「ほんとうかなア、――」
と、
「えッ、ほんとうて、何のことなの」
武夫と一緒に歩いていたお
「イヤ何でもないことだよ。……只ネス湖の怪物がネ」
「ネス湖の怪物? 怪物て、どんなもの。お化けのことじゃない」
武夫はもう中学の三年、お美代の方は高等小学を終ったばかり、子供にしてはもうかなり大きい方だったが、武夫が暑中休暇で、この
「そうさ。怪物といえばその字のとおり、怪しい物ということさ」
「その怪物がどうしたの」
お美代はますますすり寄ってきた。
「そんなに押してくると歩きづらいよ」と武夫は口だけで停めながら「お美代ちゃんはネス湖の怪物のことを聞いたことはないのかい。ほんとは僕も今日聞いたばかりなんだがネ、ネス湖の怪物というのは……」
それから武夫は手短かにネス湖の怪物の話をした。なんでもそいつは
「……これはきょう理学士の
大隅理学士というのは東京の工業学校の理科の先生で、よく通俗記事などを新聞や雑誌に書いている一風変った学者であるが、丁度いま暑中休暇を利用して、この矢追村に避暑に来ているのだった。
「ああ、大隅先生のお話なの。あの先生のお話では、当てにならないわ。よく
「そうでもないよ。先生は僕たちが知らないような珍らしいことを沢山知っているんだ。知らない者には、それが嘘のように思われるんだが、この世に不思議なことは沢山あるんだよ。とにかくネス湖の怪物の話は本当だよ。なぜって大隅先生はその記事や絵が載っている外国雑誌を僕に見せて下すったもの」
「そう? 本当に出ていたの」
「僕も見たんだから嘘じゃない。しかし先生は云われるんだ。ネス湖の水面から変な格好をした怪物が鎌首をもちあげたのは本当だろうけれど、恐竜などという前世紀の巨獣が今日生き残っているか、どうか、その辺はどうも問題だと
「ああ、――それでも怪物がネス湖の水面から顔を出したことだけは本当なのネ。本当なら、まあ気味が悪い。いまの世の中に東京駅よりも大きい巨獣が棲んでいるなんて、それだけでもう沢山よ。あたしなんだか急に恐くなってきたわ」
「しかし怪物はそれほど大きかったかどうかもハッキリしているわけではないそうだよ。人間の眼は、近くのものを、遠くにあるように勘ちがいをすることがあって、そんなときには遠くの方にたいへん大きなものがいるような気がするものだそうだ。霧の深い朝、アルプスの山にのぼると、谷の向うに雲を
といって武夫は、右手を目の前にさしあげながら、お美代の方をみた。
「この手をこう動かしてくると、向うに見える
「でも、あたし、やはり恐いわ。自分の眼で、それが流木だったか蛇の頭だったか見きわめないうちは、安心できないわ」
「じゃ、安心するために、お美代ちゃんはこれから
「ホホホホ。……」
二人は声を合わせて笑った。
南には真青な海が満々たる海水を湛えており、北には杉や檜や松が青々と茂っている連山を背負い、その間のなだらかな斜面の上に建っている五、六十軒の家――それがこの矢追村だった。初夏の空はすっきり澄みわたって、二人の顔といわず背中といわず、強い太陽の光がジリジリと照りつけていた。しかしなんという平和、なんというすがすがしさ、武夫とお美代とは、ネス湖の怪物の話から始まった不気味さを、この和やかな村の風景でやっと取りかえすことができたように思った。甲虫のいる
「お美代ちゃん。この缶を持ってて」
武夫は甲虫を入れるためにもって来た缶をお美代の手に渡した。それはビスケットの入っていたブリキ缶だったが、甲虫が息の出来るように沢山の穴が明けてあった。
「ああ、あすこに見える。……」
「もっと奥の方に、大きいサイカチの木があってよ」
この櫟林の奥の方にゆくと、甲虫の棲んでいるサイカチの木が六、七本あることを二人は知っていた。甲虫は、その樹の割れ目から流れだすジャムのように甘い赤味のある汁を吸って生きているのだった。
「ああ、そこにある木が一番大きい。あの木には、甲虫がウンといるぜ」
武夫はチラリとお美代の方に目配せすると、サイカチの巨木にヒラリと飛びついた。そしてスルスルと幹を
「どうも変だなア。――」
と、声だけが上から落ちてきた。
「変だって? どうしたのオ。――」
とお美代は上をみあげて、声をはりあげた。頸の骨が痛いほど、仰向いて……。
「いま下りてゆくよオ――」
と上からまた声がした。
ガサゴソと葉ずれの声がして、武夫の姿が梢の隙間から、すこし現れてきた。
「なにが変なの。早くいってよ、あたし恐くなっちゃったわ」
そうお美代が云うと、武夫は幹に抱きついたまま、顔を下へ向けながら、
「恐いことじゃないよ。……あのネ、このサイカチの木が変なのさ。甘汁の出る割れ目が方々にあるんだけれど、汁はみな綺麗に
お美代はソッとあたりの
「そんな変な木はよして、あっちの方のサイカチを探してみない」
「うん、そうしよう。……」
と、武夫はすぐに返事をしたが、どうしたものか、なかなか木から降りて来ようとはしなかった。
「武夫さアん、はやく下りていらっしゃいよオ」
お美代はじれったくなって、もう一度、下から
「シーッ……」
木の上から、武夫が静かにするようにと合図をした。
「なにか居るの」
「居るよ。なんだか居るんだ。三つ股のうしろに止っている。亀みたいなものがいる。亀がサイカチの木にのぼっているんだよ」
亀? 亀がサイカチの木にのぼっているとは珍らしい話だった。亀が木のぼりをするということがあるかしら。
「亀じゃないでしょう。亀が木にのぼれて?……どの辺なの。あたしも下から見てみるわ」
「……黒くて、楕円形で、弁当箱の二倍くらいもあるんだ。亀によく似ているが、脚が変だな。いま竹でつっついて、下に落とすから、どこへ落ちたか、よく注意しているんだよ」
武夫はもう獲物のことで夢中だった。
手に持っていた竹の棒をとりなおすと、腕をのばして、三つ股の裏をコンコンと突いた。亀のようなもののお尻がすこし動いたが、幹にぴったりと
「よオし。どんなことがあっても、捕えちまうぞ」
そう叫んだ彼は、冒険だったが横に出ている大枝の上を静かに
「
そう叫んだなり、武夫は激しい動悸を一生懸命に
「武夫さん、武夫さん。あんた、どうしたの。何か云ってよオ、あたし恐いわ。……」
武夫が化石のようになってしまったものだから、下ではお美代が泣きださんばかりの声で
「うん、お美代ちゃん。居たよ居たよ。ネス湖の怪物がいたよ」
「えッ、ネス湖の……」
「イヤ本当は甲虫のデッカイのだよ。亀かと思ったら、今までに見たこともないような大きな甲虫だ。いま叩き落とすから、目を離さないようにネ」
「アラ甲虫なの」
「さあ、叩き落とすよ」
武夫はなおも身体をのばし、腕にウンと力を入れておいて、竹も折れよとばかり巨大な甲虫をピシリとぶん殴った。続いて、第二撃、第三撃。
キッキッキイ……。
甲虫は異様な悲鳴をあげ、フラリと落ちかかる身体を支えようとして、黒光りのする太い節足をふり、刃物のように鋭い爪を樹皮に突きたてて、なおも懸命に幹に
ギギイッ。……
という怪声をたてると、かの怪虫は
「ほら、落ちた……」
武夫が呶鳴ると、下から絹を
「下りて来て、早く早く」
武夫は滑り落ちるように、サイカチの木から下りてきた。下ではお美代が真青になって、ブルブル慄えながら、向うを
「
「うん、分った。ここに待っといで……」
武夫は勇敢にも、巨大
「
武夫の叫ぶ声がした。ピシリピシリと竹の棒がなおも彼方に鳴りつづけた。武夫は果して甲虫を捕えることができるであろうか。
そのときのことであった。
「うわ―ッ」
という悲鳴が、
「…………?」
お美代はハッと胸を
「武夫さん。武夫さん。……」
お美代は叫んだが、その返事はなかった。草叢の中に入ってゆくべきだったろうけれど、お美代にとってはあまりに恐ろしい
「誰か来てエ。助けて下さ―い。……」
お美代は必死に呼ばわった。そのときブーンという気味のわるい羽音がして、大きな真黒なものが草叢の中から飛び出してきた。それは例の巨大甲虫に違いなかった。その怪虫は、櫟の木の間を縫って低く飛びながら、だんだんとお美代の方に近づいてくるのだった。
「あッ、――」
彼女にとっては手にもっていたビスケットの缶が唯一の武器だったから、これをうちふりうちふり一生懸命に防戦した。巨大甲虫はお美代の死にもの狂いの勢いに
「どうしよう……」
お美代は、ポロポロ流れ出てくる涙を払いながら、争闘の跡ののこる草叢の方を見つめた。恐ろしい境域にはちがいなかったが、誰も救いの声を聞いて駆けつけてくれる者もない有様だから、このまま自分一人が逃げてかえることはできなかった。もしそんなことをすれば、あの仲善しの武夫は、生命を落としてしまうかもしれないのだ。
(あそこの草叢のところへ行ってみよう)
お美代は決心をして、とうとう草叢の中へ分け入った。ワンピースの簡単服は、茨にひっかかって、たちまちベリベリと裂けてしまった。しかし今はそんなことを顧みている余裕はなかった。
雑草をかきわけかきわけ、お美代は目星をつけて置いた葛の葉の茂っている草叢のところへ近づいていった。
「オヤ、この辺のはずなんだけれど……」
そこに武夫が長くなって倒れている筈だと思ったのに、その当ては外れて、そこには何者の姿もなかった。
「間違ったのかしら……」
あたりを見廻してみたが、この辺であることに違いなかった。武夫が棒切れで叩き破ったらしい葛の葉が点々として、白い葉裏を見せてそこらに散っているのだった。
「ああ、やっぱりここだ。武夫さんのもっていた竹がある!」
お美代は雑草の中に落ちていた竹を見つけて、拾いあげた。たしかに武夫の持っていたものに違いなかった。その
「ああッ。――」
お美代は急に恐ろしくなった。なにかこの辺には、自分たちの知らないような恐ろしい物があるのではないかしら、さもなければ、あのような巨大な甲虫が木の上にのぼっていたり、今までそこにいた筈の武夫の姿が見えなくなったりすることはない筈だった。そう思うと、お美代の恐怖は二倍にも三倍にも強くなった。いまにそこらの草叢の中から、大きな木ほどもある魔物の手がニュウと伸び上ってきて、自分の身体をギュッと掴むのではないか。
「あれッ。……」
とお美代は一声悲鳴をあげるなり、もう夢中になって
お美代の姿が木立の向うに見えなくなって、林の中はシーンと元の静けさにかえったかのように見えた。
だが、もし誰かこの林の中を、なおも見ている人があったとしたら、その人はきっと、
それというのは、例の草叢から百メートルばかり奥へ入ったところに、ここにも葛の葉が
その怪しい老人のような人物は、一体何者なのであろうか。そして彼は武夫の危難を知り、お美代の助けを求める声を聞いていた筈であるのに、なぜ救いに出て来ようとはしなかったのであるか?
森の中の変事は、この矢追村に休暇を送っていた大隅理学士の耳にも伝わった。
彼はその夏のうちに読破しようと思って持って来たギブソンの「
「武坊の家を訪ねたが、お母アは腰を抜かして居ったぞ。武坊は出かけたままで、どこにも居らんそうじゃ」
「なに分にも、
「やはり様子が知れぬかのう」
「甲虫甲虫と譫言をいうとるがのう。お美代坊は山の方から駈け下りて来たそうじゃで、ことによると、あの魔の森へ近よったための間違いかも知れんと思うが、どんなものじゃろか」
「魔の森かい。魔の森のことなら、武坊は知らんかもしれんが、お美代の方は恐ろしいことをよく知っている筈じゃ。なぜそんなところへ武坊を連れこんだのかのう」
「さあ、それが魔がさしたというものかもしれんでなア」
「これは困ったことになった。武坊が魔の森に迷いこんでいるのだとすれば、これはちょっと救うのがむずかしいわい」
「そうじゃ。誰も生命が惜しいから、魔の森へ入ろうという者はあらせんわ。そういえばお主は昨日の真夜中、
「うん、あの一件か。あれなら知っとるどころか、この
「おお
「うんにゃ、それは出来ねえだ。あとの
大隅理学士は、とうとう分厚い原書をパタリと閉めてしまった。どうやらこれはかなり重大な事件が発生したものと思われる。ことに武夫少年とは、こっちへ来てから毎日のように遊んで、よく知っていた。どうやらその武夫が魔の森に踏み迷って行方が知れない様子だ。その上、魔の森のこととて、村人が探しにゆくのを
「これは可哀想だ!」
大隅は立ち上ると、
お美代の家の前には、ほとんど全部の村人が集っていた。いずれも心配そうな顔をして、思案にあぐんでいる風だった。
大隅理学士はその連中の中から、顔見知りの役場の書記で
「その後、お美代さんの容態はどうですか」
書記は大きな手でツルリと自分の顔を撫でまわしたのち、
「ああ、お美代坊は、いま睡り薬が利いて、ぐうぐう眠っとりますだ。この調子だと、目が覚めるのは、多分明日のお昼ごろになるだろうという話です」
「明日のお昼ごろ?」それでは、明日のお昼ごろまでは、武夫の消息もハッキリ聞くことができないのだ。大隅は失望して、
「大隅さん。お美代坊は、『大亀のような甲虫がとびついてくる』などと譫言をいうとるが、気が狂ったせいだと思いますがな」
「大亀のような甲虫――ですって」大隅は目を大きく開きながら、「それは面白い謎ですね。お美代さんが気が変になっているにしろ、いないにしろ私はその譫言を実に興味深く聞きます。こいつを真面目に取ると、それはいま学界で問題になっているネス湖の怪物などに関係がついてくるのです。どうです、この村には、今までにそのように大きい甲虫を見かけた話があるのですか」
「いや、どうしてそんな
と一言のもとに否定した。
「書記さん。私はあの
「ナニあの魔の森へ……。いや、あの森ばかりは勘弁して下せえ」
「おや、貴方もやっぱり恐怖組ですね。では仕方がありません。私一人で出かけましょう」
「まあ、待った待った。あの森へ行くのは見合わせなされ。この村で、あの森に入る奴があったら、それはそいつが悪いのじゃということになっている。……」
「では、武夫君を見殺しにするのですか」
「見殺しなんて、そういうわけじゃないけれど、とにかく
「一体、なぜあの櫟林が魔の森なんです。そのわけを聞かせて下さい」
「わしは知らん。とにかくいかんのじゃ。お前さんがあの森に出かけて、万一のことがあると、村の迷惑じゃ。お美代や武夫がこんなことをしでかしたのも、もともとその親どもの注意が足りないからじゃ。だから現にこんなに迷惑をしとる」
書記の機嫌はだんだんと悪くなってきた。大隅理学士はそれ以上云うこともどうかと思ったのでそのままその場を立ち去った。
彼は廻り路をして、問題の櫟林の見える街道へ出た。その森は気にして見るせいか、千古の秘密を蔵しているように
だが
小径さえ見当らぬ森に、一歩一歩踏みこんでゆくと、いくばくもなくして暗さのため爪先が見えなくなった。大隅は手に持っていた
木立は奥深かった。雑草は足の踏み入れ場もないほど茂っていた。突如、荒々しい羽ばたきが頭の上に起ったかと思うと、ケケケッという怪しい鳴き声を残して、名もしらぬ怪鳥が飛びさった。
前進すること四、五百メートル、恐らくもうそろそろ森の中心地点になるのであろうと思われる
ほの明るい残影が眼底から消えていって、彼はようやく闇に慣れた。そこで彼は、改めて暗黒そのもののような
と、軽い失望と安心とが学士の胸に沈澱したと思った――その
何百メートル前方ともハッキリ分らないが、
「
と、大隅理学士が驚いてその場に跳ねあがった瞬間、スーッと消えてしまった。
魔の森に燃えるは、そも何の光ぞ! 落雷か、爆発か、それとも悪魔の焚火であろうか?
怪しい音響を伴った真青な閃光は、その後再び起らなかった。こんな奥深い森の中に発する怪光の正体はなんであろう。
昨夜のこと、村人の誰かれが、この魔の森の方角に何ものかを認め、互いに口を
彼は再び
彼は一歩踏みだすのに一時間もかかったような気がした。
およそ二十歩も前進したと覚しき頃であった。身近くに何か太刀風のようなものを感じたので、ハッと身を沈めようとしたが、もう間に合わなかった。ピシリッ! 強い打撃が、彼の手首の上に落ちた。
「うわッ――」
彼の護身杖はポロリと草叢の中に落ちた。これを落としてはと、疼痛を
「あッ――」と声を立てた途端に、杖の灯はパッと消えてしまって、再び真の闇となった。大隅理学士は恐怖の絶頂に取残された。何者だッ。
危険は迫る!
そのとき、低い人声がどこからともなく聞えたような気がした。
「先生、先生。大隅先生!」
と、そんな風にも聞えた。わが名を呼ぶは何者ぞ、気の迷いであろうかと、学士は耳を
「先生、先生。大隅先生!」
同じ声がわが名を呼んだ。やはり自分を呼んでいるのだった。その声は、どこかで聞いたような声であった。
「何者だッ、卑怯な真似をしないで、早くここへ出て来いッ」
「ああ、先生。あまり大きな声を出さないで下さい」
こんどはハッキリした調子で闇の中の声はいった。
「おお、そういう君は……」
「分って下さいましたか。僕は武夫なんです。分るでしょうね。大隅先生」
武夫が喋っているのだった。武夫少年はまだ無事で生きていたのだ。それをつきとめることは今夜の最大の目的だったのだ。
――だが待てよ。
と、このとき大隅理学士は気がついた。
――この声の主が武夫少年だとしたら、なぜ目の前に
「武夫君なら、いまそこに落とした私の懐中電灯を拾ってくれたまえ」
「いや、それはいけません。それはどうか待って下さい」
「変じゃないか。どうも君らしくないが……。一体君はどこで話をしているのだ。本当に生きているのかね。それとも……」
それとも幽霊かネ。と
「僕は生きているようでもあり、死んでしまったようでもあるのです。……ああ、そんなことは今云っている場合じゃなかった。先生僕は重大なるお願いがあるのです。聞いて下さいますか」
「重大なる願いだって。……うん聞いてあげよう」
「では申しますが、それより前に、まずお断りをして置かなければならないことは、僕と先生とがここでお話をしたことは、誰にも秘密にして置いて頂きたいことです。たとえ僕の母親が聞いても、喋っていただいては困るのです。もしそんなことがあれば、たいへんな事が起るのです。実は先生とこうしてお話することもいけないのですが、先生が秘密を守って下さると思うので、それでお呼びしたというわけです」
「よく分ったよ、武夫君。私は約束する。必ず秘密を守るから、君の願いというのを云ってみたまえ」
その翌日の昼さがり、大隅理学士は矢追村の東にある
昨夜、魔の森の中で、姿の見えぬ武夫少年とどんな内容の話をしたのであろうか。それは読者諸君においても早く知りたいところであろうが、なにしろ武夫が泣かんばかりに秘密を守ることについて頼んだことでもあるから、ここに書き並べることは控えたいと思う。しかし結局、大隅先生の今後の行動を注目していれば、武夫が語った驚天動地の大秘密もだんだんに分ってくることであろう。
大隅理学士が丘を登りきったとき、
「あら、大隅先生、お待ちしていましたわ」
といって、声をかけたものがあった。
「ああ、お美代ちゃんだネ。よく来てくれたねえ。おや、その赤ちゃんはどうしたの」
「ホホホ。これはうちの赤ン坊なのよ。あたしの妹ですわ。お守りをしているようなふりをしてソッとここまで抜けて来たのですわ。そうでもしなければ、昨日の今日でしょう。誰が外へ出してくれるもんですか」
「なるほどなるほど」
生れてからまだ十月ぐらいにしかならぬ女の幼児を抱いてそこに立っていたのは、
「花束のなかに隠して渡して下すったお手紙は読みましたわ。――至急武夫君のことについて御相談したし――って、どんなことなのですの。武夫さんはまだ帰って来ないでしょうか」
「さあ、全く手懸りがないんだがねえ」と学士は苦しい心情を
「あたしに出来ることなら、どんなことでもしますわ。あたし元気になったら、もう一度あの森へ行ってみようと考えているくらいなんですもの」
「あの魔の森へ? まあ、それは当分見合わせて置く方がいいと思う。ところでまず第一に訊きたいのは、今から丁度一年ほど前に、この沖に着いた白塗りの外国船があった
「まあ、そんなことをよくご存じなのですねえ」とお美代は目をパチクリしながら、「それは三人でしたわ。一人は
「ああ、古花甚平さん。あの人かア。――それから、今度は、
「あれは、この向うの山腹に見える洋館に住んでいる辻川博士ですわ」
「そうか、辻川博士か。――それからもう一つ、この村では
「まあ、変なことばかりお聞きになるのネ。赤蜻蛉が出るのは去年からたいへん遅くなりました。いつもは七月頃に出てくるんですけれど、去年は十月になってやっと出て来たので、変だ変だと思っていましたわ。飛んでゆく方角はこっちの方ですから、真西よりこの位北によっていますわ」
といってお美代は二本の指先で、三十度ぐらいの角度をこしらえてみせた。
「フフーン。いや有難う。また聞くことがあろうけれども、今日知りたいと思ったことはそれだけだった」
「まあ気味がわるい。そんなことがどんなお役に立つんですの」
「いや今に分るから、それまでは黙っていて貰いたい。とにかくこの村には、今後も、もっといろいろの変事が起るかもしれない」
「あら、まア……」
二人は顔を見合わせて、
お美代と大隅理学士とは、共に武夫少年の安否を気づかいながら、暫くは言葉もなく、その涼しい丘の上に
そのうちにお美代はハッと気がついた。
「アラ、
「おお、――」と大隅学士も、夢から覚めた人のように
「まア、どっちへ
大隅学士も
昔のお伽噺に、魔法の国から成長液の入った壜を盗んで来た一寸法師が一と口その液体を舐めると、彼の身体が俄かにムクムクと大きく成長して一人前の人間ぐらいの背丈になるという話があったが、それは人間の考えた作り話のこと――代志子坊やの場合は、
ここで代志子坊やが声でもたてれば、さぞやお美代と大隅学士とを驚かしたことであろうが、幸か不幸か、このとき坊やは異変の為か半ば
そのとき雑草の繁みを分けて、ひょっくり顔を出した者があった。見れば、熊かと疑うばかりに顔中
「うむ。こいつじゃ、……」
怪博士は、この場の光景を見て低い声で呟くと姿には似合わぬ元気な足取りでもってツカツカと、昼寝をしている牝豚のような代志子坊やの傍に近づいた。そして暫くその様子を
怪博士と大入道赤ン坊の姿は、間もなく木立の蔭になって見えなくなってしまった。……
お美代と大隅理学士とが、坊やの
大隅理学士は、それから後三日間というものは、宿に閉じ籠って、一歩も外へ出なかった。打ち重なる変事が、彼を臆病にしたのであろうか。いやいやそうではなかった。
彼はその三日の間を、宿の一室で暮したものの、その間の活躍ぶりは、
「……駄目だ。この本も駄目だア」
彼は机の上から原書をつき落とすようにして、紙を
苦悩の三日間が過ぎて、次の朝階下へ顔を洗いに下りてきた彼の顔には、大分苦悩の跡が薄らいだように見えた。
「……オヤ先生、きょうは顔の色が大分良くならはったのう」と宿のお内儀がニコやかに声をかけた。
「餘り勉強に
学士は答を笑いに
「お内儀さん。あの家に住んでいる辻川博士というのを見掛けたことがあるかネ」
「辻川博士のことかネ。……」
と問いかえして、彼女は悪魔を払いのけるように額の前で手を振った。
「なんであんな恐ろしい人を見かけるものかネ。ひょっくら見かけでもしたら、わたしゃその場にひっくりかえってしまうがナ」
彼女はそういった後で、なおも恐ろしさの餘りか、目を閉じてブツブツお
「では、辻川博士はあまり町へは出て来ないんだネ」
「そんなに出て来られてたまるもんかネ」
「博士は一体誰に喰べさせて貰っているんだろう。奥さんや雇人があるのかネ」
「奥さんは昔あったが亡くなったという事じゃ」
「……いうことじゃとは、どういうわけかネ」
「それは話に聞いただけで、村の衆は誰も奥さんの死に顔を見た者がなかったけんな。しかしあの人には惜しいような器量よしじゃったがのう。今はたった一人の雇人がいるばかりじゃ。
「ふうむ、そうか。随分気の毒な生活をしているらしいネ」と、辻川博士を見たことのない彼は同情をして「どうだろう、お内儀さん。訪ねてゆけば、会ってくれるだろうかネ」
「アレ訪ねてゆく? ああッ、めっそうもない。先生は行くつもりかも知らんが、そればかりは思い停ったがええ。第一、傍まで行った者の話にはあの邸の周囲には厳重な塀がめぐらされている上に、大小二つの門は、いつも閉まり、それに強い電気が通じてあって、もしそれに間違って
宿のお内儀はそこで恐ろしそうにブルブルッと
そのとき、澄み渡った青空の中から、ブーンブーンという怪音が聞えて来た。折も折とて大隅学士はギョッとして身を引いたが、怪音は段々大きくなって、どうやらこっちへ近づいてくる様子だ。
「飛行機かな?」
と、彼が気がついたときには、宿の真上に恐ろしい身体の小さい飛行機が現れた。それは「
そのプーはいよいよ低く下ってきて、屋根とすれすれに旋回を始めた。大隅学士はなんとなく危険を感じて、納屋の軒下に身を避けた。その途端に、飛行機の中から、真黒な長い塊が飛び出して、シューッと音をたてて、大隅学士が立っていたその真上あたりに烈しく墜落してきた。爆弾?
黒い爆弾様のものは、
その途端に、空気を裂く烈しい羽音(と思った)と共に、空から軽飛行機が斜めになって舞い下ってきた。そして前の道路にドンとつきあたったかと思うと、ゴム毬のように一つポーンと跳ねかえり尚もそのまま滑走を続けると思われたが、尾部がスーッと浮きあがると見る間に、気持よく空中に弧を描いて蜻蛉がえりを打ち、仰向けにペシャンと引繰りかえってしまった。見ていた大隅学士も思わずハッと息を停めた。
――乗り手はどうした?
と、学士が疑問を起したとき、死んだように働きを停めたそのプーの機翼がユラユラと揺れ、その下からカーキ色の飛行服に身を固めた一人の人物が
その闖入者はあたりにいる人達に気がつかないのでもあるように、イキナリ井戸の処へ飛んで行って中を覗きこんだ。そして直ぐ顔をあげると、
「縄だッ。縄、縄ッ!」
と大隅学士の方を向いて叫んだ。学士が呆気にとられている間に、彼は軒下に吊してある綱束に気がついて飛びつくようにして手に取るとこれをバラバラに解いた。そしてその一方の端を持って大隅学士に近づくと、呀ッという間に学士の身体に綱をグルグルと捲きつけてしまった。それは素晴らしい早業だった。学士が何か叫ぼうとすると、
「さあこれでいい。一つシッカリその綱の端を持っているんだよ。……」
と早口に云って、彼は自ら綱の他端を持って素早く自分の胴中に結ぶと、井戸端に駈けつけた。それからポンポンと半靴を脱ぎ、井戸側に片足をかけた所で、首を廻して大隅学士の方をみた。
「ねえ……着陸の方は味噌をつけちまったが、爆弾投下術のこの見事なことはどうだネ、君。イヤあまり見事過ぎて、こんな軽業をやらにゃならぬとはちと弱ったが……いいかネ、君。いま人間が一人、溺れ死ぬかどうかという
そう云い捨てるなり、飛行服の男は無頓着に井戸の中へ下りていった。何者だろうと、学士が面喰っているうちに、飛行服の男は全身ズブ濡れになって、井戸側の上に匍い上って来た。その歯と歯の間には、
「大隅さんというのは
そういって彼はおどけた手つきで、上官にするように挙手の敬礼をした。
大隅学士は狐に鼻をつままれたような感じで、渡されたびしょ濡れの袋を開いた。中からは丸く膨らんだ茶色の大きな封筒が現れた。もちろんすっかり水に濡れていたが、裏には「東京一ツ橋、中央気象台、中屋技師発」とあり、表をひっくりかえすと、「
「ああ、どうも済みませんでしたネ、
と、彼は飛行家に呼びかけた。
「ササ君じゃない――サッサ君だ、サッサ砲弾というのが、僕の名前だ」
彼は井戸端で、すっかり裸になって、汲みあげた水でもって、気持よさそうに身体を拭いているところだった。見たところ二十四、五の
「ああ、そうですか。――しかし困りましたね。貴方の飛行機は
「ああ、あれなら大したことアないよ。一日か二日あれば、すっかり直る」
言葉は乱暴だが、気持は至極からりとした若者だった。
「わざわざこんなもののために飛んで来ていただいて恐縮ですなア」
「いや、なんのなんの」といいながら、佐々砲弾は脱いだ服のポケットから小さい帳面と鉛筆とを出して、
「ところで一つ話をして下さい。大隅さんは此処で何を研究し、何を発見されたんですかねえ」
学士は三度面喰って、
「……僕は東京通信新聞社の記者です。さあ一番乗りの特種を下さい!」
大隅学士は直ぐに佐々記者と仲よしになった。
佐々記者はなかなか熱心に根掘り葉掘り質問をするので、まもなくこの村の事件に関する
そんなわけで、佐々記者は記事を取るばかりではなく、今では大隅学士を大いに手助けして一日も早くこの事件の解決を図ろうと決心したのだった。彼は学士の為に、自分の知っているいろいろな知識を貸して与えた。
「大隅さん、いよいよ今日の十一時だ。さあそこにある受話器で、よく聞いているんだよ」
そういうと佐々記者はアタフタと、宿を飛び出していった。大隅学士は腕時計を見た。あと十五分で、その午前十一時となるのであった。彼の元気な友人は、今しも村の助役である
盗聴の用意は
午前十一時という時刻になると、学士は受信機のスイッチをひねって、高声器から出てくる話し声を待った。やがて待っていた佐々記者の元気な声と、古花甚平の眠むそうな声とが入り交って聞えてきた。もう甚平は、すっかり佐々記者の魔術に懸っているらしい。学士は彼の何者にも
「……すると、沖についた白い汽船は、どこの船だか国籍が分らなかったというのだネ。
「……
「そうだ。そこでボートに乗せて、海岸まで
「……海岸の暗闇の中には、誰か手提電灯を持って立っていた者があった。近づいてきたのを見ると、それは辻川博士じゃった」
「えッ、辻川博士!」と佐々記者は声を
「うん、辻川博士だったネ。それから?」
「辻川博士は何か分らぬ異人語で船長と話をしていたが、相談がまとまったものと見え、その三つの籠をわし等に
「そうだそうだ。そこで取引は済んだのだ。それからどうした……」
「それからわし等は、一室に入れられてたいへん御馳走になって、たんまり金を貰った。しかし用事はまだ残っていたのじゃ。わし等がたらふく腹を
といって甚平は額から脂汗を流しながら、ふと押し黙った。佐々記者は
「実に変なものだったネ、あれは……。しかし後で三人で話し合ったところでは……」
「そうじゃ、……話し合ったところでは、どうもこの籠の中には、何か生き物が入っているのじゃないかと……」そこまで喋ると、どうしたのか甚平の面には突如としてひどい苦悶の色が浮かんできた。
「こいつは風向きが悪いぞ。ナムケンゲンコーリ、ナムケンゲンコーリ。あーらカンツーム、ヴィスヴィス。……うーむ、そこで覚めちゃっては困るよオ。なんとか持ち直してくれイ……」
催眠術の達人と称する東京通信新聞の佐々記者は、目を
「……あああーッ。これァどうしたちゅう訳じゃろう?……」
甚平はキョロキョロあたりを見廻した。
「南無三、覚めな覚めな。カンツーム、ヴィスヴィス。あーら、あーらア……」
だがもう
大隅学士は、下宿で、佐々の帰りを
「いやあ、よくやって呉れたネ。君のお蔭で辻川博士の行状が大分明かになってきたよ」
「どうも惜しいところで催眠術が利かなくなっちゃったよ。そのうちに何とかして、もう一度やってみせるよ」
そこへ下宿のお
「やあ、俺の大好物が出てきたな。これはすまん」と佐々はゴクリと喉を鳴らした。
「ビールの
二人は泡立つ
「佐々君。この村にはどの点から見ても吾人の想像を許さぬ一大秘密が隠されていると確信する」
「一大秘密? ようよう、それだそれだ。そう来なくちゃ面白くない」
「まず失踪した武夫君が見たという亀のように大きな甲虫のこと、それから森の中に武夫君の声だけがあって姿を見せないこと、一年前突如として沖に碇泊した外国船のこと、辻川博士の怪行動のこと、蜻蛉の発生がたいへん遅れている上にいつも真西より三十度ほど北にふれた方角にばかり向いて飛んでいること、それから、お美代ちゃんの妹の失踪のこと……」
「まだある。佐々砲弾が忙しい東京の職場を離れてわざわざこんな土地に飛んで来たこと、それから大隅学士が暑中休暇の勉強地をわざわざこんな田舎に選んだこと、……」
「いや実を云えば、僕はどういうわけか、この矢追村の地形が気に入ったというか、気になるというか、とにかく非常に僕の心を惹きつけるところがあるのでネ、それでフラフラとやって来たのだ」
「第六感というところだネ」
「そうかも知れない。まあそんなわけで、この村には興味ふかい謎がウンと落ちているのだ。まるで多元連立方程式の、その要素をなす一つ一つの方程式があっちこっちにバラバラ落ちているといったような形だ。それを適当に組合わせてそれぞれの答を得るのも面白いことだが、その答の奥の奥にまた一つの大きい答があるような気がする。それは一つの世界を誘導することになる。たとえば個々の未知数を解いてみたらば、これが
「おお先生。……」と佐々記者はイキナリ立ってビールの泡だった
「そんな
佐々記者は、壊れた軽飛行機「
「おう先生、昨日先生が寝言みたいな変なことを喋ったが、あのときは頭がどうかしていたのじゃないかネ」
「
「ほほう。あれは本気で喋っていたのかい」
と佐々は改めて目を丸くして「すると今だに先生はあの無理世界とやらいうものに取り憑かれているわけなんだネ。そいつはどうも、
「……余計なお喋りをやめて、飛行機の修理の方に熱中したまえ。大事な修理を間違えたりした
「なアに、こっちの方は大丈夫さ」
そんな
「さあ、いよいよ出発だ」
「ああ、もうソロソロいい時刻だ。では出掛けるとしよう」
大隅学士は風呂敷包を小脇に抱え佐々記者は飛行服に身を固め、いずれも
「じゃ、しっかり頼むぞ」
「うん大丈夫。では君もしっかりやれよ」
そういって二人は左右に分れた。佐々記者の方は「
それから暫く経った後のこと、山麓に広大な地域を占める辻川博士邸の上空にあたって只ならぬ怪音が近づいた。それはどうやら飛行機の音のようであったが、だんだんと舞い下ってきてやがて屋根とすれすれになるほど近づいた。そして怪飛行機は、邸の上を往きつ戻りつして、一向に飛び去る模様がなかった。明かにこの博士邸が狙われている様子だった。博士の邸内は
そのときだった。また飛行機が低空を飛んできて、博士邸の真上を飛び去ったかと思った途端、城のように高い壁に
そのうちにも、また飛行機は引返してきた。こんどはまた一層低く飛んでいるらしい。ポーンとまた別の音が、正門脇の高い壁のところから聞えて、それと同時に、また目もくらむような火焔が立ちのぼった。
爆撃! 博士邸がいま飛行機から投げ下ろす爆弾によって爆撃されようとしているのだった。しかし幸にも、爆弾は邸内には落ちず、一弾また一弾、邸の外側に落ちては、盛んに爆発するのであった。
邸内では
そのとき、また一閃して、こんどはドッと
彼は明るく燃える松の木の傍にこわごわ近よったが、やがて
「なアんだい。本物の爆弾か
そう云い捨てて男は、ヒョックリヒョックリ
「呀ッ、こいつはうっかりしていた。明けっ放しておいて、誰かに忍びこまれでもすれゃ、これァ大事だった。危い危い」
といいながら、門の中に飛びこむが早いか、ピタリと
この男は博士に忠実に仕える岩蔵という男だったが、彼の安心は、果して正しかったであろうか。
大隅学士は、遂にまんじりともせずに、暁を迎えた。
それはもちろん異常なる緊張にもよることだったけれど、一つには夏の戸外にはとても
辻川博士邸内にも、暁の雲間を破った太陽がすがすがしい光をさし込んできた。大隅学士はあたりを警戒しながら、庭園の繁みを
繁みからソロソロ匍いだした大隅学士は、幸いに誰に
匍いだした大隅学士は、この異風景の中に、
だが大隅学士の
「おお、これは……」
といったきり、彼は化石のように立ち
まず最初に目についたのは、第一号という檻の中にバタバタ飛翔している
「ウム、黒蠅だッ。……」
身体の大きさが烏ぐらいもある大黒蠅! 始めて見る怪物だった。――しかし怪物はそれ一つではなかった。その次の檻を見よ!
……見るからにテカテカと黒光りのする
「ウム、これだナ、魔の森の怪物! 亀と間違えた
彼はおのれの上下の歯がガチガチと
「
彼はおのれの頭髪が一本一本逆立つのをハッキリ意識した。何たる驚異、ああ何たる無惨! 隣りの檻の中に収容せられていたのは、昆虫にも
「大入道の赤ン坊か。……」
と、大隅学士は思った。これがお美代の妹の代志子であることを知らぬ大隅学士は、大入道の子供だと思った。
だがこの檻の中に飼われている生き物の凄く巨大なることよ。これはまるで御伽噺に出てくる大人国の動物園に行ったような景色である。
さて次の檻には何物が入れられているのか。彼は俄かに不安に襲われながら、その先を見ずにはいられなかった。それで次の檻の中を
「ううッ、……」
と一言叫んだなり、俄かに気が遠くなってヘタヘタとその場に崩れるように坐ってしまった。ああ、見ないがよかった。その檻だけは、たとい一命が亡びようとも見ない方がよかったのである。
一体そこには、何者が入っていたのであろうか。
「ああ、こうだと知ったら、僕は覗くんじゃなかった!」
それほど大隅学士をして、顔を背けさせたものは何だったか。その第四号の檻の中には、一体どんな生き物が入っていたのだろうか?――実にそれは、魔の森に分け入って行方の知れなくなった武夫少年だった。いや、もっと正しくいえば武夫の化物だったという方がいいかも知れない。なぜなら、檻の中に収容せられていた武夫少年は、
辻川博士の庭内に造られた鉄檻には、不思議にもこうした巨大な生き物ばかりが
この疑問に対してまず誰でもが想像し得られる一つの解釈は、この怪邸宅の主である魔人辻川博士が妖術をもってこんなグロテスクな[#「グロテスクな」は底本では「グロテクスな」]生き物を作ったのではないかということだった。これは辻川博士の正体がまだハッキリしないので、只今は軽々しく口にすべき問題でないかもしれないが、しかしこの多種な大入道が
この奇怪な檻の中の生物を一度でも見た者は、先年
大隅学士は、欅の葉蔭をとおして
「まア、ここは暫く会わないで置こう」
大隅学士は、やっぱり会わないことに決めた。武夫少年を救うために単身魔の森に忍びこんだとき、自分の持っていた懐中電灯を叩き落としたのも武夫だった。
武夫に会うことを遂に諦めた大隅は、こんどは第二段の活動に移った。
空中には幾度となく爆音が聞えてきた。それは同志佐々砲弾の乗った「
夕方になり、庭園が薄暗くなりかけたとき、それを待っていたように、また「
大隅学士は、空中から投下された兵糧によって腹を充たした。そして元気に、夜の更けてゆくのを待った。
やがて人気のない邸内は、深山のように静かに更けていった。静かというよりは、物すさまじき夜を迎えたといってよいかも知れない。林の中には、どこから飛んできたのか
博士の住む建物には、灯があかあかと点いた窓が二つ見える。それはまるで海坊主の二つの眼のようにも感じられた。その窓下に忍びよった大隅学士は、恐る恐る頭をあげてみた。室内には、
「ウム、忍びこむのは今だ……」
大隅学士は、かねて見当をつけて置いた裏手の入口へ廻った。そこからは岩蔵がよく出入をしていたのである。扉に近づいてソッと押してみると、果してそこには錠がかかっていなかった。
「締めた!……」
大隅学士は勇躍して、中に潜入した。そこにはズッと小暗い長廊下がつづいて居り、その奥の方には明るい広間が見える。学士はその広間を目指し、カーテンの蔭に添って足音を忍びながらソロソロと近づいていった。しかしそこにはもう
「……呀ッ……」
と声を立てる
「ウム……」
残念だ! なにをッ……と、大隅は怪人物の腕から
大隅が抵抗しなくなると、彼をしめつけた腕は、やっと大隅の首から離れた。やがてカーテンの蔭からヌッと現れてきたのは、まるで西洋の悪魔が無人島に流されたような実に
「……イヒヒヒヒッ。……」
博士は、薄気味わるい笑みを浮べて、廊下に長く伸びた大隅の身体を見下ろした。そして、大隅の身体をスリッパの先でポンポンと蹴ってみたが、一向動く気配のないのを見てとると廊下を向うへスタスタと歩きだした。二、三間も行ったろうか、すると博士は急にクルリと後をふりかえった。そして右手の指を雀の巣のような頭髪のなかにつきこんでゴシゴシやっていたが、やがて大きく
「……そうだ。こいつを使ってやろう」
使ってやろうとは、どう使うのか分らないけれど、博士はそういうと、大隅の身体に手をかけ、ウンと力を入れて肩に背負うと、また廊下の向うへスタスタと歩きだした。
廊下を向うへ曲り、自動エレヴェーターの扉を開き、ガチャリ、ジーとのぼっていったのは第五階!
エレヴェーターが自然に停ると、博士は、扉をあけて、外に出た。博士の服装に比べて、廊下は清潔に掃き清められ、各室の扉に塗ってあるペンキの色も、
明るい電灯の光の下に照らしだされたのは、二十坪近くもあろうと思われる広い
そのうちに、室内に大きな電灯が消され、壁の一方から円錐形に投光される照明灯だけがのこった。その円い光の中に、クッキリ浮かんでいるのは、手術台のような一つの台、手術台とちがうところは、なにかゴテゴテと、
博士の顔は、だんだんと子供の頬のように紅潮してきた。なにかしら、博士を興奮させるものがあるらしい。
やがて博士は、大隅の寝ている手術台の傍へ、また別の、カンバスがスポリと被さっている大きな器械を動かしてきた。カンバスをとると、その下からは、大きな放電管が現れてきた。
「さあ、光線はこの位なら充分だろう」と博士はニヤリと笑った。「さあ、いよいよ実験を始めるかな。まずこの人間の右半分に、この器械から出るオメガ光線を投射し、左半分には例の疑問線を当てることにしよう。まずこの器械によってオメガ線を与えてみよう。……」
何ごとが起るか? 怪博士の怪実験の犠牲になろうとする大隅学士は、このとき始めて気がついた。眼にうつったその場の異常な光景に、学士は恐ろしい危険を身に感じて、ハッと
「ウヌ……」
大隅学士は、やにわに跳ね起きようとしたが、身体は台にしっかり結びつけられて、ビクとも動かなかった。待ってくれ――と、叫ぼうとしたが、その声も出ない。口の中に、なにか綿のようなものが詰めこんであった。
「おお、気がついたナ。……」
博士は大隅の
ジリジリジリジリジリン。
と、けたたましいベルの音が、室の一隅から起った。博士がハッと振りかえってみると、隅のパネルの上に、赤いパイロットランプが、盛んに点滅している。……
「ああ、……丁度、通信の時刻がきたんだナ」
博士は
「ああ、辻川博士です。そっちはどうかネ?」
と云った言語は、意外にも日本語ではなくそれは世界語の称あるエスペラント語だった。
「そうか。ちょっと待ってくれたまえ。SS五〇一が四ポイント六八か。……SS五〇二が四ポイント七九か。……」
博士は何か細かい数字を盛んに筆記した。
「よし、ありがとう。……こっちも今夜は
しばらくは、博士が何かわからぬ沢山の数字を
「……この数字は、いよいよ僕の仮説の正しいことを証拠だてるものだと思う。ねえ、君も同感するだろう。とにかく近く地球を離れてみたいと思うんだが……。イヤその前に、一つ面白い実験をやりかかっている。今夜だよ。今なんだよ。君が来られると面白いのだが……ナニ今夜はオリオン星座から目が離せないって。そりゃ残念だ。とにかく僕は今夜この実験をやってしまわないと、研究のプログラムが……そうそう、その通り。じゃあ、この次は十六時に……。失敬!」
博士の奇怪なる電話はそこで切れた。
博士はパネルのところから戻ってきた。
「さあ……。と、これでよかった筈じゃが……」
といって、また丁寧に、装置を調べはじめた。
大隅学士は、無言で博士の眼を
――疑問に思っていることを、一つでもよいから、博士が明かにしてくれればよいと思った。しかし博士は、大隅学士などに用はないといった様子で、光線器械の横にすこし
このとき手術台の上に寝ていた大隅学士は、苦心の末、ようやく口の中に詰められていた綿のようなものを、舌でもって外に押しだすことができたのであった。彼はたいへん呼吸が楽になったので元気を盛りかえした。手術台の上の彼は、更に第二段の工作にうつった。まず何とかして手を
「呀ッ、あいつだッ」
いつ入って来たのか、佐々砲弾が忍び足でこっちへ向ってくる。
「射つな。――」
大隅はベッドの上から目顔で知らせた。佐々は不平だったらしいけれど、博士が全く後向きに仕事に熱中している様子に安心をして、これなら組打ちをしても大丈夫だと悟ったらしい。そこで彼は、
博士は不意を喰って、その場に一メートルほども飛び上った。佐々は佐々で、思いがけない失敗に、ひどく
そうなると、どっちも五分と五分だった。
「貴様ア……」
「ウヌ、何者かア……」
二人は
佐々は身を沈めて、つと拳銃を拾いあげようとした。
「痛いイ……」
悲鳴をあげたのは佐々の方だった。
「ウヌ。助け……」
声が出なくなった佐々は、博士のために遂に
「
佐々を縛りあげてしまうと、博士は頬を
「ああ痛い。……あの男なら、僕がさっき楽に寝かせて置いたよ。少くとも僕の今の場合よりも、もっと丁寧に取扱ってある。それになんだ。これは……。博士、もっと綱をゆるめてくれんか」
博士はそれを聞くと、窓のところによって、外を見た。そしてチェッと舌打をした。
門脇の小屋から、岩蔵を助けだしてくるまでに十分ほどの時間が流れた。この間、大隅と佐々とは、
義足をつけた岩蔵の姿を見たとき、二人の不安はますます深くなった。一体博士はこの男を使って何をさせようというのだろう。
ところが、この男は、佐々の足の
「さあ、向うへ歩け。……」
義足の男は、佐々の身体を向うへ突きとばした。
――なアに、
大隅はそういうつもりで、目に物を云わせた。
佐々はエレヴェーターに乗せられた。岩蔵だけかと思っていたら、辻川博士も一緒にきた。やがてエレヴェーターはゴーッと下に下っていったが、エレヴェーターの停ったのは、地階だった。彼は死刑囚のように、外に引張りだされた。
「おれをどうしようというのだい」
「黙って、歩け!」
岩蔵は憎々しげに、佐々の腰のあたりをドーンとついた。
三人は地下道に入った。天井こそ低いが、まるで中ソ国境の名物トーチカの内部のように頑丈にできていた。乾燥した涼しい風がどこからともなく吹いてきて、いい気持だった。だが地下道の行方は何処であろうか。
長い地下道を千メートルぢかくも行ったころ、通路は急に広くなった。見廻すと、そこは倉庫らしく、大きな
博士は一人先に立って、鉄扉4の前に行った。そしてなにかガチャガチャやっていたと思うと、鉄扉はしずかに左右に開きはじめた。そして中から現れてきたものは何だったであろうか。――大きな爆弾のような恰好をしたものがギッシリ
ああロケット。なぜ佐々はロケット室の前に引張って来られたのであろうか。
大隅学士ほど、未来を
彼は手と足とを
「さあ、自由になったぞ!」
大隅学士は床上に立ち上ることができて狂喜した。彼は珍らしそうに、
彼はそこで、この後の行動につき、どっちにしようかと迷った。博士の留守を利用して、この部屋の秘密を調べるべきだろうか。それとも
彼は残念に思ったけれど、今は極力佐々の跡を追う方が正しいと思ったので、この
この第五階には、佐々の姿が見えなかった。階段を下に降りようとすると、そのとき窓の外がパッと明るくなったように感じた。
「おお、この火柱だ!」
と大隅学士は吾にもなく、高く叫んだ。かって魔の森の中で見たのは、やはりこのような火柱だった。この矢追村の人たちが、魔の森の方向に火柱が立つといったのは、このことなのだ。ここで始めて火柱の正体が分った。これこそ高空に舞いあがり、宇宙旅行をさえ可能ならしめるだろうと云われているロケットに違いない。ロケットは、これまで幾度もこの辻川博士邸から噴射されたのに違いない。魔の森と辻川博士邸とは、距離がかなり近よっている。魔の森でみたと思った火柱も案外森の立木をとおして、博士邸内を見下ろしていたのかも知れないし、遠方から見た村人が、この近よった森と博士邸とを見あやまったのも、また無理のないことだった。
大隅学士はロケットの発射されるところを探すために、階段を下っていった。彼は一階から外に出ようとしたが、扉には鍵がかかっていた。これでは外に出られない。困ったものだと次の方針を考えているとき、ゆくりなくも、そこに地階に下りる階段が開いているのに気がついた。
大隅学士は、階段をソロソロと下りていった。その結果、先刻辻川博士たちが佐々砲弾を引きずるようにして通った地下道に出ることが出来た。
「ああ、これは壮観だ!」道を見透かしてみると、どうやら三人の足跡がついている様子であった。彼は勇躍して地下道をズンズン進んでいった。
やがて、広いホールに出た。
「おお、倉庫らしいものが並んでいるナ」
大隅は倉庫らしい戸口をズッと見廻した。すると、倉庫は、厳重にピタリと閉っているのにもかかわらず、ただ一つだけだらしなく開いている扉が目についた。彼はその扉の前に向って駆けだした。
「第4号だナ。三人ともこの中に入っているのだろうか」
彼は扉の蔭から、ソッと中を覗いてみた。なるほど沢山のロケットが
誰が殺されているのだろう?
大隅理学士は、愕こうとする心臓を
佐々砲弾は、ロケットの中に閉じこめられたところまでは覚えていたが、それから急にドンと激しい衝撃をうけた途端に
「……ああッ……」
佐々が気づいたとき、
シューゥ、ゴトゴトゴトゴト。
なんだか蒸気が
「ああッ……。頭が割れてしまいそうだ。薬はないか……」
彼は両手で頭を抱えて、身体を
そのときだった。突然大きな声がした。
「座席について、横の壁にある
たしかに人間の声だった。
誰?
と、思って
変だなアと思っていると、また五秒ほどして、同じ声が、同じ言葉をくりかえして叫んだ。
「座席について、横の壁にある抽出を明けろ。そこにある水薬を……」
神の声か、それとも魔人の声か知らないが、佐々はその言葉に吸いよせられるように感じた。彼はすこしばかり元気を取り戻して、その場に起きあがった。よく見れば、彼は樽の底のようなところに、長くなって倒れていたのである。なるほど
佐々はようやくのことで、その座席の上に自分の身体を載せた――壁を見ると、そこには抽出があった。懸金を
神薬か魔薬か、どっちであるか知らない。しかも佐々は
「ああッ……」
一壜の液体をのみ
「ああッ、……この薬は
説明も出来ないくらいの激しい頭痛が、まるで
「ああ、直った。……万歳!」
と叫んだ。
すっかり元気になった佐々は、そこで改めてこの室内を見廻わした。それは前にも言ったように、まるで樽の中のような
「だが、一体おれはこれからどうなるんだろう」
気が落ちついてくると、頭の中に急に不安な気持が黒雲のように拡がっていった。
「これはロケットだ。いまおれはロケットの中に閉じこめられて空中をドンドン飛んでいるのだ。どこへこのロケットは行こうというのだろう。おれを一体どうしようというのだろう。まさか月の世界へ行かせようというのではあるまいな。……それに、見れば別に操縦装置も何もないようだが、うまく着陸できるのかしら……」
元来が
「……何か操縦装置みたいなものがありそうなものだが……」
そのとき彼は、前の四角な
「……おお、これは何をするための押し釦かしら?」
変な押し釦を押して厭な運命を背負いこんでもつまらないとは思ったが、なにしろこの狭いロケットの中である。じッとしていても天涯にふり流されて、再び地球に戻れないかもしれないのだ。ぼんやり死を待っているよりは、
するとバタンという音がして、卓子の板が二つに割れ、左右に開いた。
「あッ……」
割れた板の下から現れて来たのは、四角な
「これは何だろう……」
佐々はその桝の底を覗いてみた。
大体その硝子底は暗かった。しかし一つの硝子底には、丸い月のようなものが青白い光を放って映っていた。また一つにはボンヤリ明るい
「これは何が見えているのだろう?」
佐々砲弾の眼は、この物珍らしい映像にしばらくは釘づけにされていた。
「……うん、これはことによると、このロケットの外の風景かもしれないぞ」
そう思った彼は、もう一度念入りに、その六つの枠のまわりを調べてみた。すると果して、一つ一つの桝には小さな札が貼りつけてあった。「頭」「尾」「前」「後」「左」「右」という六つの文字が見える。
そこで改めて、月のような形が見える、桝の名札をしらべてみると「左」とある。それからボンヤリ明るい光団と黒い砲弾のようなものが見える桝の方をしらべてみると、これには「尾」という名札が貼りつけてあった。
するとこれは分る……。
「ああ、この六つの桝は、テレビジョンの受影幕なんだ。つまり六つのテレビジョンでもって、このロケットの前後左右と、頭に尾との六つの方角の景色が映っているのに違いない。これは実に素晴らしい仕掛けだ……」
佐々は六つのテレビジョン
ボンヤリ明るい光団は、放れてゆく地上の都市の灯がうつっているのだろう。その顕著な光団は東京あたりか、それとも
「だが、あの黒い砲弾のようなものは何だろう?」
黒い砲弾のようなものは、受影幕の中をフラフラと揺いでいた。その大きさはいつも同じであった。黒影が揺れる調子によっては、その横からパッパッと青白い閃光が見えるのが物凄かった。――一体この怪物は何であろうか。
ところが、この黒い砲弾の形が、俄かにハッキリ見える機会が来た。その黒い砲弾が、急に左右に伸びだしたのである。みるみるその砲弾は魚雷のように長細くなった。そして尾部からは、目も眩むような閃光をパッパッと噴きだしていた。
「ああ、ロケットだッ。このロケットを追ってくるもう一台のロケットがあるんだ……」
ロケットがロケットを追う……。
追い迫ってくるロケットは、ちょっとだけ横になっただけで、
そのときだった。
「これは変だぞ……」
佐々は急に気がついて、大声をあげた。それはテレビジョンの入った函卓子が、だんだんと低くなってゆくのであった。なんだか卓子が、床下に沈下してゆく様子だった。なぜそんなことが始まったんだろう。
だがそれは大変な思い違いだった。卓子が沈下してゆくのではなかった。佐々の足がついている床がだんだんと上にのぼってくるのであった。
「おお、床が上る……」
彼が天井を見上げた途端、一切がハッキリと分った。――なぜなら天井が、いやに低くなってきたからである。
「これは大変だッ……」
佐々は椅子から
彼は身に迫る危険をハッキリ感じた。彼は両手を壁に、両足を床につけてウンと突っぱってみた。そうして床の上ってくるのを防ぎとめたいつもりだったけれど、床はそんなことに
やがて
佐々の死にもの狂いの努力も甲斐なく、彼の身体はロケットの尖端に、まるで壜詰の
そこは厚い硝子張りになっていて、四方がよく見渡せた。しかし眼にうつるものは、
そのとき突然、耳もとで人の声がした。
「どうだ、何か痛みを感じないかネ」
その声の方に、顔を向けてみると、硝子の中に小さい穴があって、その奥から声が出てくるのだった。
「なにをッ」
と、彼は憤然と怒鳴りかえした。
「どうじゃ。痛みを感ずるようだったら、そう云いなさい。……君、そう顔を横にしないで、顔を正面に向けたがいい」
怪しき声の主は、どこからこっちを見ているのか、佐々の顔色を手にとるようにハッキリと眺めているらしかった。
佐々は気味わるくなって、声のいうとおり顔を正面に向け直した。そのとき正面に何かチラリと動いた影があった。よくよくみると、その正面の硝子板の向うに、怪しげな髯男の顔が薄ボンヤリと見えた。
「ウン、貴様は辻川博士だナ。……なんのためにおれをロケットに乗せ、こんな目に合わせるんだ」
博士の顔は、それについて何の応答も与えなかった。そしてなおも熱心に、佐々の面をためつすがめつして、穴が明くかと思われるほど眺めているのだった。
「……ふうむ、これは疑問線の力が弱いのか、それとも疑問線の到来方向が変ったかナ。どれどれ……」
そういう声の
「……げッ、げッ、げッ……」
佐々が苦しそうに
「……た、たすけてくれッ」
佐々が叫ぶのを、博士は興味ふかげに眺めていたが、突然どうしたものか博士の顔にアリアリと
それと時を同じゅうして、佐々の乗っていたロケットは俄かにビリビリッと震動を始めた。そして彼を責めていた不快感が、急にピタリと停まった。――正面の硝子にうつっていた博士の顔が、雨のように流れだしたかと思うと、チカチカチカと
異変はなおも続いた。――
佐々の身体を上に押しつけていた床が、スーッと下に下りだしたかと思うと、あッという間に、彼の身体は、例の樽底のようなフェルト床の上にドーンと転落した。彼の全身は、圧力から俄かに解放されて、ポッポッと激しい熱感に襲われたのだった。
ロケットの具合が、すこし変になっていることに気がついた。佐々は痛む身体を起して、再びそこに現れた函卓子の上を
佐々は急に目の前が真暗になったように感じた。そしてヘタヘタと卓子の下に、身体を崩れ折ったのであった。
「うぬッ、こいつアいかん」
辻川博士は配電盤の前に仁王立ちになり、あっちの開閉器、こっちの
「ますますいかん。機械が急に利かなくなった
盛んに器械をいじっているうちに、やっとテレビジョン回路のパイロット・ランプがパッとついた。博士は
「なにも映らん」博士は嵐に遭った船長のように
博士は正面の配電盤にとびついて、起動スイッチをポンポンと入れていった。電流計の針がブルッと震えたかと思うと、弾かれたようにピーンと右の方へ一
「ううむ。なんたることじゃ」
博士は獣のように、低く
「う、うッ……分らん、分らん。……B18号はもう取戻せないのかッ!」
すると俄かにリンリンリンリンと、けたたましい
辻川博士はサッと顔色を変えた。
そして座席から立ち上ろうとしたが、このとき遅し、博士の身体は宙にグルッと一廻転して、壁の上にドタンと叩きつけられた。――ロケットが急に
「ううむ……」
博士はムックリ半身を起すと、
「……おお、神よ。われを見殺しにしたもうことなかれ!」
博士は悲痛な声を絞って、天井の片隅を
そのころ、博士の邸内においては、博士の思いもかけぬような異常な光景が展開していたのを、博士自身はまだ気づかなかったようである。
博士邸の塔の真下にある発電室の中には、二つの人影がこま
「……ねえ
といったのは、発電機のところで、油だらけになっている大隅理学士だった。
「いいや、わしのことなら大丈夫でござりまするわい……」と、胸一ぱいに
「……河村さん。もうその辺で
河村と呼ばれた繃帯男こそは、大隅学士がロケット室の中に胸に剣を刺されて
彼は博士がロケットを操縦して天空に舞いあがっていると聞いて、ゲタゲタと物凄い形相をして笑った。そして大隅学士をこの塔の真下にある発電室に案内すると、そこにある
辻川博士の乗ったロケットは、遂にあらゆる反抗力を失ったものか、真黄色な煙を
怪博士
それは暫くお預りとして、その翌日からこの矢追村に突然姿を現した奇々怪々なる幽霊事件について、筆を進めてゆかねばならない。
「とうとう、辻川のやつをやっつけちまった。ざまア見ろいだ!」
と、武夫の父の河村氏は
「ああッ……」
と叫ぶなり、その場にドーンと倒れてしまった。
「オーイ、河村さアーン」
大隅学士は、河村を抱き起すなり、その
「これはいけない。……誰か手を貸してくれないかア……。」
と、無駄と知りつつ、彼は無人境に等しい怪博士邸内の動力室で、悲鳴をあげた。
そのときだった。
「おお……」
誰か応えた者があった。何者かとふりかえって見ると、入口のところからオズオズと顔を出したのは、
「おお、君は居たのか。……今まで何故引込んでいたんだ」
大隅学士は、岩蔵が博士に連れ立って、ロケットで飛び出したものと思っていた。だから、彼の出現は思いがけなかった。しかし岩蔵の話を聞いてみると、こうだ。――博士が自らロケットに乗り込んだときに、突如河村が姿を現して、まだ開いていた入口に飛びついた。そこで博士と物凄い格闘が始まった。岩蔵は博士に力を貸すべきだったかも知れないが、河村とは旧知の間柄であり、彼の強いことを知っていたので、これは面倒だと逃げだした。そして自室に帰って小さくなっていたが、もういい頃だと思って、様子を見るために、再び引返してきたのだという。その言葉は嘘ではないようだ。すると河村の負傷は、すべて博士の
「それでは丁度幸いだ。河村さんのために、医者を呼んで来てやりたまえ」
ところが岩蔵はそれを
「……これ位の傷なら、あっしだって手当が出来ますよ。なにしろ、あっしは外科の方なら、ちょっと心得がないわけでもないのでネ。ごらんなせえ。この足を一本無くしたときにも、あっしゃ、人手なんか、ただの一つも借りなかったくらいですよ」
と、岩蔵は妙なことを自慢しだした。
大隅学士は、そこで
「……ナーニ大丈夫ですよ。傷の手当てさえして暫く安静にさせとけば、元気になるのにはそう掛りませんよ」
そういって岩蔵は、河村をソッと背負うと、自分の小屋の方へ搬びだしていった。
これで大隅学士の重荷は、すこしばかり軽くなった。――さあ、後には、数々の大変なことが控えているのだった。まず第一に、佐々砲弾のロケットの行方である。
「……佐々のロケットを探してやらなくちゃ……」
彼は、電子望遠鏡の前に立って、その操縦桿をいろいろと操りながら、
「……ああ、この光り物が、そうじゃないかしら……」
大隅は突然チカチカと息をしているような
「おお、B18号。……これだッ、砲弾の乗っているのは……」
ところが佐々の乗ったロケットの距離を電子望遠鏡の目盛で読んでみて愕いた。地球からの距離は、丁度八百キロメートルの向うにあった。それではもう成層圏なんか、とうの昔に飛び越し、電離天井のE層やF層も突き抜け、その三倍も向うに居るのだ。しかも見ていると、佐々砲弾の乗ったロケットは、地球の方に舞いもどるどころか、なおも一層グングンと地球を離れてゆきつつあることが、望遠鏡の目盛の再調整で、それと分ったのである。一体その行方は何処であるか。佐々砲弾はどんな気持で乗っているのだろう。地球に
大隅学士は、電子望遠鏡の前に坐りきり、刻一刻と、佐々のロケットにピントを合わせては、
トロトロと睡ったらしい。
なにしろ大隅学士は、連日連夜の奮闘で、身体は綿のように疲れていた。しかし刻々に危難が自分の上に今にも落ちてきそうに見えるときには、緊張していた。だが今は、怪博士のロケットも爆破し、博士邸の番人である岩蔵も彼に降服し、この博士邸は今や彼の支配下にあるようなものだった。
彼は危難から解放せられた形で、ただ友人の身の上を案じながら、外に手段もないので、五分間置きに電子望遠鏡を覗くだけの仕事しかなかったので、そこで精神の緊張が解け、そこへ疲労感が急にあふれてきて、さてこそトロトロと睡ったものらしかった。
「あッ、これは
大隅は、
「これはいかん……」
彼は顔色をかえた。しかしそれはもう遅かった。いつの間にか、佐々砲弾の乗っていたロケットの機影は、望遠鏡から外れてしまったのだった。彼は愕いて、あれやこれやと調整し得られるものを操ってみたが、遂に求める機影は入って来なかった。……そのうちに東の空がだんだんと白んできた。そしてやがて夜は明け放れた。
「ああ、砲弾はどこへ飛んでいったのだろうッ……」
と、大隅理学士は、怜悧で勇敢であった同志の身の上を
爽やかな朝の微風の中に立った彼は、ようよう生き返ったように思った。彼は広い庭をトコトコと歩いて、門脇にある番人の岩蔵の小屋に行ってみた。
岩蔵はもう起きていた。そして傍のベッドの上には、武夫の父河村が、胸一杯に、部厚な繃帯を巻いて、唇は色うすく、顔色は土のように蒼ざめていたけれど、気持よげにスヤスヤと睡っていた。この分なら、大丈夫恢復するだろうという岩蔵の言葉に、彼はホッと安心の胸を撫で下ろした。河村こそは、やがて恢復すれば、この怪事件について参考になることをふんだんに喋ってくれるだろうと思われたので、彼は嬉しくなったのである。
そこで大隅理学士は、あとを岩蔵に頼んでおいて、久しぶりに、下宿していた村の方へ帰ることとなった。彼はトボトボと、なだらかな坂道を下りていった。僅か三、四日見なかったばかりの矢追村だったのに、彼はもう三、四ヶ月も来なかったような気がするのだった。
下宿では、朝日を浴びて洗濯ものを乾していたお内儀が、彼を見つけると頓狂な声をあげて近づいてきた。
「あらまア、大隅先生。わたしゃ心配していましたがナ。貴方さまは一体どうなすったというの……」
「イヤ突然だったけれどもネ、ちょっと東京へ出かけたんです。知らせる間もなくてどうも……」
といったけれど、大隅の洋服はヨレヨレになりところどころ鍵裂きや泥に汚れて、一と目でそれと、連日の悪戦苦闘を物語っていた。
「へえ、東京へ……」
とお内儀は妙な顔をして首をかしげたが「それからあのお連れの佐々さんはのう」
「ああ、佐々君か。彼も一緒に東京へ行ったんだが、そのうち帰ってくるだろう」
「そんなに宿へも知らさんし、支度もせんでお出掛けになるとは、一体どんな御用かいのう」
大隅は只
「なアもし大隅先生。……もしわたしの思い違いなら許して貰いますが、先生がたはあの魔の森へお入りじゃったのではないかのう。もしそうなら、ぜひ悪魔払いのお
大隅はお内儀の声が、だんだん遠くに小さくなってゆくのを感じた。彼は疲労のためにそのままグッスリと熟睡に陥ったのであった。彼の疲労はちょっとやそっとでは恢復しそうもなかったのである。
それからどの位経ったかしらないが、大隅学士は、突然金切り声を聞きつけて、ハッと眼が覚めた。
ドタドタドタと梯子段に尻餅をつきながら転げ落ちてゆくような音、そして、
「ウーム」
という
彼は何事が起ったのかと
「誰もいない筈なのに、誰だろう?」
と思って、室内をグルッと見廻したが、そのとき窓のところから何ものとも知れず真白なものがフワリと外へ飛び出していった。
「呀ッ……」
彼は恐ろしさよりも好奇心が先に立って、すぐ窓のところへ駈けつけた。するとその白いものの尾のようなものが、
「ギャッ……」
と悲鳴を挙げたのは、白い怪物ではなくて大隅学士の方だった。彼がその白い尾に触るか触らないうちに、彼の身体はドーンと
「何だろう? 人間かそれとも
彼は再度跳ね起きると、欄干のところへ突進していった。そして暗い外を見た。白い怪物はたしかにまだそこにいた。しかし彼が顔を出すのと一緒に、暗闇の中に紛れこんで、スーッと姿を隠してしまった。
「うぬ、逃がすものか……」
何が何やら分らないながら、彼は
その身体を跳び越えて、彼は往来へ飛んでいった。そしてそこら中、あっちへ走り、こっちへ駈けしたが、その白い怪物の姿を遂に見失った。彼はスゴスゴと、宿の方へ引返した。
お内儀はようやく気がついたものと見え、梯子段の下に半身を起し、腰のあたりを痛そうに撫でていた。
「おお、お内儀さん。今のは、あれは何ですかネ」
「ナ、何ですかって、わたしもあんな恐いもの知らへんがのう。どう見ても幽霊じゃ。先生が寝とらす周りをグルグルと何遍も廻っていたがのう」
「ナニ僕の寝ている周りをグルグル廻っていた?……やっぱりあれは幽霊かなア」
大隅学士はドキンとした。果してあれは幽霊であろうか。日本の幽霊は、ああいう場合、糞落ちつきに落ちついて、
と、そこまで考えて来たときに、彼はハッと胸を衝かれたように思った。
(もしや、あれは佐々砲弾の幽霊ではないかしら? それともあの怪力の辻川博士の亡霊だろうか?)
大隅学士は、俄かに失った友のことを考えて、胸をしめつけられるように感じた。しかしあの佐々砲弾が、まさか幽霊になろうとは考えられない。第一、幽霊なんぞというものは、この頃すっかり
宿のお内儀は、ヨロヨロした足どりで、土間に下りて、息ぎれの水を飲みにいった。
そのとき、ワイワイという人声がして、大勢の足音が門の前を通りかかった。
「おう、おばア、いるかア……」
と、一人が戸口から声をかけた。
「おう、甚平さんか。……うちでは、えらいことじゃ。今しがた、二階のところをナ、白い着物を着た幽霊がフワフワと飛んでいたのじゃ」
「ナニ白い幽霊が。……お前の
「アレお前の家にもかって、他へもあの幽霊が出るのかの?」
「いや、いま村中はその幽霊のことで大騒ぎじゃ。太郎作のところへ出たのが最初で、それから小学校の用務員室に出る、酒屋の喜十の店先に出る……そんなわけであっちからもこっちからもの注進で、その図々しい幽霊は六ヶ所に現れよったのじゃ。おばアのところのを入れると、都合七軒になる。いま村の衆で自警隊を組み、幽霊狩りを始めているところじゃ」
「おンや、そんなら幽霊の出たのは、わたしのところばかりじゃないのじゃな」
「そうだともそうだとも。なんじゃ知らぬが、
「おお、昨夜の火柱のう。わたしゃあんな気味の悪い火の柱は生れて始めて見たわい。寿命が縮まったが、それに昨夜の今夜じゃ。村長さんに頼んで、村中の総お
「うん。わしももう生きた
そういって、故老古花甚平は、外へ出ていった。
大隅学士は、幽霊事件にも興味を引かれたが、それよりも辻川博士邸がその後どうなっているか心配だったので、お
彼は懐中電灯の灯をたよりに、暗い野道を一文字に、怪博士邸の方にのぼっていった。岩蔵と
「どうだネ。河村さんの容態は?」
「どうもまだ分りませんな。気が一向ハッキリして来ねえのです。傷の方は、いい塩梅に
「そうか。君の手で合わなきゃ、土地の事情を知らぬ東京から医者を呼んでもいいが……」
「いえ、とんでもない……」と岩蔵は強くかぶりを振りながら、「このわしで大丈夫でさア。わしに手当が出来ないものなら、どんな大博士だって、やっぱり出来やしませんよ」
大隅学士は、そこで河村を岩蔵の小屋に見舞いに行った。
「オイ、岩蔵君。どうして河村さんを、こんな押入れの中に入れちまったんだ。座敷に寝かして置くのがいやなのかい」
「いえナニ、そういう訳じゃないんですが、……いつまた誰がこのお邸に来て、あの人を見つけるかしれませんからねえ。そうなるとあの人の
「ほほう、それはまた何故だ。村人が来ても入れないから大丈夫じゃないか。また辻川博士は墜落してロケットと共に運命を共にしたので、もうこの邸へは帰って来ないし……」と云ったとき大隅の
「…………」
岩蔵はそれに応えようともしなかったけれど、そのソワソワした態度は、大隅学士に少からぬ不安の念を植えつけた。
「
といったとき、突然本館の方角に当って、何かガーンという金属板を力一杯
「
大隅はハッと
「おう、あれは何者の仕業だ」
この邸の中には、例の
「わしは……わしは何も知らねえんで……」
と、岩蔵はオドオドした様子で、下を向いていった。
「知らない? 本当か。……とにかく僕は見て来る……」
大隅学士は勇敢にも、
大隅学士は、植込みの中を注意ぶかく縫っていった。そして勝手知った裏口から、ソッと本館内に忍び入った。
それから、五階までの階段を、コトリとも
大隅は、なおも跫音を忍んで、廊下の上を歩いていった。
「どの部屋だろう?」
尋ねてゆくと、やがてそれは分った。それは、かつて彼が辻川博士のために実験台の上に乗せられ、博士の
そこで彼は、思い切り勇気を出して、廊下に積んであった
「……ああッ……」
学士は愕きのあまり、函の上から転げ落ちそうになって、やっと
一体この怪物は何者であろうか。どこからやって来た生き物なのであろうか。
大隅学士の生涯を通じて、辻川博士邸の第一実験室のうちに、この訳のわからない異様な生物を発見した
「幽霊ではなかろうか?」
大隅学士は、廻転窓の
(こいつ等が、もし幽霊だとしたら……そうだ、幽霊は日本語がわかる筈だ。一つ、勇敢に話をしてみようかしら?)大隅がそう考えているとき、室内の白い半透明の怪物は、何かに愕いたものと見え、急に一ヶ所に頭を寄せ集めると、なんだか盛んに頭をふりながら協議をしている様子だった。なにを始めるのかなアと思っているうちに、突然そのうちの二匹が集団をスーッと離れると、いきなり大隅の
「
と、大隅が声をあげたときは、もう既に遅かった。半透明の白幽霊は、廻転窓にぶら下っている彼を左右から
大隅は、その白幽霊が、ドアを開けもしないのに、それを突き抜いて、廊下へ飛び出してきた奇怪さに、ゾーッとした。幽霊は物理学に反抗する! いよいよこれは幽霊だ。
“君、そこを下りて、
「えッ!」
大隅は、息が停るほど愕いた。白幽霊どもは、たしかに彼に対して、「室内へ来て、質問に答えよ」と云ったように感じたのだ。しかも彼の耳は、遂に一言も白幽霊の声を聞いたのではなかった。白幽霊は、声を出して喋らなかった。それにも
「ぼ、僕のことですか。……この部屋に入れって云うのですか」
と、大隅は慄える声でもって、彼の身近かに迫っている二匹の白幽霊に
“そうです”
「ああ……」
白幽霊は、またもや声を出さないのに、大隅に白幽霊の意志を伝えた。なんと驚くべき怪現象ではないか。
大隅はもう観念した。こう
“なんという、不便な身体をもった男だろう。あッはッはッ”
という風に……。
大隅学士は、額から
シュウシュウシュウシュウと、彼等はひとしきり激しく鳴き合っていたが、この鳴き声は何の意味だか分らない。そのうちに、一団の中から、一匹の白幽霊が大隅の前に進み出た。すると俄かに彼は、白幽霊の音なき声を了解したのだった。
“辻川博士は何処へ行ったのか?”
辻川博士は何処へ行った?
ははアなるほど、それで分った。彼等は辻川博士の所在が知りたいばかりに、大隅を室内に連れこんだのであった。彼等は辻川博士を前から知っていたのに違いあるまい。
「……さあ辻川博士は何処へ行ったのでしょうか……知りませんネ」
“辻川博士は、なぜこの邸から居なくなったのか?”
「さあ、それもよく分りません。しかし……僕の知っているところでは、博士はロケットに乗って、天空に飛び出されたが、そのまま帰って来られないのです」
“天空へ?”
「そうです」
すると一団は
そのうちに、彼等の一部は、
そのうちに、また白幽霊が話しかけた。
“博士のロケットには、B18号と書いてあるか?”
「いえ、違いますよ。博士のロケットは、確かE4号でしたよ」
白幽霊は、また奇妙な声で鳴き合った。大隅学士は、この会話のとき、或る重大な事実に気付くべきだった。しかし心の余裕を失っていた彼は、そのとき遂に気付かないでしまった。彼は後になって、そのときのボンヤリさ加減を、どんなに
(おお、彼等は逃げ出したぞ!)大隅学士は
「……アアもし。……貴方がたは何者なのですか。われわれとは違った生き物だと思いますが、何者なのです」
その声を聞くと、彼等は俄かに上昇を中止して、またゾロゾロと下りて来た。そして大隅学士をグルリと取り巻いてしまった。しかし彼等は何とも返事をしない。
「……ああ皆さん。……僕は貴方がたの質問に答えた。だから貴方がたも僕の質問に答えるべきではありませんか。貴方がたは人間ですか。それとも霊魂ですか」幽霊と云いたいところを、すこし敬意を払って、霊魂と云った。
すると怪物の一団は、ゲラゲラゲラと笑いだしたように思った。そしてやがて待望の返事を大隅に与えたのだった。
“君に云っても分らないと思う。われ等はウラゴーゴルだ”
ウラゴーゴル? ウラゴーゴルとは何であろうか。大隅はその聞きなれない言葉を、忘れまいとして懸命に口の中で繰りかえした。
その間に、白幽霊の一団は、また元のように一匹ずつ天井に向けて上昇していった。
ウラゴーゴル?
「待てよ……」
大隅学士は、首をひねった。
ウラゴーゴルとは、何処かで聞いた名前である。それは何処だったかしら。さあ、思い出せ、思い出せ、さあ、早く思い出せ! 学士は自分の頭を
「……ああもし。ウラゴーゴルとは何です。どうか教えて下さい」今や最後に残った一匹の白幽霊――ではないウラゴーゴルが床の上から天井に昇ろうとするのを引き留めて、大隅は一生懸命に
“ドクトル、シュワルツコッフが知っている……”
「えッ、シュワルツコッフ博士?」
最後のウラゴーゴルの姿も、遂に天井の向うに見えなくなってしまった。
怪物ウラゴーゴル!
それはシュワルツコッフ博士に
大隅学士は只一人室内に取り残されたまま、
よくは分らないけれど、あのウラゴーゴルは人間の幽霊ではなさそうに思える。第一、眼玉が人間の眼の数よりも多く、そしてその附いている場所が違っている。だから人間と同じ種族のものではないであろう。どうも別の種族らしい。人間以外のものというと……一体何であろう。
恐らく辻川博士は、ウラゴーゴルが何者であるかを知って居り、彼等と交際をしていたと思われる。シュワルツコッフ博士もまたウラゴーゴルと
このとき大隅学士は、気がついて、この第一実験室の中をグルッと見渡した。それは辻川博士のウラゴーゴルについての手記が必ずどこかにある
そこで彼は、実験室を出た。
彼は幅の広い階段をトコトコと下りていった。そしてやがて真暗な館外に出ると、門番岩蔵の小屋の方へと歩いていった。
「大隅さん。何かおりましたか」
と、岩蔵は彼の顔を見るなり、
「ウン……別に大したものではない」
大隅はそう返事をした。彼は岩蔵の言葉の調子から、彼が既にウラゴーゴルを知っているらしいのを感じたのだった。
彼は小屋の奥に静養している武夫の父親河村のところへ行った。彼が入ってゆくと、河村は水を呑ませてくれといった。彼は
「ねえ、河村さん」
と大隅は病人の
「ええッ――」
「僕は、貴方にぜひ教えて貰いたいんだが……去年の夏のこと、この沖合に外国船が一
「ウン、あれかネ……」
といったが、河村は意地が悪そうに唇をゆがめて、ニヤッと笑った。
「……あのことばかりは云えないよ。第一云わないという約束だったしネ。それに……それに俺はあのことで自分でやりたいと思っていることがあるんだ。だから誰が何といっても
河村はなぜか興奮して、
大隅は
といって、あの外国船について知っている者は僅かに四人、そのうち辻川博士と喜太郎とは既に死に、残る二人のうち、助役古花甚平は、現在の位置もあり思慮もあって、なかなか軽々しく喋ろうとはしないし、この上彼を監禁などしては、村中の
そのとき彼は、一策を思いついた。
「ねえ、河村さん。……僕はぜひ、貴方に見せたいものがあるんだが、見てくれませぬか」
「見せたいものって……」
と河村は床の中から、大隅の真意を探るような眼付でもって見上げた。
「そうです。ぜひ見せたいものです。……実は貴方の息子さんの武夫君が、この辻川博士邸内にいるのです。しかも気の毒なことに、博士のために
「ナニ、あの武夫がこの邸に監禁せられているって?……ああ、それは一体どういう訳だ。なぜ辻川は、俺の
「その訳を話せといっても、それは辻川博士に聞いてみなくちゃ分りませんよ」
「だって、お前さんも知っているのだろう。さあ、教えてくれ。……監禁されていることを知っていながら、お前さんはなぜ伜を救おうとはしないのだ。
といって、彼は病床から身を起そうとしたが、傷の痛みに襲われたものか、あッというと、顔をしかめてまた床の中にドスンと倒れた。
大隅学士は、それを待っていたようにして、一膝のりだした。そして病床の河村の耳の傍に口を持ってゆくと、ソッと何事かを
「……ウム、そうだったか。お前さんは、伜が村の奴等に見殺しにされようとするのを、助けようと……」河村の言葉がグッと
「……いやア、俺は悪かった。一年間も、家のやつをうっちゃって置いて遊んでいたのだからなア。それも辻川に貰った礼金があんまり多すぎたもので、つい悪い心を起して、女房子供を捨てて遊び廻っていたんだ。それもこれも、みな辻川の奴のためだ。……しかし今はもう後悔している。こんなに傷を負っても、家に帰らないのは、せめても女房子供にこの上の苦労をかけないためだ。……それだのに、伜が辻川のやつに、この邸に監禁されているなんて……」
河村は
「そこで河村さん」と大隅は彼の肩にやさしく手をあてて云った。「武夫君を助けるためには、どうしても貴方から外国船の秘密についてお話を聞かなきゃうまくゆかないのです」
「何を……。ハハア、お前さんは、俺をうまくひっかけて、例の話を聞きだそうというつもりだな。おお危い。誰がそんな手に引懸るものかい」
と、たちまち変る河村の態度に、大隅はなおも屈せず、遂に云った。
「じゃ、話す話さんはとにかく、武夫君の哀れな姿を見て下さい。僕は、あまりにも悲惨だから、武夫君を
大隅の真心が通じたのか、この重傷者は、とうとう大隅に身体を預けた。
二人が入口に出ると、そこにいると思った岩蔵はどこに行ったか姿が見えなかった。大隅は河村をおんぶしたまま、庭づたいに、あの大きな檻のある森の方へヨチヨチと歩いていった。
さすがの父親も、
「……知らなかった、知らなかった。あっしは貴方に
「……では、教えて下さい。辻川博士と外国船との間には、どんな取引が行われたのです」と大隅は、この機会を逃がしてはと、問いかけた。
「それはよく知らない。イヤこれは本当に知らないんだ。俺たちは、辻川博士の命令に従って、荷物を船に
「ほう、何を船から持ってきたんです」
「なにかわけの分らない器械だった。そいつは函の中に入っていたので中身は判らない。しかし辻川博士は大喜びだった。その外国船の大将と幾度も握手をして喜んでいた」
「その外国船の大将というのは誰です」
「ドクトル、シュワルツコッフ」
「えッ、なんですって、……ドクトル、シュワルツコッフ!」シュワルツコッフ博士といえば、あの白幽霊のウラゴーゴルが残していった名前だ。あのシュワルツコッフが、一年前にこの沖へ来航してきたのか。
「それはいいが、この邸から船へ搬んだ品物というのが、たいへんな品物なんだ」
「ええッ、たいへんな品物というと……」
「そいつは袋の中に入っていた。グニャリとした品物さ。その中身を知っているものは俺ばかりだろう。俺はソッと開けてみて愕いたのだ」
「一体それは何だったんです。早く云って下さいッ」大隅は胸がつまるように感じた。
「それはネ……それはこうなんだ。辻川博士の……」
と、まで云ったとき、河村は突然「
「何者だッ!」
大隅は話し半ばに怪しき方法によって河村を
ところが彼は、
「彼が
門番の小屋から三百メートルほども離れたところを歩いている岩蔵が、どうして河村を殺害することができたのだろう。その岩蔵は、大隅の姿を認めると、急ぎ足でこっちへ近づいて来た。
「オイ、どうしたのだ」
と、大隅はイザといえば彼に躍りかかるつもりで、声をかけた。
「……イヤ、お客さんが見えたので……」
「客が見えた。客とは誰か?」
「……ドクトル、シュワルツコッフ」
「ドクトル、シュワルツコッフ?」
と、大隅学士は、岩蔵の顔を
「そうです。シュワルツコッフです」
と、岩蔵はドキマギしている。
「辻川博士がいないことを云ったかネ」
「ええ、云いましたよ。するてえと、ちょっと愕いた顔をして、はるばる来たものだから、休憩させてくれというのでさあ」
「君はなぜ、本館の方へ行ったんだ」
「えッ、それは……それは何です。ドクトルが、もう一度、博士の部屋をよく見て来てくれ、もしかすると帰っていられるかも知れんから……というのです。それで私は、本館へ行って、博士を探してみたんですが、
岩蔵は、そういってホッと溜息をついた。
大隅理学士は、それを聞いて、心の中に或る疑惑を持った。だがそれは面には出さず、それでは辻川博士に代って、シュワルツコッフに逢ってみようといった。岩蔵は
「おお、わたくし、ドクトル・シュワルツコッフです。ドクトル辻川いない。残念です。彼、何処へ行きましたか」
と、大隅の前に立ったのは、
大隅は博士の不在を説明してドクトルを本館に案内していった。
ドクトルは、応接室に入ると、疲労を訴えた。そして暫くそこで睡眠を取らせては呉れまいかと云うのであった。
大隅はそれを承知した。そして目覚めたら呼んでくれるようにと、ベルの位置を教えてその室を出ていった。
大隅は、そこを出ると、三部屋ほど向うにある辻川博士の書斎の
大隅は、一人になると、武夫の父の殺害事件のことにつき、静かに考え始めた。あれは全く不思議な殺人事件である。誰も部屋には入って来ないのに、一瞬間の出来事で、ズバリと殺されてしまった。そして音もなく、額と手の甲に見る見る大きな穴を明けていったあの恐ろしい殺人法は、一体なんであったろうか。彼は
「……どうも、何となく殺人光線くさいところがある。だが、殺人光線は具体化することが不可能だといわれている。もし殺人光線を使ったとすると、それは余程恐ろしい奴に違いない」
誰が殺人光線を持っているのだろう。
「そうだ。……あの怪ドクトルかも知れない」
そうは思ったものの、折ふし来会せたドクトルが、なぜあのような重傷者を話途中にして殺害する必要があったのだろうか。特殊事情があるにしても、
大隅がそんなことを思い続けているところへ、廊下に微かに
(誰?)
と、大隅は
すると、扉が音もなく開いて、そこからヌーッと出て来た黒眼鏡に鬚だらけの顔(……おお、やはり、ドクトル、シュワルツコッフだ)太い
(何をするつもりだろう)
ドクトルは、暫く
そのうちに、彼は壁際に並んでいる辻川博士の厳重な書類戸棚の前に近より、そしてその鉄扉に手を懸けて、ウンウン引張った。しかし鉄扉はビクとも動かなかった。
ドクトルは観念したものか、今度は大きな机のところに寄って、上から二段目の抽出を開き、その中をしきりと探しはじめた。
(ハテナ)
と、大隅学士はカーテンの蔭から、首を振った。ドクトルは辻川博士の机の抽出の内容まで知っているらしく思われる。やがてドクトルは、抽出から手を引いた。そして困ったという顔をした。大隅学士は、もう出るに出られなかった。それは出ない方がよかった。もし出ようものなら、彼の生命はなかったかも知れない。
怪しきドクトルは、再び鋼鉄製の戸棚の前に立った。そして暫く考えこんでいたが、やがて何思ったものか持っていた洋杖を扉の方にズーッと差し出した。その洋杖の
すると怪しいかな、突然眼もくらむような青白い光点が、扉の上に現れた。それはジージーと微かな音を立てて見る見るうちに横に小さい円を描いて伸びていった。
(ああ、扉を焼き切るのだナ。おお、恐ろしい仕掛けのある怪洋杖!)
大隅学士は、カーテンの蔭に
大隅学士も、かつてあれに似た洋杖を持っていた。しかしそれは洋杖の握りのところに小型の電球をつけ、それから中身に小さい受信機が入っていたり、石附のところには
大隅は、もう一度洋杖を見直した。
(どうも恰好がよく似ているが……)
彼にはあの洋杖が、だんだん自分の洋杖であるような気がしてきた。ひょっとすると、あれは中身だけが、あんな恐ろしいものに改造されたのではあるまいか。もしそうだとすると、ドクトル、シュワルツコッフは、どうして自分の洋杖を手に入れたのだろう。
(こいつは変だぞ!)
ドクトルは、遂に
だが室内の光線が、暗かったものか、彼はその書類綴を抱えたまま、奥の窓の方に歩いていった。そして
大隅学士は何思ったか、
(今がチャンスだッ!)
彼は音をたてぬように、充分の注意を払いながら、大胆にも書類戸棚の方に近づいていった。その戸棚こそは、彼が中を開けてみたいと思いつつ遂に開くことが出来なかったものであった。
彼は石亀のようにソロソロと匍った。そのうち彼は遂に戸棚の近くまで進んだ。そこには一つの安楽椅子があった。彼はその蔭に廻るとソッと手を伸ばした。
「やったッ!」
と彼は叫んだ。その手には、太い洋杖がムンズと握られていた。あの恐ろしい怪力線を発射する洋杖が……。
大隅の叫び声に、ドクトルは愕きのあまりその場に飛び上った。書類綴はドーンと床の上に落ちた。
「な、なにをするッ」
とドクトルの声。
「僕の命令どおりになさい。そうでないと……」
「そうでないと……」
「そうでないと、貴方の生命は有りませんよ」
大隅は例の怪力杖をドクトルの方にグッと差し向けながら、自信にみちた声をかけた。
「あッ、それは危い。ま、待て……」
「貴方は一体何者です。辻川博士の書斎を荒し、そして秘密書類を勝手に取り出すとは……」
ドクトルは恐ろしい形相をして机の向うをジリジリと横に動いた。大隅は少しも油断せず、ドクトルが
「抵抗はしない。何もかも云うから、その洋杖を下に下ろして呉れたまえ。そして……そんなこわい顔をしないで……」
とドクトルは柄にもなく
その言葉に大隅学士は、少し動かされた。
と、その瞬間の出来事だった。大隅の立っていた床が、ガタンと下に落ちた。
「
彼はサッと下に墜ちゆく自分の身体を、なんとかして墜とすまいとして、死に物狂いでもがいた。彼の手は辛うじて
ドクトルは、弾丸のように飛んで来たが、大隅が落し穴から落ち切っていないのを見ると、大変
大隅学士は懸命なる
廊下へ出てみると、ドクトルの姿はもうそこになかった。そして階段を下りてゆく荒々しい
そのとき応接室の扉がサッと開いて、そこからヌッと愕きの顔を出した人物があった。
「何事が起りましたか?」
と、懸けられた声!
大隅学士は、えッと叫んだ儘、その場に立ち
「おう……」
大隅の頭は混乱した。ドクトルは、階段を駈け下っていったと思うのに、傍らの室から、愕き顔はしているが、割合に落着いた物腰で彼を呼び留めたのは、
「私、大きな音で愕きました。何事が起りましたか」
大隅は、それに応えようともせず、例の殺人
「ドクトルは、今まで何をしておいででしたか」
「私?……私は睡っていました。たいへん元気になりました」
大隅はドクトルが嘘を云っているように思われなかった。そして尚も油断なく、その応接室に入ってみると、なるほどその部屋には、ドクトルが今まで寝ていたらしい証拠があった。長椅子の前に、脱ぎ揃えられてあった一足の短靴がそれであった。中に手を入れてみたが、それはひやりと冷めたく感じた。今まで履いていたものを脱いだのでは、こうは冷めたく感じない。さっき大隅学士を襲撃したドクトルは、確かに靴を履いていた。
(すると……すると、自分を襲撃したドクトルと、ここに寝ていたドクトルと、二人のドクトルがいることになる)
大隅は、愕くべき結論をつかんで、それをどう説明したらよいかについて苦しんだ。
「どうも
「可笑しい。
彼はドクトルを
そこには岩蔵が、河村の死骸を護って、その前に、どこから見付けて来たのか、線香を立てて供養をしていた。
(この男の変装したのでもない)
大隅は、今誰か、この小屋の近くにやって来た者はいないかと
ドクトルが二人いるらしいことについては、大隅は自分だけの胸に
大隅学士は、また本館に取って返した。
ドクトルは、応接室の中に、衣服を
「ドクトルは、辻川博士とどういう風のお知り合いですか」
「ああそれは、二人は同じ研究をやっているからです。私はドイツで、辻川博士は日本で、世界中
「世界中で二人きりの研究というと、それはどんなことですか」
大隅学士は、深い興味を覚えて、それを尋ねた。
「なかなかむずかしい研究です。誰に説明しても分るというものではありません。しかし簡単に云いますと、近年この地球上に、有史以来始めて見る異変が起っているのです。その
「なるほど、生物の異常成長! すると、魔の森において発見された亀のように大きい
「おお、
「それは人間のことを云うのでしょう」
「ほう、貴君はよく知っていますね。辻川博士はその研究材料を沢山蒐めています。これは世界中で極めて珍らしいものです。日本とアルゼンチンの山奥と、この二ヶ所しかないのです」
「えッ、アルゼンチンにもあるのですか」
「そうです。私、そのアルゼンチンの探険を終えて帰国の途中、辻川博士に逢いに来たのです」
ドクトル、シュワルツコッフは大隅学士を辻川博士の助手と考えたものか、別に隠し立てもせず、スラスラと話すのであった。しかしドクトルの話の内容は、大隅学士をどのように愕かせたか、それは説明するまでもあるまい。彼が長い間知りたいと思っていた怪人辻川博士の研究の秘密が、今温帯を流れる氷山のように、解けはじめたのであった。
大隅学士は、大きい驚愕を、心の中に隠して、ドクトルに質問を続けるのだった。
「その成長異常は、どうして日本とアルゼンチンだけなのですか」
「そこが一つの解決の
「貴方はドイツにいて、どうしてそれを発見したのですか」
「それには面白い話があるのですが、それは長くなるから止しましょう。とにかく私が第一にこの現象を発見するに至ったのは、気象上の変化に
「気象上の変化!」大隅学士はそこで大声をあげた。彼も、気象上の変化については大きな関心を持っていたのだ。それはこの矢追村に来てから気がついたことだけれど、村人に聞いてみると、一年中の温度変化が、東京あたりとまるで違った性質を持っている。しかも地形的に見ても不審がある。このように後に山を背負い、前に大海を控えた場所では、四時気候の変化が穏かである筈であるのに事実はそうでなくて、非常に気候の変化がある。そして夏ならば、昼間は海の方から陸に向って、涼しい風が吹き、朝と夕方には風のない
「私は、ドイツのベルリン大学で研究室を持っていますが、気象統計を調べてゆくうちに、近年どうも気象が統計から得た平均曲線に従わないことを発見した。そこでこれはドイツだけのことかと思い、次にスペインのものを取り寄せてみた。ところが、スペインにも異常気象のあるのを発見した。もっともそれはドイツのものよりは、遥かにオーダーが小さかったけれど……。そこで私は、思い切って日本の気象統計を取り寄せた。すると愕くではありませんか。日本の気象は目茶苦茶であるではありませんか。夏でもそうです。昨年のように温度が一向昇らない夏があるかと思えば、今年のように目茶苦茶に暑い夏がある。また雷雨の通ってゆく筋道というものが、近年日本全国的にたいへん違って来た。そんなわけで、私は日本国に特に著しい気象異常を発見した。そしていろいろと連絡しているうちに、辻川博士とお近づきになったというわけです。おお辻川博士の研究の素晴らしさ。それを私が始めて知ったときには、思わず博士の頬に接吻したくらいですよ」
大隅学士の頬は、次第に熱してくるのであった。辻川博士はどう考えても、よい人間とは思われないけれど、何という素晴らしい研究をしているのだろう。それに較べると、この夏の自分の苦闘なんか、まるで子供だましに過ぎなかったというものである。
ドクトルは、更に言葉をついで、
「結局、辻川博士の指摘したとおり、日本の中においても、この矢追村だけが、殊に異常状態に置かれてあることが分ったのです。成長異常の出るのも日本国中、この矢追村だけである。ですから矢追村こそは、この大研究についての世界の宝庫である。……おお、そして私はその宝庫をもう一つ探し当てたのだ。それは、今申したとおりアルゼンチンの山奥カピランクという地方です。そこには、また面白いことが起りつつある」
「ねえドクトル。一体この成長異常などという怪現象の原因というのは、何んなものなのでしょうネ。白幽霊ウラゴーゴルなどは、何んな役割をつとめているのでしょう」
するとドクトルは、ひどく
「ウラゴーゴル? 貴君はそれを知っていますか。……ウラゴーゴルこそ、この研究の最後の鍵なのです。しかし彼等は実に聡明だ。われわれは彼等を怒らせてはならない。ああウラゴーゴル」
ドクトルは、神に祈りを捧げるときのような恰好をして、天を
ウラゴーゴルを怒らせてはならぬと、大隅学士に注意したシュワルツコッフ博士は、それからというものは、急に沈黙してしまって大隅学士がなんと聞こうとも、それ以上の説明を避けた。そしてひたすら辻川博士が早く帰ってくれば、
白幽霊ウラゴーゴル! あの怪物は、どこまで大隅学士を悩ませれば満足するのか。大隅ばかりではない。シュワルツコッフ博士すら、ウラゴーゴルに一目も二目も置いている有様がよく分った。ウラゴーゴルと握手をしているらしいのは、辻川博士だけらしいが、その博士はいまごろ
「これは困った。なんとかしてウラゴーゴルの秘密を早く知りたいものだ。何とかいい工夫はないものか」
と、大隅学士は頭の痛くなるほど考えこんだ。
「そうだ。僕は大切なことを忘れていた。この上は、武夫君に会って、相談をするより外にいい方法がない」
そう思いついた大隅は、シュワルツコッフ博士に
彼はそれからソッと階段を降り、本館を出て、裏庭の方へ歩いていった。
思えば武夫のことはもっと早く考えつくべきでもあった。しかし大隅の苦悶したことは、なにしろ今の武夫は、例の成長異常現象に
彼は裏庭を過ぎて、武夫たちの監禁されている檻の前に近づいた。
「オイ武夫君、武夫君はいないか」
その声が聞えたのであろうか。
「おう――」
と声がして、まるでキリンの小屋のような中からヒョックリ姿を現したのは、外ならぬ巨人武夫であった。
「おお先生! 僕は恥かしい。……こんな生れもつかぬ浅間しい姿になってしまいましたよ」
といって、彼はハラハラと涙をこぼした。それは地面の上に、コップの水を撒いたように大きい水たまりを作った。
大隅もさすがにこのグロテスクな巨人と
「なアに、心配しないでもいいよ。君がそうなった原因も、やっと分ったよ」
実はこうこうかくかくの次第であると、シュワルツコッフ博士から聞いた話を手短かに語ってきかせた。すると武夫は
「――先生、よく分りました。そういわれればいろいろ思い当ることがあります。だから僕は最初あの真暗闇の森の中で先生にお話したでしょう。僕は地中に転落すると、まもなくこんな身体になって辻川博士邸内へ匍い出したのです。もちろん辻川博士は僕の傍に立っていて、たいへん熱心に、僕の身体を観察していました。そしてその夜にこの檻ではなく、あの本館に入れて、いろいろと診察のような事を受けたのです。そして夕食後、寝室を与えられて寝ましたが、どうして睡られましょう。そこでソッと忍んで外へ立ち出でました。そして庭のところから元の抜け穴をくぐって、森の中へ出たのです。先生にお目に懸ったのはそのときのことでした」
そういって巨人少年は、感慨深そうに、ため息をついたのであった。
「ウン、分った分った、君も随分悩んだことだろう」
「でもそのとき僕は、いくつかの不思議なことをお話したでしょう。あれは昼間、辻川博士の室にいるとき、博士が座を外したときに
「そうだったネ。それについて、もっとよく相談したいんだが、なんとかしてその檻から出てこられないかネ」
「さあそれは弱りましたネ。この鍵は辻川博士がピチンと下ろしてもっていってしまったのです。この節、辻川博士の姿を一向見かけませんが、とにかく博士に頼まないとここは開きませんよ。身体が大きくなったからさぞ腕力も増したろうと思って、たびたび押してみたのですが、なにしろ太い鋼鉄の棒で組立てられた檻ですから、どうにもなりません」
それには大隅学士も、深い失望を感じないわけにゆかなかった。しかししばらくして彼は叫んだ。
「ああ心配はいらぬよ。いいものを持っていたことを忘れていた。すぐ出してやるから待っていたまえ」
そう云って大隅学士は、小脇に
怪力線洋杖の偉力によって、さすがの鋼鉄の棒も見る見るうちに
「先生、僕はうれしくてたまりません。しかし何という素敵な洋杖でしょう。どうしてそんなものを手に入れられたのです」
大隅は笑って、これを偽のシュワルツコッフ博士と思われる人物から奪取した
「武夫君、君が僕に
「するとこれは、やはりあの白幽霊ウラゴーゴルと関係があるんでしょうね」
「僕もそう思う。あのウラゴーゴルというのは、要するに他の遊星に住んでいる生物だと思うよ。あれは一種のアミーバーから成長した高等動物だと思えばいい。あのウラゴーゴルが、なにかこの地球に働きかけているせいだと思うよ」
「それに違いありませんよ。辻川博士は以前からあれと交際していたのですね」
「うん、そうなんだろう。ところで、どうも訳のわからないのは、外国船に博士邸から積みこんだ荷物なんだが、このことは君の……」
といいかけて、大隅はハッと気がついた。あの無惨な死に方をした武夫の父のことを喋っていいものだろうかどうだろうかと躊躇していたが、もうこうなっては隠しておくことは
「これも運命なら、仕方がありません。しかし母は知っているでしょうか。僕はきっとこの
「まあそう興奮してはいけない。とにかく只今問題の秘密をすっかり解いてしまえば、何もかも事情がハッキリするに違いない。暫くはまあ心をしっかり持って、お互いに努力するのだネ。ところであの外国船に積みこんだ荷物の中身というのがハッキリしないのだよ。君の亡くなったお父さんは知っていられたが、それを云おうとしたらば何者かのために殺害されてしまった。
「そんな奴がこの邸内に
「うん、僕も極力注意を払っている。とにかくその荷物の内容がハッキリしなくて困っている。――それからもう一つは、
「隕石というのは、宇宙に飛んでいる星のかけらなのでしょう。そしてその成分は、殆んど鉄ばかりだという」
「そうだ、鉄もなかなかいい質の鉄だということだ。しかし鉄ばかりではなく、外の物質も混っていることがある。そうそう、それで思い出したが、これはギブソンの『
「それは面白いですね。先生、するとウラゴーゴルなどという怪物は、そんなことで発生したものではないでしょうか」
「大きにそうかも知れない」
と大隅学士は
大隅学士と巨人少年武夫との相談はそれからも続いた。その
二人が裏山の蔭から再び姿を現して、本館の方へ、ソロソロ歩きだしたときのことであった。突然、目前がパーッと明るくなった。その明るさといったら、サングラスのない望遠鏡で太陽面を
「うー、愕いた、今のは何だったろう」
「ぼ、僕の眼は
大隅と武夫は、指先で両眼をしきりともみながら、こわごわ半身を起した。そしてソッと眼を開いてみた。
あまりの強い閃光のため、網膜はいまだに何だかキラキラとしていて、前方がよくは見えなかった。ポロポロとひっきりなしに涙が出てくるのであった。――そのうちに、大隅の眼が次第に慣れてきた。視力が恢復してきた。しかし彼はそこで腰をぬかさんばかりに愕かなければならなかった。
「
「えッ、先生なにごとが起ったんです」
武夫はまだ眼がハッキリ見えないらしく、しきりと
「おお、これは君、大変なことになったぜ。こんなことがあっていいだろうか。今まで向うに建っていたに違いない本館が跡方もなくなっているぜ」
「えッ、本当ですか。ああやっとボンヤリ見えるようになってきた。なるほどなるほどそうですね。たしかに
二人は声をあわせて、
「さあ早く、向うへ行ってみよう」
一目散に二人は駆けだした。もちろん武夫のコンパスは巨人のコンパスだったから、たちまち大隅を馳けぬけて先頭を切った。
やがて二人は、だだっ広い広場の前に立った。それは先刻まで本館がたしかに建っていた地所に違いなかった。
「そうだ。ここに違いない。あれ見給え、建物の跡だけが、まるでマグネシウムを燃やしたように真白になっているよ」
「ははあ、よく分りますよ。たしかに本館の跡です。――本館は爆発してしまったのでしょうか」
「うん、爆発したのかもしれないね。待て待て、ことによると、これは……」
と、大隅はなに思ったものか、急に空を見上げて、両手を
「ああ武夫君。あれだあれだ。あれを見給え」
「ええ、あれとは……」
武夫は大隅の
「ホラ、向うに見える白い雲の切れ目のところだよ。妙な恰好なものがピカピカ閃光を放ちながら舞い上ってゆくじゃないか」
「ええ見えます見えます。
「そうだともそうだとも。よく見給え。あれはさっきまでそこに立っていた本館だよ」
「ええッ、あれが本館!」
よく見れば、なるほど紛れもなく本館にちがいない。あの大きな建物が、一瞬にして天空に舞い上るとは一体なにごとであろうか。
「こいつは全く愕いた。武夫君、あの本館の建物は、それ自身が一つの大きなロケット仕掛になっていたんだよ。なんという恐ろしいことだ。僕もぐずぐずしていれば、今ごろはあんな高いところを飛んでいたのだ。いやこれはなんといっていいか、実に胆をつぶした」
武夫は大隅の方を見下ろして、しばらくはポカンと口を開いていた。
「ねえ――先生。あの中には、シュワルツコッフとかいう博士がいたんじゃないのですか」
「そうそうシュワルツコッフ博士だ。それから偽のシュワルツコッフ博士もだ。二人のシュワルツコッフ博士が一緒に
その訳は分らずとも、本館が二人のシュワルツコッフ博士をのせたまま、一瞬にして天空に飛び去ったことは
あの豪華な研究室も、貴重な機械室も、そして謎を包んだ観測数値も、ともに空中に消えてしまったのであった。あとに残るものは何であるか。それは
そのとき大隅学士は
「おお居た居た」
武夫はその声に、大隅の注視する方を見た。門番小屋の傍に、これも彼等と同じように小手を
「岩蔵はとうとう取りのこされたんだナ」
大隅はツカツカと歩いていって、岩蔵の肩をポンと叩いた。すると彼は
大隅は愕いて、彼の傍に膝まずき、門番子の脈をとってみた。脈は微かで早かったけれど、たしかに指先に感じられた。どうやら愕きのあまり気絶した様子である。武夫の力を借りて、彼の身体は門番小屋の中にうつされた。
そうこうしているうちに、二人は突然東の方角にあたって、飛行機の爆音のようなものを聞いた。
「オヤ、こんどは何だろう」
と、音のする方の空を注視すると、なるほどそれは飛行機に違いなかった。だが愕いたことに、それは一機や二機ではなかった。数えてゆくと、およそ十四、五機もあったろうか。大きいのや小さいのや、それから近づくと、赤い翼をもったのや青い胴体のものや、いろいろさまざまの形のものが、吾れ勝ちに機首をこちらに向けて飛んでくるのであった。一体どこの飛行機なのだろう。
刻一刻、爆音は高くなった。速いやつから順に、博士邸の周囲をグルグルと円を描いて飛翔を始めた。そのうちに、着陸の覚悟がついたものかボツボツ低空飛行にうつるものがあった。
「これは新聞記者かもしれないぞ」
と大隅は、この前の佐々砲弾の到着の光景を思いだして、そう考えた。
それは予想どおり、各新聞社の記者団一行であった。彼等は勇敢に塀をのり越え、松の木にとびついて下り、ワーッと喚声をあげてこっちへ馳けだしてきたが、だいぶん近くまでくると、なに思ったものか、云いあわしたようにピタリと足を停めて、
「どうしたかな?」
と大隅が思った途端、
「皆は僕を見て
と武夫が云った。
なんだ、そんなことかと、大隅は進んで彼等の方へ歩いていった。
彼等は、すると、またワーッと大隅のまわりに集って、これを人垣の中にとりかこんでしまった。
「あれですね。成長異常現象の犠牲者は?」
と一人が早口で訊いた。
「ほう、それをどうして知っているのです」
「いやあ、そのことですよ。貴方はご存じないでしょうが、東京は大騒ぎですよ。なにしろ佐々砲弾発で突然無線電話がかかってきたのですからネ」
「えッ、佐々砲弾が……。佐々君は、まだ生きていたのですか」
「ホイ、これはニュースを知らせに来たようなものだな」と一人が眼をパチクリして「でもこっちの話を云わなきゃ、貴方に話をしてもらうのに不便でしょうネ。とにかく今日の知らせで佐々の冒険はすっかり分りましたが、彼は無事に生きているそうです。貴方……大隅先生ですネ。先生にそれを伝えてくれと云ってましたよ」
「佐々君が生きているとは、よかった! もう死んだことと思っていましたが。あの先生、今どうしているのですか」
「ウラゴーゴル星に上陸しているそうです」
「ええッ、ウラゴーゴル星に上陸? ほう、そうですか」
「なんでも空に舞い上って、もう死ぬなと覚悟したんです。しかしそのうちに何とはなしにウラゴーゴル星に着陸しちゃったそうで、そこから無線電話をかけてきたのでわれわれも愕きましたよ。さあその辺で、こっちの質問に答えて下さい。――まず、佐々砲弾がこの土地から飛びだしたときの模様を喋ってみて下さい。願います」
「みなさん。一つ折入ってのお願いがあるのですがねえ」
と、大隅学士は新聞記者にノートを十分とらせた上で云いだした。
「願いて何です。僕たちもお礼の意味で、どんなことでも骨を折りますよ」
「ぜひそうお願いしたいのです。お願いというのは
「ああ佐々と話のできるところへですか?」
記者たちは、ちょっと困ったという顔をした。そして少しはなれたところに円陣を作って協議を始めた。しばらくすると相談がまとまったのか、一人が進み出で、
「大隅さん。それでは特に一台飛行機をお貸ししますから、これからすぐに東京へ飛んで天文台にいらっしゃい。あすこに素晴らしい送受信機が一組あるのです。われわれが佐々と会話したのもあれです。外の器械では、どうやってみても駄目でしたよ」
「ああ三鷹村の天文台ですか。じゃ僕を連れていって下さい」
「オーケイ。おい松田君。君早く頼むぜ」
巨人武夫少年は、大隅学士と離れることをたいへん淋しがったが、こればかりはどうも仕方がなかった。まさかこの仁王さまの二倍もあるような巨人を、飛行機に同乗させるわけにもゆかない。そこで直ぐ引返すから待っているようにと云い置いて、大隅学士は破れ洋服のまま機上の人となった。
通信用の飛行機だから、すこぶる快速であった。大隅学士は久しぶりでのんびりした気持となり、
大隅はあつく礼を云って、飛行士に別れた。そして天文台の正面の方へテクテクと歩いてゆくと向うから白髪童顔の老紳士が近づいてきて、彼の方に手をあげてしきりと合図をするではないか。誰だろう?
「おおこれは河内先生。ああ恩師河内先生だッ」
大隅理学士は、大学時代に厄介をかけた恩師に何年ぶりかで出会った。
「オイ、君は素晴らしい人気者になったじゃないか」
「えッ。先生、それはなんのことです」
「いやウラゴーゴル星のことだよ。それからあの矢追村の異常成長現象のことだよ。君はその発見者として、本年度の科学賞を受けることになるだろう。いや、おめでとう」
「いえ先生、そんな大したことではないのです。僕は単に傍観者の一人なんです」
「そんなことはない。佐々砲弾が東京の新聞に君の説を細大洩らさず連日の紙上に書いた。君は明かに
「そうそう、その佐々砲弾で僕は今やってきたのです。先生この天文台の台長さんを紹介して下さい。僕は佐々と是非無線電話で話をしてみたいのです」
「ああそうか。それはいいだろう」
「先生は台長をご存じでしょうネ。紹介していただけますか」
「そんなことはわけはない。台長はこの
「えッ、先生が……。なあンだ」
河内台長の案内で、大隅学士は秘密のミクロン電波送受信機の前に近よることができた。三人ほどの研究員が、熱心に機械の調子を合わせている。
台長の紹介で、大隅学士は一同と知り合いになった。研究員たちは、この学界の英雄を
「さあ、出ますよ」と一人が受話器をかけて、しきりとダイヤルを動かしている。「ああ出ました。……貴方佐々砲弾さんですか。いや毎度すみません。違いますよ、こんどは天文の話ではありません。大隅理学士がお話しなさりたいそうで。代りますから、ちょっとお待ち下さい」
研究員は、さあどうぞと挨拶をした。
大隅理学士は、器械に飛びつくようにして、受話器を頭に乗せた。
「ああ佐々君ですか。大隅ですよ。貴方が生きているなんて、全く夢のようだ。こんな嬉しいことはない」
佐々は向うで元気に返事をした。ウラゴーゴル星
「君、さっきネ、辻川博士の本館がロケット仕掛けになって空中に飛び出したから、そういううちにそっちへ着陸するかもしれないよ」
「ちぇッ、そんなことだったか。……いや知らせてくれてありがとう。今なんだかウラゴーゴルのけだもの連中が、いやに騒いでいるんだ。じゃあ彼等は、そいつを見つけたんだな」
「そうかい。中にはシュワルツコッフ博士というのが二人乗っているんだ」
「なんだ、二人の博士。それは双生児かい」
「そうじゃない。一人は本物のシュ博士で、もう一人は他分
「偽せ者? そうか。イヤ心当りがある。オヤオヤ、今到着したよ。なるほど変な恰好のロケットだ。ああウラゴーゴルの群衆が、ロケットめがけてドンドン飛んでゆく。たいへん殺気だっているが、これア少し変だネ」
大隅学士は、ウラゴーゴル星にいる佐々砲弾から、辻川博士本館のロケット到着の模様を無線電話によって聴きながら、そこになにか非常事件が起ったらしい報告にうちおどろいた。
「佐々君。どうしたのだろうネ。君、しっかり見て、しっかり報告してくれ給え」
「よしよし。――ヤヤ、入口から外国人が出てきたぞ。これかなア、シュワルツコッフ博士というのは」
「茶色の洋服を着た大きな人物だ。
「ウン、正にそのとおり。――オヤ、もう一人後から出て来たよ。おう、これは
「えっ、辻川博士? それア可笑しい。博士ならずっと前に海中に墜落して死んだはずだ」
「いや違う。僕の眼に
「ナニ辻川博士が……。そりゃ大変だ。君、早いところ視察して、即時報告してくれたまえ。オヤ、モシモシモシ、モシモシモシ佐々君。オーイ砲弾クーン」
天文台の研究員は、それと見るより変事を悟り器械の傍にかけよった。そして素早く大隅に変って送受信機の中を点検したけれど、どこがどうしたものか、さっぱり相手の声が聞えなくなってしまった。――こっちの器械はいいらしいが、向うの方の器械がどうかしたものらしい。
「大隅さん。これはしばらく向うの直るのを待つよりほかに手はありませんよ」
と、その研究員は気の毒そうにいった。
大隅はイライラする心を抑えるのに骨を折りながらも、とにかく始めてウラゴーゴル星と通信しえたことを悦ばずにはいられなかった。
ただ辻川博士が生きていたとは、まことに意外であった。しかし後から考えると、なるほど心あたりがないでもない。さきごろ博士の書斎に忍びよって、書類戸棚を焼き切っていたシュワルツコッフ博士は、どうも本物のシュ博士と違って、身体も小さかったようだったし、顔中たいへん毛深かったように思った。ひょっとすると、辻川博士は自分の無事なことを隠すために、シュ博士に変装して博士邸へ帰ってきたのではあるまいか。なにしろ佐々砲弾さえ一命を助かっているくらいだから、博士乗用のロケットに立派な安全装置がついていない筈はないだろう。博士のロケットは海中へ墜落したが、博士の生命はとにかく安全だったのに違いない。
その辻川博士は、なぜまたシュワルツコッフ博士を連れて、ウラゴーゴル星へ向けて飛びだしたのだろう。辻川博士は、前からウラゴーゴルと深い関係があったようだが、いや電話の切れた前のはなしによると、ウラゴーゴルの白幽霊連中からなにか迫害を加えられているらしい様子だ。白幽霊にとっては大事にしなければならぬ博士を苦しめるとは、一体全体どうしたことであろうか。
電話の不通が直る間、ぜひ大隅学士の話を聴きたいという天文台の幹部学者の申入れがあったものだから、大隅はその席に出た。それは涼しい北向きのベランダで、冷い水とメロンと洋菓子とが出ていた。
台長の河内老博士も席に
「矢追村の異常成長現象は、実に貴重な発見だと思う。気象台でも、この頃は気象全般にわたって、例年とはまるで違った数値が観測されるので、それをどう解釈すればいいかと、所員一同手を
大隅は師の言葉に、しばらくは下を向いて考えていたが、やがて頭を上げ、
「――一つお許しを得て、僕は
「ほほう、大胆なる学説とは、頗る結構だ」
「それはどういうのですか、大隅君」
大隅はニッコリ笑って、
「お気に入るかどうかと存じますが、このウラゴーゴル星の接近は、従来の予測では解決できないものだと思います。つまりこれも異常現象の一つです」
「異常であることは、よく分るが……」
「そして、これはウラゴーゴル星が地球に近づいたというよりも、僕の信ずるところではウラゴーゴル星が、わが地球を自分の方に引き寄せたと云った方がいいと思います」
「ナニ、ウラゴーゴル星が、地球を引き寄せたというのですか。ウフフ、それはどうも、大胆すぎる。遊星の運動は、
「イヤ生物の力でどうすることも出来ないと思うのは、古い考え方です。それは決して不可能ではありません。現にウラゴーゴル星は地球に向ってそれを断行したのです。わが地球はウラゴーゴルのために
「盗難? 地球が盗まれていたというのか。いやこれは面白い。地球盗難か。ずいぶん大きなものを盗んだものだな。はッはッはッ」
と、河内台長は上機嫌でもって、いつまでもカラカラカラと笑いつづけた。
大隅学士の「地球盗難説」は、
大隅説に大賛成を表して、これこそ有史以来の大発見だというものがあるかと思えば、一方では大隅説を邪説の
大隅説の弱点というのは、「ウラゴーゴル星は、如何にして地球を手許に引き寄せたか。その方法が説明されていない」というのであった。
この弱点と称するものは、本来研究というものから云えば大したものではなく、大隅学士の功績は成長異常現象の発見だけで沢山である。その弱点と称するウラゴーゴル星が地球をどうして引張ったかということなどは、他日誰かがゆっくりと解決をつければいいのだ。その答案が出ていないということは決して大隅学士の不名誉ではなかった。しかもこの弱点に賛成して、大隅学士の名声がだんだん地に
純真な大隅学士は、心の痛手にたえやらず、
「いまにまた無線電話がウラゴーゴルへ通ずるだろう。そうすれば佐々砲弾がなにか有力な報告をしてくれるだろう。彼はウラゴーゴル星にいるんだから『如何なる方法によりウラゴーゴルは地球を手許に引き寄せたか』ということを調べてくれるにちがいない」
このところ大隅学士も年齢の若いため、世間からの侮蔑に少しやっつけられた形であった。彼がもうすこし冷静だったら、この難問を解決してもっと早く笑顔を作ることが出来たかも知れない。彼はこの際下宿などに閉じ籠っていないで、武夫少年の待っている矢追村に直行する方がよかったのである。
それはさて置き、それから三日ほど経った後のこと、大隅学士のところへ三鷹村の天文台から至急報の電話がかかって来た。
彼は急いで電話口に出てみた。
相手は、この前行ったとき
「モシモシ大隅さんですか。こっちは天文台ですが、例のウラゴーゴル星への電話がまた通じましたから、すぐいらっしゃいませんか」
「えッ、ウラゴーゴルが、また出ましたか。そうですか。それは有難い。すぐ参りますから……」
大隅は
彼は通りがかりの37年型の自動車を呼びとめると、すぐに近郊三鷹村へ急行してくれるように頼んだ、
「どうです。ウラゴーゴルが出ましたか」
大隅は天文台の無線室へとびこむなり、それを訊いた。
「ええ出ることは出るのですが……」
と、菅井氏がちょっと気の毒そうな顔をした。
「えッ、どうしたのです。出ることは出るがどうしたというのです」
「――まあ聴いてごらんなさい。相手は佐々砲弾氏が出ます」
菅井研究員の不審な言葉に疑惑をもちながら、大隅は受話器を頭にかけた。
「モシモシ。こっちは大隅ですが、佐々砲弾君ですか。――モシモシ。オヤ、これは聞えないぞ」
「聞えないわけではないのですが、たいへん音が小さいのです。まアよく聴いてごらんなさい」
「ああそうですか。モシモシ砲弾君」
辛抱づよく呼びかけているうちに、なるほど、
「おお佐々君。これはどうしたのだ」
「いや大隅さん。僕はウラゴーゴル星を離れて、今ロケットで宇宙を飛んでいるんだ」
「なんだって、君はウラゴーゴル星を離れたのか。それは一体どういうわけだ」
「ウン、あそこにいては生命が危くなったんだ。それにウラゴーゴル星と地球の距離は五日前からドンドン遠くなってゆくことが分ったので、もうどうにも我慢が出来なくなったんだ」
「えッ、地球との距離が? どうしたんだろうなア、君そのわけを知っているだろう」
「そんなことは、君の方が知っている筈じゃないか。――例の隕石のことだよ」
「隕石て? ああ、あの大宗寺とかいうお寺の庭に落ちて、辻川博士がそれを掘って邸内にもって帰ったというやつかネ」
「そうだそうだ。その隕石だ」
「それがどうしたというのだ」
「君も案外、
「えッ、錨というと……」
「つまり捕鯨船が、鯨の背中に向って、綱のついたモリを打ちこむじゃないか。あれと全く同じことなんだよ。あの隕石には、眼に見える綱こそ附いていないけれど、それと同じ働きをするものがあるんだ」
「なるほどなるほど。分ってきたぞ。するとあの隕石だが、あれは
「そうだと云ってたぜ。ウラゴーゴル星の国立研究所で、五十年がかりで作りあげた特殊物質なのだ。あれを地球に撃ちこんで置き、そして一方ウラゴーゴル星に建設せられた大きな機械を廻すとあの特殊物質を素晴らしい力で引張りつける。まあ一種の磁石みたいなものだが、その何千億倍のそのまた何千億倍かの力を持っているんだ。だから地球がスルスルとウラゴーゴル星の方に引き寄せられていったという話だぜ」
「うん、そうか。それで分った。僕の知りたいと思っていた答案ができた。君に感謝する。――そして今話の、一種の磁力みたいなものとは、
「ウフフ。そんな
「シュピオル? なんのことだろう。これはまた新しい大きな謎だ」
「まあその辺で
宇宙を走る佐々砲弾の無線電話は、そこで惜しくもプツンと切れた。
しかし受話器を台の上に置いた大隅学士の顔は急に若々しく輝きだしたのであった。
「ウム、これだこれだ。『如何なる方法でウラゴーゴル星は地球を引き寄せたか?』という問題の答案が立派にできたのだ。それにしても、何という恐ろしい力を持ったウラゴーゴルだろう!
その翌日のこと、大隅学士は××大学の大講堂の演壇に進んで立って、この重大なる報告をした。これを聴講をするために押しよせた学者の数は無慮一万人にのぼった。会場の警戒線は会の始めから終りまで、二十度にわたって
「われわれ地球に棲息する人類は、骨肉
――と欧州の盟主ヒットリーニ氏は、国際放送をもって、世界の全人類に呼びかけたほどである。従って、大隅学士は人類の大恩人として、毎日のようにいくら断っても断り切れぬ招待会に追いかけられて、とうとう身体を
月明の矢追村は、大隅学士を迎えて、まるで何事もなかったような平和な顔をしていた。
「ああ、武夫君はその後どうしたろうネ」
彼はそこで、ゆくりなくも巨人病に
彼は、少年を
「――おーい、誰ですか?」
「僕は――僕は大隅という者です」
「大隅さん。ああ先生だッ」
扉のうちからは、可愛い子供の声がした。そして扉はギイッと内側に開かれた。
「おお――」
そう叫んだまま、大隅学士は門の中から飛び出してきた可憐なる少年の顔を、
「大隅先生。僕、武夫ですよ」
「えッ、武夫君。武夫君なら、もっと身体が大きい筈だ」
「ええ先生、悦んで下さい。僕の身体は四五日前からだんだん小さくなって、とうとう元のようになったんです。まるで、夢みたいで嬉しくて仕方がありません。お美代も、たいへん悦んでくれていますよ」
「おおそうか。やっぱり武夫君だったのか。僕も嬉しい。気になって仕方がなかった」
「僕だけじゃないんです。大きくなったものは全部小さくなりましたよ。ほら、石亀のように大きかった
そういって少年は、肩の上を指した。なるほど一匹の甲虫が、少年の服の上を
「先生、どうして皆、元のように小さくなったんでしょうネ」
少年はニコニコしながら、大隅の顔を見上げた。
「ウン武夫君、やっと分ったよ。ウラゴーゴル星が遠くへ離れていったから、それであの不思議な力が弱くなり、それで皆元のように小さくなったんだ。それで分るじゃないか」
「ああ、そうなんですか。オヤお美代も先生の声を聞きつけて起きて来ましたよ」
なるほど、番小屋の方から、少年と仲よしだったお美代の声が聞えてきた。
「みんな幸福になったねえ――」
大隅学士は、