「はアて、――」
と探偵小説家の甲野八十助は、夜店の人混みの中で、不審のかぶりを振った。
実は、この甲野八十助は探偵小説家に籍を置いてはいるものの、一向に
「はアて、あいつは誰だったかナ」
甲野八十助は、寒い夜風に、外套の襟を立てながら、また
彼はいまそこの人混みの中で、どこかで知り合ったに違いない男と
「やあ、――」
と甲野八十助は、そのときこの奇妙な男に声をかけたのだった。彼は至って顔まけのしない性質だったから……。
「いよオ――」
と相手は口辺に更に多数の醜いしわの数を増しながら、ガクガクする首を前後に振り、素直に応じたのだった。
八十助はそれで満足だった。それ以上、何を喋ろうという気もなかった。そのまま、この知人と別れて、同じ人混みをズンズンと
(あいつは、誰だったかナ)
八十助には、いま挨拶を
だが、思う相手の素性は、いつまで経っても、彼の脳裏に浮びあがりはしなかった。
「誰だったか。あいつの素性よ、出てこい、――」
八十助は、小学校の友人から出発して、中学時代、大学時代、恋愛時代、それから結婚時代、さらに進んで妻と死別した後の
そのとき彼は、大きな
「うん、
そう叫んだ彼は、不思議にも、叫び終ると共に、なぜかサッと顔色を変えた。
「そうだ、彼奴だ。彼奴に違いない!」
「そうだ、彼奴は姿こそ変り果てているが、鼠谷仙四郎に違いない!」
鼠谷仙四郎――という名前を口のなかで繰返していると、八十助は小学校へ上ったばかりのあの物珍らしさに満ちた時代を思い出す。木の香新しい、表面がツルツル光っている机の前に始めて座った時、その隣りに並んでいるオズオズした少年が鼠谷仙四郎君だった。そのころの鼠谷は、顔色は青かったが、涼しいクリクリする大きい眼を持ち、色は
その
ところがこの名案ジニアのランデヴー(?)は名案には違いなかったが、彼等二人の交際に思いがけない破局を
「鼠谷さんは、そりゃ親切で、
と朋輩にいう露子だったが、また或るときは
「甲野の八十助さんは、明るいお坊ちゃんネ。あたしと違って何の苦労もしてないのよ、いいわねエ」
とも云った。
昨日の親友は今日の
ところがそれから三年経って、八十助は妙な噂を耳にした。それは鼠谷仙四郎が生きているというニュースだった。しかも彼は、同じ東京の屋根の下に、同じ空気を吸って生きていたのである。彼の勤め先というのは、花山火葬場の
当分は、彼は勤めに出ても、鼠谷のことが気になって仕事が手につかなかったが鼠谷は、別に彼等夫妻に危害を加えようとする気配もないばかりか、次の年にはチャンと人並な年賀状を寄越したりした。そんなことから八十助夫妻は、始めに持った驚愕と警戒の心をいつともなく解いていった。一年二年三年と経ち、それから五年過ぎた今日では、八十助にとって鼠谷仙四郎はもう
その鼠谷仙四郎が、こうして久し振りで目の前に現われたりしなければ、八十助は一生涯彼のことを思い出すことなどはなかったであろうのに……。
「ハテナ……」
と、そのとき何に
「ハテ……、鼠谷仙四郎なら、あいつは確か死んでしまった筈だったが……」
暗鬼は躍る
「鼠谷仙四郎なら、生きている筈がない!」
八十助が顔の色を変えたのも無理はなかった。なぜなれば、いまから二三ヶ月ほど前、彼はハガキに印刷した鼠谷仙四郎の死亡通知を受取ったことを思い出したからだ。なぜそのような重大なことを度忘れしていたのだろう?
その文面には、たしかに次のような文句があったと思った。
「……鼠谷仙四郎儀、療養叶 わず、遂に永眠仕候間 、此段謹告候也 。
追而 来る××日×時、花山祭場に於て仏式を以て告別式を相営み、のち同火葬場に於て荼毘 に附し申可く候 ……」
この文面からすると八十助は、今しがた其処の夜店街の人込みの中で、旧友鼠谷仙四郎の、幽霊を見たことになる。
「ううッ――」
彼はガタガタ
「ブランデーを……。早くブランデーを……」
給仕の小娘を怒鳴りつけるようにして、洋酒の壜を催促した。彼の前にリキュール杯が並ぶまでの僅かな時間さえ、数時間経ったように永く感ぜられた。ブランデーの栓を抜こうとする小娘の手を払いのけて、彼は
「ふーッ」
と彼は溜息をついた。
(ああ、助かった!)
と彼は心の中で叫んだ。そしてまたしてもグラスを手に取上げた。気が次第に落着いて来て、始めてあたりの
八十助の座席の隣では、二人の男が物静かな会話をつづけていたそれを聞くともなしに、彼は聴いた。
「……というわけでネ」と紋付羽織の男が言った。「どうも変なのだ一宮大将ともあろうものがサ、まさか株に手を出しやしまいし、死の直前に不動産を全部金に換え、しかもそいつを全部使途不明にしてしまい、遺族は生活費の外に一文も余裕がないというのだからネ」
「それに変だといえば、大将の急死がおかしい。いくらなんでも、あんなに早く逝くものかネ」
「僕は大将の邸で、変な男を見かけたことがある。肺病やみのカマキリみたいなヒョロ長く、そして足をひいている男さ。あいつが何か一役やっているに違いない」
「でもあいつは其後死んじゃったという話じゃないか……」
二人の話をここまで聴いていた八十助は、そこから先をもう聞くに堪えなかった。話題に上っているカマキリのような男というのは、あの鼠谷仙四郎のことに相違ない。この二人も
八十助は何がしかの銀貨を
幽霊男
酒場を出てみると、そこは
そのときだった。丁度そのとき、彼の背後から声を懸けたものがあった。
「モシモシ、甲野君……」
突然わが名を呼ばれて八十助はギョッとその場に立ち
「モシモシ、甲野君じゃないか……」
「あ――」
彼は思い切って、満身の力を込めて、背後を振りかえった。
「
そこには背のヒョロ高い、眼の下に黒い隈の濃いカマキリのような男――あの鼠谷仙四郎の幽霊が突っ立っていた。
「やア甲野君」
とその怪物はニヤニヤ笑いながら声をかけた。
「キ、キミは誰ですウ――」
「誰だとは、弱ったネ」と怪物は一向弱っていなそうな顔で云った[#「顔で云った」は底本では「顔を云った」]。「僕は君と中学校で机を並べていた鼠谷……」
「鼠谷君なら、もう死んだ筈だッ」
「そいつを知っていりゃ、これからの話がしよいというものさ。はッはッはッ」と彼は妙なことを云った。「なぜ死んだ人間が、生き返って君達に逢うことができるのか――そいつは
「くだらんことを云うな。幽霊なら、ちと幽霊らしくしたらどうだ」
と八十助は云ったものの、自分の方が随分下らんことを云ったものだと
「まアいい。僕が幽霊だか、それとも生きているか、それは君の認識に待つこととして、僕は一つ君に聞いてみたいことがある」
幽霊にしては非常にしっかりしたことを云うので、八十助はもう何がなんだか判らなくなった。そして応える言葉も見当らなかった。
「いいかネ。君は細君を亡くしたネ。たしか君たちは熱烈な恋をして一緒になったのだネ。君は輝かしい恋の勝利者だった。……」
「ナ、なにを今頃云ってるんだい」
「うん、……そこでダ、君に訊いてみたいのは、君は亡くなった細君――露子さんと云ったネ、あの露子さんに逢いたかないかネ」
「露子に?」
露子に逢いたくないかといっても、露子は亡くなったのだ。そして火葬に附して、僅かばかりの白骨を持ってかえって、今それを
「いいかネ。死んだ筈の僕が
(首を横にちょっと廻して……)と云われた八十助は、ハッと驚いて、幽霊男の両側をジロジロと眺めまわした。
「やっぱり気になると見えるネ。ふふふふッ」
と鼠谷と名乗る男は、煙草の
八十助は赤くなった。しかし彼の眼には、死んだ女房の幽霊らしいものは見えなかった。
怪人怪語
「イッヒッヒッ。……いくら探しても、まさか此処には居やしないよ」
鼠谷はますます機嫌がよかった。それだけ八十助は腹が立ってたまらなかった。
「君はこの僕を
「ナニ俺が君のことを嬲るって?」鼠谷はわざと
鼠谷は怒るかと見せ、その後で
「とにかく君は
「詐っちゃいないよ、俺は。あの死亡通知は本当なのだ。まア落着いて俺の言うことを一通り訊いてくれよ。全く奇々怪々な話なんだから。……」
鼠谷は八十助の腕をとらえて放そうとしなかった。そして此処では話ができないから、何か飲みながら話そうといった。そして馴染のいい酒場を知っているからといって、
それは確かに新宿裏にある酒場で、名前もギロチンという店だったが、その辺の地理に明るい八十助もそんな店のあるのを知ったのがその夜始めてだった。
「いらっしゃいまし。……
バアテンダーはゼンマイの動き出した人形のように白いガウンの腕だけを静かにあげて、隅の席を
鼠谷はカクテルを註文すると、すぐに話の続きを始めた。
「……いいかネ、甲野君。俺は一旦死んで、たしかにあの花山火葬場の炉の中に入れられたんだ。それを見たという証人もいくらでもあるよ。その人達にとっては、俺の生きていることを信ずることよりも、死んだことの方を信ずる方が容易だろうと思う。本当に俺は死んだのだ。一旦死んだ世界へ行ってきて、それから再びこの世に現れたのだ。思いちがいをしてはいけないよ。君には俺がよく見えるだろうけれど、俺はとくの昔に、この世の人ではないのだ」
「莫迦莫迦しい。もうそんなくだらん話は
八十助は鼠谷がおかしいのだと思ったので、いい加減にその相手から
「ナニ祝杯をあげて呉れるというのかい。そいつは嬉しい。では――」
カチンと
「やあ、これで俺の勝利だ。今度は俺が君のために乾杯することにしよう」
といってバーテンダーに合図をした。
「君の勝利だって、何を云っているんだ――」
八十助は相手の言葉を聞き咎めた。
「それはこっちの話さ。いまに判るがネ。つまり君は俺がこの世の者でないという俺の説を信じてくれる見込がついたからさ。……さあ酒が来た。君のために乾杯だ」
「なんだって? 君は……」
八十助はそこまで云ったときに、
(呀ッ。これはしっかりしなくては……)
と
火焔下の金魚
八十助は不思議な夢を見ていた。――
クルン、クルン、クルン……
妙な音のしている空間に、彼は宙ぶらりんになっていた。赤いような、そして青いような、ネオンの点滅を身に浴びているような気がした。
クルン、クルン、クルン……
細かい綾のような波紋が、軽快なピッチで押しよせてきては、彼の身体の上を通りすぎてゆくのであった。すると今度は、上からも下からも、左からも右からも、前からも後からも(
クルン、クルン、クルン……
シャボン玉の大群はゆらゆらと昇って、どこまでも騰ってゆくように見えたが、そのうちに何か号令でもかけられたかのように、その先頭のシャボン玉がピタリと止ってしまった。それは丁度、見えない天井につきあたったような具合だった。なおも後からフワリフワリと騰ってくるシャボン玉は、みるみる重なりあって、お互いに腹と腹とをプルンプルンと弾きあった。八十助は何だか自分の胸を締めつけられるような苦しさを感じたのであった。
するとこんどはそのシャボン玉が、風に
そのとき、忽然として、
(金魚鉢なんだろうか?)
と不審に思っていると、その鉢の底からパッと火焔が燃えだした。金魚鉢の上の穴からも真赤な
すると急に、火焔が上に動きだした。金魚鉢の中で、火焔だけが
水は硝子のせいでもあろうか、
(何だろう、あれは!)
チロチロと揺めく赤いものは、だんだんと沢山に
(金魚が泳いでいる!)
可愛い金魚が泳いでいるのだ、しかし何という奇怪なことだろう。金魚のすぐ頭の上は水面だったが、そこには呪わしい
焔が水中の金魚を焼かないとすると、焔は何を焼くだろうかと、急に心配になった。すると紅蓮の焔はまるで生物のように八十助の存在を認めて、そのメラメラといきり立つ火頭を彼の方に向け直すと、猛然と激しい熱風を正面から吹きつけた。
「うわーッ」
八十助は駭いて後方へ飛びのいた。焔は執拗に追いかけてきた。彼は夢中で駈けだした。ドンドン駈けて駈けてつづけた[#「駈けて駈けてつづけた」はママ]。
あまり一生懸命に駈けたので、気がついたときには、全く思いがけない場所に
彼は首を動かしてみた。頭の下に固いものが触れた。彼は地獄の底に、仰向きになって寝ているのだということが判った。なんだか頭の芯がピシピシ痛む。彼は手を痛む額の方へ伸ばした。そのとき思いがけなくも、伸ばした手が胸より少し高いところで何か固いものにぶつかり、ゴトリと響を立てた。
鼻をつままれても判らぬ暗闇の中に、ゴトリと手の先に当ったものは、一体何だったであろうか。
ゴトン、ゴトン。
(ム。――これは板らしい!)
八十助は、ゴトリと手先に触れたものを、板と感じた。板なればどこにある板であろうか。彼は手首を真直に立てて、上の方をさぐった。だが何にも触れない。こんどは腰をすこし浮かしてみた。そして手首をまた動かしてみた。果然なにか手先に触れた。
ゴトン、ゴトン。
(あッ、――上も板だ)
横も板、上も板、下も板らしい。足先で裾の方をさぐってみると、これも板、それなれば頭の上の方も板に違いない。するとこれは一体どんなところへ来ているのだろうか。四方八方板で囲まれたところといえば……。
「おお、そうだッ。――」
八十助の心臓は、早鐘のように鳴りだした。
「これは棺桶の中だ。棺桶の中に違いない!」
彼の胸には、急に千貫もあろうという大石を載せられたように感じた。棺桶の中に入れられている。いつの間に入れられたのか。彼は
(こうして叩いていれば、誰かが発見してくれるかも知れない)
八十助は、彼の入った棺桶がどこかの祭壇に置かれている場面を想像した。しかし何のザワメキも鐘の声も聞えないところから見れば、それはまず当っていなかった。
(それでは、死体収容所かも知れない?)
死体収容所なれば、
「いーや。……何か聞こえる!」
彼はハッと胸を
「何だろう、あのシュウシュウいう音は?」
そのうちに、ドンドンというような音が交って来た。その間にカーンと、金属の触れ合うかん高い音が交って聞えた。
「おや。――」
それは、どこかで聞いたことのある音響だった。ドンドンという低いながらも、底力のある物音が地鳴りのように、八十助の腹の底を打った。彼は
パチパチというような音が交り始めたと思う間もなく、今度は八十助の身体が、不思議に熱くなって来た。考えてみると、先刻から気がつかなければならなかったことだが、彼が暗黒の箱の中で気がついてからこっち、室内は春のように暖かだった。厳冬の真唯中だというに、まるで春のような暖かさは不思議だった。ところがいま急に熱くなって来たのでこの異様な温度の上昇に気がついたというわけだった。
「何が始まったのだろう?」
と思ううちに、パッと眼の先が明るくなった。といっても
「ううッ。これは火葬炉の中だッ。もう火がついて、棺が焼けはじめたのだッ。ああ、俺はどうなる!」
彼は、上下の歯をギリギリと噛み合わせた。
思いあたる怪夢
所もあろうに八十助は、自分自身を、焼場の火葬炉の中に発見したのだった。
(生きながらに焼き殺される!)
ああ、何という恐ろしいことだ。生きていると気がついて悦んだのも束の間、次の瞬間、身に迫って来たものは、生きながらの焦熱地獄だった。死んで焼かれるのなら
「ククククッ――」
どこからか忍び笑いが聞えて来た。その声には充分――聞き覚えがあった。
「うぬ、
彼は動けぬ身体を、
「ううーッ……うぬッ」
八十助は血と汗とにまみれながら、獣のように咆哮し、そして
そのときだった。実にそのときだった。
なんだか一つの異変が、横合から流れこんで来た。それは有り得べからざる奇蹟の様に思われた。一陣の涼風が、どこからともなくスーッと流れこんで来たのだった。
「……?」
八十助は
(どうしたのだろう?)
何事か起ったらしい。
焼けつきそうだった皮膚の表が急に涼しくなった。
そして、焦げつきそうな痛みがすこしずつ取れてゆくように思った。
(
と思ったが、しかし罐の火はいよいよ明るく燃えさかっているらしいことが、棺の
ポツーン。
そのとき何か冷いものが、胸のあたりに落ちてきた。
「おや。――」
と彼は叫んだ。その声のすむかすまないうちに、つづいてポツリポツリと冷いものが上から降って来た。
「ああ、水だ。――水が洩れてくる」
彼の元気は瞬間のうちに回復した。気が落着いて来た。助かるらしい。八十助は両眼をグルグル廻して何物か見当るものはないかと探した。有った、有った。棺の隙間から見える真赤な火の幕、その火の幕すこし手前の、おそらく棺桶のすぐ外と思われるところに、空間を斜に硝子管が走っているのを認めた。そしてその硝子管の中には、小さい水泡を交ぜた透明な液体が、たいへんな勢いで流れているのだった。それは水に違いなかった。さっきポツンと胸の上に落ちて来た水と同じところから、供給されている水に違いなかった。
(ああ、なんたる不思議! 火葬炉の中に、冷水装置がある!)
人体を焼こうとするところに、逆に冷やす仕掛けがあるというのは、何と奇妙なことではないか。このとき彼はゆくりなく、あの変な夢のことを思い出した。
「硝子の金魚鉢の水の中に、金魚が泳いでいて、――それで水の表面には火焔の幕があった。――ああ、あれだッ」
火焔の天井を持った水中の金魚のように、いま彼の身体も、冷水装置でもってうまく火気から保護されているのだった。
「これア一体、俺をどうしようというのだッ」
八十助は、あまりにも不審な謎をどう解いてよいかに苦しんだ。
そのとき、ギギーッという物音が聞えはじめたと思うと、彼の横たわっている棺桶は、しずかに揺れながら、どうしたのか、下の方へ下りだした。
棺桶は飛ぶ
火葬炉の中で、不思議に焼けもせず、八十助の入っている棺桶は、しずしずと下へおり出した。
(これは?)
と面喰っているうちに、棺桶は下へおりきったものと見え、ゴトンという音とともに動かなくなった。そのうちにゴロゴロという音が聞え、棺桶は横に滑り出した。トロッコのようなものに載せられて、引張りだされているという感じであった。これらはすべて、暗黒の中で取行われたが、そのうちにまた、
そこへ、ヒソヒソと、人間の話し声が聞えてきた。何を云い合っているのか、一向に意味がわからない。そうこうしているうちに、棺桶は人間の肩に
「クックックッ」
「はッはッはッ」
人を馬鹿にしたような高い笑声が、棺の外から響いて来た。八十助はハッと身を縮めたが、次の瞬間、ベットリと冷汗をかいた。どうやら棺の外からX光線をかけたものらしい。X光線をかけると、棺の中は見透しだった。彼が生きて藻掻いているところも、骸骨踊のように、棺外の連中の眼にうつったことであろう。それで
「おうーい、甲野君。聞えるかネ」
と鼠谷のしゃ枯れ声がした。
八十助は石亀のように黙っていた。しかし彼の伸縮している心臓だけは、どうも停めることが出来なかった。八十助は結局、嘲笑を甘んじて受けつづけねばならなかった。
「……むろん聞えているだろうネ。もう暫らくの辛抱だ。しっかりして居給え」
なにを云っているんだい――彼はムカムカとした。
(どうなと勝手にしろ!)
彼は一切の反抗と努力とを抛棄した。もうこうなっては、藻掻けば藻掻くほど損だと知った。そう諦めると、
十時間――ではあるまい、恐らく数十時間後であろう。八十助の棺桶は、
嵐のような歓呼とでも云いたい喧騒の中をくぐりぬけて、最後に彼の棺桶は、たいへん静かな一室に入れられた。
そのとき、またボソボソ云う話声が、棺桶のそばに近づいた。
「じゃいよいよ出すかネ」
「うん、出し給え」
「では一宮先生、とりかかってよろしゅうございますか」
「うむ。始めイ……」
ゴソリゴソリと綱らしいものを解く音、それからカンカンと釘をぬくらしい音が続いて起った。いよいよ棺桶から出る時が来たのだ。さていかなる場所へ着いたのかしら。それにしても一宮先生とは、どこかで聞いた名前だと、八十助はしきりに棺の中で首を振った。
火葬国
八十助は、棺桶――果してそれは棺桶だった――の蓋を開かれたときの、あの奇妙なる気分と、そして驚愕とを一生涯忘れることはあるまいと思った。だが、それにも増して、奇怪を極めたのは、棺の外の風景だった。
そこには数人の男女が立っていた。その中で、顔の見知り越しな男が二人あった。一人は云わずと知れた鼠谷仙四郎だった。彼をここまで連れこんだ彼のカマキリのような怪人だった。そしてもう一人は?
(どこかで見た顔だ)
と八十助は
室内は、どういうものか、天井も壁紙も、それから室内の調度まで、
(これア一体、どこへ来たのだろう?)
どうも日本とは思われない。と云って、それほど遠くへ来たようにも思わない。
「どうじゃ、気がついたかの?」
と白い美髯の肥満漢が声をかけた。
「はッ――」
と八十助は、彼の顔を見た。そのソーセージのようないい色艶の顔を眺めていたとき、八十助は始めて、さっきから解きかねていた謎を解きあてて、愕きの叫び声をあげた。
「あッ――」
「甲野君、一つ御紹介をしよう」
と鼠谷仙四郎がすかさずチョロチョロと前に進み出でた。
「こちらは
「やっぱり一宮大将!」
一宮大将といえば、あの新宿の夜店街で、飾窓の中に黒枠づきでもって、その永眠を惜しまれていた将軍のことではないか。そういえば、大将の美髯は有名だった。その美髯がたしかに眼の前に見る老紳士の顔の上にあった。
「一宮大将は亡くなられた筈ですが……」
「はッはッはッ」と将軍は天井を向いて腹をゆすぶった。「亡くなって此処へ来たのじゃ。この鼠谷君もそうであるし、君も亦いま、ここへ来られたのじゃ」
「私は死にませんよ。死んだ覚えはありません」
「死なない覚えはあっても、死んだ覚えはあるまい。――それはとにかく、君は死んだればこそ、ほらあれを見い、棺桶の中に入っていたではないか」
将軍の指す方を見ると、八十助のいままで収容されていた棺桶が、いかにも
「ああ、それでは――それでは、やっぱりここは
「そうでもないのじゃ」
「え?」
八十助の
「ここは、つまり、火葬国じゃ」
奇怪な話
「火葬国?」
八十助は怪げんな顔で、一宮大将と名乗る男の云った言葉を叫び返した。
「そうじゃ。火葬国といったが早判りがするじゃろう」と一宮大将は
「はア、じゃ一つ、甲野君を驚かせることにしますかナ」といって八十助の方をジロリと眺めた。「だがその前に、
(おいでなすったな――)と八十助は思った。
「それは、君を此処へ連れて来たからには、もう絶対に日本へ帰って生活することを止めてもらいたいのだ。第一君はもうお葬式をすませ、戸籍面からハッキリ除かれているのだからネ。いま日本へ帰っても、君が僕を幽霊と間違えたように、君は幽霊だと思われて人々を驚かせる外になんの術も施すことができないのだからネ」
「お葬式を済ませたというと……」
「そうだ。君は覚えているだろう。新宿の酒場で飲んでいたときフラフラと倒れたことを。あれは僕が密かに盛った魔薬の働きなのだ。あれで君は仮死の状態になった。恐らく医師が診ても、あれを本当の死としか考えられなかったろう。君は行き倒れ人として
「そんな馬鹿なことが……」
「君の遺族は、壺に一杯の骨を貰って、何の疑うところもなく、家に引取ったのだ」
「その骨というのは……」
「無論、どこの馬の骨だか判らぬ人間の骨なんだよ。君は知るまいが、人間の骨なんて、いまの世の中には、手を廻せばいくらでも手に入るものだよ」
「ナ、なんていう奴だ。恐ろしいインチキ罐係め」
「そうだ、インチキ罐係の言葉は当っている。君は僕の少年時代のことを思い出して呉れるだろう、僕はいくら運が悪くなっても、ぼんやり暮らしているほど、自分の力量に自信のない男ではない。云いかえると、罐係をやったのも、一つの大きな目的があってのことだ。僕は何を考えて罐係になったか、想像がつくかい」
「…………」それは今となって想像がつかないでもないが、相手は何しろ非常識な男のことであるから、ハッキリは
「僕は一見不可能なことを可能にして、この世の中に素晴らしいゆっくりした国を建設したかったのだ。君はあの
「ふふン」と八十助は
「つまり自分の死亡届けを出して置いて、自分は
鼠谷仙四郎の醜怪な頬には、ぽッと紅の色がさし昇って来た。
白煙に還る
鼠谷仙四郎の
「僕は花山火葬場に長く勤めているうちに、火葬炉に特別の仕掛けを作ることを考え出した。早く云えばインチキ火葬だ。誰でも棺桶を抛り込んで封印をしてしまえば、それで安心をする。しかし封印をしたのは表口だけのことだ。封印をしてないところが上下左右と奥との五つの壁だ。一見それは
「ああ、悪魔! 君はそうして、私の妻の死体を引っ張り出して、自由にしたのだな」
「まア待ち給え。――僕はこの仕掛けに成功すると、こんどは人間を仮死に
「するとここは一体
「そうだ。小笠原群島より、もっと南の方にある無人島なのだ」
「僕の露子はどうした。早く逢わせて呉れ給え」
「露子さんか」
と鼠谷は
「露子さんに逢わせてもいいが、その前に、君から誓いを聞かねばならぬ」
「誓いとは?」
「この火葬国の住民となって、文芸省を担任して貰いたいのだ」
「文芸省?」
「そうだ。君の文芸的素養をもって、この火葬国に文芸を
「文芸を興せというのかい」
文芸ということを聞いた八十助は愕然として
「僕は断る。僕はやっぱり東京へ帰るよ」
「なに東京へ帰る。……あの露子さんに逢いたくないのかい」
「うん、急に逢いたくなくなった。僕はそんなに
「どうしても帰るというか」と鼠谷は残念そうに
「うん帰る!」
「よオし是非もない」
鼠谷は歯ぎしりを噛んで二三歩ツツと下った。
ド――ン。
銃声一発。真白なモヤモヤした煙が八十助の鼻先に拡がった。それっきり、八十助の知覚は消えてしまったのだ。……随って今のところ、火葬国についての話も、これから先が無いのである。