獏鸚

海野十三




     1


 一度トーキーの撮影を見たいものだと、例の私立探偵帆村荘六が口癖のように云っていたものだから、その日――というと五月一日だったが――私は早く彼を誘いだしに小石川のアパートへ行った。
 彼の仕事の性質から云って、正に白河夜船か或いは春眠しゅんみんあかつきを覚えずぐらいのところだろうと思っていったが、ドアを叩くが早いか、彼が兎のように飛び出してきたのにはすくなからずおどろいた。
 私は直ぐさま、彼をトーキー撮影所へ誘った。二つ返辞で喜ぶかと思いの外、帆村はいやいやと首を振って、
「トーキーどころじゃないんだ。僕はとうとう昨夜徹夜をしてしまったのだよ」
「ほほう、また事件で引張り出されたね」
「そうじゃないんだ。うちで考えごとをしていたんだ。ちょっと上って呉れないか」
 と、帆村は私の腕をとって引張りこんだ。
 考えごと――徹夜の考えごとというのは何だろう。
「君に訊ねるが、君は『獏鸚』というものを知らんかね」
 と、帆村がいきなり突拍子もない質問をした。
「バクオウ?――バクオウて何だい」
 と、うっかり私の方が逆に質問してしまった。
 彼は苦が笑いをして暫く私の顔を見詰めていたが、やがて乱雑に書籍や書類の散らばっている机の上から、小さい三角形の紙片を摘みあげると、私の前に差出した。
「なんだね、これは?」
 と私はその小さい紙片を受取って、仔細に表と裏とを調べた。裏は白かったが、表の方には、次のような切れぎれの文字がしたためられてあった。
……0042……奇蹟的幸運により……獏鸚……
 どうやらこれは、手紙かなにかの一端をひきちぎった断片らしかった。なるほど「獏鸚」という二字が見えるが、何のことだか見当がつかない。
「一体これは何所で手に入れたのかネ」
「そんなことをかれては、まるで事件を説明してやるために君を引張りあげたようなものじゃないか」
 と帆村は皮肉ひにくを云ったが、でも私が入ってきたときよりもずっと朗かさを加えたのだった。彼は今、話し相手が欲しくてたまらないのだ。
「これは或る密書の一部分なんだよ」と帆村は遠いところを見つめるような眼をして云った。
「そこには、たった三つの違った字句しか発見できない。昨夜一と晩考えつづけて、はじめの二つの字句は、まず意味を察することができたのだ」
 密書を解いたと聞くと、私は急に興味を覚えた。
「まず数字の0042だが、これをよく見ると、この四桁の数字の前後が切れているところから見てまだ前後に他の数字があるかも知れないと想像できるのだ。僕は大胆にこれをいた。これは昭和十年四月二十何日という日附なのだ。この日附を横に書いてみると判る。1042X――ところで月は十二月という二桁の月もあるから、桁数を合わせるためには四月をただ4だけではなく、04と書かねばならない。そうして置いて年月日の数字を間隔なしに詰めると10042Xとなる。だからこの紙片には、初めの1が抜け、最後の疑問数字Xが抜けているが、日附を示しているのだ。これは所謂六桁数字式の日附法といって、ちかごろ科学者の間に流行っているものだ。そして注意しなければいけないことは、昭和十年四月二十何日というと、今日は五月一日だから、いまから三日乃至十一日前だということだ。極めて新しい日附が記されているところが重大なのだ」
 私は久振りに聞く友人の能弁に、ただ黙ってうなずくより外なかった。
「もう一つの字句『奇蹟的幸運により』は一見平凡な文字だ」と帆村は続けた。「しかし僕は、この一見平凡な字句の裏にこもっている物凄い大緊張を感得せずにはいられない。すなわち単なる幸運ではない、九十九パーセント或いはそれ以上に不可能だと思われていた或る事が、実に際どいところで見事に達成されたのだ。この字句の中には、爆薬が破裂するその一週間前に導火線をもみ消すことができたとでもいうか、遂に開かないと思った落下傘が僅か地上百メートルで開いたとでもいうか、とにかく大困難を一瞬間に征服したというような凱歌がいかが籠っている。正に奇想天外の一大事件がもちあがったのだ。それは如何なる大事件であろうか? ところがその後が難解だ。残っているタッタ一つのものは、曰く『獏鸚!』こいつが手懸てがかりなのだ。なんという奇妙な手懸り! なんという難解な手懸り!……」
 帆村は机の上にひじをついて、広い額に手を当てた。私はもうすっかり帆村の悩んでいる事件の中に引き入れられてしまった。
「ねえ帆村君」と私は自信もないのに[#「自信もないのに」は底本では「自身もないのに」]呼びかけた。「ほら昔のことだが、源三位頼政が退治をしたぬえという動物が居たね」
「ああ、君も今それを考えているのか」帆村は憐むような眼眸まなざしを私の方に向けて云った。「鵺なんて文化の発達しなかったときのナンセンスだよ。一九三五年にそんなナンセンス科学は存在しない」
「そうでもあるまい。最近ネス湖の怪物というのが新聞にも出たじゃないか」
「怪物の正体が確かめられないうちは、ネス湖の怪物もナンセンスだ。君は頭部が獏で、胴から下が鸚鵡おうむの動物が、銀座通りをのこのこ歩いている姿を想像できるかい」
 友人は真剣な顔付で私に詰めよった。私はすこし恐くなって目をそらした。そのとき向いの壁に、帆村が描いたらしく、獏と鸚鵡とが胴中のところで継ぎ合わされているペン画が尤もらしく掛けてあるのを発見した。私はその奇妙な恰好が可笑しくなって思わず吹きだしてしまった。
 わが友人も、嫌な画を見られて失敗ったという表情をして、にやにや笑いだしながら、
「正にあの絵のとおりだとすると、実に滑稽じゃないか。しかしこの密書の断片は冗談じゃないんだよ。厳然として獏鸚なるものは存在するのだ。しかも、つい二三日前の日附でこの奇獣――だか奇鳥だか知らぬが――存在するのだ。ただいくら『奇蹟的幸運によった』としても、そんな獣類と鳥類の結婚は考えられない」
「手術なら、どうだ」
 と私は不図思い出して云ってみた。
「なに手術? そりゃどんな名外科医があって気紛きまぐれにやらないとも限らないが、獏の方は身長二メートル半だし、鸚鵡は大きいものでもその五分の一に達しない。それではどこで接合するのだろう。もし接合できたとしても何の目的で獏と鸚鵡とを接合させるのだろう」
「目的だって? それは密書事件の状況から推して考え出せないこともなかろうと思うんだが……」
「そうだ」と帆村はいきなり椅子から立って部屋をぶらぶら歩きだした。「じゃ、君に、この密書にまつわる事件を一と通り話をしよう……」
 それは私の最も望むところだった。


     2


 帆村はポケットに両手をつっこんでぶらぶら室内を散歩しながら、誰に話しかけるともなしに密書事件を次のように語りだした。
「昭和十年四月二十四日の朝刊に、上野公園の動物園前のもりの中で、一人の若い男が刺し殺されていたことが出ていた。被害者の身許みもとを調べてみると、もと『暁団』という暴力団にいたいかり健次こと橋本健次(二八)だということが判明した。暁団といえば、古い伝統を引いた江戸えぬきの遊人あそびにんの団体だったが、今日ではモダン化されて若い連中ばかり。当時の団長は江戸昌えどまさといってまだ三十を二つ三つ越した若者だった。――そこで錨健次は誰に殺されたか、何故殺されたかという問題になったが、ちょっと見当がつきかねた。ところが丁度僕が警察へ行っているときに名前を名乗らぬ不思議な人物から重大な密告の電話がかかっていた。『錨健次は、もとの指揮者江戸昌の命令で団員の誰かに刺し殺されたのだ。錨健次は暁団から足を洗って、江東のアイス王と呼ばれている変人金満家田代金兵衛の用心棒になっていた。ところが暁団では田代金兵衛の一億円を越えるという財宝に目をつけて、その手引を昔の縁故で健次に頼んだのだが、彼は拒絶してしまった。それでとうとう江戸昌が命じて刺殺させたのだ』というのだ。この電話のうちに警察では直ちに手配して、電話を掛けている密告者の逮捕をくわだてたが、向うもさる者で、僅か二分間で電話を切ってしまった。交番の巡査がかけつけたときには、公衆電話函は塔の中のように静かだったという。……どうだ、聴いているかね」
 と帆村は私の前にちょっと立ち停った。私が黙って肯くと、彼はまたのそのそと室内の散歩を始めながら、先を続けた。
「謎の密告者については、戸沢という警視庁きっての不良少年係の名刑事がずばりと断定を下した。それは黄血社こうけつしゃという秘密結社の一味に違いないというのだ。黄血社といえば国際的なギャングで、首領のダムダムちんというのが中々の腕利うでききであるため、その筋には尻尾しっぽをつかまれないで悪事をやっている。その上不良団をどんどん併合して党勢をぐんぐん拡張している。いまに何か戦慄すべき大事件を起すつもりとしか見えない。しかし流石さすがの黄血社のダムダム珍も、帝都へ入ってきては思うように振舞えないのでごうを煮やしている。それは例の江戸昌の率いている暁団が、若い連中の寄りあつまりながらなかなか頭脳あたまのいいことをやるので、いつも肝腎のところで邪魔をされてしまう。黄血社対暁団の対立がたいへん激烈になっているその最中に、あの錨健次の殺害についての重大なる密告があったのだ。戸沢名刑事は、密告者をこんなわけで黄血社の一味と断定したものらしい。僕も戸沢氏の断定について大体の賛成を表した。僕とて錨健次の前身やら両不良団の対立を知らないではなかったから……。しかしもっとはっきりしたところを確かめたいと思ったので、二十九日の夜、自身で江東へ出かけていったのだ。亀戸天神の裏の狭い横丁にある喫茶店ギロンというのが、かねて暁団員の連絡場所だと知っていたから……」
 帆村とくると、彼は江東の辺の事情に土地の誰よりも精通していた。帝都の暗黒中心地といわれた浅草は、関東の大震災によって完全に潰滅し、それがこの江東地帯に移ったと彼は云う。その点新宿などは新興街で只賑やかなだけで、不良仲間からはてんで認められていないそうである――帆村は卓子テーブルの上から一本の紙巻煙草をとってそれを口にくわえた。
「喫茶店ギロンでね、僕は恰好の団員が張りこんでいるのを、いち早く見つけてしまったのだよ。それはちょっと見るとダンサーのような洋装の少女だった。年齢の頃は二十二三と見たが、いい体をしているのだ。胸のふくらみだの、腰のあたりの曲線などが、男を引きつけずには居ないという悩ましい女さ。しかし器量の方はあまり美しいとは云えない。むしろ身嗜みだしなみで不器量をカムフラージュしているという方だ。僕はその女を認めると、つかつかと傍によって、ちょっとサインをした。これは相手の身体にぴったり寄り添ってする暁団一流のサインなのだ。君はさぞ知りたいだろうが、遺憾ながらこいつばかりは教えられないよ、ふふふふ。……すると果して反応があった。女はポケットから手を出して、僕のの中に入れた。なにか西洋紙のようなものが当る。それを女は渡そうとしたのだ……」
 帆村はそこで急に黙ってしまった。コトコトと部屋を一周したけれど、まだ黙っているのであった。
「それからどうしたんだい?」と私は不満そうに話の続きを催促した。
「……イヤア失敗だ。こっちがつい固くなったものだから、女の手から西洋紙――つまりそれが密書だった――それを受取るのに暁団の作法を間違えてしまった。女はおどろいて、一旦渡した密書をふんだくる、僕は周章あわてて、腕を後に引く……結局、さっき君が見たあの三角形の小さい紙片だけが手の中に残っただけ……。僕は生命からがら喫茶店ギロンから脱出したというわけさ……」
 と云って帆村は、まだ火もつけていない紙巻煙草をポツンポツンと※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしりちらした。が、急にくるりと私の方に振向いて、
「どうだい、君の力で以上の話の中から、何か『獏鸚』らしきものを引張りだせるかい」
「ノン――」私は首を左右に振った。「BAKUOOのBAの字もありはしない」
「やっぱり駄目だね。なんという六ヶ敷むずかしい連立方程式だろう。もっとも方程式の数が、まだ足りないのかも知れない」
「おい、帆村君。君は獏とか鸚鵡についても研究してみたかい」
「それはやってみたよ」と彼は不服そうに云った。「獏は哺乳類のうちの奇蹄目きていもくで獏科の動物だ。形はさいに似て、全身短毛をもっておおわれ、尾は短く、鼻及び上唇は合して短き象鼻ぞうびの如くサ。前肢まえあしに四、後肢に三趾を有す。胴部より腰部にかけて灰白色の一大斑あり、その他は殆んど黒色をなす。――この一大斑というのが、ちょっと気になるのだ。絵で見ると判るが(と彼は壁にかけた獏の写真を指さしながら)、胴のところで丁度接ぎあわせたようになっているじゃないか」
「うん。それから……」
「それから?……獏は性きょうにして、深林に孤棲こせいし、夜間出でて草木の芽などを食す。いやまだ食うものがある。人間が夜見る夢を食うことを忘れちゃいけない。産地は馬来地方……」
「もう沢山だ」と私は悲鳴をあげた。
「では鸚鵡は鳥類の杜鵑目とけんもくに属し、鸚鵡科である。鸚鵡と呼ぶ名の鳥はいないけれど、その種類はセキセイインコ、カルカヤインコ、サトウチョウ、オオキボウシインコ、アオボウシインコ、コンゴウインコ、オカメインコ、キバタン、コバタン、オオバタン、モモイロインコなどがある。この中でよく人語を解し、物真似ものまねをするのはオオキボウシインコ、アオボウシインコ、コバタン、オオバタン、モモイロインコである。おのおの形態を比較するに、まずセキセイインコについて云えば、頭及びつばさは黄色で……」
「わ、判ったよ。君の動物学についての造詣ぞうけいは百二十点と認める――」
 私は耳を抑えて立ち上った。私には鸚鵡の種類などを暗記する趣味はない。
「なアに、まだ三十五点くらいしか喋りはしないのに……」
「もう沢山だ。……しかし動物学の造詣で探偵学の試験は通らない。獏といえば夢を喰うことと鸚鵡といえば人語を真似ることだけ知っていれば、充分だよ」
「そうだ、君の云うとおりだ」と帆村は手をった。「そんなわけで、だいぶん僕もくしゃくしゃしているところだから、そうだ君のお誘いに敬意を表して、トーキーの撮影を観に連れていって貰おう」
「大いに、よろしい」
 私はよろこんで立ち上った。獏鸚に悩むよりは綺麗な女優の顔を見て悩む方がどのくらい楽しいかしれやしないと思った。しかし帆村をトーキー撮影所に誘ったばかりに、生命からがらの大事件に巻きこまれようなどとは神ならぬ身の知るよしもなかったのである。


     3


 桜の名所の玉川べりも、花はすっかり散って、葉桜が涼しい蔭を堤の上に落していた。そうだ、きょうからもう五月に入ったのだ。
 帆村を案内しようという東京キネマの撮影所は、ちかごろトーキー用の防音大スタディオを建設したが、それが堤の上からよく見えた。
 門を入ると、馴染なじみの門衛が、にわかに笑顔を作りながら出て来た。
「お連れさんは?」
「これは俺の大の親友だ。帆村という……」
「よろしゅうございます。……ところで貴方に御注意しときますがな、どうも余り深入りするとよくありませんぜ」
 と門衛は改まった顔で意味深長なことをいった。
「なんだい、深入りなんて?」
「……」彼はこれでも判らないかというような顔をしたのち「あれですよ、三原玲子さんのことです。貴方の御贔屓ごひいきの……」
「これこれ」
 私は帆村の方をちらと見たが、彼はスタディオの巨大なる建物に見惚みとれているようであった。
「三原玲子がどうかしたかい」
「この間、刑事がここへずかずかと入ってきましてね。あの娘を裸にして調べていったのですよ」
「そりゃ越権だナ。裸にするなんて……」
「尤も是非署へ引張ってゆくといったんですが、所長が今離せないからと頼みこんだのです。その代り、桐花カスミさんなどの女連が立ち合って裸の検査ですよ」
「ど、何うしたというんだ」
「よくは判りませんが、何か探すものがあったらしいのですよ。でも、まア三原さんの体からは発見されないで済んだようですが外に二人ほど男優とライト係とが拘引こういんされちまって、まだ帰ってこないのです。とにかくあっしは三原玲子さんばかりはお止しなさいと云いますよ」
「変なことを[#「変なことを」は底本では「辺なことを」]云うなよ、はっはっはっ」
 私は帆村の待っている方へ行って、彼を撮影場の方へ誘った。
「いまの三原レイ子とかいうのは、何うしたのだ」帆村はもうちゃんと聞いていた。
 私はすっかりれてしまった。が、隠してももう隠しきれないと思ったので、彼に一と通り説明をした――三原玲子というのは、この東キネの幹部女優桐花カスミの弟子に当る新進のインテリ女優だった、彼女は私と一緒にL大学の理科の聴講生だったことがあって、それで旧知の仲だった。その玲子はあまり美人とは云えない方で、スクリーンに出ることはまず稀で、もっぱら桐花カスミの身の周りの世話をして重宝がられていた。蒼蠅うるさい世間は、玲子の殊遇しゅぐうが桐花カスミとの同性愛によるものだろうと、噂していたが、それは嘘に違いない。……私の知っていることはそれだけだというと、帆村はひとの顔を穴の明くほど見詰めて、やがてにやりとわらった……。
 厳重ないくつかの関所を通って、私達は漸くトーキースタディオに入ることができた。中へ入ると、一切の騒音は、厚いフェルトの壁に吸いとられて、耳ががあんとなったような感じがした。声を出してみると、ばさばさという音しか出ず、変な工合だった。ホールの真中には、銀座の四つ角のセットが立っていて、その前で現代劇の撮影が始まっていた。大勢の男女優が、いろいろの服装をして、シャツ一枚の撮影監督の指揮に従って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしていた。――虫籠のようなマイクロホンが、まるで深淵しんえんに釣を垂れているように、あっちに一つ、こっちに一つとぶら下っている。
「見給え、あれが桐花カスミだ」
 と私は帆村に主役の女優を教えた。
 帆村は一向気がないような顔をして、トーキー撮影場の天井ばかり見上げていた。
「それからついでに紹介するが、あすこでルージュを使っているのが、例の三原玲子さ」
「三原玲子?」帆村は初めて眼を天井から、群衆の方に移した。「おお、あの女が……」
 帆村はなにに駭いたか、私の腕をしっかり握って目をみはった。私はその場の事情を解しかねたが、彼はどうやら玲子を前から知っていたらしい。
「おい出よう」
 いま入ったばかりなのに、帆村は私を無理やりに引張って外へ連れ出した。
 私はすくなからず不満だった。それを云うと、帆村は私をなだめていった。
「興奮してはいけないよ。あの三原玲子という女は、例の暁団の一味なんだ。何を隠そう、ギロンで僕に密書を渡そうとしたのは正しくあの女なんだ」
「何だって? 玲子が暁団員……」
 何という意外なことだろう。人もあろうに玲子が暁団に関係しているとは。私はさっき門衛から聞き込んだことを思い合せた。こうなれば、早く帆村に知らせてやるほかない。
「僕は今暫く玲子に見られたくないのだ」と帆村は深刻な表情をして云った。「しかし彼女が例の女に違いないということをもっと確かめたい。どこかで写真を見せて呉れないかしら」
「さあ、――」
「とてものことに、動いているやつ――つまり活動写真で見たいね。試写室はどうだろう」
 試写室というわけにも行くまい。私は考えて、彼をフィルムの編集室へ連れてゆくのが一番簡単であり、そして自由が利くと思った。――それを云うと、帆村は満足げに、大きく肯いた。
 フィルム編集室は、スタディオからかなり離れたところにあった。そこに働いている連中とは前々からよく知り合っていた。
「桐花さんのフィルムを映してみせてくれないか、この人が見たいというので……」
 というと、木戸という編集員が出てきて、
「じゃあ、いま撮影中だけれど『銀座にぐむ』の前半を見せましょうか」と気軽に引受けてくれた。
 帆村と私とは、狭い編集用の試写室の中に入って黒いカーテンを下ろした。
「スタディオが出来て、録音がとてもよくなりましたよ……」
 木戸氏は映写函の中から、私たちに自慢をした。やがて小さいスクリーンに、ぶっつけるような音が起ると、現代劇「銀座に芽ぐむ」が字幕ぬきでいきなり映りだした。
 帆村は私の隣りで熱心に画面を見ているようだったが、三原玲子はなかなか現われてこなかった。そして暫くすると口を私の耳のところに寄せてささやいた。
「ちょっと可笑しいことがあるぜ。……桐花カスミの声は実物よりとても良すぎるじゃないか。さっき聴いて知っているが、これはどうも桐花カスミの声ではないようだ」
 この質問には、実のところ私は、帆村の注意力の鋭いのに駭かされてしまった。
 本当のことを云えば――これは会社の大秘密であるけれども……、桐花カスミの悪声について一つのカラクリが行われているのだった。トーキー時代が来ると、桐花カスミの如きはまさに映画界から転落すべき悪声家だった。しかし実を云えば彼女は某重役のかこい者であったから、そこを無理を云って、辛うじて転落から免れた。さりながら重役とても、会社の映画の人気がみすみす墜落してゆくのを傍観していられないから、そこでこのカラクリの手を考えた。――三原玲子は、実は桐花カスミの「声の代演者」だったのである。
 声の俳優――そして三原玲子は、会社の秘密の役を演じ、桐花カスミを助けていたのであった。それは何という奇異な役柄であったろう。そんなわけで、三原玲子の存在は、一般ファンには殆んど知られていなかったのである。――そのことを手短かに帆村に語ってやると、流石さすがの彼も感にたえかねたか、首を左右にふりながら、
「姿なき女優――はて、どこかで聴いた様な言葉だが……」
 とつぶやいた。


     4


 桐花カスミは、ミス銀座といわれる美人売り子に、三原玲子の方は不良の情婦で、裏町の小さいカフェに女給をしているというしがない役割で、一人の大学生をめぐって物語が伸びてゆくという中々いいところで、試写映画はぷつんと切れてしまった……。
「如何です。もう一本かけましょうか」
 木戸氏がにこにこして函から出てきた。私は帆村の顔を見た。――彼はじっと考えこんだ眼の焦点を急に合せ乍ら、
「……今の映画の終りの方に、変なところがありましたね。カフェの場、三原玲子さんなどの女給連総出で花見がえりらしい酔っぱらいをがやがや送って出るところで、画面がいきなり飛んで不連続になるところがありましたよ」
 と云い出した。
「そうですか」と木戸氏は怪訝けげんな顔をして云った。「はてな、すると先刻のやつと間違って接いでしまったのかな」
 木戸氏は函の中に入って、フィルムの入った丸い缶を持ちだした。そして手馴れた調子でぴらぴらとフィルムを伸ばしては窓の方にすかしてみるのであった。
「ああ判りましたよ」木戸氏は、急に手を停めて云った。
「数日前、誰かフィルムの一節を切取って行った奴がいるのです、そしてそのまま後を接いで置いたものだから、あんな風に不連続なのです。これに私も気がついたものだから、別にして置いたのですが、誰かが間違えて編集ズミのフィルムへ接いでしまったというわけです」
「フィルム切取りですって?」と帆村は体を乗り出して、
「そんなにいい場面が映っていたのですか」
「そんなんじゃないんです。酔っぱらいをがやがや云って女給が送りだすところですから、何のいいところがありましょう」
可怪おかしいじゃありませんか」
「ええ、可怪しいと云えば、可怪しくないこともないのですが……」
「なんですって?」
「木戸君、この人は探偵趣味があってね、そういう変なことを面白がるのだよ、訳を話してやり給え」
 と、私が説明してやると、木戸は、それなれば――と云って非常に真面目くさった顔で、フィルム切取り異変について語りだした。
 ――このフィルムは四月二十九日の撮影にかかるものであるが(二十九日というと、玲子が刑事に取調べられた日ではないか!)すっかり現像がこの編集部へ廻って来たのが、三十一日の朝だった。そこで彼はそれを映写機にかけて、台本と較べながら、音画校正をやったのであった。ところが例の「カフェの送り出し」のところで、玲子の云う台辞せりふがまるで違っている個所があった。そこで彼は台本の上に赤い傍線をつけると共に、「カフェの送り出し」の一節のフィルムを別にして、監督へ報告の手続をして置いた。
 監督は電話をかけてきて、(その場面は、物語の筋と直接関係のない個所だから、その儘で差支えない)と返事してきた。そしてフィルムは、あとで給仕が持って来たのであった。監督はそれでいいとして、尚も旅行中の脚本係長に相談するつもりで、その儘別にしてあったところ、今朝気がついて見ると、あのようにフィルムの一節が切り取られてあった。
「私の合点がゆかないことはですね」と木戸は言葉尻に力を入て、「不思議にもフィルムの切取られた箇所と、台辞の間違っている箇所が一致しているのです。偶然の暗合にしてはあまりに合いすぎるので、これは誰かの故意の切取りと見ました。監督にも云って置きましたから、今日は後ほど、台辞の当人である三原玲子氏にも訊いてみることになっています……如何です、不思議でしょう」
「…………」帆村は余程感動したらしく、無言であごをつねっていた。
 私は、わが三原玲子が、たった半日の間に不思議な噂の中に浮きつ沈みつするようになったことを恐ろしく思った。果して彼女は「暁団」の団員であろうか。そして一体何のために、台辞を間違えたり、それからそのフィルムを盗まれたりするのだろう。それが何か錨健次の非業な最期や、暁団対黄血社の闘争に関係があるのだろうか。奇怪といえば奇怪であった。彼女にからまる「獏鸚」の謎は、どこまで拡がってゆくのだろう。
「木戸さん、三原さんの間違えたという台辞は今お判りでしょうか」と帆村が突然口を開いた。
 木戸は肯くと、室を出ていったが、間もなく一冊の仮綴の台本を持ってきた。その表紙には「銀座に芽ぐむ」と大書せられてあった。
「ここですよ――」
 彼が拡げたところを見ると、ガリ版の文字が赤鉛筆で消されていた。その文句は、玲子役の女給ナオミの台辞として、
「……まっすぐに帰るのよ。またどっかへ脱線しちゃいけないわよ。もしそうだったら、こんどうんといじめてやるから……」
 と与えられているのに、トーキーで彼女が実際に喋った台辞の方は、「あらまそーお、マダム居ないの、だましたのね。外は寒いわ、正に。おお寒む」
 というのであった。なるほど、これでは前後の台辞の続き工合がすこし変であった。
「これは面白い……」と帆村は手帖に書きとめて、
「……アラマソーオ、マダムイナイノ、ダマシタノネ、ソトハサムイワ、マサニ、オオサム……。これは面白いぞ」
 としきりに面白がって、同じ文句を読みかえすのであった。
「帆村君、どうして台辞なんか間違えたんだろう」
「なあにこれは一種の暗号だよ。……『獏鸚』以上の隠し文句なんだ」帆村がそう云ったとき、俄かに入口の方にがやがやと人声がして、誰かこっちへ跫音も荒く、近づいて来る者があった。……。私は扉の方へ、振りかえった。
 と、そこへ扉を排して現れたのは、私もかねて顔見知りの警視庁の戸沢刑事だった。
「これは……」と戸沢名刑事は帆村の方を呆れ顔で眺めてから、ぶっつけるように云った。
「帆村君、えらいことが起ったよ」
「えらいことって何です。戸沢さん」と帆村もちょっと突然の戸沢刑事の来訪に駭きの色を見せた。
「江東のアイス王、田代金兵衛が失踪したんだよ、今日解ったんだがね」
「あッ、あの田代がですか」
「ほんとに迂濶うかつだった。失踪したのは、取調べの結果、先月の二十九日、つまり三日前だった。そいつに誰も気がつかなかった……」と口惜しそうだ。
「旅行でもないんでしょうネ」
「どうして、旅行じゃない。表の締りもないしさ、居間も寝室も、それから地下道への入口も開いていて、彼が其処に居なければならない家の中の様子だのに、姿が見えない」
「例の地下にある田代自慢の巨人金庫は如何です」
「ほう、君も巨人金庫のことを知っているんだね」と戸沢刑事はにやりと笑い、「金庫は外見異常なしだ。あの複雑なダイヤルの上にも鉄扉にも、怪しい指紋は残っていない。内部を見たいのだが、暗号が見当らないので弱ってしまう」
「ああ、暗号ですか」と帆村は何気なく聞きかえした。
「あいつは黄血社と暁団とで狙っていたものだ。黄血社はあの金庫の真上にあたる地上に家を建てて、地下道を掘ろうと考えている。……今度とうとう尻尾をつかんでやったがね。しかし金兵衛の失踪は、前の番頭である錨健次殺しと共に、暁団の演出に違いないと思うんだ。……本庁ではいま暁団を追いまわしているんだが、敏捷な奴で、団長の江戸昌をはじめ団員どもがすっかり何処かへ行ってしまった。こんなことは前代未聞さ。不良少年係でそろと、俺はもう威張っていられなくなったよ……」名刑事は白髪のだいぶん目立つ五分刈の頭を抑えて、淋しい顔をした。
「そうですか。では田代老人の金庫を廻って、暁団と黄血社の死にもの狂いの闘争が始まったんですね」
「で、貴方の此処へお出になった御用は……」と帆村は訊ねた。
「俺かい。俺は暁団の一味として、三原玲子を捕えにやって来たんだが……」
「三原玲子がどうかしましたか」
「先刻まで居ったそうだが、どこかへ隠れてしまったよ。はっはっ、なっちゃいない、全く」
 名刑事はうつろな笑い声をあげて、自らを嘲笑した。私は老刑事の心中を思いやって眼頭が熱くなるのを覚えた。
「……私が探し出しましょう、戸沢さん」
 帆村は決然として云い出した。
「君が探す?」と刑事は帆村を見て、「そうか、頼むよ。……だが、江戸昌も死にもの狂いだ。気をつけたがいい」


     5


「……あらまそーお、マダム居ないの。騙したのね。外は寒いわ、正に。おお寒む……」
 帆村は、決戦の演ぜられているという江東を余所に、自宅の机の前に座って、三原玲子が間違えて喋ったという例の台辞を、譫言うわごとかなにかのように何遍も何遍もくりかえしてつぶやいた。――暗号といえば「獏鸚」のことなど、すっかり忘れたように見えた。「どうしても、この文句の中に、暗号が隠れていなければならない。こいつはきっと、あの江東のアイス王の巨人金庫を開く鍵でなければならぬ!」
 そういう信念のもとに、帆村は世間のニュースを耳に留めようともせず、只管ひたすらにこの暗号解読に熱中した。――その間、江東のアイス王の金庫はいくたびとなく専門家の手で、ダイヤルを廻されたり、構造を調べられたりしたが、大金庫は巨巌のようにびくりともしなかった。
 そのうちにも、暁団の捜査が続けられたが、彼等は天井裏から退散した鼠のように、何処へひそんだのか皆目行方が知れなかった。
 そうなると得意なのは黄血社の連中だった。
 ダムダム珍は、例の巣窟に党員中の智恵者を集めて、鳩首きゅうしゅ協議を重ねていた。秘報によると、それは暁団の不在に乗じて、警戒員の隙をうかがい、例の金庫から時価一億円に余るという金兵衛の財宝をかすめる相談だとも伝えられ、また予ねて苦心の末に手に入れた暁団の秘密を整理して当局に提出し、一挙にして暁団を地上から葬ろうという相談だとも云われた。
「一体何処へ隠れてしまったのだろう?」
 巨人金庫の前に詰めていた特別警備隊も、二日、三日と経つと、すこし気がゆるんできた。そして空しく巨億の財産をんでいる大金庫を憎らしく思い出した。
 そのとき、わが友人帆村は、幽霊のようになって、その穴倉の中に入ってきた。――警備員はそれを見るなり皮肉な挨拶をするのであった。
 帆村は黙々として、ポケットからノートを出した。右手をダイヤルに伸べ、左手で電気釦を押しながら、私の差しだす懐中電灯の明りの下で、彼の誘き出した第一、第二等々の解読文字を一つ一つ丹念に試みていった。――しかし今日もまたむなしい努力に終ったのだった。
「いよいよ二三日うちにこの金庫を焼き切ることにしたそうだ……」
 と、そんな噂が耳に入った。その噂だけが今日の皮肉な土産だった。
 家にかえると、帆村は黙々として、また白紙のうえに、鉛筆で文字を模様のように書き続けるのだった。
「どうしたい。ちとやすんではどうか」
 と私は彼にすすめた。
「もうすこしで解けるのだが……。これを見給え」
 帆村は次のような紙片を私に見せた。
サオオニサ」ワイ」サワトソネノタシ」ダノイナイ」ダマオオソ」ラア」
「これは例の文句を逆さに書いたのだよ。そして、或る間隔をとって、とが入れ違いになっているところに注意してみたまえ。答はこれしかないと思うのだ、のところで金庫のダイヤルの廻転方向を右と左とに変えるのだ。だからとが、丁度頃合いの間隔を保って互に入れ違いになっているのだ」
「ほほう」私は帆村の熱心さに駭かされた。
「だが忌々いまいましい畜生! ここまで判っているのに、実際やってみると、巨人金庫はびくりとも動かないのだ」と帆村は唇を噛んで「全くこれ以上の答はないと思う。それだのに開かないとは、ああ、どこが間違っているのだろう」
 帆村は紙をほうりだして、頭髪をかき※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしった。
「ねえ、君」と私は恐る恐る声をかけた。「そのマダムが何とかしたという文句もいいが、例の『獏鸚』の方はどうしたのかネ」
「うん『獏鸚』か。あれならもう判っている……」
「ナニ『獏鸚』が判ったって、そいつは素敵だ。早く話したまえ」
 私は飛び上らんばかりに悦んだ。怪物「獏鸚」とは、そも何者ぞ!
「だが、玲子の台辞が解けない前には云えないのだ。間違っているかも知れんからね」
「連絡があるのなら、いいじゃないか。早く云って訊かせ給え」
「連絡? それはあるさ」と帆村は遠くの方を眺めるような眼眸まなざしをして、「まず『獏』は夢を喰いさ、それから『鸚』の方は……」
 そのとき帆村の顔面に、痙攣のようなものがつつーっと走ったのを認めた。彼は急に手の指をわなわな慄わせて口へ持ってゆきながら、頓狂に叫んだ……。
「僕は莫迦だった。ど、どうして其処に気がつかなかったろう!」
「其処とは、どこだ」と私は慌てて、ついそんな愚しいことを訊きかえさずにいられなかった。
「うん、いまに判る。さあ、これを見ていたまえ」
 帆村の顔は流石に朱のように紅潮した。彼は鉛筆をとりあげると、白紙をひきよせた。
「アラマソオオ、マダムイナイノ、ダマシタノネ、ソトハサムイワ、マサニ、オオサム……」
 と一度例の文句を片仮名で書いた。
 それから別の紙をとりあげて、また鉛筆を走らせたが、意外にもそれは日本式のローマ字だった。
ARAMASOO-MADAMUINAINO-DAMASITANO
NESOTOWASAMUIWA-MASANI-00SAMU
「さあ、いいかネ。これを逆に綴ってみるよ」
UMASOOINASAMAWI UMASAWOTOSENONATI
SAMADONIANIUMA DAMOOSAMARA
「さあ出て来たぞ。傍線をしたなかでUMAというのは『右廻し』ということ、SAMAというのは『左廻し』ということだ。そのつもりで、これを日本文字に直してみよう」
右廻し――ソオイナ
左廻し――イ
右廻し――サヲトセノナチ
左廻し――ドニアニ
右廻し――ダモオ
左廻し――ラ
「どうだい! 判ったじゃないか。これがあの巨人金庫の鍵なんだ!」
 私は唖然あぜんとして、この解読暗号を見つめた。なぜこれで解けたというのか判らない。しかし帆村は歓喜極まって室内を躍るかのように走りながら、外套だの帽子だのを集めた。
「さあ行こうぜ。早いところ、巨人金庫の腹の中を拝見しなけりゃならない!」
 私たちは、大急ぎで外へ出た。
(どうしてあれで解読されたのかい)と私は不審な点を訊ねた。しかし帆村は(金庫が開くまでは云えないよ)と頑張った。その代り別の質問をして、私の興味をあおった。
「おい君、あの巨人金庫の中に、何が入ってると思うかね」
「そりゃ判っているよ。もちろん江東のアイス王の一億何がしという目もくらむような財宝だろう」
「目も眩むような財宝? そんなものはもう入ってないさ。江戸昌が暁団を総動員して、すっかり持っていったよ」
「じゃ、何が入っているんだろう?……金兵衛の屍体かな?」
「そうかも知れない」
     ×      ×      ×
 巨人金庫の口は、遂に開いた。
 帆村の解読した暗号は一字も間違いがなかったのである。
 金庫の中には財宝は一つも残っていなかった。そして中には、実に私たちの予想だにしないものが入っていた。何?
 それはトン数で云って、三瓲あまりの大爆薬が入っていた。この思いけない遺留品には、金庫をのぞきこんだ係官たちも、「呀ッ」といって一斉に出口に逃げだしたほどだった。――いい塩梅に精巧なクロノメーター式の導火装置は、帆村と私の手で取除くことができた。だが爆発までに余すところはたった三時間だったのである。もしも帆村の解読が三時間遅れていたとしたらどうなったであろうか。江戸昌はひどいことをする。
「この大爆発を仕懸しかけて、江戸昌はどうするつもりだったろう」と私は帆村に訊ねた。
「これが江戸昌の恐るべき智恵なんだよ。彼は財宝だけではあきたらず、その上この巨人金庫を爆発させて黄血社の幹部連を皆殺しにするつもりだったのだ。ね、判るだろう。この金庫の上には、同じ金庫を硯う[#「硯う」はママ]黄血社の巣窟そうくつがあったんだ。暁団の秘密も一瞬にガス体にするつもりだった。……さあ出よう。もうこんなところには長居は無用だ」
 帆村は私を促して外へ出た。
 外には鮮かな若葉が、涼しい樹蔭をベンチの上に造っていた。もうすっかり初夏らしい陽気だった。ベンチの上で、帆村はたばこに火をつけて、さも甘味そうに喫いだした。
「ところで帆村君、『獏鸚』はどうしたんだネ。一向出て来んじゃないか」
「はッはッ、『獏鸚』は出てこないさ」彼は愉快そうに笑いながら、「その前にあの暗号解読のことを話して置こう。僕がきっとここだというところまで解いて、それで駄目だったのは、あの『あらまそーお』云々を仮名文字のまま引繰ひっくりかえしたから失敗したのだ。それで日本式のローマ字に綴って、それを逆さにし綴りなおしてさ、それで漸く解読完了ということになったのだ。なぜそれに気がついたかというとね、言葉のおんというものを逆に聞くと、子音と母音とが離れ離れになり、子音は隣りの母音と結び、母音はまた隣りの子音と結ぶということに気がついたからだ。アラマという音の逆はマラアではなくて、ローマ字を逆にした AMARA――アマラなんだ。マラアとアマラとは文字の配列が大分ちがう」
「なるほどね」と私は感心した。
「そこで何故これに気がついたかというと、暗号の源は、例の三原玲子の間違えて吹きこんだ台辞であるという点だ。暗号といえば文字ばかりと思っていたのが大間違いで、言葉の暗号も考えなくちゃいけないと気がついたのさ。ことに今の場合は立派に台辞なんだからネ。……三原玲子は、あの貴重な暗号を江戸昌からリレーされて、その保管に任じたのだよ。江戸昌が二十三日の夜錨健次を殺したのも暗号を手に入れたいためだったが、既に転向している健次は知らないと突張ったのだ。そこで秘密漏洩ろうえいを恐れ已むなく彼を殺すと、江戸昌は二十九日に直接に田代金兵衛を捕虜にしたのだ。そして暗号を奪ったが、足がつきそうになって、しっかり者の三原玲子にまで暗号をリレーしたのだ。ところがやはり刑事が怪しんで追跡した。玲子は暗号を受取ったが、さあ始末に困ってしまった。追手は迫っている。そのままで居ると、きっと暗号の紙片を探し出される。――そうだった。彼女はあとで本当に裸にかれて調べられたのだ。――そこで一策を案じて、トーキーのフィルムに暗号を喋りこんだのだ。この言葉として完全な暗号は、もともと彼女と一緒にいた錨健次がつくったものだから、非常にうまく出来ていたのだ。要するに玲子は非常の際、暗号をトーキーに喰べさせて危機を脱したのだよ。実にそいつが『獏鸚』なのさ。獏鸚はトーキーのことで、獏は人間の夢を喰うのさ、巨億の富の夢をね」
「なんだ、『獏鸚』というのはトーキーに暗号を喰わせることだったのか」
「あとからトーキーのフィルムを盗んだのももちろん玲子さ。あの一節を盗んで置かないと、簡単に暗号が判ってしまうからだ。何故って、あのトーキーフィルムを逆廻しさえすれば、僕のやったような面倒なことをやらなくても、自然に解読文が言葉に出てくるからだ。僕の手に入ろうとした密書の方には(獏鸚したから安心しろ)というような報告が認められてあったのだろう。たとえばだね……」
 そういって彼は次のような文字を、紙の上にすらすらと書いた。
100429急追せられたるも、奇跡的幸運により
 暗号文は本日完全に獏鸚せり。 玲子
 巨億の財宝や暁団や江東のアイス王のことはどうなったかいまだに手懸りがない。





底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
   1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1935(昭和10)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について