棺桶の花嫁

海野十三




     1


 春だった。
 花は爛漫らんまんと、梢に咲き乱れていた。
 時が歩みを忘れてしまったような、遅い午後――
 講堂の硝子窓のなかに、少女のまるい下げ髪頭が、ときどきあっちへ動き、こっちへ動きするのが見えた。
 教員室から、若いもり先生が姿をあらわした。
 コンクリートの通路のうえを、コツコツと靴音をひびかせながらポイと講堂のドアをあけて、なかに這入はいっていった。
 ガランとしたその大きな講堂のなか。
 和服に長袴ながばかまをつけた少女が八、九人、正面の高い壇を中心にして、或る者は右手を高くあげ、或る者は胸に腕をくんで、群像のように立っていた――が、一せいに、扉のあいた入口の方へふりかえった。
「どう? うまくなったかい」
「いいえ、先生。とても駄目ですわ。――棺桶のおおいをとるところで、すっかり力がぬけちまいますのよ」
「それは困ったネ。――いっそ誰か棺桶の中に入っているといいんだがネ……」
 少女たちは開きかけた唇をグッと結んで、クリクリした眼で、たがいの顔を見合った。あら、いやーだ。
「先生ッ――」
 叫んだのは小山こやまミチミだ。杜はかねてその生徒に眩しい乙女シャイニング・ミミーという名を、ひそかにつけてあった。
「なんだい、小山」
「先生、あたしが棺の中に入りますわ」
「ナニ君が……。それは――」
 よした方がいい――と云おうとして杜はそれが多勢の生徒の前であることに気づき、出かかった言葉をグッとのどの奥にみこんだ。
「――じゃ、小山に入ってもらうか」
 英語劇「ジュリアス・シーザー」――それが近づく学芸会に、女学部三年が出すプログラムだった。杜先生は、この女学校に赴任して間もない若い理学士だったが、このクラスを受持として預けられたので、やむを得ずその演出にあたらねばならなかった。
 はじめ女生徒たちは、こんな新米の、しかも理科の先生になんか監督されることをたいへん不平に思った。でも練習が始まってみると、さすがにけき文学少女団も、ライオンの前の兎のように温和おとなしくなってしまった。そのわけは、杜先生こそ、理学部出とはいうものの、学生時代には校内の演劇研究会や脚本朗読会のメムバーとして活躍した人であったから、その素人ばなれのした実力がものをいって、たちまち小生意気な生徒たちの口を黙らせてしまったのである。
 空虚からの棺桶は、ローマの国会議事堂前へなぞらえた壇の下に、えられていたが、これはふたたび女生徒に担がれて講堂入口の方へはこばれた。
 この劇では、黒布くろぬので蔽われたシーザーの棺桶は、講堂の入口から、壇の下まで搬ばれる、そこにはアントニオ役の前田マサ子が立っていて、そこで棺の蔽布おおいが除かれ、中からシーザーの死骸があらわれる、それを前にして有名なるアントニオの熱弁が始まるという順序になっていた。
 ところが、そのアントニオは、空虚からの棺桶を前にしては、一向力も感じも出てこないため、どうしても熱弁がふるえないという苦情を申立てた。――
 講堂入口の、生徒用長椅子の並んだ蔭に、空虚の棺桶は下ろされ、黒い蔽布が取りさられた。
 小山ミチミは、切れ長の眼を杜先生の方にチラリと動かした。いつものように先生はジッと彼女の方を見ていたので、彼女はあわてて、目を伏せた。そしてスリッパをぬぎ揃えると、白足袋をはいた片足をオズオズ棺のなかに入れた。
「どんな風にしますの。上向きに寝るんでしょ」
 そういいながら、小山は長い二つのたもとを両手でかかえ、そして裾を気にしながら、棺のなかにながながと横になった。
「アラッ――」
 ミチミの位置の取り方がわるかったので、彼女の頭は棺のふちにぶつかり、ゴトンと痛そうな音をたてた。
 杜先生は前屈まえかがみになって素早くミチミの頭の下に手を入れた。
「……ああ起きあがらんでもいい。このまますこし身体を下の方に動かせばいいんだ。さ僕が身体を抱えてあげるから、君は身体に力を入れないで……ほら、いいかネ」
 杜先生は両手を小山の首の下と袴の下にさし入れ、彼女の身体を抱きあげた。
「ほう、君は案外重いネ。――力を入れちゃいかんよ。僕の頸につかまるんだ。さあ一ィ二の三ッと――。ううん」
 ミチミは、顔を真赤にして、先生のいうとおりになっていた。
「ああ、――」
 少女の身体がフワリと浮きあがったかと思うと、やっと三寸ほどもしも手の方へ動いた。
 杜先生は少女の頭の下から腕をぬくと、その頭を静かに棺の中に入れてやった。彼女はわるびれた様子もなく、ジッと眼をつぶっていた。花びらが落ちたような小さなふっくらとした朱唇しゅしんが、ビクビクと痙攣けいれんした。杜はあたりにはばかるような深い溜息を洩らして、腰をあげることを忘れていた。しかし彼の眼が少女の緑茶色の袴の裾からはみだした白足袋をはいた透きとおるような柔かい形のいい脚に落ちたとき慌てて少女の袴の裾をソッと下に引張ってやった。そのとき彼は自分の手が明かにブルブルとふるえているのに気がついた。
 女生徒の或る者が主役の前田マサ子の横腹をドーンとひじでついた。前田はクルリとその友達の方に向き直ると、いたずら小僧のように片っ方の目をパチパチとした。それはすぐ杜の目にとまった。――彼は棺の上に急いで黒い布を掛けると一同の方に手をあげ、
「さあ、ほかの人はみな、議事堂の前に並んでみて下さい」
 といって奥を指した。
 女生徒たちは気味の悪い笑いをやめようともせず、杜先生のうしろから目白押しになって壇の方についていった。
 杜先生は壇前に立ち、この劇においてローマ群衆はどういう仕草をしなければならぬかということにつき、いと熱心に説明をはじめた。それから練習が始まったが、女生徒たちは腕ののばし方や、顔のあげ方について、いくどもいくども直された。
 七、八分も過ぎて、ローマの群衆はようやく及第した。ちょっとでも杜先生にめられると、少女たちはキキと小動物のようによろこぶのであった。
「では、さっきのアントニオの演説のところを繰返してみましょう。――みなさん、用意はいいですか、前田マサ子さんは壇上に立って下さい。それから四人の部下は、シーザーの棺をこっちへ搬んでくる。――」
 練習劇がいよいよ始まった。杜先生はたいへん厳粛な顔つきで、棺桶係の生徒たちの方に手をあげた。
 四人の女生徒は棺桶を担いで近づいた。しかし彼女たちは一向芝居に気ののらぬ様子で、なにか口早にささやきあいながらシーザーの棺を壇の方へ担いできた。先生の眼が、けわしく光った。
 やがて棺は下におろされた。
 アントニオが壇上で大きなジェスチュアをする。
「おお、ローマの市民たちよ!」
 と、前田マサ子がここを見せどころと少女歌劇ばりの作り声を出す。
 そこで棺の黒布がしずかに取りのぞかれる。……
 ――と、シーザーならぬ小山ミチミが棺の中に横たわっているのが見える――
 という順序であったが、棺の蔽いを取ってみると、意外にも棺の中は空っぽだった。
「おお、これはどうしたッ」
「アラ小山さんが……」
 一同は肝をつぶして、棺のまわりに駈けよった。
「……あのゥ先生、棺をもちあげたとき、あたし変だと思ったんですのよ。だって、小山さんの身体が入っているのにしては、とても軽かったんですもの」
「ええ、あたしもびっくりしたわ」
「でも、担いでしまったもんで、つい云いそびれていたんですわ」
 講堂入口をみたが、ドアはチャンと閉まっている。さっき棺桶を置いてあった長椅子の蔭をみたが、さらに小山ミチミの姿はなかった。たださっき彼が脱ぎそろえたスリッパがチャンと元のとおりに並んでいる。
 杜先生は、講堂の扉を開けてとびだした。外には風もないのに花びらがチラチラと散っているばかりで、誰一人見えない。
 不思議だ。
 彼は大声をはりあげて、見えなくなった少女の名を呼んでみた。――しかしそれに応えるものとては並び建つ校舎からはねかえる反響のほかになんにもなかった。それはまるで深山幽谷しんざんゆうこくのように静かな春の夕方だった。
 杜はガッカリして、薄暗い講堂の中にかえってきた。女生徒は入口のところに固まって、申し合わせたように蒼い顔をしていた。
「どうも不思議だ。小山は、どこへ消えてしまったんだろう!」
 杜は、壇の下に置きっぱなしになっている空っぽの棺桶に近づいて、もう一度なかを改めてみた。たしかに自分が腕を貸して、この中に入れたに違いなかったのに……。
「変だなァ。――」
 彼は棺の中に、顔をさし入れて、なにか臭うものはないかとかいでみた。たしかに小山ミチミの入っていたらしい匂いがする。
「オヤ――」
 そのとき彼は、棺の中になにか黒いような赤いような小さな丸いものが落ちているのに気がついた。
 なんだろうと思って、それを拾いあげようとしたが、
ッ、これは――」
 と叫んだ。ぼたんびょうの頭かと思ったその小さな丸いものは、ヌルリと彼の指を濡らしたばかりだった。
 彼はハッとして指頭しとうを改めた。
「おお、血だ、――血が落ちている」
 その瞬間、彼の全身は、強い電気にかかったように、ピリピリと慄えた。


     2


「オイ房子」
「なによォー」
「どうだ、今夜は日比谷公園の新音楽堂とかいうところへいってみようか。軍楽隊の演奏があってたいへんいいということだぜ」
「そう。――じゃあたし、行ってみようかしら」
「うん、そうしろよ、これからすぐ出かけよう」
「アラ、ご飯どうするの」
「ご飯はいいよ。――今夜は一つ、豪遊しようじゃないか」
「まあ、あんた。――大丈夫なの」
「うん、それ位のことはどうにかなるさ。それに僕は会社で面白い洋食屋の話を聞いたんだ。今夜は一つ、そこへ行ってみよう。君はきっとおどろくだろう」
「あたし、愕くのはいやあよ」
「いや、愕くというのは、たいへんよろこぶだろうということ、さあ早く仕度だ仕度だ、君の仕度ときたら、この頃は一時間もかかるからネ」
「あらァ、ひどいわ」といって房子は、間のふすまをパチンとしめ、
「だってあんたと出かけるときは、メイキャップを変えなきゃならないんですもの。それにあんただって、なるたけ色っぽい女房に見える方が好きなんでしょ」
「……」
「ねェ、黙ってないで、お返事をなさいってば。――あんた怒っているの」
莫迦ばかッ。だ、だれが怒ってなぞいるものかい」
 男は興奮の様子で、襖に手をかけた。
「ああ、駄目よォ、あんたア……」
 房子は双膚もろはだぬいだまま立ち上って、内側から、襖をおさえた。
「いいじゃないか」
「だめ、だめ。駄目よォ」
 髪がえたのか、しばらくすると箪笥たんすの引出しがガタガタと鳴った。そして襖の向うからシュウシュウと、帯のれる音が聞えてきた。もうよかろうと思っていると、こんどはまた鏡台の前で、コトコトと化粧壜らしいものが触れ合う音がした。
「どうもお待ちどおさま。――アラあたし、恥かしいわ」
 さっきからジリジリしながら、長火鉢のまわりをグルグル歩きまわっていた男は飛んでいって、襖をサラリと開けた。
「アアアア――」
 房子は薄ものの長い袖を衝立ついたてにして、髪を見せまいと隠していた。
「あッ、素敵。――さあ、お見せ」
「ホホホホ――」
「さあお見せ、といったら」
「髪がこわれるわよォ、折角ったのにィ――」
 女は両袖をパッと左右に開いて、男の前によそ行きの顔をしてみせた。
「どう、あなたァ、――」
 男は、女の束髪そくはつすがたを、目をまるくしてみつめていた。
「あんたってば、無口なひとネ」
「いや、感きわまって、声が出ない」
 男は両手を拡げた。
 女はその手を払うようにして、男の肩を押した。
「さあ連れてってよ、早く早く」
 若い二人は、身体を重ねあわせるようにして、狭い階段をトントンと下に下りていった。
 そこには蚊取り線香を手にした下のお内儀かみがたっていた。
「おばさん、ちょっと出掛けます」
「あーら、松島さん、お出掛け? まあお揃いで――。いいわねえ」
「おばさん、留守をお願いしてよ」
「あーら、房子さん。オヤ、どこの奥さんかと見違えちゃったわ。さあ、こっちの明るいところへ来て、このおばさんによく見せて下さいな」
「まあ恥かしい。――だって、あたし駄目なのよ、ちっとも似合わなくて。ホホホホ」
 房子は顔を真赤にして、下のお内儀の前を駈けぬけるように玄関へとびだしていった。お内儀の目には、房子の夏帯の赤いいろが、いつまでも残っていた。そして誰にいうともなく、
「ほんとに女の子って、化け物だわネ」
 といった。
 松島準一と房子とは、京橋で下りた。そこには大きいビルディングがあって、そこの二階ではキャフェ・テリアといって自分で西洋料理をアルミニュームの盆の上に載せてはこぶというセルフ・サーヴィスの食堂があった。二人は離れ小島のような隅っこのテーブルを占領して、同じ献立の食べ物を見くらべてたのしそうに笑った。
「ミチミ、お美味いしいかい」
「ええ、とってもお美味いの。このお料理には、どこか故郷のにおいがするのよ。なぜでしょう」
「ほう、なぜだろう。――セロリの香りじゃない」
「ああセロリ。ああそうネ。先生のお家の裏に、セロリの畑があったわネ」
「また云ったネ。――今夜かえってからお処刑しおきだよ」
「アラ、あたし、先生ていいました? ほんと? ごめんなさいネ。でもあなたがミチミなどと仰有おっしゃるからよ」
「ミチミはいいけれど、先生はいけないよ」
「まあ、そんなことないわ。あたし先生ていうの大好きなのよ。いいえ、あなたがお叱りになるように、けっして他人行儀には響かないの。それはそれはいい響きなのよ。先生ていうと、あたしは自分の胸をしっかり抱きしめて、ひとりで悩んでいたあの頃のいじらしいミチミの姿を想い出すのよ。おおもり先生。先生がこうしてあたしの傍にいつもいつも居てくださるなんて、まるで夢のように思うわ。ああほんとに夢としか考えられないわ」
「ミチミ、今夜君は不謹慎にも十遍も先生といったよ。後できびしいお処刑しおきを覚悟しておいで」
 ミチミはそんな声が入らぬらしく、小さいビフテキのきれを頬ばったまま、長い吐息といきをついた。
「ねえ、あなた。あの学芸会の練習のとき、あたしが誰かに殺されてしまったと思ったお話を、もう一度してちょうだいナ」
 ミチミは、テーブルの向うから、杜の顔をのぞきこむようにしてささやいた。
「またいつもの十八番が始まったネ。今夜はもうおよしよ」
「アラいいじゃないの。あたし、あの話がとても好きなのよ。まあ、こういう風にでしょう。――僕はすっかり落胆した。恐怖と不安とに、僕の眼前はまっくらになった。ああミチミはどこへ行った? 絶望だ、もう絶望だッ!」
「これミチミ、およしよ」
「――しかし突然、僕はまっくらな絶望の闇のなかに、ほのかな光り物を見つけた。僕は眼を皿のように見張った。明礬みょうばんをとかしたように、僕の頭脳は急にハッキリにじんできた。そうだ、まだミチミを救いだせるかもしれないチャンスが残っていたのだ。僕はいま、シャーロック・ホームズ以上の名探偵にならねばならない。犯行の跡には、必ず残されたる証拠あり。さればその証拠だに見落さず、これを辿たどりて、正しきみなもときわむるなれば、やわかミチミを取戻し得ざらん――」
「もういいよ。そのくらいで……」
「僕は鬼神きじんのような冷徹さでもって、ミチミの身体をんだ空虚からの棺桶のなかを点検した。そのとき両眼に、けつくようにうつったのは、棺桶の底に、ポツンと一としずく、溜っている凝血ぎょうけつだった。――おかしいわネ。そのころあたりはもうすっかり暗くなっていたんでしょう。それに棺桶の底についていた小さい血の雫が分るなんて、あなたはまるで猫のような眼を持っていたのネ」
「棺桶の板は白い。血は黒い。だから見えたのに不思議はなかろう。――だが、もう頼むから、その話はよしておくれ。どうして君は今夜にかぎって、そう興奮するのだ」
 ミチミはテーブルの上にひじをついて、その上に可愛いあごをチョンと載せた。
「あたし、なんだか今夜のうちに、思いきりお喋べりしておかないと、もうあんたとお話しができなくなるような気がしてならないのよ」
「そんな莫迦げたことがあってたまるものか。ねえ、君はすこし芯がつかれているのだよ」
「そうかもしれないわ。でもほんとに、今夜かぎりで、あんたと別れ別れになるような気がしてならないのよ。ああ、もっと云わせてもらいたいんだけれど――そこで先生が、棺桶のなかから、凝血を採集していって、それを顕微鏡の下で調べるところから、それは人血にまぎれもないことが分るとともに、その中からグリコーゲンを多分に含んだ表皮細胞が発見されるなんてくだりを……」
「ミチミ。僕は君に命令するよ。その話はもうおよし。それに日比谷の陸海軍の合同軍楽隊の演奏がもう始まるころだから、もうここを出なくちゃならない。さあ、お立ち」
 男は椅子から立ちあがると、女のうしろに廻って、やさしく肩に手をかけた。
 女は、男の手の上に、自分の手を重ねあわした。そしてシッカリと握ってはなさなかった。傍にはキャフェ・テリヤの新客が、御馳走の一ぱい載った盆を抱えたまま、座席につくことも忘れて、呆然ぼうぜんと二人の様子に見とれていた。


     3


 明くれば九月一日だった。
「いよいよきょうから二学期だわ。――あたしきょう、始業式のかえりに、日比谷の電気局によって、定期券を買ってくるわ」
 ミチミのあたまを見ると、彼女はゆうべ結った束髪をこわして、いつものように、女学生らしい下げ髪に直していた。紫の矢がすり銘仙の着物を短く裾あげして、その上に真赤な半幅の帯をしめ、こげ茶色の長い袴をはいた。そして白たびを脱ぐと、彼の方にお尻をむけて、白いすねに薄地の黒いストッキングをはいた。
 杜はカンカン帽を手に、さきへ階段を下りた。玄関のくつぬぎの上には、彼の赤革の編あげ靴に並んで、飾りのついた黒いハイヒールの彼女の靴が、つつましやかに並んでいた。
 ミチミは、すこしおくれて家から出てきた。二人は停留場の方へブラブラと歩きだした。彼は、ミチミの方を振りかえった。彼女は目だたぬほどの薄化粧をして、薄く眉をひいていた。それはどこからみても十七歳の女学生にしか見えなかった。彼女は、もりに見られるのを恥かしがり、頬をわざとふくらまし、そして横目でグッと彼の方をにらんだ。杜にはそれがこの上もなく美しく、そしてこの上もなくいとしく見えて、ミチミの方へ身体をりよせていった。
「ああ、また――」
 ミチミは、低声ていせいでそう叫ぶなり、彼とは反対の方角に身を移した。彼女はいつでも、そうした。ミチミが袴をはいて学校に通うとき、杜は一度として彼女と肩を並べて歩くのに成功したことがなかった。
「誰も変な目でなんか、見やしないよ。君は女学生だから、傍を通る人は、僕の妹に違いないと思うにきまっているよ。だからもっと傍へおよりよ」
 彼は不平そうに、ミチミにいった。ところがミチミは、頬をポッと染め、
「あら嘘よ。ピッタリ肩をくっつけて歩く兄妹なんか居やしなくってよ」
 といって、さらに二倍の距離に逃げてゆくのであった。
 二人は停留所で、勤め人や学生たちにまじって、電車を待った。杜はちょくちょくミチミに話しかけたけれど、ミチミはいつも生返事ばかりしていた。これがゆうべ、あのように興奮して、彼のふところに泣きあかしたミチミと同じミチミだろうか。
 向うの角を曲って、電車が近づいてきた。
 杜は強いひじを張ってミチミのために乗降口の前に道をあけてやった。ミチミは黙って、踏段をあがった。そのとき彼はミチミのストッキングに小さい丸い破れ穴がポツンと明いていてそこから、彼女の生白い皮膚がのぞいているのを発見した。
 杜もつづいて電車にのろうとしたが、横合から割こんで来た乱暴な勤め人のために、つい後にされちまった。だから満員電車のなかに入った彼は、ミチミの隣の吊り皮を握るわけにはゆかなかった。
 やがて電車は、彼の乗り換えるべき停留所のところに来た。彼はミチミに別れをつげるために、彼女の方を向いた。
 ミチミは彼のために、顔を向けて待っていた。そして彼がまだ挨拶の合図を送らないまえに、
「兄さん、いってらっしゃい」
 と、二、三人の乗客の肩越しにいとも朗かな声をかけた。しかし、おどろいたことに、ミチミの声に反して彼女の眼にはなみだが一ぱい溜っていた。
「大丈夫。気をつけて行くんだよ」
 彼はミチミを励ますために、ぶっきら棒な口の利き方をした。そして屈托くったくのなさそうな顔をして、乗客に肩を押されながら、電車を下りた。――
 それが女学生姿のミチミの見納みおさめだったのだ。そのときはそんなことはちっとも知らなかった。もしそれと知っていたら、どんな仕事があったとしてもどうして彼女の傍を離れることができたであろう。
 そんな悲しい別れとなったこととは夢にも思わず、彼は丸の内の会社へ急いだ。彼の勤めている会社は、或る貿易商会であった。彼は精密機械のセールスマンとしてあまり華やかではない勤務をしていた。そのサラリーなども、女学校の教諭時代に比べると、みじめなものだった。しかしミチミの名を房子と変え、彼自身も松島準一と仮名しなければならぬ生活に於ては、大学卒業の理学士たる資格も、当然名乗ることができなかったから、実力が認められるまではそのみじめさを我慢しなければならなかった。でもその給料は、とにかく二人の生活を支え、そしてミチミを或る女学館に通学させて置くだけの余裕はあったのである。
 午前十時ごろ、彼は支配人のブラッドレーに呼ばれた。行ってみると、これから横浜の税関まで行ってくれということだった。
 杜は一件書類を折り鞄のなかに入れて、省線電車の乗り場に急いだ。そして正午まえの東京を後にしたのだった。
 九月一日の午前十一時四十八分、彼は横浜税関の二号倉庫の中で、あの有名なる関東地方の大震災に遭った。
 そのとき彼が一命を助かったということは、まさに奇蹟中の大奇蹟だった。あの最初の大動揺が襲来したときに、この古い煉瓦建の背高い建物は西側の屋根の一角から、ガラガラッと崩れはじめた。彼は真青になったが、前後の見境もなく、傍にあった石油缶の空き函を頭の上にひっ担ぐと、二十間ほど向うに見える明るい出入口を目がけて、弾丸のように疾走した。
 大地は荒海のように揺れていて、思うようには走れなかった。出入口のアーチの上からは、ザザーッと、滝のように土砂どしゃが落ちてくるのが見えた。危い。その勢いでは、アーチをくぐった途端に、上からドッと煉瓦の魂が崩れおちてきそうだった。しかし彼は一瞬間もひるまず、函を両手でしっかり掴んだまま、アーチの下をくぐりぬけた。
 すると頭上に天地が一時につぶれるような音がして、彼の頭はピーンといった。同時に彼は、上から恐ろしい力で圧しつけられて、ドーンとその場に膝をついた。どうやら煉瓦が上から降ってきたものらしい。膝頭にきつくような疼痛とうつうが感ぜられた。
 そのとき杜は、死にものぐるいで立ち上った。こんなところに、ぐずぐずしていては、いつどき煉瓦壁に押しつぶされるか分ったものではない。
 彼はズキズキ痛む脚を引き摺って、それでも五、六歩は走ったであろう。すると運わるく石塊につまずいた。そしてッという間もなく、身体は巴投ともえなげをくったように丁度一廻転してドタンと石畳の上にほうりだされた。
 大崩壊の起ったのは、実にその直後のことだった。大地を掘りかえすような物凄い音響と鳴動とに続き、嵐のような土煙のなかに、彼の身体は包まれてしまった。彼は生きた心地もなく、石油の空き缶を頭の上から被ったまま身体を丸く縮めて、落ちてくる石塊の当るにまかせていた。
 暫くしてあたりが鎮まった様子なので、彼はこわごわ石油の空き函のなかから首をあげてみた。すると愕いたことには、今の今まで、そこにあった地上五十尺の高さを持った大倉庫は跡片もなく崩れ落ちて、そのかわりに思いがけなく野毛のげの山が見えるのであった。ああ、倉庫の中にいた人たちは、どうしたであろうか。彼のために、外国から到着した機械の荷を探すために、奥の方へ入っていった税関吏は、いま何処に居るのであろうか。恐らく倉庫のなかにいた百人にちかい人間が、目の前に崩れ落ちた煉瓦魂の下に埋まっているはずであった。気がついてみると身近には彼と同じように、奇蹟的に一命を助かったらしい四、五人の税関吏や仲仕の姿が目にうつった。彼等はまるで魂を奪われた人間のように、崩れた倉庫跡に向きあって呆然ぼうぜんと立ちつくしていた。――
 気がいくぶん落ちついてくるとともに、杜はずいまの地震が、彼の記憶の中にない物凄い大地震だったことを認識した。次に、倉庫がつぶれて、その下敷になった輸入機械は、すくなくとも三分の二は損傷をうけているだろう、この報告を早く本社にして、善後処置についての指令を仰ぐことが必要だと思った。
 彼はすぐ電話をかけたいと思った。それで税関の構内を縫って、どこか電話機のありそうなところはないかと走りだした。
 荷物検査所の中に電話機が見つかった。貸して貰うように頼んだところ、この電話機は壊れてしまって役にたたないという挨拶だった。
 彼は検査所の電話機が故障である話を聞いても、まだ目下の重大なる事態をハッキリ認識する力がなかった。かならず東京へ電話が通ずるつもりの彼は、万国橋ばんこくばしを渡ったところに自働電話函が立っているのを見つけて、そのなかに飛びこんだ。だが受話器をとりあげて、交換手をいくら呼び出してみても、ウンともスンとも云わなかった。
「これは困った。電話が通じない。電話局は電源を切られたのにちがいない」
 彼は仕方なく駅の方へ行ってみることにした。
 万国橋通を本町ほんちょうの方へ、何気なにげなくスタスタ歩きだした彼はものの十歩も歩かないうちに、ハッと顔色をかえた。ああなんという無残な光景が、前面に展開されていたことだろう。
 まず、目についたのは、恐ろしいアスファルト路面の亀裂きれつだ。落ちこめば、まず腰のあたりまではまってしまうであろう。
 そのすさまじい亀裂の上に、電線が反吐へどをはいたように入り乱れて地面をっていて[#「っていて」は底本では「っていて」]、足の踏みこみようもない。ただ電柱が酔払いのように、あっちでもこっちでも寝ている。
 もっと恐ろしいものが目にうつった。すぐ傍の二階家が、往来の方に向ってお辞儀をしていた。大きな屋根が地面に衝突して、ところどころ屋根瓦が禿はげたように剥がれている。四五人の男女がその上にのぼって、メリメリと屋根をこわしている。――「このなかに、家族が三人生埋めになっています。どうか皆さんお手を貸して下さい。浜の家」
 三人が生き埋めに?
 杜は、これは手を貸してやらずばなるまいと思った。四、五人の力では、この潰れた大きな屋根が、どうなるものか。
 と、突然向うの通りに、叫喚きょうかんが起った。人が暴れだしたのかと思ってよく見ると、これは警官だった。
「オイ火事だ。これは、大きくなる。オイ皆、手を貸してくれッ」
 どこでも手を貸せであった。見ると火の手らしい黄色い煙が、横丁の方から、静かに流れてきた。
「オイ火事はこっちだッ」
「いや、向うだよ」
「いけねえ、あっちからもこっちからも、火事を出しやがった」
「おう、たいへんだ。早く家の下敷になった人間を引張りださないと、焼け死んでしまうぜ」
 誰も彼もが、土色の顔をして、右往左往していた。悲鳴と叫喚とが、ひっきりなしに聞えてきた。大きな荷物を担いで走る者がある。頭部に白い繃帯をまいた男を、細君らしいのが背負って駈けだしてゆく。
 杜ははじめて事態の極めて重大なることを察した。これは恐ろしいことになった。横浜がこんな騒ぎでは、東京とても相当やられているであろう。彼はそこで始めてミチミの身の上を思いだした。
「おおミチミはどうしたろう。この思いがけない地震にあって、きっと泣き叫んでいることだろう」
 そうだ、これは、一刻も早く、東京へ帰らなければならない。彼は鉄条網のような電線の上を躍り越えながら、真青になって駅の方へ駈けだした。


     4


 もりがおせんに行き会ったのは、同じ九月一日の午後四時ころだった。場所は横浜市の北を占める高島町の或る露地、そこに提灯屋の一棟がもろに倒壊していて、そのはりの下にお千はヒイヒイ泣き叫んでいた。
 なぜ彼はそんな時刻にそんなところを通りかかったのか。なんとかして電車や汽車にのって、早く東京へ帰りたいと思った彼は、桜木町の駅に永い間待っていたのだ。しかし遂にいつまで待っても電車は来ないことが分った。また汽車の方もレールの修理がその日のうちにはとても間に合わぬと分って、どっちも駄目になってしまった。
 彼は二時間あまりも改札口で待ちぼうけをくわされたであろう。駄目と分って、彼は大憤慨だいふんがいていでそこを出たが、なにぶんにも天災地変のことであり、人力じんりょくではどうすることもできなかった。
 このとき横浜市内には火の手が方々にあがっていた。そしてだんだん拡大の模様が、あきらかに看取された。ぐずぐずしていては、なんだか生命の危険さえ感じられたので、彼は重大決意のもとに、横浜から東京までを徒歩で帰る方針をたてた。もしうまくゆけば、途中でトラックかなんかに乗せて貰えるかもしれない。
 杜は横浜の地理が不案内であった。東西の方向を知るにもこの日天地くらく、雲とも煙とも分らぬものが厚く垂れこめて、正しい方角を知りかねた。仕方なく彼は火に追われて右往左往する魂宙こんちゅうの人々をつかまえては、東京の方角を教えてもらった。
 それは方角を教えてもらうだけで十分であった。近道大通を教えてもらっても、この際なんの役にも立たなかった。なぜなら、直線的に歩くことが全く無理だったから。倒壊した建物は、遠慮なく往来の交通を邪魔していたし、また思いがけないところに火の手が忍びよっていて何時の間にか南側の家が焔々えんえんと燃えているのに気がつくなどという有様だった。高島町の露地へ迷いこんだのも、こうした事情に基くものだった。
 その露地には、まるで人けがなかった。倒れた家だけあって、全く無人境むじんきょうにひとしかった。杜はまるで夢のなかの町へ迷いこんだような気がした。
 なぜこの露地が無人境になっているかが、やがて彼にもみこめるときがきた。向いのひさしの間から黄竜こうりゅうが吐きだすようないやな煙がスーッと出てきた。オヤと思う間もなく、うしろにあって、パリパリという物を裂くような音が聞えたかと思う途端、火床ひどこを開いたようにドッと猛烈な火の手があがり、彼はにわかに高熱と呼吸いきぐるしさとに締つけられるように感じた。彼はゴホンゴホンと立てつづけにせきをした。眼瞼まぶたをしばたたいて涙を払ったとき、彼は赤い焔が家々の軒先をつたって、まるで軽業のようにツツーと走ってゆくのを見た。とうとうこの露地にも火がついたのだ。
 彼は拡大してゆく事態に、底知れぬ恐怖を感じた。猛火に身体を包まれてはたまらないと思った。急速にその露地を通り抜けないともう危い。彼は足早にそこを駈けだした。そして同じ露地の倒壊した提灯屋の屋根瓦の上を渡ろうとしたときに、突然足の下からヒイヒイと泣き叫ぶ女の声を耳にしたのであった。
「た、助けてェ……。女が居ますよォ……。焼け死にますよォ……。た助けてェ」
 人間の声に、生れつきのリズムがあるということを、彼ははじめて知った。それはともかく、彼はあまりにその悲惨な声に、思わず足を停めた。
 女は何処にいるのかと、声をたよりに探してみると、彼女は屋根が地上をめているその切れ目のところに、うつぶせになってわめいていた。丸髷まるまげの根がくずれて、見るもあさましい形になってはいたが、真新しい明石縮あかしちぢみの粋な単衣ひとえを着た下町風の女房だった。しかし見たところ、別に身体の異状はないらしく、ただうつぶせになって騒いでいるところをみるとこれは気が違ったかも知れないと思ったことだった。
「どうしたの、お内儀かみさん……」と、彼はその背後によって仮りに声をかけた。
「ああッ――」と、女は丸い肩をグッと曲げて、顔をあげた。女は彼よりも五つ六つ、年上に見えた。乱れ髪が額から頬に掛っていた。彼女は邪魔になる髪を強くふり払って、杜の顔を下から見あげた。
「ああッ、た、助けてえ。お、おがみます」
 女はびかかるような姿勢で、杜の方に、身体をねじ向けた。青白い蝋の塊のような肉づきのいい胸元に、水色の半襟のついた膚襦袢はだじゅばんがからみついていた。
「手、手、手だ。手を抜いてください」
 女は両眼をクワッと開いて、彼の方に、動物園の膃肭臍おっとせいのように身悶えした。眉を青々と剃りおとした女の眼は、提灯のように大きかった。
 杜は、この女が気が変でないことに気がついた。それで駈けよってみると、なるほど女の身体にはどこもさわりがないようではあるが、只一つ、左の手首が、倒れた棟木むねぎの下に入っていて、これがどうしても抜けないのであった。
 彼は女の背に廻って、その太い腕をつかんで力まかせにグイと引張った。
「いた、た、た、たたッ。――」
 と女はきりでもむような悲鳴をあげた。
 杜は愕いて、手を放した。
 女は一方の腕をのばして、杜の洋服をグッとつかんだ。
「待って、待って。……あたしを見殺しにしないで下さいよォ、後生だから」
 杜は、またそこにしゃがんで、棟木の下に隠れている女の手首を改めた。なんだか下は硬そうであるが、とにかくその下を掘り始めた。
「だ、駄目よ。手の下には、かねのついた敷居があるのよ。掘っても駄目駄目。……ああ早く抜けないと、あたし焼け死んじまう」
 なるほど、露地の奥から火勢があおる焦げくさい強い熱気がフーッと流れてきた。たしかに火は近づいた。彼は愕いてまた女の腕に手をかけ、力を籠めてグイグイと引張った。女はまた前のように、魂切たまぎれるような悲鳴をあげた。
「駄目だ。これは抜けない」
「アノもし、あたしが痛いといっても、それは本心じゃないんです」
「え、本心とは」
「あたしは生命をたすかるためなら、手の一本ぐらいなんでもないと思ってます。痛いとは決していうまいと思っているのに、手を引張られると、心にもなく、痛いッと叫んじゃうの。……ああ、あたしが泣くのにかまわず、手首を引張って下さい。そこから千切ちぎれてもいいんです。あたし、死ぬのはいや。どうしてもこんなところで死ぬのはいや」
 女はオロオロと泣きだした。すべすべとした両頬になみだがとめどもなく流れ落ちる。
 そのとき運命を決める最後のときがやって来た。いままでは、まだ大丈夫と思っていた火の手が、急に追ってきたのである。目の前の提灯屋の屋根瓦の隙間から、白いわらびのような煙が、幾条いくすじとなくスーッスーッと立ちのぼり始めた。手首を挟まれた女は早くも迫る運命に気がついた。
「あッ、火がついた。この家に火がついた。――ああ、手がぬけない。焼け死ぬッ」
 女は目を吊りあげ猛然と身を起した。そして力まかせに自分で自分の腕を引張った。
「あッ痛ッ。――あああ、どうしよう」
 女は大きな失意にぶつかったらしく、ガバと地面に泣き崩れた。と、思うと電気にかかったようにヒョイと身体を起すと、彼に取りすがった。
「ねえ、あんた。思い切って、あたしの手首を切り落として下さい。刃物を持っていないの、あんた。刃物でなくともいいわ。瓦でも石塊ででもいいから、たった今、この手首を切りおとしてよゥ。さもないと、あたしは、焼け死んでしまうよォ」
 明らかに女は、極度の恐怖に気が変になりかけているのに違いなかった。そのとき、一陣の熱気が、フーッと彼の頬をうった。そうだ、女の云うとおり、彼女はいま焼死しようとしているのだ。とういとう提灯屋の屋根の下からチラチラと紅蓮ぐれんの舌が見えだした。杜は女の肩に手をかけた。
「そうだ、お内儀かみさん。いまが生きるか死ぬかの境目だッ。生命を助かりたいんなら、どんな痛みでもこらえるんだよ」
 女はもう口が利けなかった。その代り彼の方を向いて大きくうちうなずき、自由な片手を立てて、彼の方をいくども拝むのであった。
 杜はその瞬間、天地の間にわだかまるあらゆるものを忘れてしまった。ただ女の手首を棟木から放すことのほか、地震のことも、火事のことも、身に迫る危険をも指の先ほども考えなかった。
 彼は決死の勇をふるって、女の腕をギュッと握り締めた。そして片足を前に出して、女の手首を挟んでいる棟木をムズと踏まえた。
「お内儀さん、気をたしかに持つんだよ」
「なむあみだぶつ――」
 と、女は両眼を閉じた。
 やッという掛け声もろとも、杜は満身の力を女の腕のつけ根に集めて、グウーッと足を踏んばった。キャーッという悲鳴!
 首尾はと見れば、女の左手首は棟木から離れた。しかしこの腕は一尺も長くなってみえた。なんという怪異! だがよく見ればそれは怪異ではなかった。
「おお、――」
 女の手首の皮が手袋をぬいだように裏返しに指先から放れもやらずブラ下っているのであった。皮を剥ぎとられた部分は、鶏の肝臓のように赤むけだった。
 杜は気絶をせんばかりに愕いたが、ここでひっくりかえってはと、歯をくいしばってこらえた。そして素早く、そのグニャリと垂れ下った女の手の皮を握ると、手袋をめるあの要領でスポリと逆にしごいた。それは意外にもうまく行って、手の皮は元どおりに手首にはまった。しかし手首のすこし上に一寸ほどの皮の切れ目が出来て、いくら逆になであげても、そこがうまく合わなかった。――でも女の命は遂に助かったのだ。
 気がつくと、女は気絶していた。
 なにか手首にかなければならないが、繃帯などがあろう筈がない。ハンカチーフも駄目だ。そのときふと目についたのは、この女の膚につけている白地に青い水草を散らした模様の湯巻だった。杜は咄嗟とっさにそれをピリピリとひき裂くと、赤爛あかただれになっている女の手首の上に幾重にも捲いてやった。


     5


 杜がトラックを下りると、お千も突然、あたしも下りると云いだした。
 それは翌九月二日の午前六時のこと。場所は、東京の真中新橋の上にちがいないのであるが、満目ただ荒涼たる一面の焼け野原で、わずかに橋があって「しんばし」の文字が読めるから、これが銀座の入口であることが分るというまことに変り果てた帝都の姿だった。
「お内儀かみさんは、上野までのせていってもらったら、いいのに……」
 と、杜は女に云った。
「じゃあ早く乗っとくれ。ぐずぐずしていると其処へ置いてゆくぜ」
 と、満載した材木の蔭から、砂埃すなぼこりでまっくろになった運転手の顔がのぞいた。
「ええ、あたし、此処でいいのよ。運転手さん、どうもすまなかったわねえ」
 運転手はあっさり手をあげると、ガソリンの臭気を後にのこして、車を走らせていった。
「じゃ僕も、ここで失敬しますよ」
 杜はカンカン帽のつばに、指をかけた。
 女は狼狽ろうばいの色を示した。
「待って。――後生ですから、あたしを、連れていって下さい」
「困るなァ。僕は僕で、これから会社へちょっと寄って、それから浅草の家がどうなったか、その方へ大急ぎで廻らなければならないんですよ。とてもお内儀さんの家の方へついていってあげるわけにはゆきませんよ」
 女は、顔からスポリと被った手拭の端を、唇でギリギリ噛んでいたが、
「でも、さっき聞いた話では、あたしの住んでいた本所ほんじょ緑町みどりちょうはすっかり焼けてしまったうえに、町内の人たちは、みな被服廠ひふくしょうへ避難したところが、ひどい旋風に遭って、十万人もが残らず死んでしまったといいますからネ。あたしそんな恐ろしいところへ、とても一人では行けやしませんわ」
 杜はそれをきくと太い溜息をついた。なんという勝手なことをいう女だろう。しかし女はこの焼け野原を見てほんとうに途方にくれているらしかった。
「――じゃあ、僕がすっかり用事を済ませてからでいいなら連れていってあげてもいいですよ。しかし何日目さきのことになるかわかりませんよ」
「ええ、結構ですわ。そうしていただけば、あたし本当に、――」といって言葉を切り、しばらくして小さい声で「助かりますわ」
 とつけて、ポロポロとなみだを落とした。
 杜は先に立って歩きだした。女は裾をからげて、あとから一生懸命でついてきた。見るともなしに見ると、いつの間にか女は、破れた筈の白い湯巻をどう工夫したものかすこしも破れてみえないように、うまくはき直していた。
 杜は焼け土の上をんで、丸の内有楽町にあった会社を探した。
 すると不幸なことに、会社は、跡片もなく灰塵かいじんに帰していた。そしてその跡には、道々に見てきたような立退先の立て札一つ建っていなかった。
 やむを得ず杜は、名刺を一枚だして、それに日附と時間とを書きこみ、それから裏面に「横浜税関倉庫ハ全壊シ、着荷ハ三分ノ二以上損傷シタルモノト被存候ぞんぜられそうろう」と報告を書きつけた。それをすぐ目に映るようにと、玄関跡とおぼしきあたりに焼け煉瓦を置き、その上に名刺を赤い五寸くぎでさしとおし焼け煉瓦の割れ目へ突きたてようとしたが、割れ目が見つからない。
「あのゥ、こっちの煉瓦の方に、丁度いい穴が明いていますわよ」
 後ろをふりかえってみると、例の手首を引張りだしてやった女が、煉瓦の塊をもって、ニヤニヤ笑っていた。
「すいません」
 といって、杜はその煉瓦をひったくるようにして取った。
 杜と人妻お千とは、また前後に並んで歩きだした。――電車が鉄枠ばかり焼け残って、まるで骸骨がいこつのような恰好をしていた。消防自動車らしいのが、踏みつぶされたがまのようにグシャリとなっていた。溝のなかには馬が丸々としたおしりだけを高々とあげて死んでいた。そうかと思うと、町角に焼けトタン板が重ねてあって、その裾から惨死者と見え、火ぶくれになった太い脚がニョッキリ出ていた。お千はそれを見ると悲鳴をあげて、彼の洋服をつかんだ。
 杜は、胸のなかでフフフと笑った。この女とても、自分が通りかからねば、あのようなあさましい姿になっていた筈だのに、それを怖がるとはなんということだろう、と。
 彼はふたたび焼野原の銀座通へ出て、それからドンドン日本橋の方へ歩いていった。おどろいたことに、正面に見たこともない青々とした森が見えたが、これがよく考えてみると、上野の森にちがいなかった。なにしろこの辺は目をさえぎるものとてなんにもないのであった。――ああ今頃、ミチミはどうしているだろう。
「さあ、接待だ、遠慮なく持っていって下さい」
 と、路傍の天幕てんまくから、勇ましい声がした。
 杜がその方をみると、向う鉢巻に、クレップシャツという風体の店員らしいのが飛び出して来て、
「さあ、腹をこしらえとかにゃ損ですよ。――お握飯をあげましょう。手をお出しなさい。奥さんの分とともに、三つあげましょう。すこし半端だけれどネ」
 そういって若い男は、杜の手の上に、大きな握飯を三つ載せた。
 奥さん?
 杜はハッとしたが、それが後からついてくる人妻お千のことだと思うと、くすぐられるような気がした。
 杜は、そこをすこし通りすぎたところで、お千の方をふりかえった。そして彼女の手に握飯を一つ載せ、それからまた考えて、もう一つをさしだした。
 女はそれを固辞こじした。杜は自分はいいからぜひ喰べろとすすめた。女はあたしこそいいから、あなたぜひにおあがりといって辞退した。杜はこの太った女が、腹を減らしていないわけはないと思って、無理やりに握飯を彼女の手の上に置いた。すると握飯はハッと思うまに、地上に落ちて、泥にまみれた。
 女はそれを見ると、急に青くなって、腰をかがめて、落ちた握飯を拾いあげようとした。彼は愕いて、女を留めた。
 女は杜の顔を見た。女の眼には、泪がいっぱい、溜っていた。
「――すみません。あたしが気が利かないで。――」
「なァに、そんなもの、なんでもありゃしない」
 杜はまた先に立って、焼野原の間を歩きだした。
(どうも、困った女だ)
 と、彼は心の中で溜息をついた。この分では、この年増女房は、どこまでも彼の後をくっついて来そうに思われた。なぜ彼女は、どこかへ行ってしまわないんだろう。
 彼女が臆病なせいだろうか。一家が焼け死んだと思っているからだろうか。それとも彼が倒壊した棟木の下から手首を抜いてやって、彼女の一命を助けてやったためだろうか。
 そんなことが、何だというのだ。
 そのとき杜は、昨夜の出来ごとを思いだした。昨夜彼は、この女を護って、野毛山のげやまのバラックに泊った。女は、例の手をしきりに痛がっていたので、そこにあった救護所で手当を受けさせた。その後でも女は、なおも苦痛を訴え、そして熱さえ出てきた様子であった。彼は到底とうていこのままにはして置けぬと思ったので、救護所の人に、どこか寝られるところはないかと尋ねた。すると、それならこの裏山にあるバラックへ行けと教えられた。
 彼は女につきそって、バラックに入れられた。そこには多勢の男女が居て、後から分ったところによると、家族づれの宿泊所だった。バラックとは名ばかり、下に柱をくんで、畳が四、五枚並べてあった。天井は、立てば必ず頭をうちつけるトタン板であった。
 彼は思いがけなく、畳の上にゴロリと横になることができた。但し畳の上といっても、狭い三尺の方に身体を横たえるので、頭と脚とが外にはみ出すのであった。それでも女はたいへん喜んで、すぐ横になった。
 ところが、避難民が、あとからあとへと入ってくるのであった。だから始めは離れていたお千との距離が、前後からだんだんと押しつめられてきた。そして遂に、お千の身体とピッタリくっついてしまった。
 それでもまだ後から避難民が入ってきた。
「さあ、皆さん、おたがいさまです。仰向きになって寝ないで、身体を横にして寝て下さい。一人でも余計に寝てもらいたいですから」
 窮屈な号令が掛った。そして係員らしいのが、皆の寝像ねぞうを調べに入ってきた。やむを得ず、畳の上の人たちは、塩煎餅しおせんべいをかえすように、身体を横に立てた。
「もっとピッタリ寄って下さい。夜露にぬれる人のことを思って、隙をつくらないようにして下さいよ」
 お千は遠慮して、向うを向いていたが、もうたまりかねて闇の中に寝がえりを打ち、杜の方に向き直った。そして彼女は、乳房をさがし求める幼児のように、彼の方に寄ってきたのであった。
 杜は睡りもやらず、痛がるお千の腕をソッと持っていてやった。――
(お千は、あのことを思っているのじゃあるまいな)
 杜の耳朶みみたぶが、不意に赤くなった。
 お千はいつの間にか、彼の左側にピタリと寄りそって歩いていた。
「手は痛みますか。――」
 と、彼は今までにないやさしい声で尋ねてみた。
「すこしは薄らいだようでござんす」
 お千はニッコリ笑った。
 浅草橋から駒形こまがたへ出、そして吾妻橋あづまばしのかたわらを過ぎて、とうとう彼等の愛の巣のある山の宿に入った。所はかわれども、荒涼たる焼野原の景は一向かわらずであった。
 ただ見覚えのある石造り交番が立っていたので、彼が今どの辺に立っているかの見当がついた。
 交番の中はすっかり焼けつくしたものと見え、窓外の石壁には、焔のあとがくろぐろとうわひろがりにクッキリとついていた。中には何があるのか、その前には四、五人の罹災者りさいしゃが、熱心に覗きこんでいた。そのうちの一人が、列を離れて、杜の方に近づきざま、
「――ねえ、可愛そうに女学生ですよ。袴をはいたまま、死んでいますよ」
 といって、うしろを指した。
「えッ、アー女学生が――」
 瞬間、彼の目の前は急にくらくなった。
(ミチミよ、なぜ僕は一直線におまえのところへ帰ってこなかったんだろう!)
 彼は心の中で、ミチミの霊にわび言をくりかえした。
 杜はそこで勇猛心をふるい起すのに骨を折った。どうして見ないですむわけのものではなかった。彼はいくたびか躊躇をした末に、とうとう思いきって、交番の中をこわごわ覗きこんだ。
 黒い飾りのある靴、焼け焦げになった袴、ニュッと伸ばした黄色い腕、生きているようにクワッと開いている眼――だが、なんという幸いだろう。その惨死している女学生はミチミではなかった。
「ああ、よかった。――」
 彼は両手を空の方へウンとつきだして、その言葉をいくどもくりかえした。
 だが、愛の巣のあったと思うところには、赤ちゃけた焼灰ばかりがあって、まだ冷めきらぬほとぼりが、無性むしょうに彼の心をかき乱した。
 そのなかに、もしやミチミの骨が――と思って、焼けた鉄棒のさきで、そこらを掻きまわしてみたが、人骨らしいものは出てこなかった。ミチミは何処かへ、難をさけたのであろう。
 立て札もなければ、あたりに見知り越しの近所の人も見えない。
 彼はこの上、どうしてよいのか分らなかった。
 ――が、考えた末、焼け鉄棒を焼け灰のなかに立てると、それに彼の名刺をつきさした。名刺の上には、「無事。明三日正午、観音堂前ニテ待ツ。松島房子ドノ」と書いたが、また思いかえして、それに並べて、「小山ミチミ殿」と書き足した。
 お千は、この一伍一什いちぶしじゅうを、黙々として、ただ気の毒そうに眺めていた。
「家族はまだ、焼け跡へはかえって来てないらしい。――じゃ、こんどはいよいよ、あんたの家の方へ行ってみよう」
 杜はそういって、そこを立ち去りかねているお千をうながした。
 それから二人は、焼け落ちた吾妻橋の上を手をつないで、川向うへ渡った。橋桁はしげたの上にも、死骸がいくつも転がっていた。下を見ると、赤土ににごった大川の水面に、土左衛門がプカプカ浮んでいた。その数は三、四十――いやもっともっとおびただしかった。
 こうなると、人間というものは瀬戸物づくりの人形よりももろいものであった。
 さて川岸づたいに、お千の住んでいた緑町の方へいってみた。惨状は聞いたよりも何十倍何百倍もひどかった。全身泥まみれとなり、反面にひどい火傷を負った男がフラフラと歩いていた。これに聞くと、緑町界隈かいわいの人間はみな被服廠ひふくしょうで死に、生命をたすかったのは自分をはじめ、せいぜい十名たらずであろう――などといった。
 被服廠の惨状は、とうてい筆にするに忍びない。――お千は、オイオイ声をあげて泣いた。やがて声だけはたてなくなったが、彼女ははふり落ちる涙を、何時までたってもとどめ得なかった。
「ああ、みんな死んじゃった。――あたし一人、後に残されたんだ。おお、これからどうしたらいいだろう」
 両国橋の袂までくるとお千は、そういってまた声をあげて泣きだした。そして緑町の方を向いて合掌し、くどくどとお念仏をじゅした。
 こうして、杜とお千との寄り合い世帯が始まった。二十五の若い男と、三十二の大年増の取組は、内容に於て甚だ錯倒的であったけれど、外観に於て、さほど目立たなかった。
 二人は、いろいろなところに泊った。
 興奮と猟奇にみちた新しい生活がつづいた。二人は夫婦気取りで、同じ部屋に泊ったが、それは便宜のためであって、二人の身体の関係は、長く純潔に保たれていた。
 毎日毎日、宿泊所の朝が来ると、二人は連れだってそこを出た。それから杜は、ミチミと房子との二重の名のついた「尋ね人」のはたを担いで、避難民の固まっているバラックをそれからそれへと訪ねていった。お千は、まだなおりきらぬ左の腕に繃帯を巻いたまま、どこまでも杜の後につきしたがって行った。
 そうして九月一日から数えて、十二日というものを、無駄に過ごした。杜の心は、だんだん暗くなっていった。それと反対に、お千の気持はだんだん落ちつきを取りかえし、日増しに元気になって、古女房のように杜の身のまわりを世話した。
 それは丁度九月十三日のことであった。
 杜はいつものように、お千をともなって、朝早くバラックを出た。その日はカラリと晴れた上天気で、陽はカンカンと焼金やきがねくさい復興市街の上を照らしていた。杜は途中にして、ミチミの名を書いた旆を、宿に置き忘れてきたことに気がついた。しかしいまさら引返すほどのこともないと思った。でもそのときは、まさかそれが、泣いても泣ききれぬ深刻なる皮肉で彼を迎えようとは、神ならぬ身の気づくよしもなかった。
 その日、はからずも彼は、もう死んだものとばかり思っていたミチミに、バッタリ行き逢ったのである。


     6


 所は焼け落ちた吾妻橋の上だった。
 まるで轢死人れきしにんの両断した胴中の切れ目と切れ目の間を臓腑がねじれ会いながら橋渡しをしているとでもいいたいほど不様ぶざまな橋の有様だった。十三日目を迎えたけれど、この不様な有様にはさして変りもなく、只その橋桁の上に狭い板が二本ずっと渡してあって、その上を危かしい人通りが、いくぶんかにぎやかになっているだけの違いだった。
 杜は人妻お千を伴って、この橋を浅草の方から本所の方へ渡っていた。なにしろ足を載せる板幅がたいへん狭く、その上ところどころに寸の足りないところがあって、躍り越えでもしないと前進ができなかった。杜はふとじしおよそこうした活溌な運動には経験のないお千に、この危かしい橋渡りをやらせるのにかなり骨を折らねばならなかった。
「さあ、この手につかまって――」
 と、杜が手を差出しても、お千はモジモジして板の端にふるえているという始末だった。そのうちに彼女は、水中に飴のように曲って落ちこんだ橋梁きょうりょうの間から下を見て、まだそこにプカプカしている土左衛門や、橋の礎石の空処に全身真赤に焼けただれて死んでいる惨死者の死体を見るのであった。すると両足がすくんでしまって、もう一歩も前進ができず、ただもうブルブルとふるえながら、太い鉄管にかじりつくほかなかった。
 それは震災の日の緊張が、この辺ですこしゆるんだため、さきには気がつかずに通りすぎたものが、ここでは、急にヒシヒシと彼女の恐怖心をあおったものだろう。――杜は仕方なく、そういうとこで、この大の女を背負うか、或いは両手でその重い身体を抱くかし、壊れた橋桁の上を渡ってゆくしかなかった。それはたいへん他人が見て気になる光景だったけれど、この際どうにも仕方がなかった。さもないとお千は川の中へボチャンと落ちてしまうにきまっている。
 ことに始末のわるいことは、この場になってお千が意識的に杜にしなだれかかることだった。彼女としては、恩人でもあり、またこの上ない情念の対象である彼に対して、せめてこういうときでも露骨ろこつにしなだれかかるより外、彼女の気の慰められる機会はなかったからでもあった。それほど杜という男は、彼女にしてみればスパナーのように冷たく、そしてれったい朴念仁ぼくねんじんであった。
「これ、そう顔を近づけちゃ、前方まえが見えなくて、危いじゃないですか。一緒に河の中へおっこちてしまいますよ」
「ウフフフ……」とお千はヒステリックに笑った。そして、わざと唇を彼の耳朶じだのところに押しつけて「あたしネ、本当はお前さんとこの橋から下におっこちたいのよ、ウフフフ」
 といって、太い両足を子供かなにかのようにバタバタさせるのであった。
「危い危い。冗談じゃない。そんな無茶を云うんだったら、僕はそこで手を離して、君だけ河ンなかへ落としちまう――」
「いやよいやよ。お前さんが離しても、あたしは死んだってお前さんの首を離しやしないわ、どうしてお前さんはそう邪怪じゃけんなんでしょうネ。いいわ、あたしゃ、ここで死んじゃうわよ、もちろんお前さんを道づれにして――」
「こーれ、危いというのに。第一、みっともない――」
 といったが、お千はもうすっかり興奮してしまって、そこが人通の多いところであることも、白昼であることにも、もうわきまえがないように見えた。杜の頸を巻いている彼女の腕がいきなりグッと締るかと思うと、最前から彼の耳朶に押しあてられていた熱い唇が横に移動して彼の頬の方から、はては彼の唇の方へ廻ってくる気勢きせいを示した。杜は近よってくるお千の生ぐさい唇のにおいを嗅いだ。あわてて顔を横に向けようとしたが彼の頸動脈は、お千のためにあまりにも強く締めつけられていた。そのためになんだか頭がボーッとしてきた。
「あぶないッ――これ止せッ」
「これ、生命を粗末にするなッ」
 突然大きな声が耳許にして、二人の身体は両方から支えられた。――杜はその力の下からフーフー息を切った。そして誰か通行人が、自分たちのために叫び、自分たちをささえていてくれることに気がついた。
「さあ、落着いて落着いて」と見知らぬ声が云った。
「まあ無理はないよ、お互いに無一文何にもなしになったんだからネ。しかしお前さん方もまだまだ若いんだ。もっと気を大きく持ち、これから夫婦して共稼ぎをするなりしてもう一度花を咲かす気持でなくちゃあ――」
「そうだそうだ」と別の声が云った。
「全く死にたくもなるよ。俺も昨日それをやりかけた。しかしそれは死神が今俺たちについていると知って止したんだ。死神のやつのせいで、今ならとても簡単に死ねるような気持になっているんだ。しかし考えて見なよ、このとおり多い惨死者のなかで、俺たちはともかくも助かっているんだ。なぜ助かったか、そこを考えなくちゃいけない。ねえ、貴郎あなたがた――さあお内儀かみさんも元気を出して、下りて歩きなせえよ」
 要らざる訓戒とは思ったが、それを聞いているうちに、杜はそれがなんだかしみじみ自分の心をうっているのに気がついた。そして自分も、すっかり気力を失って本当に夫婦心中をしようと思っていたらしい気がしてくるのだった。不思議な気持ちだった。もちろん後で考えると、それは震災の大きなショックから来た神経衰弱症にちがいなく、莫迦莫迦ばかばかしいことではあったけれども――。
 お千は、彼の首に廻していた両腕を解いて、おせっかいな通行人のすすめるとおりに、下に下りた。しかし彼女はいきなりワーッと大きな声をあげると、杜の胸に顔を埋めて泣きつづけた。
「可哀想に――。無理もねえや。妙齢としごろの女が桐の箪笥ごと晴着をみな焼いちまって、たったよれよれの浴衣一枚になってしまったんだからなァ」
 と、同情の声が傍から聞えた。二人は全く夫婦心中者に見られてしまったらしい。
 杜はお千の背中を抱いたまま、不思議に自然に、その場の気分になっていた。が、そのとき不図ふと頭を廻して横を向いたとき、彼は卒倒せんばかりにおどろいた。――
「おお、ミチミ――」
 ミチミが生きていた。ミチミは彼のすぐ傍にいた。僅か一本の太い鉄管をへだてて、その向うにいた。鉄管の上に両手をのせてジーッと二人を見詰めていた。すべてを彼女は見ていたのだろうか。
 ミチミの顔は真青だった。
 ミチミは手拭てぬぐいを、カルメンのように頭髪の上に被って、その端を長くたらしていた。そして見覚えのある単衣ひとえを着ていた。それは九月一日、彼と一緒に家を出て、電車どおりにゆくまでにしげしげ見た見覚えのある模様の単衣だった。そしてその単衣の襟は茶褐色に汚れ、そのはだけた襟の間からは、砂埃りに色のついた――だがムッチリした可愛いい胸のふくらみが、すこしばかりのぞいていた。ミチミも随分苦労したらしい。
「ミチミ――」
 と、杜はお千を引離して駆けよろうとしたが、この時お千はまた両腕を彼の頸にまわして、力まかせにぶら下ってきた。離すどころの騒ぎではなかった。
 ミチミは唇を、ワナワナ慄わせていた。その下ぶくれの唇を、やがてツーンと前につきだしたかと思うと、
「莫迦――」
 と只一言。叩きつけるように云った。
「これミチミ、何をいうんだ――」
 ミチミはツと身を引いたかと思うと、彼女のうしろに立っていた二十歳あまりの、すこぶる長身の青年の、オープンの襟に手をかけて、何ごとか訴えるような姿勢をとった。
 その男はフンフンと、彼女の話を聞いているようであったが、やがて杜の方に向ってきりのように鋭い嫌悪けんお眼眸がんぼうを強く射かけると、長い腕をまわして、ミチミの身体を自分のたくましい肩の方へ引きよせ、そしてグッと抱きしめた。
「――さあ行こう、ミチミ」
 男はそういって、杜に当てつけがましく、ミチミを抱かんばかりにして、焼け橋梁はしの上を浅草側に向って立ち去るのであった。
「ミチミ――」
 杜は魂をあずけた少女ミチミの名を、もう一度声に出す元気もなくなって、わずかに口のなかでそう叫んだ。いやいや、おお愛するミチミ、私の魂であるミチミ! という呼び方も、いまは自分だけのものではなくなったらしい。あの颯爽さっそうたる青年、見るからに文化教育をうけたらしいスッキリした東京ッ児――それが百年も前からミチミを恋人にしていたような態度で「ミチミ、ミチミ!」と呼んでいるのだった。ああ万事休す矣。また何という深刻な宿命なのだろう。お千と自分との無様ぶざまな色模様を見せたのも宿命なら、いまさらこんなところでミチミに会ったのも宿命だった。
 ミチミは頬を膨らまし、背中を向けて向うへいってしまった。杜には、あれがいつものミチミなのだろうかと疑ったほど、彼女の身体はあかの他人のように見えた。お互に理解し合うことはありながら、こうなっては、たとえ何から何までうちあけても、その一部とて信用されないかもしれない。それほど致命的なこの場の破局だった。杜は痛心をおさえることができないままに、それからズンズン一人で歩きだした。
 橋桁を渡って、本所区へ――
 そして彼は当途あてどもなく何処までもズンズン歩いていった。まるで天狗にかれたふうのように速く――。


     7


「よう、あんたァ、――」
 と、お千が追いすがるようにして、後方うしろから声をかけた。
「……」
 杜はお千の声を聞いてピクンとした。しかし振り向き返りもしないで、相変らず黙々としてズンズン歩いていった。
「よう、何処まで行くのさあ。――」
 それでも彼は黙って歩みつづけた。
 するとお千がバタバタと追いついてきて、彼の腕をとらえた。
「こんな方へ来てどうするの。柳島を渡って千葉へでも逃げるつもりなのかネ」
 でも、彼は執拗に黙っていた。お千は怒りを帯びた声で、
「チョッ」と舌打をし、彼の腕を邪険じゃけんにふりほどいた。
「なんだい、面白くもない。黙って見ていりゃ、いい気になってサ。いくら年が若いたって、あのざまは何だネ。あんな乳くさい女学生にゾッコン惚れこんで、手も足も出やしないじゃないか。あたしゃ横から見ていても腹が立つっちゃない。お前さんはなかなかしっかりもんだと思って、あたしゃ前から――イエ何さ、しっかりした人だと思ってたのさ。ところが今のざまですっかり嫌いになっちゃった。嫌いも嫌いも大嫌いさ。あたしゃもうお前と歩かないよ。飛んだ思いちがいさ。大河から土左衛門の女でも引張りあげて、抱いて寝てるがいいさ。意気地なしの、大甘野郎の、女たらしの……」
 お千はまた興奮して、地団太じだんだを踏み、往来の砂埃すなぼこりをしきりと立てていた。
 杜は後向きになって、じっと足を停めていた。
「じゃお前さんともお別れだよ。あたしゃ好きなところへ行っちまうよ。――ああ、あのとき横浜の崩れた屋根瓦の下で焼け死んじゃった方がどんなに気持がよかったか分りゃしない。薄情男! 女たらし!」
 そのとき杜は、顔をクルリと廻して、お千の方を見た。お千は不意を喰らって狼狽ろうばいし、きかけた口を持て余し気味にただ大きな息を呑んだ。
 杜はツカツカとお千の方に寄っていった。彼の勢いに呑まれたお千がタジタジとなるのを追いかけるようにして、杜はお千の手首をムズと補えた。肉づきのいい餅のように柔かな手首だった。
「――僕と一緒についてくるんだ。逃げると承知しないぞ」
「ええッ。――」
「意気地なしか大甘野郎かどうか、君に納得のゆくようにしてやるんだッ」
 杜はお千の手首を色の変るほどギュッとつかんで、サッサと歩きだした。杜のこの突然の変った態度を、お千はどう理解するいとまもなく引張られていった。手首は骨がポキンと折れてしまいそうに痛んだ。その痛みが、彼女の身体に、奇妙な或る満足感に似たものを与えた。お千は引摺ひきずられるようにして、でも嬉しくもなさそうに眼を細くして、杜の云いなり放題にドンドン引張られていった。杜は柳島までも行かなかった。丁度ちょうど吾妻橋と被服廠跡との丁度中間ほどにある原庭町はらにわちょうの広い焼け野原のところ――といっても町名は明かではなく、どこからどこまでも区切のない茫漠ぼうばくたる一面の焼け武蔵野ヶ原であったけれど――この原庭と思われる辺に来て、杜は不図ふと足を停めた。
「この辺がよかろう」
 杜は誰に云うともなくそう云った。
 かたわらには小さな溝が、流れもしないドロンとした水をたたえている。それから太い大樹の無惨な焼け残りが、まるで陸に上った海坊主のような恰好をして突立っている。なんだか気味のわるい不吉な形だった。すこしばかりこんもりと盛り上った土塊どかいや、水の一滴もないくぼみ、それから黒くくすんでいる飛石らしいのが向うへ続いて、にぎやかに崩れた煉瓦塀のところまで達している。どうやら此処は、誰かの邸宅の庭園だったところらしい。
 杜は怪訝けげんな顔つきをしているお千の方に振りかえった。
「――さあ、まず焼けトタンを十枚ほど拾いあつめるんだ――」
 杜は手をふって、お千に命令を下した。
 お千は杜の権幕けんまくおどろいて、命令に服従した。そして邸跡にトタン板を探しはじめた。
「オイ、早くしろ。腕なんか釣っているのをよせッ。両手を使ってドンドンやるんだ」
 お千は目をみはって、釣っていた左の手を下ろした。
 トタン板が集められると、こんどは柱になるような木が集められた。溝の中に落ちていた丸太やら、焼け折れている庭木などが、それでも五、六本集められた。つづいて水びたしになっていた空虚の芋俵が引上げられ、その縄が解かれた。太い針金が出てきた。
 そうした建築材料が集まると、杜はそこに穴を掘って棒を立てた。それから横木や、床張りの木を渡し、屋根には焼けトタン板を何枚も重ねあわした。――バラック建がこうして出来上った。もう正午に近かった。
 二人は救護所まで出かけて、昼食の代りにふかし芋を貰ってきた。それを喰べ終ると、二間ほどある縄切れを持って、拾い物に出かけた。
 欲しいものは、なるべく大きな板切れと、なるべく広いきれであった。それにつづいてむしろか綿か、さもなければ濡れた畳であった。
 二人は眼を光らせて、それ等のものを探して歩いた。はじめは、焼け跡に立ちかけている本物のバラック建の家や、河や溝の中を探しまわっていたが、そのうちにそんなところよりもむしろ罹災者りさいしゃあての配給品が集まってくるところの方に、物資が豊かであることに気がついた。それは多くは橋のたもととか、町角まちかどとかに在った。
 欲しいものは、たいてい重かった。二人の力はすぐに足りなくなった。一つの俵を引きずって帰っては、また駈け足をしていって、別な一つの函を担いで帰るという有様だった。
 でも人間の一心は恐ろしいもので、かなり豊富な畳建具の代用材料が集まった。そのときはもう日がすっかり傾いて、あたりはだんだん暗くなっていった。
 二坪ばかりの小屋のうち、僅かに一坪ほどの床めいたものを作り、その上に俵をほぐして、むしろを敷いた。その上にわらを載せた。どうやら寝床のようなものが出来た。
 まだ作らなければならぬものが沢山あったけれど、もうあたりが暗くなって駄目だった。途中で貰ってきた手拭づつみの握り飯を二人で喰べると、昼間の疲れが一時に出てきた。
 二人はだいたいにらみ合って、無言の業をつづけていたが、疲労から睡魔の手へ、彼等はなにがなんだか分らないうちに横にたおれて前後不覚に睡ってしまった。
 次の日の暁が来たのも、もちろん二人は知らなかった。どっちが先とも分らず目が覚めたが、そのときはもう太陽が高く上っていて、バラックの外には荷車がギシギシ音を立てて通ってゆくのが聞えた。
 杜は目が覚めたが、何もすることがないので、そのままゴロリと寝ていた。頭と足とを逆に寝ていたお千は、藁の中に起きあがった。そして下駄をつっかけると、天井の低い土間に突立つったって、物珍らしそうに小屋のうちを眺めまわした。お千がなんとなく嬉しそうにニコリと微笑ほほえんだのを、杜は薄眼の中から見のがさなかった。
 お千が小屋の外に出てゆくと、間もなくガヤガヤと元気な人声がした。なんだか木の箱がゴトンゴトンとかち会う音などが聞えた。なんだろうなと思っているうちに、お千がヌッと小屋のなかに入ってきた。彼女は両手に沢山の品物を抱えていた。
「あんた、こんなに貰ったのよ。みな配給品だわ。林檎りんごもあるわ。缶詰に、ハミガキに、それから慰問袋もあんたの分とあたしの分と二つあるわよ。――さあ起きなさいよォ」
 お千はすっかり機嫌を直していた。
 配給品が時の氏神うじがみであった。二人はそれを並べて幾度も手にとりあげては、顔を見合わせて笑った。
「昨日のことは――あのことは、あんた忘れてネ。あたし、どうかしていたのよ。いくらでも謝るわ」
 お千はいい潮時しおどきを外さず、ずかしそうに素直に謝った。
「うん、なァに、なんでもないさ。――」
 杜はいままでに一度も懸けたことのない優しい言葉を云った。その優しい言葉は、お千に対してよりも、自分自身のわびしい心を打った。彼はなんだか熱いものが眼の奥から湧いてくるのを、グッとみこんだ。


     8


 昨日に続いて、杜とお千とは、また連れだって拾い物に出かけた。
 ちょっとした煮物の出来るかまども出来たし、ミカン函を改造して机兼チャブ台も作った。裏手には、お千のために、往来からは見えないように眼かくしをした軽便厠けいべんがわやをこしらえた。入口には、杜の名をボール函の真に書いて表札のつもりで貼り出した。名前の横には、彼の勤め先である商会の名も入れて置くことを忘れなかった。
 こうして、どうやら恰好のついた一家が出来上った。拾い集めて来た材料は、むしろ余ったくらいであった。しかしそれが今の二人には堂々たる財産なのだった。
「あんた、お金持ってないの」
「うむ。――少しは持っているよ。三円なにがし……。なんだネお金のことを云って」
「あたしはもうお金がないのよ、ずっと前からネ。それであんたお金持っているんなら、蝋燭ろうそくを買わない。今夜から、ちっと用のあるときにつけてみたいわ」
「なァんだ、蝋燭か。君は暗いのが、こわいのだな」
「こわいって訳じゃないけれど、蝋燭があった方がいいわ」
「よし、とにかく買おう。じゃこれから浅草まで買いにゆこうよ」
 もう日暮れ時だった。
 二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや小暗こぐらい蝋燭をともして露店が出ていた。芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、西瓜すいかを十個ほど並べて、それを輪切りに赤いところを見せている店、小さい梨を売る店――などと、食い物店が多かった。
 蝋燭は、仁王門を入ったところの店に売っていた。杜はお千と相談して、五銭の蝋燭を四本と、その外に東北地方から来たらしい大きな提灯ちょうちん一個八銭とを買った。
「おお、生ビールがあるじゃないか。こいつはいい。一杯やろう」
 杜は思いがけない生ビールの店を見つけて舌なめずりをした。彼はお千を手招きして、二つのコップの一つを彼女に与えた。杜の腸に、久しぶりのアルコールがキューッとみわたった。なんともたとえようのない爽快さだった。
 彼は更にもう一杯をお代りした。
 お千はコップを台の上に置いて、口をつけそうになかった。
「お呑みよ。いい味だ。それに元気がつく」
 そういって杜はお千にビールをすすめた。お千はおそおそるコップに口をつけたが、やはりうまかったものと見え、いつの間にかすっかり空けてしまった。しかしもう一杯呑もうとは云わなかった。
 三ばいの生ビールが、杜をこの上なく楽しませた。思わない御馳走だった。震災以来の桁ちがいの味覚であった。彼はお千に、では帰ろうと云った。お千は、ちょっと待ってと云いながら、ビールを売る店のお内儀かみにコソコソ耳うちしてそのうしろの御不浄に出かけた。
 やがて二人は、小暗い道を、ソロソロ元来た方に引返していった。
 雷門を離れると、もう真暗だった。そこで買って来た提灯をつけたお千は吾妻橋の脇の共同便所の前で、杜を待たせて置いて、また用を達しに入った。
 吾妻橋は直したと見えて、昨日よりも遥かに安全に通りやすくなっていたが、それでも提灯の灯があればこそ僅かに通れるのであった。しかし夜のこととて、壊れた橋のさまやら、にごった水の面などが見えなくて、かえってよかった。
 橋を渡りきって、石原の大通りを二人が肩を並べて歩いているときのことだった。
「ねえ、あんたァ。あたしどうも辺なのよ。またおしもに行きたくなった」
「フフン、それはビールのせいだろう」
「いいえ、けさからそうなのよ。とてもたまらないの。また膀胱ぼうこうカタルになったと思うのよ。――」
 とまで云ったお千は、急に身体をブルブルッとふるわせた。そして彼に急を訴えると、その場にハタとしゃがんで、堤を切ったような音をたてて用を達した。杜は提灯片手に、その激しい音を聞きながら、あたりに注意を払っていた。――お千は絶対無我の境地にあるような姿勢をしていた。
 杜はその夜、小屋にかえってから、遂にお千の身体を知った。
 志操堅固な杜だったけれど、どういうものかその夜の尿の音を思いだすごとに、彼はどうにも仕方のない興奮状態に陥ってしまい、その後もその度に、彼は哀れな敗残者となることを繰りかえした。
 十七日から、彼は丸の内へ出勤することになった。商会は焼け跡に、仮事務所を作り、再び商売に打って出ることになったからである。
「ね、早く帰って来てネ。後生ごしょうだから……」
 とお千は杜の出勤の前に五度も六度も同じことを繰返し云った。
「うん、大丈夫だ。早く帰ってくる。――」
 そういって出かけたが、彼の帰りは、いつも日暮時になった。
 お千は門口に彼の帰ってきた気配がすると、子供のように小屋の中から飛んで出て来た。そして半泣きの顔にニッと悦びのみを浮べ、そしてその後で決ったように大きな溜息をつくのであった。いつもきまってそのようであった。
「きょうネ」とお千は或るとき彼を迎えて夕炊ゆうめしの膳を囲みながらいった。
「ホラこの前吾妻橋の上で行き会ったあんたのいいひとネ。あの女学生みたいな娘がサ、向うの道を歩いていたわよ。あんた嬉しいでしょう。――まあ憎らしい」
 などといって、はてはキャアキャアふざけるのであった。
 またその後の或る日の出来ごとだったが(後で考えるとそれは二十三日のことだったが)彼が会社から帰ってみるといつもは子供のように胸にとびついてくる筈のお千が、迎えに出もせず、小屋のなかに蒼い顔をしてジッと座っているのを発見した。彼は、留守中なにごとかあったのだなと、すぐ悟った。
「いやに元気がないじゃないか。どうしたんだ」
 と問えば、
「いえ、なんでもないの」
 と、お千は蒼い顔を一層蒼くして、強くかぶりを振った。
「変だな。何かあるんだろう。云ってみたまえ」
 彼女は、もう口を堅く閉じて首を左右に振った。
 杜はどうしてお千に真実ほんとうを云わせたものだろうかと、首をひねって考えていた。
「ごめんなさいまし。――」
 そのとき門口かどぐちに、男の声で、誰かう者があった。
「あッ、――」
 とお千は、電気に懸ったように飛び上り、すぐさま門口に両手を拡げて立ちふさがった。
「あんたは出ちゃいけない。なんでもよいの。あたしが話をつけるから……」
 そういっているとき、入口の幕をおし分けて、五十がらみの大きな男の顔がヌッと現われた。彼の顔は、渋柿のように真紅まっかであった。
「いやあ、これはお安くないところをお邪魔つかまつりまして、なんとも相済みません、ねえ、こちらの御主人さんへ――」
 五十男は、不貞不貞ふてぶてしい面つきで、ノッソリ中へ入ってきた。
「き、君は何者だ。ここは僕の住居だ。無断で入ってくるなんて、君は――」
「はッはッはッ、無断で無断でと仰有おっしゃりますが、実はこのことについて貴公きこうに伺いたいのだ」
「なんだとォ――」
 と、杜も強く云いかえした。
「フン、お千がたいへんお世話になっていまして、お礼を申上げますよ。貴公は、人の女房にたいへんに親切ですネ」
「なにッ――では君は」
「もちろんお察しのとおり、私はお千の亭主でさあ。区役所の戸籍係へ行って調べてきたらいいだろう。よくも貴公は、――」
「ああ、そうだったか。貴方あなたは、死んだことと思っていたが――」
「ちゃんと生きていらあ。貴公にもそれがよく見えるだろうが。さあどうしてくれる」
「さあ――」
 といっているところへ、表の方で、なんだか意味はわからないが、呼んでいるような声がした。すると五十男は、急にあわてだし、
「ちえッ。――まあそのうち、改めて来るから、そのときは性根しょうねえて返答をしろ、いいかッ」
 と云い捨てて、裏の便所の方から、大狼狽だいろうばいの態で出ていった。杜はホッと溜息をついた。
 お千も同じように、ホッと吐息をついた。そして彼の方にびるような視線を送って、
「――あいつは悪い奴なのよ。あたしの本当の亭主じゃなくて、その前にちょっと世話になっていた麹町こうじまちの殿様半次という男なのよ。明るいところへ出られる身体じゃないんだけれど、どういうものか今は飛びあるいていて、きょう昼間、運わるくあたしを見かけて因縁いんねんをつけに来たのよ。あなた心配しないでネ」
「でも、こうなっては僕も――」
「心配いらないのよ。あたしに委せて置いてちょうだいよ」
「そうだ、丁度会社の方も仕事を始めて、給料をくれることになったから、どこか焼けていない牛込うしごめか芝の方に家を見つけて移ろうか。それともここで君と――」
「いやいやいや」とお千は大きくかぶりを振って、その先を云わせなかった。
「引越した方がいいと思うわ。あたし、どこへでもついてゆくわ」
 そういったお千は、そこでまた身体をブルブルと慄わせると、慌てて座を立って、奥へ駈けこんだ。


     9


 お千が、冷たいむくろとなったのは、その翌日のことだった――。
 その日、杜は会社へ出たが、戦争のように忙しい仕事の中にいて、ともすれば仕事をまるで忘れてしまうことがあった。彼はなにかの隙があったら、お千と一緒に住む家を、焼け残った牛込か芝かに求めたいものだとせっていた。だが彼の希望は、あとからあとへと押しよせてくる会社の仕事によって、完全に押しつぶされてしまった。しかもその日は、夕方になっても仕事の段落がつかず、遂に会社を出たのが夜更の十時だった。会社に泊ってゆけという上役や同僚たちのすすめであったけれど、彼はそれをふり切るようにして、懐中電灯片手に、お千の待っている家路に急いだのであった。
 帰りついたのは、かれこれ十一時であったろうか――。
 駈け足も同然に、バラックの幕を押しわけて家のうちに飛びこんだ杜は、その場にハッと立ちすくんだ。そこに海軍毛布を被って寝ていると思ったお千の姿が見えないのであった。寝床はそこにしきぱなしになっていたが、ぬけのからだった。しかし毛布は、人間の身体が入っていたことを証明するかのように、トンネル形にふくれていた。枕は土間にとんでいた。
「お千、オイお千、――」
 杜は女の名を呼びながら、かわやを明けてみた。だがそこにもお千の姿はなかった。
「――とうとう、お千のやつ、逃げてしまったんだな」
 杜は悲しみといきどおりとに、胸がはり裂けんばかりになってきた。考えてみれば無理のない話でもあった。昔世話になった五十男といえば、ひととおりやふた通でない深い情交であったに違いない。杜とはほんの僅かなことで結びついただけであった。ことに震災というものがどこまで深刻なものやら判らなかった時代に、彼はお千から大いに頼られたのであって、震災もここに二十四日、惨禍さんかは大きかったけれど、もうそれにもいつしか慣れてしまって、始めの大袈裟おおげさな恐怖や不安がすこし恥かしくなる頃であった。そういう時にお千が杜のところを飛び出していったのは一向不自然ではないと思った――。
 彼はゴロリと横になった。
 ミチミの顔が不図ふと浮んできた。それはどこやらすねているような顔だった。
(ミチミはどうしているだろうか。いまごろは、やはりこうしたバラックの中で、あの長身の青年の腕に抱かれて睡っているだろうか?)
 などと、しきりにミチミのことが思い出された。お千失踪しっそうの夜に、お千のことよりもミチミのことが想いだされるのはどうしたことであろう。それは杜自身が極めて心の弱い人間であって、悲哀に対して正面から衝突してゆく勇気がないために、その悲哀を紛らすための妥協的代償を他に求めたがるのに外ならなかった。
 杜は夢から夢を見た。ただ暗い床のうえによこたわっているだけのことでうつらうつらとしていた。何度目かに目が覚めたとき、トタン板の裂け目から暁の光りがほんのりと白く差しこんでいるのに気がついた。
 彼は改めて寝床のまわりを見廻した。もしやお千の姿がそこに帰ってきていはしないかと思ったが、それは空しき夢であった。彼女の寝床は、昨夜のとおり藻ぬけの殻であった。
 ただ彼は、枕許まくらもとに近い土間の上に、昨夜発見しなかったものを見出した。いや、それは発見はしたのであろうがつい気がつかなかったのであろう。それは見慣れないたばこがらだった。――その莨は「敷島!」
 杜は「ゴールデンバット」ばかり吸っていた。敷島は絶対に吸わなかった。お千も吸わない。
「敷島」の吸殻は三つほどあった。取りあげてみるとそこへ捨てて間もないように見えるものだった。
 もう一つの「敷島」の吸殻を発見した。それは土間の中に堅く埋まっていた。土間の上はなにかを引摺ったように縦の方向に何本もの条溝すじがついていた。いま発見した吸殻はその下に埋まっていたのである。
 土間の上の何本もの条溝は何のためについたのであろう。今朝がたは、こんなものを見なかったことは確かだ。
 杜はこの条溝の伸びている方向に目をやった。その条溝は裏口の幕の下に続いて、まだそこから外に伸びているようであった。杜はそれをボンヤリ見つめていたが、そのうち起き上って土間に下り、裏口の幕を掻きけて何気なく外を見た。
 そのとき彼は、実に不思議な光景を見た。
 裏口の正面に、焼けて坊主になり、幹だけ残った大樹があった。そこに人間が青い脚をブランとして垂れて下っているのであった。それが暁の光を浴びて、なんとなく神々こうごうしい姿に見えた。――お千が死んでいる。
 杜は、わりあいに愕かなかった。ただしそれはほんの最初のうちだけであったけれど。
「お千が死んでいる。――お千はなぜ死んだのであろう?」
 杜は裏口に立って、ボンヤリ死体を見上げていた。
 よくよく見ていると、お千の首にまきついている縄は、焼けた大樹の地上から八、九尺もある木の股のところに懸っていた。縄はそこでお仕舞いになってはいず、股のところから大樹の向う側にずっと長く斜に引き張られているのではないか。縄の末端は、大樹の向う三間ほど先にある手水鉢ちょうずばちの台のような飛び出たいわおの胸中に固く縛りつけられてあった。
「ああ、これは自殺じゃないんだ!」
 杜はハッと顔色をかえた。
 自殺の縊死いしだと思っていたのが、縄の引っ張ってある具合から、これは他殺でないと出来ないことだと気がついた彼はにわかに恐怖を感じた。お千は殺されたのだ。疑いなく彼女は暴力によって此処に釣り下げられたのである。
 誰だ? お千を殺したのは?
 杜はだんだんと周章あわてだした。
 さあ大変である。すくなくとも、彼自身は容疑者の一人として、警察署に連行されるであろう。自分はなにかヘマをやっていないであろうか。待てよ――。
 杜は、裏口の幕をはねのけるようにして、小屋のなかに飛びこんだ。
 彼はそこに今の今まで自分が横わっていた寝床を見た。その隣にはお千の空虚くうきょ寝床ねどこがあった。これはいけないと思って、彼は前後の見境もなく、今まで寝ていた自分の寝床を畳んで横の方に近づけた。
 そのとき、寝床の下のむしろの上に、ポツンと赤黒い血の痕がついているのを発見して、彼は驚愕を二倍にした。毛布にも附着しているだろうと思って改めてみると、幸いなことにほんの僅かついているだけだった。彼はそこのところの毛を一生懸命で※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしった。
 蓙の上の血痕をそのまま放置しておくことは、彼の弱い心が許さなかった。彼はナイフを出して、その血痕の周囲を蓙のまま四角に切りとった。
 毛布の血痕と、蓙に赤黒く固まりついている血痕とは捨てては危険である。彼は咄嗟とっさに、その二つの証拠品を、マッチ函の中にしまった。これで血の脅威からは脱れることができた。
 もう何か残っていないかと、あたりを見廻した。
「おお、これァ何だッ」
 妙なものがお千の寝床の向う側に落ちていた。拾いあげてみると、それは古風な縫い刺し細工の煙草入であった。彼は急いで中を明けてみた。中には口切煙草が沢山入っていた。その煙草は「敷島」だった。
「ああ『敷島』だ。――」
 胸躍らせながら、彼は中に残っている煙草の数を数えた。丁度十六本ある。
 十六本の「敷島」――そして土間に落ちている四本の「敷島」の吸殻!
 これ等は、杜が事件に対して嫌疑薄けんぎうすであることを証明してくれるであろうと思ったので、そのまま放置して置くことにした。彼は煙草入れを、また元のように、お千の寝床の傍にほうりだした。
 だが、この煙草入れの持ち主は、誰であろうか?
 夜がすっかり明け放れた。
 戸外は大きな叫び声がしている。誰か通行人が、お千の死体を見つけたのだろう。杜は外に出たものか、小屋の中に待っていたものかと思案に暮れたが、どうしても小屋の中にジッとして居られずになった。それで裏口の幕を押し開いて、集まってきた朝起きの人たちと同じく、お千のブランコ死体の下に馳けつけた。
 急報によって警官の出張があり、杜は真先に警官の手に逮捕せられた。
 警官が後から後へと何人もやってきた。背広服の検事や予審判事の姿も現れた。現場の写真が撮影されると、お千の死体は始めて下に下ろされた。
「死後十時間ぐらい経っていますネ」と裁判医が首を傾げながら云った「ですからまず昨夜の八時前後となりますネ」
 杜は、さんざんばら係官に引摺ひきずりまわされた上で、警察署に連行されることとなった。


     10


「ただ、正直にすべてを話して下さい。僕達がこうして君に詳しく聞くのも、結局君の無罪なる点をハッキリして置きたいためです」
 と、係の検事はおだやかに云った。
 杜はそれが手だと思わぬでもなかったけれど、適当に検事の温情に心服したような態度を示しながら、出来るだけ詳しい話をした。しかしマッチの函の中に収めた血痕のことだけは、とうとう云わなかった。なにしろそのマッチの函を某所に隠してしまったので、もしその隠し場所などをしゃべったとなると、杜のやり方に不審をいだかれるは必定であり、それから更に面白くない嫌疑をつのらせてはたまらないと思ったので、血痕のことだけは云わないことにした。それは検察官のために、一つの貴重なる断罪資料を失うことになるけれども、ここに至っては、もうどうにも仕様がなかった。
「――前日に来たこの五十男は何という名前だって」
 と検事は鉛筆をなめなめ杜に聞いた。
「たしか麹町の殿様半次とか云っていました」
「ええっ、殿様半次だと、――」
 と警官連は半次の仕業と知ると、云いあわせたように仰天ぎょうてんした。
「――つまりこの女の情夫である麹町の殿様半次が一番怪しいということになる。半次ならやりかねないだろう」
 重大なるお尋ね者である半次は、天には勝てず、ふるい友達のバラックに潜伏しているところをとらえられた。
 それから取調べが始まった。
 半次の前には、例の口付くちつき煙草入れと、土間から拾い上げた吸殻四個とが並べられた。
 彼のアリバイは、彼の当初の声明を裏切って、遂に立証すべき何ものも見つからず、遂に彼は恐れ入ってしまった。
 事件は次のように審理された。
 すなわち半次は、当日お千をまた尋ねて、昔の如き情交を迫り、遂に目的を達したことは、お千の死体解剖によって明白である。
 しかれどもお千は、今後の情交を拒絶し、もししいてそれを云うようであれば、半次の旧悪の数々とともに、彼の居所をその筋へ密告するからと脅迫したところから、半次は今はもうこれまでなりと思い、お千をくびり殺したものである――というのである。
 これに反して、杜のアリバイは確実であった。なにしろその日はずっと会社に居り、そして会社の門を外に出たのが午後十時だというから、お千の死に無関係であることが証明された。
 半次はお千殺しを頑強に否認しつづけたが、遂に観念したものか、とうとうそれを白状してしまった。係官はホッと息をついた。そしてやがて、半次を公判に懸ける準備に急いだのだった。
 杜はずっと早く釈放せられて、思い出のバラックに、只一人起き伏しする身とはなった。
 静夜せいや、床のなかにひとり目覚めると、彼は自分の心臓がよく激しい動悸をうっているのを発見することがあった。そういうときには、きっとお千の最期さいごについて何か追っ懸けられるような恐ろしい夢を見ていた。
 或る夢では、杜自身が犯人であって、お千を殺した顛末てんまつを検事の口から痛烈に論告されているところを夢見た。また或るときには、何者とも知れない覆面の人物が犯人となっていて、その疑問の犯人から彼がさいなまれて苦しくてたまらないところを夢見たりした。前者の場合よりも、後者の一方の夢がずっと恐ろしかった。
 恐ろしい夢から覚めた彼は、きまって寝床のなかにいて、今度は現実にお千殺しの顛末を考え直すのであった。――果して半次がお千を殺した真犯人であろうか!
 敷島の吸殻といい、煙草入れといい、それからまたあの前日の会見の台辞ぜりふといい、半次の日常生活といい、十六貫もあろうというお千の身体を大木に吊り下げたといい、半次を真犯人と断定する材料は決して少くなかった。それにもかかわらず、杜はなんとなく半次が真犯人でないような気がしてならなかった。
(どうしてそんな風に思うんだろう?)
 杜は自分の心の隅々を綿密に探してみるのであった。別にこれこれと思うものも見当らないのだ。だがそのうちに、もしかするとこれかも知れないと思うことがあった。それは、あの事件の後で、杜が現場に落ちていた血痕をぬぐって一つの証拠を湮滅いんめつし、それからまた毛布についていた血痕の部分をはさみで切り取ってマッチ函のなかに収め、同じく証拠湮滅を図ったことである。その血痕が直接に犯人を指しているというのではないが、ただそのような証拠を隠滅した行動それ自体が杜には後悔され、そして予審が終結したのにも拘らず、その結末が彼だけには信じられないのであった。それはたしかにこの世ながらの地獄の一つだと、杜は感じたことである。
 あの血痕を、それから自身持参して検事局を訪ねようかと思わぬでもなかったけれど、一日経ち二日経ち、彼は遂にそれを決行しなかった。


     11


 それは事件があってから、もう一ヶ月になんなんとする頃の出来ごとだった。
 杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌をひろげて読みふけっていた。そのとき表の方にあたって、
「今晩は――」
 という若い女の声を耳にして、ハッとおどろいた。事件以来、それは最初に彼に呼びかけた女の声であるかもしれない。
「だ、誰です。――」
 彼はおそおそる席を立って、表の戸を開いてみた。
「ああよかった。いらっしったのネ」
「ど、誰方?――」
 杜にはそれが何人であるかは大凡おおよそ気がつかぬでもなかったが、ついそう聞きかえさずにはいられなかった。激しい興奮が、いまや彼の全身を駆けめぐり始めたからだ。
「あたしよォ。――ミチミ」
 ああミチミだ。やっぱりミチミだった。ミチミが来た、ミチミが帰って来たのだ。震災の日に生き別れ、それから一度焼け落ちた吾妻橋の上でにらみ合って別れ、それからずっとこのかた彼女を見なかった。とうとうミチミは彼の前に現れた。昔に変らぬ純な、そして朗かなミチミであるように見えた。
「おおミチミ。――さあお上り」
 その年はいつまでも真夏がつづいているように暑かった。ミチミは何処で求めたものか彼女らしい気品の高い単衣ひとえを着、そしてその上に青い帯を締めていた。
「よく分ったネ。こんな所にいるということが――」
「ええ。――でも、新聞に貴郎あなたのことが出ていたわ。ほんとに今度は、お気の毒な目にお遭いになったのネ」
「いや、やっぱり僕の行いがよくなかったんだ。魔がさしたんだネ。誰をうらむこともないよ」
 杜は心の底から懺悔ざんげの気持になった。
「そうネ。世の中には、自分の考えどおりにならないことが沢山あるのネ。今のあたしもそうなのよ」
 ミチミはそれを鼻にかかった甘ったるい声でいって、眼を下にせた。そこには単衣をとおして、香りの高いはち切れるような女の肉体が感ぜられる、丸々とした膝があった。杜はムラムラと起る嫉妬の念を、どう隠すことも出来なかった。
「もうわざとらしい云い訳なんかしないでいいよ。君は正面きってあの長髪の御主人の惚気のろけを云っていいんだよ」
「まあ、――」
 ミチミは張りのある大きな眼で杜を見据えた。
貴郎あなたはあたしのことを誤解しているのネ。きっと御自分のことを考えて、あたしの場合も恐らくそうだろうと邪推しているんでしょ。そんな勝手な考え方はよしてよ。あたしムカムカしてきてよ」
「いやにむきになるじゃないか。むきにならざるを得ないわけがありますって、自分で語るようなものだよ。もうよせったら、そんなこと。僕は一向興味がないんだ」
「先生――」
 たまりかねたかミチミは、いきなり中腰になって、杜の前に飛びついてきた。彼は全体が一度にカーッと熱くなるのを覚えた。
「先生、あたしはもともとそんなに節操のない軽薄な女なんでしょうか。いえいえそれは全く反対です。先生はそれをよく御存知だったじゃありませんか。先生がどんなことをされていても、あたしはそれに関係なく、いつも純潔なんです。魂を捧げた方に、身体をも将来をも捧げますと固く誓った筈です。それをどうしてムザムザあたしが破るとお考えなんです。あたし、ほんとに無念ですわ。無念も無念、死んでも死に切れませんわ。あたしが先生のために、どんな大きな艱難かんなんに耐えどんなに大きな犠牲を払ってきたか、先生はそれを御存知ないんです。しかし疑うことだけはよして下さい。少くともあたしの居る前では。――あたしはいつでも先生の前に潔白を証明いたします。今でももし御望みならば――」
「おっと待ちたまえ。君はまるで、夢の中で演説しているように見えるよ。長髪の青年氏と同棲していて、なんの純潔ぞやといいたくなる。もっとも僕は一向そんなことを非難しているわけではないがネ」
「まあ、そ、それは、いくら先生のお言葉でも、あんまりですわ、あんまりですわ。――」
 ミチミは子供のように声をあげて、その場に泣き伏した。
 杜は、かつて知っていたミチミとは別の成熟した若い女が、彼の前で白い頸を見せ、肩をふるわせて泣いているように思った。それはなんとはなく、彼の心に或る種の快感を与えるのであった。
 ミチミは、泣き足りてか、やがて静かに身体を起した。両の袂を顔の前にあて、その上かられぼったい瞼を開くような開かないようにして、杜の方を見た。
「――覚えてらっしゃい」
 ミチミは、たった一言云って、膝を立てて立ち上ろうとした。しかし彼女はヨロヨロとして畳の上に膝をついた。
「ウム、――」
 そのとき杜は、不思議なものを見た。ミチミの白いすねの上から赤い糸のようなものがスーっと垂れ下ってきて、脛を伝わって、やがてスーっとくるぶしのうしろに隠れてしまった。血、血だ!
 見れば畳の上にも、ポツンと赤い血の滴りがこぼれているではないか。杜はドキンとした。
「おい、ミチミ待て――」
 ミチミはそれが聞えぬらしく、外へ出てゆきかけたが、何を思ったか、また引返してきて、杜の前に突立った。そしてまるで別人のような態度で、あたかも命令するかのように、
「さあ、これからあたしと一緒に行くのよ。あたしのうちに行って、そしてあたしの奪われているものを、貴郎あなたに手伝ってもらって取返すのよ。そしてあたしは、どうしても貴郎から離れないようになるのよ。さあ行ってよ、早く――」
 杜はミチミの意外な力に引張られて、やがて家を後にした。
 ミチミは道々、杜にくどくどと説いた。
 ミチミがどうしても有坂――長髪の青年のこと――から離れられないわけは、彼のためにミチミの所有になる或る重大なる秘密物品が有坂の手によって保管されていることだ。それを取戻さない限り、有坂の許を離れるわけにはゆかない事情がある。有坂の手から、ぜひそれを取返さなければならないが、その品物は彼女のバラックの屋根の下にある一つの壊れた井戸の中に、大きな石に結びつけて綱によって垂らしてある。ミチミの手では、この重い石をどうしても引上げられないから、今夜杜に手伝って貰いたい。――というのである。
 杜は承知のむねこたえた。


     12


 ミチミの住居すまいは、隅田川の同じ東岸に属する向島にあった。そして同じく広々とした焼跡に立つバラックであって、どっちを見渡しても真暗なところであった。
 ミチミはバラックの窓の灯を指して、彼を二十間ほど手前で待っているように云った。そして彼女は、スタスタとバラックに近づき、やがて戸を開いて内側に姿は見えなくなった。杜はポケットの底を探って一本の煙草を口にくわえた。
 ミチミはなかなか出て来なかった。
 杜は、さっき道々で彼女の云ったことを考えていた。――有坂青年に奪われている彼女の秘密物品を取り返すのを手伝って呉れ、それはバラックの中にある古井戸の中に、大きな石に結びつけて沈めてあるから、手伝って綱を引張って呉れ――というのだ。一体どんな秘密物品を彼女は有坂に奪われているのだろう。ミチミが持っていそうな秘密物品とは、どんなものが有り得るだろうかと、昔の生活をいろいろと思い浮べてみた。しかしどうも心あたりがなかった。ラブレーターであろうか。日記帳であろうか。それとも或る種の誓詞せいしであろうか。写真の乾板かんぱんでもあろうか。でも以前にはおよそそんなものを、彼女が持っている様子はなかった。もしそんなものが有るとすれば、それは恐らく、震災後に出来たものに違いない。杜は急に、それを見たくなってきて仕様がなかった。
 そのとき、ジャングルから黒豹が足音を忍んでソッと獲物の方に近づいてくるように、ミチミが静かに静かに戸口から現れた。彼女は一本の長い綱を持っている。それは戸口の中まで続いているのであった。
「――あの人が、今いい気持に眠っているのよ。目を覚まさないように気をつけてネ。そこであたしがお願いするのは、この綱よ。これをあたしが内側から合図をしたとき、綱が千切られるくらいウンと引張って向うへ駆けだしてネ。四、五間も走ると、きっと綱が何かに引懸ってそれ以上伸びなくなるから、そこんところで、ジッと持っててネ。あたしが帰ってくるまで、離しちゃ駄目よ。いいこと」
 ミチミは杜の耳許みみもとで、声をひそめて説明した。彼の感能はそのとき発煙硝酸のようにムクムク動きはじめた。ミチミをどうしても自分のものにしないと、自分の心臓が痙攣を起してしまうかもしれないと思った。
 ミチミが、またバラックの中にかえってゆくと、杜は綱を両手でソッと握った。綱を握っていると、なんとなく変な気持になってきた。この暗黒の焼野原の真ン中で、自分はいま何をしようとしているのだろう。なんだか非常に恐ろしいことを手伝っているような気持がして、彼は思わずブルブルと身慄みぶるいした。
 途端に綱を握っている手に、ピーンと手応えがあった。ミチミがバラックの中で綱を引いて合図をしたのであった。
「ウン、今だナ――」
 彼は綱をグッと握りしめると、後を向いてトットと駆けだした。大地につまずいて倒れるかもしれないと思ったほど、渾身こんしんの力をめてウウンと引張った。
 ドーンと鈍いそして力づよい手応えが両腕をしびれさせた。とうとう沢庵石が井戸から上ってきたのであろうか。彼は綱端を両手に掴み、身体を弓のようにらせて、バラックの中に潜む大きな力に対抗していた。でもなんという奇妙な手応えだろう。どうも沢庵石を引張りあげたにしては、いやに反動がありすぎた。なんだか沢庵石が生き物に化けて綱の端でピンピン跳ねまわっているようであった。
 ミチミが杜の方に駆けだしてきたのは、それから十分ほど経った後のことだった。
「もう大丈夫よ。その綱の端を、貴郎あなたの前にある切株に結んで頂戴な」
 ミチミは、しっかりした調子で、それを命じた。
 杜はミチミに手伝わせて、そのようにした。
「さあそれでいいわ。――ではバラックの中にあるあたしの必要なものを片づけましょう。一緒に行って、片づけてくれない」
「ウン、行ってもいいかしら」
「もう大丈夫よ。有坂は、もうなんにも邪魔をしないわよ」
 杜はミチミの言葉を深く考えもせず、彼女について、恐る恐るバラックの入口をくぐった。バラックの中には、暗い電灯が一つ天井から下っていた。彼は極めて自然に、自分がピンと引張った綱の先を眼でもって追っていった。その綱は上向きになって、はりの方に伸びていた。その梁の向うに、彼は全然予期しなかったものを見た。それは紛れもなく、宙にぶら下った男の全身だった。杜はそれが何者であるか、そして何をしているのかを知った瞬間に、愕きのあまりヘタヘタと土間に膝をついた。
「ウム、これは有坂青年だ。これはどういうわけだッ。――」
 ミチミは、ジャンヌ・ダルクのように颯爽さっそうとして、杜の前に突立った。そして氷のように冷徹な声でいった。
「これがあたしの自由を奪っていたものよ。この有坂さんは、この前は今夜貴郎がやってくれたと同じようにお千さんの始末をするのを手伝ってくれたのよ。もちろん、すべての計画と命令とは、あたし一人がやったんだわ」
「人を殺してどうするんだ」
「そんなことはよく分っているじゃないの。あたしはただ貴郎が欲しいばっかりよ。だからそれを邪魔する者を片づけたばかりなんだわ」
 杜は大きくブルブルと身慄いした。
「――ああ僕は、この手でとうとう人を殺してしまったのだ。ああ、もっともっと前に気がつかなけりゃならなかったんだ。先刻さっきか、いやいや。もっと前だ。お千が殺された時か。いやいやもっともっと前だ。そうだ震災になる前に考えて決行しなきゃならなかったんだ。ああもう遅い。とりかえしがつかない」
 そういって、杜はわれとわが頭をにぎこぶしでもってゴツンゴツンとなぐった。その痛々しい響は、物云いたげな有坂の下垂かすい死体の前に、いつまでも続いていた。


     13


 杜はミチミを連れて、久方ぶりで郷里に帰った。今はもう誰にはばかるところもなく、一軒の家を借り同棲することとなった。いや憚るところもなくといっても、彼等二人は晴れて同棲を始めたわけではなく、ともに追わるる身の、やがて必然的に放れ離れになる日を覚悟して、僅かに残る幾日かの生への執着しゅうちゃくを能うるかぎりむさぼりつくしたいと考えたからだった。
 その切迫した新生活の展開いくばくもならぬうちに、杜はミチミについていろいろの愕くべき事実を知った。その一つは彼女が、いつかはじらいをもって彼に告げたごとく、彼女がこのたび杜と同棲する以前に於ては、ミチミの身体が全く純潔を保たれていたという意外なる事実であった。ミチミの信念と勝気は十二分に証明せられた。
 もう一つは、彼女の犯行がいつも一定の条件のもとに突発したということだった。それは彼女の生理的な周期的変調が犯行を刺戟するのであった。杜はそれを彼女の口から聞いて、過去に於けるいろいろな事象を思い出して、なるほどとうなずいたのであった。お千殺しの現場に落ちていた血痕も、これを顕微鏡下に調べてみれば、そこに特徴ある粘膜の小片が発見されたに違いなかったのである。さもなければ分析試験をって多量のグリコーゲンを検出することができたであろう。いずれにしても、それは生理的な落としものであることが証明される筈であった。ともあれ、そういう条件下の出来事だとすると、これはうまくゆけば、やがてミチミが法廷に裁かれても、死一等を減ぜられることになろうと思った。それはこの際のせめてものよろこびであった。
 しかし人間の世界を高き雲の上の国から見給う神の思召おぼしめしはどうあったのであろうか。神はミチミが法廷に送られる前に、天国へ召したもうた。
 実はあれだけ立派な証拠を残して来た犯罪事件ではあったが、震災直後の手配不備のせいであったか、それから一月経っても、二月経っても、司直はミチミたちを安穏あんおんに放置しておいた。しかし初冬が訪れると間もなくミチミは仮初かりそめの風邪から急性の肺炎に侵されるところとなり、それは一度快方に赴いて暫く杜を悦ばせた。けれども年が明けるとともにまた容態が悪化し、遂に陽春四月に入ると全く危篤の状態に陥った。ミチミが他界したのは四月十三日のことであった。
 折から桜花は故郷の山に野に爛漫らんまんと咲き乱れていた。どこからかものう梵鐘ぼんしょうの音が流れてくる花の夕暮、ミチミは杜に手を取られて、静かに呼吸いきをひきとった。
 杜はミチミの亡骸なきがらをただひとりで清めた、それから白いかたびらを着せてみたが、いかにも寒々として可哀想であったので箪笥の引出を開いて、生前ミチミが好んでいた燃えるようなぢりめんの長襦袢に着かえさせた。そして静かにミチミの亡骸を、寝棺ねかんのなかに入れてやったのであった。
 ミチミの蝋細工のような白いかおを見ていると、杜は不図ふと思いついて、彼女の鏡台を棺の脇にはこんできた。そして一世一代の腕をふるって、ミチミの死顔にお化粧をしてやった。
 白蝋のかおの上に、香りの高い白粉おしろいがのべられ、その上に淡紅色ときいろの粉白粉を、彼女の両頬につぶらなまぶたの上に、しずかにりこんだ。そして最後に、ミチミの愛用していたルージュをなめて、彼女のつつましやかな上下の唇に濃く塗りこんだ。
 ミチミはいきいきと生きかえったように見えた。真赤な長襦袢と、死化粧うるわしいかんばせとが互に照り映えて、それは寝棺のなかに横たわるとはいえ、まるで人形の花嫁のようであった。ミチミは寝棺のなかに入って、これから旅立つ華やかなお嫁入りを悦ぶものの如く、口辺に薄笑うすえみさえたたえているのであった。
 杜は惚れ惚れと、棺桶の花嫁をいつまでも飽かず眺めていた。――
 この静かな家の中の出来ごとを、村の人々がハッキリ知ったのは、次の日の昼下りのことであった。杜は自らはりの下にくびれていた。
 人々の騒ぎを他処よそにして、床の間の大きな花瓶に活けてあった桜の花が、一ひら二ひら静かに下に散った。





底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房
   1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行
初出:「ぷろふいる」
   1937(昭和12)年1〜3月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について