に、何者とも知れぬ人影がパッと映ったが、忽ち身を飜して電車道の横丁へ走りこんだ。その人影は帆村荘六の醒めきらぬ眼にハッキリした印象をのこさなかったが、和服を
「事件だ!」
彼はそう叫ぶと、今度こそは本当に正気になって、あの人影がうつったネオン横丁の出口をめがけてバタバタと駈けだした。その四ツ角から左に曲って、人影を追ったがどうしたものか、どこにもその姿は見当らなかった。電車道を越えて、小路の多い大久保の方へ逃げこんだものと見える。そうだとすると、追跡は全く不可能になる。
帆村は追跡をあきらめて、元の横丁へ、とってかえした。いまの人影は、どこから出てきたのだろう。それから例の怪音は、どの家から発したのだろう。どこかそのあたりに、今にも
彼は怪音の出所を、ネオン横丁と断定した。それでその横丁にとびこむと、向うの端まで家並を、ザッと一と通り睨みながら、通りぬけたが、入口の扉や、窓などが開いている家は一軒もなかった。
(こいつは間違ったかな)
そう思いながら、こんどは両側の窓下と戸口を一々丁寧に見てゆくことにした。彼の
「人殺しィ。うわぁ、誰かきて……」
イキナリ帆村の頭の上で、婦人の金切声があった。それは丁度、四軒目のカフェ・アルゴンの前だった。悲鳴は、その三階と覚しいあたりから発したようだった。
「うん、
帆村荘六の酔いは完全に醒めてしまった。彼はドシンドシンと、カフェ・アルゴンの扉に身をぶっつけた。扉は意外に苦もなくパタリと開いた。近所では、やっと気がついたものとみえて、窓をあける音や、人声や、下駄のかち合う音が、そこら近所に騒々しく湧きおこった。
帆村が一歩足を踏みこんだところで、靴先にカタリと当たる何物かを蹴とばした。懐中電灯で探してみると、それはダンディ好みの
店をとおりすぎ、洋酒瓶の並ぶうしろに、三階へつづく
「やあ、――」
三階をのぼりきった室には、けばけばしい長襦袢を着た三十ぢかい
「君、しっかりなさい、どうしたんです」
帆村は女の
すると女は、ますます顔を夜具の中に埋めるようにして全身を
「おお、これは――」
帆村は、隣室の襖に手をかけたが、これは頑として動かなかった。よくみると、襖は襖だが、特製のもので、こっちからみると紙が貼ってあるが、裏の方は檜材かなにかの堅い板戸になっている。その板戸に内部から錠前がかかっているのだった。なんという厳重なしまりをしてある室なんだろう。
「君、鍵はありませんか」
女は布団に顔を伏せたまま、かぶりを振るばかりだった。帆村は、ジリジリしてくる心をやっと押えつけながら、室のうちを、あちこちと見廻したが、襖がすこし開きかけている押入に気がつくと、急に眼を輝かしたのだった。
それは江戸川乱歩が「屋根裏の散歩者」を書いて以来、開けた自由通路だった。押入の襖を開くと、女給の化粧道具や僅の梱などが
「ちえッ!」
光は消えて、帆村の眼は眩んだ。
イライラしてくる数十秒間、やっと眼が闇に慣れてきた。
すると、眼の前に、ボーッと光る猫の眼玉のようなものが見えるではないか。ギョッとして反射的に身を引いたが、よく見ると何のことだ、天井裏の小さな節穴だった。
(こいつはいいものがめっかった)
帆村は、節穴の方に、ジリジリと這いよった。節穴は思ったより大きく一銭銅貨大もあった。それに片眼をあてて、ソッと下の方を覗いてみた。
「
孔の真下には、果して、顔面を真紅に血潮でいろどった一個の惨死体が、ほのぐらい室内灯の光に照しだされて、横たわっていたのだった。それは、年の頃は五十がらみの男だった。彼は、寝床の中に、天井の方を真直向いて睡っているところを、射たれたものらしい。傷は致命傷だったと見えて苦しみもがいた様子は一向になかった。
折から下では、ドシンドシンと凄じい音がして、その度に天井までビリリビリリと響いてくるのだった。警官たちが駈けつけて、いよいよ、厳重な板戸をうち破っているのだろう。
帆村は屋根裏へ這いあがったついでに、そのあたりの様子をみて置きたいと思った。それで懐中電灯を落したあたりを手さぐりで探してみた。まず手にあたったのは、柱の切り屑のような木片だった。のけようと思ってひっぱったが、しっかり天井裏にくっついている。その横の方に手を廻すと、ヒィヤリと金具らしいものが、指先にふれたので、それをグッと掌のうちに握った。
「おや、これは懐中電灯ではない」
ズシリと重みのある、そして大変冷たい物体だった。暗闇の中に、仔細に手さぐりをしてみると、正しくそれはピストルだった。
「こんなところに、ピストルが落ちていた」
彼は一瞬にして或る場面を想像した。この屋根裏に忍びこんだ犯人が、この節穴から、下の老人を狙いうったのであると。では先刻ムサシノ館前の十字路で聞いたように思った音響は、このピストルの音だったのかも知れない。
「オイ、誰かッ。降りてこい!」
いきなりサッと明るい光線が帆村の横顔を照した。警官が、さっきのぼって来た押入の天井裏から、こちらを
「僕は……」
「文句があるなら後でいえ。サッサと降りて来ないと、ぶっ放すぞ」
本気にぶっ放すかも知れない警官の意気ごみだった。帆村は苦笑いをして、それ以上の頑張りをやめ、拾ったピストルだけを獲物に、そのまま引返したのだった。
警視庁から捜査課長大江山警部などの、刑事部首脳が駆けつけてくるまでの帆村荘六は、滑稽な惨めさに封鎖されていた。
「外山君」と大江山課長は、その警官の名を呼んだ。
「帆村探偵の素状を一応調査しておいた方がいいだろうかね」そういって警官の非礼を婉曲に帆村荘六に詫びるのだった。
さて正式の取調が始まった。
殺されたのは、このカフェ・アルゴンの主人である
その隣室にいた女性は、同人の妾である立花おみねと呼ぶ者だった。
誰が殺したか。
殺した手段は、帆村が発見したピストルによることは、大体明らかであって、なお屍体解剖の上で確かめられる手筈になった。では何物が、天井裏にのぼって、あの節穴からカフェ・アルゴンの大将虫尾兵作を狙い射ちにしたのか。
「おみねさん」と大江山警部は、
「この部屋には寝床が二つとってあるが、一つはお前さんの分で、もう一つは誰の分なんだい」
「ハイ。それはアノ……」
「はっきり言いなさい」
「ハ、それは、なんでございます、うちのナンバー・ワンの女給、ゆかりの寝床なんです」
「ウンそうか。で、そのゆかりさんは見えないようだが、どうしたんだい」
「それがちょっと、アノ、昨夜出たっきり帰ってまいりませんので……」
「なァ、おみねさん。
このとき帆村の頭のなかには、ネオン横丁の出口のところで見た怪しの人影のことがハッキリ浮かんできたのだった。
「言えないね」と大江山警部は
「じゃ別のことを訊くが、大将は誰かに恨みを買っていたようなことは無かったかね」
「それはございます。妾の口から申しますのも何でございますが、ここから四軒目のカフェ・オソメの旦那、女坂染吉がたいへんいけないんでございますよ。このネオン横丁で、毎日のように
「脅迫状を――。そいつは何処にある」
「主人が机のひきだしにしまったようですが……」と言っておみねは机をかきまわしていたが「あ、ありました、これです」
「どれどれ」大江山警部は、状袋に入った脅迫状というのを取り上げて、声を出してよんだ。
すぐネオン横丁から出てゆけ。ゆかないと、さむい日に、てめいのいのちは、おしゃかになるぞ。
「なんだか、おかしな文句だな。さむい日と断ってあるが、こいつは当っている。おしゃかになるというのは『「だって、外には、そんな手紙をよこす人なんて、ありませんわ」
「そいつは、何ともいえないね」と警部は言って、ちょっと考え込んでいたが、「この辺で工場へ行っている人とか、職工あがりという種類の人を知らないかね」
「ああ、あいつかも知れません。ネオン・サイン屋の一平です。あれはこの横丁の地廻りで、元職工をしてたので、ネオンをやってるんです。うちのネオンも、一平が直しに来ます」
「ふうん。一平と虫尾とはどんな交際だい」
「さあ、別にききませんけれど……」
おみねは、やっと気分をとりもどしてきたようだった。
「おみねさん」そう言って口をはさんだのは先刻から黙って横にきいていた帆村荘六だった。
「その一平というのはどんな身体の男なんですか」
「ネオン屋の一平は、背が高くて、ガニ股でいつも青い顔をしていますよ」
「ほほう、背が高いんですね」帆村は、薄暗い灯影で見た男も背が高かったのを思い出した。
「では、あなたはこんなものを御存知ありませんか」
そういって此処の入口で拾ったライターを掌の上にのせて、おみねの前にさしだした。
「あッ、それは――」それを一と目みたとき今まで明るかったおみねの顔色が、さッと蒼くなり全身に軽い
2
「このライターは誰のです?」帆村荘六は、おみねが
「……い、一平のでしょう」と、おみね。
「なに一平のライターだって」大江山警部は身体を前へのり出した。
「おみねさん、君が先刻返事をしてくれなかったことがあったね。この二つの寝床の一つは君が寝ていたが、今一つには誰が寝ていたか。それはナンバー・ワンの女給ゆかりの布団なんだろうが、入ってたのは別人だった。いいかね。この帆村君は、さっき四時前に、ここから長身の男が逃げてゆくのを発見したんだ。つづいてライターをこの家のうちで拾った。すると、こっちの布団(と、一方の寝床を指しながら)には、その背の高い、そのライターの持ち主が寝ていたのだ。もしそのライターがネオン屋の一平のだったら、お前さんはここで一平と寝てたことになるよ、それでいいかい」
「まァ、誰が一平なんかと……」
「もう一つお前さんに見せたいものがある」
そう言って大江山警部は帆村に目交せをして屋根裏で拾ったピストルをおみねの前につきつけた。
「このピストルを知らないかい」
「ああ、これは……。これこそ一平のもってたピストルです。あいつは、これでいつかあたしのことを……。あたしのことを……」
おみねはなにを思い出したものか、ヒステリックに喚きだした。
「やっぱし、あいつだ。あいつだ。一平が主人を撃ったのです。その外に犯人はありません。そうなんですよオ、そうなんです」
「これ、おみねさん、しっかりしないか。おい外山君、この婦人を階下へ連れてって休ませてやれ」
おみねが去ると、三階には係官一行と帆村探偵とだけが残った形になった。
「どうだ帆村君」大江山警部はにこやかに呼びかけた。
「これは単なる痴情関係で、一平が女給ゆかりの身代りにこの寝床にもぐっていて、頃合を見はからって、屋根裏にのぼり、主人の虫尾を射って逃げ、その途中で入口にライターを落とし四つ辻では君に
「だが、同じ逃げるものなら、どうして寝床にぬくぬくと入っていたのでしょう。隠れるところはカーテンの後でも、押入の中でもいくらもありますよ」と帆村は
「うん、そいつはこう考えてはどうか。すこし
「それにしても午前四時近くの犯行は、すこし遅すぎますよ」
「なあに、一平が脅迫状に寒い日にやっつけると書いた。一日のうちでも一番寒い時刻というのは午前四時ごろだ。で、合っているよ」
「えらいことを課長さんは御存知ですね、一日のうちで午前四時近くが、一番気温が低いなんて。それはそれとして、僕にはどうもぴったりしませんね。もう一つ気になるのは、ドーンとピストルが鳴ってから犯人が逃げだすまでの時間が、十分間ちかくもありましたが、これは犯罪をやった者の行動としては、すこし機敏を欠いていると思うです。タップリみても三分間あれば充分の筈です。しかも犯人は十分もかかりながら
「うむ、すると君の結論は、どうなのだ」
「僕にはまだ結論が出ません」と帆村は首をふって言った。
「だが、この事件を解くにはもっと沢山の関係者がでてこないかぎり、三次方程式の答えを、たった二つの方程式から求めるのと同じに、不可能のことです」
「ほほう、すると、君は、ゆかりのことなんかも怪しいと見るかね」
そこへドタドタと跫音がして、さっきの警官外山が上ってきた。
「課長どの、唯今、女給のゆかりが、こっそり帰ってきたのを、ここへひっぱりあげて参りました」
「なに、ゆかりというナンバー・ワンが……」
ふりかえって見ると、その階段の上り口に高価な毛皮の外套を着た、ちょっとみると、入江たか子のような洋装の娘が立っていた。
「おお、ゆかりさんか、ちょっとこっちへ来て下さい」
物馴れた大江山警部は、こともなげに、彼女をさしまねいたのだった。
「あなた、昨夜、何時ころから出て、どこへ行ってました、叱るわけじゃないから、ドンドン言ってください」
「あたし、あのウなんですノ、昨夜は、ちょっと外泊したんですが……」と、彼女は行末を
(ウン、もう夜明けだ)
帆村は、いつしか白く明るい光線が忍びこんで来た室内を、もの珍しそうに眺めまわしたのだった。
「あなたに、ちょいと見て貰いたいものがあるんだが、このピストルと、ライターに見覚えが無いですか」と大江山警部がいった。
「このピストルですね、オヤジを射ったのは。さあ、見覚えがありませんね。こっちのライターは……おや、これは、あの人のだ」そう言って、彼女はライターをキュッと掌のうちに握ると、言おうか言うまいかと思案をするような眼付をして、課長の顔をチラリと見た。
「おみねさんが教えてくれたんだがね」
「まあ、もう白状しちゃったんですか。そいじゃ私が言うまでも、これは銀さんのよ」
「なに、銀さん」警部はキュッと口を結んだ。
「銀さんって誰のことかい」
「おや、マダムは銀さんのだと言わなかったの、まァ悪いことをした。でも、こうなったらしょうがないわ、銀さんッて、マダムのいい人よ、木村銀太といって、ゲリー・クーパーみたいな、のっぽさんよ」
「一平と、その銀太君とは、どっちが背が高いんですか」と、横合から帆村がきいた。
「それはね」と、ゆかりは、新手の質問者の方を見てちょっと顔を赤くして言った。
「どっちもどっちののっぽですわ」
「銀太というのは、ここへもちょくちょく忍んで来るだろうね」大江山警部は訊いた。
「私が、いいだしにつかわれてるのよ」そう言って彼女は寝床の一つを指して鼻の先でフフンと笑った。
「いやその位で、ありがとう」
警部は外山に、彼女を下げるように目交せした。二人は又元の階段をトコトコと降りていった。
「いよいよ足りなかった最後の方程式がみつかったようだね、帆村君」
「そうですね」
「おみねと、その情夫の木村銀太との共謀なんだ。さっき一平が寝ていたと思ったのはあれは銀太なんだ。君が見た人影ってのもネ、ありゃ銀太なんだよ。こうなるとピストルも誰のものだか判ったもんじゃないよ。一平からピストルを盗むことだって出来る」
「僕はそうは思いませんね。今の話で、おみねと、こっちの寝床に忍びこんでいた情夫の銀太とが犯行に関係のないということが判ったんです」
「そりゃまた、どうして」警部は聞きかえした。
「おみねと銀太が一緒に寝ているところに、思いがけなくあのピストルの音がしたので、二人は
「すると、あのピストルは、誰が射ったことになるんだい」
「調べてみなければわかりませんが、多分ネオン屋の一平が射ったんでしょう。カフェ・オソメの女坂も怪しいですがね」
「そうかね。僕はさっき言ったように、情夫とおみねの実演だと思うよ。とにかく、他の連中の動静も多田刑事に調べにやったからもう直ぐ判るだろう」
その話の半ばへ、噂の多田刑事が、ヒョくり顔を出した。
「課長、女坂染吉は家に居ましたよ。昨夜十二時から一歩も外へ出なかったそうです。腹が下ったとかで、夜っぴて女房に、腹をさすらせたり、足をもませたりしていたそうです」
「重宝な
「ゆかりのことはH風呂にきいて午前四時半まで、Nという男と滞在していたことが判りました。それから大久保一平、あのネオン屋ですね、あいつについちゃ意外なことがあるです」
「ほほう、どうしたというんだ」
「あいつの家を叩きおこしてみましたが、昨夜は夕から出たっきり、朝方まで、とうとう帰って来なかったんです」
「それで……」
「それでこいつは怪しいと思って、帰りがけに淀橋署に、ちょっと寄って、偶然一平のことを聞いてみましたところ、意外にも一平は上野署に留置されていることが判ったんです」
「なんだ、一平は上野に抛りこまれているって?」課長は不審にたえぬという顔付をするのだった。
「実は一平さん、昨夜十二時ごろから、山下のおでん屋の屋台に
「そうか、こいつは又、素晴らしい
「……」帆村は黙りこくっていた。
「それで多田君」と警部は刑事の方を向いて言った。
「木村銀太という男の行方をしらべて貰いたい。彼奴はマダムのおみねと共謀して大将の寝首を掻いたらしいんだ。――さア、そこらで
帆村荘六の面目玉は丸潰れだった。彼が犯人と指摘した人物は、皮肉にも、警察署の留置場に一と晩送って、この上ないアリバイを拵えていたのだった。帆村に、如何なる整然たる推理があっても、かのアリバイの事実はそれを木ッ葉微塵に吹きとばしてしまったといってよい。
(だが、もしや……)と帆村は螺旋階段を静かに下におりながら、なお諦めかねる思索にとりすがった。
(もしや、犯人が現場にいなくて、ピストルが射てるとしたら、どうだろう。それは果して絶対にあり得べからざることだろうか。一平みたいな人物には、一体どれ位までのことなら出来るのだろうか。あいつは、一個のネオン・サインの看板屋なんだが)
屋根裏のピストル。それに気になるのは、あの脅迫状の文句「寒い日にやっつける」ということ。
「だって、どうしても思い出せないのよオ」そう言って鼻声を出しているのは、先刻のナンバー・ワンのゆかりだった。
「あんたは、冗談を言っているんだ。よオ、あとでウンと奢ってやるから、早くそいつを出しとくれ」そういっているのは、まだ聞いたことのない若い男の声だった。
「冗談いってやしないのよ、本当なの。一平さん、ごめんなさい、ねえ」
おお、相手の若い男というのは、一平なのだ。帆村は階段の中途に突立って思わず声をあげるところだった。
「
「番頭さんによく訳を言って掛合うといいわ。あたしも、もうせん、あすこの店の質札をなくして困ったけれど、話をしたら、簡単に出してくれたわよ」
どうやらゆかりが無くしたのは、一平の質札らしい。なぜ質札みたいなものを、わざわざゆかりに預けたんだろう。
「貴様にはもう頼まないや」
そういうと、一平は裏口へ出て行った。
戸外へ出ると一平は、あたりを気にしながら、早足にドンドン駈けだした。彼は電車道を越えて、大久保の長屋町の方に走りこんだが、それから露地をくねくね曲った末に、「おうの屋」と白字を染ぬいた一軒の質屋へ飛び込んだ。
「こないだ預けた銘仙の羽織をちょっと出して貰いたいんだが」
「ああ、その羽織なら、今うけだして持ってお帰りになりましたよ」
「しまった。そいつは質札を拾ってきやがったんだ。それに違いない。そいつは、どんな人間だったい、番頭さん」と、一平は真赤になったり蒼白になったりして、
その時薄暗い土間の隅から思いがけない声がした。
「芝居もどきで気がさしますが、その人間というのは、僕なんです」
「おお、あんたは、誰です」と一平は目を
「羽織をかえして下さい。あれは私のだから」
「羽織は返しますよ、ほら。だが、その襟に縫いこんであった、この契約書は、僕に貸して下さい。僕は素人探偵の帆村荘六というものです」
「ウヌ!」
* * *
事件のあとで、素人探偵の帆村荘六は、こんなことを発表した。
「犯人一平が考案した現場不在証明のある殺人方法というのは、実はネオン・サインと、当日の異常な気温降下とに関係があったんです。そういうと不思議にお思いでしょうが、屋根裏へ仕掛けて置いたピストルを、電気仕掛で発火させたんです。
そういうと不思議にお思いでしょうが、実は屋根裏に仕掛けてあったピストルの引金を、電気仕掛けで引張るようにしてあったのでした。その電気仕掛けは、ネオン・サインの硝子管と、あれをとりつけてあった壁とに仕掛けてあった銅で出来た二つの接点が普段は離れているために働かないようになっていたのです。一体ネオン・サインは、建物の一番高い壁体にとりつけてありますが、下から見ると、
殺人の動機ですか。あれは僕が一平の羽織の中から抜きとった契約書を読むとハッキリします。
殺人契約書
一 拙者は虫尾兵作の殺害を貴殿に依頼せしこと真なり。成功の暁には本書引換に報酬金一萬円相渡すべきものとす。後日のため一札、仍って如件
四月一日 女坂染吉※[#丸付き印、245-下-8]
大久保一平殿
要するに一平なる人物は、和製カポネ団の一員だったんです。質札を預けたのは、その夜、警察でしらべられるのがおそろしかったのでした。それから無論、カフェ・オソメの主人女坂染吉も、主犯として即日、捕縛されたことは言うまでもありません。云々」一 拙者は虫尾兵作の殺害を貴殿に依頼せしこと真なり。成功の暁には本書引換に報酬金一萬円相渡すべきものとす。後日のため一札、仍って如件
四月一日 女坂染吉※[#丸付き印、245-下-8]
大久保一平殿