浮かぶ飛行島

海野十三




   川上機関大尉の酒壜


 わが練習艦隊須磨、明石の二艦は、欧州訪問の旅をおえて、いまやその帰航の途にあった。
 印度を出て、馬来マレー半島とスマトラ島の間のマラッカ海峡を東へ出ると、そこは馬来半島の南端シンガポールである。大英帝国が東洋方面を睨みつけるために築いた、最大の軍港と要塞とがあるところだ。
 そのシンガポールの港を出ると、それまでは東へ進むとはいえ、ひどく南下航路をとっていたのが、ここで一転して、ぐーっと北に向く。
 そこから、次の寄港地の香港まで、ざっと三千キロメートルの遠方である。その間の南北にわだかまる大海洋こそ、南シナ海である。
 練習艦隊はシンガポールを出てからすでに三昼夜、いま丁度北緯十度の線を横ぎろうとしているところだから、これで南シナ海のほぼ中央あたりに達したわけである。
 カレンダーは四月六日で、赤紙の日曜日となっている。
 夜に入っても気温はそれほど下らず、艦内は蒸風呂のような暑さだ。
 この物語は、二番艦明石の艦内において始る。――
 天井の低い通路を、頭をぶっつけそうにして背の高い逞しい士官が、日本酒の壜詰を下げてとことこ歩いてゆく。汐焼した顔は、赤銅色しゃくどういろだ。彼は歩きながら、エヘンと咳払せきばらいをした。
 士官は、ある一つの私室の前で足をとめた。そして大きな拳固をふりあげて、こつこつと案外やさしくドアを叩く。
「おう、誰か」
 と内側から大きな声がする。
 訪問の士官は、ちょっと緊張したが、やがて硬ばった顔をほぐして、
「俺だ。川上機関大尉だ。ちょっと邪魔をするがいいかい」
 するといきなりドアが内側にぽかりと開いて、
「なんだ、貴様か。いつもに似ず、いやに他人行儀の挨拶をやったりするもんだから、どうしたのかと思った。おう、早く入れ」
「はっはっはっはっ」
 のっぽの川上機関大尉は笑いながら、ぬっと室内に入る。
「おい長谷部。これを持ってきた」
 と、酒壜を眼の前へさし出せば、長谷部大尉は眼をみはり、
「やあ、百キロ焼夷弾か。そいつは強勢だ。まあ、それへ掛けろ」
 長谷部大尉は、上はシャツ一枚で、狭いベッドの上にあぐらをかく。川上機関大尉は椅子にどっかと腰を下した。
 二人は同期の候補生だった。そして今も同じ練習艦明石乗組だ。
 もっとも兵科は違っていて、背高のっぽの川上大尉は機関科に属しており、長谷部大尉は第三分隊長で、砲を預かっていた。
「これでやるか、――」
 と長谷部大尉は、バスケットから九谷焼の小さい湯呑と、オランダで土産に買った硝子ガラスのコップとをとりだす。
「ええさかなは――と」
 といえば、川上機関大尉は、
「肴は持ってきた」
 といいながら、ポケットから乾燥豚の缶詰をひっぱり出した。
「いよう、何から何まで整っているな。おい川上、今日は貴様の誕生日――じゃないが、何か、ああ――つまり貴様の祝日なんだろう」
「うん、まあその祝日ということにして、さあ一杯ゆこう」
「やあ、いよいよ焼夷弾を腹へおとすか。わっはっはっはっ」
 二人は汗をふきながら、生温かい故国の酒をくみかわすのであった。


   南シナ海の怪物


 しばらくすると、二人の若い士官は、どっちも真赤になってしまった。
「なあおい長谷部。貴様と俺とは、昔から不思議にどこへでもくっついて暮すなあ」
「うん、そうだ。血は分けていないが、本当の兄弟とよりも、貴様とこうやって一緒に暮している月日の方が長いね。なんしろ小学校時代からだからねえ」
「これまで、よく貴様に厄介をかけたなあ」
 と、川上は急にしんみりいう。
「厄介をかけたり、かけられたりさ。これが本当の腐れ縁だ。はっはっはっ。貴様は今夜どうかしとるぞ。さあ元気を出せ。持ってきた酒を空にしてみせろ」
 と、長谷部大尉は、また酒をなみなみと友のコップの中に注いで、
「おい川上、そういえば報告を聞いたろうが、明日はいよいよ海上に面白いものを見られるぞ」
 と、話題をかえる。
「うん、あの飛行島のことかい」
「そうだ、飛行島だ。こいつはこんどの遠洋航海中随一の見物だぞ」
 明日は見られるという飛行島!
 それは広い広い海の真只中に作られた飛行場だった。もちろんその飛行場は、水面に浮かんでいるのだった。沢山の丈夫な錨によって海底へつながっているから、どんな風浪にもびくともしない。
 大きさは、ドイツの大飛行船ヒットラー号よりも何十メートルか大きいというから、東京駅がそのまま載って、まだ両端へ百メートルずつ出るという長い滑走路を造るのだそうだ。
 この飛行島は、目下建造中である。
 南北及び東西の航空路の安全をはかるため、特に南シナ海の真中に、飛石のように置いた不時着飛行場で、これさえあれば、その両航空路はどんなに安全さを加えるかしれないというのだ。
 そのために、飛行島株式会社というのが出来て、南シナ海をとりまく諸国――つまり英国が主となり、仏国、米国、オランダ、暹羅シャム、中国の諸国を表面上の株主として、莫大な建造費を出しているのだった。工費は、おどろくなかれ千五百万ポンドというから、日本の金に直して、約二億五千万円となる。なんにしても、凄いものである。
 この大工事を引きうける会社をつのったところ、入札の結果、それは英国のトレント船渠ドック工場会社に落ちた。だから南シナ海へのりだして海中作業をやっているのは英国系の技師だった。その大工事に、いま働いている人員は三千人というおどろくべき数に達していた。三千人といえば、その毎日の食料品を考えてみただけでも大変な費用だった。
 いまや世界中がおどろきの眼をあつめているこの飛行島が見られるというのだから、わが須磨明石二艦に乗組んでいる血の気の多い士官候補生たちにとっても、明日という日がどんなにか待たれていた。
 その時川上機関大尉は、コップの酒をぐっとのみほして、長谷部大尉にさしながら、
「おい、貴様は今から飛行島にすっかり呑まれてしまっとるようだが、なぜあんなところに飛行島をこしらえたか知っとるか。どうだ、長谷部」
 一方は九谷焼で酒をうけながら、
「ははあ、また貴様の口頭試問がはじまったな。俺は飛行島を少しも気にしていないよ。ただ築造中の飛行島を見て、ちょっと驚きたいと思っているばかりさ。それとも貴様はなにか、あの飛行島をこしらえるわけをくわしく知らにゃ許さんというのか、たかがああいう馬鹿げた無用の不時着場を、――」
 川上機関大尉はにやりと笑って、
「それ見ろ、気にしていないなんていっていながら、貴様はちゃんと飛行島のことを考えているじゃないか。無用の不時着場!(無用の)といったね」
「それはそうさ。飛行機は、ますます安全なものになり、快速になってゆく。だからあんな飛行島なんてものはいらなくなるよ。無用の長物とはあのことだ。わが国でもしあれに金を出すやつがいたら、俺は大いに笑ってやるつもりでいた」
「しかしなあ長谷部。そこのところをよく考えおかないじゃ、未来の連合艦隊司令長官というわけにはゆかないよ」
「うふ、未来の連合艦隊司令長官か、あっはっはっ。俺がなることになっていたっけ」
 長谷部大尉は、酔うといつもそういう気焔をあげるのが癖だった。
「それなら一つ考えろ」
「なにを考えるんだ」
「つまりこういうことだ。たかが長谷部大尉にもよくわかる無用の長物の飛行島を、なぜ、千五百万ポンドの巨費をかけてつくるのだろうか。しかも飛行島を置くなら、なにもあんな南シナ海などに置かず、大西洋の真中とか、大洋州の間にとか、いくらでももっと役に立つところがあるんだ」
「うむ、なるほど」
 長谷部大尉は、ぎくりとして九谷焼を下に置いた。そして腕組をすると、
「なるほどねえ、――」
 と、もう一度なるほどをいった。
 川上機関大尉は、すっかりいい気持になって、盛んに酒盃をあげながら、
「おい、未来の提督よ。飛行島の話はそれまでだ。この次、日本酒をのむことがあったら、そのとき今のことをもう一度思い出してみてくれよ。いや、口頭試問はこの辺で打切として、まあ落第点は可哀そうだから、大負けに負けて六十点をやるかな。うわっはっはっ」
 川上機関大尉は、はじめて腹の底から声を出して笑った。


   司令官に面会


 その翌朝のことであった。
 長谷部大尉は、毎朝の日課の点検その他が終ると、ひとりでことことと狭い鉄梯子を伝って機関部へ下りていった。
 当番下士官が、椅子からとびあがって、さっと敬礼をした。
「おう。川上機関大尉はいられるか」
 するとその兵曹は直立したまま、
「はっ、川上機関大尉は只今御不在であります」
「ほう、どこへ行かれたのか」
「旗艦須磨へ行かれました。司令官のところにおられます」
「なに、司令官のところへ。――うむ、ではまたあとから来よう」
 長谷部大尉は、また元の梯子をのぼっていった。
 昨夜ゆうべは川上機関大尉のもちこんだ日本酒でひどくいい気持になり、いいたいことをいって寝てしまったが、今朝になると、なんだか昨夜のうちに落し物をしたような気がしてならない。
(はて、何かな?)
 と思って考えてみて、やっとのことで思い当った。
(そうだ、川上のやつ、なんだかいやに影が薄かったぞ)
 そこで友の身の上を思って、機関部までたずねてきたわけだが、いまも聞けば、彼は旗艦へ行って、司令官のところにいるという。朝から何の用事だか知らないが、元気にやっていればなによりのことだった。
 大尉の足は、いつしか甲板へ出ていた。
 きょうも熱帯の海は、穏やかにいでいる。見渡せば、果しのない碧緑の海であった。そして海ばかりであった。ただ前方二百メートルを距てた向こうに、旗艦須磨が黒煙をはきながら白い水泡みなわをたててゆく。
 ぽぽーと、汽艇の響が、右舷の下でする。
 舷梯下に、汽艇がついたらしい。
 大尉が見ていると、舷門についていた番兵が、さっと捧銃ささげつつの敬礼をした。誰か下から上ってきたようである。
 はたして長身の士官が上ってきた。川上機関大尉であった。
「おお川上が帰ってきた」
 長谷部大尉はそれを見ると、にこりと笑ってその方へ足早に歩いていった。
「おい川上。いま貴様を訪ねていったところだ」
「よお、長谷部か。はっはっはっ、もう酒はないぞ」
「酒はもうのまんことにきめた。おや、貴様は一杯機嫌だな。朝から酒とは、どうも不埒千万、けしからんじゃないか」
「はっはっはっ。ここへもう出とるか」と川上機関大尉は、自分の頬を指さした。昨日とはちがって、みちがえるように朗らかだった。
「司令官をお訪ねしたら、『一盞いっさんやれ』と尊い葡萄酒を下されたんだ」
 と心持形をあらため、あとは、
「いい味だったよ。はっはっはっ」
 と笑にまぎらせる。
「おい、川上。司令官のところでは、なにかいい話でもあったのか。あったら俺にも聞かせろ」
「いや、それは何でもないことなんだ。隠すわけじゃないが、悪く思うな。司令官と雑談のときに貴様の話も出たぞ。閣下は貴様を信頼していられる。長谷部のことは心配いらぬ。といっていられた。彼は沈黙のはがねの塊みたいな男だ。川上――というと俺のことだが、川上とはまるで違った種類の男だ。彼が健在であることは帝国海軍にとっても喜ばしいことだなどと、大いに聞かされちまった」
「……」
 長谷部大尉はなんの感情もあらわさない。いきなり川上機関大尉の手をとってぐっと握り、
「俺のことはどうでもいい。おい川上、ただ俺は貴様の武運を祈っとるぞ」
「何っ、――」
 と川上機関大尉が意外な顔をする。
「はっはっはっ」
 と、こんどは身体の丸い長谷部大尉が川上機関大尉の肩をたたいて哄笑した。
 丁度そのときだった。
 前檣楼の下のヤードに、するすると信号旗があがった。下では当直の大きな叫声さけびごえ
「右舷寄り前方に、飛行島が見える!」
 おお飛行島!
 いよいよ飛行島が見えだしたか。
 非番の水兵たちは、だだだっと昇降口をかけあがってくる。


   飛行島上陸


 望遠鏡をとって眺めると、水天いずれとも分かちがたい彼方の空に、一本の煙がすっとたちのぼっている。
 煙の下に焦点をあわせてゆくと、なんだかマッチ箱を浮かせたようなものが見える。まだまだ飛行島は、はるか二十キロの彼方だ。
 士官候補生は、艦橋に鈴なりとなって、双眼鏡を眼にあてている。
「あれが飛行島か。なるほど奇怪な形をしているわい」
「あのなかに、三千人もの人が働いているんだとは、ちょっと思えないね」
「誰だ、いまから驚いているのは。そんなことでは傍まで行ったときには、腰をぬかすぞ」
 軍艦須磨と明石は、信号旗をひらめかしながら、ぐんぐん飛行島さして進んでゆく。
あと三四十分もすれば、その横につけることができるであろう。
 艦隊は、前もって打合せをしてあるとおり、あの飛行島で二十四時間を過すことになっている。その間に士官候補生たちはこの最新の海の怪物の見学をする予定だった。
 艦内では、いよいよ繋留けいりゅう用意の号令が出て、係の兵員は眼のまわるような忙しさだ。
 午前十時四十八分、須磨明石の両艦は遂に歴史的の構築中の飛行島繋留作業を終る!
 物事に動じないわが海軍将兵も、この飛行島の大工事には少からず驚いた。
 なんという途方もない大構築だろう。
 地上でもこれほどのものはあるまいと思われるのに、波浪狂う海洋の真只中の工事である。
(これが、人間のやった仕事だろうか?)
 と、ただ眼をみはるばかりである。
 士官候補生たちもよく見た。祖国を出るまえ靖国神社参拝のとき見た東京駅なんか、くらべものにならない。
 飛行島はU字型になっていた。
 海上へ出ているのは、大きなビルディングの寸法でいうと、三階あたりの高さに相当する。下から見ると、その飛行甲板が大きな屋根のように見える。
 飛行甲板の下は、太い数十本の組立鉄塔で支えられている。その鉄塔は水面下に没していて下はよく見えないが、話によると一本一本のその鉄塔は下に大きな鉄筋コンクリートのうきを下駄のように履いているという。つまりこの大きな建造物は、海中に宙ぶらりになっている鉄筋コンクリートのうきによって浮かんでいるのである。
 しかしそのままでは、風浪に流されてしまう心配があるから、約三十条の驚くほど太い鎖と錨とでもって海底に固定されている。
 そのほか、まだ出来上っていないが、波浪にゆれないように、鉄塔が水面につくところには、波浪平衡浮標というものをつけることになっているそうだし、飛行甲板の下につけることになっている専属修繕工場や住居室もでき上っていない。
 それにひきかえ、鉄塔の中を上下しているエレベーターとか、これ等のものを動かす発電動力室などはすっかり完成していて、三千人の技師職工たちに手足のように使われている。
 軍艦須磨と明石が横づけになったところは、この飛行島の西側であるが、そこはまだ骨ぐみだけしか出来ていないが桟橋になっていて、将来は四五万トンの大汽船を六隻ぐらいは一度に横づけできるというから、それだけでも大きさのほどが知れるであろう。
 なにしろここは南シナ海の真中のこととて軍艦は投錨しようにも、錨は海底へとどかないので、太い縄でもって桟橋にゆわえつけるのであった。
 いま飛行島は、工事は三分の二を終ったところであった。工事は、まず鉄塔が組立てられると、横に鉄材の腕が伸び、その先へだんだん新しい別のうきつきの鉄塔が取付けられ、上には飛行甲板が張られる。こういう順序に、中央から始って両側へと、骨組の難工事はおしすすめられてゆくのだった。それが出来上ると、甲板上の大きな室ができたり、そのほかこまごました装置が取付けられたりして、飛行島の内臓や手足ができてゆく。その後で、さらに飾りつけそのほかの艤装ぎそうがついて完成するのであった。
 工事に従っているのは、前にものべたように英国の技師と職工が中心になり、その外の労働者たちは、印度人もいれば中国人もいるというわけで、まるで世界の人種展覧会みたいな奇観を呈していた。
 須磨、明石の両艦では、半舷上陸が許されることになった。尤も時間がきめられていて、夕刻までには両舷とも上陸見学を終ることになっていた。
 川上機関大尉は、午後三時から始る後の方の上陸組に入っていた。
 お昼すぎになると、もうのこのこ帰って来る水兵があった。尤も本当に帰艦したわけではなく、指をくわえて待ちくたびれている兵員たちに、すこしでも早く、この珍奇な飛行島の様子を知らせてやろうという友達思いの心からだった。
「おい、早く飛行島の様子を知らせろ」
 と、艦内から旗のない手旗信号をやっている兵がある。
 帰ってきた水兵は、桟橋の上から、これに応じてしきりにこれも手旗信号をやっている。
 その信号を読んだ艦内の水兵が顔をくずして仲間の者に呶鳴どなる。
「おい、上陸人の斥候せっこう報告があった。上には食堂のすばらしいのがあるぞう。酒も洋酒だが、なかなかうまいそうだあ。――ああ、なに、うんそうか、土産ものも売っとるう、写真に絵はがき、首かざり、宝石入指環、はみがきに靴墨。――ちぇっ、そんなものは沢山だ」


   怪事件突発!


 なにしろこういう絶海の孤島も同じようなところで、まっくろになって昼夜を分かたず、激しい労働に従っている人たちが三千人もいるのであるから、人間の心もあらくなっている。だから彼等をなぐさめるために、食堂とか酒場とか映画館その他の見世物までもあり、人気のわるいことは格別であった。
 もちろん非番の者にちがいないが、ぐでんぐでんに酔払ったり、その揚句のはてに呶鳴ったり打つ蹴るの激しい喧嘩をやっている者もある。
 まるで裏まちみたいなところもある。
 その間を、帝国軍人はきちんとして通り、皇軍の威容を、飛行島の連中にも心に痛いほど知らせることができた。
 夕方の午後六時になって、総員帰艦を終った。
 総員の点呼がはじまった。
 もちろん、一人のこらず皆、帰艦している――と思いの外、ここにはからずも意外な椿事ちんじが起った。
「川上機関大尉が見えません」
 驚くべきことが、副長のもとへ届けられた。
「なに、川上機関大尉がまだ帰艦していないというのか」
 副長もさすがに驚きの色をかくすことができなかった。
「もう一度、手分して艦内をさがせ」
 そこでまたもや捜索となったが、どうしても川上機関大尉の姿が見えない。
 どうしたというのだろう。
 大尉の身のまわりをしている杉田二等水兵が副長の前によびだされた。
「川上機関大尉の上陸したのを知っているか」
「はい知っております。午後三時十分ごろ、自分と一しょに舷門を出て行かれました」
「うむ、それからどうした」
「はあ。それから機関大尉と甲板の上まで一しょにあがりましたが、そこで私は機関大尉と別れたのであります。それ以後のことは、私は――私は知らんのであります」
「知らない。ふむ、そうか」
 副長はさらに大勢の兵員を集めて聞いてみたがどうも分からない。
 川上機関大尉が帰艦していないことは、長谷部大尉の耳にも入らずにはいなかった。
 彼はすぐさま機関室へとんできた。
「川上機関大尉が帰らぬというが本当か」
 それは遺憾ながら本当のことだった。
「これはけしからぬ。よし、俺がいって探してこよう」
 長谷部大尉は、すぐさま艦長のところへ駈けつけて、機関大尉を探すために上陸方をねがい出でた。
 すると艦長は、
「司令官にお聞きするから、暫く待て」
 といった。
 暫くたって、長谷部大尉は艦長によばれていってみた。嬉しや上陸許可が下りたかと思いの外、
「司令官はお許しにならぬ。誰一人も上陸はならぬといわれる。また一般にも、言葉をつつしみ、ことに飛行島の方に川上機関大尉のことを洩らすなとの厳命だ。のう、分かったろう。分かったら、そのまま引取ってくれ」
 艦長は、長谷部大尉の胸中を思いやって、苦しそうにいった。
 そういわれれば、下るよりほかない軍律だった。しかし長谷部大尉の肚のうちは、煮えかえるようだった。
 不安と不快との夜はすぎた。遠洋航海はじまっての大椿事だ。
 帝国海軍の威信に関することだから、全艦隊員は言葉をつつしめということなので、皆の胸中は一層苦しい。
 夜が明けた。
 早速捜索隊が派遣されるものと思いこんでいた長谷部大尉は、それにぜひとも参加をさせてくれるようにと、艦長のところへ願い出でた。
 艦長は、眉をぴくりと動かして、
「捜索隊は出さぬことになった」
「えっ、それはどうして――」
「司令官の命令である。帰艦するものなら、そのうちに帰ってくるだろう。捜索隊などを上へあげて、それがために脱艦士官があったなどと知れるのはまずいといわれるのだ」
「それはあまりに――」
 といったが、考えてみると司令官の言葉にも一理はある。といって、どうして捜索隊を出さずにいられるものか。川上機関大尉をめぐって、飛行島上には何か変ったことがあったのにちがいない。このままにおけば、午前十時すぎには、空しくここを出港してしまうのだ。そんなことになってはいけない。
 長谷部大尉は、艦橋につったったまま、眼を閉じてじっと考えこんだ。
(許さん――と一旦司令官がいわれたら、なかなか許すとはいわれない)
 そのとき大尉が思い出したのは、川上機関大尉の部屋をしらべてみるということだった。
 彼はすぐさま、その足で川上機関大尉私室へいってみた。
 すると、その私室の前には、四五名の兵員が声高になにか論争していた。
 彼等は長谷部大尉の姿を見ると、ぴたりと口を閉じて、一せいに敬礼をした。
「お前たちは、何を騒いどるのか」
 すると兵の一人が、
「はっ、私は不思議なることを発見いたしました。川上機関大尉の衣服箱を検査しましたところ、軍帽も服も靴も、すべて員数が揃っております。つまり服装は全部ここに揃っているのであります。機関大尉は素裸すっぱだかでいられるように思われます」
「なに、服装は全部揃っているって。なるほど、それでは裸でいなければならぬ勘定になるが、しかし川上機関大尉は軍服を着て舷門から出ていったんだぞ。それは杉田二等水兵が知っとる」
「おかしくはありますが、本当に揃っているのでありまして、不思議というほかないのであります」
 兵は自説をくりかえした。
 そうなると、長谷部大尉も、ふーむとうならないわけにゆかなかった。一たいどうしたというのだろう。浮かぶ飛行島をめぐる怪事件の幕は、こうして切って落された。
 極東の風雲急なるとき、突如として練習艦隊内に起ったこの事件は、そもいかなる意味があるのか。
 南シナ海の上は、今日もギラギラと熱帯の太陽が照りつけて、海は毒を流したように真青であった。


   おしゃべり水兵


 幾度考えてみても、奇怪な事件である。
 だが、奇怪なのはそればかりでなかった。
 長谷部大尉が、水兵から聞いたところによると、機関大尉の服は一着のこらず、ちゃんと私室に揃っているというのである。
 それなら機関大尉は、いま裸でいなければならぬ理窟になる。
 ところが、いつも身のまわりの世話をしていた杉田二等水兵の話によると、彼は機関大尉に連れられて、その日の午後飛行島に上陸したが、その時機関大尉はちゃんと海軍将校の服装をしていたという。
 実に奇妙な話である。この謎は一たいどう解けばいいのだろうか。
 練習艦明石は、怪事件をのせたまま夜を迎えた。
 いつも夜は元気のいい水兵たちの笑声で賑やかな兵員室も、今夜にかぎってなんとなく重苦しい空気につつまれていた。
「杉田は、まだ帰って来ないぞ」
 と、太っちょの大辻という二等水兵が、士官室の方に通ずる入口を見やった。
「まったく遅いねえ。艦長のところで、杉田はなにか申開きのできない始末になっているのじゃないかね」
 と、同僚があいづちをうった。
 すると別の水兵が、いきなり顔を大辻の方に出して、
「おい大辻」
「なんだ。魚崎」
「なんだじゃないぜ。貴様が余計なおしゃべりをするから、杉田がこんな目にあうんだぞ」
「なんだって、俺が余計なおしゃべりをしたって。なにをいうんだ。この大辻さまは、余計なことなんか一言もしゃべったことはないぞ」
 魚崎はじめ同僚が噴きだした。大辻のおしゃべりは艦内の名物だ。彼が何かを知ったら、それから十分後には、艦内の水兵たちが皆それを知ってしまうくらいだ。
「なにをいっているのだ。大辻、貴様がいけないんだぞ。川上機関大尉の服は全部私室に揃っております。だから機関大尉はいま素裸でいられるのでありますなどと、余計なことをいったじゃないか」
「あれえ、――」
 と大辻はぐりぐり眼玉をむいて、
「こら魚崎、そういったのが、どこがいけないんだ。それは本当のことじゃないか。それとも貴様は、上官に対し嘘をつけとでもいうのか。次第によっては、日頃汁粉をおごってもらっている貴様といえども、許さんぞ。上官に対し嘘をつけというのか。やい」
「そんなことはいっとらん。余計なことをいうなといっとる。貴様のいった、いま素裸でいられますは、余計なことじゃないか。帝国軍人が、いくら暑いからといって、こんな外人のいるところへ来て、不恰好な素裸でいられるものかい。帝国軍人の威信に関わる」
「おや、なんだか議論が怪しくなったね。さては貴様、俺にいいまかされたことがやっと分かったんだろう。軍服が全部揃ってりゃ、素裸でいるにきまってるじゃないか」
「ばかをいえ。絶対に素裸でいられない」
「なにがばかだ。服がなけりゃ素裸でいるよりほかにしようがないじゃないか」
「へへん、そうじゃないよ。俺は信ずる。すくなくともふんどしはしめていられると」
「ふ、ん、ど、し!」
 大辻は狒々ひひのように大口をあいて、
「ば、ばかっ」
「いや、それは冗談だが、襦袢を着ていられるかもしれない。または寝間着を着とられるかもしれない。いろんな場合があるんだ。だのに、貴様はあわてて、私室に軍服がそっくり揃っていますから、いま川上機関大尉は素裸でありますなんてことをいった。とにかく杉田がなかなか艦長室から帰って来ないのも、もとはといえば余計な貴様のおしゃべりのせいだぞ」
 それを聞いていた大男の大辻は、突然顔をゆがめて、
「お、俺は、そんなつもりでしゃべったんじゃないんだ。杉田のやつが悲痛な顔をしてやがるから、俺も一しょにしらべて、一刻も早く川上機関大尉の行方をさがしだしてやろうと思ってしゃべったんだ。それだのに、貴様らは――貴様らは――うへっへっへっ」
 大辻は涙をぽろぽろ出して、泣きだした。
 同僚はあわてた。大男の大辻が泣くところをはじめてみたからである。しかもなんという奇妙な泣声だろう。うへっへっへっなんて、泣声だか、それとも笑声だか分かりゃしない。
「おい大辻。わ、分かった分かった」と魚崎は立ちあがって、やさしく大男の肩をなでてやった。
「貴様の友達おもいの気持はよく分かっとる。泣くな泣くな、みっともないじゃないか。布袋ほていさまみたいな貴様が泣くと、褌のないのよりも、もっとみっともないぞ」
 どっと一座は爆笑した。
 大辻も、それにつりこまれて、涙にぬれた顔をあげながら、にっこり笑った。


   飛行島を出港


 同僚たちが心配していた杉田二等水兵は、その夜更よふけ十二時近くになってはじめて帰された。
 彼が、ただ一つ残されたハンモックを天井に釣りはじめた時、その隣で寝ていた魚崎や大辻が眼をさました。
「おう、杉田、帰ってきたか。みんなが心配していたぞ」
「杉田、俺のおしゃべりのせいで、貴様が引張られたんだといって、みんなが俺をいじめやがった。そんなことはないなあ、杉田」
 が、杉田は、なにも口を開こうとはしなかった。
「おい杉田。どうしたんだ。艦長に対してどう御返事をしたのだ」
 杉田はハンモックの中にもぐりこんだ。そして顔を僚友の方へちょっとだけ向けて、
「おい皆。どうもすまん。俺の気のつけようが十分じゃなかったんだ。しかし皆、どうか信じていてくれ。俺だって帝国軍人だ。卑怯なことはせん。よくそれを覚えていてくれ。――もう俺は寝る」
 そういって杉田二等兵は、毛布のなかに顔をうずめてしまった。
 僚友たちも、それをみると、やや安堵して自分のハンモックにかえっていった。
 しかしこの事件について何かの疑いをかけられている杉田二等水兵は、今宵はたして安らかに眠れるであろうか。
 練習艦明石にとって、記録すべき不祥事件の夜は、やがて明けはなれた。
「総員起し」の喇叭ラッパが、艦の隅から隅へとひびくのであった。水兵たちは、また元気に甲板上を、そうして狭い艦内をとびまわる。平生とは、なんの変ったこともない風景であった。
 午前十時、練習艦隊はいよいよ飛行島の繋留をといて出港ときまった。その用意のため、練習艦明石は、早朝から忙しかった。
 当直将校は長谷部大尉だった。
「川上のやつはどうしたろう」
 大尉は、前艦橋で飛行島の方をにらみつけながら、胸の中をぐっとついてくる憂鬱をおさえつけた。
 一人の下士官が艦橋に上って来て、とことこと大尉の方に歩みよった。
 長谷部大尉は、それと見るより、
「おう、御苦労。どうだった」
「はいっ。やはり駄目でありました。川上機関大尉は、今朝にいたるもまだ帰艦しておられません」
「うむ、そうか」
 あとは黙って、大尉は飛行島の方へまた顔を向けなおした。
 下士官は敬礼をすると、帰っていった。
(まだ帰って来ない)
 大尉は口のなかでつぶやいた。
 出港は、間近にせまっている。幼いときから、一しょに学び一しょに遊んできた川上を、この南シナ海の真中に残してゆくのは、実につらいことだった。
 それも捜索したあげく、見つからなかったというのなら諦めもつくが、飛行島を眼の前にしながら、上陸厳禁という艦長の命令は、あまりにもつらいことだった。だが、軍規は、あくまで厳粛でなければならない。長谷部大尉の眼には、涙一滴浮かんでいないが、胸の中は、はりさけんばかりであった。
 前艦橋に艦長が出てこられた。
 いよいよ出港だ。
 嚠喨りゅうりょうたる喇叭ラッパが艦上にひびきわたった。
 ヤードには、するすると信号旗があがった。
「出港用意!」
 伝令は号笛パイプをふきながら、各甲板や艦内へふれている。
 艦首へ急ぐもの、艦尾へ走るもの。やがて、飛行島へつないでいた太い舫索もやいづなが解かれた。
 機関は先ほどから廻っている。
 そのうちに、飛行島の鉄桁が横にうごきだした。艦尾は白く泡立っている。小さい波が、後にひろがってゆく。
 練習艦明石は、飛行島を離れたのだ!
 一番艦の須磨はと見れば、もうかなり先へ進んでいる。
 ららららら。ひゅーっ。
 飛行島の上からは、さかんに帽子をふる、手をふる。白人も黒人も、顔の黄いろい東洋人も――。
 ららららら。ひゅーっ。
 飛行島の最上甲板には、飛行島建設団長のリット少将の見送る顔も見える。
 桁には、また新たに信号旗がするするとあがった。
「出港に際し、リット少将に対し、深甚なる敬意を表す」
 白髪紅顔のリット少将は、にっこりとしてまた挙手の礼を送った。
 飛行島の信号鉄塔の上にも、安全なる航海を祈るという旗があがった。
 飛行島に働いている連中は、仕事をやめて、盛んに手をふり、口笛をふく。
 前艦橋につったって、長谷部大尉は双眼鏡を眼にあてて、この盛大なる見送りの人々をじっと眺めていた。顔、顔! 数百数千の顔を一人も見落すまいと!
 鉄桁の間、起重機の上、各甲板、共楽街の屋根、アパートの窓――どこにも顔、また顔の鈴なりだ。
 その中から大尉は心に念ずるただ一つの顔をさがし出そうとして、一生懸命であった。大尉の念ずる顔とはいうまでもなく、川上機関大尉のあの凛々りりしい顔であった。
 長谷部大尉は、双眼鏡を眼にあてたまま、彫像のように動かない。その鏡中には、さだめし数えつくせないほどの顔が動いていることだろう。
「うむ、――」
 とつぜん長谷部大尉がうなった。双眼鏡をもつ大尉の手が、ぶるぶるとふるえた。彼はいそがしく、双眼鏡のピントをあわせた。――
 飛行島の第三甲板にある労働者アパートの、はしから三つ目の窓に、鈴なりの男女の肩越しに、頭に繃帯を巻いた東洋人の顔がこっちを見ていた。
 大尉の胸は、にわかに高鳴った。
 彼は穴のあくほど、その東洋人の顔をみつめた。そしてもっとはっきり見たいと思って、ピントを合わせなおしたが、そのとたんに、窓から消えさった。
 それからは、いくど双眼鏡を向けてみても、もうふたたびその顔は入ってこなかったのである。
「ああ――」
 と長谷部大尉は双眼鏡をおろして、嘆息した。
(あの頭に繃帯して、こっちを覗いていた男は、川上の顔のように思ったが、気の迷いだったろうか)
 まさか川上機関大尉が、あのような労働者アパートの男女の中にまじっているとは、ちょっと考えられない。
「――どうも分からない」
 大尉は吐きだすように独言をいった。


   脱艦兵


 軍艦明石は、ぐんぐん船あしを早めてゆく。
 南方に遠ざかる飛行島を、長谷部大尉は胸もはりさける思いで、じっと見送った。
 川上機関大尉の失踪事件は、こうして、未解決のまま、よくない帳簿の上に永く記録せられることになったのだ。
 飛行島の影は、謎を包んだまま、ずんずん小さくなってゆく。もうなんとも手の出しようがない。
 そのときであった。
「当直将校!」
 大きな水兵がばたばたと駈けてきて、さっと挙手の礼をした。大辻二等水兵だった。彼の顔には、ただならぬ緊張の色が浮かんでいる。
「おう、なにか」
「杉田二等水兵の姿が見えません。私はしゃべりたくないのでありますが、当直将校にはおとどけしておきます」
「なんだ、そのいい方は――」と大尉はたしなめて、
「杉田がいないのか。杉田といえば川上の世話をしていた水兵だろう」
「はっ、そうであります」
「そうか、杉田が姿を消したか」
 大尉はさてはと思ったが、顔色には出さず、
「すぐ行くから、お前は先へ分隊へ行っておれ」
「ははっ、先へ参ります。しかし……」
 大辻は体をかたくして、
「当直将校。私がしゃべったことは、ないしょにねがいたいのであります」
「なぜか」
「ははっ、私はいま、村の鎮守さまに願をかけまして、向こう一年間絶対にしゃべらんと誓ったところであります。でありますから、私がしゃべったということは、お忘れねがいたいのであります」
「変なことをいいだしたね。それほどにいうのなら、お前のいうとおりにしよう。さあ、早く先へ行っておれ」
「あ、ありがたいであります」
 大辻は、やれやれと胸をなでおろしながら、昇降口の方へ駈けていった。
 長谷部大尉は副長に、この新たな事件を伝えると、すぐその足で、杉田二等水兵の分隊へ行った。
 そこでは分隊長以下が集って、憂わしげな面持で、一枚の紙切を読んでいるところだった。
「杉田二等水兵が姿を消したそうだな」
 と長谷部大尉は、分隊長に声をかけた。
「おお当直将校。そういう妙な噂が立ったので、いま杉田の衣嚢いのうをとりよせて調べてみると、ほら、こういう遺書がでてきました」
「えっ、遺書? どれ、――」
 と長谷部大尉が手にとってみると、なるほど用箋一枚に、何か、かんたんに書きつけてある。
 それを読むと、
「杉田ハ決心シマシタ。飛行島ニ川上機関大尉ノ行方ヲタシカメルタメ脱艦ヲイタシマス。再ビ生キテ皆サマニオ目ニカカレナイコトト覚悟ヲシテイマス。シカシ御安心下サイ。杉田ハ決シテ卑怯ナフルマイヲ致シマセン。郷里ノ方ヘハ、海ニ墜チテ死ンダトダケオ伝エクダサイ」
 とうとうやったな――と、長谷部大尉は思った。
 杉田二等水兵は、ついに機関大尉の行方を案じて、脱艦したのである。脱艦事件というものは、外国の軍艦にあっても、わが帝国軍艦には例のないことだ。それはたいへん重い罪としてある。杉田は、その重い罪であることを十分承知で、死の覚悟をもって脱艦したのである。その目的は、川上機関大尉の行方を、たしかめるためだというのだ。ああなんという悲壮な決心であろうか。
 長谷部大尉はその遺書を手にしたまま、分隊長はじめ一同の顔をぐるりと見まわした。誰もみな沈痛な顔をしていて、一語も発する者がなかった。
「本当に脱艦したものだろうか。脱艦したとすれば、どこからどういう風に脱艦したものだろうか」
 と、長谷部大尉は、誰に問うともなくそういった。
「遺憾ながら、私はなんにも知らないのです」
 分隊長は首をふった。
「あの――、杉田は、艦側から、海中にとびこんだのであります」
 と、誰かうしろの方で大声で叫んだ者があった。
「なに、艦側から? よく知っているのう。おい、誰か。もっと前へ出て話をせよ」
 分隊長はのびあがって、このおどろくべきニュースを報道した者の姿をさがした。
「はっ、――」
 と答えはしたが、その先生は急に頭をかいて、こそこそ逃げ出そうとする。その姿を見ると、外ならぬ大辻二等水兵だった。
「なんだ、大辻じゃないか。早くこっちへ出て当直将校の前で話せ」
 大辻はもじもじしながら長谷部大尉の前に出てきた。
「ははあ、お前か。――」
 長谷部大尉は呆れた。村の鎮守さまにおしゃべりをしない誓をたてたといった例の大男である。杉田の脱艦したことを自分がしゃべったことは、ないしょにしておいてくれと、さんざん頼んでいったその大辻二等水兵だったから、これが呆れずにいられようか。
 大辻は、ふだんから赤い顔を一層赤くしながら、いまにも泣き出しそうである。
「わ、私がしゃべらないといけませんか」
「あたりまえだ」
 長谷部大尉は一喝した。
「杉田の脱艦について要領よく、ありのままにしゃべれ、村の鎮守さまの方は、あとから俺があやまってやる」
「うへっ、――」と大辻は眼を白黒させ、
「――では申し上げますが、杉田はいま申しましたとおり、午前十時二十分、艦側から海中にとびこんだのであります」
「ふむ――それから」
「杉田は水中深くもぐりこみました。彼はもとあわびとりを業としていたので、なかなかうまいのであります。かれこれ三分ほどももぐっていたでありましょうか、やがて彼はしずかに海面に顔だけを出して、泳ぎだしました」
「ばかに話がくわしいが、一体それはどうして分かった」
「それは――それはつまり見張人が見張っていたのであります」
「なに、見張人? 誰がそんな脱艦を見張っていたのか。――ははあ、貴様だな」
 長谷部大尉は、かっと両眼をむいて大辻を睨みつけた。
「……」
 大辻はそれに対して返事ができなかった。ただ両眼から、豆のような大粒の涙を、ぽろんぽろんと落しはじめた。
「黙ってちゃ分からぬ。なぜ答えないのだ」
「うへっへっへっ」
 と大辻は奇妙な泣声をあげながら、
「そうおっしゃいますけれど、杉田のあの苦しい胸中も考えてやって下さい。あ、あいつは海へとびこむ前に、手をあわせて、この私を拝みました。どうぞこの俺に川上機関大尉の後を追わせてくれ。もし機関大尉が生きていられたら、きっと連れ戻る。もし死んでいられたら、俺もその場で死ぬる覚悟だ。機関大尉の先途を見とどけないで俺のつとめがすむと思うか。どうか俺を男にしてくれ。それに俺には、いやな疑いがかかっているのだ。俺が川上機関大尉の行動を知っていていわないように思われている。俺は知らないのだ。たとえそれを察していても、川上機関大尉は自分の命も名も捨てて行かれたのだ。それをどうしていえるものか。俺は貴様みたいにおしゃべり病にかかってはおらん。――あわわ、しまった。とにかくそういって杉田は泣いて私に見張を頼んだのであります。わ、私も泣きました。それで見張に立ちました。涙があとからあとから湧いて、見張をしてもよく見えませんでした。私は覚悟しています。どうか厳罰に処してください」
 一座はしーんと水をうったよう。誰かはなみずをすする者がある。
 眼を真赤にしている者がある。
「よおし、よくしゃべった。おい大辻、俺と一しょに艦長室へこい」
 そういった長谷部大尉の眼も赤かった。


   川上機関大尉の秘密


 波間に、杉田二等水兵の首が一つ、ぽつんとただよっている。
 南海の太陽は、いま彼の顔に灼けつくように照っている。
 彼は海面に波紋をたてぬように静かに静かに泳いでいる。クロールや、抜手にくらべるとはなやかではないが、この水府流の両輪伸りようわのしこそは遠泳にはもってこいの泳法だ。
 杉田二等水兵は、飛行島目ざして必死だ。
「うむ、もう一息!」
 この南シナ海には、無数の人喰鮫が棲んでいる。それに、下からぱくりとやられると、もうおしまいだ。
「川上機関大尉。私がそこへ泳ぎつくまで、どうか生きていて下さい。杉田はきっとお助けします」
 杉田二等水兵には、誰にもいえない、一つの秘密があった。飛行島へ川上機関大尉と一しょに上陸して、共楽街の前で左右に別れる時、機関大尉から重大なる用事をいいつけられた。
 それは帰艦の前に、その共楽街にある広珍という中華料理店に立ち寄って、一つの荷物をうけとって帰れ。そして帰ったら、俺の室に持って行ってその荷物をあけておいてくれ。これはその広珍という中華料理店で荷物を渡してもらう時の合札だといって、ボール紙の札を杉田に渡した。その札には、白い羽と赤い鶏冠とさかをもった矮鶏ちゃぼの絵が描いてあった。
 杉田二等水兵は、その命をうけて、別れようとすると、川上機関大尉はなにを思ったか彼の傍へつかつかと近づいて、ぐっと手を握りしめながら、
「杉田、では頼んだぞ。それからもう一つ大事なことだ。その荷物をうけとって帰艦するまで、どんなことがあっても、俺が命令したということをしゃべっちゃいかんぞ」
 妙な命令だと思ったが、杉田は承知しましたと答えた。
「じゃあ、ここで別れる。時間まではゆっくり遊んで来い。気をつけてゆけ」
 そういって機関大尉は、またぐっと力を入れて杉田の手を握ったのであった。
 機関大尉は共楽術を奥の方へすたすたと歩いていった。そしてある店舗のかげに、姿を消してしまった。これが機関大尉を見た最後だったのである。
 杉田は、共楽街を散歩する非番の労働者やその家族たちと肩をならべて歩きまわった。そして手まねでもって、甘いココアを飲んだり、肉饅頭にくまんじゅうを食べたり、それから映画館に入ったりして時間いっぱいに遊びまわった。そして帰りぎわに川上機関大尉のいいつけどおり広珍に寄って、矮鶏ちゃぼの合札とひきかえに、一つの荷物をうけとって帰艦したのだった。
 彼はすぐとその足で、荷物を川上機関大尉の室にもって入った。
 荷物はすぐに開けという命令だ。
 杉田は、この荷物の中に一体なにが入っているのか知らなかった。彼は早く中の品物をみたかった。さっそく包紙をやぶってみると、その中はまた紙包になっていた。なんのために、そう厳重にしてあるのだろうかと怪しみながら、二重三重の包紙をやぶって、やっと待ちに待った品物が、杉田二等水兵の眼の前に出てきた。それを見た時、彼は驚きのあまり、思わずあっと叫んだ。
 品物は一たい何であったろうか。
 白い機関大尉の軍服、軍帽、短剣、靴、襦袢その他のものであった。
「これはどうしたんだろう」
 杉田二等水兵は、自分の眼を疑った。調べてみると、これはたしかに川上機関大尉の着ていった服装だ。実に不可解なことだ。
 杉田はその時、包の中に一枚の紙切が入っているのを見つけた。彼は思わず胸をおどらせて、それを開いた。
 はたしてそれは、川上機関大尉の筆蹟でしたためられた杉田にあてた手紙であった。
 その文句は次のようであった。
「――杉田。驚カナイデ、ヨクコノ手紙ヲ読ンデクレ。
(一)コノ荷物ノ中身ガ何デアッタカ誰ニモイウナ。
(二)コノ品物ハスグチャントシマッテクレ。
(三)コノ手紙ハスグ焼キステロ。ソシテオ前ハ俺ノ行動ニツイテ、昼間飛行島デ別レテカラ後ノコトハ、スベテミナ忘レルノダ。オ前ガ秘密ヲヨク守ルコトヲ信ズル。タッシャデクラセ。川上」
 これは遺書だ。まさに川上機関大尉の遺書である。
 杉田二等水兵は、腰をぬかさんばかりに驚いた。
 なぜ川上機関大尉は、こんなことをするのか、彼には何にも分からなかった。
 しかしその次の瞬間、杉田は自分がいいつけられた重大な命令を思いだした。わけは分からないが、ぐずぐずしていては、いいつけに背くことになる。あの立派な機関大尉が、まちがったことを命ずるはずはない。こうなれば、その遺書に命ぜられたとおりを即時やるよりほかない。
 そう決心した杉田二等水兵は、いまにもめりこみそうな気持をひったてて、いいつけどおりに品物の始末をしたり、その惜しい手紙を焼きすてたりした。
 さてこれから一たいどうなるのだ。
 それから後、艦長に呼ばれたり、長谷部大尉に調べられたり、いろいろなことがあったが、最後まで川上機関大尉のいいつけを頑固に守り通したのだった。だが彼の胸中は、もうはりさけるようであった。
 彼も若い血のみなぎる人間だ。この上の我慢はとてもできなかった。遂に決心をして、大尉のあとを追い脱艦をすることとなった。――
 いま彼は、目ざす飛行島に見事泳ぎついたのだった。
 彼は監視員の眼をのがれるために、遠方から得意のもぐりをつづけて、橋構の間を分けて入り、かなり奥の方の橋構まで進んで、やっと水中から顔を出したのであった。
 橋構鉄塔にはいのぼると、彼は胴にまきつけてきた用意の白いズボンの水を絞ってはいた。腹から上は裸だった。何しろここは暑いところで、こうした半裸体の労働者が多いので、これで十分なのだった。
 起重機のがらがらという音だの、圧搾空気の鉄槌のかたかたかたとやかましい響だの、大きなポンプの轟々と廻る音だのが、頭の上にはげしく噛みあっている。どこかでひゅーっと号笛パイプが鳴るのが聞える。自分が忍びこんだのが見つかったのではないかと、ひやりとした。
 鉄塔のかげにかくれていたが、追ってくる人もないようなので、杉田二等水兵は、そこを出て、そろりそろりと甲板の方へよじのぼっていった。こういうことなら、水兵さんだけに得意なものである。
 彼はやがて川上機関大尉の荷物をうけとった広珍料理店前にやって来た。
 そこで、彼はしばらくためらった後、思い切って店内へ足を踏みこんだ。


   広珍料理店


 飛行島に泳ぎついた杉田二等水兵は、その足ですぐ共楽街の広珍料理店にとびこんだ。
昨日、機関大尉の荷物を受取ったあの料理店である。
 この杉田二等水兵の姿というのがたいへんだった。腰から下に白ズボンをはいたきり、そして胴中から上はなに一つまとっていない赤裸だった。しかし潮風にやけた体は赤銅色で、肩から二の腕へかけて隆々たる筋肉がもりあがっているという、見るからにたくましい体格であった。
 このとき、店内には、客は一人もおらず、白い詰襟の上下服を着た中国人ボーイが五六名、団扇うちわをつかって睡そうな顔をしているところだった。そこへ杉田二等水兵がぬっと入ってきたものだから、一同はびっくりして、玩具おもちゃの人形のように椅子からとびあがった。しかし杉田の半裸体姿を見ると、なあんだという顔をして、又椅子につき団扇うちわをぱたりぱたり。
「おい、ちょっとたずねるが、昨日俺がここへ来たことを覚えているだろうね」
 と、杉田二等水兵は、おもいきり大きな声で叫んだ。
「……」
 中国人ボーイたちはきょとんとして、互の顔を見合うばかり。日本語なんか、ちっとも分からないという風だ。
 日本語のほか知らない杉田二等水兵は、はたと困っちまった。
「誰か日本語の分かる者はいないのか。ニッポン、日本だぞ」
 杉田二等水兵のはげしい権幕に恐れてか、中国人ボーイは一人立ち二人立ちして、だんだん杉田の前に集ってきた。そしてぺちゃぺちゃしゃべっては、いぶかしそうな顔をしている。
「おい、どこかへ行って日本語の分かるやつを引張ってこい。一たい、日本語が分からないなんて、けしからんぞ」
 と、きめつけたが、もちろん、通じるわけがない。
 そのうちに、一人のボーイが奥へかけこんだ。
 誰か探しにいったんだろうと思っていると、果して奥から別の人間を引張ってきた。それは胸にエプロンをしめ、片手に肉切庖丁を握った料理人風の男だった。
「おい、お前は日本語が分かるのか」
 かの料理人は、耳に手をあてて杉田の方を見ながら眼をぱちぱちやっていたが、やがてにやにや笑うと、いきなり杉田の手をにぎり、
「ああ――ああ、こにちは」
 杉田は突然「今日は」と挨拶をされて、百万の味方を得たように喜んだ。そして料理人の手をぎゅっと握ってふった。
「ああ――ああ、わたし耳、ためため、大きい声きこえる、小さい声きこえない。わたし耳、ためためあるよ」
 なんだ、この料理人は耳が遠いのか。
 杉田は、やむを得ず、号令をかけるような声で、
「きのうこの店に大きな紙包をあずけていった川上機関大尉は、どこにいられるか知らんか。皆にも聞いてくれ」
「ためため、あなた声、小さい。もっともっと大きい声するよろしいな」
「なんだ。声の大きい方じゃ、艦内でひけをとらぬのに、あれでもまだ小さいというのか」
 杉田二等水兵は、又料理人の耳に口をつけ、割れるような大声で、同じことをくりかえした。
 すると料理人は、はじめて合点合点をしてうなずき、傍ににやにや笑っている中国人ボーイに、なにか早口でたずねる様子だったが、又杉田の方を向いて、
「――川上大尉、誰も知らない。あなた、誰あるか」
「俺か。俺は大日本帝国の水兵で、杉田というんだ」
「すいへい。すきたあるか。ちょとまつよろしい」
 料理人は、またボーイと早口で話し合い、
「すいへい、すきた。なに用あるか。にっぽん軍艦出た。すいへいおる、おかしいあるよ」
「だからいっているじゃないか。川上機関大尉をさがしにひとりでやって来たんだ」
「川上大尉、誰も知らない」
「じゃあ、誰があの荷物をここへあずけていったのか。その人に会わせてくれ」
 耳の遠い料理人は、またボーイと相談をはじめた。時々杉田をじろじろ見る。やがて、料理人は、
「それでは、あの荷物もってきた人に会わせる。その代り、何かくれるよろしいな」
「何かくれろというのか」
 こんなこともあろうかと思って、杉田は腰にさげてきた巾着から、五十銭銀貨を六枚だして、料理人の掌にのせてやった。
 料理人は大よろこびで、それをボーイたちと分けあった。そしてそのうちの一人、やけに背のひょろ高いボーイを指さし、
「張、あんないする。あなた、ついてゆくよろしいな」
「そうか、案内してくれるか。それはありがたい」
 杉田二等水兵は、それをきいて、にわかに元気づいた。これでこそ、この飛行島へ来た甲斐があったというものだ。
 しかし中国人ボーイ、張は、はたして川上機関大尉の服をあずけた主を本当に知っているのであろうか。


   怪しい合宿所


 張という中国人ボーイは、杉田を手招きして、先に立った。
 杉田はその後について店を出た。張は共楽街の大通をすたすたと歩いていった。活動写真館の小屋がある。のぞき屋台がある。餅みたいなものを焼いて売っている店がある。ぴーぴーじゃんじゃんやかましい楽器を鳴らしている見世物もある。すべて昨日見物に歩いたときと同じ風景だ。その間を非番の各国人が、酒に酔って、ふらふら歩いている。
 一つの街角のようなところで、張は階下につづく階段を指さした。そして先に立ってことことと下りてゆく。
 杉田二等水兵も、それにつづいて急な階段を下って行ったが、下りてみると、そこはごみごみした住宅街といったようなところ。むっと臭気が鼻をつく。労働者の宿泊するところらしい。
「こっちへこっちへ」
 とでもいいたげに、張は指さしては、ずんずん先に立つ。一たいどこへつれてゆくのかしらないが、早く機関大尉の服を預けにきた主にあいたいものだ。その人にきけば、きっと機関大尉の消息が知れるであろう。
 すると張は、一つの扉の前に立ち停った。
「ここだ。いま呼んでみるから待て」
 と、でもいいたげな身ぶりをした。
 荒けずりの荷物箱の板を釘でうちつけたようなお粗末な扉だ。その小屋には、どういうものか、窓があいていない。入口には数字でもって、室の番号が書いてあるだけだ。うすきみがわるい。
 張が扉をことことと叩くと、扉に小さな窓があいた。その小さな窓から、人間の眼が一つのぞいた。張がその眼に向かって、なにか早口でしゃべると、窓はまた元のようにぱたりとしまった。
 しばらく待つうちに、扉がぎいと内側へ開いた。
 張は杉田二等水兵に、さあ入れと手まねで扉のうちを指さした。室のうちは真暗だ。入口に近い板の間に、胴中から壊れたウイスキーの壜が転がっている。そしてぷーんと強い酒の匂いが、杉田の鼻をついた。
(これは油断のならぬ場所だぞ)
 と、杉田は入りかけて躊躇していると、いきなり後からいやというほど前へつきとばされた。張が不意に力いっぱいつきとばしたのだ。
「あっ、――」
 という間もない。杉田はどーんと扉もろとも室内に転げこんだ。
「うーむ!」
 転げこんだ拍子に、杉田は大きな箱のようなものの角で、いやというほど向脛むこうずねをうちつけ、どたんと床に倒れた。
「しまった。だましやがったな」
 杉田は痛手をこらえよろよろと起きあがると、いま入ってきた入口の扉の方へ突進した。
 扉のところには、さっきのボーイが立っていた。そのボーイの手には、いつの間にかピストルが握られていて、きらりと光った。
「近よれば、ぶっ放すぞ」
 といわんばかりである。
「うーむ、こいつが……」
 杉田二等水兵は、怒心頭いかりしんとうに発し、顔を朱盆のように赤くして、中国人ボーイを一撃のもとに――と思ったが、そのとき彼の後で、
「わっはっはっはっ」
 と、破鐘われがねのように笑う者があった。
「何者?」
 杉田が、はっとして後をふり向くと、その薄暗い室のまん中に、空箱を椅子にしてふんぞりかえっている髪の赤い大男! 腰から上は申しわけばかりのシャツをまとい、たくましい腕にはでっかい妙な入墨をしている、見るからに悪相で、一癖も二癖もあるような白人だ。
 その横には、これも眼玉の青い唇の真赤な白人の若い女が、ぺたりとくっついていて、前の卓子テーブルには、酒壜やコップがごちゃごちゃ並んでいた。
「野郎、おとなしくせんか。あばれると、これだぞ!」
 と、かの入墨の大男は、どこで仕入れてきたのか、流暢なべらんめえ言葉で呶鳴ると、かたわらから、長い黒いものをとって小脇にかかえた。見れば、それはアメリカでギャングの使う軽機関銃であった。
 杉田は仁王立になって、この白人を睨みつけた。
「おい、日本の水兵、川上という士官が、この飛行島へ入りこんだそうだな。なぜ入りこんだのか、白状しろ。そいつを白状すれば、このヨコハマ・ジャックさまが、手前てめえの一命だけは助けてやらあ。さあ、いえ」
 ヨコハマ・ジャックとは、あだ名なのであろう。横浜にいたごろつきに違いない。
「……」
 杉田二等水兵は、かたく口をむすんで、返事をしようとはしない。彼はいまにして、さっき広珍料理店で川上機関大尉をさがしにきたわけを話したことを悔いた。とうとうこの悪漢どもに、うまく利用されてしまったのだ。
「こんなにいってやるのに、手前は返事をしないな。ようし、いわなきゃ、自分でいいたくなるようにしてやらあ。覚悟しやがれ」
 ジャックは、のっそり腰掛から立ちあがった。そして太い腕をさすりながら、杉田の前に近づいて、上から睨みおろした。仁王さまが人間を睨みつけているような形だった。
「この野郎!」
 と、ジャックは大喝一声、大きな拳固をかため杉田の頤をねらってがーんと猛烈なアッパー・カットを――。
「えーい!」
 同時に鋭い気合が、杉田の口をついて出た。
 懸声もろとも、杉田がけしとんだかと思うと、そうではなく、どたーんと大きな物音がして、酒壜もろとも卓子をひっくりかえしてしまったのはジャックの巨体だった。まるで爆撃機のプロペラーが廻ったように、もんどりうって、その卓子テーブルの上に叩きつけられたのだ。
「うーむ」
 と、大男はうなった。それまではよかったけれど、これを見て驚いたのは、室内の乱暴な白人の手下ども五六人だ。やがてわれにかえると親分の一大事とばかり、どっと杉田にとびかかってきた。
 こうなっては仕方がない。杉田も立派な帝国軍人だ。侮辱をうけて黙っていられない。腕に覚の柔道で、とびこんでくるやつを腰車にかけてなげとばし、つづいて拳固をつきだす奴の手を逆にとって背負いなげにと、阿修羅のように力戦奮闘した。が、いくら強いといってもこちらは一人、相手は大勢の命しらずの乱暴者だ。杉田はとうとう大勢に組み伏せられた上、手錠をはめられてしまった。そして傍の鉄の柱に、胴中をぐるぐる巻にされた。
「さあどうだ。よくもひどい目にあわせたな。もう手むかい出来めえ。さあ、こうしておいて、いやでも川上という士官の秘密をしゃべらせ、団長へ売りつけるんだ。はっはっはっ、手前は福の神だよ。福の神が、そんな食いつきそうな顔をするなよ」
 ジャックはにくにくしげにいい放って、いまは自由のきかない杉田二等水兵の顔をぴしりぴしりとひっぱたいた。
 杉田は歯をくいしばってじっと、こらえた。
 無念のなみだがきらりと頬をつたった。


   飛行島の大秘密


 ここ建設工事中の飛行島の最上甲板であった。
 白髪赭顔しゃがんの、飛行島建設団長リット少将と、もう一人、涼しそうなヘルメット帽をかぶって白麻の背広のふとった紳士とが、同じように双眼鏡を眼にあててはるか北の方の水平線を眺めている。そのうちに、リット少将は、双眼鏡から眼を放し、軽く笑って、
「どうです。ハバノフさん。とうとうなにも知らずに帰ってゆきましたよ」
「いやあ、私もひやひやしていたんだが、うまくゆきましたねえ」
 と、ハバノフと呼ばれたヘルメットの紳士も、はればれと笑った。
 二人がいましも見送った北方の水平線には、二条の煙をあげた二隻の軍艦が小さく見える。
 いうまでもなく、わが帝国海軍の練習艦隊、明石と須磨の二艦だった。
 二人の会話には、どう考えてもわが練習艦隊にたいする好意的な意味が発見されなかった。一たいどうしたわけだろう。
「さあ、ハバノフさん。明石、須磨はもう大丈夫ひっかえしてきませんよ。では船室へいって、おちついてお話をしようじゃありませんか」
「そうですね。もう大丈夫でしょうね。どうも私は日本軍人が傍へくると、火のついたダイナマイトに近づいたようで、虫がすかんですよ」
「まあ、こっちへいらっしゃい」
 リット少将は、ハバノフ氏を案内して、その最上甲板に建ててある「鋼鉄の宮殿」とよばれる大きな四角い塔のうちへ入った。
 そこはリット少将をはじめ、主だった英人技師の宿泊所であった。中は、一流のホテルのように、豪華なものだった。
 二人は、赤い絨毯をしきつめた大広間の真中に、籐椅子を向かいあわせて腰を下した。
「いかがですか、ハバノフさん。この飛行島をごらんになった上からは、貴下のお国でも日本に対してすぐさま硬い決心をしてくださるでしょうね」
「そうですねえ、――」
 とハバノフ氏は言葉を濁して、卓上の函から葉巻煙草をとって口にくわえた。
 このハバノフ氏というのは誰あろう。これぞ赤きコミンテルンの国、ソビエト連邦の密使であって、元海軍人民委員長という海軍大臣と軍令部長とを一しょにしたような要職にいた軍人であった。
「ハバノフさん。なんだか覚束おぼつかない御返事ですねえ。私は貴下がすぐさまわれわれの気持に賛同してくださるものと思っていた。いや別にわれわれは、それを強いてやってくれとペコペコ頭を下げておたのみするわけではない。実は、われわれの方より、貴下のお国の方がよほど得をするわけでしてね、なにもわれわれは――」
「いや、待ってください」とハバノフ氏は煙草を指さきでふりまわしながら、
「そうおっしゃるなら、私も申しあげたいことを申しますが、実のところをいえば、私はもっと大きな期待をもってこの飛行島を見にきました。ところが残念にも、私は期待をうらぎられた。なるほど飛行島は実に大きいです。大きいのには驚きました。しかしこれが軍事上の値うちはどうかというと、あまり大したことはない。なにもかも申しますが、こんな飛行島を一つ、シンガポールと香港との中間の海上につくってみても、一たいどれ位の値うちがありますか。それは、前進にも中継にも、いい根拠地になります。しかし日本軍の爆撃隊は実に勇敢ですぞ。やろうと思えば、こんな飛行島一つぶっつぶすのは訳はない」
 それを聞くと、リット少将は、
「あっはっはっはっ」
 とさもおかしいというように、天井を向いて笑いだした。
「リット閣下、なにがおかしいのです。日本軍の爆撃隊が弱いとお思いですか。日中戦争において、英国艦艇は日本軍の作戦を大いに邪魔をした。あれは日本軍をみくびってであろうが、日本軍はそんなに弱くない。――」
「あっはっはっはっ」とリット少将はなおも腹をかかえて笑いつづけたが、そこで急に真面目な顔つきになって、
「いやたいへん失礼しました。笑うつもりじゃなかったが、どうもつい笑っちまった。そのわけは、すぐ分かります。ねえハバノフさん。貴下――や、貴下のお国では、この飛行島を一たいなんだと思っているのですか」
「えっ。それは分かっているじゃありませんか。飛行島というのは海中に作った飛行機の発着場なんでしょう。それにちがいありますまい」
「大きに、そのとおりです。誰でもそう思いますよ。日本の練習艦隊も、そう思って帰っていった。ところがです。わが飛行島は、そんな生やさしいものではない」
 そういってリット少将は、にやりと人のわるい笑を口辺にうかべた。
「ええっ、するとこの飛行島は、なんです」
「ねえハバノフさん。驚いてはいけませんよ。この飛行島は、ぼんやりこの地点に根をはやしているのではない。時速三十五ノットでもって移動ができるのですよ」
「なに、飛行島が三十五ノットで走る」
 ハバノフ氏は、おどろきの眼をみはった。


   世界の大陰謀


「こんなに大きな飛行島が三十五ノットで走るなんて、そんなばかなことがあるものですか。三十五ノットといえば、大型駆逐艦か甲級巡洋艦の速力だ」
 と、ハバノフ氏は信用しない。
「いや、ところがちゃんと三十五ノットで移動できるのです。日本海軍の一万トン巡洋艦でも追駈けることができますよ。――いや、まだ驚くことがある。これは極秘中の極秘であるが、この飛行島には最新式のハンドレー・ページ超重爆撃機――そいつは四千馬力で、十五トンの爆弾を積めるが、その超重爆撃機を八十機積むことになっている。だからこの飛行島は、見かけどおりの飛行島ではなく、世界最大の航空母艦なんです。どうです、これで驚きませんか」
「ほほう、それは初耳だ。――でもまさか超重爆がこの短い飛行島甲板から飛びだすとは、常識上考えられませんよ」
「それは御心配には及ばん。飛行甲板は、戦車の無限軌道式になっていて、猛烈なスピードでもって飛行機の飛びだす方向と逆に動くのです。だから飛行甲板を走りきるまでには、甲板の長さの幾層倍かの長い滑走路を走ったと同じことになる。これだけ申せばもうお分かりのとおり、どんな重い重爆だって楽にとびだせますよ。どうです。驚いたでしょう、ハバノフさん」
 ハバノフは、上着のポケットからハンカチをだして、しきりに額の汗をぬぐっている。
 飛行島が、実は世界最大の超航空母艦だということがやっとのみこめて、肚の底からびっくりしているのであった。なんというたいへんなものを造った英国海軍であろう。
「まだ驚かすことがあるんだが、そいつはまあいずれ後のことにしましょう」
「えっ、まだ驚くことがあるんですか」
「あっはっはっはっ。この飛行島一隻がありさえすれば、極東のライオンも、だまってひっこむより仕方がないでしょう」と暗に、日本を押しかえす力があることをほのめかし、
「しかしこんな恐しい超航空母艦であることは、当分のうち絶対秘密にしておかねばなりません。もしも日本に知れるようなことがあれば、あの東洋の無茶者は、どんな乱暴をはたらくかしれない。だからこの飛行島では、ただ一人の日本人も使っていない。ハバノフさん。貴下にうちあけたこの飛行島の秘密は、大したお土産でしょう。さあ、今こそ貴下の国は、私の国と手を握るときです。そして日本をおさえつけなければならん」
 そういってリット少将は、ハバノフ氏の耳許に口をもってゆくと、なにか小声でささやいた。それを聞いていたハバノフの顔色が、緊張のために紙のように白くなった。
「おおリット閣下。ここで私の決心もきまりました。スターリン議長にたいし、出来るだけの説明をしましょう」
「いや、ぜひわれわれの軍事同盟をつくりあげねばなりません。ねえ、お互にユダヤ人の血をひいている兄弟ではありませんか。われわれユダヤ人は、ソ連においても、わが大英帝国においても、また米国においても、銀行をひとり占にしている。その大きな金の力によって、政治を動かすこともできるし、新聞や映画などでわれわれの敵をやっつけることもできるし、もちろん軍隊を動かして戦争をさせることもできる。ユダヤ人の国というのはないが、われわれは世界の大国のうしろに隠れていて、それをあやつることができるんだ。一つ握手して、まず第一に東洋においてわれわれに反対する日本をぶっつぶさなければなりません」
 恐るべき反日の言葉が、ユダヤ系の英国人のリット少将の口から洩れた。
「そうです。日本はわれらの国ソ連にとっても大敵です。日本はコミンテルンの敵です。一昨年から、コミンテルンの大会において、日本をぶっつぶすことを決議し、そのために中国をまず赤化してかかろうとしたのです。日本は建国以来二千六百年になり、万世一系の天皇をいただいているので、なかなか亡ぼすのに骨が折れます。それでも数年前までは、われわれの計画がうまくいって、国内には議論がわかれたり、国民がへんな歌をうたったり、妙な服や化粧に夢中になったりして、ぐにゃぐにゃになっていたんだが、近頃になって日中戦争が起ったり、ドイツやイタリヤなどと防共協定を結ぶようになってからは、生れかわったような強い国民になった。だから、私は日本という国は、実に恐しい国だと思う。日本をやっつけるために、われわれはもっともっと空軍を強くし、戦車や潜水艦をうんと造り、また日本国民の心がぐにゃぐにゃになるような宣伝や、それからだらしのない遊びなどを日本に流行らせなければならん――とまあ、そんな風に考えでいるのです」
 ハバノフ氏はそういって、大きな口を結んだ。
 ここ南シナ海の真只中の飛行島において、語るは英国人リット少将とソ連人ハバノフ氏であった。
 恐るべきユダヤ人の大陰謀ではないか。
 ああわが東洋の君主国日本には、誰一人、この大陰謀を知る者はないのであろうか。……


   変なペンキ塗工


 その時であった。
 英国士官の服をきた一人の英人が、手に一枚の紙片を握り、顔の色をかえて、リット少将のいる塔の方へ甲板を小走りにやってきた。
 塔の入口に駈けこもうとしたとき、いきなり英国士官の頭の上にがたんと音がしてなにか硬いものが落ちてきた。――見るとそれはペンキがべたべたついている刷毛はけであった。
「おや」
 と思って上を見ると、塔の屋上にたてたほばしらによじのぼって、ペンキ塗をやっていた中国人らしいペンキ工が、その刷毛をとりおとしたのだった。
シェシェ
 と、中国人は檣からするすると下りてきて士官の前にぺこぺこ頭をさげた。ペンキ工はどこで怪我したのか、頭部には繃帯をぐるぐるまいていた。
「気をつけろ」
 英国士官はむっとして、刷毛の方へ手をのばしたペンキ工の顔を、靴でもって力まかせに蹴とばした。
「あっ、――」
 中国人は尻餅をついた。鼻柱を足蹴にされたと見え、赤い血がたらたらと口から頤の方を染めた。
 英国士官はそれを尻目に、塔の中へかけこんだ。
 あとに残った中国人のペンキ工は、後にまわしていた片手をいそいで顔の前にもっていった。その手には一枚の紙片が握られていた。彼はその上にかかれた英文をいそいで読みくだした。
 そして直ちにその紙片を、塔の入口に近く眼につきやすいところへ捨てた。そして自分は、その場へぶったおれて、血だらけの顔をおさえながら、苦しそうな息を肩でついた。
 一旦塔の中に入った士官が、真青になってひきかえしてきた。彼は入口のところで、すばやく落ちている紙片を見つけた。
「ああ、よかった。ここに落ちていた」
 士官は紙片をひろいあげると、うさん臭い眼つきで、ペンキ工の中国人の方を見た。中国人は、顔中血だらけにして、うんうんうなりながらそこにへたばっている。それを見ると、士官は安心して、紙片を握ったまま塔の中に引返していった。
 広間にはリット少将が、お待ちかねであった。ハバノフ氏は、遠慮をもとめられたものか、そこにはもう姿がなかった。
「おお、スミス中尉。一体どうしたんだ」
「はっ、少将閣下」
 と、スミス中尉とよばれた若い士官はその場に直立不動の姿勢をとって、
「――只今、本島の通信班から緊急報告がまいりました。それによりますと、今しがた、本島内から意味不明の怪電波を発射したものがあったそうです。どうかこれをごらん下さい」
「なに、怪電波を発射したって」
 リット少将も、さすがにちょっと顔を硬ばらせて、スミス中尉のさしだした紙片を穴のあくように見つめた。
「――なるほど。秘密通信らしいものを出した者があるという。そしてわが通信班の送信機を全部しらべたが、どれもそんな電波を発射しないというのか。何者の仕業か。ふーむ」
 リット少将の眉には、さっと不安の色がただよった。
「おい、スミス中尉。飛行島で働いている連中の身もとは、あれほど厳重にやってあったのに、これを見ると、誰かスパイをはたらいている奴があるんだぞ。お前、すぐ警務班長を呼んでくれ。そして、飛行島内を大捜索するんだ。この秘密通信は、どうせ短波だから、スパイは背中にかつげるくらいの小さな機械を使っているのにちがいない。そういうものに気をつけて至急大捜査だ」
 スミス中尉が塔を出てゆくと、それと入れちがいに、どやどやと乱れた足音がして、広間へ入ってきたものがある。
 それは何者であったか。
 警務班長のマットン中佐が先頭にたち、あとにはヨコハマ・ジャックなどの荒くれ男が四、五人つきしたがい、その一行の真中には、半裸体のまま両手に手錠をかけられたわが勇士、杉田二等水兵がひったてられているのだった。
「少将閣下、日本の水兵が、この飛行島に入りこんでいるのを捉えてきました。ヨコハマ・ジャックなどの手柄です」
「なんだ、日本の水兵が入りこんでいたというのか。ふーむ、この男か」
 リット少将は、杉田の日焼した逞しい顔をじろじろと見つめ、
「なぜ君は、飛行島に残っていたのですか」
 通訳の下士官が、少将の言葉を杉田二等水兵に伝えた。
「……」
 杉田はもう観念していた。とらわれの身となっては一言も答えるべき必要はない。
「ほう、手ごわいのう」と少将は不機嫌になって、
「君たちの仲間はいく人いるのかね」
 杉田二等水兵は、相変らず黙っている。
 リット少将は、じろりと杉田の方を見てから、にわかに作笑つくりわらいをし、
「わしは日本にいくども行ったことがある。日本の海軍士官とも親交があるんだ。日英海軍は昔から師弟関係にある。だからわしは、君を侮辱するつもりはない。しかしここはわしの支配する飛行島だ。なにごとも正直にいってもらわねばならん。そうすることが、日英海軍のあいだに横たわっている誤解をなくすることにもなるのだ。ねえ、分かるだろう。――君はなぜ飛行島に来たのかね」
 杉田二等水兵は、むっとした。日中戦争のときも、英国海軍はたびたび眼にあまる邪魔をしたではないか。なにが誤解だ。なにが師弟関係だ。世界大戦のとき英国海軍に力をあわせ、印度その他の英国領土を守ったり、運送船を保護したりして、恩こそ与えてあるが、こっちが恩になったことはないのだ。こんな癪にさわる話など聞きとうもない。その上、侮辱を加えられたり、調べられたりするくらいなら、死んだ方がましだ。こうなっては川上機関大尉を探すことは、まず百中九十九までむずかしい。
 彼は遂に死のうと決心した。帝国軍人は恥を知る。こいつらの慰みものになるくらいなら死んだ方がましだ。
「くそっ、――」
 杉田は隙をうかがい、体をひねって、彼をおさえている無頼漢をその場にふりとばした。そして相手のひるむ隙に、さっと入口から甲板の上へとびだした。
 英人たちはびっくりして、あとを追いかけた。この騒ぎにひきかえして来たスミス中尉も、一しょになって追いかけた。
 杉田二等水兵は、うしろに手錠をはめられたまま、死にものぐるいで甲板を走る。彼は海中にとびこむつもりだ。
 スミス中尉は、たまりかねてか、ピストルを右手にもちなおすと、杉田の背後めがけてねらいをさだめた。
「こら、待て。撃っちゃならん」
 とリット少将が叫んだ。しかし時すでにおそかった。
 だだーん。
 銃声は轟然と、あたりにひびいた。
「あっ、――」
 舷の端へもう一歩というところで、杉田はもんどりうって転んだ。そしてそのまま甲板を越えて、杉田の姿は消えた。
 まっさかさまに海中へ――。
 そうなると手錠をはめられた杉田二等水兵は、泳ぐこともできないで溺死するほかないであろう。死は目前にあった。――
 が、そのとき不思議な運命が、彼の身の上にふってわいた。
 海中へひたむきに墜落してゆく杉田の体が、途中でぴたりと停ったのである。不思議なことが起った。
 だが、それは不思議ではなかった。落ちゆく杉田の体を、むずと抱きとめた者がいるのだ。それは一たい誰であったろう。
 それは外でもない。頭にぐるぐる繃帯をしたペンキ塗の中国人であった。リット少将とハバノフ氏の密談する塔の屋上で、マストにペンキを塗っていたあの怪中国人であった。
 彼はなぜ、命がけの冒険をしてまで杉田二等水兵を抱きとめたのだろう。
 諸君! まことに不思議な怪中国人ではないか!


   軍艦明石


 練習艦隊須磨明石の二艦は、針路を北々東にとって、暗夜の南シナ海を航行してゆく。
 もう夜はかなりふけていて、さっき午後十一時の時鐘が鳴りひびいた。
 非番の水兵たちは、梁につりわたしたハンモックの中に、ぐっすり眠っていた。
 ただ機関だけが、ごとんごとんと絶間なく力強い音をたてている。
 明後日、香港につくまでは、こうして機関は鳴りつづけているだろう。
 が、二番艦明石の艦長室では、加賀大佐が、きちんと机に向かっていられた。
 机上には、十枚ばかりの同じ形の紙片が積みかさねてあった。艦長はその一番上の一枚に見入っているのだった。
「ふーむ、――」
 軽い吐息が、洩れた。
 一たい艦長は、なにを考えているのだろう。
 そのとき入口の扉がこつこつと鳴った。
「おう」
 やがてドアが開いた。
 扉の外に直立不動の姿勢で立っていたのは第三分隊長長谷部大尉だった。
「さっきお電話で、私の願をお聞きいれ下すってありがとうごさいました。そこで早速伺いましたが……入ってもお差支えありませんか」
 と、長谷部大尉はすこし間のわるそうな顔をしている。
 というのは、さっき大尉は、艦長へこんな風に電話をしたのであった。
(艦長、お寝みになっていませんければ、御迷惑でもしばらく私の相手になってくださいませんか)
 すると艦長はおちついた口調で、
(よろしい。いつでもやって来たまえ)
 とこたえられた。
 大尉は大いに楽な気持で艦長のもとをたずねたのであるが、扉を開けてみると、艦長は形を崩しもせず、厳然と事務机に向かっていられるのである。
 大尉は、艦長と一杯のむつもりで、片手に日本酒の一升壜をぶらさげているのであった。
「さあ、こっちへ入りたまえ」
 艦長は、しずかにこたえた。
「はっ、――」
 と大尉は嬉しそうな顔をしたものの、まだ具合がわるいのか、
「ありがとうございますが、私、ちょっと出直してまいります」
 一升壜を置いて出直してこようと思った。
「まあ、いいじゃないか。今夜はばかに遠慮しとるじゃないか。さあ、入れ。久しぶりで気焔をきかせて貰うかな」
 艦長は笑いながら、腰かけから悠然と立つと、机のところを離れて、室の隅にある籐椅子の方へ歩いていった。
「はあ、失礼します」
 長谷部大尉は思いきって、籐椅子の一つに腰をおろして、一升壜を卓子テーブルの上に置いた。
「ほほう、相変らず仲のよい友達を連れているね」
 艦長はにこりとされた。
「ははっ、――」大尉は坊主刈の頭へちょっと手をもっていって、
「失礼でありますが、一杯いかがでありますか」
「うむ、丁度いいところじゃ。では一杯もらおう」
「えっ、それはかたじけないことで――」
 と、長谷部大尉は、素早いモーションで、隠しから二つのコップをつかみ出すと、卓子の上に置いた。そして一升壜をとって、艦長のコップに、なみなみと黄金いろの液体を注いだのであった。
 一たいこの深夜、長谷部大尉はどうした気持で、艦長のところへ一升壜などを持ちこんだのであろうか。


   極秘


「私はさっき自分の部屋で、ちびりちびりやっていたのです」
 と長谷部大尉は、酌をしながらぼつぼつ語りだした。
「ところがふと、例の川上機関大尉の言葉を思いだしたというわけです」
「ふふん、――」
「あいつも、私に劣らず変り者でございますね。川上が失踪するその前夜、やはり一升壜をさげて私のところへやってまいりまして、酒をのみました。そのとき川上がいいますことに、このつぎ日本酒をのんだとき、今夜俺のいった言葉を思い出してくれ――というのです。そこで思い出しましたよ。その日彼が残していった言葉を――」
「ふむ、――」
「その言葉は、今日に至って思いあたりましたが、その日は一向気がつきませんでした。川上はこんなことをいいました。『貴様にもよくわかる無用の長物の飛行島を、なぜ千五百万ポンドの巨費をかけてつくるのだろうか。しかも飛行島を置くなら、なにもあんな南シナ海などに置かず、大西洋の真中とか、大洋州の間にとか、いくらでももっと役に立つところがあるではないか』――といったんです。艦長」
「うむ、なるほど」
 艦長は言葉もすくなく、しずかにコップを唇にもっていった。
 長谷部大尉の方は、これは血走った眼をして、実に真剣な色が見える。
「――そこで私は今夜、そういった川上の腹の中を読みとることが出来たのです。艦長、川上は、重大な決意を固めてあの飛行島に単身忍びこんでいるのに違いありませぬ。艦長。私のこの考えをどう思われますか――」
 そういって長谷部大尉は、艦長のコップに、また酒を満々と注いだ。
「なるほどなあ、――」
「ふだんから仲よしだったからいうのでありませんが、彼奴は実に珍しくえらい男です。そういうことを本当にやってのける男です。しかも寸分の間違もなくやるという恐しい男です。川上は必ず飛行島に忍びこんでいます。そしてわが帝国のために命をあの飛行島で捨てようとしているのです。われわれはそういう彼の壮挙をよそにこのまま日本へ帰ることはできません」
 艦長はこれを聞くと、
「ではどうしようというのか」
 はじめて強い質問をこころみた。
「練習艦隊は万難を排して、もう一度飛行島にかえるのです。そして川上の行方をさがすと共に、いやしくも日本に対する陰謀を発見するなら、そのときは容赦なく飛行島を撃沈してしまう。いまのうちに片づけてしまう方が、いろいろな点から考えてどの位上分別かわかりません。脱艦者の汚名を着せられた川上も、そこではじめて救われるのです。艦長、どうか練習艦隊を飛行島へ即刻ひきかえすことに賛成して下さいませんか」
 と、長谷部大尉はまごころを面にあらわして、加賀大佐を説いた。
 練習艦隊を即刻引きかえす!
 場合によったら、直ちに飛行島を撃沈してしまう!
 なんという大胆な考えだろう。
 実に乱暴にも聞えるが、考えて考えぬいて、国のためによしときまったら、どんな思いきったことでも直ちに実行にうつさないではいられない長谷部大尉の性分としては、至極尤もなことに相違なかった。
 艦長加賀大佐は、つと籐椅子から立った。そして事務机の方へ歩いていったが、机上に重ねられた同じ形の十枚ばかりの紙片を手にとると、引返してきた。
「長谷部大尉。これを読んで見たまえ」
「えっ?」
 大尉には合点がゆかなかった。
 その紙片は十数通の無線電信の受信紙であった。
 大尉は一番上の受信紙の、片仮名文字の電文を口の中で読みくだした。
「ヒコートウノコージハオモイノホカハヤクデキアガルコトガワカッタタブン三シユウカンノノチトオモワレル。ホンジツ二〇インチノタイホウ八モンヲツンデイルコトヲハツケンシタ。カワカミ」
 カワカミ――の四字を読んで、長谷部大尉は思わずあっと叫んだ。


   消えた無電


「飛行島の工事は思いのほか早く出来あがることがわかった。多分三週間ののちと思われる。本日二十インチの大砲八門を積んでいることを発見した。川上」
 受信時間をみると今日の午後十時着となっている。
 なんという驚くべき電文だ。
 長谷部大尉は、紙片を手にしたまま、「うーむ」とうなった。
「そうでしたか。艦長、川上の奴がもうこれ程の役をつとめていたとは、知りませんでした。そうとわかれば、さきほどから申し上げた言葉も、この際ひとまずひっこめます」
 艦長は、大尉の前のコップに、手ずから酒を注いでやりながら、
「川上のことは、いつか君に話したいと思い、わしはすでに司令官のおゆるしを得てあったのだ。司令官もよく諒解りょうかいせられ、明日にでもなったら、頃を見て話をしてやれといわれた。――なあ、長谷部大尉。これは艦隊の主だった者の間にだけ打合せのあったことであるが、実は飛行島の秘密をさぐるため、川上機関大尉に特命を出したのだ。彼は帝国軍人たる者の無上の栄誉だと感涙にむせんで司令官の前を去ったそうだ。川上としてはどんなに君にいいたかったかしれないが、極秘の命令だから、彼は堅く護って、何もいわないで出かけたのだ。長谷部、川上を恨むな」
「ええ、誰が恨みましょう。しかし……」
「しかし――どうした」
「川上の奴は武運のいい男ですな!」
 長谷部大尉は、そういいながら、羨しそうに、太い自分の腕をなでまわした。
「うむ、そうじゃろう。だが君のいうとおりなにごとも運ものじゃ。運ものじゃから、いつまた思いもかけぬ大きな武運が転がりこんでくるかもしれんのだ。わしとても同じ思いじゃ」
 艦長加賀大佐も、また瞳を若々しく輝かせた。
「そうだ、長谷部大尉。もう一つ下の電文も読んでみたまえ」
「はっ、そうでありますか」
 その電文には、どんな通信がのっていたであろうか。
 長谷部大尉は、受信紙をみつめて、呆然としながら、
「いやあ、私もちかごろ焼が廻ったことがわかりました。杉田二等水兵にも、先んじられてしまったんだ」
 と無念そうに唇をかんだ。
 その電文には、
「スギタニスイヒコートウニツク。マモナクヨコハマジヤツクトイウワルモノニツカマツタ。カワカミ」
 とあった。
「艦長。これから川上機関大尉と連絡して、どんなことをおやりになるつもりですか」
 艦長は尤もな質問だという風にうなずいて、
「すべて今後の川上からの通信に待つことにしている。川上は命のつづくかぎり、飛行島の秘密を知らせてよこす筈だ。情況によっては、或いは君が喜びそうな新しい帝国海軍の行動がはじまるかもしれない。それまでは鋭気をやしないながら、飛行島の様子を通じて相手国の出ようをにらんでいなければならぬ。しかしわしの見るところでは、一般に考えられているところとはちがって、目下の事態は刻々悪い方へ動きつつあるように思う」
「ええっ、悪い方へ?」
 長谷部大尉は、思わず短剣の柄を力いっぱいぎゅっと握りしめた。
 南シナ海の波浪は、誰知らぬ間に、刻一刻荒くなってゆきつつあるのだ。
 そのとき入口のドアがこつこつと鳴った。
「おう、入れ」
 すると扉が開いて、思いがけなく副長が入って来た。その手には一枚の受信紙を持って――。
 長谷部大尉は直ちに直立して、挙手の礼をささげた。
「只今これを受信いたしました」
 さしだす紙片を艦長は手にとって、読み下した。
「コンヤハンドレペイジチヨウジユウバクゲキキ五ダイトウチヤクシタ。トウサイバクダンハ――トツゼンキケンセマル、ムセンキカイハツケンセラレタ……」
 艦長の顔色が変った。
「うむ、『今夜ハンドレペイジ超重爆撃機五台到着した。搭載爆弾は――』のところで本文が切れている。それから先は本文ではなくて警報だ。『突然危険迫る。無線機械発見せられた……』とあるから、さては川上もその場で捉まってしまったか。ざ、残念だ」
 艦長室の三人の士官は、無念そうに互の眼と眼を見合わせた。
 大任を帯びて飛行島に渡った川上機関大尉も、遂に使命半ばにして斃れてしまったのであろうか。
 途中で切れた無線電信は、そも如何なる波瀾が飛行島に巻きおこったことをものがたるのであろうか。


   不思議な看護人


 話は、すこし前にもどる。
 杉田二等水兵が自殺を決心して、手錠をはめられたまま飛行島の甲板から海中にとびこもうと走るうち、うしろからスミス中尉がピストルを撃ったことは、みなさん御存じのとおりである。
 杉田二等水兵の体はもんどりうって海中へ墜ちてゆくうち、不意に下の甲板から、その体をうけとめた不思議な中国人のペンキ屋さんがあったことも、よく憶えていられるであろう。
 杉田二等水兵は、あれから一たいどうなったのであろうか。
 なぜその中国人のペンキ工は、命がけの冒険までして、杉田二等水兵の体をうけとめたのであろうか。
 もともとそのペンキ工は、怪しい奴であった。飛行島建設団長のリット少将が起き伏ししている「鋼鉄の宮殿」の塔の上で、いつまでも同じところばかり塗っていた。そしてスミス中尉が持っている秘密電報の文面をそっと読んで、あとは知らぬ顔をしていた。まったく変なペンキ工だった。だがその正体のいよいよわかる時が来た。
 杉田二等水兵は、何分の間か、それとも何十分にもなるか、とにかく相当の時間夢うつつの状態の中をさまようた後、ふと気がついた。
「うーん」
 彼はうなりながら、自分の声にびっくりした。気がつくと、全身の痛みを激しく感じ出した。
 彼の頭の中には、ヨコハマ・ジャックの憎々しい形相や、一癖も二癖もあるようなリット少将のぶくぶくたるんだ顔などが浮かんだ。何くそと思って、立ち上った――つもりであったが、
「しずかに、しずかに」
 と制する低い人の声に眼をあいてみれば、自分は見たこともない薄暗い室の隅に寝ているのであった。
 誰かしらぬが二本の手が、杉田の肩をやわらかく下におさえつけているではないか。
 低い声は、杉田の頭の上で二度三度とくりかえされた。
 彼はいわれるままに静かに手足を伸ばした。
 一たい何人であろう。
「どうもすまんです。いつの間に私はどうしてこんなところに来たのですか。教えてください」
 すると低い声は軽く笑って、
「そんなことは後でいい。また出血をすると困るから、なにも考えないで、もう暫くじっとしていたまえ」
 とやさしくいった。
 杉田はぼんやりした頭の中で、ふとその声音に聞耳をたてた。それはたしかに、どこかで聞きおぼえのある声だった。しかも懐かしい日本語! あのような声で話した人は……?
「だ、誰です、あなたは……」
「しずかにしていなきゃいけないというのに。お前さんの言葉が誰かの耳に入ると、そのときはもうどうにも助りっこないぜ」
「あっ! そういう声は――ああ川上機関大尉だ。か、川上……」
 杉田はわめいた。そして自分の肩をおさえている手をふりはらって、がばと起きあがった。
 と同時に、彼の枕許にうずくまっていたやさしい声の主と、ぱったり顔を合わした。それは外ならぬ怪しい中国人のペンキ工の姿であった。
「おおあなたが」
 杉田はそう叫ぶと、傷の痛みも忘れて、その胸にしっかり抱きついた。
「おお杉田。お前はよくやって来たな」
 まぎれもない川上機関大尉の声だった。
「す、杉田は、う、う、嬉しいです。も、もう死んでも、ほ、本望だっ」
 あとは涙に曇って聞きとれない。
「な、泣くな杉田――。お前が来てくれて、俺も嬉しいぞ」
 中国人のペンキ工に変装した川上機関大尉と半裸の杉田二等水兵とは、薄暗い室の隅にしっかりと抱きあったまま、はりさけそうな胸をおさえてむせび泣いた。


   すわ曝露?


 怪しいペンキ工の謎は解けた。
 密命を帯びたわが川上機関大尉は、巧みに変装して、リット少将の身辺をひそかにうかがっていたのであった。
 彼がいつも片手にぶら下げているペンキを入れた缶の底には、精巧をきわめた短波無線電信機がかくされてあったのである。
 彼は苦心に苦心をして、いろいろなことを探った。そして、たえず暗号無電で、軍艦明石の無電班と連絡をとっていたのであった。
 彼は杉田二等水兵の到着に早くから気がついていた。上官の身の上を案じてひそかに南シナ海を泳ぎわたってきた部下の情を知って、どんなに嬉しく思ったことだろう。が同時にまた苦しくもあったのだ。なぜなら、自分ひとりでさえ隠れるのに骨が折れるのに、日本語しかわからない杉田が来たのでは、とうてい永く秘密にしておけるものではない。これは困ったことになったと思った。果せるかな、それは意外にも早くやって来たのだ。
「おい杉田。もう泣くな。いま俺たちのうしろには、敵の眼が数百となく迫っているのだ。わが帝国のためを思えば泣いているときじゃない。涙を拭って、すぐさま敵と闘わねばならないのだ。――ほら、誰かこっちへやってくる」
「えっ、――」
「黙っていろ。動くな。どんなことが起っても動いちゃならん」
 高い声でしゃべりながら、どやどやとこっちへやってくる人の足音。
「どうしても、この付近だ。わが英国製の方向探知器に狂いはないんだ」
「よし、そんなら部屋を壊してもいいから、徹底的にしらべあげろ」
「こんどは、こっちだこっちだ」
 早口の英語が、すぐ傍まで来た。
 ここは何かの物置らしい。
 隙だらけの入口の板戸をとおして、強い手さげ電灯の光がいたいほど明るくさしこんでくる。
「ここが臭いぞ」
「開けてみろ」
「なんだ、この部屋は――」
 扉がぎーいと開く音がした。
 それにつづいて、数個の眩しい電灯が室内を照らしつけた。
「なあんだ、ここは殺した牛や豚の置場じゃないか」
 奥に寝ていた杉田二等水兵は、ここがそんな場所だとはまだ気がつかない。あたりには累々るいるいと、殺された家畜の首がない体が横たわっているのであった。
 突然だだだーんと、ピストルが鳴った。
 杉田はあっと叫ぼうとした声を、のどの奥にのみこんだ。
(とうとう見つかったか)と思った時、
「誰もいやしないよ。いればいまのピストルの音におどろいて、跳ねだしてくる筈だ」
「さあ、先へ急ごうぜ」
 乱暴な捜索があったものである。ピストルを放って何の手ごたえもないところから、一行は安心してそこを出ていった。
 二人は、ほっと吐息をついた。
 しばらくしてから、川上機関大尉は隅からのっそり立ちあがって、杉田二等水兵の寝ているところへやってきた。
「おい杉田。大丈夫か」
「はっ、私は大丈夫であります。機関大尉はいかがでありますか」
「なあに、どこもやられはしない。ときに杉田。俺は時間が来たから、ちょっと外へ出て、艦隊へ無電をうってくる。俺がかえってくるまでそこにじっと寝ているのだぞ。ここはちょっと普通の人間には踏みこめないところだから、安全な場所だ」
 杉田はすこし心細く感じたが、何事も国家のためだと思い、機関大尉の出てゆく男らしい後姿を見送った。
 すると一旦外に出かけた彼は、なにを思いだしたか、つかつかと室内へ戻ってきた。そして杉田の耳許に口をつけると、
「おい杉田、万一お前が捕らえられるようなことがあったら、そのときは官姓名をはっきり名乗ったがいいぞ。もう向こうにはわかっているのだ。そうすれば殺される心配がない。そういうことになれば俺はきっとお前を救い出しにゆくから、さっきみたいに、自殺しようなどと考えてはいけないぞ。皇国のため、どんな苦しい目にあっても生きていろ。いいか」
 そういうと、川上機関大尉はペンキの入った缶をぶら下げて、外へ出ていってしまった。


   血路


 ペンキ工の機関大尉は、暗がりの中をとことこと歩いていった。
 あたりの様子をうかがいながら、狭い廊下の角をいくつか曲った。そしてやがて辿りついたのは、飛行島のふなばただった。深夜の海面には祖国の夜を思い出されるような月影がきらきらとうつっていた。
 川上機関大尉は、あたりに人気のないのを見すますと、ペンキの缶の底をひらいて、二条の針金をひっぱりだした。その針金の先についている小さい物挟ものばさみを、舷の梁上はりうえに留めると、針金は短波を送るためのアンテナとなった。
 そこで彼は、小さな受話器を耳にかけ、同じく缶の底にとりつけてある電鍵をこつこつ叩いて、軍艦明石の無電班を呼んだ。
 相手は、待っていましたとばかりにすぐ出てきて、暗号化したモールス符号で応答してきた。
 機関大尉は溜めておいた重大な報告を一つ一つ電鍵を握る指先にこめて打ちはじめた。
 その時、頭の上で、ごそりと人の気配がした。
 彼は、はっと驚いて上を見た。梁の上にピストルがきらきらと光って、その口がこっちを向いていた。
「はっはっはっ。日本のスパイ君。君はとうとう秘密のお仕事を始めからすっかり見せてくれたね。さあ手をあげるんだ。こら、なぜあげないのだ。あげないか。撃つぞ」
 だだーん。
 梁の上から、銃声がとどろいた。
 ピストルの弾丸たまは、川上機関大尉の抱えていたペンキの缶にあたった。
缶は、あっという間もなく舷を越えて下にころげ落ちた。
 とたんにひらりと身を飜して、逃げだした。
「待て、スパイ」
 梁上からは、英国士官がとびおりた。そして警笛をぴりぴりと吹いた。
 それに応じて、どやどやと駈けよってくる捜査隊の入りみだれた足音!
「ちぇっ、しまった」
 と機関大尉は舌うちしながら、足音と反対の方へ、狭い通路を走りだした。
「こら、待たんか」
 ぱぱーん、だだーん。
 銃声は背後間近に鳴りひびく。
 ひゅーん、ひゅーんと弾丸は機関大尉の耳もとをかすめるが、運よく当らない。
 が、そのうちに彼は、通路の両方から挟まれてしまった。
「ええい、逃げるだけ逃げてみよう。攻勢防禦だ」
 と人数の少い方の通路を見きわめると、猛然矢のように突入した。
 敵のひるむところを、よしきたとばかり猛進して、相手を投げとばし、敵の体をのり越えて走り続けたが、とうとう袋小路の中にとびこんでしまった。そこから先はみちがない。ただ行当りをさえぎっている塀は、そう高くはない。
「よし来た」
 彼は咄嗟とっさに、つつーっと走って弾みをつけると、機械体操の要領で、えいと叫んで塀にとびついた。
 下は海――かと思ったが、そうではなくて一段だけ狭い甲板であった。暑くるしい夜をそこに涼んでいたらしい一人の苦力クーリーがびっくりしてとびおきた。
 川上機関大尉はえいっと懸声して、塀を向こうにとび越えた。と同時にうわーっという叫が下におちていったかと思うと、やがてどぼーんと大きな水音が遥か海面から聞えてきた。
 そのとき追跡隊がおいついて塀によじのぼった。
「あっ、あそこに! とうとうとびこみやがったんだ」
 呼笛が高く吹かれた。人々は集ってきた。泡だつ波紋を目がけて探照灯が何条も照らした。
 その真中に浮かびでた人間の頭。
 だだだーん、ぱぱぱーんとはげしい銃声が波紋の中の人間に集中された。
 海面はとびこむ弾丸のためにしぶきをあげた。やがて人間の頭は、その下に沈んでしまった。
「あっはっはっ、大骨を折らせやがった」
 追跡隊の人々は、面白そうに笑いあった。
 ああ、川上機関大尉は壮途半ばにして遂に南海の藻屑と消え去ってしまったのであろうか。その謎を包んだまま、波紋はどこまでもどこまでもひろがってゆく。
 だが、波紋が消えてしまうころ、その謎もまたとけるであろう。


   無電は飛ぶ


(突然危険迫る。無線機械発見せられた――)
 という悲壮な秘密無線電信を最後として、わが練習艦隊と川上機関大尉との連絡は、ぷつりと切れてしまった。
 月光ひとり明るい南シナ海の夜であった。軍艦須磨明石の二艦は、この驚きをのせたまま、あいかわらず北へ北へと航進を続けていた。
 飛行島に忍びこんでいた川上機関大尉はどうなったか――憂いの色につつまれた二番艦明石の艦長室では、艦長加賀大佐と副長と、それから川上機関大尉の仲よしである長谷部大尉との三人が、黙りこくって、じっと時計の針のうごきを見つめている。
「副長――」
 と、突然加賀大佐が叫んだ。
「はあ。お呼びになりましたか」
「うむ。――どうじゃ、旗艦からの報告がたいへん遅いではないか」
「だいぶん遅うございますな。ちょっと無電室へ様子を見に行ってまいりましょう」
 そういって副長は、籐椅子から腰をあげると、艦長室を出ていった。
 あとには艦長と長谷部大尉の二人きり、しかし二人とも一語も発しようとはしなかった。
 これより先、川上機関大尉の発した例の悲壮なる尻切無電が入ると、加賀大佐は直ちに旗艦須磨の艦隊司令官大羽中将のもとへ知らせたのであった。
 艦隊司令官からは、「すこし考えることがあるから、暫く待っておれ」と返電があった。それからもう二十分あまりの時間がすぎたのに旗艦からは何にもいってこない。
     ×   ×   ×
 だが艦隊司令官は、いたずらに考えこんでいるのではなかった。
 旗艦の上では幕僚会議が開かれた。そして遂に艦隊司令官の決意となった。
 旗艦須磨の無電室は、その次の瞬間から俄かに活溌になった。
 当直の通信兵は、送受信機の前に前屈みとなって、しきりに電鍵をたたきつづけていた。そして耳にかけた受話器の中から聞えてくる返電を、紙の上にすばやく書きとっては、次々に伝令に手渡していた。
 その受信紙の片隅には、どの一枚にも「連合艦隊発」の五文字が赤鉛筆で走り書されてあった。それでみると、須磨は、多分太平洋のどこかにいる連合艦隊の旗艦武蔵と、通信を交わしているものらしかった。
 一たいなにごとにつき、連合艦隊と打合わす必要があったのであろうか。
 そのうちに、この無電連絡は終った。
 旗艦須磨の通信兵は、電鍵から手を放した。しかし彼の耳に懸っている受信器には、しきりに連合艦隊の旗艦武蔵がホ型十三号潜水艦を呼んでいる呼出符号が聞えていた。
 モールス符号はトン、ツー、トン、トン、ツー……と絶間なく虫のような鳴声をたてていた。相手のホ型十三号はどうしているのか、なかなか出てこない。
 そのうちに、違った音色の無電が、微かな応答信号をうちはじめた。
「ホ潜十三、ホ潜十三、……」
 戦艦武蔵が呼んでいた相手がいよいよ現れたのだった。
 そこで連合艦隊の無電が、さらにスピードを加えてまた鳴りだした。こんどは長文の暗号電信であった。ホ型十三号潜水艦は、いまどこの海面に浮きあがっているのであろうか。双方のアンテナから発する無電は、刻々と熱度を加えていった。まるで美しい音楽のようだ。やがてその交信ははたとと絶えた。
 代って、再び練習艦隊旗艦須磨が呼びだされた。
 通信兵は、再び部署について、送信機の電鍵に手をかけた。
「練習艦隊旗艦須磨はここにあり!」
 すると、すぐさま本文がかぶさってきた。
「連合艦隊は、貴艦の要請によりて、只今ホ型十三号潜水艦に出動を命じたり」
 すわ潜水艦の出動!
 ホ型潜水艦といえば、わが帝国海軍が持つ最優秀の潜水艦だった。連合艦隊は、潜水艦に、そもいかなることを命じたのであろうか。それよりも、練習艦隊司令官大羽中将は何事を連合艦隊宛に頼んだのであろうか。
     ×   ×   ×
 こちらは元の軍艦明石の艦長室である。
 一旦出ていった副長が、電文をかきつけた紙片を手にして、急ぎ帰ってきた。長谷部大尉は、また椅子から立ちあがって、副長に注目した。
「副長、どうした」
 と、艦長加賀大佐は平常に似あわず、せきこんで声をかけた。
「はい、艦長。連合艦隊はわれわれのために潜水艦を出動させました。これがその電文です」
「そうか――どれ」
 加賀大佐は副長の手から紙片をうけとると、その上に忙しく眼を走らせ、うーむとうなった。
「まず、こういうところだろうなあ」
 加賀大佐は通信長を呼出し、ホ型十三号潜水艦との連絡を手落なくとるように命じた。
 ホ型十三号潜水艦は、一たいこれからいかなる行動にうつろうとするのであろうか。


   飛行島の欠陥?


 飛行島の夜は明けはなれた。
 熱帯地方の海は、毎日同じ原色版の絵ハガキを見るような晴天がつづく。今日も朝から、空は紺碧に澄み、海面は油を流したように凪いでぎらぎら輝く。
 飛行島建設団長リット少将は、たいへん早起であった。提督は起きるとすぐ最上甲板の「鋼鉄の宮殿」をすっかりあけはなち、特別に造らせた豪華な専用プールにとびこみ、海豚いるかのように見事に泳ぎまわる。それがすむと、一時間ばかり書類を見て、それからやっと軽い朝食をとるのが習慣になっていた。
「いやあ、お早いですな」
 と声をかけながら、白麻の背広にふとった体を包んだ紳士が、甲板の方から入ってきた。それは外ならぬソ連のハバノフ特使であった。
「やあお早う、ハバノフさん。私は煙草が吸いたくなって、それで朝早く眼が覚めるのですよ。眠っている間は、煙草を吸うわけにゆかないですからねえ」
「いや私は、第一腹がへるので、眼が覚めますわい。どっちも意地のきたない話ですね。あっはっはっ。――ときにちょっとここにお邪魔をしていいですか」
 と、ハバノフ特使は傍の籐椅子を指さした。
「さあどうぞ。いまセイロンの紅茶をいいつけましたから、一しょにやりましょう」
 とリット少将は上機嫌である。
 ハバノフ特使は籐椅子をリット少将の方へひきよせると、
「ねえ、リット少将。――」
 と改った口調で、上眼をつかう。
「おお何か御用件でしたか。それは失礼しました。どうぞおっしゃってください」
「――実は、昨日貴官からお話のあった英ソ両国間の協定のことですが、国の方へ相談してみたのです」
「ほほう、それはそれは。お国ではどういう御意見ですかね」
「それがどうも、申し上げにくいが、ちと冴えない返事でしてね。要点をいいますと、日中戦争以後、英国が日本に対して非常に遠慮をするようになったので、あまり頼みにならぬと不満の色が濃いのです」
「なに、日本に対してわが大英帝国が遠慮ぶかくなったという非難があるのですか。それはそう見えるかもしれません。いや、そう見えるように、わざとつとめているのだといった方がいいでしょう。それも相手を油断させるためなんです。ですが、実は、われ等は極東において絶対的優勢の地位に立とうと、戦備に忙しいのです。わが大英帝国は、東洋殊に中国大陸を植民地にするという方針を一歩も緩めてはいない。これまで中国に数億ポンドの大金を出しているのですよ。そのような大金がどうしてそのまま捨てられましょう」
 とリット少将の言葉は、次第に火のように熱してきた。日本人が聞いたら誰でもびっくりするにちがいない恐しい言葉だ。
「駄目です、駄目です。貴官の国の戦備はまだなっていません。本当にそれをやるつもりなら、なぜもっと極東に兵力をあつめないのです」
 とソ連の密使ハバノフ氏は叫ぶ。
 それを聞くとリット少将は、むっとした顔付にになって、
「ハバノフさんこそ何をいいますか。われ等は十分にそれをやっている。だから昨日も説明したではありませんか。いま建設中のこの飛行島などは、世界のどこにもない秘密の大航空母艦である。しかもそれを南シナ海に造っているというのは、何を目標にしているか、よくわかっているではありませんか」
「いやリット少将。貴官はこの飛行島がたいへん御自慢のようだが、今朝わが国の専門家から来た返事によると、どうもすこぶるインチキものだということですよ」
「なにインチキだ。この飛行島がインチキだというのですか」
 とリット少将は、怒の色をあらわして、椅子からすっくと立ちあがった。
 そのとき可愛らしい中国服の少女が、紅茶器を銀の盆にのせて、部屋に入ってきた。


   狼対熊


「おお梨花、そこへ置いておけばいいよ」
 と、リット少将は額の汗をふきながら、やさしく中国服の少女にいった。梨花は福建省生れの美しい少女で、少将の大のお気に入りの女給仕だ。
「では、ここに――」
 と、梨花は紅茶器の盆を卓子テーブルの上におくと、そのまま客間を出ていった。
「じ、実に怪しからん。この飛行島がインチキとは」
 リット少将の眼がふたたび、三角にとがった。
「私がインチキといったのではない。私の国の専門家がそういったのです」
「なにをインチキというのだ。いいたまえ。私は建設団長として、貴君の説明を要求する」
「では――」とハバノフ氏は大熊のように落着きはらって、
「さしあたり飛行甲板のことですよ」
「飛行甲板がどうしたというんです」
「そう貴官のように怒っては困る。まあ私のいうことをおききなさい。いいですかね。飛行甲板から重爆がとびだすのに、滑走路が短すぎるから、甲板は戦車の無限軌道式になっていて、そいつは飛行機のとびだす方向と逆に動くとかいいましたね」
「そのとおりです」
「いやそれがインチキだというのです。甲板が無限軌道で後方へ動いても、飛行機の翼はそのために前方から空気の圧力を余計に受けるわけではない。だから、とびだしやすくはならないというのです。結局そんなものがあってもなくても同じことだ。インチキだという証明は、これでも十分だというのです。さあどうですか」
「なあんだ、そんなことですか。それは一を知って二を知らぬからのことです。後方に動く無限軌道の甲板は十分役に立ちます。停っている飛行機が、出発スタートを始めたからといって、摩擦やエンジンの性能上すぐ全速力を出せるものではありません。ですから無限軌道の上で全速力を出せるまで準備滑走をやるのです。飛行島の外から見ているとそれまでは飛行機が甲板の同じ出発点の位置でプロペラーを廻しているように見えるでしょう。そして全速力に達したところで、無限軌道をぴたりと停めるのです。すると飛行機は猛烈な勢いでもって飛行島の上を滑走して進みます。そして全甲板を走りきるころにはうまく浮きあがるのです。どうです。これでもインチキですか」
「いや、私がインチキだといったわけではないのです。くれぐれも誤解のないように。私にはよくわかりませんから、またそれをいってやりましょう。専門家がまた何か意見をいってくるかもしれません。私としてはこの飛行島がインチキでないことを祈っています。いや、貴官を怒らしたようで恐縮です」
 と、ハバノフ氏は掌をかえしたように、しきりにリット少将の機嫌をとりだしたものである。
「わかってくだされば、私はいいのです」とリット少将も言葉を和らげ、
「とにかくこの飛行島は世界にはじめて現れたものだから、誰しも性能をうたがいたくなるのは無理ありません。私としては、この飛行島が完成した上で、試運転するところを黙って見てくださいといいたい。その時にこの浮かぶ飛行島がどんな目覚しい働きをするか、まず腰をぬかさないように見物していただきたいと申したい。しかし貴国との共同作戦をきめるのは、試運転の時ではもう遅い。敵の日本艦隊は、かなわないと知っても決してぐずぐずしてはいませんからね。その前に、貴国とわが英国とは手を握って、共同戦線を張らなければ、この戦争は大勝利を得るというわけにはいかないでしょう。もっともわが軍は、単独で日本と戦っても勿論十分勝つ自信はありますがね。しかし貴国もどうせ日本に対して立つのなら、わが国と一しょに立った方がお互に利益ですからね」
 リット少将は、おどしたりすかしたりして、ハバノフ氏を口説きおとすのに大車輪の態だった。老獪ろうかいとは、こういうところをいうのだろう。
 しかしハバノフ氏は、更に役者が一枚上と見えて、嚇されてもすかされても、一向感じないような顔をしていた。リット少将は、心中じりじりとあせってくるばかりであった。
 そこで少将は、急に思い出したという風に、銀盆の上の紅茶器をとりよせ、すこし冷えかかったセイロン茶を注ぐと、ハバノフ氏の前にすすめた。
「セイロン茶ですか。なかなかいい香だ」とハバノフ氏は犬のように鼻をならして、茶碗を口のところへ持っていった。
「お気に入ったら、まだありますよ」
「ええ気に入りましたね。大英帝国は、世界中いたるところ物産にめぐまれた熱帯の領土を持っていますね。まったく羨ましいことです。しかるにわが国は、いつも氷に閉ざされている。せめて一つでもいいから、冬にも凍らない港が欲しいと思う。いかがですな。大英帝国はわがソ連のため、アフリカあたりに植民地をすこし分けてくれませんか」
「あっはっはっ、なにを冗談おっしゃる。冬でも凍らない港なら、東洋にいくらでもあるではありませんか。大連、仁川、函館、横浜、神戸など、悪くありませんよ。なにもかも、貴国の決心一つです」
 と、リット少将は、うまく相手の話をはぐらかした。
「しかし大英帝国は――」
 と、なおもハバノフ氏が突込もうとすると、
「おおそうだ、ハバノフさん。昨夜捕虜にした日本海軍の水兵をあなたに見せましょうか。さあ、これから御案内しますよ」
 と、リット少将は椅子から立ちあがった。
 この巨弾は、少将の思ったとおり、ハバノフ氏の好奇心をたいへんうごかした。
「ああ、昨日貴官の前から逃げだした杉田とかいう日本の水兵が、また捕まったのですか。それは一つ、ぜひ見せていただきたい」
 ハバノフ氏は無礼にも、まるで見世物を見るような口のききかたをした。
 杉田二等水兵といえば、川上機関大尉に助けられて倉庫の中に身をひそめていたはずだった。彼は探し出されてまた捕らえられたらしいが、なぜまたおめおめと敵の手に落ちてしまったものだろうか。
「さあ、私について、こっちへいらっしゃい」
 リット少将はハバノフ氏をうながして、客間から奥に通ずるドアを押して入ってゆく。


   悩ましき捕虜


 杉田二等水兵は、飛行島の最上甲板にある「鋼鉄の宮殿」の一室の豪華な寝台の上に寝かされていた。
 そこはリット少将の居室からへだたることわずか六部屋目の近さにあった。
 彼はすっかり体を清められ、そしてスミス中尉のピストルに撃たれた胸部は、白い繃帯でもって一面にぐるぐる捲きつけられていた。
 枕許には、英人のドクトルが容態をみまもり、そのほか二人の英国生れの金髪の看護婦がつきそっていた。
 またその広い部屋の隅には、やはり白い長上衣を着たもう一人の白人の男がいた。彼にはこの白い長上衣が一向似合っていなかった。それも道理、この白人の男こそは、この飛行島の無頼漢ヨコハマ・ジャックなのだ。ジャックがこんなところに詰めているわけは、読者諸君もすでにお気づきのとおり、日本語しかわからない杉田二等水兵の通訳をするためだった。ジャックは永いこと横浜に暮していて、べらんめえ調の歯切のいい日本語――というよりも東京弁というかハマ言葉というかを上手にしゃべった。
 だがこの新米の通訳先生は、手もちぶさたの態で、ぼんやりと杉田水兵の枕許にある美しい花の活けてある瓶をみたり、そしてまた若い看護婦の顔を穴のあくほどじろじろ見たりしていた。それも道理、彼の用事は一向出てこないのだ。というのは、寝台の上に横たわっている杉田二等水兵が、まるで黙ったきりで、何を話しかけてもうんともすんともいわないからである。
 ジャックは、さっきから怪しい手つきばかりを繰返している。彼は右手をポケットへ持っていっては、そこから何かを引張りだそうとしては、急に気がついたようにはっと手を元へかえすのである。そのポケットの中には、煙草の箱が入っていた。煙草を吸いたくて手がひとりでにポケットにゆくが、この病室では煙草を吸ってはいけないというきついお達しを急に思いだしては手を戻すのであった。
「ああ辛い。とんだ貧乏籤をひいたものだ。あの日本の小猿め、早くくたばっちまえばいいものを。そうすれば俺はこの部屋から出ていっていいことになるからなあ」
 などと小さい声でつぶやいては、ちぇっと舌打ちをする。
 寝台の上では、杉田二等水兵が相変らず黙りこくっている。
 看護婦がスプーンで強壮剤をすくって口のところへ持っていってやると、杉田は切なそうにぎろりと眼玉をうごかしては、仕方がないというような顔でもって口を開ける。そこを見はからって、看護婦はその黄色い液体を杉田の口の中に流しこむ。
 杉田は、眼をとじたまま、それを苦そうにのむ。
「どうも変な日本人ね。このお薬ときたら、とても甘いのにねえ」
「ほんとだわね。日本人たら、甘い時にはあんな風に顔をしかめる習慣かしらと思ったけれど、そんなことないわねえ」
 傷ついた体を敵の手にゆだねていなければならぬ杉田の胸中がわからないのか、看護婦たちは勝手なことばかりしゃべっている。――杉田のとじた二つの瞼の間から、どっと涙が湧いてきて、頬の上をころころと走りだした。
 彼は、はりさけるような思いをじっとこらえた。が、あふれ出る口惜し涙はどうすることも出来なかった。
 彼は、生きて恥ずかしめを受けるより、舌を噛んで死んでしまいたかったのだ。
 しかし彼は死ぬわけにゆかなかった。彼は川上機関大尉から別れ際にいい渡された言葉にそむくことが出来なかった。
(決して死んじゃならぬ。お前が捕まっても、きっと救いにいってやる。死ぬではないぞ)
 杉田は、その命令をかたく守って、我慢しているのだった。その苦しさは、また格別だ。死ぬことの方が、生きるよりはるかに楽なことを、杉田はつくづくと感じた。
 そこへドアがあいて、リット少将がハバノフ氏をしたがえて入ってきた。
 ドクトルをはじめ、室内にいた一同はすっくと立って、うやうやしく敬礼をした。
「どうじゃね。日本の水兵は、つれのことを白状したか」
「いえ、何にも返事をしませぬ。医者には、こういう訊問は得意でありません」
 とドクトルはかぶりをふった。
 すると隅にいたヨコハマ・ジャックがのっそり進み出て、
「この日本の小猿めは、しぶとい奴ですよ。かまうことはありませんよ。素裸すっぱだかにして、皮の鞭で百か二百かひっぱたいてやれば、すぐに白状してしまいますよ」
「そういう乱暴は許されない。そんなことをすれば、私はこの水兵の生命をうけあうわけにはゆかない」
 とドクトルが反対した。
 リット少将は、賛成とも反対ともいわず、寝台の上に歯をくいしばっている杉田二等水兵の顔をじっと見下していた。


   重傷の水兵


「ジャック。水兵杉田に、私が見舞に来たといえ」
 リット少将はおもむろに口を開いた。
「へえい」
 と答えてヨコハマ・ジャックは、憎々しく幅の広い肩をゆすぶって寝台に近づいた。
「こら、杉田水兵。飛行島の団長さまリット閣下がおいでになったぞ。眼をあけて、御挨拶を申しあげるのだ」
 杉田はなにも答えなかった。ただ太い眉がぴくりと動いただけで、とじつづけている瞼をあけようともしない。
「太い奴だ。こら杉田、眼をあけろというのに。――こんなにいってもあけないな。うん、じゃあいつまでもそうしていろ。こうしてやるぞ」
 と手をさしのばして、杉田の顔をつかみかかろうとするのを、ドクトルは横合からさしとめた。
「患者に手をかけてはならぬ。私は主治医だ」
「なにを、――」
「おいジャック。もういい、やめろ」
 と、リット少将はジャックをとめた。
 ドクトルはその方を向いて、
「リット少将。このような乱暴がくりかえされるのでありますと、私はこの患者の生命を保証することはできませぬ」
「いやわかっている。ジャック、お前はすこし手荒いぞ。ちと慎め」
「なにが手荒いものですか。私は昨日、この日本の小猿めに床の上に叩きつけられたものです。そのとき腰骨をいやというほど打ちつけて、しばらくは息もできないほどでした。その仇をとらなくちゃ、ヨコハマ・ジャックさまの――」
「こら黙れ。この上乱暴すると、飛行島の潜水作業の方へ廻すぞ」
 とリット少将がきめつけると、ジャックはたちまち顔色をかえて、
「あっ、そいつばかりは御免です。潜水作業はあっしの性分に合わないんだ。この前十分に懲りましたよ。あんな深いところに推進装置をとりつけるのは――」
「おい、飛行島の秘密をしゃべっちゃならぬ。貴様は何というわからない奴だ」
「ほい、また叱られたか」
 ジャックは両手をポケットにいれて、肩をすくめた。
 その時あわただしく扉をあけて、スミス中尉が入ってきた。
「おおリット少将。至急、御報告することがあります」
「スミス中尉か。何ごとだ」
「今しがた、飛行島の左舷近くに、昨夜海中にとびこんだところを射殺しました日本のスパイ士官らしい死体が浮かんでいるのを発見いたしまして、引揚げてあります。ごらんになりますか」
「なに、あの川上機関大尉の死体が発見されたというのか」
 とリット少将は眼を輝かした。
「そのとおりでございます。それで、いかがいたしましょうか」
「死体が見つからなかったときには、川上の行方をもう一度厳重に探さなければならぬと思って、いまもそれを考えていたのじゃ。万事思う壺で、満足じゃ」
 川上機関大尉の死体が発見されたとは、全く一大事であった。
 英語を知らない杉田二等水兵は、別におどろきもせず寝ていたが、もしそれを知ることが出来ていたら、どんなに歎いたことであろう。
「おい、スミス中尉。その死体はたしかに川上機関大尉にちがいないかね」
 何を考えたか、リット少将が突然思いがけない質問を放った。
「なんとおっしゃいます」
 と中尉は自分の耳をうたがうように、少将の方を注目した。


   涙、涙、涙


「リット少将。昨夜も御報告申し上げましたように、川上機関大尉を中甲板舷側に追いつめました時、彼は苦しまぎれに、塀を越えて海中にとびこんだのです。それを上からさんざん撃ちまくったのです。さっき東側のふなばた近くの海面で発見した死体には、弾丸たまが二十何発も命中していましたし、これに間違いありません」
「そうか。弾丸は捜査隊員のもっていた銃から出たものに相違ないか」
「そうであります。うち一発は、すぐ取出せましたので改めてみましたが、たしかにこっちの機関銃の弾丸でありました」
「じゃ、その死体を見ようじゃないか」
 リット少将は、スミス中尉に案内させて、舷ちかい甲板の隅に寝かしてある死体を見た。それはほとんど裸に近い東洋人であった。たしかに二十何発の命中弾のあとをかぞえることができる。
「念のため、水兵杉田にこれを見せてみろ。彼がどんな顔をするか、それによって、真偽のほどが確かめられるだろう」
 どこまでも考え深いリット少将は、スミス中尉に眼くばせをした。
 杉田水兵は、いきなり背の高い患者運搬車にのせられたので面喰った。二人の看護婦がその手押車について、甲板へと出た。それからエレベーターによって、何階か下に下っていった。
「俺をどうするつもりだ」
 と杉田二等水兵は叫んだ。
 すると、待っていましたとばかりに、ヨコハマ・ジャックが寄ってきて、看護婦のとめるのもきかず、杉田の肩をこづいた。
「さあ、とうとうものをいったな。貴様は勝手な奴だ。だがいい気味だ。いまびっくりするものを見せてやるぞ」
「びっくりするものって何だ!」
「うふん、驚くな、いいか。貴様が杖とも柱とも頼む川上機関大尉の死体だ」
「ええっ、な、な、何だって?」
「あっはっはっ、いよいよ貴様も、木から落ちた猿と同じことになったよ。ざまをみろ」
 ジャックは憎々しげにいい放った。杉田二等水兵ははらわたを断たれるおもいであった。ああ、わが川上機関大尉も遂に悲壮な最期をとげられたか、――車は、観念のまなこをとじた杉田をのせていよいよ現場についた。
 するとリット少将から意をふくめられたジャックが、杉田のそばへよってきて、
「さあ杉田水兵、ここにころがっている死体を見ろ。お前の上官だ。川上機関大尉だ」
 と、杉田の肩をつついた。
 杉田は、寝台の上で、思い悩んだ。会いたい、見たい。いやとびつきたい程の思であるが、上官の亡骸なきがらに、生きて相見あいまみえることは部下として忍びないものがあった。
「おい、杉田、お前は大尉に会いたくないのか?」
 とジャックはあざ笑いながらうながした。
 杉田二等水兵は、遂に心を決したらしく、体を動かした。二人の看護婦は、それをうしろから抱きおこした。
 傍に並ぶリット少将はじめみんなの眼は、杉田の顔の上に吸いつけられたようになっていた。あたりはしーんと水をうったように静まりかえった。
 死体の上にかけられてあった布がさっと取り除かれた。
「さあどうだ」
 と同時に、
「うーむ、――」
 杉田水兵は両眼をかっと開いて、死体の顔をじっと見つめた。リット少将はぐっと唾をのみこんで息をこらした。その次の瞬間、杉田の眼から涙がぽたぽた湧いてきた。彼は、
「ああ川上機関大尉!」
 と、上ずった声で叫ぶと、両手で顔を隠して、おいおいと泣きだした。
「うむ、やっぱり川上だった」
 と、リット少将は、「カワカミ」という名を呼ぶ杉田の声を聞いて、そうつぶやいた。
「どうです、閣下。杉田は、あのように涙を流して泣いています」
 と、中尉は得意そうに相槌をうった。
 杉田は、いつまでも声をあげて泣きつづけていた。
 ああ、われらの川上機関大尉は、武運つたなく、遂に冷たい亡骸となり果ててしまったのであろうか。――
 諸君!
 嬉しいことには、事実は全くの反対であったのだ。杉田二等水兵は、嬉し泣きしているのであった。その死体は、見も知らぬ中国人であったのだ。
「川上機関大尉は、どこかに必ず生きている!」
 そう思うと、嬉し涙が、あとからあとからと湧いて停らない。それをリット少将たちは、悲しみのあまり泣くのだと誤った。
 日本兵は嬉しい時には泣くけれど、悲しい時には一滴の涙をも出さぬように修養しているのを知らなかったのだ。
 ああ川上機関大尉! と叫んだのは、杉田が早くもこの場の空気を感づき、自分が上官の首実検に使われているなと知って、一世一代の大芝居をうったのであった。
 日本の一水兵の作戦は十分効を奏した。そしてリット少将以下の飛行島の幹部は、すっかり騙されてしまった。
(これでいい。川上機関大尉の捜索隊は、これで解散になるだろう)
 と、杉田は泣きながら、上官の武運を祈った。
 飛行島の幹部連は、すっかり安心してしまった。
 それにしても一たい川上機関大尉は、どうしてあの難を免れたのだろう。それはいずれ彼が再び諸君の前に現れるとき明らかとなるであろう。
 南シナ海にようやく風が出て、波浪が高くなってきた。この時、連合艦隊から重大命令をうけた、わが最新潜水艦ホ型十三号は一路飛行島に近づきつつあった。


   哨戒艦現る


 半かけの月は水平線の彼方に落ち、南シナ海は今やまっ黒な闇につつまれている。
 昼間の、あの焼けつくような暑さは、もうどこへやら潮気をふくんだ夜風が、刃物のように冷たい。
 風がつのってきたらしく、波頭が白く光る。それがわが潜水艦ホ型十三号の艦橋に立つ当直下士官の眼にも、はっきりわかった。
 艦は今、鯨のような体を半ば波間に現し、針路を西南西にとって、全速力で航行中だった。へさきを咬む波が、白い歯をむきだしたまま、艦橋にまで躍りあがってくる。
 当直下士官は、すっかり雨合羽に全身をつつみ、胴中を鉄索にしばりつけて、すっくと立っている。
 頭巾の廂からぽたぽたと潮のしずくが垂れる。すると風が下からどっと吹きあげ、霧のようになって顔をうつ。それでも、いささかもひるむ気色なく、墨をながしたような前方の深い闇を、じっとにらんでいる。
 そのうちに風は雨を含んでますますつのり、舳を越えてどどっと崩れかかる波浪はますますたけりくるう。艦体は、前に後に、左に右にとゆれながら、海面を縫って難航を続けた。
 しばらくして、ジジジ……と電話のベルが鳴った。
 下士官は右手をのばして電話機をとりあげた。
「はあ、艦橋当直」
「こっちは艦長だ。どうだ入野いりの一等兵曹、あと三十かいりで飛行島にぶつかる筈だが、西南西にあたって、なにか光は見えぬか」
「はい、なにも見えません。只今艦橋は豪雨と烈風にさらされ、全然遠方の監視ができません」
「そうか。苦しいだろうが、大いに頑張ってくれ。なにか見えたらすぐ知らせよ」
「はっ、かしこまりました」
 それから十分ほど過ぎた。
 雨脚が急に衰え、雲が高くなったようである。
 艦橋に立つ入野一等兵曹は、行手にあたって、ほの明るい光のかたまりを見出した。夜光の羅針儀の蓋をとってみると、その光物は正に西南西の線上にあった。
「おお、あれこそ飛行島にちがいない」
 入野は直ちに電話機をとって、
「艦長へ報告、西南西にあたって、光を放っているものが見えます」
「見えたか。よし、見失わぬように監視をつづけていよ」
「はい、承知いたしました」
 電話が切れると間もなく、艦橋の下の昇降口があいて、そこから艦長の丸顔が現れた。あとには先任将校が続いてのぼってくる。狭い艦橋の上は、芋を洗うようにお互の体がぶつかった。
「おお、あれだな」
 と艦長水原少佐が、入野のところへよってきて、白い手袋をはめた手をあげた。
「そうであります。望遠鏡でみますと、飛行島の甲板上に点っている灯が点々と見えます」
「そうか。まだ気がつかないのか、一向警戒をしている様子が見えないね。しかし、もう向こうの哨戒圏内に入ったとみなければならぬ」
 と、艦長の声が終るか終らないうちに、突然右舷はるかの海面からぴかーりと探照灯が一本、真青の光をあげて流れ出た。
「艦長、哨戒艦のようです」
 と副長が叫んだ。
「うむ、距離はいくら、速力は、針路は――」
「はい。――観測当直、右舷に見ゆる哨戒艦を測れ」
 すると観測当直が、すぐさま測って大声で返事をした。
 そのうちにも探照灯は一本から二本になり三本になり、しきりに海面を照射した。おそろしいものである。わがホ型十三号潜水艦が、風雨の中にこの海面にまぎれこんだのを、たちまち勘づいたのである。
 いくたびか探照灯はわが潜水艦の傍をすりぬけたが、幸いにも発見されなかった。しかしこのままでは早かれ晩かれ、この艦橋や半ば海面にあらわれている艦体が、あの探照灯の眩しい光の中に照らし出されずにはいないであろう。それはもう時間の問題であった。
 それを知ってか知らでか、水雷長はまだ潜航命令を発してはおらぬ。
「艦長、飛行島がしきりに灯火を消していますぞ」
 入野が呶鳴った。
「うむ、分かった。それでは――」と叫ぶなり艦長は副長に耳うちした。
 五秒、十秒、十五秒……。哨戒艦の探照灯は、ようやくこっちの方向を嗅ぎつけたらしく、どれもこれも近くへ集ってきた。
 もしその光のうちに、捕らえられてしまうと、次の瞬間、敵の砲弾はおそろしい唸をあげてわが頭上に落ちてくるものと覚悟しなければならない。
 そのとき艦長は叫んだ。
「艦載機一号、出動用意!」
 突如発せられた命令を、伝令兵は伝声管によって、艦内へ伝えた。


   空襲警報


 艦載機一号の操縦者は、柳下航空兵曹長だった。命令の出たときには、すでに空曹長の用意は全部整っていた。
「柳下空曹長です。一号機の出発用意よろしい」
 すると艦橋の艦長は、わざわざ伝声管にとりついて、重任の柳下航空兵曹長に、こまごまと任務について訓令するところがあった。
「――分かったな」
「はい」
 と空曹長は早口に復誦した。
「よろしい、出発。武運を祈る」
「はっ、では行ってまいります」
 と、空曹長は隣の家へでも、出掛けるような気軽さで、愛機の席についた。
 命令一下、艦橋の下に隠れていたドアが、ぱっと左右に開くと、バネ仕掛のようにカタパルトが顔を出し、その次の瞬間、轟然たる音響もろとも風を切ってぱっと外にとびだした軽快な一台の艦載飛行機! それこそ柳下空曹長の操縦する一号機であった。
 暗澹たる空中に、母艦をとびだした艦載機の爆音が遠ざかって行った。
「柳下、しっかりやれ。頼むぞ」
 誰かが叫んだ。
 艦長以下幕僚たちはいずれも見えない空を仰ぎ、暗の空にとびだしていった勇士の前途に幸多かれと祈った。
 その途端――
 艦橋が、真昼のように輝いた。
 哨戒艦の探照灯が、とうとうわが潜水艦をさぐりあてたのである。
 艦橋に立つ艦長以下の群像は、濃いかげに区切られて、くっきりと照らしだされた。――探照灯は、もう釘づけになって艦橋から放れない。
「うふ。とうとうお眼にとまったか」
 と、艦長はにっこりと微笑ほほえみ、
「よし、では急ぎ潜航用意。総員艦内に下れ!」
 と、号令した。艦は直ちに潜航作業にうつった。
 艦長が一声叫べば、あとは日頃の猛訓練のたまもので、作業は水ぎわだってきびきびとはかどるのであった。
 僅か三十秒後、艦はもうしずしずと波間に沈下しつつあった。
 それから一分の後、艦橋もなにも、すっかり海面から消え去った。あとにはほんのすこしの水泡みなわが浮いているだけ――その水泡もまたたく間に、波浪にのまれて、見えなくなった。
 なんというすばらしい潜水艦であろう。
 闇の中には柳下機の爆音も聞えず、吹きつのる烈風の声、波浪の音のみすごかった。ああわが艦載機の行方はいずこ?
     ×   ×   ×
 こちらは、飛行島であった。
 恐るべきスパイ川上機関大尉は、今は冷たいむくろとなって横たわっているし、もう一人の杉田二等水兵は重傷で、病室に監禁してある。まずこれで連日の心配の種は、すっかりなくなった。今夜は枕を高くしてねむられるわいと、飛行島の建設団長リット少将以下、賓客のハバノフ氏にいたるまで、いずれもいい気持になってぐっすり寝こんでいたところであった。そこへ俄かに空襲警報、寝耳に水とは、まさにこのことであったろう。
 それは飛行島はじまってはじめての空襲警報だった。
 しかし、まさかここまで日本の飛行機はやって来まい。万一来るようなことがあっても、途中には幾段にも防空監視哨をこしらえてあるから、それに見つかって、香港あたりの空軍が渡り合うだろうくらいに考え、防空訓練は実は大して身を入れてやっていなかったのであった。
 だから、さあ怪しい潜水艦隊と渡洋爆撃隊が飛行島へ攻めてきたということが、島内各部へ伝わると、上を下への大騒ぎとなった。灯火管制班が出動して電灯を次から次と消させてゆくが、なかなかうまくゆかない。
 それでも兵員がついているところはあらまし消し終え、大事なところだけは、ほぼ闇の中につつまれた。
 この報告は直ちにリット少将のところへもたらされた。少将はさすがに英海軍の猛将だけに狼狽の色も見せず、昼間と同じくきちんと服装をととのえ、「鋼鉄の宮殿」の階上を占める司令塔から、じっと外の様子を眺めていた。


   無線室の怪


「リット団長閣下、飛行島の主要部は、すっかり灯火管制下にあります」
 と、担任士官が報告をすると、少将はにこりともせず、窓の外を指さし、
「あれが完全管制だとは、なんという情ないことだ」と、マストの上などにまだ消しのこされた灯火を指さした。
「わしは目が見えないことはないぞ。いいから配電盤のところで、電灯線へ流れこむ電流は全部切ってしまえ」
「はっ、だが、それは危険であります。閣下」
 と担任士官は、顔色をかえてリット少将の言葉をさえぎった。
「なんじゃ、危険じゃと? 一たいなにが危険なのじゃ」
 リット少将はけわしくいいかえした。
「つまりその、そうやれば灯火管制の方は完全でありましょうが、要所要所を固めている者達の活動が出来なくなるばかりでなく、悪性の労働者が、暗闇を幸い、どんな悪いことをはじめるかわかりません。私の心配なのは、この点であります」
「ばか奴!」とリット少将は、あらあらしく叱りとばした。
「それが灯火管制の最中に、責任ある者のいうことか。なんでもよい。敵機に、この飛行島の梁一本でも壊されてたまるものか。命令じゃ。電灯線への送電を即時中止せい」
「ははっ、――」
 一言もなかった。担任士官は、すごすごと少将の前を退いた。
 それから数分ののち、電灯線への電流はすべて止められた。ここにはじめて飛行島は、完全に闇の中に包まれてしまった。
 不意うちの送電中止に、飛行島のあちこちでは大まごつきであった。
 臆病な白人の細君たちの中には、暗黒と敵襲との二重の恐しさに悲鳴をあげて泣き叫び、寝床の中にもぐりこむやら、ぶるぶる慄えながらかけまわるやら、大騒がはじまった。
「日本の潜水艦が、すっかり飛行島のまわりをとりまいてしまったってよ」
「それよりも大変なことが起きたのよ。海底牢獄に閉じこめてあった囚人を、誰かが行って解放してしまったそうよ」
「あっ、皆さん、しずかに! 爆音がきこえる。日本の飛行隊がいよいよ攻めてきた。ああどうしよう。あなたあ、――」
 そういう騒の最中に、真暗な無線室の外を、どどどっと靴音をひびかせて通りすぎる一団がある。なにかわめいているが、暴徒だか監視隊だか、さっぱりわからない。その中に、
「無線室はどこだあ」
 と、呶鳴って歩いている者がある。
「無線室はここだが、お前は誰だあ」
 と応じた声があった。と同時にさっと懐中電灯がいきなり照らしつけられた。
 その光の中に現れたのは、あまり背の高くない下士官であった。どうしたのか、制帽を耳のところまで被り、服の上にひっかけている雨合羽は襟を立てていた。
「飛行班のゴルドン兵曹だ。班長からの至急電報を頼みにきた。早くとおしてくれ」
「なんだゴルドンだって? そんな名前の兵曹がいたかなあ」
「うむ」とゴルドンはうなったが、「貴様、俺をからかう気か。よし、そんなら貴様のことを班長に報告してやる」
「ちょっ、気の短い奴だ。別に疑ったわけじゃない。さあ、早くこっちへ入ればいいじゃないか」
 と、番兵は折れて出る外はなかった。
 ゴルドンと名乗る兵曹は、急足で無線室へとびこんだ。
 そのあとを見送った番兵同志の話――
「鼻息のあらい野郎じゃないか」
「うん、失敬千万な奴だ。雨合羽など着こんで、雨なんかちっとも降っていないじゃないか」
 全くそのとおりであった。飛行島付近は、風は強く雲は早かったが、雨はすこしも降っていなかったのである。
「考えてみると、あいつはどうも、変な野郎だぜ」
 といっているところへ、ゴルドン兵曹のはいって行った奥の方から、ぱんぱんぱんと、銃声が聞えた。
「あっ、――」
 と、いいざま電灯をその方へ向けた途端に、ひゅーっと唸を生じてとんできた銃丸が、電灯に命中した。がちゃんという響。と同時に番兵はあっといってその場へひっくりかえった。そこへ奥から駈けてきた何者ともしれぬ人物が、番兵の頭をとびこえて、風のように立ち去ってしまった。
「な、なにごとじゃ」
 と、もう一人の番兵が、暗闇の中でわめいた。
 それに少し遅れて、奥の方からどやどやとびだしてきた手提電灯のいくつ。
「おい、雨合羽を着た男がこっちへ逃げたのだろう」
 番兵は眼をぱちくりさせながらいった。
「ええ、今一人誰か出てゆきました。なに、あれは曲者くせものですか。でも、ゴルドン兵曹だといっていましたよ、飛行班の……」
「ばか、何をいっちょる。ゴルドンなんて兵曹が飛行島のどこにいる。あいつのために危く無線機械をこわされるところだった。いや、こっちが気がつかなければ、その前に俺たちは皆、ぱんぱんぱんとやられちまうところだった」
「すると、今の曲者は、一たい何者だ。あの川上とか杉田とかいう日本軍人はうまく捕まったというじゃないか」
「あのほかに、まだ日本人スパイがはいりこんだのだな」
「そんな筈はないよ。ここで働いている奴は、国籍を厳重に洗ってある筈だ。――それにしても変だね。おお、誰か早くいって、団長閣下へ報告をしてこい」
 突如、怪人物現る。無線室を狙ったゴルドン兵曹とは一たい何者か。
 これぞ余人でない。われ等の川上機関大尉が、ふたたび姿をあらわしたのであった。
 杉田二等水兵が信じた如く、機関大尉は果して生きていたのだ。そうして飛行島の耳ともいうべき、通信連絡の大元である無線室を襲撃したのだ。
 無線室襲撃には失敗したけれども、今や祖国のために何か大仕事を企てつつあることは、疑う余地はない。
 それにしても、死んだ筈の機関大尉が、どうして生きていたのだろう。
 実に不思議だ。不思議だが事実である。
 これは諸君の最も知りたいところであろうが、その前に私は、まず飛行島の各所に起った奇々怪々の事件を紹介しなければならない。


   決死の偵察


「ああ、ひどい目にあわせやがった」
 と、倉庫係の事務員でケリーというのが、暗がりの中を、しきりに自分の頬をさすりながら、仲間の溜り場所へ帰ってきた。それは事務所につづいた休憩室兼娯楽室であった。
「一たいどうしたんだ」
 と、仲間が、ケリーのまわりへよってきて聞く。
「とにかく驚いたぜ。僕だから、こうして元気にかえってきたものの、君達だったら今頃は冷たくなっていたかも知れない」
「勝手な熱をふくのは後からにせい。一たいどんな目にあってきたのだい」
 というわけで、事務員ケリーが顔をしかめながら説明したところによると、こういうことであった。
 先ほど発せられた空襲警報により、ケリーは、倉庫にしまってある火をひきやすい薬品類にもしものことがあってはと思い、勇敢にもひとりで見まわりにでかけたのであった。
 倉庫は一つ一つ錠をはずし、中にはいって危い薬品の上にはズックをかけたり、下の棚にうつしかえたりして、安全なように直していった。ところが第六倉庫の前へ来てみると、外そうと思った錠前がすでにはずれているではないか。いや、錠前は、なにか金鎚みたいなもので叩きつぶされていたではないか。
「変だな、――」
 と思って、ドアに手をかけようとした途端に、扉は内側からさっと開いて、中から出たたくましい手が、ぴしゃりと顔をうった。あっ、なんという乱暴なやつだと、思う間もなかった。
 倉庫の中からとびだした黒い影は、まずケリーの手提電灯を叩き落し、かたい拳で頤を突き上げたのだ。ケリーはそのまま後へひっくりかえり、しばらく気を失っていたのであった。
 あとでようやく気がついて、頤をなでながら起きあがったときには、もはや乱暴者の姿も見えず、倉庫の扉が開きっぱなしになっているばかりだった。
「あいつは、この倉庫でなにをしていたのだろう」
 と、ケリーは痛さをこらえ、手提電灯を持ちなおすと、倉庫の中に入ってみた。
 ところが倉庫の中は別になんの変ったところもない。妙なこともあればあるものだと思った。始終を聞いた仲間の者達は、ケリーの間抜さ加減を笑いながら、
「――しかしケリーよ。なにか盗まれたものがあるにちがいないぜ。いまにきっと貴様は出し入れ帖の上で団長閣下にあやまることになるぜ。ふふふふ」
「何だって――」
 とケリーが頤をおさえながら、その方へつめよると、一座はまたどっと爆笑した。
     ×   ×   ×
 その頃であった。飛行島の「鋼鉄の宮殿」に近いところから、突然ぱっと火が燃えあがった。それが一箇所ではなく、三角形に三箇所も一度に燃えあがったのだ。そのため上甲板は大騒ぎとなった。
 警鐘が乱打される。消火班は、日本の飛行機が焼夷弾を落したのかと勘ちがいして、かけつける。
 ところが近よってみると、そこら一面に、石油がまいてあって、それが炎々と燃えあがっているのであった。
「誰だい、こんなところに油なんかこぼしていったのは」
 と消しにかかった。するとまた別なところに、三箇所、同じように三角形に燃えだしたのであった。
「あれ、変だぞ」
「これじゃ、日本の飛行機に飛行島の所在を知らせるようなものじゃないか」
「ひょっとすると、スパイの仕業かもしれないぞ」
「なに、スパイ?」
 スパイという声に、騒ぎはいよいよ大きくなっていった。
 その最中に、突然、飛行島上から、数条の照空灯が、暗い大空に向け、ぱぱーっと竜のようにのぼっていった。
「あっ、敵機だ」
「どこだ」
「あれあれ、あそこだ」
「おや、なにか黒いものを落したぞ」
 その時、
 だだだーん、だだん、だだだーん。
 突如として鼓膜をつんざくような烈しい砲声が起った。高射砲が飛行機めがけて火蓋を切ったのだ。
 だだだん、がんがんがん。
 あっちからもこっちからも、高射砲は砲弾を撃ちあげた。そのため約千五百メートルから二千メートルのあたりが、まるで両国の大川開きの花火のようだった。
 ところが、その次の瞬間であった。甲板のすぐ真上に、ぱらぱらぱらと弾けるような音がして、眼もくらむようなマグネシウムの大光団が現れた。その光団はしずしずと風にあおられて流れる様子だ。飛行甲板の上は、真昼のように照らし出された。日本の飛行機が、光弾を放ったのだった。
 照空灯は、幾条も幾条も一つところへ集ってきた。二千メートル以上の上空をとんでいる日本機の翼に、照空灯が二重三重四重に釘づけになっている。
「誰かあれを飛行機で追いかける者はいないか」
 と、司令塔の上ではリット少将がせきこんで叫んでいた。が、誰もこれに応ずる者はなかった。無理もない。味方の砲撃の間を縫って、日本機を追いかけるのは、自殺行為と選ぶところがないではないか。
 日本機は、癪にさわるほど悠々と二千メートルの高空をぐるぐるまわっていた。高射砲弾はぱっぱっと花傘をひらいたように、日本機の前後左右に炸裂する。こんどこそは砲弾が命中して、機体はばらばらにとび散ったかと思われる。がしばらくすると煙の横から、日本機は悠々と白い腹をくっきりと現すのであった。
 一方飛行島上の怪しい火事騒ぎは、ともかくもおさまった。高射砲弾の炸裂する数も、なんだかすくなくなってきた。なぜか日本機は、光弾を落したきりで、ほかに一発の爆弾も落さなかったのだ。
 一所ひとところに釘づけされたようになっていた照空灯が、右に左に活溌に首をふりうごかしはじめた。監視中の日本機はどこへ行ったか、急に姿を隠してしまったのである。


   怪しき記号


 日本機の姿が見えなくなってしまうと、飛行島の人々は、ほっと息をついて、おたがいの顔を見合わせた。
「あれはやはり日本の飛行機だったのかなあ」
「もちろん、日本の飛行機でなければ、どこの国の飛行機があんな風に大胆にやってくるものか」
「そうだ、やっぱり日本の飛行機だよ。あのとき、怪しい男が無線室を襲ったり、それから数箇所に火の手があがったりしたではないか。この飛行島に日本のスパイが忍びこんでいて、あの飛行機と何か連絡があったのではないだろうか」
 全くそのとおりであった。無線室を襲って失敗したのも川上機関大尉であったし、最上甲板に油を流して火をつけたのもまた川上機関大尉の仕業だったのだ。
 川上機関大尉は、空襲と聞くより早く、油類倉庫に忍びこみ、石油の入った缶とペンキの缶を持ちだしていたのだ。油を流して火をつけたことは、飛行島の人々をさわがせた。しかし人さわがせのためだけではなかったとは、後になってはじめて分かった。
 それにしても川上機関大尉はあの夜監視隊員に追跡された時、どうして危難をまぬかれたのだろう。そして、どうして、又いつのまに、似てもつかぬ半裸体の中国人と入れ替ったのだろう。
 それは一応不思議に思えるが、実はなんでもないことだったのだ。諸君は彼が監視隊に追いつめられ、やむなく中甲板の高い塀を越して舷に出たとき、そこに寝ていた半裸体の中国人労働者があわてて起きあがったことを覚えているだろう。彼の労働者は暑くるしい夜をそこに寝ころんで涼んでいたのだ。そこへ川上機関大尉が頭の上から降ってきたのでびっくりして、立ちあがったのだ。その拍子に足をふみはずして海中に墜ちていったのが運のつきであった。下の暗い海面にドボーンという水音を聞いた川上機関大尉は、とっさに身をひるがえして、傍に積みあげてある鉄材のかげにかくれたのである。
 とは知らぬ監視隊員は、泡立つ水面の中心に向かって機関銃を乱射した。彼の中国人労働者は哀れにも川上機関大尉の身替となってあえない最期を遂げたのである。
 この機転が、それからどんなに監視隊員の眼をくらましたか、又杉田二等水兵がリット少将の面前で首実検した屍が、誰のものであったかは、最早語るまでもないであろう。
 それにしても一身を国に捧げて正しい道を歩く者には、こうした天の助があることを思わぬわけにはゆかない。
     ×   ×   ×
 大分時は過ぎたがまだ夜は明けない。飛行島の無線室へは、付近航行中の英艦隊より無電が入った。
「――只今、駆逐機六機ヲシテ、怪飛行機ヲ追跡セシメタリ」
 という電文であった。
 リット少将の喜んだことはひととおりでない。
「もう大丈夫だ。そうむざむざとこの飛行島が脅かされてたまるものか」
 と、両手をうしろに組んで、おりに入った狼のように司令塔の中を歩きまわるのであった。
 そのときスミス中尉が少将に近づいて、
「閣下、只今甲板の上に、怪しげなものを発見いたしました」
「なんじゃ、怪しげなるものとは……」
「はっ、それはなんとも実に不可解な記号が、甲板の上いっぱいに書きつけてあるのでございます」
「不可解な記号? 誰がそんなものを書いたのか」
「いいえ、それが誰が書いたとも分からないのでして。――ああ御覧ください、ここからも見えます」
 とスミス中尉は、司令塔の小窓から下を指さした。
「なに、ここから見えるというのか」
 リット少将は驚いて、司令塔から下を見おろした。
「あっ、あれか。なるほど、これは奇怪じゃ」
 リット少将の眼にうつったのは、丁度探照灯で照らしだされた白い飛行甲板の上に、「○○×△」と、なんとも訳の分からない記号が書きつけてある。その記号の大きさといったら、傍へよってみると、多分十メートル平方もあろうか。それが墨くろぐろと書きつけてあるではないか。
「ふーむ」と少将はうなった。
「とにかく不穏な記号と認める。犯人を即刻捕らえろ。そやつの手には、きっとあの黒ペンキがついているにちがいない」
 少将は命令を発した。スミス中尉はかしこまって、監視隊本部へ駈足で出ていった。
 甲板の上の怪記号が、探照灯に照らしだされたり、そしてまたそのまわりに監視隊がぞろぞろ集ってきたりするのを、司令塔にちかい物かげから、意味ありげににやにや笑っている半裸体の東洋人があった。
 それこそ先程からの大活躍を続けていた川上機関大尉であった。もちろんあの怪記号も、彼がやった仕事であった。右手には黒ペンキがまだそのままにべっとりとついている。その黒ペンキに汚れた手が、今おたずねの目印になっていることを、彼は知っているのであろうか。
 それにしても、彼はなぜこんな冒険をして訳の分からない丸や三角を甲板の上に書きつけたのであろうか。
「おお梨花、――」
 突然彼の眼の前を、ちょこちょこと足早にとおりすぎる可憐な中国少女を認めて、大尉は声をかけた。梨花は思わず、はっとすくんで美しい眉をよせ、
「え、どなたですの」
「梨花よ、僕だ」
「おおあなたは……」
「これ、しずかに。どうだね、杉田の容態は」
 少女は、このとき急に悲しげに眼を伏せて、
「どうもよくありませんのよ。だってなかなか食事をおとりにならないし、それにいつもあなたのことばかり気にして考えこんでいらっしゃるんですもの」
 川上機関大尉は、暗然と涙をのんだ。
「しかしあなたさまが御健在と知ったら、杉田さんはどんなに力がつくかしれませんわ。杉田さんに知らせてあげてはいけないのですか」
「うむ、――」と川上機関大尉は、腕をこまぬいて考えこんだが、ふと何か思いついたという風に、そっと梨花に耳うちをした。
「なあ、よいか。うまくたのむぞ」
 梨花はこのときはじめてにっこり笑った。そして元来た方へ急足いそぎあしで引返していった。


   迫り来る敵機


 大胆にも飛行島の夜間偵察をおえた柳下航空兵曹長は、艦載機一号を操縦して暗の中を東へ東へとびつつあった。たよりになるのは、夜光の羅針儀と高度計と距離計とだけである。東へすすめば、本艦がひそかに待ちうけている海面へ出られるはずだった。しかしこの暗い、だだっぴろい海面で、果して本艦にうまくひろいあげられるであろうか。
 だが柳下空曹長は、無類とびきり強い心の持主だった。過ぐる日中戦争で、七機の敵飛行機を撃墜している。
 彼が敵機を見つけて一度これを撃墜うちおとそうと決心したら、どんなことがあっても撃墜さずにはおかない。他の敵機が横合からとび出してこようが、高射砲や高射機関銃陣地に近づこうが、また地上とすれすれの低空飛行になろうが、どこまでも追って追って追いまくる。彼は敵の息の根をとめるまでは、あくまで追跡の手をゆるめないのである。
 そういうねばり強い男であったから、前方が暗につつまれて見えずとも、また海面がいかに広くとも、一向平気でとびつづけるのであった。
 それはともかく、彼はまだ、英国艦隊が放った駆逐機六機が自分を追跡中であることは知らなかった。
 英国艦隊は、すでに聴音機でもって柳下機の進む方向や高さをちゃんとしらべて、出動の駆逐機隊に知らせてあったのだ。
 そのころ、わがホ型十三号潜水艦は、風雨はやや治りかけたが、まだ意地わるく荒れ狂う波浪にもまれながら、じっと海面に浮かんでいた。艦橋には四五人の人影がうごめいている。
「まだ柳下機の消息はないか」
 と、頤紐をしっかりかけた水原艦長が、心配そうに先任将校をふりかえった。
「はあ、まだ本艦の聴音機には感じないようです」
「うむ、そうか」
 あとは誰も黙って、何も見えない夜空をにらむばかりであった。
 それから五分ばかりたって、艦橋当直の入野一等兵曹の声、
「副長。只今聴音機に飛行機の爆音が入りました」
「なに、入ったか」副長は水原少佐の方を向いて、
「艦長、聴音機が爆音をつかまえました」
「そうか。それはよかった。結果はどんな工合か」
 と、艦長は聴音手の傍へ歩をうつす。
 すると聴音手は、なぜか息をふうふう切っては、丙号聴音機をやけにぐるぐる廻しているのであった。
「おいはざま。どうした」
 と、艦長は、つと聴音手にすりよった。
「あ、艦長」
 と間一等水兵はちょっと口ごもったが、次にとびだしてきたのは意外な報告!
「艦長。爆音が二方面から聞えます。西北西から聞えますのは弱く、東南から聞えますのは相当強くあります」
「なに、二方面から――」
 この奇妙な報告に、艦橋につめていた乗組員はぎょっとした。
 艦長はじっとうなずき、
「わかった。弱い爆音の方は柳下機であろう。もう一つの東南から来るのは油断がならんぞ。機数はわからんか」
「すくなくとも四機、あるいはそれ以上ではないかと思われます」
 訓練された兵員は、それほど能力のない器械を時にその能力以上に使いこなす。事実、間聴音手の判断は、ちゃんと命中していたのである。それこそ柳下機に迫りくる英国駆逐機六機の爆音であった。
「距離は見当がつかんだろうな」
「はっ、不明であります」
 柳下機が早くゴールに入るか、それとも英国駆逐機隊がそれより早くわが潜水艦の頭上にあらわれるか。
 いずれにもせよ、柳下機の着水して無事艦内に収容せられることは、非常にむずかしいこととなった。


   空爆下の着艦


 黒一色の夜空を見あげ、しばし考えこんでいた艦長水原少佐は、このとき重大なる決心をしたものとみえ、右手を伸ばすと、はっしと艦橋をうった。
「発火信号、用意。赤星三点!」
 ああなんという思い切った命令であろう。
 敵の駆逐機隊は、頭上に迫りつつあるのだ。だからいま発火信号をすることは、柳下機に本艦のありかを知らせることにはなるが、同時に相手に、日本の潜水艦がここにおりますぞと、知らせるようなものである。そんなことをすれば、ホ型十三号自身、駆逐機隊から爆弾を落されることは明らかではないか。
 しかも水原艦長は、決然として発火信号の用意を命じたのである。
 やがて奥の方から、信号兵の声で、
「発火信号、赤星三点、用意よろし」
 と、はっきり返事があった。
「うむ。――発射!」
 どーん、ぱぱぱっと、赤星三点! きらきら光りながら、風に流れてゆく。
 艦長以下、この発火信号がもたらす効果いかにと、石像のように艦橋に突立っている。
「聴音班報告。柳下機は近づきました」
「うむ」
 と艦長は、うなる。
 伝声管が鳴って、当直入野一等兵曹がかけよる。
「艦長、無電班報告。英海軍駆逐機隊の無電交信を傍受せり。方向は、東南東、距離不明なれども、極めて接近せるものと認む」
 発信符号をしらべてあるから、無電の主は何者だと、すぐに分かるのだ。
 これを聞いて水原少佐は、唇をかんだ。
 しかしはじめの決意はすこしも変らなかった。
「艦長。監視班報告。左舷十度、高度五百メートルに艦載機の前部灯が見えます」
 おお柳下機だ。いよいよ戻ってきたのだ。
「信号灯点火、本艦の位置を示せ」
 号令とともに、艦首と艦尾に、青灯と赤灯とがついた。
「艦載機帰艦用意――探照灯、左舷着水海面を照らせ」
 艦内は号令を伝える声と、作業にかけまわる水兵たちの靴音やかけ声で、火事場のような騒であった。
 前檣からは、青白い探照灯がさっと波立つ海面を照らしつけた。
 もうこうなっては何もかもむきだしだ。英国機はもう頭上に来ているかも知れない。が、今はそんなことを心配している場合ではない。
 艦長水原少佐は厳然とかまえている。いざという時にびくともしない沈勇ぶりは、さすがにたのもしい限りだ。
 爆音は、もうそこへ近づいた。
 ばしゃーっという水音に続いて、どどどどどど。
 探照灯に照らし出された海面へ叩きつけるようなフロートの響。
 おおまぎれもなく柳下機だ。
 機は水面を一二度弾んでから、プロペラーをぶりぶりぶりと廻転させつつ、たくみに本艦に接近してくる。
 飛行班員は総員波にあらわれている甲板上で大活動を始めた。起重機の腕はしずかに横に伸びてゆく。その上によじのぼって繋留索を操っている水兵がある。いずれも人間業とも思えない敏捷さだ。
 海面を滑って来た柳下機が、起重機の腕の下をくぐろうとした時、繋留索はたくみに飛行機をくいとめた。
 水上機は波間より浮きあがった。
 飛行帽に飛行服の柳下空曹長の姿が見える。
 起重機はぐーっと動きだした。
 艦橋の上では艦長以下が固唾をのんでこの繋留作業の模様をみつめている。
 このとき艦橋当直下士官が叫んだ。
「艦長、聴音班報告です」
「おう、――」
「敵機襲来。その数六機。いずれも本艦頭上にあり。おわり」
「本艦頭上か。よし」
 次は急降下爆撃とおいでなさるか。
「作業、急げ!」
 甲板上では、飛行班の指揮者が呶鳴っている。
 と、その時左舷の方にあたって、眼もくらむような大閃光と同時に艦橋も檣も火の海!
 だだだーん、がががーん。
 ひゅうひゅうひゅう。ざざざざっ。
 天も海もひっくりかえるような大音響だ。
「空爆だ!」
「作業、急げ!」
「総員、波に気をつけ!」
 大きなうねりが、艦尾から滝のように襲いかかってきた。
 艦橋もマストも起重機も、そして艦載機も、その激浪にのまれてしまったかと思われた。二千トンの潜水艦が、木の葉のようにゆれる。
「作業、急げ!」
 この騒ぎの中に落ちついた号令がたのもしく聞えた。
 水原少佐は全身ずぶぬれになったことも知らぬ気に繋留作業をみつめている。
 いま爆弾を落した敵機群がどこにいるのか、知らぬといった顔であった。
 がらがらがら、がらがらがらと、鎖は甲板を走る。号笛パイプがぴいぴいと鳴る。
「よし、うまくいった。そこで一、二、三」
 ついに艦載機はうまく格納庫に入った。
 鉄扉は左右から固くとじられた。
 たたたたたっと、作業をおえて甲板を走ってかえる飛行班の兵員たち。
 天佑であったか、爆撃下の難作業は見事に成功したのだった。
 艦長は、はじめてにこりと笑って、爆音しきりにきこえる暗空を見上げた。そして、「急ぎ潜航用意、総員艦内に下れ!」
 と号令した。
 まことに水ぎわ立った引揚であった。
 甲板からも、艦橋からも、人影が消えた。艦はすでに波間にぐんぐん沈下しつつある。
 嚇かしのように、こんどは艦首はるか向こうに爆弾が落ちて、はげしい閃光と、見上げるように背の高い水柱と、硝煙と大音響と波浪が起きたけれど、わが潜水艦はまるでそれに気がつかないかのように、黒鯨のようなその大きな艦体をしずかにしずかに波間に没しさったのであった。


   壊れた窓硝子


 飛行島の鋼鉄宮殿の中。
 そこは重傷の杉田二等水兵がベッドに横たわっている病室であったが、入口のドアを背に、可憐な梨花がしくしく泣いている。
「梨花。こんなたいへんなことをしでかして、お前どう詫びますか」
 と、かんかんになって怒っているのは、白人の看護婦だった。見れば、病室の大きな窓硝子まどガラスが二枚も、めちゃめちゃに壊れている。
 床の上には、雑巾棒がながながと横たわっている。
 白人看護婦に叱りつけられて、梨花は声をあげて泣きだした。
 杉田二等水兵はベッドに寝たまま、枕から頭をもたげ、
「おいおい、いい加減にして喧嘩はやめにしろ。――といったって、俺の日本語は一向相手に通じやしない。どうもこいつは弱った」
 と、また頭を枕の上にどしんとおいて、眼をつむった。
「この硝子は高いんですよ。お前なんかが一年働いたって、二年働いたって、買えるような硝子じゃなくってよ」
 と、白人の看護婦は、にくにくしげに梨花をにらみつけた。どうやら、まだまだ小言が足りないといった様子だ。
「あ、そうだ」
 杉田二等水兵はまた枕から頭をもたげた。そして両手を出して、手真似をはじめた。
 はじめ白人看護婦を指して右の人さし指を一本たて、こんどは梨花を指して左の人さし指を一本立てた。そしてそれを向かいあわせにもってきて、ぴょこぴょこさげ、両方の指がしきりにお辞儀をしているような型をやって見せた。
 梨花は、顔をあげて、杉田二等水兵の指芝居をながめている。白人看護婦の方は、腕ぐみをしたまま、ちらと見て、
(わかっているよ、わかっているよ)
 と、頤をしゃくってみせた。
 杉田二等水兵は、なお仲直りをさせようとして、自分の両手をがっちり握りあわせて、しきりに上下にふってみせた。
「梨花、さっきお前がたのみにいった硝子屋は、まだ来ないじゃないか」
 そういった白人看護婦の話から察すると、梨花はもうかなり前にこの窓硝子を破ったものらしかった。硝子屋に至急壊れた窓硝子を入れかえるように命じてあるものらしい。
「じゃ。もう一度、さいそくしてまいりましょうか」
「そうおし。早くなおしておいてくれなければ、あたしがドクトルに叱られちまうじゃないの」
 梨花が、かしこまって、扉から出ようとした時、この扉の外からノックの音があった。
 白人看護婦は、はっと胸をおさえてドアの方を向いた。
 と扉があいて入ってきたのは、大きな硝子板を抱えた中国人の硝子屋だった。
「まあびっくりした。硝子屋かい。ずいぶん前にたのんだのに、来るのが遅いねえ」
「へえへえどうも相すみません。すぐに入れかえますよ、美しいお嬢さま」
 美しいお嬢さまと呼ばれて、看護婦はまあ――とうれしそうに眼を天井につりあげる。
 とたんに、がしゃんと大きな音。
「きゃっ、――」
 中国人の硝子屋が、硝子板のさきでもって、看護婦のそばにあった大きな花活はないけを床の上につき落して壊してしまった。水がざあっと看護婦の白い制服にひっかかって、たいへんなことになった。
「あっ、あっ、あっ、これこのとおり、私、いくらでも弁償します。お嬢さん、ゆるしてください」
 中国人の硝子屋はしきりとあやまる。
 看護婦は、あまりのことに呆れて声もでないという風であったが、やがてつかつかと中国人のそばに寄ると見るまに、平手で彼の頬をぴしゃりとひっぱたいて、すたすたと部屋を出ていってしまった。
 中国人の硝子屋は、怒るか泣くかするかとおもいのほか、にやと笑った。意外、流暢な日本語で、
「うふふふ、俺の頬っぺたをうったんじゃ、手の方がいたかったろう」
 といった。ベッドの上の杉田二等水兵は、あっといったきり眼を皿のようにして怪中国人の顔をみつめたのも尤もであった。
 この怪しい硝子屋の正体は、そもなに者であろう――いうまでもなく、さきに梨花としめし合わせておいたわれ等の勇士川上機関大尉の巧みな変装であったのだ。
「おお、あなたは。――」
 とベッドの上におきあがろうとする感激の杉田二等水兵!
 川上機関大尉は、それを制して、硝子板をそこへおくと、いそいで杉田の枕辺にかけよった。
 梨花はけなげにも、扉の外に立って、見張にあたる。窓硝子は、彼女があやまって壊したのではなく、これぞ川上機関大尉のいいつけによってわざと壊したのであった。


   再会


「ああ上官!」
 と杉田は胸がせまってあとはいえない。
 川上機関大尉は部下の手をぐっと握って、
「杉田、よく辛抱していたな。それでこそ、真の日本男児だ。銃剣をとって、敵陣地におどりこむばかりが勇士ではない。報国の大事業のため、しのぶべからざる恥をしのび、苦痛にこらえているお前も、また立派な勇士だ。しかし梨花にきけば、お前はこのごろ食事もあまりとらぬということじゃないか。そんなことをして体を弱らせておいては、いざという時に思いきった働きができないではないか」
 川上は部下を励ましたり叱ったりした。これにはさすがの杉田二等水兵も一言もない。
「川上機関大尉。私が悪うございました。これからは体を大切にいたします。そしてどんなことがあっても望を捨てず、ご奉公の折の来るのを待ちます。申しわけありませぬ」
 病床から、杉田は川上機関大尉の手をおしいただいた。
「うむ、よくいった。ここは敵地だ。焦るな。体力をやしなえ。そして機会がいたったときは、俺と一しょに死んでくれ」
「はい、――」
「杉田二等水兵。もう長話はできぬが、この飛行島もいよいよ近く動きだすぞ」
「えっ、飛行島がうごきだしますか」
「そうだ。試運転をはじめるようだ。貴様もよく気をくばっておれ、いよいよ手を借りるときは、梨花にたのんでお前に伝えるからな」
「はい、よく分かりました」
 このとき梨花が、扉をことことと叩いた。誰か来るとの知らせである。
 川上機関大尉は、もう一度病床の杉田の手を握りしめ、
「さあ、誰か来た。気づかれるな。俺の硝子入替えの腕前をそこで見物しとれ」
「上官は硝子の入替えにも御堪能でありますか。私はおどろきました」
「うふ、――」
 川上機関大尉は、杉田のそばをはなれるとまた元の中国人の硝子屋にかえって、ぬからぬ顔で壊れた窓硝子のパテをはがしにかかった。
 扉をあけて入ってきたのは、さきの看護婦とリット少将の二人だった。
「なんだマリー。こればっかりの窓硝子なんか何でもないじゃないか、どんどん入替えさせるがいい。しかし硝子は丈夫な硬質硝子でないと、本艦が二十インチの主砲をどんと一発放った時は、ばらばらに粉砕してしまうからな」
 川上機関大尉の眼がきらりと光った。
 二十インチの主砲!
 リット少将がつい不用意の言葉をもらしたのだ。杉田は英語がわからないし、硝子屋は中国人で、大したことはないと思っていたのかも知れない。
 川上機関大尉は、どこで修業してきたのか、ものなれた手つきで、どんどん窓硝子の取替え作業をすすめていった。
     ×   ×   ×
 こっちは、危いところで英国駆逐機隊の爆弾を避けることができた潜水艦ホ型十三号の艦内であった。
 艦は巧みなる潜航をつづけ、北東へずんずん脱出してゆくうち、いつしか夜はほのぼのと明け放れた。
 柳下航空兵曹長は、目ざめるとともに、昨夜の死の偵察のときに、空中から飛行島を撮影した沢山な写真が、どんな風にとれているか気になってたまらなかった。
 そこで彼は、服装をととのえると、すたすたと写真室の方へ歩いていった。
「おう、昨夜の写真はできているか」
 と、空曹長が外から声をかけると、中からは、仲よしの西條兵曹長の声で、
「おう、今、できた。しずかに入ってこい」
「なに、もうできとるか。いやに勿体ぶるな。それならなにをおいても第一番に俺様に見せなきゃいかんじゃないか」
 とふざけながら室内へ威勢よくとびこんだが、足を踏みいれること僅か一二歩で(しまった!)と思った。同時に、はっと挙手の敬礼をした。――
 無理もない。室内には、すでに艦長水原少佐以下の幹部士官が集っていて、いきをのむようにして、つぎはぎだらけの卓子テーブルかけよりも大きい空中撮影写真に見入っているところであった。
 柳下空曹長は、うらめしそうに西條の方を見れば、西條の眼は、「それみたことか。だから『しずかに入ってこい!』といったではないか」
 といたずらそうに笑っている。
 艦長はほほえみながら、柳下の方を向いて、
「おお、どうだ。元気は回復したか」と思いやりのある言葉をかけ、それから柳下のとってきた空中撮影写真を指さしながら、
「これを見よ。お前の奮闘の甲斐あって、この写真に川上機関大尉の生死に関する重大な手がかりが現れておる」
「はっ」
「肉眼では、煙幕その他にさえぎられて見えなかったのであろうが、写真にはちゃんと現れているのだ。これだ、甲板の上に黒々と書かれているこの記号だ。『○○×△』――見えるだろう」
「はあ、見えます。不思議ですなあ。昨夜はどういうものか、みとめることができませんでしたが」
「うむ。それはさっきいったとおりだ。この記号こそは、通信機のないときの制式組合暗号だ。で川上機関大尉は生きているぞ。しかもこの記号の意味は、すこぶる重大だ。それを解読してみると、『八日夜、試運転ヲスル』となる。飛行島はいよいよ仮面をはいで、大航空母艦として洋上を航進するのだ。われわれは、どんな困難をしのんでも、その試運転を監視せねばならない。帝国海軍にとっての一大脅威だ!」
 八日の夜といえば、あますところもう三昼夜しかない。三昼夜後には、この恐るべき洋上の怪物が波浪を蹴ってうごきだすところが見られるのだ。その壮絶なる光景をおもうて、一同は、思わず武者ぶるいをした。
 水原少佐は、無電班に命じて、この写真を即刻連合艦隊旗艦へ電送するよう命じた。
 南シナ海の空気は、次第に重くるしさを加えた。


   進退きわまる!


 杉田二等水兵の病室では、中国人の硝子屋に変装している川上機関大尉が、器用な手つきで窓硝子の入替えをつづけている。
 室内では、リット少将が、看護婦マリーの怒ったりわめいたりするのをしきりになだめている。
 梨花はドアのそとに小さくなっている。
 杉田二等水兵は、上官の正体が見破られはしないかと、ベッドの中ではらはらしている。しかし川上機関大尉はおちつきはらって、窓枠に硝子板をはめて、パテをつめている。
 そこへ駈けこんできたのが、スミス中尉であった。スミス中尉が駈けこんでくる時には、きっと一大事が起っているものと考えてよい。リット少将は、またかというような顔をして、看護婦の肩から手をはなした。
「閣下、一大事でございます」
「どうもそうらしいね。労働者がさわぎだしたとでもいうのか」
「いえ。そんなことではありません、香港経由の東京電報です。これをごらんください」
 と、スミス中尉はリット少将の前に、数枚の紙片をさしだした。
 窓枠にのぼっている川上機関大尉の眼がぎょろりとうごく。
「うーむ、――」
 とリット少将は紙片を見つめたまま、ひくいうめきに似た驚きの声をあげた。
「横須賀軍港付近において英国水兵殺害さる。加害者は日本少年。――ふーむ、なんという野蛮な国だろう」
 と、少将は自分の国のずるさや野蛮さは棚にあげて、つぶやいた。
 次の一枚の電文には、その事件がくわしくしるされていた。
 それによると、横浜港に入港していた英国巡洋艦ピラミッド号の一水兵が、横須賀軍港近くの小高い丘で、桜井元夫という中学生に刺し殺されたというのであった。
 その少年の告白によれば――
 水兵が要塞地帯の写真をとっていたので、注意すると、水兵は、はじめぎょっとした様子であったが、あたりに人通りのないのを見すますと、ナイフを揮って襲いかかって来た。そこで少年は必死に逃げたが、遂に崖のところに追いつめられて絶体絶命となったので、已むなく習い覚えた柔道の手でナイフを奪いとりざま、相手をつきとばした。その時運悪くナイフで急所をついた。――というのであった。
 が、理由はともかく、光栄ある英国海軍の水兵が、日本人の手によって殺害されたということは、由々しき一大事だというのであった。
 日英関係のけわしい折柄、英国が、これを国交上の大問題としてとりあげたのは、尤もなことであった。
 今からちょうど百年前、英国は中国を相手に阿片あへん戦争をおこしたが、この時たった一人の英人宣教師が殺されたのを口実として、あの香港を奪いとって今日におよんでいるのである。英領埃及エジプトにおいてしかり、英領印度においてしかり、英領アフリカ植民地においてもまた同様であった。英国のこれまで他国を奪いとるときに用いた手段は、いつもこれであった。
 リット少将は、電文をよみながら、奇異な叫声をあげたが、やがて、うす気味悪い笑を口のあたりに浮かべると、
「ふーん、いよいよ面白くなって来たぞ。この分では、意外に早く、飛行島の威力をしめす時が来るかも知れぬ」
 つぶやくようにいうと、東京電報をスミス中尉にかえし、ベッドに横たわる杉田二等水兵の方をぐっとにらみつけた。
 その時川上機関大尉は、すっかり窓硝子の入替えをおわって、下におりた。そしてなにくわぬ顔をして、リット少将とスミス中尉の間をすりぬけ、いまや扉に手をかけようとした時、スミス中尉は腕を伸ばして、
「あ、待て!」
 と大喝一声、川上機関大尉の腕をねじりあげた。
「あ痛、たたた、――」
 と、川上は顔を伏せてわざと痛そうに悲鳴をあげると、スミス中尉は威たけ高になって、
「貴様だな、昨夜飛行甲板の上いっぱいに、ペンキでいたずら書をやったのは」
「そんなことを――」
「黙れ。貴様の手首にくっついている黒ペンキが、なにもかも白状しているぞ。なぜあんなことをやった。これ、こっちへ顔を見せろ」
 といったが、その時スミス中尉の心臓はどきっととまりそうになった。
「あっ、貴様はこの前の怪中国人!」
 中尉は、リット少将に眼くばせすると同時に、非常呼集の笛をひょうひょうと吹いた。
 それに応じて、廊下にどやどやと入りみだれた靴音が近づいてきた。警備隊員が銃をもって駈けつける音だ。
 いまはこれまでと、川上機関大尉は観念した。この敵をなぐり殺すことなどは、さしてむつかしいことではないが、自分にはもうすこし果さなければならぬ重大任務がある。ここは一刻も早く逃げることだ。
 だが警備隊員はすでに入口にせまっている。ほかに出口はない。リット少将もスミス中尉もピストルを持っているだろう。とすると遂に袋の鼠となりはてたのか。
(捨身だ!)
 とっさに肚をきめた川上機関大尉は、
「えい!」
 と叫んで身をしずめた。
「うーむ」
 スミス中尉は脾腹をおさえ、その場に倒れた。川上磯関大尉得意の当身あてみであった。
 リット少将はさすがに武将だ、いちはやくベッドのうしろに隠れて、ピストルを乱射する。入口からは、遂にわーっと警備隊員が銃剣をきらめかしてとびこんできた。
「杉田、起きあがっちゃいかんぞ!」
 と、川上大尉は大声で叫んで室の真中に仁王立ちとなった。彼の手には、窓硝子を挟んできた二枚の板片が握られているばかりで、他に弾丸や銃剣をふせぐべき道具はなに一つもちあわしていない。
 ああわれらの大勇士川上機関大尉の運命やいかに?


   離れ業


 われ等の大勇士川上機関大尉が危い!
 重大命令をうけて秘密の飛行島に忍びこみ、幾度か危い目に遭いながらも、今までは武運にめぐまれて、どうにかきりぬけて来た彼――その彼にも最後の日はついに来たのか。思えば無念ではないか。
 あと二日で、飛行島は、試運転をやろうというのである。そして、どこかに隠されてある二十インチ砲が、大空にむっくりと恐しい姿を現すところが見られるというのである。
 わが日東帝国のため、いよいよこれから本当の腕をふるって貰わねばならぬという時、部下思いの川上機関大尉は、杉田二等水兵を見舞ったばかりに、変装を見破られてしまったのである。
 飛行島建設団長リット少将と警備隊員は、彼を、ぐるりと取りまいて銃口をつきつけた。
 機関大尉は、とっさに強敵スミス中尉を、突き倒したが、敵は多勢、味方は一人、しかも敵の人数は刻々ふえるばかりである。最早どうすることも出来ない。機関大尉は、ついに部屋の真中に身うごきもならず、突立ったままであった。
「杉田、貴様は起きるなよ」
 この期におよんでも、自分の身を心配する前に、部下の杉田のことをしきりに気づかっている。
「上官!」
 と、杉田はベッドの上で、歯をばりばりとかみあわせて悲痛な思だ。いくら起きるなと命令しても、いま自分の前で上官が射殺されようとしているのだ。
「杉田、俺のことなら心配するな。俺は大丈夫だ!」
「でも、――」
 早口に叫ぶ川上機関大尉、上官の自信ある言葉をかえって心配する杉田二等水兵。
 一秒、二秒、三秒……
(もう、こちらのものだ)リット少将はじめ警備隊員が、そう思ったのも無理はなかった。
 沈勇なる川上機関大尉は、その相手の心のちょっとしたゆるみの瞬間を狙っていたのだった。
「ええい!」
 と一声、室内の空気を破るすごい気合が聞えたかと思うと、驚くべきことが起っていた。彼の体を弾丸のごとく縮め、硝子窓の真中めがけてぶっつけたのであった。いや、ぶっつけたのではなくて、その大きな窓硝子を全身でもってうちやぶり、外へとびだして行ったのであった。
 がちゃん、がらがらがら。
 ひどい音だ。その音が、リット少将の耳にはいった時は、機関大尉は、硝子の破片もろとも、窓の外へおどり越えていたのであった。
 二枚の板片――彼が両手にしっかと持っていたその板片は、この大冒険にあたって、彼の顔面がじかに窓硝子に当って大怪我をするのを安全にふせいだのであった。
 機関学校時代、機械体操にかけては級中に鳴りひびいた川上機関大尉であればこそできた離れ業であった。
「ああ!」
「おお!」
 さすがのリット少将も、また警備隊員達も、この早業にすっかり胆をつぶしてしまって、藁人形のように窓硝子の穴を呆然とみつめるばかりであった。
 杉田二等水兵は、胸がすーっとした。そして、
「おお!」と、思わずうなった。こんな痛快なことがまたとあろうか。もう死んだものと諦めた刹那せつなに、ぱっと生きかえったのである。死中に活を求める。これこそ日本にのみ伝わる武芸の神秘であった。
「おい、お前たち、なにをしている。早く追え!」
 リット少将の、われ鐘のような怒声に、警備隊員たちは、やっとわれにかえった。
「あっ、向こうへ飛びおりたぞ」
「逃がすな」
 すぐさま二手にわかれて川上機関大尉のあとを追いかけた。が、機関大尉が、いつまでも追って来る彼等を待っているはずはなかった。
 窓枠の上にのぼり、こわれた窓から外を恐る恐る覗いた警備隊員の顔と、一方外から、大廻をして破れた窓を見上げた警備隊員の顔とが、上からと下からとくすぐったく視線をぶっつけ、
「ちぇっ、逃げられたか」
「恐しくはしっこい奴めだ」
 と、つぶやきながら横を向いてしまった。飛行島のアンテナ線にとまっていた阿呆鳥の群が、このとき白い糞を下におとして、藍をとかしたような大空にぱっと飛び立った。


   懸賞の首


 自室に戻ったリット少将の、怒った顔こそ、この飛行島ができてからこの方の大見物であった。
「ばかめ、ばかめ、大ばかめ!」
 自分自身を罵るように呶鳴り散らしながら、絨毯の上をどすんどすんと歩きまわるのであった。
「相手は、たった一人ではないか。たった一人の東洋人を捕らえかねて、島内がまるで蜂の巣をつついたように騒ぎまわっているとは、一たい何たるざまだ。リット、お前は、何のために、大勢のすぐれた部下を率いているのだ」
 日頃から、われこそ、大英帝国の名誉を傷つけぬ名将と、自負しているリット少将としては、この無念さは、無理からぬことであった。
「このままでは、捨ておけん。いかなる犠牲を払っても、奴をひっ捕らえるのだ。そして八つざきにしてやるのだ」
 そこへ、リット少将お気に入りのスミス中尉が、姿をあらわした。
「閣下、さきほどは不体裁なところをお目にかけまして申しわけありません」
「おおスミス中尉か。君は武芸にかけてはたいへん自信があるようなことをいっていたが、東洋人にはききめがないらしいね」
「恐れ入りました。それにしても、どこにどうして生きていたのか、死んだとばかり思いこんでいた川上が、生きていて、甲板に妙なものを書いたり、火をつけたり、又硝子屋などにばけて、島内を騒がせていようとは夢にも思いませんでした」
 中尉は、先刻、脾腹をしたたか突かれて眼をまわしたので、このことにつきこれ以上、話をするのは損だと思った。そこで、
「閣下、これからあの川上に対する処置は、いかがなさいますか」
「そのことだて」
 とリット少将は、また苦虫をかみつぶしたような顔になり、
「もう試運転まであと二日しかないというのに、あの川上を、このままにして置くことはできない。そうだ。これから島内大捜索を命令しよう。それには大懸賞に限る。川上を生捕にした者には二千ポンド(一ポンドは現在約十七円位)の賞金を与える。また川上を殺した者には、一千ポンドを与える。どうだ、これなら顔の黄いろい労働者たちも、よろこんで川上を追いまわすにちがいないではないか」
「二千ポンドに一千ポンドですか」
「そうだ、賞金が少いとでもいうのか」
「そうです。川上があと二日間に捕らえられなければ、この飛行島は試運転を思いとどまらなければなりません。
 今朝も聞きましたが、横須賀軍港付近において、わが水兵が日本の少年の手によって殺害された大事件から、英日両国の間は急に悪くなり、いつどんな事が起るかもしれない様子だというではありませんか。わが飛行島のためには、又とない機会チャンスがいま来ようとしているわけです。
 ところがです、その前に彼が飛行島の秘密を探って、本国へ知らせたらどういうことになりますか。油断のならぬ日本海軍のことですから、何をはじめるか分からないではありませんか」
「わしにもそれくらいのことは、ちゃんと分かっているよ、そうくどくどしゃべらなくとも、……それでどうだというんだ」
 少将閣下は、たたみかけて叫んだ。
「もちろん閣下にもお分かりのことと思いますが、とにかくそういうわけで、ここ二日のうちに川上を捕らえて、殺してしまわねばなりません。それを間違いなくやるためには、賞金をうんと奮発して労働者達を総動員することが大切です。あの大豪川上に向かう者は、一つしかない自分の命を捨ててかからねばならぬのです。賞金は、命を捨てさせるに十分なほど慾心をもえたたせる金額でなくてはいけません。二千ポンドに一千ポンドなどとは、この飛行島建設費の何万分の一……」
「もういい。分かった。もういうな」
 リット少将は口にくわえていた葉巻を思わずぷつりと噛みきって、
「よおし、二万ポンドに一万ポンド! どうだ、これなら文句はなかろう」
 賞金は一躍十倍にはねあがった。
「えっ、二万ポンドに一万ポンド! そいつはすばらしい」
 と、スミス中尉は思わず靴の裏で、床の上をどんと蹴った。


   カワカミ騒ぎ


 かくして飛行島の大捜索がはじまった。
 川上機関大尉の首にかけられた賞金はおどろくなかれ、二万ポンドに一万ポンド!
 この告示が、島内隈なく貼りだされると、人心はかなえのようにわきたった。どの告示板の前にも、黒山のような人だかりだった。
「賞金二万ポンドだって? うわーっ、おっそろしい大金だな」
「それだけ貰えると、故郷へとんでかえって、山や川のある広い土地を買いとり、それから美しいお姫さまを娶って、俺は世界一の幸福な王様になれるよ。うわーっ、気が変になりそうだ」
「おお、俺も気が変になりそうだ。誰か俺の体をおさえていてくんな、俺が暴れだすといけないから……」
 と、たいへんな騒がはじまった。
 告示板には、川上機関大尉の写真こそ出ていなかったが、その人相や背の高さ、それから皮膚の色や服装などもくわしく記されていたので、飛行島の人たちは、それをいそがしくノートにとったり、文字の読めない連中は、人に読んでもらったりして、めいめい川上機関大尉の顔をいろいろに想像して、胸の中におさめた。
 それからさきが、またたいへんであった。
 飛行島の人たちは、もうこれまでのように、甲板や通路の上を、のんきに大手をふって歩けなくなった。向こうから来る人影があれば、彼奴こそお尋者のカワカミではないかと思い、いざといえば相手の上におどりかかろうと、泥棒猫のような変な恰好ですれちがうのであった。
 いや、こっちが向こうを狙っているばかりではない。向こうもまた、こっちが二万ポンドではないかしらと思い、実に怪しげな物腰で、そろりそろりと横むき歩きで近づく。
 こうして近づいて、お互さまにカワカミでなかったと分かったとき、彼等はきまって、チェッと舌打をした。相手の大きな舌打が自分に聞えると、お互にがっかりしてすれちがう。歩行者は、こうして人に行き会うたびに、心を疲らせた。まことに、ふきだしたくなるような騒であった。
 リット少将にとって、二万ポンドの大懸賞金を放りださねばならなくなったことは大悲劇であったが、その大懸賞金を追いかける飛行島の人々の血走った眼の色などは、およそ大喜劇というほかない。
 いや、その大喜劇は、その夕方になってもっとはげしくなった。
 それは夕刻六時までに「カワカミ大懸賞捜索本部」へ引かれて来た重大犯人川上の数がなんと七十何名という夥しい数に達したことであった。
 川上機関大尉が七十何名もいる?
 当の川上機関大尉がこれを聞いたら、どんな顔をするであろうか。
 いや、その七十何名の中に、本物の川上機関大尉がまじっているかもしれないのだ。そして、夥しいこのカワカミ集団を見て苦笑にがわらいをしているかもしれない。
 もしその中に本物の川上機関大尉がまじっていたら、やがて苦笑だけではすまなくなるだろう。スミス中尉は、こんど川上機関大尉をひっとらえたら、すぐ殺してしまわねばならぬといっているではないか。
 さあ、七十何名の囚人の中に本物の川上機関大尉がまじっているかどうか――
「おい、もうここは締切ったぞ。カワカミを持ってくるなら、明日の朝にしてくれ。室の中はカワカミで満員だ。連れてきたって、入りきれやしないぞ」
 と、一人の捜索本部の役員が室の外におしよせている人々に向かって呶鳴っていると、そこへまた一人少しとんまらしいのがやって来て、
「わーい、こりゃすごいや。ことによると、カワカミというのは『東洋人』という日本語かもしれないぞ。だって七十何名のカワカミは、誰がなんといっても多すぎらあ」
「なにをいっているんだ、貴様。それよりも早く奥へいって手伝ってこい」
「え、奥へいって、一たいなにを手伝うのかね」
「なにをって? 分かっているじゃないか。七十何名のカワカミの中から、本物のカワカミを選りだすんだ」
「ああなるほど籤引かい」
「籤引? あきれた奴だ、選りだすんだ」
「ふふん、選りだすといっても、モルモットの中から鼠を探すときのように、そんなに簡単に選りだせるかね」
「無駄口を叩かないで、早く奥へいってみろよ。面白いから」
 飛行島のワイワイ連中にとっては、いかにも面白い慰みごとかもしれないが、川上機関大尉にとっては、それは死ぬか生きるかの重大問題であった。


   鑑定場


 一人のカワカミと、それを捕らえてきた殊勲者とは、別々に鑑定委員の前によびだされることとなった。
 カワカミはいずれも後手に縛られ、頸のまわりに番号を書いた赤いきれをまきつけてあった。まるで猫の頸っ玉のようだ。半裸体のもおれば、洋服を着ているのもいる。
 殊勲者の方は、同じ番号のついた青札を手に持っていた。そして彼等はお互に、自分の捕らえたカワカミこそ本物で、貴様の捕らえたのは偽物だなぞと、罵りあっていた。
「おーい、青札の第一号はいるか。いたら、こっちへ入れ」
 と鑑定委員は呶鳴る。
「へーい」
 入ってきた第一号は、印度人であった。
「貴様はどこであの偽物のカワカミを引張ってきたんだ」
「に、偽物? じょ、冗談はよしてください」
 と印度人は顔を真赤に染めて、
「わしの引張ってきたのが本物のカワカミでなけりゃ、この飛行島には本物のカワカミは一人もいないってことですよ」
「じゃあ、どこから引張ってきたか、早くいえ」
「いいですかね。わしは今日、鋼鉄宮殿の下で昼寝をしていたんですよ。そこへがらがらがらどしーんです。びっくりして上を見ると、窓硝子がめちゃめちゃにこわれて、一人の男――つまりあのカワカミが――とびだしてきたんです。これが二万ポンドの懸賞犯人とは、わしも凄い運につきあたったものだと思い、すぐさま追いかけましたよ、そうして大格闘の末、やっと捕らえたんです。さあ、これだけいえば、いくらなんでもお分かりになったでしょう」
 と、印度人は眼をぎょろつかせて、べらべらとしゃべりたてた。
「よし! それだけいえばよく分かるよ。この太い大法螺おおぼらふきめ。おい、警備隊員、こいつの背中に鞭を百ばかりくれて、甲板から海中へつきおとせ」
「なにをいうんです。いまいったとおり、あれが本物のカワカミ……」
「だまれ。この大うそつきめ。貴様はカワカミが窓から逃げだしたとき、二万ポンドの懸賞犯人だからと思い、すぐ追っかけたといったね」
「そうですとも。わしは……」
「ばか! 窓から逃げだしたときには、まだ懸賞の話はきめていなかったわい。これでもまだ白いの黒いのとほざきおるか」
「うへー」
 というわけで、途中まで本物の川上機関大尉かと思った捕物第一号も、あわれたちまち偽物であることが露見した。
 こういう面倒な取調が、次から次へとつづいていった。たいへんな手間であった。


   恐怖の命令


 カワカミ容疑者連の取調の方は、ずっと慎重にとりはこばれていた。
 この方の鑑定委員は八名の中国人があたっていた。
 取調の箇条は五つあった。それは、いずれも日本通と自称する八名の中国人委員が、智恵をしぼって考えだしたもので、それによると、この飛行島には、川上以外に一人の日本人もいない筈だから、一人の日本人をさがし出せば、それが川上だというのであった。
 では、その日本人を探し出す五つの箇条とは、一たいどんなことであったか。――赤札の第一号のカワカミ氏は、ばかに鄭重に風呂場へみちびかれた。
 すこし面喰いながら風呂に入ると、男がきてしきりに体を洗ってくれる。このとき彼は、天井の節穴がきらきらうごくような気がした。
(人の眼?)
 と思ったが、男は、彼の足首を握って、念いりに洗うのであった。そのとき男は、しきりに彼の足の指――ことに足の拇指おやゆびと第二指との間の隙間をじろじろとながめていたようである。
 風呂から上って外へ出ると、ちゃんと小ざっぱりしたタオルのガウンがおいてあって、これを体にまとった。それから食堂であった。
 入口に委員がいて、彼の赤札第一号に、口をあいてはあーと大きな息をはいてみてくれという。彼がそうすると、委員は変な顔をして、第一号の口中のにおいを、すんすんと嗅いでいた。
 それがすむと、食卓に坐らされた。大きな丼に、うまそうな蕎麦がいっぱい入っている。それを食べろというので、傍にあった長い箸――それは日本の箸の二倍も長いやつだった――をとりあげて、ぬるぬる逃げまわる蕎麦を食べた。
 それがすむと、これを読んでみよと、何だか日本文字を書いた紙片をもってきた。第一号はそれを見せられたとき、
「わしにはさっぱりわからぬ」
 と、あっさり断った。
 そこを出ると、また卓子を前にひかえた中国人委員がいて、
「貴様は落第だ。かえってよろしい」
 と、横柄な口をきいた。
 こうして第一号は放免されたのだった。
 第二号以下も、同じような取調がつづけられた。
 これだけの取調のなかに、五つの箇条が巧みに調べあげられたのだ。
 まず第一に、裸にしたのは、衣服についた所持品しらべのためだった。
 風呂に入れたのは、体を検査するためだった。足の拇指と第二指との間の隙をみた。日本人だと、幼いときに下駄を履いたので、ここのところが鼻緒のため丸く透いている。それから膝頭が曲っているのは、幼いとき畳に坐ったため。風呂に入って顔の洗い方も、日本人はタオルを動かすけれど、中国人はタオルよりも顔の方を動かす。
 次は食堂であるが、はあーと息をはかせたのは、日本人と中国人の口臭がちがうというのであった。
 食堂に入って、蕎麦を食べさせたが、中国人と日本人とでは、箸の使い方がちがう。中国人は箸の一番端を持って、掌を上向きにして蕎麦をはさむ。日本人はそうしない。
 それから最後にサイタ、サイタ、サクラガサイタと日本の片仮名を読ませる。日本人ならすらすら読むだろうという委員の考えだが、誰がそんなものを読んで日本人たることを自分でさらけだすやつがあるものか。
 中国人委員の考えだしたこの悠長な試験を、七十何名かのカワカミ連にこころみるのだから、なかなか時間がかかった。とうとうその夜も明け、その翌日までかかった。そのころはまた、第二日目のカワカミ召しつれの訴が大勢おしかけてきたので、その夥しい人間の群をみると、試験委員は脳貧血をおこしそうになった。これをいちいち丁寧にやっていたのでは、自分たちの体がたまらぬと思ったので、それから後は、どんどん手間をはぶいて簡単にやることにした。
 こうしてやっと三日目の朝までかかって、ようやく終った。取調べたカワカミの容疑者総数はみんなで百二十七名。その結果、一たいどうなったであろうか。
 リット少将は、鋼鉄の宮殿の中を、いらだたしそうに歩きまわりながら、スミス中尉の報告をまちわびている。
「一たい、いつまで調べているのか。あいつは若い癖して、いやに気が永くていかんわい。――といって、外に手腕のある奴、信用のおける奴はいないし、困ったものだ」
 そういっているところへ、スミス中尉が、眼をいわしのように赤くして入ってきた。
「ああ少将閣下。調しらべがやっと一通り片づきましてございます」
「ふーん、片づいたか、一通り?」
 と、腹の立っているところを皮肉の一言でやっとおさえつけ、
「――で、結果はどうなったか」
「はい、ほんとのカワカミと思われる者を選びだしましたから、閣下に見ていただこうと思います。おーい、こっちへ連れてこい」
 とスミス中尉が、隣室に向かって叫べば、
「おう、――」
 とこたえて、大勢の試験委員が縄尻をとって引立ててきたのは、後手にくくられた七名の東洋人!
「なあんだ、この中のどれがカワカミか」
 と、リット少将は呆れた。
 スミス中尉は、澄ましたもので、
「ここまでは、カワカミらしき者を選りだしましたが、これ以上区別がつきません。あとは閣下のお智恵によりまして、御判別をあおぎたいと考えます」
 スミス中尉は、今まで数回川上機関大尉に出くわしているのであるが、いつも巧みな変装姿だったので、素顔を知らない。事実、見分けがつきかねているのだった。
 なるほど、どれも、見れば見るほど、この間の硝子屋によく似ている。
「なんじゃ、わしにこの七名の中から、本物のカワカミを選びだせというのか」
 リット少将とて、同じことであった。
 少将は、奥にひっこんだ眼をぎょろりと光らせながら何事かしばらく考えこんでいたが、
「ちょっと耳を貸せ、スミス中尉」
 中尉は、はっと答えて、少将の前に頭をさしだした。少将は、二言三言、なにかしら囁いた。
 スミス中尉の顔色が、このとき蒼白にかわった。
 それも道理であった。少将は、賞金はどうするつもりなのか、「七名の中から一名をとるに及ばぬ。七名とも残らず射殺してしまえ」と、常になき断乎たる命令をいい放ったのであった。
 ああ何たる非道! 射殺されることになった罪なき七名の運命こそ、あわれではないか。
 いや諸君、それよりも気がかりなのは、この七名の中に、本物の川上機関大尉がいて、彼等と運命を共にしたのではあるまいか。もし、そうだったら帝国の安危にかかわる重大使命はどうなるというのだ。


   闇夜の試運転


 予定からちょうど二十四時間も遅れて、海の大怪物浮かぶ飛行島は、いよいよその巨体をゆるがせつつ、しずかに海面をすべりだした。
 墨をながしたような闇夜だった。
 ああなんたる壮観であろうか!
 これがもし昼間であったら、飛行島の乗組員たちは、手のまい足のふむところをしらないほど、狂喜乱舞したことだろう。
 だが、昼間の航行は、絶対に禁物であった。そんなことをすれば、たちまち世界の注意は、この飛行島のうえにあつまり、今後極秘の行動をとることは、はなはだむずかしいことになるであろうし、また飛行島が隠しもっている意外な武器も明るみに出て、その攻撃力が少からずがれてしまうであろう。試運転は闇夜にかぎるのだ。
 いま島内の乗組員、住民達は、みな眼をさましてきき耳をたてているのだった。
 そうであろう、耳をすませば、遠い地鳴のような音がゴーッと響いて来るのである。内燃機関がこのようにはげしい音をたてたのは、今夜がはじめてのことだった。
 飛行島は、いまや海上を航行しているのだ。いくら堅固につくられてあるとはいえ、さすがに鋼鉄の梁も壁も、気味わるくかすかに震動するのであった。
「あっ、あれは何の音だ」
「いやに不気味な音じゃないか。おや変だぞ、部屋が傾くようだぜ」
 部屋が傾くのではない、飛行島が傾くのであった。波浪ははげしく飛行島舳部の支柱を噛んでいる。住民たちの多くは、部屋が傾くのを知って、飛行島が航行しているのに気づかないのであった。
「おっ、飛行機だ」
「一たいどうしたのだろう」
「今夜はどうやら演習らしいぞ」
 と、下甲板から顔を出した労働者がいった。
「おや、あのあかりはなんだ。うむ、飛行島のまわりをぐるっと取巻いている。軍艦の灯じゃないか」
 というのも当っていた。
 試運転中の飛行島の空は、六十余機の戦闘機と偵察機とにまもられ、またその周囲は、三十隻の駆逐艦と十五隻の潜水艦によって、二重三重に警戒されているのであった。
 空からなりと、海面からなりと、一機の敵飛行機であれ、一隻の怪ジャンクであれ、向こうから近づけば、どんなことがあっても生かしては帰さぬ決心であった。飛行島の秘密は、あくまで守らねばならない。
 闇夜の海面を圧する轟々たる爆音は、護衛の飛行団が発するエンジンの響であった。
 飛行島の周囲に、ちらちらする灯火は、護衛駆逐艦の標識灯であった。
 また護衛の潜水艦は、飛行島の前方の海面下を警戒しつづけている。
 この三段構の警戒網を突破し得る不敵の曲者くせものは、よもやあり得ないものと信ぜられた。
 建設団長のリット少将は、いまやこの飛行島の艦長然として、はじめて司令塔に入ったのである。この司令塔の内部こそ、およそ近代科学の驚異であった。
 一言でいいあらわせば、人間の脳の組織を顕微鏡下で見たとでもいうよりほかないであろう。
 飛行島の甲板、砲塔、格納庫、機関部、操縦室、監視所、弾薬庫、各士官室、無電室、その他ありとあらゆる島内の要所から、この司令塔内へ向かって、幾十万、幾百万の電線が集っているのであった。
 それは通信線もあれば、点火装置もあれば、速度調整装置、照準装置、そのほか飛行島のすべての働きが電流仕掛で司令塔内より至極手軽に動かされるようになっていた。そういう設備の末の端が円形のジャック孔となって、まるで電話交換台の展覧会というか、蜂の巣を壁いっぱいに貼りつけたというか、司令塔の壁という壁をあますところなく占領していた。
 その間に、幾段もの縞模様となって、丸形の計器や水平形の計器などが、ずらりと並んでいた。それ等はすべて夜光式になっていて、たとえ司令塔の電灯が消えても、ちゃんと計器の指針がどこを指しているかが分かるように造られてあった。
「速度、十五ノットか。よし、この辺で、もう五ノット上げてみい」
 リット少将は、飛行島の速度を、さらに注意ぶかく上げることを命じた。
 二十ノットに速度を上げよと、電話は機関部にとどいた。
「おう、二十ノット」
 命令は、伝声管や高声器でもって、半裸体で働いている部員に伝えられてゆく。
「二十ノット。よろしい、いま重油のバルブをあけるよ」
 弁を預かっていた面長な男が、大きなハンドルをしずかにまわしながら、計器の針の動くのをじっとみつめている。と、突然、
「おや、お前は誰だ」
 そこへ監督にやってきた機関大尉フランクが、うしろから呼びかけた。
 面長な東洋人は、フランクの声が聞えないふりをして、なおもしずかにハンドルをまわしていた。
「ええ、二十ノット、出ました」
 彼は落着いた語調で、伝声管の中に報告をふきこんだ。
 諸君、このものしずかな東洋人は、一たい何者であったろうか。


   怪東洋人


 まっ暗な南シナ海の夜であった。
 文明の怪物ともいうべき飛行島は、いま波濤を蹴って、南へ南へと移動してゆく。
 飛行島の前後左右は、それをまもる艦艇がぐるっととりまき、一片の浮木も飛行島に近づけまいとしている。
 空には、空軍の精鋭が、かたい編隊をくんで、もし空から近よる敵機あらば、何国のものたるをとわず、一撃のもとに撃ちおとしてくれようと、ごうごうと飛びつづけている。
 飛行島は、だんだんにスピードを上げていって、いまや時速二十ノット!
 夜間のこととて、わずかにもれる光に、舷側の白い波浪や艦尾に沸くおびただしい水沫、それから艦内をゆるがす振動音などが乗組員たちの耳目をうばっているにすぎないが、昼間だったら、まさに言語に絶する壮観であったに違いない。
 飛行島を動かしている機関部の諸エンジンは、すこぶる好調であった。これでゆけば、最大スピードの三十五ノットを出すことも、さほど難しくはなかろうと思われた。
 ここはその飛行島の機関部――
 重油のバルブを巧みに開いて、飛行島のスピードを今二十ノットに上げたばかりの機関部員は、面長の東洋人であった。
(二十ノット、出ました)
 と、伝声管のなかにおとした音声も、どっしりとおちついている。まことに頼もしい機関部員だ。
 それを傍から見下している機関大尉フランクの顔は、これはまた反対に、非常に険しい。彼の右手は、ピストルのサックを探っているではないか。
 東洋人にはフランクのこうした様子が見えないのか、彼は顔色一つかえないで、じっとメートルの面を見守っている。
「エンジンはつづいて好調」
 かの東洋人は、憎いほどものしずかな調子で、だが歯ぎれのよい英語で、伝声管から司令塔へ報告する。
「おい! 貴様は誰だ?」
 フランクは憤りをこらえかねて呶鳴りつけた。が、東洋人は、びくともしない。いや、自分のことと思っていないのか、
「はあ、はあ、リット少将閣下ですか。エンジンの調子は見込よりもむしろ実際の方がずっとよろしいようであります。――はあ、どのエンジンにつきましても、すでに検査をおえました。さすが大英帝国の機械だけあります。――はあ、はあ、承知いたしました。なお細心の注意をおこたらず、身命を賭して、エンジンをおあずかりいたします。どうか御安心ください」
 これを聞いていた機関大尉フランクの顔といったらなかった。まず真赤になり、眼をとび出すほど見開いて、やがて蒼白になっていった。
 司令官リット少将と、なれなれしく会話をとりかわしているこの東洋人は、一たい何者であろうか。
 フランク大尉は今まで見たこともない男が、自分が受けもっている機関部で、何の不思議もなく働いているのに、まずあっけにとられ、次の瞬間頭がくらくらとするほど驚いた。
 それにしても、いつもここにいる部員たち、殊に、彼が最も信頼しているケント兵曹は、今どこへ行って、何をしているのか。
 彼は、飛行島にとって最も恐るべきことが、目前に起っていることを感じると、最早ためらうべき時でないと、ずっしりと重いピストルを握りなおして、東洋人の頭にぴたりと銃口を向けた。
「こら」その声はふるえを帯びていた。
「貴様は何者だ。命が惜しかったら、いまから十かぞえる間に姓名を名のれ。その間に名のらなかったら、おれは機関部第二分隊長の実力をもって、貴様を射殺する」
 ピストルを握ったフランク分隊長の右手は、わなわなとふるえていた。
 いうまでもなく、この東洋人こそ、われらの大勇士、川上機関大尉の変装姿であったのだ。


   川上機関大尉現る!


 おお川上機関大尉!
 どこにどうしていたのか、川上機関大尉は、再び、われらの前に現れたのだ。
 そもそも飛行島の秘密を探る命令が川上大尉にくだったのは、もちろん彼が、飛行島を動かすエンジンなどの諸機械にくわしいところを見こまれたからであるが、しかし理由はただそれだけではない。彼の鋭い頭の働きと、底知れぬ大胆さと、そしていかなる死地にあっても、くそおちつきにおちついて物事を考える。そして、よしとなったらどんなことでもやり通さずにはおかない恐るべき実行力を見こまれたからであった。
 一たい人間というものは、その相手から思いきった大胆なことをやられると、却って気をのまれてしまって、なにも手だしができないものである。これが死地にあって敵と闘うときの最上の極意である。わが川上機関大尉は、この尊い極意をちゃんと心得ていたのだ。
 フランク大尉はピストルの引金に手をかけた。
「覚悟はよいか。一から十まで数えおわれば、この引金をひくのだぞ。さあ数えるぞ、イ、ウ、イ、……」
 数え出したフランク大尉の緊張にひきつってゆく真青な顔。
 だが見よ、どうしたというのだ。川上機関大尉は、死が数秒の後に迫っているというのに、エンジンの前のハンドルを懸命にあやつり、メートルの指針をいちいち直してゆく操作ぶりのあざやかさ! まるで目前の仕事に身も魂も打ちこんでいる真剣そのものの姿ではないか。フランク大尉は、その凄じい気魄にたじたじとなったが、必死にこらえて、
「――ツ、ウ、……」
 のこるはわずか、あと四つの数だ!
 ピルトルの引金を握りしめた右手から油汗がにじみ出した。
 轟々たるエンジンの唸は、室内をゆりうごかして、一段とものすごい。
「――ななア、ノ……」
 あっ、のこりの数は、もうあと一つ!
 そのとき突然、高声器が大きな声を発した。
「二十五ノットに、スピードを上げい!」
 司令塔からの号令だ。
「はい、二十五ノットに上げまあす」
 川上機関大尉は、一秒のおくれもなく、伝声管のなかに復誦した。そしてただちに給油バルブを開くために、ハンドルをぐるぐる廻しはじめた。
とおオ!)
 と、最後の数字をかぞえようとして、フランク大尉は、それを喉の奥にのみこんだ。すっかり気を奪われたのであろう。ピストルの銃口だけは、川上機関大尉の方に向いているが、引金にあたっている指にはもう力がはいっていない。
 気が臆したフランク分隊長は、こうなればもう銅像みたいなものだった。
「はい、二十五ノット、よろしい。エンジンはいずれも快調です。異常変動、全くみとめられず!」
 川上機関大尉の声は、いよいよ冴えた。
 その声がフランク大尉の鼓膜をうつと、彼は反射的にピストルの引金をぎゅっと握りしめた。
とおオ!)
 その瞬間、
「あっ、分隊長! な、なにをなさるんです」


   フランク分隊長の話


 左手の通路から、おどりこんできたのは、ケント兵曹だった。
「あっ、あぶない」
 と叫ぶのも口のうち、彼はフランク大尉と川上機関大尉との間に、すばやく立ちふさがった。
「おい、退け。なにをするんだ」
「フランク大尉、あなたこそ、何をなさるんです」
「ケント兵曹。のかんか!」
「お待ち下さい。――まちがいがあってはなりません」
「なに、まちがい? 何のまちがいだ」
「ああ、御存じないのですか。いまわが飛行島は試運転中で、それにつきまして、リット少将閣下は、わが機関部が最善の成績を上げるようにと訓令せられました」
「そんなことは、よく分かっている」
「ところが、さっきこの第四ディーゼル・エンジン班の一人の部員が急にめまいがしてぶっ倒れましたが、それにつづいてたおれる者続出、今では十六七名という多数にのぼっております」
「そ、そんなことがあるものか。俺は、そんな報告に接しておらぬぞ」
「あれ、フランク大尉は御存じなかったのですか」
 ケント兵曹は、あきれ顔で大尉の顔を見上げた。
「――で、でも、そんなことがあろうはずがありません。機関部は上を下への大騒動でありました。上官にその報告が行っていないなんて……」
 フランク大尉は、それを聞くと、何を思い出したか、
「そうだ。ふむ、あれかもしれぬ」
「えっ、なんとおっしゃいます」
「うむ。実は今から三十分ほど前、リット少将の副官から電話がかかってきて、『飛行島の三十六基のエンジンのうち、調子の合わないものが二三あるらしく、司令塔のメートルをみていると、あるところへ来ると、変な乱調子が起る。だから、貴官はすぐさま、三十六基のエンジンの仕様書と試験表とを各班からあつめて、すぐこっちへ持ってこい』という命令だ。そこで俺は、あとをゼリー中尉にたのんで、さっそく仕様書と試験表をあつめに出かけたのだ」
「おや、そんなことがありましたか。そのゼリー中尉が、真先にぶっ倒れたのですが、御存じでしょうな」
「いや、知らない。その報告も受けていない」と、フランク大尉はつよくかぶりをふった。
「俺は、試験部へ行って、リット少将閣下が命令せられたものを集めるのに夢中になっていた。ところがその仕様書はすぐ集ったが、試験表の方がなかなか揃わない。それに手間どって、試験部の責任者を呶鳴りつけたりしているうちに、時間はどんどん廻って、二三十分かかってしまった」
「では、大尉は、ずっと試験部におられたのですね」
 ケント兵曹は、やっと話がのみこめたという風だった。
「そうだ。試験部の、机の引出をみな引き出して、やっと試験表を三十通までみつけたが、あとの六通が見あたらない。あまり遅れてもと思って、足りないままで、副官の前へ持って出たがとたんに大恥をかいた?」
「大恥とは何です?」
「うむ。副官はそんな電話をかけてそんな命令を出した覚がないといわれるのだ」
「そりゃ、変ですね」
「変だ。まったく変だ。とにかく副官に笑われて、ここへかえってきたのだ。重大な試運転の真最中に、誰か副官の声色をつかって、俺を一ぱいくわせたのかとむかっ腹をたててここへ帰ってくると、ほら、そこにいる怪しい東洋人が眼にうつったではないか」
「あ、なーるほど。それでよく分かりました」
 ケント兵曹は、そういってから、はじめて、東洋人がこの機関部へきたわけを次のように話した。
「この男は、第六班から、応援によこした機関部員ですよ。フイリッピン人で、カラモという男です。なかなかよく働きます。三人分ぐらいの持場を、彼一人でひきうけていますが、少しもまちがわないです。こういう事故が起った際にはあつらえ向の男です」
 フランク大尉は、うなずきながら聞いていたが、眼をぎょろりと光らせたかと思うと急に声を落して、
「だが、怪しい奴じゃないか。おいケント兵曹。殊によると、あいつは例の日本将校カワカミじゃないかねえ」


   ピストルの監視下に


「カワカミですって?」
 と、ケント兵曹はあきれ顔をしてといかえした。
「フランク大尉。監視隊は七名ものカワカミを捕らえ、リット少将の命令でみな殺してしまったそうですよ。いや、これは上官の方がよく御存じのはずですが」
「それはそうだったが、でもケント兵曹。あの横顔を見ろ、どっかカワカミに似ているじゃないか」
 フランク大尉はしばし思案顔であったが、何事か決心したものとみえ、
「うむ、やっぱりカワカミに違いない。万一違っていた時は俺が責任をとればよいのだ」
 といいざま、一旦しまったピストルを、ふたたびサックの中からだして、さっと川上の頭を狙った。
「あっ、なにをせられます」
「ケント兵曹。退け、俺は飛行島の秘密をまもらねばならぬ」
 ふたたび怒れる獅子のようになったフランク大尉は、ピストルをつきつけたまま、
「おいカワカミ。仮面をぬげ」と叫んだ。
「分隊長。待ってください」
 ケント兵曹も必死だった。
「飛行島は只今、試運転中であることをお忘れないように。もしこの東洋人を傷つけたら、この大切な第四エンジンの持場はどうなります。いや、重大な飛行島の航進はどうなります。あとに、代りの部員をもってこようとしても、どこの班でも、人員が足りないで困っている際ですぞ。分隊長」
 これには、フランク大尉も、一言もなかった。
「――はい、只今、三十ノット出ました。エンジンはいずれも快調。油量速度五五・六。乱調子の傾向はみとめられません」
 フイリッピン人カラモ――ではないわが川上機関大尉は、傍に立つフランク大尉とケント兵曹とを全然気にしていないものの如く、相変らずエンジンの操作に当っていた。
 機関大尉の明鏡のような頭には、事の成行ははじめからわかっていたのだ。その悠々たるおちつきぶりを見よ。赤銅色の頬には不敵にも、誇らかな勝利の微笑さえ浮かんだではないか。
 速力三十ノット。
 もうすこしで、飛行島は最大速力を出すところだ。
 飛行島の心臓部であるエンジンは快調をつづけている。何という頼もしさ。大英帝国が、平和の飛行場として建造した飛行島が、超大航空母艦として、真におどろくべき実力をもっていることは、最早、疑う余地はなくなった。
「うーむ」ケント兵曹はうなった。飛行島の大事を思うて、フランク分隊長をとめはしたものの、もしこれが本物のカワカミであったら、このままにしておくことは出来ない。
 といって、今、この男を射殺すると、あとはどうなる。第四エンジンは、誰がうごかすのだ。飛行島の試運転はどうなるのだ。その時のリット少将の驚きと怒……はじめから何もかもリット少将に報告しておけばよかったものを、機関部の不名誉と責任問題になると思って、部内でこっそり後始末をしようとしたのがいけなかった。今となっては、リット少将に報告することさえ恐しいが、何にしても飛行島の運命にかかわる重大事だ。
(そうだ!)
 とケント兵曹は、とっさに決心して、
「フランク大尉。もうこうなった以上、恥をしのんで、何もかもリット少将閣下に、報告してその指揮を仰いだ方が上分別ですぞ」
「なに、リット少将閣下に――」
 フランク分隊長は、きっと顔をこわばらせた。
 が、とっさに決心すると、ピストルをケント兵曹にわたして、東洋人カラモを監視せしめ、自分は電話をかけにいった。
 それからものの五分間ほどして、フランク大尉はふたたび第四エンジン室にかえってきた。彼の顔はさらに大きな興奮に青ざめていた。
「どうしました。フランク分隊長」
 と、ケント兵曹は聞いた。
 しかしフランク大尉は、何もいわずにケント兵曹の手からピストルをもぎとった。
「もしフランク分隊長。リット少将閣下は、一たいどうおっしゃったのですか」
 ケント兵曹は、かさねて聞いた。
 フランク大尉は、それに答えようともせず、石像のようにつったったまま、変装の川上機関大尉にしっかり銃口を向けている。
 そのとき司令塔からは、また次の命令が川上機関大尉のところへ伝わってきた。
「最大速力三十五ノットへ――」
「はい、最大速力三十五ノットへ」
 川上機関大尉は、またあざやかな手つきで、エンジンの廻転数を上げた。それを後からフランク大尉は、いまいましそうににらみつけている。一たい、どうしたというのだ。
 彼はリット少将に、何をいわれてきたのであろうか。
 川上機関大尉は、相変らずフランクを嘲笑するようにおちつきはらって、エンジンの操作をつづけるのであった。ああ、それにしても何という奇妙な事実であろう。彼はフランク大尉のピストルの監視下にあって、敵国のために最も重大な役わりを懸命に果しているのであった。


   試運転成功


 こちらは司令塔の中である。リット少将は一分も隙のない軍装に身をかため、すこぶる満悦の面持であった。
「副官、すばらしいのう。飛行島は設計以上の出来ばえじゃ」
 飛行島建設団首脳部は、いつの間にやら、大航空母艦飛行島司令官および幕僚となっていた。
「リット閣下のおっしゃるとおりです。この上は、飛行島の威力をひた隠しに隠して、他日○○国と戦いをまじえますときに、敵の度肝を奪ってやりたいものですね」
 副官はそういって、やがて○○国攻略の海戦に、この飛行島を参加させ、○○湾付近で大手柄をたてるであろうところを想像して、にやりとほくそ笑んだ。
「そうです、そのことです。飛行島の秘密をあくまで隠しおおすことですが――」
 と、突然口をはさんだ青年士官があった。それは外ならぬリット少将お気に入りのスミス中尉であった。川上機関大尉の拳固の固さをしみじみと知っているあのスミス中尉であった。
「ああ、私はそれが心配でなりません。いまこの飛行島に働いている技師と労働者は、その数が三千人にのぼります。印度人あり、中国人あり、フイリッピン人あり、暹羅シャム人あり、それからまたソ連人、アメリカ人、フランス人、わが英人など、およそ世界各国の人種をあつめつくしている観があります。やがてこの飛行島の工事がおわり、彼等が夫々それぞれ故国にかえった暁にはどうなりましょうか。この飛行島の秘密は、いやでも洩れてしまいます。この工事は、はじめからこの点に手ぬかりがあったようです。すべて英人と印度人だけではじめるべきでした」
「なにをいうか。スミス中尉」とリット少将はかるくいましめて、
「そんなことは心配ない、今からそういうことを問題にして、つまらぬ騒をおこさせてはならぬ」
「ですが、閣下。私はほんとうに心配なのです」
「これ、もうよしたまえ、そんな話は――」
 と副官がたしなめたが、スミス中尉は、ひっこんでいなかった。
「だが、これほど重大問題を、このままにしておいてよいでしょうか。ことにわが飛行島の試運転は、いま上々の成績でもって終了しようとしているではありませんか。ここで当然、考えておかねばならぬ大問題です」
 と、スミス中尉は、若いに似合わず頑固だった。
 リット少将の眼が、ぎろりと動いて、副官の視線とぶつかった。
 副官は、あわててスミス中尉の肩をおさえ、
「おい、もうよせというのに……。なあに、彼等は飛行島めごく一部分だけを知っているのにすぎない。だから秘密が洩れるといっても、飛行島全体の秘密がむきだしにわかるというのではない。それに、彼等には、相当の金をつかませて、かたく口止をするつもりだ。だから心配は少しもない」
「そうですかなあ。私には合点出来ませんね。それにあの杉田水兵なんかも、まだあのままにしてあるではありませんか。川上機関大尉を片づけてしまった後に、あれだけ生かしておいて一たいどうするつもりです」
 すると少将は、にやりと笑い、
「君は杉田水兵を殺したがって仕方がないようだが、あれはわけがあるのだ」
「はあ、わけと申しますと、……」
「さきにわれわれは川上機関大尉の容疑者を数名射殺したが、万一あの容疑者のほかにほんとうの川上機関大尉がのこっていたときはどうなるだろう」
「おお、閣下は、まだ川上が生きているとおっしゃるのですか」
「いや、たとえ話をしているのじゃ。万一川上が生きていてもじゃ、杉田さえ生かしておけば、彼はきっと杉田の身の上を心配して、病室付近に現れるだろう。そこを捕らえれば、一番てっとり早いではないか。つまり杉田は、川上を釣りだすためのおとりなのじゃ」
「驚きましたね、川上が死んだのに、囮を飼っておくなんて……凡そ馬鹿らしい話ではありませんか」
 と、川上捜査に先頭をきって働いたスミス中尉だけに、その不満は、尤もだった。
 もしいたずら好きの神様があって、この若い中尉を、第四エンジン室に引張っていって、そこに働いている東洋人カラモを見せてやったらどんな顔をするであろうか。リット少将は、さすがに人の上にたつだけあって、英国人らしい深い注意の持主だった。
 このため、司令塔のうちが、ちょっと白けた。リット少将はそれをまぎらすためか、潮風のふきこむ窓から首を出して、暗い外をのぞいた。


   点呼命令


 全速三十五ノットの烈風がふきこむ。
 暗い海面からは、生温かい海水が滝のように甲板の上にふってくる。
 よく見ると、赤、青、黄、いろとりどりの標識灯が、飛行島の艦形をあらわしている。
 護衛の飛行隊は、ずっと前方に出ていっているようだ。
 両舷の彼方には、駆逐艦の灯火が見える。天候のせいか、それとも飛行島のあおりをくってか、駆逐艦は大分動揺しているようだ。
 囂々ごうごうたる機械音が、闇と海面とを圧していた。
 飛行島の警衛は、完全のようであった。
 いまは試運転中ではあるけれど、このような大袈裟な陣形が、やがて飛行島の渡洋攻撃のときにも採用されるのではなかろうか。
 リット少将は、艦隊司令官になったような気で、大得意であった。
 その時、副官が、リット少将の背後に近づいて声をかけた。
「閣下、警備飛行団長から、祝電がまいりました」
「ほう、祝電が」
「飛行島の竣工と、無事なる試運転を祝す――というのであります」
「無事なる試運転か。そうじゃ、この分なら試運転もまず無事に終りそうじゃな」
 その通りであった。いま試運転が終ろうというのに、ただの一回も、非常警報の警笛をきかない。彼の重任は、紙を一枚一枚めくりとるように、軽くなってくるのであった。このかたい護衛の網を破って、うかがい寄る曲者があろうとはどうしても思えなかったからである。
「閣下、また祝電がまいりました」
「ほう、すこし気が早すぎるようだが、こんどは誰からか」
「警備艦隊司令官からです」
「おおそうか。いよいよほんとうに、試運転は無事終了らしい。これは思いがけない幸運だった。外国のスパイ艦艇は一隻も近よらなかったし、これでわしは、世界中の眼をうまく騙しおおせたというわけかな。あっはっはっ」
 リット少将は、心から、安堵の色をみせるようになった。
「では、艦内検閲点呼を命令せい。これで試運転は無事終了ということにしよう。警備隊の方へも、同様にしらせるがいい」
「はい、かしこまりました。全艦および警備隊に、検閲点呼を命じます」
 副官は、通信班に通ずる伝声管のところへかけつけた。
 号令は、全艦隊にひろがった。
 全速力航進のもとにおける検閲点呼は、もっとも重大な意味があった。乗組員なり機関なりが、どんな工合にはたらいているかが、もっとも明らかに知れるのである。
 この検閲点呼がすむと、飛行島をはじめ全警備隊は、速力をゆるめ、方向を百八十度転じて、夜明までに元の位置にかえることになっていた。
 おそらく近海の寝坊の漁夫は、試運転からかえって前夜と同じ場所にやすんでいる飛行島を見て、それがシンガポールの近くまで航行したなどとは、夢にも気がつかないであろう。
 検閲点呼の号令は、もちろん、飛行島にもっとも近い護衛艦である警備潜水艦隊にも通達された。
 それはリリー、ローズ、パンジー、オブコニカ、シクラメンという、花の名のついた警備第六潜水艦隊における出来ごとだった。
 旗艦リリー号は、後続の僚艦四隻に直々、検閲点呼の号令を無電でしらせた。
 各艦では、そのしらせをうけると、いちはやく水兵をマストの上にかけあがらせて、藍色灯をつけさせた。この藍色灯は、検閲点呼のしるしであった。殿しんがり艦のシクラメンでは、ジャックという水兵がちょうど当番であったので、命令一下、藍色灯を片手にぶらさげるが早いか、ましらのように梯子づたいに檣の上へとんとんとかけ上ったものである。
 彼は、なんの苦もなく藍色灯を檣につけた。潜水艦の檣なんて、ほんの申しわけのように低いものであったが、彼はそれを下りようとして、おやといぶかった。
「おや、本艦は殿艦のはずだとおもったが、ちがったかな」


   椿事ちんじまた椿事


 彼は、マストの上で、たしかにこのシクラメン号の後について来る他の艦艇の気配を感じたのであった。
 他の艦艇の気配!
 いくら闇夜であっても、後続艦があるとないとは、すぐ分かる。後続艦があれば、第一波の騒方がちがう。そいつは耳で聞きわけるのだ。それから、またエンジンの音がかすかに聞えるし、逆風のときは、むっとした熱気さえ感じるのだ。
 水兵ジャックは、今たしかにこれを感じた。殿艦シクラメン号の後に、いつ他の艦艇がついたのであろう。
 彼は檣を下りて艦橋にとびこむと、すぐこの話を班長の兵曹にした。
「班長、おかしいではありませんか。本艦は殿艦であるのに、あとに、もう一つ殿艦がついてきます」
「なんだ、本艦のあとについてくる艦があるというのかい。そんな馬鹿なことがあってたまるかい。貴様、寝ぼけているんだろう」
「まったくですよ。私はちゃんと二つの大きな眼をあいていますし、二つの大きな耳をおったてていますよ。この眼で見、この耳で聞いたのです」
「何をいってやがる。このふくろう野郎めが――」
 班長は、てんでうけつけない。
 梟野郎めといわれて、水兵ジャックはむっとした。
「ねえ班長。今まで私がうそをカナリヤの糞ほどもいったことがありましたかい。班長、もし、それがうそだったら、私は班長に――」
「班長に、なんだと」
「ええ、あのう班長に、私がお守にしているビクトリヤ女皇のついている金貨をあげますよ」
「おおあの金貨か。これはうめえ話だ。ようし、班員あつまれ。検閲点呼はあとまわしで、まず金貨の方から片をつける。探照灯を用意。本艦の後方を照らせ。早くやれ!」
 こんなときに、探照灯をうっかりつけていいのかどうかと思った水兵もあったようだが、なにしろ班長の命令なので、それをやらないでぐずぐずしていると、いつ鉄拳がとぶかもしれない。それよりも、なんでもいいからつけてしまえというので、艦橋にあった探照灯函の扉をひらいて、さっそく電気を入れ、ぴちんとスイッチをひねった。
 青白い閃光は、ぱっと波浪の上にながれた。そのとき、彼等は見た、まったく驚くべきものを!
 それは何であったか?
 見たこともない鼠色の艦艇だ。
 そびえ立つその艦橋には、妙な外国文字がついていた。その傍に十三という数字が書きつけてあるのが読めた。
「おお十三!」
 恐怖の叫声がおこった。
「たいへんだ。あれは日本の軍艦だ」
「ええっ、日本の軍艦だって?」
 もう金貨の賭もなんにもなかった。
 班長はびっくりして、司令塔にかけこんだ。
「艦長、本艦のすぐ後に、日本の軍艦がついてまいります」
「なんだと。日本の軍艦?」
「そうです。数字は不吉の十三号です」
「そうか。さては日本の軍艦がもぐりこんでいたのか。これはたいへんだ。おい通信兵、全艦隊へ急報しろ。飛行島へはあとまわしでいい。あの怪軍艦をにがしてはならぬ」
 たちまち全艦隊はひっくりかえるような騒になった。
 非常警報は、ついに高く鳴りひびいた。
 探照灯は、何十条としれず、シクラメン号の後方海面へ集注せられた。
 飛行隊は前進行動を中止して、旋回飛行にうつった。光弾が三つ四つ五つと機上からなげ落された。
 暗黒だった海面一帯は、ものの三分とたたないうちに、まるで真昼のような明るさになった。
 リット少将の驚きはどうであったろう。
 このとき飛行島は、警備隊とのかねての打合せにより、進路を九十度西に転じ、急速力で逃げだした。駆逐艦の一部と潜水艦の全部が、飛行島の周囲をぐるっととりまいて、守をかたくした。
「潜水艦だ。ほら、いつか現れたホ型十三号という日本海軍が誇る最新型のやつだ」
「うん、あれか。早く撃沈してしまわないと、飛行島にもしものことがあっては」
「なあに、怪潜水艦のいた海面は、すっかり取巻いたから、もう心配なしだ。味方は飛行機と潜水艦とで百隻あまりもいるじゃないか」
「どうかな。闇夜のことだし、相手はなにしろこの前も手を焼いた日本海軍の潜水艦だぜ」
 光弾はひっきりなしに空中から投下される。
 駆逐艦は、警戒海面のまわりをぐるぐるまわって、命令があれば直ちに爆雷をなげこむ用意ができている。
 攻撃機は、空中からしきりと怪潜水艦の姿をさがしている。
 リット少将は、日本潜水艦現るとの報に、愕然と顔色をかえた。
「ふーん、そうか」
 と大歎息して、
「さっき警備隊が祝電をよこしたが、こいつは危いと思ったのじゃ。こっちから警備のお礼電報をだすのはわかっているが、警備隊の方から祝電をよこすなんて、警備に身がはいっていない証拠じゃ。これでも世界に伝統を誇る英国海軍か」
 副官がその時恐る恐る少将の前に出てきた。
「検閲点呼のことにつきまして、至急お耳に入れたいことがございます」
「なんじゃ、検閲点呼のことじゃ。君は気が変になったのか。日本潜水艦現るとさわいでいる最中に、検閲点呼のことについてもないじゃないか」
「はっ、しかし重大事件でございますので。――分隊長フランク大尉が、只今機関部で、ピストルを乱射いたしておるそうであります。当直将校からの報告であります」
「なに、フランクがピストルを乱射しているって。誰を撃ったのか」
「さあ、それについてはまだ報告がありません。なにしろ第四エンジン室内の電灯は消え、銃声ばかりがはげしく鳴っておりますそうでして――」
「ええっ、――」
 ときもとき、日本潜水艦の追跡をうけている最中だというのに、突如として飛行島内に起ったフランク大尉の暴挙!
 リット少将は蒼白となって、傍の椅子にくずれかかるように身をなげた。
 電灯の消えた第四エンジン室の暗闇中では、そもいかなる椿事がひきおこされているのであろうか。
 フイリッピン人カラモを装う川上機関大尉の安否は、果して如何?


   エンジン室の乱闘


 試運転中の飛行島の艦側に、暗夜の出来事とはいえ、あろうことかあるまいことか、仮想敵国の日本の潜水艦ホの十三号が、皮肉な護衛をしていたのに誰も気がつかなかったと聞くさえ腹が立つところへ、今また、あれだけ注意を与えておいたのに、機関大尉フランクが、大事な第四エンジン室でピストルを撃って暴れているという。リット少将が司令塔の床を踏みならして怒っているのも無理はない。
「誰でもいい。フランクを取り抑えてこい」
 副官はスミス中尉と顔を見合わせた。
「では私がスミス中尉と一しょにとりしずめてまいりましょう」
「うん、早くゆけ。ぐずぐずしていると、大事なわが飛行島の機関部に、どんな大損傷が起るかもしれん。海軍士官はたくさんあるが、飛行島はかけがえがないのだからな」
「えっ?」副官は、ちょっと自分も一しょに侮辱されたように感じて、むっとしたが、そのままスミス中尉をうながして、下へ急ぎおりていった。
「馬鹿な奴じゃ」
 リット少将は、吐きだすようにいって、展望窓のところへ歩いていった。そこからは、まるで仕掛花火がはじまっているような海上のさわぎが見えた。幾十条の探照灯が、網の目のように入まじって、海上を照らし、爆雷の太い水柱がむくむくあがっている。
「け! あそこにも大ぜいの馬鹿者が英国海軍の恥をさらしている」
 リット少将は、拳固をかため、展望窓のところでぶるぶるふるわせた。
     ×   ×   ×
 ところで、第四エンジン室の騒というのは――
 さきほど分隊長フランク大尉は、リット少将のところへ電話をかけて、第四エンジンを日本将校カワカミらしい男が操っているから、試運転を一時中止して、彼を引捕らえたいからと申し出た。
 リット少将は、とんでもないという声色で、自分はさっきから直接伝声管でもって彼と連絡しているが、あれは実に見事な運転ぶりを示している。一たいカワカミなんかに、英国海軍工廠こうしょうが秘密に建造したディーゼル・エンジンの運転ができるはずがないではないか。あれは、自分で名乗をあげていたように、フイリッピン人カラモという依託学者で、ロンドンの英国海軍工廠にあってエンジン製造に従事していた者で、エンジンには相当くわしいからこそ、ああして立派な操作をやっているのだ――と叱りつけた。
 なおもフランクが抗弁したところ、リット少将は大の不機嫌で、カラモは怪しくない、自分が保証する。それよりもお前は分隊長のくせに持場を離れていて、この重大な試運転中いつ呼んでも伝声管の向こうに出てこなかったではないか、普通なら処分するところだが、いまは飛行島の実力試験の最中だから大目にみてやる。早く持場へかえれと、さんざんやっつけられた。
 分隊長フランクが、真青になってエンジン室へ引揚げて来、そして飽くまでカラモの正体をあばいてみせるぞと決意もかたく、ピストル片手にカラモの一挙一動を監視していたことは、すでに知られたところである。
 カラモと名乗っているわが川上機関大尉は、冷やかにエンジンの番をつづけていた。ピストルがどこへ向いているか俺は知らんぞといった調子である。生きるか死ぬるかの問題なんか、飛行島に紛れこんだ時から、もう神仏にあずけてしまってあるのだ。そしてこの場合、やがて起るべきあることを待っていた。
 だだだっと靴音もあらあらしく、ケント兵曹が奥から駈けだしてきた。
「分隊長、たいへんです」
「たいへん? ど、どうした」
「海底牢獄の囚人が脱獄しました」


   川上機関大尉の決心


 海底牢獄というのは、飛行島で働いている者の中で、許しておけないようなことをやった人間をらえて、おしこめておく牢獄であった。それは飛行島を水上に浮かばせている脚柱の下についている鉄筋コンクリートの浮函の中に造ってあった。そこは水面よりはるかの下になっているので、海底牢獄の名がついているのだ。当時、その中に放りこまれている囚人は五、六十人あった。多くは建設役人の命令に反抗した中国人や印度人であった。
「え、脱獄したって」
 と分隊長フランクが聞きかえすと、ケント兵曹は、
「そうです。私が倉庫エレベーターで下へおりようとしましたところ、エレベーターの綱条ロープにつかまって脱獄囚が下からどやどやと上ってきたのにはおどろきました」
綱条ロープにつかまって上るなんて、そんなことができてたまるか」
「でも、嘘じゃありません。ほら、彼奴等がやってきました。足音がします。あそこをごらんなさい」
 その言葉のしたに、エンジンの奥から、うわーっととびだしてきたのは、印度人の一団であった。奥が暗いので、まるでシャツとズボンが攻めよせてきたように見える。
「あ、とうとうやってきたな」
 先頭の印度人は、監守をなぐり殺したらしい血染の鉄棒をふりかぶって、フランク大尉に肉薄する。
「仇敵、英国人め。圧政にくるしむわが印度同胞のうらみを知れ!」
「な、なにを――」
 だーん!
 フランクはついにピストルの引金をひいた。
 印度人の魂ぎる悲鳴――空をつかんで、鉄板の上に倒れた。
「あ、仲間を殺したな。それ」
 残りの印度人は、ときの声をあげて、うわーっととびだしてくる。
 だーん、だーん。
 フランク大尉は、電灯の光に見える敵を夢中で射撃する。
 飛道具をもたぬ印度人は、かわいそうなほど、ばたばた倒れる。気の毒にも、みんなフランク大尉の弾の犠牲になるかと思われた。そのとき――
 がちゃーん。
 電灯が消えた。誰か電灯にスパンナーをなげつけた者がある。またつづいて、電灯はがちゃんと消える。
 室内は暗黒となった。
 エンジンを操作しながら、川上機関大尉のなさけの早業だったのだ。
 実をいえば、第四エンジン係のゼリー中尉以下がぶっ倒れたのも、川上機関大尉のやったことであった。彼は、万一の用にもと肌身はなさずつけていた、ある無色無臭の毒瓦斯を室内に放ったのであった。
 フランク大尉に、三十六基のエンジンの仕様書をさがして持ってくるようにと、副官の声色を使って電話をかけたのも、これまた川上機関大尉であった。
 それからまた印度人の脱獄も、川上機関大尉が手を貸したのであった。その中には、彼がこの飛行島へ上陸以来、人にかくれていろいろ彼の面倒をみてくれた印度志士コローズ氏もまじっていたのだ。
 なぜ川上機関大尉は、こんなことをやりだしたのか?
 彼は、飛行島というものを、隅から隅まで調べてゆくにしたがって、それが彼の考えていたよりもはるかに恐しい攻撃武器であることが分かったからだ。
 はじめのうちは、構造や性能などがあらまし分かれば、あとは勇敢無比を世界に誇るわが海軍の爆撃機や軍艦でもって、とにかくぶっ潰せるものと思っていた。
 ところが、島内をしらべてゆくと、なかなかそんな生やさしいものではない。いかに勇敢無比なわが海軍の精鋭をもってしても、これは相当の犠牲を出さないでは攻めおとすことができないと分かった。なにしろ二十インチの巨砲である。ものすごい高角砲である。べらぼうに厚い甲板の装甲である。恐しく用心をした二重三重の魚雷防禦網である。これでは何をもっていっても、ちょっと歯がたたないように思われる。なるほど、大英帝国が莫大な費用と全科学力とをかたむけて造っただけの大飛行島である。
 難攻不落の浮城だ。
「これは帝国海軍にとって実に由々しきことだ」
 川上機関大尉は、ひそかに天を仰いで長大息したのであった。
 その上に、気にかかるのは、彼の秘蔵していたペンキ缶に仕かけてある短波無電器がなくなって、今は祖国日本へこの重大な心配を通信するみちがなくなったことである。現に、試運転の夜、ホ型十三号潜水艦が飛行島に近づいて、川上機関大尉あてに、いくたびも呼出信号をかけたが、ついに大尉の応答が得られなくて、艦隊本部へ向け、
「川上機関大尉の応答なし」
 の無電をうたせたほどだった。
 とにかくわが勇士川上機関大尉は、そこで一大決心をかためたのであった。
 それは一たいどんな決心であったろうか。
 曰く――「俺はこの、飛行島を、自分の力でもって占領することにきめた!」
 なんという無謀な、そして大胆な決心であろう。
 飛行島をモーター・ボートとすれば、そのふなばたを匍う船虫ほどの大きさもない川上機関大尉が、どうして飛行島占領などというでっかいことができるものか。
 しかしわが川上機関大尉は、いかなる自信があっての上か、敢然として実行計画をたてた。そしてやっつけたことというのが、上にのべた三つのこと――第四エンジン部員襲撃、フランク分隊長のてんてこ舞、海底牢獄の一部の破壊であった。
 だが飛行島は、あまりにも大きい。はたして豪胆勇士川上の偉業はとげられるであろうか。


   試運転最後の頁


 暗黒中でピストルの撃合が行われているのを見て、駈けつけた副官もスミス中尉も、事の容易でないことをさとった。
 ひきつれていった部下に命じて、エンジン室内をぱっと照らさせてみると、脱獄囚相手に、ピストルの乱射をやっているフランク大尉の姿が見えた。
 戦闘員は、ピストルをかざして、わーっと室内へおどりこんだ。
 はげしい銃声。
 響き鳴る金属音。
 地獄の中のような乱闘と悲鳴。
 いかに印度志士が慓悍であるとはいえ、十分武器をもったこうも大ぜいの兵員にとりかこまれては、どうにもならない。彼等は、無念の唇をかみつつ、いくつかの貴い同胞の死体をそこにのこしたまま、奥ふかく逃げこんでしまった。
 副官は、フランク大尉の傍にすすみより、
「少将閣下は、試運転の最中に君がピストルを乱射しているというので、その不謹慎さをお怒りになっていたが、この場の有様を見ては、君のやったことは無理ではない。いやそれよりも英国士官の模範とすべき君の勇敢さについて、少将閣下は勲章を本国へ請求なさることだろう。よくやった、フランク分隊長!」
 といって、かたい握手を求めた。
 フランクは、脱獄囚のために虐殺されるかと思ったのに、うまく命びろいして、夢心地といったところであった。
 が、しばらくして、はっとわれにかえり、
「あ、そうだ。怪フイリッピン人カラモはどうしたろう」
「怪フイリッピン人? なんだい」
「ほら、お忘れになりましたか。さっき少将閣下に申し出て斥けられたあれです。例の日本将校カワカミが化けているのじゃないかと思う怪しい奴です。ついさっきまで、その辺でエンジンを操作していましたが……」
 と、懐中電灯をエンジン運転台の方に向けた。
 だが、なんのことだ、そこには誰の姿もなかった。見えるのはパイロット・ランプや油圧計や廻転計などの器械ばかりであった。計器の針は、途方もないところへかたむいて、エンジンはいまにも壊れそうな怪しい響をたてていた。
「おや、いないぞ」
 と、首をかしげたフランクは、つづいて受持の第四エンジンの乱調に気づき、さっと顔色をかえ、
「たいへん、エンジンが爆発する!」
 と、運転台へとびあがると、ハンドルをぐっとひねった。それから安全弁をひらくやら、給水パイプのコックをひねるやら大騒ぎをして、やっとエンジンの壊れるのを救った。
 エンジンは、ついにぱったり停ってしまった。
「あいつは、とうとう逃げてしまいました。やっぱり、日本将校カワカミだったのだ……」
 フランク分隊長は、印度人に殴られた腰のあたりを痛そうにさすりながら、副官とスミス中尉にいった。
 副官たちも、あれほど島内を懸賞までつけて探した川上機関大尉が、まさかその下をくぐりぬけて生きているとは信じなかったけれど、分隊長の話を聞けば怪しいふしもあるので、すぐさま非常手配をした。
 だが、川上機関大尉らしい東洋人のその後の行方については、誰もたしかな報告をしてくるものはいなかった。
 一方、飛行島を離れた海面に、警備の飛行隊と艦隊とで追いかけまわしていた日本の潜水艦ホ型十三号はどうしたのであろうか。
 司令塔のリット少将は、金モール燦然たる軍帽をぬいで、傍のコンパスに被せ、さも疲れたらしく腰を籐椅子に埋めて、電話にかかっていた。
「なんじゃ、警備飛行団長? たしかに急降下爆撃で、潜水艦をやっつけたって? そのことなら、もっと前に報告が届いているよ。いや、よろこぶなどとはもっての外じゃ。あれは同じ潜水艦でもローズ号だ。舵器をこわして列外に出たところを、味方の飛行機のために空爆されたといって、潜水艦隊は怒っているぞ。出直せ出直せ」
 リット少将は、苦りきって受話器を置いた。するとまた呼出しの明りがついた。
「おお、リット少将だ。なに、警備艦隊司令官か。――うん、爆雷を五十六個放りこんで、どうしたと。――やった、日本の潜水艦をか? 話だけ聞くと、大手柄をたてたようだが、敵の潜水艦が沈んだのなら、海面いっぱいに下から油が浮いてくるのを見たろうな。――なに、それは見えなかった? なにしろ夜のことで、探照灯もあまり役に立たず。――もう、しゃべるのはよせ。子供が司令官になっているわけじゃあるまいし」
 リット少将は憤慨の極、受話器を叩きつけた。
「うーん、今の若い者は、魂が腐っとる」
 といって、傍をふりむくと、呼びもしない分隊長フランクが立っていた。
「あ、貴様は――」
「少将閣下。カワカミが生きている確かな証拠を申し上げにまいりました」
「なんじゃ、カワカミ? カワカミの亡霊にゃわしは用はないわい。生きているものなら、貴様ひっかついで、ここへ連れてこい。――ああこれでもしわしが神経衰弱にならなかったとしたら、それは医学界の一大不思議じゃ」


   非戦闘員の帰還


 途中までは、たいへんうまくいった飛行島の試運転も、一回のおわりのところで、思わぬ邪魔ものにとびだされ、はじめは大機嫌だったリット少将も、おわりには半分気が変なようになってしまった。
 演習の時間表など、めちゃめちゃになってしまった。それでも飛行島は、まず無事に元の錨地へ帰着することができた。錨をがらがらと入れたとたんに、東の空が白みだしたというわけで、実に際どいところで間にあったのだった。
 警備の飛行団も艦隊も、ほっと一息ついた。
 リット少将も、はじめてベッドに入った。
 それから七日の日数がたった。
 不思議と、それはおだやかな日がつづいたのだった。
 リット少将は、その間なにをしていたのであろう。
 彼は「鋼鉄の宮殿」に幕僚をよびあつめ、警戒を厳重にして、会議に余念がなかった。その間、島内の検挙も、手がゆるめられていたようだし、飛行島建設にしたがっていた三千人の技師や労働者たちも、もう仕事がないので、もっぱら共楽街へ入りこんで、底ぬけあそびに昼に夜をつぎ、夜に昼をつぎしていた。
 さて七日たったその日のこと。
 飛行島建設にしたがった技師や労働者は、全部甲板にあつめられた。
 リット少将よりお礼の言葉があるという噂だった。
 それは偽りではなかった。
 リット少将は、一段と高い壇上にのぼり、マイクを前にして立った。
「やあ、諸君。飛行島の建設に従事せられたる各国の技術者、および労働者諸君よ」
 と、リット少将は身ぶりよろしく、演説をはじめた。
「諸君の秀でたる技倆と、おどろくべき忍耐とによって、この南シナ海の護神まもりがみは、たいへん立派に出来た。我輩は、世界人類に代って、この大事業をなしとげた諸君に感謝をささげる。――さて仕事もだいたい終ったので、本日はこれより諸君全部に対し、週給の二十倍に相当するボーナスを給与する。これが我輩のなし能うところの最大のお礼である。それが終了した後で、汽船ブルー・チャイナ号を提供する。諸君は皆、このチャイナ号に乗って、それぞれ帰国してもらいたい。汽船は、この飛行島を出ると、まず香港に行き、次にシンガポール、次にコロンボまでゆく。ボーナスをうけとるときに、諸君はどの港で下りるか、それを申し出てもらいたい。汽船の出発は、なるべく早くしたいとおもうが、準備の都合もあり、夜に入るとおもう。いや、どうもながながありがとう」
 リット少将が、いつもに似合わぬ和やかな態度で挨拶をおわると、週給の二十倍のボーナスに興奮した大衆は、口笛をふき、足をふみならし、帽子をふってウラーを唱えた。
 いよいよ仕事はおわったのだ。
 そして今日は、たんまりボーナスをもらって、なつかしい自分の国へ帰れるのだ。
 国に帰れば、妻子がとびついてくるだろう。弟や妹が、御馳走をもって迎えにでてくるだろう。年老いた両親は涙をだしてよろこぶだろう。その眼の前へ、この飛行島で稼ぎためた金をみせてやるのだ。みんな、そのような大金をみたことがないので、気が遠くなるかもしれない。――などと、黒いのも黄いろいのも、褐色なのも、白いのも、それぞれはちきれるような歓喜に酔っぱらってしまった。
 リット少将は、この有様をみて、たいへん満足のようであった。
 ボーナスは、ほんとうに手渡された。
 香港で下してくれという者もあれば、コロンボよりもっと先へまで送ってくれないのですかと、慾ばった質問をする者もあった。
 皆は一旦解散したのち、自分の荷物をまとめると、また飛行島の甲板の所定の位置へ帰ってきた。爆笑の花園みたいである。誰の機嫌もいい。
 そのうちに、海底牢獄につながれていた囚人までが解放されたうえ、これにもやはりそれ相当の慰労金をさずけられ、甲板へさしてにこにこ顔で現れたのには、皆をさらにおどろかせたり、よろこばしたりなどした。
「リット少将てえのは、あんなに話がわかる人だとは、今日の今日まで思ってなかったよ」
「そうよなあ。まったくお前のいうとおりだ。リット少将さまは、話がわかりすぎて、気味がわるいくらいだよ。俺はな、うちの女房に、ダイヤモンドの指環をかってやるつもりだ」
 いやもう、どこの固まりでも、リット少将は福の神さまのように、あがめられていた。
 とうとう夜になった。
 甲板は、真昼のように明るく照明されている。二万四千トンの輸送船ブルー・チャイナ号は、桟橋にぴたりとよこづけになり、皆の乗りこむのを待っている。
 しかし乗船命令は、なかなか出なかった。
 午後八時が九時になり、十時になった。
 そろそろ不平をいう者も出てきた。
 英国軍人以外は皆立ち去らせるので、島内の捜索をさらに厳重にやっていて、それで出発時刻がおくれるんだと、どこから聞きこんだのか、したり顔に説明する者もあった。
 午後十時が、十一時になり、十二時をまわった。
「今夜はもう出発とりやめで、明朝に延期になるんだろう」
 などと噂しているところへ、午前一時になって、突然乗船命令が出た。
 一同は、水兵たちの制するのもきかず、われがちに桟橋へ殺到した。それを一人一人乗船させる。
 三千何百人の乗船には、たいへん手間どった。時刻は午前二時半になった。
 囚人も皆のりこんだ。
 一番後から乗ったのは、白い病衣をまとった東洋人を中心にした四人づれであった。白い病衣は外ならぬ杉田二等水兵の姿であった。傍には、可憐なる梨花と二人の英国人看護婦もつきそっていた。
 ああ皆、船にのって飛行島を出てゆくのだ。ああ意外も意外杉田二等水兵も、これでついに一命を拾ったらしい。まことに意外なるリット少将の慈悲ではある。
 司令塔からは、リット少将が双眼鏡片手ににこにこ笑って、この有様を見ている。


   非道と正義


 フランク大尉が唇をぶるぶるふるわせ、つかつかと少将の傍へよって来た。
「少将閣下。あれほど私が御注意申しあげましたのにもかかわらず、私がカワカミだと申す人物を、あの船の上へ逃がしておしまいになりましたね」
 リット少将は、フランク大尉の方へ顔を向けて、
「もうカワカミのことはくどくいうな。たといこの上カワカミを捕らえ、この飛行島に監禁しておいたところが、邪魔にこそなれ、なんにもならないのだ。お前も知っているとおり、本国からの訓令により、明日はこの飛行島がいよいよ重大任務を帯びて某方面へ出動するのではないか。もうカワカミのことは、忘れようではないか。そして一路、敵国艦隊を撃滅することに、専心するのだ。まあわしのすることを見ているがいい」
 リット少将は、うす気味がわるいほど、上々の機嫌だった。
 この老獪なる建設団長――いや、七日前に本国からの電信により、あらたに極東艦隊飛行島戦隊司令官に任命されたリット少将は、なぜそんなに機嫌がよいのであろう?
 実は、これには深い仔細があったのである。リット司令官の胸中には、戦隊の首脳部のほんの数名にしか知らせてないある策略が宿っていたのである。
 では、その策略というのは?
 大量の非戦闘員を出発させるというのに、わざわざ真夜中をえらんだのは、なぜか。
 監禁囚人はもちろん、大事な俘虜杉田二等水兵や、カワカミの容疑者などを、同じ船にのりこませたのは、なぜか。
 それ等の事柄を、いま飛行島の建設がおわったことと思いあわせて、読者はなにごとかを胸のうちに感じないであろうか。
 なんとなく重苦しい予感!
 いや、もっとはっきりいいあてていい。
 もう一つ、考える材料ができた。それは飛行島を放れて香港へ行くはずの汽船ブルー・チャイナ号が、奇怪にも今それと反対に、真南に航行していることである。
 リット少将が、にやにや笑っている。
 それとは露知らず、さんざん酔払って乗船した帰還団体の誰も彼もは、船がどっちを向いて走っているのか、そんなことは知ろうとしないで、なおも酒壜をかかえて、わあわあ騒いでいた。
 午前三時十五分!
 恐るべき悪魔の翼は、ついに汽船ブルー・チャイナ号をつつんだ。
 もしも非常に敏感な人が船上にいたとしたら、その人は最初、相当おびただしい飛行機の爆音を耳にしたであろう。それは英国空軍に属する警備飛行団が飛行しているのだと思ったであろう。そうだ、まさしくそのとおりであった。
 次にその敏感なる人は、汽船ブルー・チャイナ号の左前方に、ほほ並行の進路を保って、六隻からなる駆逐艦隊の明りが走ってゆくのを見たであろう。そして、それは英国海軍に属する警備駆逐戦隊だと思ったであろう。それもまた、まさしくそのとおりであった。
 空と海とからして、汽船ブルー・チャイナ号は護衛されて安全なる航海をつづけているのだ――と思ったであろう。
 だが次の瞬間、到底信じられないことが突発した。
 甲板上の灯火が、暗い海を船のまわりだけを、ほの明るく照らしていたが、その光の中に、突然海豚いるかの群のようにきらきら光る銀色の魚雷が群をなして船側目がけてとびこんだ――と思ったら、次の瞬間、天地も裂けとぶような大爆発が船内にひびきわたり、汽船は吹きとぶような大衝動をうけた。
「な、なに故の、味方の攻撃か」
 といぶかる暇もなく、こんどは甲板の上へ爆弾の雨!
 どどん、どどん。
 がーん、がーん、がーん。
 たちまち起る地獄変の絵巻――船体は火の嵐に吹きちぎられて、みる間に、どろどろと怒れる波間に吸いこまれてゆく。
 到底筆紙に書きあらわせない暗夜海上の大惨劇であった。
 生存者は幾人あるだろう。おそらく皆無とこたえるのが、当っているだろう。
 汽船ブルー・チャイナ号は、四千人にちかい乗組員と船客もろとも、電光の閃きのようなほんの一瞬時にして、影も形もなくなった。
 それは誰がやったのか?
 やったのは、何者だか分かっている。
 しかし憎むべきは、それを命じた者だ!
 リット戦隊司令官だ!
 リット少将の、うす気味わるい微笑の謎は、ここにはじめて解けたのだ。
「飛行島の秘密は、永遠に完全を護らなければならない」
 彼はそれを神の前でいい放ち、そして実行したのだ。なんという非道なことであろう。
 利益のためには手段を選ばず恥も知らないという、やり方がこれである。
 あわれ、誰も彼も、みな死んでしまった。一々名前をあげることさえ、われわれには忍びないではないか。
 しかし眼を蔽っていてはならない。そのなかに世界の公敵が大手をふって闊歩するのを見おとしてはならない。
 だが、正義は神である。飛行島を出発したときの汽船ブルー・チャイナ号に乗っていた者のなかで、危く命びろいをした者が少くとも二人はあった。
 その二人は、今暗い海上を互に呼びあい、励ましあって泳いでいる。
「どうだ、見たか。ずいぶんひどいことをやったじゃないか」
「は、見ました。全くおどろきました。しかし上官の機敏なる判断には、もっとおどろき入ります。もう十分、あの船の上でぐずぐずしていたら、今ごろは五体ばらばらになるところでした」
「うむ、俺の判断に狂がなかったというよりも、これは日本の神々が、われ等の使命をよみせられて、下したまえる天佑というものだ。おい杉田、貴様が意外に元気で、こんなに泳げるというのも天佑の一つだぞ」
「は、私は船内で上官のお顔を見つけたときは、うれしさのあまりに、大声で泣きたくて困りました。とうとう脱艦以来の目的を達して、川上機関大尉と御一しょに、飛行島攻略に邁進しているんだと思うと、腕が鳴ってたまりません」
「うん、愉快じゃ。しかしこんど飛行島で顔を見られたら、そのときは相手を殺すか、こっちが殺されるかだぞ。なぜといえば、飛行島の上には、東洋人はもうただの一人もいないのだからなあ」
「なに大丈夫です。そのときは日本刀の切味を、うんと見せてやりますよ」
 川上機関大尉は、早くもリット少将の悪企わるだくみを察し、汽船ブルー・チャイナ号出帆の約二十分後、二人は夜の闇を利用してひそかに海中にすべりこみ、この大危難から免れたのである。
 川上、杉田の両勇士は、目ざす飛行島に果して無事泳ぎつくことが出来るだろうか。その夜の南シナ海は、風次第に吹きつのり、波浪は怒りはじめた。杉田二等水兵は、まだ十分に快復しきっていない。心配なことである。


   ついに国交断絶!


 五月十七日。――
 この日こそ、千古にわたって記憶せらるべき重大な日となった。
 東洋一帯を、有史以来の大戦雲が、その真黒な大翼の下につつんでしまった日だ。
 飛行島の朝まだき、飛行甲板の上には、一台の軽旅客機が、今にも飛びだしそうな恰好で、しきりにプロペラーをまわし、エンジン試験をつづけていた。
 この軽旅客機は、実は一昨夜この飛行島にやってきたのだ。飛行機が着島すると、夜だというのにリット提督はわざわざ出迎えた。飛行機の中からは、二人の巨漢が下りてきて、リット提督と、かわるがわるかたい握手をした。それ以来ずっと、この軽旅客機は、今にも飛びだしそうな恰好で、飛行甲板にいるのであった。
 その二人の巨漢は、今なお鋼鉄の宮殿の中において、リット提督やその幕僚と向きあっている。誰の眼も、まるで兎の眼のように赤い。ゆうべからこっち、徹夜でもって相談がすすめられているらしい。したがってその相談の重要性についても大方察しがつくであろう。
 リット提督は、卓上にひろげた大きな世界地図を前にして、傲然ごうぜんと椅子の背にもたれている。左手にしっかりと愛用のパイプを握っているが、火はとくの昔に消えていた。よく見ると、広い額の上で、乱れた銀髪がぶるぶると小さく震えているのが分かるだろう。
「さあ、どうされるな。イエスか、ノウか、はっきり御返事がねがいたい」
 提督は、そういって、二人の巨漢に火のような視線を送った。
 この巨漢たちは誰であろう。
 一人は、例のソ連の特命大使ハバノフ。もう一人の巨漢は、その服装で分かるようにソ連武官――くわしくいえば、極東赤旗戦線軍付のガーリン大将であった。
 この両巨漢は、リット提督を前にして、しばらく小声で言葉のやりとりをしていたが、そのうちに両者の意見が一致したらしく、ガーリン大将は、すっくと席から立ち上った。
「わが極東赤旗戦線軍を代表して、本官は今英国全権リット提督閣下に回答するの光栄を有するものです。わが軍は、ここに貴提案を受諾し、只今より二十四時間後において、まず大空軍団の出動からはじまる全軍の日本攻略を決行いたします」
 リット提督は本国政府から、英ソ秘密会談について、とくに英国全権の重い職務を与えられていたのであった。
「私も、ともにお約束します」
 ハバノフ大使も、後から立って、同じことを誓った。
 リット提督は、それをきいて喜色満面、バネ仕掛のように椅子からとびあがって、両巨漢と、いくたびもかたい握手をかわしたのであった。
「ああついに貴国の同意を得て、こんなうれしいことはない。英ソ両国の対日軍事同盟はついに成立したのである。では今より両国は共同の敵に向かって、北方と南方との両方向から進撃を開始しよう」
「しかしリット提督。その軍事同盟の代償については、どうかくれぐれも約束ちがいのないように願いまするぞ」
「いや、それは本国政府より、特に御安心を願うようにということであった。わが英国は、印度の平穏と中国の植民地化さえなしとげれば、それでいいのであって、日本国の小さい島々や朝鮮半島などは、一向問題にしていないのである」
「それなればまことに結構です。それはとにかく、わがソ連と英国とは、もっと早くから手を握るべきであった。なぜなら、わがソ連政府はユダヤ人で組織せられているし、また貴国の政治はユダヤ人の金の力によって支配せられているのであるから、早くいえば、本家の兄と、そして養子にいった弟との関係みたいに切っても切れない血族なのですからねえ」
 この会話でもって察せられるように、英国はついにソ連を仲間にひき入れ、日本の前に武器をもって立ったのであった。
 ことがここまではこぶまでには、英国はずいぶんいろいろの策略をつかったが、殊に横須賀における日本少年の英国水兵殺害事件は、対日戦を起すのに一番都合のよい口実となった。しかしそれはどこまでも口実なのであって、対日戦の根源ははるか日中戦争にあった。いや、それよりももっと前、英国系のユダヤ財閥が、日本追い出しの陰謀を秘めて、中国を植民地化するために四億ポンドという沢山の資本をおろしたときにはじまったというのがほんとうであろう。
 ついにこの日、五月十七日!
 ここにわが帝国は、北と南との両方から、世界一の陸空軍国と、世界一の海空軍国との協同大攻撃をうけることとなった。
 もちろん宣戦布告などのことはなく、英ソ両国の精鋭軍団は、一方的に軍事行動を起したのであった。
 ああ危いかな大日本帝国!
 懐中ひそかに、恐るべき武器を忍ばせ、なにくわぬ顔して近づいてくる仮面の善隣を、はたしてわが帝国は見破ることができるかどうであろうか。
 軽旅客機が、ハバノフ大使とガーリン将軍をのせ、爆音高く朝日匂う大空にまいあがり、いずこともなく姿を消すと、それにつづいて飛行島内には、嚠喨りゅうりょうたる喇叭ラッパが、隅から隅までひびきわたった。
 渡洋作戦第九号による出航準備だ!
 いよいよ極東の戦雲は、一陣の疾風にうちのって、動きだしたのである。


   飛行島出動


 飛行島は、俄然活気をおびた。
 まだ収容しつくさなかった爆撃機や戦闘機などが、シンガポールから海を越えて続々と到着し、飛行甲板にまい下りた。中には飛行池に着水する水上機もあった。総出の整備員は、汗だくだくの大童おおわらわとなって、新着の飛行機をエレベーターにのせ、それぞれの格納庫へおろした。
 弾薬庫は開かれ、二十インチ砲弾をはじめ数々の砲弾が、それぞれの砲塔へおくりやすいように、改めて並べかえられた。
 甲板や舷側から、戦闘に不用なものは、ことごとく取除かれた。
 室内においても、不用な箱や卓子テーブルなどが別にせられ、そして甲板から海中へ投げ捨てられた。
 秘密砲塔を隠している仮装掩蓋えんがいは、しばしば電気の力をかりて、取外されたり、また取付けられた。
 共楽街は、大勢の水兵の手により、片端からうち壊され、小屋といわず、道具といわず、映写機のような高価なものまで惜し気もなく海中へ叩きこまれた。
 こうして夕方ちかくには、飛行島の内外は、生まれかわったように軍艦らしくなった。
 海を圧する浮城、飛行島!
 丁度そのとき、この飛行島戦隊に編入せられた巡洋艦、駆逐艦、水雷艇、潜水艦、特務艦などが合わせて四十六隻舳艫をふくんで飛行島のまわりに投錨した。
 リット提督は、得意満面、大した御機嫌で司令塔上から麾下きかの艦艇をじっと見わたした。
「ほほう、わが飛行島戦隊の威容も、なかなか相当なものだ。これなら日本の本土強襲は、案外容易に成功するであろう」
 提督は、戦わないうちに、自分の戦隊の勝利をふかく信ずるようになった。
 やがて夜となった。
 一切の出航準備は成った。
 ただ一つ気がかりなことは、昨日にひきつづき風が依然として治らないことだった。
 午後八時、リット提督はついに出航命令を下した。
「錨揚げ!」
 命令一下、電動機は重くるしい唸をあげて太い錨鎖をがらがらとまきあげていった。
 このとき飛行島内のエンジンは、一基また一基、だんだんに起動されていって、その響は飛行島の隅々までもごとごとと伝わっていった。巨大のエンジン群のはげしい息づかいだ。
「前進! 微速!」
 山のような飛行島は、しずかに海面をゆるぎだした。
 麾下の艦艇もまた、順序正しく航行をはじめた。
 駆逐戦隊の横列を先頭に、それにややおくれて潜水戦隊がつづき、その次に前後左右を軽巡洋戦隊にとりまかれて飛行島の巨体が進み、最後列には特務艦や病院船、給油船が臆病らしく固まり、殿しんがりには巡洋艦を旗艦とする別の駆逐戦隊がしっかり護衛していた。
 航空部隊の一部は、全艦隊の外二キロメートルの円周にそい、はるかな高度をとって、ぐるぐる旋回し、夜暗とはいいながら不意打の敵に対する警戒を怠らなかった。
 ああなんという堅い陣形であろう。海面、海底、空中の三方面に対し、いささかも抜目のない厳戒ぶりであった。さすがにこれこそ世界一の海軍国として、古き伝統を誇る英国艦隊の出動ぶりであった。
 風はしきりに吹き募り、暗夜の海面に、波浪は次第に高い。赤や青や黄の艦艇の標識灯さえ、ときには光を遮られ、しばらく見えなくなることさえあった。それは艦首にどっとぶつかる怒濤が、滝のように甲板上に落ちてくるせいだった。
「ほう、外はいよいよしけ模様だな」
「うむ。しかし不連続線だそうだよ。いまにはれるだろう」
 細い艦内通路を、肩をならべて歩いてゆく若い士官の会話だ。
 出航用意からはじまってここまで、まるで火事場のような忙しさの中にきりきり舞をしていた飛行島の乗組員たちは、やっと一息つく暇を見出した。艦内士官酒場へ入ると、そこではしきりにコップのかちあう音がきこえ、葉巻の高い香が匂っていた。
「一たいこれからわが飛行島は、どんな任務につくのかなあ」
 若い機関部の士官が、これはまた頼りない質問を、ある主砲の分隊付をしている同僚に出した。
「なんだ、これからどんな任務につくのかだって、そいつは、いくら機関部だって、ひどい質問だ。分かっているじゃないか、日本の本土を南の方角から強襲するのだ」
「やっぱりそうか。南の方から強襲するのか」
「なあんだ、君にも分かっているんじゃないか」
「そういう話は、機関部でも、もっぱらの噂なんだ。しかしそう簡単に、敵の本土に近づけるかなあ」
 と、たいへん心配そうである。


   極秘の作戦


「ははあ、分かった。君は日本の艦隊がどのように猛烈な抵抗をするか、それを心配しているんだろう」
 と、分隊付の士官は、赤い顔を前につきだした。
「そうさ。大きな声ではいえないが、連盟脱退後の日本艦隊はどこまで強いのか、底力の程度がわからないてえことだぜ」
 機関士官は、だいぶん恐日病にかかっているらしい。
「心配するな。こっちの作戦にもぬかりはないんだ。いいかね、こうなんだ。近くウラジボを根拠地とするソ連艦隊が、北方から日本海を衝こうとする一方、われわれは南から同時に衝く。そうなると日本の艦隊は、いきおい勢力を二分せにゃならんじゃないか。そこが付け目なんだ。日本の艦隊をして、各個撃破の挙に出でしめないのが、そもそも英ソ軍事同盟の一等大きな狙所ねらいどころなのだ」
「ふーむ、うまいことを考えたなあ」
 機関士官は、嬉しそうに、はじめてにやりと笑った。
「それみろ、いくら優勢海軍でも、二分されては、一匹の鮫が二匹の鮭になったようなもので、まるでおとなしいものさ。そこを狙って、こっちは爆弾と砲弾とでもって、どどどどっとやっつける」
「おい大丈夫かね。しかし日本の連合艦隊は、今も南洋付近に頑張っているのじゃないかね。そしてわれわれは当然、生のままの連合艦隊にぶつかるようなことになるんじゃないか」
「大丈夫だとも。今ごろ、敵の連合艦隊は、大騒ぎで北艦隊と南艦隊とに二分され、ウラジボに向かうやつは、重油をふんだんに焚いて、波を蹴たてて北上しているころだろう。北上組は巡洋艦隊で、南洋の辺に残っているのは主力艦隊だろうよ」
「うむ、すると戦艦淡路、隠岐おき、佐渡、大島や、航空母艦の赤竜、紫竜、黄竜などというところがわれわれを待っているわけだね。相手の勢力は二分されたといっても、これは相当な強敵だ。わが飛行島戦隊にとっては、烈しすぎる大敵だ。僕は、とても勝利を信ずることができない」
 機関士官は、また蒼くなった。
「あっはっはっはっ。貴公にゃ、臆病神がついていて、放れないらしい。そこのところには、こういう作戦があるんだ。いいかね。南洋方面にいる日本の主力艦隊に対しては、わが東洋艦隊が総がかりでもってぶつかることになっているんだ。しかもこちらから積極的に、敵の根拠地を襲撃するんだ。戦闘水面は、おそらくマリアナ海一帯であろう」
「ふーん、わが東洋艦隊は印度やシンガポールや香港を空っぽにして日本の主力艦隊にかからにゃ駄目だ」
「もちろんのことさ。しかしこういう場合を考えて、わが東洋艦隊は約三倍大の勢力に補強されてあるから、心配はない。そうして敵艦隊に戦闘をさせておいて、一方わが飛行島戦隊は、戦闘地域の隙を狙って、東径百四十度の線――というと、だいたい硫黄列島とラサ島との中間だが、そこを狙って北上するんだ。そうなると、われわれは明放しの日本本土の南方海面に侵入できるんだ。そこで早速飛行島から爆撃飛行団を飛ばせて、一挙にトーキョーを葬り去るんだ。なんといういい役どころではないか。われわれ飛行島戦隊なるものは、日本攻略戦の主演俳優みたいなものだ。大いにその光栄を感謝しなけりゃならん」
「ほほう、わが飛行島戦隊は、日本攻略戦の花形俳優にあたるのかね。ああそれはすばらしい幸運をひきあてたものだ。さあ、それならここで一つ、景気よく前祝まえいわいとして乾杯しょうじゃないか」
「よかろう。さあはじめるぞ。皆、こっちへよって来い」
「よし、集ったぞ」
「では、はじめる。飛行島戦隊の戦士たち、ばんざーい」
「ばんざーい。――この次は、飛行島をヨコハマの岸壁につけたときに、乾杯しようや」
「ああそれがいい。愉快愉快」
 士官酒場は、すっかりお祭騒になってしまった。


   濡れる二勇士


「おい杉田、どうだ、傷痕は痛むか」
 飛行島の縁の下ともいうべき組立鉄骨の間で、声がした。
 あたりは真暗で、人の輪郭も見えない。ひゅうひゅうと鉄骨の間をぬってくる烈風の響、ざざざーっと支柱をいのぼる激浪の音に、応える人の声はもみ消されて聞えない。
「そんな弱気を出してはいかんじゃないか。いや、俺のことなぞ心配しないでいい」
「でありますが――でありますが、上官の足手まといになる杉田であります。杉田は早く死んでしまいたいのです。私が死ねば、上官は、それこそ何事にもわざわいされずに、思いきって奮闘できるのであります。ああ私は、上官に大迷惑をかけるために、ついてまいったようなものです。ざ、残念この上もありません」
 わーっと男泣きに泣く声が、風の間に聞えた。二人の会話は、ちょっと杜絶えたが、
「ああ、もう何もいうな、杉田。川上は、そんなことをなんとも思っちゃいないぞ。敵と闘って、名誉の戦傷を負った貴様じゃないか。普通なら、病院船の軟らかいベッドの上に横たわって、故国の海軍病院に送還される身の上だ。しかしここは敵地だ。いや敵地どころか、敵の懐の中なのだ。可哀そうだが、これ以上、どうしてやりようもない」
「も、もったいないことです。上官、もう沢山です」
「うん、泣くな。俺のいいたいことは、そういう重傷をうけた身でいながら、今もこの潮に洗われている鉄骨の間で頑張っている貴様のおどろくべき忍耐力を褒めてやりたいのだ。おい杉田、貴様ぐらい立派な帝国軍人はないぞ。そしてまた貴様ぐらい上官おもいの忠勇なる部下はないぞ」
「上官、もう杉田は……」
 といって、その後は波浪の砕ける音に消えてしまったようである。
 療養まだ半ばにして、汽船ブルー・チャイナ号から海中にとびこんだ杉田二等水兵は、いくたびか波浪にのまれようとした。そのたびに川上機関大尉の逞しい腕が傍からさしのべられ、彼は溺死できしから救われたのだ。そしてついに、目ざす飛行島の鉄骨にとりつくことができたのだった。
 今では飛行島上には、英人以外の乗組員はただ一人もいなかった。だから彼等二人は、よしや飛行島に泳ぎついたとしても、もし島内でその姿を発見されれば、たちどころに引捉えられなければならなかった。折よく飛行島は出航準備で島内の警戒がゆるんだので、二人の隠れ場所は安全となったが、それは一時のことである。彼等の運命は、依然として風前の灯であった。
 だが日東男児は、いかなる危険をも恐れない。いかなる艱難かんなんも、よくこれをしのぐのである。ことに川上機関大尉には、まだはたしおわらない大任務があった。それは飛行島の偵察だ。いやそればかりではない。彼は一命を賭して、飛行島の爆沈を計画しているのであった。この恐るべき大飛行島を、このまま祖国の近海に近づけては、たまるものではない。二十インチの巨砲群、八十台にあまる重爆機隊、そういうもののねらいの前に、一天万乗いってんばんじょうの君まします帝都東京をはじめ、祖国の地を曝させてはたいへんである。一命のあらんかぎり、彼は飛行島の爆破を断行する決心だったのである。
 杉田二等水兵は、上官の後を慕ってこの飛行島に泳ぎついたが、上官のこの大決心を察していた。彼は上官の腕となり脚となって働こうと思っていた。しかし不幸にも敵弾をうけて、今では平生の十分の一の力もない。自分が生きていたのでは、川上機関大尉が、自由に活動できない。この上は無念ながら、せめて自殺して、大尉の足手まといになることを避けたいと思ったが、早くもそれを悟った川上は、杉田二等水兵をきびしく叱りつけ、そして励ましているのだった。このところ杉田にとっては、生きるに生きられず、死ぬに死なれぬ苦しさであった。
「おい杉田」
 川上機関大尉の声だ。
「はい」
「俺はこれから、ちょっと上へのぼって、飛行島の様子をさぐってくる。お前は、短気をおこさず、ここに待っていろ」
「はっ。上官、杉田もぜひおつれください。私とて敵の一人や二人は――」
「いや、まだ襲撃をやるわけではない。いずれ襲撃をやるときは、かならずお前をつれてゆく。それを楽しみに待っておれ。今は偵察にゆくんだ。敵状を知らねば、斬りこみようもないではないか」
 と、川上機関大尉は持っていた日本刀の柄を叩いた。
 この日本刀は、大尉が一振、杉田が一振もっていた。こんなところで日本刀を手に入れたのは、不思議というほかはないが、実はこれにも神明の加護があったのである。それは川上がブルー・チャイナ号に乗船したときのことだった。彼は飛行島に潜入したときに近づきになった比島の志士カナモナ氏が数本の日本刀を持っているのを見て、無理にねだって、二本を譲りうけたものであった。それは二人の勇士にとって、この上もなき利器であった。
「はっ、では杉田は、ここで部署を守っております」
「よし、しっかり頼んだぞ」
「では、御無事を祈っています」
「うむ、行ってくる。くれぐれも短気をおこしてはならんぞ。――ああそうだ。俺が行ってしまって、力のないお前が、万一激浪にさらわれてはいけない。そういう危険のないように、お前の体を、この鉄骨にしばりつけておいてやろう」
 川上機関大尉の心は、どこまでも注意ぶかく、そして傷つける部下の身の上にやさしかった。


   小暗い下甲板


 川上機関大尉は、半裸体に、日本刀を背中に斜に負い、組立鉄骨をのぼっていった。
 鉄骨の表面は、海水にじめじめと濡れていて、リベットに足をかけると、そのままずるずると滑りおちて腕をすりむいたり、足の生爪をはがしたり、登攀とうはんはなかなか容易な業ではなかった。それでも三十分あまりの後、彼はとうとう最下層の甲板までたどりついた。
 甲板の隅で、川上機関大尉はしばらく息をいれていたが、そのうちに元気をとりかえしたものと見え、その狭い通路を匐うようにしてそろそろと場所をうごきだした。
 すると、真正面から、いきなりあらあらしい足音が近づいた。
 川上機関大尉は、はっと体を縮めるなり、飛鳥のようにカンバスのうしろにとびこむと、そのかげに平蜘蛛のようにぴったりとはりついた。
 やがて彼の眼の前を、長身の水兵が鼻唄まじりで、風のように通りすぎた。
(おお、気づかれずにすんだか。もちっとで鉢合せをして、呼笛でもふかれるところであった)
 川上機関大尉は、ほっと胸をなでながら、積みかさねられたカンバスの山のかげから姿を現した。
 すると今度は、反対に後方から、別のあらあらしい足音が聞えた。
(あっ、見つかってはたいへん!)
 もうカンバスの山にかえる暇はなかったので、思いきって通路を向こうへ、つつーと栗鼠りすのように駈けぬけた。
(どこか、隠れるところはないか)
 と、そこに見えた横道にとびこむと、これがなんと行きどまりの袋小路だった。
(しまった!)
 と思ったが、もうおそい。
 足音はいよいよ近づいた。息をのむ間もなく、飛べば二足ほどの向こうの角へ一人の下士官が姿を現した。
(見つかった)
 下士官は、川上機関大尉のとびこんだ袋小路へ顔を向けた。そしてあっというなり、たじたじと後へさがったが、すばやく右手を肩にかけたサックに伸ばしたと思うと、とりだした一挺のピストル。
 もうおしまいだった。
「えい!」
 川上機関大尉の体が前かがみになったと思ったら、右手にさっと閃いた白刃はくじん
 ばさりという鈍い物音と、う――むといううなり声とが同時におこった。下士官はピストルをがらりと投げすてると、首のところへ手をもってゆくような仕種しぐさをしたが、そのときはもう甲板の上に、仰向けになって倒れ、呼吸いきがたえていた。
 じつに見事な腕のさえであった。相手の下士官は、ついに一発の弾丸も放たないで、あの世へ旅立ったのだ。
「おお、この服装が欲しかったのだ」
 川上機関大尉の狙っていたお土産は、向こうから転がりこんだようなものであった。彼は駈けよるなり、早いところ倒れている下士官の服を脱がしてしまった。そしてすばやく自分の身につけた。傍に転がっている下士官帽も役にたった。彼はすっかり英国海軍の下士官になりすました。百八十センチの長身をもった川上機関大尉に、それはちょうど頃合の制服だった。
(やあどうも、すっかり結構な支度を頂戴してしまった。遺骸に御礼をいって、人に見られないうちに、片づけてしまおう)
 大尉は、下士官の遺骸を横抱にかかえ、舷側から海中へ放りこんだ。逆まく波は、その遺骸をのんでちょっとした水煙をたてたが、水音は嵐に消されて、それほど耳にたたなかった。
「おう、どうしたんだ」
 突然、うしろから肩を叩かれた。それはまったく思いがけないできごとだった。
 その瞬間、川上機関大尉の脳髄は、びりびりと痺れた。とうとう見つかったのか。
「おや、ここに変なものが転がっている。これは日本刀じゃないか。そして、あっ、たいへんな血だ! おい、これは一体どうしたんだ」
 とうとう最悪の場合となった。
 しかし、あわててはいけない。
「なあに、大したことではないよ」
「なに?」
「黙れ!」
 川上機関大尉は、くるりと身をかえすが早いか、相手の脾腹めがけて、得意の当身を一つ、どーんと食わせた。
「うーむ」
 へたへたと足許に崩れるようにのびたのを見れば、これも下士官だった。なんと弱い奴ばかりではないか。
(そうだ。杉田の用に、この下士官の服をもらってゆこう)
 川上機関大尉は、また相手の服をぬがせにかかった。
 ところが、この相手はなかなか手強い奴だった。彼は人事不省を装っていたのだ。だから川上機関大尉のちょっとの油断をみすますなり、隠しもっていた呼笛を口にあてて、ぴーいと一声高く、乗組員に急をつげた。
「うむ、やったな!」
 川上機関大尉は、電気にかかったようにとびあがった。そこへつけこんで、相手の巨漢は、むずと組みついてきた。
 川上機関大尉は、舷に押しつけられてしまった。大した力の相手だった。川上は懸命に、相手の胸許にこっちの頭をつけて、押し潰されまいと耐えているが、相手は勝ち誇ったように、いよいよぐんぐん押しつける。
 川上機関大尉の武運は、眼に見えて悪くなった。そうでなくとも、ここ連日の苦闘と空腹とに、かなり疲れている川上機関大尉だった。はりきった牡牛のような英国下士官とは、とてもまともな力くらべはできまいと思われた。
 そのとき、向こうの方で、あわただしく集合喇叭ラッパが鳴った。さっきの呼笛を聞きつけて、警備班が出動をはじめたらしい。早くも奥の通路から、入りみだれた靴音が聞えてきた。こうなっては、わが川上機関大尉がいかに勇猛であるといっても、敵勢を押しかえすことは、まず困難ではないかと思われた。
 壮図はついに空しく、わが大勇士川上機関大尉は飛行島の下甲板に散るのであろうか。
 もしそんなことがあれば、いま組立鉄骨の間に病体をしばりつけて、ひたすら彼のかえりを待ちわびているはずの杉田二等水兵は、どうなるであろうか。
 このときわが勇士の様子をみるなれば、彼は、猛牛のごとき敵の下士官とがっちり組みあったまま、一、二、三、四としずかに呼吸をかぞえていた。そして彼の眼は、ときどきちらりと足許に転がっている日本刀の方へうごいていた。
 川上機関大尉は、いま何を考えているのであろうか。
 飛行島戦隊は、このさわぎをよそに、風雨荒れ狂う暗闇の南シナ海をついて、ぐんぐん北上してゆくのであった。


   消えぬ怨


「リット少将!」
 提督は、わが名を呼ばれてびっくりした。その声は少女の声であった。
「リット少将!」
 また呼んだ。
 リット少将は、その声のする方を見た。そこは真青な海原だった。絵に描いたような美しい夜の海原だった。少女の声は、すぐ下の波の間から聞えるのだった。
「誰か?」
「私です」
 それは聞いたことのある声だった。しかしリット提督には、声の主の姿が見えなかった。
(不思議なことがあればあるもの……)
 提督は念のために舷のところまで歩いていった。そして舷側につかまって下を見た。
「おお」
 提督はぎくりとした。
 舷側を洗う白い飛沫しぶきの上に、一人の少女の寝姿があった。梨花だ。中国少女の梨花だ。鋼鉄の宮殿の中を、栗鼠のようにちょこちょこととびまわって、雑用をつとめていた梨花の姿だった。
「梨花か。なぜそんなところに寝ているんだ。波にさらわれてしまうではないか。早く甲板へあがってこい」
「リット少将。私は、甲板へあがりたくてもあがれないんですの。リット少将、手を貸してください。私をひっぱりあげてください」
「ふん、厄介やっかいな奴じゃ。ほら、手を出せ」
 提督は手を出して、梨花の手を握った。それはびっくりするほど冷たい氷のような手であった。少女一人くらいと思って、提督はひっぱりあげにかかったが、どうしたのか大盤石のように重い。
「うーん、これは重い。梨花どうしたのか。お前なにか腰にぶらさげているのではないか」
「ええ、わたくしの腰から下に、皆さんがぶらさがっているのですわ」
「皆って、誰のことだ」
 提督は、ぎょっとして、改めて海面を見おろした。
 そのとき不思議にも、海の中は電灯がついたように、明るくなった。そして梨花の腰から下にとりすがっている真青な顔をした二人の看護婦の姿が見えた。またその看護婦の下には、顔や肩を赤く血に染めた大勢の苦力クーリーがぶらさがっている。そのまた下に、川上機関大尉や杉田二等水兵も見える。そのほか印度人やフイリッピン人や白人や、見れば見るほど何百人というたいへんな数である。彼等は、海底に横たわる一隻の汽船の船腹を足場として、人梯子をよじのぼってくる。海底にある地獄の風景だ!
 ぐーっと、肩もぬけそうな強い力が、リット提督を海中へひっぱりこもうとした。
「こら、無茶をするな」
 そのとき提督は、海底に横たわる船腹にブルー・チャイナ号という船名を読んだ。
「あ、ブルー・チャイナ号! わしが沈めた汽船だ。さては、この連中は」
 提督の背筋が急に冷たくなった。
「うっ、亡者ども、わしを海中へひっぱりこもうというのか。なにくそ、ひっぱりこまれてたまるか」
 提督は、あぶら汗をかいて、うんうんうなりだした。ひっぱりこまれまいとするが、刻一刻、提督の体は舷を超えて海面へ落ちようとする。恐しい執念だ。――
「リット提督!」
 提督の耳に、はげしく扉を叩く音が聞えた。
「ううーん、ううーん」
「提督、どうされました。スミス中尉です」
「なに、スミス中尉。お前もか」
 と叫んだが、途端に提督は夢からはっと覚めた。彼はベッドの中で、自分で自分の喉をしめていたのだ。
「ああ夢だったか。恐しい夢もあったものだ。ああ、夢でよかった」
 提督は、全身汗びっしょりだった。
 つづいてはげしいノックの音!
「提督、ど、どうされました。スミス中尉です。早くここを開けて下さい」
「おお」提督はほっと大きな息をついて、ベッドからよろよろと下り、「スミス中尉か。いま開けてやる」
 扉を開けると、外は真暗で、嵐を呼ぶ物凄い潮風が、ひゆうひゅうと鳴っていた。そして、きりっとした武装に身をかためたスミス中尉が、片手には手提てさげ電灯を、また片手にはピストルを握り、一隊の水兵をひきつれて立っていた。


   非常呼集


「おお、スミス中尉か。よく来てくれた。しかし夜中、一たいこれは何ごとか」
 リット提督は、心におぼえのある悪夢にしいたげられ、まだ幾分の弱気で中尉にすがりつかんばかりだった。
「ああ提督閣下」とスミス中尉は、まじまじと正面から顔うちながめ、
「御病気ではなかったのですね。それはよかった」
「うん、――」
「提督閣下。哨戒艦から、しきりに信号があります。どうもわが飛行島大戦隊を外部から窺っているものがある様子です」
「なに、外部から窺っているものがあるというのか。また日本の潜水艦か」
「いや、それはまだはっきり分かっていません。とにかく、わが戦隊は目下極秘航行中でありますので、無電を発することを禁じてありますため、信号がなかなかそう早くは取れないのであります。無電を出すことをお許しになりませんと、わが大戦隊はいざというときに、大混乱をおこすおそれがあります」
「いや、無電を出すことを許せば、わが飛行島大戦隊の在所ありかを、敵に知らせるようなものじゃ。そいつは絶対に許すことができぬ」
 リット提督はこのへんで、やっとふだんの提督らしい威厳をとりもどしたようであった。
「はあ、分かりました」
 スミス中尉は、やむを得ないという顔をして、
「では当直へ、そのように伝達いたします」
「うむ」
 スミス中尉が、室を出てゆこうとした時、
「ああスミス中尉。ちょっと待て」と提督は声をかけた。
「はあ、何か御用でありますか」
「わしは今夜司令塔へ詰めようと思う。だからあと三十分も経ったら、ここへ迎えにきてくれんか」
「はい、かしこまりました。すると今夜はもうお寝みにならないのですか」
「うん、わしは今夜、もう寝るのはよした」
「御尤もです。私も今夜あたり、どうも何か起りそうな気がしてなりません。提督が司令塔にお詰めくだされば、わが飛行島の当直全員もたいへん心丈夫です」
 スミス中尉は、提督が悪夢におびえて睡られなくなったのだとは知らないから、リット提督が司令塔へ出かけるようでは、今夜はよほど警戒しなければならぬわけがあるのだと思った。
 リット提督も、スミス中尉を戸口まで送ったが、彼の耳には、甲板の索具にあたって発するすさまじい嵐の声が、なんだか亡霊の呻声のように思われた。
 中尉が水兵たちをひきいて立ち去ろうとした時、はるか後方の下甲板から、警笛がひゅーっとひびいた。そしてピストルの乱射の音につづいて、うわーっという鬨の声があがった。
「あ、あれは何だ」
 リット提督は、きっとなった。
「さあ、どうしたのでしょうか」
 スミス中尉も怪訝な面持であった。彼はまだ何の報告もうけていない。
 その時、甲板を一散にこっちへ駈けてくる下士官があった。彼は、提督室から洩れる灯かげを片面にうけて立っているスミス中尉を認めるや、
「おおスミス中尉!」
 と、息せききって声をかけた。
 スミス中尉が、何かいおうとした時、かの下士官は、息をはずませて叫んだ。
「スミス中尉、飛行島内に、怪漢がまぎれこんでいて、下士官が二名やられました。すぐ下甲板へおいでを願います」
「なに、怪漢がまぎれこんだと。よし、すぐ行く。全隊、駈足!」
 スミス中尉は、怪漢暴行中との知らせをうけ、さてこそ大事件発生だとばかり、下士官のいうことをよくも確めず、宙をとぶようにして駈けだしていった。
 残ったのは、伝令と称する下士官ひとりとなった。
 リット提督は、不安の面を向け、
「おい、下甲板で、どんなことが起ったのか。早くその様子を話して聞かせよ」
「はい。大変なことになりました。怪漢はやがてこっちへやって来るかもしれません。提督、どうか奥へおはいり下さい」
「うむ、――」と、提督は、後退りしながら、はっとした思いいれで、
「おお、お前は誰か」
「私は――」
「お前は怪我をしているじゃないか。胸のところが、血で真赤だぞ。お前はそれに気がつかんのか。おや、右の腕も――」
「リット提督閣下。御心配くだすって、なんとも恐れいります。が、まあ中へおはいり下さい」
 かの血まみれの下士官は、提督につづいて、ひらりと室内へはいった。そして扉をぴたりと閉めた。そのとき提督は、かの下士官が、なにか棒切のようなものを、後にさげているのを認めた。それは室内にはいって、電灯の光を反射して、きらりと閃いた。
「うむ、お前は――」
 提督は、驚きのあまり、言葉を途中でのんだ。そして顔面蒼白!
 この下士官こそ、誰あろう、われ等が大勇士、川上機関大尉、その人であったのだ。


   巨人対巨人


 リット提督対川上機関大尉!
 巨人と巨人との、息づまるような対面だ。飛行島は、まだ何事も知らず、闇夜の嵐のなかをついて、囂々ごうごうと北東へ驀進ばくしんしつづけている。
 どうして川上機関大尉がここへ姿を現したか。彼は下甲板の格闘で、強力無双の敵下士官のため、すでに手籠にあおうとしたが、幸いにも伸ばした右手が、甲板に転がっている日本刀にかかったので、苦もなく強敵を斃すことができ、そのまま血刀をひっさげて、リット少将を襲ったのであった。
「うむ、お前は――」
 リット提督は、じわじわと後へ下ってゆく。
「提督、もうどうぞその辺で、お停りください」と、川上機関大尉はどっしりした声に、笑みをふくんでいった。
「うむ、――」
 提督は、もう唸るばかりだ。銀色の頭髪が、かすかに震えている。
「提督。今日までに、よそながらちょくちょくお目にかかりましたが、こうして正式に顔を合わしますのは、只今がはじめてであります。申しおくれましたが、私は大日本帝国海軍軍人、川上機関大尉であります」
「うむ、カワカミ! 貴様は、まだ生きていたのか」
「そうです。生きているカワカミです。こうして親しくお目にかかれることを、永い間待ち望んでいました。私としましては、この上ないよろこびであります」
「もうわかった。そんなことはどうでもよい。わしの室へ、物取のように闖入するなんて、無礼ではないか。な、何用ではいってきたのか」
「いや、その御挨拶は恐れ入りました。宣戦布告はなくとも、わが帝国領土を攻撃せよとの戦闘命令は、ロンドンよりすでに貴下の懐へ届いているはずではありませんか。お分かりにならねば、提督の後にひろげてございます海図の上をお調べになりますように」
 超航空母艦飛行島が、日本空爆の目的をもって、刻々わが本土に近づきつつあることを指されて、リット提督は眼を白黒。
「それがどうした。何もお前の指図はうけない」
「そうはまいりません。貴下の生命は、いま私の掌中にあるのですぞ」
 といって、川上機関大尉は、血に染んだ日本刀を前に廻してきっと身構えた。
 リット提督は、それを見ると、ぶるぶると身ぶるいした。日本刀の持つ底しれぬ力が、この提督の荒胆をひしいだのだ。
「斬るか。斬るのは待て。な、なにをわしに要求するのか」
「それなら申し上げます。飛行島の内部は、すっかり見せていただきましたから、私は今、この飛行島をそっくり頂戴したいと思うのです。分かりましたか」
「な、なにをいうのか。そ、そんな馬鹿げたことを」
「いや、すこしも馬鹿げてはいません。貴下を征服している私は、飛行島をこっちへお渡しなさいと命令しても、何もおかしいことはありません。飛行島の進路は、このまま変えなくてもよろしい。しかし今後、すべての命令は私が出します。そこで、まずすぐ無電班長をよび出して、波長四十メートルの短波装置を起動するよう命じてください。その上で私は、本国の艦隊へ、飛行島占領の報告をするつもりです」
「ば、馬鹿な、誰がそんなことを――」
「命令にしたがわねば、私は閣下を斬り、私の使命を果すまでであります。覚悟をなさい」
 すると提督は、なにを考えたか、急に眼をかがやかし、
「待て。命令に従う。では、無電班長を呼びだすから、あとは思うようにやりたまえ」
「うむ、よくいわれた」
 提督は、二、三歩歩いて、卓子テーブルの方へ近づいた。
「提督。自由に動いてはいけません」
「いや、電話をかけて、班長を呼びだすのだ」
 提督は、卓子にかがんで、受話器をとりあげた。
「おい、無電班長をよんでくれ」
 そういって提督は、すぐ元のように受話器をかけた。
「カワカミ君。いまにベルが鳴って、無電班長が電話に出る」
「そうじゃありますまい。ほら、そこに見えるのは何ですか。貴下が卓子の下から右手に掴んだものは――」
「えっ」極度の狼狽をみせて、提督は態度を一変した。彼の顔は、興奮に燃えている。その右手には、一挺のピストルがしっかと握られ、狙はものの三メートルとはなれていない川上機関大尉につけられ、どどどどーんとつづけざまに数発の銃声!


   怪無電


「卑怯者!」
 と叫んだのは、川上機関大尉だった。
 大喝一声、とびくる銃弾をものともせず、彼はぱっと身をひるがえして、提督の手もとにおどりこんだ。
 近距離の射撃が、一向、効を奏さなかったのは、提督があまりに気をあせっていたためであった。
「しまった」
 と思ったときは、もうすでに遅かった。ピストルを握っていた提督の右手首は、硬いもので強くたたかれた。
(斬られた?)
 と思ったが、違っていた。提督はピストルをぽろりと床に落した。右手はまだちゃんとついていた。だが切れて落ちそうに痛む。左手でそれをおさえて、提督はへたへたと絨毯のうえに膝をついた。
 川上機関大尉は、刀の背で峰打をくわせたのだった。
 提督は、その次の瞬間、川上のために真向から日本刀でざくりと斬りさげられるだろうと覚悟をして、両眼を閉じた。
 だが一向に、太刀風が聞えてこない。提督は不思議に思って、眼を細目にひらいてみた。川上は刀をさげて、じっと立っている。斬りつけるかまえではない。
「川上機関大尉。貴下はなぜ余を斬らないのか」
 川上は叱りつけるように、
「日本人は勝って情を知る。貴下はもう完全に敗けたのだ。ピストルには手が届かない。貴下は無力だ」
「なぜ斬らないのか、余には分からぬ」
「分からないでもよろしい。飛行島は私がもらいました。だが、貴下が呼びだしたはずの無電班長が出てこないのはどうしたわけか」
 そういっているとき、扉がどんどんと、破れんばかりに叩かれた。扉の向こうには、大勢の声が喚いている。
「提督、スミス中尉です。今助けますから、頑張ってください」
 スミス中尉が、急を知って引返してきたのであった。
 そのとき、電話のベルが鳴りだした。
「提督、電話に出て下さい。そしてその電話を、無電機につなぐように命ずるのです」
 提督は、川上機関大尉の命令と、今にも破壊しそうな扉の両方に気をとられて、まごまごしている。しかしついに電話に出て、川上のいいつけにより命令を発した。電話は無電機につながれたらしく、提督は絶望の色をうかべた。
 扉は、もう一息で破壊されるであろう。しかし川上機関大尉は、電話機を提督の手からひったくった。
「ああ、大日本帝国海軍、艦隊本部へ報告。只今、川上機関大尉と杉田二等水兵とは、英国海軍の大航空母艦飛行島を占領せり――」
 ああなんという奇抜な報告だろう。飛行島から発せられたこの日本語の電話は、かならずや日本人の何人かに聞きとられたに相違ない。
 その瞬間、重い扉はどーんと叩きやぶられた。大勢の士官と水兵との食いつきそうな顔が見えた。あっ、危い。次の瞬間、弾丸の雨、銃剣の垣だ!
 しかし川上機関大尉は、まだ電話機を離さなかった。生死を超えた毅然たる勇姿だ。
「――大日本帝国、ばんざーい」
 その声が終るが早いか、電話機は紐線ちゅうせんもろともぷつりとひきちぎられた。川上が力まかせにひきちぎったのだ。彼の腕がぶーんと鳴った。
 がちゃーんと烈しい音がして、提督室の天井に点いていた電灯が笠もろとも、粉々に壊れ散った。川上機関大尉が、電話機をなげつけたのだ。狙はあやまたなかった。室内は一瞬にして真暗になった。
「カワカミを逃がすな。撃て!」
 逆上したか、スミス中尉が叫んだ。
 銃声がつづいた。暗中に、銃口から吐きだされる錆色の焔。
 うわーっと、奥の方でうめいた者がある。そして床の上に転がったらしい物音。
 川上機関大尉がやられたのか?
 いや、彼は飛鳥のように身をかわして、出入口にすりよると、警備隊と入れかわって、さっと外にとびだした。
 甲板は冷たい雨と風とにたたかれていた。しかし夜明が近くなったとみえ、空がぼんやり白んでいた。
 甲板を昇降口の方へ一散に走りながら、川上機関大尉は組立鉄骨の間に残してきた杉田二等水兵のことを心配した。もう夜が明けるとすると、早く彼をどこか別のところへ隠さなければならない。あのままでは、きっと見つかってしまうであろうと思った。
 太い鋼索をたよりに、昇降階段をすべるように駈けおりていたとき、とつぜん彼の鼻先にどーんと大きな音がして、空中に赤と青との星がばらばらと散った。花火だ。
「あっ、花火信号だ。非常警報だぞ。全戦隊に呼びかけたものらしいが、はて何ごとが起ったのかしら」
 と、いぶかる折しも、下の飛行甲板から叩きつけるような爆音が起り、一台の飛行機がぶーんと滑走路を走りだした。そして飛行島を飛びだした。
「おお、飛行機の出動だ。いまごろ何事が起ったというのか」
 川上機関大尉は、つぎつぎに起る不審な出来事に、小首をかしげたが、そのとき後にあたって、わーっという喊声かんせいが聞え、それと同時に、ぴゅーんと一発の弾丸が頭の上をかすめてすぎた。
「見つかったらしい。よし、こんなところで撃たれてはならぬ。もう一息だ」
 川上機関大尉は、残りの階段を一気にかけおりた。また一台の飛行機が、爆音高く飛行甲板の上を走り去るのが聞えた。
 このとき川上機関大尉の頭の中にすばらしい考えが、電光のように閃いた。


   天のあたえ


「そうだ。千載一遇の機会が向こうからやってきたのだ。これも神様の助であろう」
 川上機関大尉は、ちょっと眼を閉じて、黙祷した。そして次の瞬間には、大尉ははや日本刀を片手にさげ、飛行甲板をうように駈けだした。
 彼の眼は、飛行機の出発点にそそがれている。そこには、微かな灯火が光っていた。下からエレベーターが飛行機をのせて上ってくる。四五台の飛行機が翼をすれすれに、ごたごたしているのが見える。大勢の整備員が、その間を入りみだれて走っている。エンジンをかけている者もあれば、別なところに設けられた爆弾庫の口から爆弾をかついで、廊下づたいに甲板へ出て、飛行機に積んでいる者もある。爆弾庫の口は、鋼鉄宮殿の一角に隠れて設けられてあり、爆弾ははるか下の艦底にある爆弾庫から、エレベーターにのって入れかわり立ちかわりするすると上ってくるのであった。
 川上機関大尉が眼をつけたのは、いま飛行機に積もうとしている爆弾であった。
 爆弾は、爆弾庫ぐちから水兵の手によって甲板に運ばれ、ひとまず飛行機エレベーター脇の甲板の隅に積みかさねられた。すると飛行機づきの整備兵が、その爆弾の山から一個ずつとって、飛行機の胴につりさげるのであった。川上機関大尉は、なにくわぬ顔をして、爆弾の山に近づいた。
「さあ、今だ」
 彼は、大胆にも、無造作に一個の二キロ投下破甲爆弾をむずと小脇に抱えとるや、なに食わぬ顔をして、すたすたと歩きだした。
 誰も、これを怪しむ者がなかったのは、天佑というべきであった。誰も忙しく立ち働いていたので、気がつかなかったのだ。
 彼は悠々せまらぬ態度で、鋼鉄宮殿の中にはいった。中から一人の水兵が出合いがしらに、川上機関大尉にぶつかった。はっと思う瞬間だったが、水兵はおどろいてとびのくなり、挙手の敬礼をして走りさった。
 だが、油断は大敵であった。
 細心の注意をもって、川上機関大尉は、うす暗い廊下を奥へ進んでゆく。彼の目的は、一たいどこにあるのであろうか。
 いうまでもなく、爆弾庫を狙っているのである。小脇に抱えている投下爆弾を、爆弾庫になげこんで、一挙にして飛行島を破壊し海底に沈めてしまおうというのであった。
 なんという破天荒の計画であろう。またなんという大胆な行動であろう。
 爆弾庫の口が、やっと見えた。
 川上機関大尉は、さあもう一息だとばかり、爆弾を小脇にしっかり抱えて、つつーっと小足早に駈けだした。
「待て!」
 いきなり後から、川上機関大尉の肩をつかんだ者がある。
 ふりはなして、走ろうとすると、また肩をつかまれた。
「待て! 怪しい奴だ」
 大力でもって、川上はずるずるとひきよせられた。
 誰? ふりかえると、フランク大尉であった。
「あ、貴様、まだ生きていたのか。そんな恰好をしていても俺はだまされないぞ」
「えい、放せ」
「放してたまるか。そこに抱いているのは爆弾ではないか。おい、それをどうする気か」
「なにを!」
 フランク大尉は、鉄拳を固めて川上機関大尉の頤を狙ってつきだした。二人の組打となった。爆弾はどんと下に落ちて、ごろごろと壁の方へころがった。
 川上機関大尉も懸命だが、フランク大尉の強いことといったら、話にならぬ。
 組打が長びいて、フランク大尉の加勢が五人十人とふえて来ては面倒だ。機関大尉は気が気ではなかった。
(残念だ! もう一歩というところで――)川上のはらわたはちぎれるようであった。
 そのとき何者か、川上機関大尉の落した爆弾に駈けよって、ひょいと肩にかついだ者があった。


   輝く二勇士


「おお、その爆弾に手をふれる奴は、うち殺すぞ」
 川上機関大尉は、必死で呶鳴った。
「上官、もうすっかれ敵に囲まれました。爆弾は上官に代り、私が持って投げこみます」
「おお杉田か。貴様はどうしてここへ」
「どうして私ばかりがじっとしていられましょう。私は縛られた紐をといて下甲板に上り爆弾庫を狙って来たのです。が、今ここで会うのは、天の引合せです。――や、機関銃隊が出てきました。もう猶余はなりません。では上官、お別れです」
「おう杉田。では頼むぞ。爆弾の安全弁を外すことを忘れるな」
 敵と引組んだまま甲板に転んでいる川上機関大尉は、フランク大尉の鉄拳の雨に叩かれながら、喉もはりさけるように叫んだ。
 杉田の返事は、もうなかった。
 甲板の薄明の中に、重傷まだ癒えぬ杉田二等水兵が、爆弾をしっかり小脇に抱いて、とととっと走ってゆくその後姿が見えた。川上にとって、それが杉田二等水兵の見納となった。
「――天皇陛下、ばんざーい」
 血を吐くような絶叫がかすかに聞えた。それは正しく杉田二等水兵の声であった。そのとき彼の姿は、爆弾庫の口から消えていたのだ。彼は爆弾の安全弁を外すと、そこへ飛びだした敵の水兵を片手で殴り倒すが早いか、爆弾を抱えたまま、爆弾庫の中に身をおどらせてとびこんだ。川上機関大尉に代り、身をもってこの大任務を遂行したのであった。
 杉田の姿が見えなくなると、川上機関大尉は、全身の力をふるって逆にフランク大尉をしめあげた。
「ううっ」
「えい!」
 一秒、二秒、三秒……。その時ぴかり! 眼もくらむような一大閃光!
 途端に二人の転がっている甲板が、鰐の背中のように震えだしたと思った刹那、が、が、がーんと百雷が一時に落ちたような大爆音!
 空気は裂けて、猛獣のように荒れ狂った。鼻をつく硝煙、真赤な火焔、ひっきりなしの爆音、それに呼応して天空高くとび上る大水柱! あたりは闇黒と化し、天地も瞬間にひっくりかえったかと思われた。なんという凄絶な光景であったろう。
     ×   ×   ×
「長谷部少佐、今のを見たか」
「は、見ました。司令官。飛行島が爆破したのではありますまいか」
「うむ、そうかもしれない」
 駆逐艦清風の艦橋で、双眼鏡を手にとって語る二人の将校があった。
 駆逐艦清風は、いま浮かぶ飛行島へ、海上あと十キロのところまで近づいていた。その後に従うのは、いずれも帝国海軍が快速と攻撃力とを誇る最新一等駆逐艦十六隻だ。いや、それだけではない。そのすぐ後方には、水雷戦隊が暁闇の波浪をのりきって驀進しつつある。そのうちに、灰色の雲間を破って、わが海の荒鷲隊が勇姿を現すことであろう。主力艦隊も、堂々とこちらへ前進しつつあるのにちがいない。
 艦艇のマストには、戦闘旗がひらひらとひるがえった。
 飛行島大戦隊は、夜明とともに、わが艦隊に頭をおさえられた形だった。まだまだ海戦は起らないものと思っていたのに、不意に日本艦隊が現れたのだった。飛行島大戦隊は狼狽の色をかくしきれなかった。
 いや、もし、こういう際に、リット提督の乗る飛行島がちゃんとしていてくれれば、たとい駆逐艦隊現れようとも海の荒鷲が襲いかかろうとも、また主力艦隊が押しよせて来ようと、飛行島の持つ二十インチの巨砲が物をいうであろうし、島内にかくされた無数の新鋭駆逐機や雷撃機が凄じい威力を表したであろうに、今はすべてが、後の祭となってしまった。
 飛行島は、ついにいくさの前に爆破してしまったのである。そしてその残骸は、がくりと傾き、艦列からはるか後方におくれて、いたずらに波浪の洗うにまかせているのであった。
 殷々いんいんたる砲声が、前方の海面に轟きはじめた。
 いよいよ彼我ひがの砲撃戦がはじまった。こうなっては、飛行島大戦隊も逃げるわけにゆかない。
 こわれかかった飛行島を後にのこして、全艦隊は死にものぐるいに、日本艦隊の左翼方面へつっかかっていった。ここに壮烈なる世紀の大海戦の幕が切って落されたのだった。
 雨は重く、風はいよいよ烈しく、空はますます低くたれた。砲煙爆煙は、まるで濃霧のように海面を蔽った。砲声はいよいよ盛んに、空中部隊はエンジンも焼けよと強襲に出で、そしてあちらこちらに、炎々と艦上の火災が眺められた。
 次第に北方に移動しゆく大海戦の煙の中をくぐって、突如勇姿を現した一隻のわが駆逐艦があった。
 それは長谷部少佐が、昇進とともに艦長となった駆逐艦清風であった。艦橋に立つ少佐の前には、古谷司令官の鶴のような長身が見える。
「おお、司令官。あれに飛行島が見えます。あ、なんという惨状!」
 さすがの長谷部少佐も、あまりの無慚な飛行島の有様に眼を蔽いたいほどだった。
「うむ、こいつにほんとうに向かって来られては、わが艦隊も相当苦戦に陥ったであろう。おお長谷部少佐、あれを見よ。飛行島はしずかに沈没してゆくぞ。今のうちに、例の川上等を捜索してはどうだ」
「は。では直ちに出かけることにしましょう」
 駆逐艦清風は、速力をゆるめて、静止へ――。モーター・ボートが、舷側からおろされた。長谷部少佐を指揮官として、決死の戦闘員十五名がのりこんだ。ボートは巧みに本艦をはなれ、舳を飛行島に向け、水煙をたてて驀進してゆく。
 長谷部少佐は、船首に立って、友の姿はいずこぞと海面を流るる死体の一つ一つに注意をくばる。
「あ、日本刀の鞘みたいなものを背負っているのが、左舷前方に見えます」
 突然眼のさとい水兵が叫んだ。
「日本刀を背に? どこだ」
「指揮官、あれです」長谷部少佐は、水兵の指す海面を見た。扉か卓子かわからないが、とにかく大きな板片の上に、背中に黒鞘を背負ってうつぶしている半裸体の人間があった。
「おお、あれだ。早く」
 少佐の命令で、ボートはすーっとその方へよっていった。そして手練の水兵が棒と綱とでもって、巧みに半裸体の人間を艇内へ拾いあげた。
「あ、日本人らしい。ひどく右腕をやられている」
「おお川上だ。川上だ。川上、長谷部が救いに来たぞ」
 長谷部少佐は、救われた人の骨ばった顔を見るや、われを忘れて駈けよった。軍医が、前に出てきて、心臓に耳をあてた。
「どうだ、助けてやれないか」
「ああ指揮官、心臓は微かながらまだ動いています。すぐ注射をしましょう。多分、大丈夫でしょう」
「そうか。では早いとこ、頼む」
 長谷部少佐は、友のくぼんだ眼窩のあたりをうるわしげに見つめていた。注射は一本二本三本とつづけられた。
 そのとき少佐は、川上機関大尉のくぼんだ眼窩の中に、丸い眼球がかすかにうごくのを見つけて、おどりあがった。
「あっ、生きかえった。おい川上、しっかりしろ。俺だ、俺が分からんか。俺は長谷部だ」
 と、川上の手の甲をたたきつつ、声をかぎりに呼べば、
「おお、――」
 川上機関大尉は、微かに声を発した。そして光のない眼であたりを見まわしていたが、そのうちに、少佐の手をぐっと握りかえした。彼の頬には、だんだん血の色が浮かびあがった。
「おお、気がついたか。川上、貴様はたいへんな手柄をたてたな。羨ましいぞ」
「なあに、――」川上は口をもごもごした。
「なあに、どうしたというのか」
「いや、飛行島を爆破したのは、俺じゃない。あの、脱走兵杉田二等水兵の手柄だよ。身をもって爆弾庫にとびこんだあの水兵を、皆して褒めてやってくれ。俺は――俺は……」
 川上機関大尉の眼から、熱い涙が、せきを切ったようにあふれてきた。そして潮やけした頬をつたって、幾条かの涙の道をつけた。
 ああ、なんという謙遜な言葉であろう。ああ、なんという部下思いの言葉であろう。
 彼は、自分のたてた大功を誇らず、まず何よりも忠勇な部下であり、そしてまた一度は脱走兵の汚名を着た杉田のために、その功をたたえたのであった。
「いや、よく分かっとる」と、長谷部少佐は戦友の手をやさしく撫でつつ、
「杉田も、えらい奴だ。貴様が優しくて強いから、そんないい部下ができたのだ。結局やっぱり貴様がえらいということになるのだ。さあ、飛行島は、ついに爆破された。これで英国の間違った永い間の悪夢も、きっと覚め、東洋における大日本帝国の正しい地位を考えなおすことになろう」
 その飛行島は、いま戦友に抱えられた川上機関大尉の肩越しに、ぐるっと一転して、前世紀の巨獣の頤のような組立鉄骨やおびただしい浮標をぬっとつきだし、最後の醜体をさらしたかと思うと、こんどは急に海底に吸いこまれるように、ずぶずぶと沈んでしまった。そしてそのあとには、凄じい水泡みなわと大きな渦が、いつまでもぐるぐるまいていた。
 それにしても飛行島の主、リット提督はどうなったであろうか。彼の行方を知っているものは、ただの一人もない、しいて知りたければ、かのブルー・チャイナ号のつきない怨をのせて、いつまでもぐるぐる廻っている、あの飛行島の沈んだあとの大きな渦巻に聞いてみるがいい。





底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房
   1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行
初出:「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社
   1938(昭和13)年1月〜12月
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月6日作成
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