ルパン式盗難
その朝、
それは書斎の壁にかけてあったセザンヌ筆の「カルタを取る人」の画に異常を発見したためである。
零落した伯爵の今の身にとって、この名画は、唯一の宝でもあったし、また最高の慰めでもあったのだ。この名画ばかりは、いくら商人から高く買おうといわれても、いつもはっきり断った。
画面は、場末の酒場で、あまり
それほど伯爵にとって価値高きこの名画を、伯爵は朝起きるとすぐに書斎へはいって眺めるのを一日中の最大の楽しみとし、またその日の最初の行事ともした。
ところが、その日の朝、伯爵はこの部屋にはいると、名画の中の二人へ朝の挨拶がわりに横眼でじろりと
「ばかな。そんなことがあってたまるものか。僕の眼がどうかしているんだろう」
伯爵は、一旦発見したものを打消しながら、その名画の向い側においてある
電気のようなものが、頭から背筋へ走った。
「あッ。この画はへんだ」
名画「カルタを取る人」の画面に異状があるのだった。伯爵は、毎日この名画に見なれているので、すぐ気がついた。この異状というのは、カードを持った右側の人の横顔がちがっている。型の崩れた帽子の下から出ているはずの耳が、今見る画にはない。つまり耳が帽子の中に隠れてしまっているのだ。
そしてこの人の顔つきも、たしかに変っている。平和な顔つきが、どぎつい神経質な顔つきになっている。それから驚いたことに、この右側の人物はパイプをくわえている。パイプをくわえているのは、左側の人物だけであったのに、今こうして見る画面では、二人ともパイプをくわえている。
「なんということだ」
伯爵は、思わず
それから左側の人物をしげしげと眺めた。この人物も、たしかに顔つきが変っている。面長な顔が、かなり円味を帯びている。そして手にしているカードの数がすくない。
まだある。椅子の下に、画面の二人の膝が出ていなくてはならないのに、今見る画面においては、そこが塗りつぶされたようになっていて、二人とも膝がない。そのかわりとでもいうか、
「一体これはどういうわけだ」
伯爵は、いくども目をこすって、画面を見直した。いくら見直しても同じことであった。
「ふしぎなこともあればあるもの」
伯爵は、椅子から立って書棚のところへ行き、それからドイツで印刷された名画集の大きな本を抱えて戻ってきた。椅子の上で、そのページを
ふと、伯爵の脳裡に、電光の如く
「ははア。さては……」
伯爵は立って、画のそばに近づいた。それから額縁を裏返しにして、急いで調べた。画を額縁にとめてあった釘がぬけていた。
「ふーン。やっぱりそうか。盗まれたんだ。そして賊は、原画のかわりに、この模写の画を入れていったのだ。ふざけた奴だ。僕をこんな愚劣な模写ものでごま
伯爵は、蒼くなり、また赤くなった。
名画を盗んで、そのあとに模写画を入れて置く。そうすれば、何も盗まれなかったように見せかけられるアルセーヌ・ルパンが発明した妙手だ。その妙手を模倣したんだ。しかしそれは何番
「してみると、あの画を盗んでいった奴は、大した泥棒じゃあないね」
大した泥棒じゃないと、いってはみたものの、よく考えてみると、伯爵にとっては、手中の玉をなくしたよりももっと大きい痛手だった。
毎日あの名画を見、あの名画を頼りにして辛うじて生き続けて来たのにそれを奪われてしまっては、伯爵は生活力の九割がたを失ったようなものだと思った。伯爵はがっかりして、肘掛椅子の上に失心してしまった。
袋探偵登場
やがて伯爵は、失望の中から起きあがった。
「よし。こうなったら、どんな事をしても、あの憎い泥棒めを掴まえ、そしてあの画を取返してやるのだ」
伯爵は、名画を取返すために、鬼になろうと決心した。
といって、彼が自ら探しまわったんでは、大した収穫のないのを
警察署からは、その翌日になって係官が一人来た。そして事情をいろいろと聞き、入れ替えになった名画を見、現場をよく見た。その後で、盗難届の用紙を伯爵に渡し、詳細を書きこんで、警察筋に提出しなさいといって、係官は帰った。
ルパンを相手のガニマール探偵のようなきびしい捜査や家人や雇人たちについての
また、事実その通りであることが日を経るに従って、いよいよ明白となった。
そこで伯爵は、私立探偵の手を借りることに決心した。この方面に多少明るい某というやはり伯爵の二男が昔学友であった
「ちょっと
と、袋探偵は猫背を一層丸くしながら、伯爵のうしろについて、書斎へはいって来た。
「ははあ、この油絵が、それですか。なるほど、なかなか渋い名画ですな。いや、この絵のことじゃありません。この原画のことを申したのです」
探偵は巧みに
「なるほど、釘が二本抜けていますな。名画のあとへ、こんな怪画を入れて行くとは、けしからん犯人です。必ず犯人をつきとめて御安心願うようにします。盗難のあった前夜のことから詳しく話していただきましょう」
探偵は熱心に伯爵の話を聞き、そして鋭い質問を連発した。
「なにしろ御承知のように零落して居りまして、雇人と申しては年とった小間使お
伯爵は、探偵に詳しく前夜から事件を発見した朝までのことを説明した。
それによって、探偵は家中を調べ、雇人について正したが、その結果分ったことは、伯爵は嘘をついているのではない、雇人たちもこの犯罪に関係していない、賊が忍びこんだところは調理室の窓からであって、そこには有り得べからざるところに犯人のゴム靴の足跡がかすかに残り、また棚のところには犯人の手袋の跡が残っていた。そして犯人は二人組らしく、そのうちの一人は女であると推定され、
「賊は二人組で、そのうちの一人は大年増の女だというんですか。しかも色の白い女で、美人なんですか」
伯爵は、探偵からそれを聞かされると、そういって目を丸くした。
「ちょっと待っていただきます。私は今、美人とは申しませんでした。もっとも、不美人だとも断定できません。あるいは御希望のとおり美人かもしれません」
すると伯爵は顔を
「いや、美人不美人を問題にしているのではありません。あの名画を、君が賊から取戻す見込みがあるかどうか、そのところを知りたいのです」
と、ごま化した。
「さあ、そのことですが、今まで調べて分ったところを綜合して考えてみますのに……」
と袋探偵は鼻をくすんくすんと小犬の
袋探偵は、急にこの事件の重大性を力説し始めたのである。
「それはたいへんだ。すると犯人は猛烈に凄い奴ですね。少くともルパン級。いや、もっと上のスーパー・ルパン級の悪人ですか。困ったなあ、あの生命にも替えがたい名画『カルタを取る人』は遂に永遠に僕の手に戻りませんかねえ」
「そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。まあしばらく、私にこの事件をお委せ下さい。一週間のうちに解決しなかったら、天下の何人といえども、この事件を解決し得ないのです。しからば今日はこれにて失礼します。いや、明日より一日に一度は御連絡申上げますから……」
そういって袋探偵は引揚げていった。
美術商来邸
探偵の引揚げていったその後へ、美術商の岩田天門堂が、伯爵を訪ねて来た。
伯爵は、その後、誰にも会わないつもりだったが、岩田は美術商であるから、彼は盗まれた名画の行方について既に何か聞きこんで居るのではないかと思ったので、岩田だけには会うことにした。
天門堂主人は、例の如くちぐはぐな恰好で伯爵の書斎へはいって来た。
「これは、
直角以上に腰を曲げて見せる。
「ふふん。今日は機嫌がよくないのだ」
伯爵は、すねたような声を出す。
「あれッ、これは意外なるおん仰せ。何ごとが御前の機嫌を損じましたか、その次第を――ほほう、これは変った絵をお
さすがに美術商よと
「君にも分るかね」
伯爵は、情けない声で
「分りますどころか、実に珍なる画でございまするな。御前はこの画をどこで手においれになりました。また、ここにお架けになって居りますのは、如何なる
「無礼なことをいうね、君は」と、伯爵の額には青筋が太く出た。
「いや、これは御無礼を。平頭陳謝仕りまする。しかし正直なところ、鈍なる天門堂には皆目わけが分りませんので。御前より御説明を承りますれば、まことに
そこで伯爵は顔色を
聞いている岩田天門堂は、さかんに愕きの声を洩らし、御前をも
「とんだひどい奴があった者でございますね。盗んで行くなら盗んで行くで、そっくり持って行けばいいものを――いや、これは失言でございました、どうぞ御勘弁を――つまらんものを残して行くなんて、まことに人を
と天門堂はしげしげと伯爵の顔を見て云ったものである。伯爵の顔は
「全く不愉快だ。おい天門堂。この絵を片付けてくれ。そうだ、庭へ持出して、焼いてしまってくれ。なに構わんから」
「焼き捨てろと
岩田は、懐中から大きな財布を出して、その上をぽんと叩いた。
「なんだ。お前も変っているな。とんでもない模写のニセ名画を買い取って、どうするつもりか」
「いえ、もちろん手前の手に渡れば
伯爵の心が動いた。
「じゃあ、いくらで買っていくね」
「
「おい、ひどく儲けるつもりだね。さっき五千円で売りつけるといったのに、ここから買っていくときはたった千五百円か」
「ははは、これは御前、恐れ入りました。売りつけますにはいろいろと手のかかるものでございまして、それ位の利益を見ておきませんことには……ええい、ようございます。特に大々奮発いたしまして、ぎりぎりのところ四千円で頂きまする。千円は儲けさせて頂きたいもので、はい」
とどのつまり、岩田天門堂はこの怪画を四千円で伯爵から買い取り、折柄ちょうど店の者が自動車を持って岩田を迎えに来たので、それに乗って帰った。もちろん怪画はそのとき持っていった。
その翌日のことである。
袋探偵は、いよいよ猫背を丸くして、黒眼鏡の背景の大きな顔を、よく熟れた
「怪賊の見当がつきましてございます」
と、袋探偵は伯爵の顔を見るより早く云った。
これには伯爵も愕いた。へぼ探偵にちがいないと、昨日は内心がっかりしていたのに、予期に反してこの快報をもたらしたのであるから、愕き
「本当かね」
「いや、それについてご説明をいたさなくては信用なさらないでしょう。実は、例の怪賊の手口からして糸口を
「賊は誰でも差支えないが、あの名画は、何時僕のところへ戻るだろうか」
「名画の取戻し方については、まださっぱり自信がないのですがが賊の見当だけは果然つきましたゆえ……」
「待ちたまえ。今も云うとおり、賊は誰であっても僕は構わない。問題は、あの名画が僕のところへ戻るか戻らないか、それを早く報告して貰いたい」
「それは
「聞きましょう、君の話を。犯人の素性その他について、聴取しましょう」
伯爵はややがっかりしたが、やがて思い直して探偵にそういった。
「これは私でなくては
「なに、ウテイ・テンクとは何者です。それが色白の女賊の名ですか」
「いえ、違います。二人組の男の方が、烏啼天駆なんで。こ
「残酷なことをする。憎むべき殺人鬼だな」
「いや、殺人はいたしませぬ」
「しかし恋敵の男から心臓を抜けば彼は死んでしまう」
「ところが奇賊烏啼の堅持する憲法としまして“およそ盗む者は、被害者に代償を支払わざるべからず。
「なるほど。これは奇々怪々だ」
伯爵は奇賊烏啼天駆の話が初耳だったので愕いた。
実は、これは深い
「で、その烏啼とやらが、僕の名画を盗んだことを白状したのかね」
「いえいえ、まだ、そこまでは行って居りませぬ。犯罪の性質と手口から判断して、この事件は彼烏啼の仕業にちがいないと推理した結果を御報告に参ったわけです」
「そんなら一刻も早く烏啼天駆とやらを縛りあげて、僕のところへ連れて来給え」
「ああ、そのことですが、実は私は烏啼を常に監視しつづけているのですが、どうしたわけか、この半年ほど、烏啼は本部に居ないのです。つまり行方をくらましているのです。彼のことですから、死んだのではないと思います。彼の部下もちゃんと元気に秩序立って活動していますから、
「それはまた、たより無い話だね。さっき聞いた犯人が烏啼であるという結論までたより無くなって来た。君、大丈夫かね」
伯爵は情けない顔をした。
「大丈夫ですとも。怪賊烏啼を捕る力量のある者は天下に私ひとりです。どんなことがあっても彼の尻尾をつかんで取押えてごらんに入れます」
「待ち給え。毎度いうように、犯人を捕えることよりも、名画を僕の手に戻してくれることに力を入れてくれ給え」
「名画といえば、入れ替わりの名画はどうなさいました。壁からお外しになって、おしまいになったんですか」
「いや。あのインチキ名画は、出入りの美術商に四千円で払い下げてやったよ」
「それはどうも。お気のはやいことで」
「一日に何十回と見るたびに
「しかし、どうも、ちと気がお早すぎましたね。これはどうも」
と、袋猫々探偵は、腕を組み、首をかしげて考えこんでしまった。
怪賊の侵入
こういう名画すり替え事件が、その週のうちに、前後三回起った。
しかし当局へ届けられたのは、一回だけであった。他の一回は、被害者の方で気がついていなかったし、もう一回の方は、事情があって当局へ届けなかった。その事情というのはその名画が、公表出来ないような筋道を通ってその人の手に入ったもので、届ければ
探偵袋猫々は、この三つの事件を知っていた。それは彼の熱心と、彼の張っている監視網の確実性によるものであろう。
彼は、
その一つは、賊はいつも二人組で、うち一人は女賊であるということだ。
もう一つは、その事件のあとにはいつも怪画の買い手が来て、価値のない画を割高に買っていくことだった。その買い手は伯爵の場合の外は岩田天門堂ではなかったが、買って行くときの口上などは、三事件ともほとんど共通した文句を使っているところからして、或いは一つの系統に属している商人たちではないかと探偵に不審の心を抱かせ、それから袋探偵の活動が更に一歩深入りした。
そのころ北岡三五郎という新興成金があった。彼はこの連中の中では珍らしく審美派であって、儲けた金の一部をもって、元宮様の別邸をそっくり買い取り、それから日本画や洋画等の美術品の蒐集に凝りだした。
しかし短い時期に、そう大した美術品が集まるわけもなかったが、だがその中にピカ一ともいうべき名画が一枚あった。それはルウベンスの描いた「宝角を持つ三人のニンフ」であった。
これは縦長の画で、題名のとおり三人のニンフが画面に居て、花や果実のあふれ出てくる宝角という円錐形の筒を抱いているのであった。
この名画を、北岡は応接間の壁にかけていた。彼はこの名画を来客の一人一人に見せ、そして聞き噛って来た解説を自慢たらたらと聞かせるのだった。
袋探偵は、この名画に眼をつけていた。やがて必ずや名画怪盗の餌食になるものと思った。かの怪盗は、なかなか鑑賞眼というか鑑定眼を持っていて、真に傑作であり、値の張るものを持って行く。その傍に、別の大作の画があっても、それが幾段も劣るものだと見分けて、手をつけないのだった。だから怪盗はこのルウベンスの名作に必ずや手を出すにちがいないと思った。
だが彼は、北岡氏に対し、そのことを
そのためかどうか分らないが、遂に北岡邸へ例の怪盗が忍びこんだ。大雨風の去った次の静かな深夜のことだった。
黒衣に身体を包んだ二人の賊の、一方は背の高く肩幅の広い巨漢であって、男にちがいなかった。もう一人の賊は、五尺二寸ばかりで、ずっと低く、ただ腰のまわりがかなり張り出していた。どうもこの方は女賊であるらしい。頭には、ナイト・キャップのようなものを被り、黒色の大きな目かくしで、顔の上部を
侵入の仕事は、男の方が先に立って、どしどし片づけていった。彼は余程忍び込みには経験があるらしく、庭園に面した廊下の端の
二人は、各部屋の様子をうかがって廻った。そして小さな笈を使って隙間から部屋の中へ何か霧のようなものを吹き入れた。
「こうして置けば、四時間は熟睡していて下さるよ」
男賊が笑いながら仲間に云った。
最後に応接間に入った。
「やあ、さすがはルウベンス。いいもんだなあ」
男賊は、広い肩を左右へ張って、惚れ惚れと画面に眺め入った。しばらくすると、彼の左の腕に、柔く力が加わった。女賊が、それを抱えたのだ。ぴったりと女賊は身体をすり寄せる。
どうしたわけか男賊は「これッ」と叫んで仲間から身を引いた。彼は左の腕を、痛そうに
「つまらんことはよしにして、さあ仕事にかかって貰おう。君が仕事をする一時間は絶対に大丈夫だから、安心してやるんだ。もし外部から邪魔が来れば、そのときは五分間でおれが片附けてしまう。さあ、仕事にかかったり」
仕事とは、何か。
男賊の方は退いて見張についた。女賊の方が前に出た。ルウベンスの「宝角を持つ三人のニンフ」の画面をじっと見ていたが、やがて軽くうなずくと、小さい机を傍へ引寄せ、その上に黒い包を載せて、解いた。
中からは絵具箱や、紙に包んであるガラス
すると画面は、刷毛の当ったところだけが白くなった。
何を塗りつぶすつもりか。
それにしても賊の怪行為だ。
女賊は、画面に三ヶ所の白い塗り
うしろを歩いている男賊は、時々立ち停って、女賊のすることを
女賊の怪行為は続いた。
それが終ると、こんどは絵具箱からパレットを取出し、それから絵筆を右手にとった。それから彼女は、非常な手練と速さを持って、さっき白塗りにした上に、別の画を描いていった。もっともその画は、原画の消してない部分とよく連続した。
すなわち、右端のニンフが原画では七三に向いているのが、彼女の手によって真横向きに描き改められた。真中のニンフの左手は、原画では垂れ下っているが、これを宝角を抱いている様に描き改めた。それから左端のニンフは正面向きに直され、手の形も変えられた。それが済むと女賊は大急ぎで道具類を片附け始めた。
すると男賊が寄って来た。
「ふむ。実に大したものだ。
男賊は、それまでと違った一変した態度をとって、仲間を讃めた。
「あなたが、あたしにいい言葉をかけて下さるのは、こんな仕事をした直後だけに限るのよ。憎らしい人」
「さあ、急ごう、仕事が終れば、早々退場だ」
男賊は女賊を促して、さっさと部屋から出ていった。庭園に面した戸は、二人の賊を送り出すと、元のようにぴったりと閉じられた。
加筆されて怪画となり果てた名画「宝角を持つ三人のニンフ」は、そのよき静かな応接間に睡りをとったのであった。
この怪画は、それから二日後に、美術商岩田天門堂が来て、買取っていった。
地下の画室
某山脈の某地点に、烏啼天駆の持っている地下邸があった。
その一室が、かなり広くて、今は名画の間となっている。
その日、彼烏啼は、新しい画を持ちこんだ。それはルウベンスの「宝角を持つ三人のニンフ」に似た怪画であった。
彼の傍には、四十歳に近い色白の
怪画は、中央のテーブルの上に、上向きに置かれた。面長白面の美男子烏啼は、待ちきれないといった顔で、婦人を促すのであった。
「そうお急ぎになっても、同じことですわよ」
「いや、早く幕を取除いて、その下にある本体を見せてもらわないことには、安心ならない。藤代女史、急いで……」
藤代女史といわれた大年増は、烏啼をいくぶん焦らせて
すると横向きになっている右端のニンフの顔が、七三向きに直った。ガーゼには、絵具が附着していた。
女は、ガーゼを白いバットの中で洗って、同じようなことを、画面の他の部分に施した。真中のニンフの手の位置が変化し、それから正面向きの左端のニンフが右向きに変った。
「美事美事。藤代さん、大したものだ。とうとう名画の御出現だ。さあそれはあそこの壁にかけよう」
烏啼は上々の機嫌になって、再現した名画を壁間に掲げ、惚れ惚れと眺めた。
彼が藤代女史にやらせている油絵変貌術は、かつてルーブル美術館からダビンチ筆の「モナリザ」を盗み出し、多数の模写を作って大儲けした賊ジョージ・デーンの手法と技術とを踏襲しているのだった。つまり或る薬液があって、それを画面にかけると、後から塗った画は、綺麗に拭い去ることができるのであった。
烏啼と藤代女史とが、この静かな画房の中で、蒐集の名画八枚をうっとりと眺めているとき、音もなく扉があいて、そこからひどい猫背の黒眼鏡をかけ、長いオーバーを着込んだ男がはいって来て、軽く
烏啼は「あッ」と叫んで、振り向きざま手馴れたピストルを取直し、あわや引金を引こうとして、危いところで辛うじてそれを思い
「やあ、珍客入来だ。これはようこそ、袋猫々先生」
「こんなことだと思ったよ。悪趣味だね」
「なんの、合法的だよ。不正な取引はしていない」
烏啼は、
「だが、こんなことは、もうよしたがいいね。種はたった一つだ。この種で、何べんも繰返しているなんて、烏啼天駆らしくもない」
「ふん、忠告か。そういえば、同じ手法のくりかえしで気がさすが、世の中には
「あんたも焼きがまわっているよ」
と袋探偵は、つかつかと「宝角を持つ三人のニンフ」の前へ行った。
「美術商岩田天門堂に化けて二度も同じ手を使うとは、なんて
「ニセ物? この画が……。うそも休み休み云って貰おう。これは本物だ」
烏啼は激昂して叫んだ。
「ところが、お気の毒さまにも、これはニセ物なんだ。君を見倣って、わが輩のところにもこういう薬があるよ。ちょっと失敬」
そういって袋探偵は、烏啼と藤代女史とを尻目にかけ、オーバーのポケットから出した罎の栓をぬいて、中なる茶色の液体を、ざあッと画面へふりかけた。
「あッ、何をする」
烏啼は、袋猫々にとびついて、その罎を叩き落としたが、もう間に合わなかった。
「騒がないで、よく画面を見るんだね」
袋探偵は、落着き払って、そういった。
すると怪しむべし、画面のニンフや宝角が急に薄れて行き、一分半ばかり経つと、ルウベンスの画はすっかり消え去って、その替りに、その下から拙劣な林間を画いた風景画に変ってしまった。
「おや。これはどうだ」
と烏啼の愕くのを、にやりと笑った袋探偵は、
「これでお分りでござろうが、手前の方にも模写の
この勝負、ついに烏啼の負けと決ったようである。
もちろん、後日ではあるが、セザンヌ筆の「カルタを取る人」は、無事に伯爵の手に戻ったことは云うまでもない。伯爵は、死んでもこの画は売らないといっている。