地軸作戦
――金博士シリーズ・9――
海野十三
1
某大国宰相の特使だと称する人物が、このたび金博士の許にやってきた。
金博士は、当時香港の別荘に起き伏ししているのである。
別荘と申しても、これは熱海の海岸などによくある竹の垣を結いめぐらして、湯槽の中から垣ごしに三原山の噴煙が見えようというようなオープンなものではなく、例によって香港の地下三百メートルに設けられたる穴倉の中にその別荘があるのであった。
某大国の特使閣下を、金博士の許へ案内したのは誰あろう、かくいうわたくしであった。その当時、世界通信は、金博士が生死不明なること三十日に及び、まず死亡したものと噂されていたのである。従って、博士に会いたくて焦げつきそうな焦燥を感じていた某大国の特使閣下も、この噂に突き当られ、落胆のあまり今にもぶったおれそうな蒼い顔色でもって、上海の大路小路をうろうろしていたのである。しかし特使閣下は、幸運だった。わたくしという者に、ぱったり行き合ったからである。
「やあやあそこに渡らせられるは……」
と、わたくしがものをいいかけるうちにも、かの特使閣下はわたくしの姿を認め、手に持っていたステッキもウォッカの壜も、鋪道の上に華々しく放り出して、ものも得いわず、いきなりわたくしの小さい身体に抱きついたものである。それは大熊が郵便函を抱えた恰好によく似ていたそうな。通り合わせたわたくしの妹が、後に語ったところによると……。
「何万ルーブルでも出すよ、君。金博士が生きているということを証明してくれればね」
と、特使閣下は、腕の中のわたくしを、ぎゅっぎゅっと締めつけながら、声をひきつらせていったことである。
「それは有難う。では九万ルーブル、いただきましょう、ネルスキー」
「えっ、君は手を出したね。じゃあ、金博士はまだ生きていたんだね。ウラー、九万ルーブルはやすい。その倍を支払うよ。さあ、銀行まで来たまえ。どうせ君は、金を受取らなきゃ、喋りゃすまいから……」
十八万ルーブルは、相当かさばって、ポケットに入りにくいものだと感じながら、わたくしはぼつぼつネルスキー特使閣下の質問に答えていた。
「……ねえ、金博士は、上海の邸で、時限爆弾にやられて死んだという噂なんだよ。いや、噂だけではない、わしも実地検証をしたが、博士が爆発のとき居たという場所は、すっかり土が抉られてしまって大穴となっている。かりそめにも、博士の肉一片すら、そこに残っているとは思えないのじゃよ」
「あほらしい。金博士ともあろうものが、死んだりするものですか」
「いくら金博士でも、身は木石ならずではないか」
「それはそうです。木石ならずですが、たとい爆弾をなげつけられようとも、決して死ぬものですか。おしえましょうか。あのとき博士は、“これは時限爆弾だな、そしてもうすぐ爆発の時刻が来るな”と感じたその刹那、博士は釦を押した。すると博士は椅子ごと、奈落の底へガラガラと落ちていった。しかも博士の身体が通り抜けた後には、どんでんがえしで何十枚という鉄扉が穴をふさいだため、かの時限爆弾が炸裂したときには、博士は何十枚という鉄扉の蔭にあって安全この上なしであったというのです」
「なーるほど、ふんふんふん」
「しかし博士の部屋は、跡形なくなってしまったので、博士はもうそこにはいられず、或るところへ移った」
「それはどこかね。早く話してくれ」
「なにもかも教えましょう。香港にある博士の別荘ですよ、そこは」
「香港の別荘に金博士は健在か! あーら嬉しや、これでもう大願成就だ」
という次第で、この特使閣下を、わたくしが案内して、博士のところへ連れていってやったのである。この特使閣下は、自国宰相の面影に生きうつしで、影武者に最適なりとの評判高き御仁で、そのままの御面相でうろつかれては、宰相と間違えられていつなんどき面倒なことが発生するやも知れず、かくてはわたくしが傍杖をくうおそれがあるので迷惑だから、道中だけを特に変装して貰うことにした。それで特使は、あの髭を反対の方向へカイゼル髭にぴーんとひねり上げたものである。
2
「金博士よ、ぜひとも聴き入れてください。そうでないと、折角わしが特使に立った甲斐がないというものだ」
金博士は、後向きに椅子に腰をかけて、西瓜の種をポリポリ齧っている。さっきから何ひとつろくに返事をしない。
「ねえねえ金博士。博士は、わしが好んで特使に立ち、好んで味噌をつけるのだといわれるでしょうが、わしは自分の名声のために特使に立ったのではない。わが国の存亡の決まる日がすぐそこに見えているために、これが最後のチャンスと奮い起って立ったのだ。どうぞ愍みたまえ」
ネルスキーの熱演に拘らず、金博士は依然として後向きになって西瓜の種をぽりぽり噛みつづける。そこでネルスキーの顔色が、また一段と赤くなって来た。それは大焦燥のしるしである。
「おお金博士、なぜ黙って居られる。ふん、そうか。さっきから、わしがあれほどくどくどといっても返事をしないところをみると、さすがの金博士も、わが宰相が持ちだした問題があまりにむつかしいために、手出しが出来ないのだな。それに違いない。それ故、ろくろく口もきかないのだ」
ネルスキーは、ついに勘忍袋の緒を切らしたという風に、あくどい罵言をはきはじめた。それでも金博士は、やはり西瓜の種を喰うことだけに口をうごかして、ネルスキーのためには応えない。が、今度だけは博士の眼がぎょろりと光ったのは、多少ともネルスキーの言葉が博士の皮膚の下まで刺したものらしい。
「そうじゃないかね金博士。お前さんは、この広い世界に只一人しかいないオールマイティーの科学者だということであるが、へん、オールマイティーが聞いてあきれるよ。ダイヤのクイーンか、クラブのジャックぐらいのところだろう。ねえ、そうじゃないか。わが聯邦が今死守しているシベリア地方から、あの呪わしい雪と氷とを奪い去るくらいのことが、お前さんに出来ないのかね。シベリアの各港を不凍港にして貰いたいというのだ。シベリアに棲むのに、毛皮の外套なんか用なしにして呉れというのだ。ペチカも不要、犬橇なんかおかしくて誰が使うかという風に笑い話の出来るようにして貰いたいのだ。いや、もう何もいうまい。われわれが抱いていた夢はすべて消えた。科学の魔王金博士が健在なる間は、われわれの望みはきっと実現されるものと思っていたが、そもそもそれが思い違いだった。なにが科学の魔王だ。シベリアから雪と氷とを追放するぐらいのことが出来ないで、へん、何が金博士さまだ」
「やろうと思えば、そんなことぐらい訳なしだ」
金博士が、西瓜を噛みくだく間に、ぽつんぽつんと言葉を挟んでいった。
「ええええええっ!」
と、ネルスキー特使は、金博士の言葉をきいて椅子からすべり落ちた。よほどおどろいたものと見える。
「あれっ、早もう重心方向が変ったかな。この太っちょの特使閣下が安定を欠いて椅子から滑り落ちるとは……」
金博士は、人のわるいことをいう。
ネルスキーは、腰のあたりを痛そうにさすりながら立ち上ったが、彼はすぐ金博士の手をとって押し戴き、
「そういうこととは存ぜず、さきほどから失礼いたしました。今更ながら、博士の学問の深く且つ大きいことについては驚嘆の外ありません。どうかわが国を救っていただきたい。九十九路は尽き、ただ残る一路は金博士に依存する次第である。金博士よ、乞う自愛せられよ」
有頂天になったネルスキー特使は、まことに現金なごまをする。
「で、博士。それなら実際問題として、どういうことをなされます。これは宰相に報告する貴重なる材料となりますので、ぜひお話し置き願いまする」
「さっきから聞いていれば、わしが一口喋る間にお前さんは二十口も喋るね。北国人には珍しいお喋りじゃ」
「これは御挨拶です」
「まず何よりも決めて貰いたいのは報酬問題じゃ。これが成功の暁には何を呉れますかな」
「ああ報酬ですか。これは申し遅れて、まことに申訳なし。わが宰相から委任されている範囲内でもって、如何様なる巨額の報酬でもお支払いいたす。百ルーブル紙幣を、博士の目の高さまで積んでもよろしいです」
「いや、ルーブル紙幣の名を聞いただけで、寒気がしてぶるぶると慄えが出る。そんなものを紙幣で頂こうなど毛頭思っとらん」
「では何を……。あ、そうそう、カムチャッカでやっとります燻製の鰊に燻製の鮭は、いかがさまで……」
「それだ。初めから、そういう匂いがしていた。燻製の本場ものはさぞうまいことじゃろう。そっちから申込みの仕事は、その燻製が届いてから始めるから、仕事を早く始めて貰いたかったら、一日も早く現品をわしのところへ届けなさい。では失礼」
というと、金博士の姿は忽然としてその場から消えた。日本人に見せたら、これはきっと金博士が忍術を使ったと思うだろうが、実はさにあらず、例の偏光硝子で作った衝立の中に、博士が入ったためで、博士の方からはネルスキーの方が見えるが、ネルスキーの方からは博士が絶対に見えないのであった。
3
シベリアから雪と氷とを永遠に追放して呉れさえすれば、今次戦に惨敗をくらった政権が猛然と立ち直り得るというのであった。
金博士は、大自然力を向うへ廻してのこの極めて困難なる大事業をわずかの燻製の魚類を代償に簡単に引受けてしまったのであった。
博士は一体成算があるのであろうか。
いや、これまでの博士のひととなりを知っているわれらは、今度も博士が十分やりとげる自信があって引受けたものと信ずる。それにしても報酬があまりに粗末すぎるようでもあるが、元来博士は黄金の価値について無頓著で、只マージナル・ユーティリテーの大なるものこそ欲しけれ、という極めて淡白なる性格の人だった。それはそれとして博士は今いかなる計画を胸に描いているのであろうか。
髭の宰相の狙う最後の機会なるものは、シベリアから雪と氷を永遠に追払うことに繋がれてある。
いかなる学者が聞いても、とたんに気絶するであろうと思われるこの難事を博士はとたんに胸のうちに解決をつけていたのだ。
「地軸を廻せば、そんなことは自由自在に出来るじゃないか」
地軸を廻すとは?
地球は地軸を中心として、反時計式に回転している。
その地軸は、二十三度半の傾斜をもち、太陽に対して一年を周期とする大きなかぶりを振っている。だから、温帯では春夏秋冬がいい割合に訪れて生物を和げてくれるが、赤道附近では一年中が夏であり、極地附近は一年中が氷雪に閉じこめられている。シベリア一帯などもかなり極地的であって、寒帯と呼ばれる地域が大部分を占めている。さてこそ、やむなくそこへ逃げこんで一命をもちこたえたのはいいが、後になってくしゃみの連発に気をくさらす者も出来てくる始末であった。これを思えば、なるほど“シベリアから雪と氷とを永遠に追放せよ”との叫びも、彼らの衷心からほとばしり出でた言葉であることが肯かれもし、そして又、そのように途方もない夢を画くことによって僅かに自分を慰めなければならぬほど、窮乏のどん底へ陥ってしまったのだとも云える。
しかし、それは普通人の見方というものであって、金博士に限っては(そうだ、なぜそれを早くやらないのか)といいたげである。
地軸を廻せば、雪と氷とを追放することなんか訳なしだ、と博士は思っている。たとえば仮りに北極をワシントンへ持っていったとしたらどうであろうか。シベリアの氷雪はたちまち融け去り、さぞ御迷惑なこととは思うが、北米合衆国全土は美しき雪原と氷山とに化してしまい、凍結元祖屋さんだけに有終の美をなしたと、枢軸国側から拍手喝采を送られることになろうもしれぬのである。しかし、そのときには寒帯の方の国は、アメリカとは大反対に、躍りあがってよろこぶことであろう。
かようにして、金博士が地軸を廻せば、新北極や新南極に当った土地の住民は、ぶうぶう云うか、感冒に罹って死ぬるのが落ちであろうが、寒帯から一躍温帯に変ったかのエスキモー人など、どのように瞳を輝かして、あのあざらしの服を脱ぎ、俄に咲き乱れる百花に酔うであろうか。
いや、アメリカのことや、エスキモーのことなどはどうでもよろしい。肝腎のシベリアの話を書き綴らねばなるまい。
4
さてもさてもここはシベリアの新モスクバである。
ネルスキー特使が泣き言をならべていったように、今この土地は吹雪と厳氷とに閉じこめられている。
新クレムリン宮殿は、突兀たる氷山の如く擬装されてあった。中ではペチカがしきりに燃えていて、どの室も、頭の痛くなるほど饐えくさかった。宰相公室においては、例のネルスキー特使が、いかにも宰相らしく装って、大きな椅子に腰をかけていた。
そこへ運送相クレメンスキーが呼ばれた。
「やれクレメンスキーか、待ち兼ねたぞ」と、ネルスキーは宰相そっくりの声で、「で、早速たずねるが、あの一件はどうした。たしかに先方へ届いたか」
「宰相閣下、あの一件と申しますと……」
「あの一件を忘れているようじゃ困る。ほら、あれじゃ、燻製のあれを、ほら中国の金博士に届けろといったあれだ。まだ届けてないんだな、こいつ奴」
「いやいやいや、とんでもない。金博士のところへお届けする燻製十箱は、もう三日も前に向うへ着いています。そのことは、書類でもって御報告して置きました筈ですが」
「なんだ三日前に届いたのか。書類というはよく途中で紛失するものだ。そういう重大なることは、口答でするように」
「申訳ありません。では失礼を」
クレメンスキーが、こそこそと去ると、ネルスキーはにたりと笑って、額の汗をふいた。
「燻製十箱で、シベリアが常夏の国になれば、電信柱も愕いて花を咲かせるだろう。とにかくこれが実現されれば、やすい取引のレコードを作るというものじゃ――しかし金博士は、交換条件のあれを何日頃から始めてくれるのだろうか」
と、ネルスキーは、金博士が一日も早く、シベリアの雪と氷とを追っ払ってくれることを祈るのだった。彼はまた額の汗をふいた。
「いやだなあ。今年は石炭が高いから節約して使えといっておいたのに、今日は又やけに燃やし居るぞ。察するところ、ペチカ委員め、気でも変になったと見える。一つ、呶鳴りつけてやろう」
ネルスキーは、電話機をもって、ペチカ委員を呼び出した。
「おおペチカ委員部か。おいおい気でも変になったか、この石炭の高いというのに、こんなに燃して、一体国家経済をどうするつもりだ。わしかい。わしはネル、いや宰相じゃ」
ネルスキーは、宰相になりすまして、太い口髭をひっぱった。
「ああ宰相閣下。それはとんでもない御思い違いであります。私は石炭を無駄使いして居りませぬ。いや本当です。只今ペチカには一塊の石炭も燃えては居りませぬ。嘘だとお思いなら、こちらへ来て御覧下さるように……」
「なにを、うまいことを云って、わしをごま化そうとしても、なかなかごま化されないぞ。たとい宰相閣下を――いや、わしは宰相閣下だが、ごま化されるものか。ペチカに一塊の石炭も入っていないで、こんなにぽかぽかするものかい。わしの額からは、ぽたぽたと汗の玉が垂れてくるわ」
「ああ宰相閣下。そうお思いになるのは無理ではありません。今日は外気の気温の方が室内よりも高いのでありますぞ。窓をお開きになってみて下さい。途方もないいい陽気です」
「外はいい陽気?」
ネルスキーは、このとき初めて、或ることに気がついた。夙くに気がつくべかりしことを、今になってやっと気がついたのであった。彼は思わず指の腹をこすって、ぱちんという音をたて、
「あっ、そうか。いや、早いものじゃ。燻製の効果が、こうも早く出てくるとは思わなかった。いや偉大なものじゃ、豪いものじゃ」
「これはこれは過分なる御褒めの言葉で恐れ入ります。本員といたしましては……」
「莫迦、今のはお前を褒めたのではない。はきちがえるな」
「はあ。それは御卑怯というものです。私と電話でお話になっていて、御褒めになったのですから、これはどうしても私の取得です。そうではありませんか、宰相閣下」
その返事の代りに電話機の掛けられたがちゃりという音が、ペチカ委員の耳に入ったばかりであった。彼は大きな白熊を取り逃がしたように思ったが、しかしもう少しネルスキーの気のつき方が遅ければ、既にゲペウの手に懸って始末されていたかもしれないのであった。
5
ネルスキーは、廊下を飛ぶように駈けて、早速宰相室へいった。それは、今シベリアに不定期の春が来たことを告げて、香港会談における彼の功績を宰相に認識せしめんがためであった。
彼が宰相室の前までいったとき、その入口で、沢山の宮廷委員がモートルを担いだり、蛇管を持ったり、電纜を曳きずったりして、ごったがえしをしている有様を見て愕いた。
「ど、どうしたのかね、この体たらくは……」
ネルスキーは、そのうちの一人の腕をとらえて質問を浴せかけた。
「さあ、私は訳をよくは存知ませんがね、とにかく冷房装置をここ一時間のうちに取りつけろという御命令です」
「冷房装置を? ふふん、それは宰相閣下の御命令なのか」
「いや、私の受けたのは、気象委員部からです。これはここだけの話ですが、宰相閣下は暑さ負けがせられて、心臓に氷をあてておやすみ中だとの噂がありますよ」
「それはデマだろう。宰相閣下はあのとおり丈夫な方で……いや、しかしこのような温気には初めて遭われて、おまごつきかもしれない。おい、貴公は寒暖計を持っているか」
「私は持って居りませんが、この壁にかかっています。これは自記寒暖計ですよ。ほう、只今摂氏の二十七度です。暑いのも道理ですなあ」
「ほう、二十七度か。うん、シベリアがウクライナ以上の豊庫になる日が来たぞ」
「これをごらんなさい。全くふしぎなことがあるのですよ。今からたった十分前が摂氏二十度です。気温は急速に騰りつつあります。おや、また騰りましたよ。いま正に摂氏の三十度。私はもう蒸し殺されそうです。失礼ですが上衣を脱がせて頂かねば、生命が保ちません」
「なるほど、これは暑くて苦しい。わしも上衣を脱ごう。ついでにズボンも外そう」
「ふう、暑い暑い。これは一体どういうわけですかな。急に気温は騰るわ、雪は融けるわ、その水蒸気のせいで湿度百パーセント、なんという蒸し暑さでしょう」
「なるほどなるほど、宰相閣下が氷の塊を心臓の上におのせになるのも無理ではない」
といっているとき、部屋の中からは、一人の役人が、頭から湯気を立てて、まるで茹で蛸のような真赤な顔で飛び出してきた。
「おい、氷はないか。さっきまで全国どこでも有りあまった氷が、今はどこへ電話をかけても無いそうじゃ。懸賞金を出すから、誰でも外へいって氷を持ってこい。宰相閣下の心臓が心配だ」
といっているところへ、これは廊下をばたばたと駈けて来た裸の役人がいた。
「たいへんたいへん、大洪水だ。何しろ氷山も雪原も一度に融けだしたんだから、町という町、防空壕という防空壕は水浸しになり、水かさはどんどん殖えていく。この新クレムリン宮も、あと三時間以内には水中に没するぞ。宰相閣下に、そう取次いでください」
たいへんな騒ぎが、それからそれへと発展していった。宰相は、新クレムリン宮を後にするに際して、委員の一人をしてネルスキーに叱責の言葉を伝達せしめられた。
“余は汝の行き過ぎを遺憾に思うものである。シベリアを熱帯にせよとは、申しつけなかったつもりである。早々香港に赴きて、金博士に談判し、シベリアを常春の国まで引きかえさせるべし。その代償として、あと燻製の五十箱や六十箱は支出して苦しからず”
宰相の言葉をうけて、ネルスキーは不思議に銃殺の刑から免かれたことを悦びつつ、直ちに香港に赴いた。
金博士は、最早香港にはいなかった。
博士はどこへいったのであろうか。助手に訊くと、博士はアルプス山中に行かれたとのことであった。そこで、この助手君を拝み倒して、アルプス山中へ飛行機で案内して貰った。
博士は、白い天幕を張って、悠々と作業をつづけていた。
百トン戦車かと思うような巨大な鋼鉄の怪車輌が数百台、博士の握るハンドル一つによって、電波操縦でギリギリと前進する。その怪車輌が崖にぶつかると、爆音をあげて崖はたちまち消え失せる。その代り一本の茶褐色の煙がすーっと立ちのぼり、轟々たる音をたてて天空はるかに舞いあがっていく。その有様は、竜巻の如くであった。
これは人工竜巻とも名付くべきものである。博士は、この人工竜巻を何のために起しているか。それをいう前に、この人工竜巻がどんなものであるかということを説明する方が、順序であろう。
人工竜巻は、アルプス山を削りとった岩石が天空高く舞い上っていく姿である。山を削るには、かの怪車輌がある。この怪車輌は、能率三千パーセントと称せられた原子変換エネルギーを利用した起重動力発生機であって、さてこそ連山を削り、岩石を天空にとばす。しかもその人工竜巻には予め計算によって行方が定められてある。その行方は月世界である。地球から四千六百八十粁距ったところに、地球と月との重心があるが、この重心を稍通りすぎるに足るくらいのエネルギーを人工竜巻に与えることにより、あとは自然にアルプス崩れの岩石が月世界に到達する。かくして地球がいくらかいびつになること、人工竜巻の生ずるモーメント、それと月世界の質量の増加することとが、相重り合って、遂に地軸がかくも廻ったのであった。
「ひどいですねえ、金博士」と、やっと博士をつかまえたネルスキーは、くどくどとシベリアの焦熱地獄化のことを陳べて泣きついたが、博士は彼の言葉が耳に入らぬげであった。博士は、いま始めている地軸変動の実験にすっかり興味を吸い込まれている態であったが、それでもやがて一言だけ、ネルスキーに向って云ったことである。
「シベリアから雪と氷とが追放されたことは、誰もが認めているじゃないか。それで約束の取引は立派に済んでいる。あとの言い分は贅沢というもんだ。吾儘者めが!」
そういったきり、もはや博士は缶詰のように口をつぐんでしまったことである。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。