義弟の出獄
その満々たる自信家の烏啼天駆が、こんどばかりは困り果ててしまった。散歩者の胸の中から心臓を
刑務所から晴れて出て来たんだから、まことに結構なわけで、困る事なんかすこしもない筈だが、かれ烏啼は大いに困り果てるのだった、というのはこの義弟
さような次第だから、的矢貫一が出獄し、当節の一から百まで腹立たしい世間へ顔を出したとなると、単純な彼を怒らせる機会はいくらでも転がっていて、ぱぱンぱぱンと直ぐさまピストルから煙を出すようになることは必至である――と、義兄烏啼天駆は推測しているのである。
ピストルから弾丸をくりだせば、当今どういうことになるか、恐ろしい結末になることは知れていた。それに奇賊烏啼としては、ピストルを放って相手の命を取りっ放しにしたり、重傷を負わせて溝の中に叩きこんで知らぬ顔をしたりするのは、極めて彼の趣味と信条に反する
さりとて、この義弟を
こういう次第だから、烏啼天駆の
「それは同情する。君としちゃあ、このまま放置するには忍びないだろう。パチンコの的矢と来ては、返事をする代りにピストルの弾丸を送る奴だからねえ。わしも彼奴に前後三回、身体に穴をあけられたよ」
「どうも済まん。それをいわれると、おれは胸を締められる想いだ。ねえ、何とかして貰えんだろうか。一生のお願いだ。哀れなる烏啼天駆を助けてくれ」
「うん。外ならぬ貴公から是非にと頼まれたのは前代未聞じゃから、何とかしてあげたいものだ。どうするかね、これは……」
烏啼の心友は、ひどい猫背を一層丸くしてしばらくじっと考えこんでいたが、やがて彼は黒眼鏡の奥に、かっと両眼を開き、両手をぽんと打った。
「よし、いいことを思いついた。それを思いついたは、貴公の幸運というものじゃ。こういうことで行こう。近う寄れ」
そこでかの心友は猫背を一層丸くして、烏啼の耳に何事かを
「えっ、彼奴にピストルを持たせて……ふんふん、ええっ、やっちまうのか。それでは虎を野へ放つようなもの……え、大丈夫か。ふんふん、ふうん。……そうかなあ。いや君を信ずるよ、僕は。よろしい、どうか頼む」
烏啼は、手を合わせて心友を拝んだ。
お
烏啼の
お志万は丸ぽちゃの色白の娘で和服好み、
「おい貫一。こんどはお前も自ら責任をとって万事をやれよ」
「はい、はい」
「責任ある生活を始めるには、何といってもまず身を固めにゃならねえ。結論をいえば、お志万と結婚し新家庭を作れやい」
「いや、それは
「御免を蒙る。なぜだ。可哀想にお志万は、お前の出獄するのを指折りかぞえて待っていたんだぜ」
「それはどうも済みません、だが、兄貴の言葉にゃ従いかねる」
「お前はお志万が嫌いかい。はっきり返事をしなさい」
「お志万さんだけじゃねえ、僕は、およそ女と名のつくものが好きになれないんだ」
「ぷッ」烏啼はふきだした。「冗談も休み休みにいえ。若い男の癖に、女が嫌いなどと……」
「性に合わないから合わないというんですよ。お志万さん、御免よ、ね」
お志万は
「さあ、ここらで飯にしよう」
と、貫一は茶碗をお志万の方へ差出した。
貫一は、軽く二杯をかきこむと、急いで席を立とうとした。
「待て、貫一」
と烏啼は手をあげて停めた。
「僕は約束があるんだ。だから……」
「約束なんかないよ。ごま
「お志万さんのことなら、何度いっても駄目だ」
「そのことじゃねえ。商売のことさ。出獄したところでお前に一つ腕前を奮って貰わなくちゃ、烏啼天駆の弟で
烏啼の声がだんだん、毒味を加えた。
「へえ……」
貫一は目をぱちくり。
「お前、
「兄貴は本気でものをいっているのかね」
「なにを寝ぼけてやがる。――どじを踏んでみろ。皆から
「
「憚りながら的矢の貫一、胆玉がよわくなったの、腕があまくなったのといわれちゃあ――」
「そんならいい。今夜から仕事に行ってくれ。お前ひとりでやるんだぜ、五体揃えば、五百万両の仕事だ」
「五百万両。それなら仕事の返り初日にはちょうど手頃のものだ。一体それはどこへ行って貰ってくるんで……」
「本当にやる気があるのかい。
烏啼は念入りに義弟に油をかける、そういわれては貫一たるもの、何がどうあっても兄貴からいいつけられた仕事をやってみせないでは済まなくなった。
「兄貴、今からでも出かけますぜ」
と、貫一は胸へ手を突込むと、愛用のピストルをつかみ出して、畳の上へ置いた。
烏啼は、その方をちょっと
「貫一。この仕事はお寺さまから仏像を盗みだすんだ」
「えっ、仏像を……」
「仏像といっても、けちなものじゃない。いずれ準国宝級のものだ。こういう風変りな仕事をおっ始めたわけは、近頃の坊主どもの中には悪ごすい奴がだんだん殖えて来やがって、生活難だの復興難だのに
「へえ。それは又変った仕事だねえ」
「五つの寺の所在と、さらって来る仏像の名前とスケッチは、この紙に書いてある。さあ、これをそっちへ渡しとくぜ」
烏啼は懐中から書付を出して、貫一の方へ差出した。お志万が橋渡しをして、貫一へ渡してやった。
「ほほう。第一は
「まあ、後でゆっくり読んで、案を練るがいい。それについてもう一ついって置くが、そのピストルはこっちへ預けて行け」
烏啼は、貫一のピストルを
「じょ、冗談を。それを召上げられては、こちとらは――」
「貫一。こんどの出獄を機会に、ピストルの使用を禁ずる。それがお前の身のためだ。しかといいつけたぞ」
「そんな無茶な……あっ、兄貴」
烏啼は、つと立って奥へ入った、
たしかな腕前
黒い森の上には
それがいきなり
「さて、仕事前の一服と……。寺はあれだな」
と、ひとりごとをいうこの怪漢こそ、烏啼の
「このピストルの方が、筋はいいんだ。何が幸いになるか分らないもんだ」
ちょっと片手で
「すみません、ちょっと火をお貸しなすって」
不意に真暗から声がして、貫一の前に一人の男がのっそりと現われた。若い男だが、毛糸で編んだ派手な太い
「へえ、すみません。
「この先まで帰るんだが、ちょっと腰が痛くなって一休みしているんだ」
と、貫一は
「そうですかい。この辺は
「お前さんは物騒でないのかい」
と貫一は、ちょっとからかった。
「とんでもない。私は刑事ですよ」
「刑事? ははン、それはどうも……」
「じゃあ、気をつけてお出でなせえ、さようなら」
さあ仕事だ。今のうちに早いところ仕留めて置こうと、貫一はそれから森の中へ入っていった。
二十分ばかり経つと、森の奥から、背中にむしろ包みの
「待てッあやしい奴……」
いきなり暗闇から、月光流れる街道の真中へとび出した人影。ばらばらとこっちへ駆けてくるところを、貫一が
きゃッと、のけぞってぶっ倒れる刑事。そのとき貫一は、はっきり見た――彼の放った一弾は、刑事の右腕に命中し、そして二の腕あたりからもぎとって、すっとばしてしまったことを。
「ざまあ見やがれ。
貫一は、
貫一は射撃に自信と誇りとを持っていたから、彼は未だ
彼は
「うまくやったのう」烏啼がちょっぴり賞めた。「何か変ったことはなかったか」
「いいえ、なんにも……」
と貫一は刑事の件については語らなかった。
第一夜の成功に味をしめて、貫一は第二夜を迎えると、予定のとおり品川の琥珀寺へ出掛けた。
やっぱり空には戸鎌のような月が出ていて、貫一がやった昨夜の仕事を知っているぞという風に見えた。
お寺は
刑事は、自らそれを名乗ると共に、近所が物騒なことを告げて、向こうへ行ってしまった。昨夜と同じようだ。近頃の刑事というのは皆あんな服装をし、あんなことをいうように命令されているのだろうか。
それから二十分後に、貫一は琥珀寺の秘仏である吉祥天女像を、荒ごもに巻いて背中に背負い、寺を出た、その寺では、坊主たちが気がついて騒ぎだしたが、貫一がピストルをポケットから出すと一同は
貫一はその後で、便所の戸を釘づけにし、そして悠々と吉祥天女像を荷造して背負って寺を立ち出たのであった。
と、だしぬけに「待て、賊!」と声をかけて、こちらへ駆けて来る者があった。月明かりに見れば、又しても例の変ったユニフォームを着た刑事だった。
銃声一発! 刑事は
貫一は、そのまま走り去った。前夜と同じことが続くとは、なかなか油断出来ない世の中になったものだわいと、彼は烏啼の館へ帰着するまで全身の緊張を解かなかった。
地下の倉庫には、二体の秘仏が並んだ。烏啼は、やはりちょっぴりと貫一を賞め、そして「何か変ったことはなかったか」と
その次の第三夜は、葛飾へ出掛けた。
二度あることは三度あるというが、ふしぎにも同じことがあった。縞馬みたいな刑事が煙草の火を借りに来て、この辺は物騒だから
「どうも変なことがあればあるものだ。毎晩同じような服装をした同じような刑事が現われて来やがる。……しかしまさか同じ人間じゃあるまいな。前の夜の刑事なら、あんなにぴんぴんしていられる訳がない。それに同じ刑事なら、煙草の火を借りるにしても、もっと何か前夜と連絡のあるような文句をいう筈だが、実際はそんなことはなかったんだからなあ。だから、やっぱり別の人間に違いない」
その夜仕事が終って寺を抜け出て通りへ出た
「これでも
貫一の放った一弾は、刑事の右の脚を、膝の上のあたりで切断をしてしまった。刑事は、すってんころりと転んだが、気丈夫な奴と見えて
烏啼の館に、尊い仏像は三体も集った。
「異ったことはなしか、今夜はいやに顔色が良くないが……」
と烏啼が訊いたが、貫一は例によって異状なしと頑張った。
第四夜は
さすがの貫一も、その夜は少々気味が悪くて、足がいつものように楽に進みはしなかった。
「旦那。すみません、煙草の火を貸して下さい。すみません」
又もや同じような服装の刑事に違いない男が寄って来た。
「君は毎晩おれのところへ火を借りに来るじゃないか」
と、貫一はもうたまらなくなって、前後の見境もなく、そんな言葉を吐いてしまった。
「えっ、何ですって、毎晩旦那の前に私が現われますって。へッ、冗談じゃありませんよ、お目に
刑事は、そういって否定した。貫一の予期したとおりであったので、彼はほっとした。かの刑事が立去る後姿を、貫一は注意力を傾けて見ていたが、それは満足すべきものであった。なぜなれば、もし彼の刑事が昨夜貫一が撃って右脚を砕いた刑事と同一人だったとしたら、どんなに幸運に考えても足をひきそうなものであったが、彼はすこしもそんな風に見えなかったのである。もっとも、よく考えてみれば、右脚を失った人間が、その翌晩平気な顔をして煙草の火を借りに出て来られるものか来られないものか、すぐ分ることであった。
「よくも毎晩のように邪魔をしやがる。くそッ、これを喰え」
ピストルは一発、発射された。
それは見事に刑事の左脚に命中し、
貫一は仏像を背負ったまま、今夜は倒れた刑事の方へ近づいた。月光の下に展開する
「間違いなく、左脚がちょん切れている。当人は虫の息だ。なまぐさい血の海。――あと二三十分の
貫一は安心をして、その場を立った。
烏啼の館に、四体の仏像が集った。烏啼はいつもの口癖で、なにかなかったかと訊いたが貫一はいつもの口癖で、異状なしと答えた。
いよいよ
今宵のお寺は、
またもや縞馬姿の刑事が、森蔭を出て、煙草の火を借りに来たのには愕くよりも
「君は、たしかに毎晩出て来る男に相違ないよ。君は幽霊かい」
「冗談じゃないですよ。私はこのとおりぴんぴん生きています」
刑事は、貫一の前で地響をたてて
「でも変だね。たしかに命中して腕をとばし脚を千切り……いや、これはこっちのことだが、おれはさびしいや」
「全くこの辺は物騒ですから、気をおつけなさい」
刑事が行ってしまうと、貫一は、
「おれがピストルを持てば天下無敵だと思っていたが、その腕前ももう
仏像を背負って出て来た貫一を、やはり前四夜と同じように遠方から
だが彼はその寸前に思い停って、もう一度右腕を覘って、一発ぶっ放した。すると刑事は蝙蝠のような恰好をしてとび上ったと思うとその場にぱったり倒れた。彼の右腕は、彼の身体から二メートルも離れたところに転がっていた。
貫一は、傷つける刑事の傍に寄った。刑事は虫の息だった。貫一は、むらむらとして、ピストルを取直すと、刑事の心臓に覘いをつけた。……が、間もなく彼は
「……おれが二発目を発射するような気になるなんて、もう焼きが廻ったんだ。ピストルも、今夜かぎり、お別れだ」
そういうと貫一は、ピストルを空高く投げた。やがて森かげの池の水が、ぽちゃんと鳴って、貫一無念のピストルを
五体の秘仏の前で、一心発願した的矢貫一が、お志万と結婚の式をあげた。
烏啼も大よろこび、お志万はいうに及ばず貫一も今は
宴の半ばに二人連れの客が、新郎の前にぴたりと座った。貫一はその客を見て愕いた。一人は猫背に黒眼鏡の、有名な探偵袋猫々であったし、もう一人は縞馬服の例の刑事であったから。
「わっはっはっ」と、貫一の横に座っていた烏啼が大きく笑った。
「貫一。このお二人さんによくお礼を申上げな。これはお前たちの大恩人だからね」
「この幽霊め、また今夜も出て来たか」
「おい、そんなことをいってはいけない。この方は、袋猫々先生が特に探して来て下すった福の神で、実はこの方は、戦争で両腕両脚をなくされて、手足四本とも義手義足をはめられていられる方なんだ。いいかね、そこでお前は思い当ることがあるだろう」
「おお……」
「義手や義足をピストルで撃ってみても、すぐお
「兄貴の智慧にしちゃ上出来だ」
「いや、この芝居はおれが書いたんじゃなくて、ここにお出でなさる名探偵袋猫々先生にお智慧拝借の結果だよ。猫々先生によくお礼を申上げなよ。……しかしおれはお前のお蔭で、これまで下げたことのない頭を、
烏啼はそういって、探偵袋猫々に向って