1
春だった。
花は
時が歩みを忘れてしまったような、遅い午後――
講堂の硝子窓のなかに、少女のまるい下げ髪頭が、ときどきあっちへ動き、こっちへ動きするのが見えた。
教員室から、若い
コンクリートの通路のうえを、コツコツと靴音をひびかせながらポイと講堂の
ガランとしたその大きな講堂のなか。
和服に
「どう? うまくなったかい」
「いいえ、先生。とても駄目ですわ。――棺桶の
「それは困ったネ。――いっそ誰か棺桶の中に入っているといいんだがネ……」
少女たちは開きかけた唇をグッと結んで、クリクリした眼で、たがいの顔を見合った。あら、いやーだ。
「先生ッ――」
叫んだのは
「なんだい、小山」
「先生、あたしが棺の中に入りますわ」
「ナニ君が……。それは――」
よした方がいい――と云おうとして杜はそれが多勢の生徒の前であることに気づき、出かかった言葉をグッとのどの奥に
「――じゃ、小山に入ってもらうか」
英語劇「ジュリアス・シーザー」――それが近づく学芸会に、女学部三年が出すプログラムだった。杜先生は、この女学校に赴任して間もない若い理学士だったが、このクラスを受持として預けられたので、やむを得ずその演出にあたらねばならなかった。
はじめ女生徒たちは、こんな新米の、しかも理科の先生になんか監督されることをたいへん不平に思った。でも練習が始まってみると、さすがに
この劇では、
ところが、そのアントニオは、
講堂入口の、生徒用長椅子の並んだ蔭に、空虚の棺桶は下ろされ、黒い蔽布が取りさられた。
小山ミチミは、切れ長の眼を杜先生の方にチラリと動かした。いつものように先生はジッと彼女の方を見ていたので、彼女はあわてて、目を伏せた。そしてスリッパをぬぎ揃えると、白足袋をはいた片足をオズオズ棺のなかに入れた。
「どんな風にしますの。上向きに寝るんでしょ」
そういいながら、小山は長い二つの
「アラッ――」
ミチミの位置の取り方がわるかったので、彼女の頭は棺のふちにぶつかり、ゴトンと痛そうな音をたてた。
杜先生は
「……ああ起きあがらんでもいい。このまますこし身体を下の方に動かせばいいんだ。さ僕が身体を抱えてあげるから、君は身体に力を入れないで……ほら、いいかネ」
杜先生は両手を小山の首の下と袴の下にさし入れ、彼女の身体を抱きあげた。
「ほう、君は案外重いネ。――力を入れちゃいかんよ。僕の頸につかまるんだ。さあ一ィ二の三ッと――。ううん」
ミチミは、顔を真赤にして、先生のいうとおりになっていた。
「ああ、――」
少女の身体がフワリと浮きあがったかと思うと、やっと三寸ほどもしも手の方へ動いた。
杜先生は少女の頭の下から腕をぬくと、その頭を静かに棺の中に入れてやった。彼女は
女生徒の或る者が主役の前田マサ子の横腹をドーンと
「さあ、ほかの人はみな、議事堂の前に並んでみて下さい」
といって奥を指した。
女生徒たちは気味の悪い笑いをやめようともせず、杜先生のうしろから目白押しになって壇の方についていった。
杜先生は壇前に立ち、この劇においてローマ群衆はどういう仕草をしなければならぬかということにつき、いと熱心に説明をはじめた。それから練習が始まったが、女生徒たちは腕ののばし方や、顔のあげ方について、いくどもいくども直された。
七、八分も過ぎて、ローマの群衆はようやく及第した。ちょっとでも杜先生に
「では、さっきのアントニオの演説のところを繰返してみましょう。――みなさん、用意はいいですか、前田マサ子さんは壇上に立って下さい。それから四人の部下は、シーザーの棺をこっちへ搬んでくる。――」
練習劇がいよいよ始まった。杜先生はたいへん厳粛な顔つきで、棺桶係の生徒たちの方に手をあげた。
四人の女生徒は棺桶を担いで近づいた。しかし彼女たちは一向芝居に気ののらぬ様子で、なにか口早に
やがて棺は下におろされた。
アントニオが壇上で大きなジェスチュアをする。
「おお、ローマの市民たちよ!」
と、前田マサ子がここを見せどころと少女歌劇ばりの作り声を出す。
そこで棺の黒布がしずかに取りのぞかれる。……
――と、シーザーならぬ小山ミチミが棺の中に横たわっているのが見える――
という順序であったが、棺の蔽いを取ってみると、意外にも棺の中は空っぽだった。
「おお、これはどうしたッ」
「アラ小山さんが……」
一同は肝を
「……あのゥ先生、棺をもちあげたとき、あたし変だと思ったんですのよ。だって、小山さんの身体が入っているのにしては、とても軽かったんですもの」
「ええ、あたしもびっくりしたわ」
「でも、担いでしまったもんで、つい云いそびれていたんですわ」
講堂入口をみたが、
杜先生は、講堂の扉を開けてとびだした。外には風もないのに花びらがチラチラと散っているばかりで、誰一人見えない。
不思議だ。
彼は大声をはりあげて、見えなくなった少女の名を呼んでみた。――しかしそれに応えるものとては並び建つ校舎からはねかえる反響のほかになんにもなかった。それはまるで
杜はガッカリして、薄暗い講堂の中にかえってきた。女生徒は入口のところに固まって、申し合わせたように蒼い顔をしていた。
「どうも不思議だ。小山は、どこへ消えてしまったんだろう!」
杜は、壇の下に置きっぱなしになっている空っぽの棺桶に近づいて、もう一度なかを改めてみた。たしかに自分が腕を貸して、この中に入れたに違いなかったのに……。
「変だなァ。――」
彼は棺の中に、顔をさし入れて、なにか臭うものはないかとかいでみた。たしかに小山ミチミの入っていたらしい匂いがする。
「オヤ――」
そのとき彼は、棺の中になにか黒いような赤いような小さな丸いものが落ちているのに気がついた。
なんだろうと思って、それを拾いあげようとしたが、
「
と叫んだ。
彼はハッとして
「おお、血だ、――血が落ちている」
その瞬間、彼の全身は、強い電気にかかったように、ピリピリと慄えた。
2
「オイ房子」
「なによォー」
「どうだ、今夜は日比谷公園の新音楽堂とかいうところへいってみようか。軍楽隊の演奏があってたいへんいいということだぜ」
「そう。――じゃあたし、行ってみようかしら」
「うん、そうしろよ、これからすぐ出かけよう」
「アラ、ご飯どうするの」
「ご飯はいいよ。――今夜は一つ、豪遊しようじゃないか」
「まあ、あんた。――大丈夫なの」
「うん、それ位のことはどうにかなるさ。それに僕は会社で面白い洋食屋の話を聞いたんだ。今夜は一つ、そこへ行ってみよう。君はきっと
「あたし、愕くのはいやあよ」
「いや、愕くというのは、たいへん
「あらァ、ひどいわ」といって房子は、間の
「だってあんたと出かけるときは、メイキャップを変えなきゃならないんですもの。それにあんただって、なるたけ色っぽい女房に見える方が好きなんでしょ」
「……」
「ねェ、黙ってないで、お返事をなさいってば。――あんた怒っているの」
「
男は興奮の様子で、襖に手をかけた。
「ああ、駄目よォ、あんたア……」
房子は
「いいじゃないか」
「だめ、だめ。駄目よォ」
髪が
「どうもお待ちどおさま。――アラあたし、恥かしいわ」
さっきからジリジリしながら、長火鉢のまわりをグルグル歩きまわっていた男は飛んでいって、襖をサラリと開けた。
「アアアア――」
房子は薄ものの長い袖を
「あッ、素敵。――さあ、お見せ」
「ホホホホ――」
「さあお見せ、といったら」
「髪がこわれるわよォ、折角
女は両袖をパッと左右に開いて、男の前によそ行きの顔をしてみせた。
「どう、あなたァ、――」
男は、女の
「あんたってば、無口なひとネ」
「いや、感きわまって、声が出ない」
男は両手を拡げた。
女はその手を払うようにして、男の肩を押した。
「さあ連れてってよ、早く早く」
若い二人は、身体を重ねあわせるようにして、狭い階段をトントンと下に下りていった。
そこには蚊取り線香を手にした下のお
「おばさん、ちょっと出掛けます」
「あーら、松島さん、お出掛け? まあお揃いで――。いいわねえ」
「おばさん、留守をお願いしてよ」
「あーら、房子さん。オヤ、どこの奥さんかと見違えちゃったわ。さあ、こっちの明るいところへ来て、このおばさんによく見せて下さいな」
「まあ恥かしい。――だって、あたし駄目なのよ、ちっとも似合わなくて。ホホホホ」
房子は顔を真赤にして、下のお内儀の前を駈けぬけるように玄関へとびだしていった。お内儀の目には、房子の夏帯の赤いいろが、いつまでも残っていた。そして誰にいうともなく、
「ほんとに女の子って、化け物だわネ」
といった。
松島準一と房子とは、京橋で下りた。そこには大きいビルディングがあって、そこの二階ではキャフェ・テリアといって自分で西洋料理をアルミニュームの盆の上に載せてはこぶというセルフ・サーヴィスの食堂があった。二人は離れ小島のような隅っこのテーブルを占領して、同じ献立の食べ物を見くらべてたのしそうに笑った。
「ミチミ、お
「ええ、とってもお美味いの。このお料理には、どこか故郷の
「ほう、なぜだろう。――セロリの香りじゃない」
「ああセロリ。ああそうネ。先生のお家の裏に、セロリの畑があったわネ」
「また云ったネ。――今夜かえってからお
「アラ、あたし、先生ていいました? ほんと? ごめんなさいネ。でもあなたがミチミなどと
「ミチミはいいけれど、先生はいけないよ」
「まあ、そんなことないわ。あたし先生ていうの大好きなのよ。いいえ、あなたがお叱りになるように、けっして他人行儀には響かないの。それはそれはいい響きなのよ。先生ていうと、あたしは自分の胸をしっかり抱きしめて、ひとりで悩んでいたあの頃のいじらしいミチミの姿を想い出すのよ。おお
「ミチミ、今夜君は不謹慎にも十遍も先生といったよ。後できびしいお
ミチミはそんな声が入らぬらしく、小さいビフテキの
「ねえ、あなた。あの学芸会の練習のとき、あたしが誰かに殺されてしまったと思ったお話を、もう一度してちょうだいナ」
ミチミは、テーブルの向うから、杜の顔をのぞきこむようにして
「またいつもの十八番が始まったネ。今夜はもうおよしよ」
「アラいいじゃないの。あたし、あの話がとても好きなのよ。まあ、こういう風にでしょう。――僕はすっかり落胆した。恐怖と不安とに、僕の眼前はまっくらになった。ああミチミはどこへ行った? 絶望だ、もう絶望だッ!」
「これミチミ、およしよ」
「――しかし突然、僕はまっくらな絶望の闇のなかに、ほのかな光り物を見つけた。僕は眼を皿のように見張った。
「もういいよ。そのくらいで……」
「僕は
「棺桶の板は白い。血は黒い。だから見えたのに不思議はなかろう。――だが、もう頼むから、その話はよしておくれ。どうして君は今夜にかぎって、そう興奮するのだ」
ミチミはテーブルの上に
「あたし、なんだか今夜のうちに、思いきりお喋べりしておかないと、もうあんたとお話しができなくなるような気がしてならないのよ」
「そんな莫迦げたことがあってたまるものか。ねえ、君はすこし芯がつかれているのだよ」
「そうかもしれないわ。でもほんとに、今夜かぎりで、あんたと別れ別れになるような気がしてならないのよ。ああ、もっと云わせてもらいたいんだけれど――そこで先生が、棺桶のなかから、凝血を採集していって、それを顕微鏡の下で調べるところから、それは人血にまぎれもないことが分るとともに、その中からグリコーゲンを多分に含んだ表皮細胞が発見されるなんてくだりを……」
「ミチミ。僕は君に命令するよ。その話はもうおよし。それに日比谷の陸海軍の合同軍楽隊の演奏がもう始まるころだから、もうここを出なくちゃならない。さあ、お立ち」
男は椅子から立ちあがると、女のうしろに廻って、やさしく肩に手をかけた。
女は、男の手の上に、自分の手を重ねあわした。そしてシッカリと握ってはなさなかった。傍にはキャフェ・テリヤの新客が、御馳走の一ぱい載った盆を抱えたまま、座席につくことも忘れて、
3
明くれば九月一日だった。
「いよいよきょうから二学期だわ。――あたしきょう、始業式のかえりに、日比谷の電気局によって、定期券を買ってくるわ」
ミチミのあたまを見ると、彼女はゆうべ結った束髪をこわして、いつものように、女学生らしい下げ髪に直していた。紫の矢がすり銘仙の着物を短く裾あげして、その上に真赤な半幅の帯をしめ、こげ茶色の長い袴をはいた。そして白たびを脱ぐと、彼の方にお尻をむけて、白い
杜はカンカン帽を手に、さきへ階段を下りた。玄関のくつぬぎの上には、彼の赤革の編あげ靴に並んで、飾りのついた黒いハイヒールの彼女の靴が、つつましやかに並んでいた。
ミチミは、すこし
「ああ、また――」
ミチミは、
「誰も変な目でなんか、見やしないよ。君は女学生だから、傍を通る人は、僕の妹に違いないと思うにきまっているよ。だからもっと傍へおよりよ」
彼は不平そうに、ミチミにいった。ところがミチミは、頬をポッと染め、
「あら嘘よ。ピッタリ肩をくっつけて歩く兄妹なんか居やしなくってよ」
といって、さらに二倍の距離に逃げてゆくのであった。
二人は停留所で、勤め人や学生たちに
向うの角を曲って、電車が近づいてきた。
杜は強い
杜もつづいて電車にのろうとしたが、横合から割こんで来た乱暴な勤め人のために、つい後にされちまった。だから満員電車のなかに入った彼は、ミチミの隣の吊り皮を握るわけにはゆかなかった。
やがて電車は、彼の乗り換えるべき停留所のところに来た。彼はミチミに別れをつげるために、彼女の方を向いた。
ミチミは彼のために、顔を向けて待っていた。そして彼がまだ挨拶の合図を送らないまえに、
「兄さん、いってらっしゃい」
と、二、三人の乗客の肩越しにいとも朗かな声をかけた。しかし、
「大丈夫。気をつけて行くんだよ」
彼はミチミを励ますために、ぶっきら棒な口の利き方をした。そして
それが女学生姿のミチミの
そんな悲しい別れとなったこととは夢にも思わず、彼は丸の内の会社へ急いだ。彼の勤めている会社は、或る貿易商会であった。彼は精密機械のセールスマンとしてあまり華やかではない勤務をしていた。そのサラリーなども、女学校の教諭時代に比べると、みじめなものだった。しかしミチミの名を房子と変え、彼自身も松島準一と仮名しなければならぬ生活に於ては、大学卒業の理学士たる資格も、当然名乗ることができなかったから、実力が認められるまではそのみじめさを我慢しなければならなかった。でもその給料は、とにかく二人の生活を支え、そしてミチミを或る女学館に通学させて置くだけの余裕はあったのである。
午前十時ごろ、彼は支配人のブラッドレーに呼ばれた。行ってみると、これから横浜の税関まで行ってくれということだった。
杜は一件書類を折り鞄のなかに入れて、省線電車の乗り場に急いだ。そして正午まえの東京を後にしたのだった。
九月一日の午前十一時四十八分、彼は横浜税関の二号倉庫の中で、あの有名なる関東地方の大震災に遭った。
そのとき彼が一命を助かったということは、まさに奇蹟中の大奇蹟だった。あの最初の大動揺が襲来したときに、この古い煉瓦建の背高い建物は西側の屋根の一角から、ガラガラッと崩れはじめた。彼は真青になったが、前後の見境もなく、傍にあった石油缶の空き函を頭の上にひっ担ぐと、二十間ほど向うに見える明るい出入口を目がけて、弾丸のように疾走した。
大地は荒海のように揺れていて、思うようには走れなかった。出入口のアーチの上からは、ザザーッと、滝のように
すると頭上に天地が一時につぶれるような音がして、彼の頭はピーンといった。同時に彼は、上から恐ろしい力で圧しつけられて、ドーンとその場に膝をついた。どうやら煉瓦が上から降ってきたものらしい。膝頭に
そのとき杜は、死にものぐるいで立ち上った。こんなところに、ぐずぐずしていては、いつどき煉瓦壁に押しつぶされるか分ったものではない。
彼はズキズキ痛む脚を引き摺って、それでも五、六歩は走ったであろう。すると運わるく石塊に
大崩壊の起ったのは、実にその直後のことだった。大地を掘りかえすような物凄い音響と鳴動とに続き、嵐のような土煙のなかに、彼の身体は包まれてしまった。彼は生きた心地もなく、石油の空き缶を頭の上から被ったまま身体を丸く縮めて、落ちてくる石塊の当るにまかせていた。
暫くしてあたりが鎮まった様子なので、彼はこわごわ石油の空き函のなかから首をあげてみた。すると愕いたことには、今の今まで、そこにあった地上五十尺の高さを持った大倉庫は跡片もなく崩れ落ちて、そのかわりに思いがけなく
気がいくぶん落ちついてくるとともに、杜は
彼はすぐ電話をかけたいと思った。それで税関の構内を縫って、どこか電話機のありそうなところはないかと走りだした。
荷物検査所の中に電話機が見つかった。貸して貰うように頼んだところ、この電話機は壊れてしまって役にたたないという挨拶だった。
彼は検査所の電話機が故障である話を聞いても、まだ目下の重大なる事態をハッキリ認識する力がなかった。かならず東京へ電話が通ずるつもりの彼は、
「これは困った。電話が通じない。電話局は電源を切られたのにちがいない」
彼は仕方なく駅の方へ行ってみることにした。
万国橋通を
まず、目についたのは、恐ろしいアスファルト路面の
その
もっと恐ろしいものが目にうつった。すぐ傍の二階家が、往来の方に向ってお辞儀をしていた。大きな屋根が地面に衝突して、ところどころ屋根瓦が
三人が生き埋めに?
杜は、これは手を貸してやらずばなるまいと思った。四、五人の力では、この潰れた大きな屋根が、どうなるものか。
と、突然向うの通りに、
「オイ火事だ。これは、大きくなる。オイ皆、手を貸してくれッ」
どこでも手を貸せであった。見ると火の手らしい黄色い煙が、横丁の方から、静かに流れてきた。
「オイ火事はこっちだッ」
「いや、向うだよ」
「いけねえ、あっちからもこっちからも、火事を出しやがった」
「おう、たいへんだ。早く家の下敷になった人間を引張りださないと、焼け死んでしまうぜ」
誰も彼もが、土色の顔をして、右往左往していた。悲鳴と叫喚とが、ひっきりなしに聞えてきた。大きな荷物を担いで走る者がある。頭部に白い繃帯をまいた男を、細君らしいのが背負って駈けだしてゆく。
杜ははじめて事態の極めて重大なることを察した。これは恐ろしいことになった。横浜がこんな騒ぎでは、東京とても相当やられているであろう。彼はそこで始めてミチミの身の上を思いだした。
「おおミチミはどうしたろう。この思いがけない地震にあって、きっと泣き叫んでいることだろう」
そうだ、これは、一刻も早く、東京へ帰らなければならない。彼は鉄条網のような電線の上を躍り越えながら、真青になって駅の方へ駈けだした。
4
なぜ彼はそんな時刻にそんなところを通りかかったのか。なんとかして電車や汽車にのって、早く東京へ帰りたいと思った彼は、桜木町の駅に永い間待っていたのだ。しかし遂にいつまで待っても電車は来ないことが分った。また汽車の方もレールの修理がその日のうちにはとても間に合わぬと分って、どっちも駄目になってしまった。
彼は二時間あまりも改札口で待ち
このとき横浜市内には火の手が方々にあがっていた。そしてだんだん拡大の模様が、あきらかに看取された。ぐずぐずしていては、なんだか生命の危険さえ感じられたので、彼は重大決意のもとに、横浜から東京までを徒歩で帰る方針をたてた。もしうまくゆけば、途中でトラックかなんかに乗せて貰えるかもしれない。
杜は横浜の地理が不案内であった。東西の方向を知るにもこの日天地くらく、雲とも煙とも分らぬものが厚く垂れこめて、正しい方角を知りかねた。仕方なく彼は火に追われて右往左往する
それは方角を教えてもらうだけで十分であった。近道大通を教えてもらっても、この際なんの役にも立たなかった。なぜなら、直線的に歩くことが全く無理だったから。倒壊した建物は、遠慮なく往来の交通を邪魔していたし、また思いがけないところに火の手が忍びよっていて何時の間にか南側の家が
その露地には、まるで人けがなかった。倒れた家だけあって、全く
なぜこの露地が無人境になっているかが、やがて彼にも
彼は拡大してゆく事態に、底知れぬ恐怖を感じた。猛火に身体を包まれてはたまらないと思った。急速にその露地を通り抜けないともう危い。彼は足早にそこを駈けだした。そして同じ露地の倒壊した提灯屋の屋根瓦の上を渡ろうとしたときに、突然足の下からヒイヒイと泣き叫ぶ女の声を耳にしたのであった。
「た、助けてェ……。女が居ますよォ……。焼け死にますよォ……。た助けてェ」
人間の声に、生れつきのリズムがあるということを、彼ははじめて知った。それはともかく、彼はあまりにその悲惨な声に、思わず足を停めた。
女は何処にいるのかと、声をたよりに探してみると、彼女は屋根が地上を
「どうしたの、お
「ああッ――」と、女は丸い肩をグッと曲げて、顔をあげた。女は彼よりも五つ六つ、年上に見えた。乱れ髪が額から頬に掛っていた。彼女は邪魔になる髪を強くふり払って、杜の顔を下から見あげた。
「ああッ、た、助けてえ。お、
女は
「手、手、手だ。手を抜いてください」
女は両眼をクワッと開いて、彼の方に、動物園の
杜は、この女が気が変でないことに気がついた。それで駈けよってみると、なるほど女の身体にはどこも
彼は女の背に廻って、その太い腕をつかんで力まかせにグイと引張った。
「いた、た、た、たたッ。――」
と女は
杜は愕いて、手を放した。
女は一方の腕をのばして、杜の洋服をグッとつかんだ。
「待って、待って。……あたしを見殺しにしないで下さいよォ、後生だから」
杜は、またそこに
「だ、駄目よ。手の下には、かねのついた敷居があるのよ。掘っても駄目駄目。……ああ早く抜けないと、あたし焼け死んじまう」
なるほど、露地の奥から火勢があおる焦げくさい強い熱気がフーッと流れてきた。たしかに火は近づいた。彼は愕いてまた女の腕に手をかけ、力を籠めてグイグイと引張った。女はまた前のように、
「駄目だ。これは抜けない」
「アノもし、あたしが痛いといっても、それは本心じゃないんです」
「え、本心とは」
「あたしは生命をたすかるためなら、手の一本ぐらいなんでもないと思ってます。痛いとは決していうまいと思っているのに、手を引張られると、心にもなく、痛いッと叫んじゃうの。……ああ、あたしが泣くのにかまわず、手首を引張って下さい。そこから
女はオロオロと泣きだした。すべすべとした両頬に
そのとき運命を決める最後のときがやって来た。いままでは、まだ大丈夫と思っていた火の手が、急に追ってきたのである。目の前の提灯屋の屋根瓦の隙間から、白い
「あッ、火がついた。この家に火がついた。――ああ、手がぬけない。焼け死ぬッ」
女は目を吊りあげ猛然と身を起した。そして力まかせに自分で自分の腕を引張った。
「あッ痛ッ。――あああ、どうしよう」
女は大きな失意にぶつかったらしく、ガバと地面に泣き崩れた。と、思うと電気にかかったようにヒョイと身体を起すと、彼に取りすがった。
「ねえ、あんた。思い切って、あたしの手首を切り落として下さい。刃物を持っていないの、あんた。刃物でなくともいいわ。瓦でも石塊ででもいいから、たった今、この手首を切りおとしてよゥ。さもないと、あたしは、焼け死んでしまうよォ」
明らかに女は、極度の恐怖に気が変になりかけているのに違いなかった。そのとき、一陣の熱気が、フーッと彼の頬をうった。そうだ、女の云うとおり、彼女はいま焼死しようとしているのだ。とういとう提灯屋の屋根の下からチラチラと
「そうだ、お
女はもう口が利けなかった。その代り彼の方を向いて大きくうち
杜はその瞬間、天地の間に
彼は決死の勇をふるって、女の腕をギュッと握り締めた。そして片足を前に出して、女の手首を挟んでいる棟木をムズと踏まえた。
「お内儀さん、気をたしかに持つんだよ」
「なむあみだぶつ――」
と、女は両眼を閉じた。
やッという掛け声もろとも、杜は満身の力を女の腕のつけ根に集めて、グウーッと足を踏んばった。キャーッという悲鳴!
首尾はと見れば、女の左手首は棟木から離れた。しかしこの腕は一尺も長くなってみえた。なんという怪異! だがよく見ればそれは怪異ではなかった。
「おお、――」
女の手首の皮が手袋をぬいだように裏返しに指先から放れもやらずブラ下っているのであった。皮を剥ぎとられた部分は、鶏の肝臓のように赤むけだった。
杜は気絶をせんばかりに愕いたが、ここでひっくりかえってはと、歯をくいしばって
気がつくと、女は気絶していた。
なにか手首に
5
杜がトラックを下りると、お千も突然、あたしも下りると云いだした。
それは翌九月二日の午前六時のこと。場所は、東京の真中新橋の上にちがいないのであるが、満目ただ荒涼たる一面の焼け野原で、わずかに橋があって「しんばし」の文字が読めるから、これが銀座の入口であることが分るというまことに変り果てた帝都の姿だった。
「お
と、杜は女に云った。
「じゃあ早く乗っとくれ。ぐずぐずしていると其処へ置いてゆくぜ」
と、満載した材木の蔭から、
「ええ、あたし、此処でいいのよ。運転手さん、どうもすまなかったわねえ」
運転手はあっさり手をあげると、ガソリンの臭気を後にのこして、車を走らせていった。
「じゃ僕も、ここで失敬しますよ」
杜はカンカン帽のつばに、指をかけた。
女は
「待って。――後生ですから、あたしを、連れていって下さい」
「困るなァ。僕は僕で、これから会社へちょっと寄って、それから浅草の家がどうなったか、その方へ大急ぎで廻らなければならないんですよ。とてもお内儀さんの家の方へついていってあげるわけにはゆきませんよ」
女は、顔からスポリと被った手拭の端を、唇でギリギリ噛んでいたが、
「でも、さっき聞いた話では、あたしの住んでいた
杜はそれをきくと太い溜息をついた。なんという勝手なことをいう女だろう。しかし女はこの焼け野原を見てほんとうに途方にくれているらしかった。
「――じゃあ、僕がすっかり用事を済ませてからでいいなら連れていってあげてもいいですよ。しかし何日目さきのことになるかわかりませんよ」
「ええ、結構ですわ。そうしていただけば、あたし本当に、――」といって言葉を切り、しばらくして小さい声で「助かりますわ」
とつけて、ポロポロと
杜は先に立って歩きだした。女は裾をからげて、あとから一生懸命でついてきた。見るともなしに見ると、いつの間にか女は、破れた筈の白い湯巻をどう工夫したものかすこしも破れてみえないように、うまくはき直していた。
杜は焼け土の上を
すると不幸なことに、会社は、跡片もなく
やむを得ず杜は、名刺を一枚だして、それに日附と時間とを書きこみ、それから裏面に「横浜税関倉庫ハ全壊シ、着荷ハ三分ノ二以上損傷シタルモノト
「あのゥ、こっちの煉瓦の方に、丁度いい穴が明いていますわよ」
後ろをふりかえってみると、例の手首を引張りだしてやった女が、煉瓦の塊をもって、ニヤニヤ笑っていた。
「すいません」
といって、杜はその煉瓦をひったくるようにして取った。
杜と人妻お千とは、また前後に並んで歩きだした。――電車が鉄枠ばかり焼け残って、まるで
杜は、胸のなかでフフフと笑った。この女とても、自分が通りかからねば、あのようなあさましい姿になっていた筈だのに、それを怖がるとはなんということだろう、と。
彼はふたたび焼野原の銀座通へ出て、それからドンドン日本橋の方へ歩いていった。おどろいたことに、正面に見たこともない青々とした森が見えたが、これがよく考えてみると、上野の森にちがいなかった。なにしろこの辺は目を
「さあ、接待だ、遠慮なく持っていって下さい」
と、路傍の
杜がその方をみると、向う鉢巻に、クレップシャツという風体の店員らしいのが飛び出して来て、
「さあ、腹を
そういって若い男は、杜の手の上に、大きな握飯を三つ載せた。
奥さん?
杜はハッとしたが、それが後からついてくる人妻お千のことだと思うと、
杜は、そこをすこし通りすぎたところで、お千の方をふりかえった。そして彼女の手に握飯を一つ載せ、それからまた考えて、もう一つをさしだした。
女はそれを
女はそれを見ると、急に青くなって、腰をかがめて、落ちた握飯を拾いあげようとした。彼は愕いて、女を留めた。
女は杜の顔を見た。女の眼には、泪がいっぱい、溜っていた。
「――すみません。あたしが気が利かないで。――」
「なァに、そんなもの、なんでもありゃしない」
杜はまた先に立って、焼野原の間を歩きだした。
(どうも、困った女だ)
と、彼は心の中で溜息をついた。この分では、この年増女房は、どこまでも彼の後をくっついて来そうに思われた。なぜ彼女は、どこかへ行ってしまわないんだろう。
彼女が臆病なせいだろうか。一家が焼け死んだと思っているからだろうか。それとも彼が倒壊した棟木の下から手首を抜いてやって、彼女の一命を助けてやったためだろうか。
そんなことが、何だというのだ。
そのとき杜は、昨夜の出来ごとを思いだした。昨夜彼は、この女を護って、
彼は女につきそって、バラックに入れられた。そこには多勢の男女が居て、後から分ったところによると、家族づれの宿泊所だった。バラックとは名ばかり、下に柱をくんで、畳が四、五枚並べてあった。天井は、立てば必ず頭をうちつけるトタン板であった。
彼は思いがけなく、畳の上にゴロリと横になることができた。但し畳の上といっても、狭い三尺の方に身体を横たえるので、頭と脚とが外にはみ出すのであった。それでも女はたいへん喜んで、すぐ横になった。
ところが、避難民が、あとからあとへと入ってくるのであった。だから始めは離れていたお千との距離が、前後からだんだんと押しつめられてきた。そして遂に、お千の身体とピッタリくっついてしまった。
それでもまだ後から避難民が入ってきた。
「さあ、皆さん、お
窮屈な号令が掛った。そして係員らしいのが、皆の
「もっとピッタリ寄って下さい。夜露にぬれる人のことを思って、隙をつくらないようにして下さいよ」
お千は遠慮して、向うを向いていたが、もうたまりかねて闇の中に寝がえりを打ち、杜の方に向き直った。そして彼女は、乳房をさがし求める幼児のように、彼の方に寄ってきたのであった。
杜は睡りもやらず、痛がるお千の腕をソッと持っていてやった。――
(お千は、あのことを思っているのじゃあるまいな)
杜の
お千はいつの間にか、彼の左側にピタリと寄りそって歩いていた。
「手は痛みますか。――」
と、彼は今までにないやさしい声で尋ねてみた。
「すこしは薄らいだようでござんす」
お千はニッコリ笑った。
浅草橋から
ただ見覚えのある石造り交番が立っていたので、彼が今どの辺に立っているかの見当がついた。
交番の中はすっかり焼けつくしたものと見え、窓外の石壁には、焔のあとがくろぐろと
「――ねえ、可愛そうに女学生ですよ。袴をはいたまま、死んでいますよ」
といって、うしろを指した。
「えッ、アー女学生が――」
瞬間、彼の目の前は急にくらくなった。
(ミチミよ、なぜ僕は一直線におまえのところへ帰ってこなかったんだろう!)
彼は心の中で、ミチミの霊にわび言をくりかえした。
杜はそこで勇猛心をふるい起すのに骨を折った。どうして見ないですむわけのものではなかった。彼はいくたびか躊躇をした末に、とうとう思いきって、交番の中をこわごわ覗きこんだ。
黒い飾りのある靴、焼け焦げになった袴、ニュッと伸ばした黄色い腕、生きているようにクワッと開いている眼――だが、なんという幸いだろう。その惨死している女学生はミチミではなかった。
「ああ、よかった。――」
彼は両手を空の方へウンとつきだして、その言葉をいくどもくりかえした。
だが、愛の巣のあったと思うところには、赤ちゃけた焼灰ばかりがあって、まだ冷めきらぬほとぼりが、
そのなかに、もしやミチミの骨が――と思って、焼けた鉄棒のさきで、そこらを掻きまわしてみたが、人骨らしいものは出てこなかった。ミチミは何処かへ、難をさけたのであろう。
立て札もなければ、あたりに見知り越しの近所の人も見えない。
彼はこの上、どうしてよいのか分らなかった。
――が、考えた末、焼け鉄棒を焼け灰のなかに立てると、それに彼の名刺をつきさした。名刺の上には、「無事。明三日正午、観音堂前ニテ待ツ。松島房子ドノ」と書いたが、また思いかえして、それに並べて、「小山ミチミ殿」と書き足した。
お千は、この
「家族はまだ、焼け跡へはかえって来てないらしい。――じゃ、こんどはいよいよ、あんたの家の方へ行ってみよう」
杜はそういって、そこを立ち去りかねているお千をうながした。
それから二人は、焼け落ちた吾妻橋の上を手を
こうなると、人間というものは瀬戸物づくりの人形よりも
さて川岸づたいに、お千の住んでいた緑町の方へいってみた。惨状は聞いたよりも何十倍何百倍もひどかった。全身泥まみれとなり、反面にひどい火傷を負った男がフラフラと歩いていた。これに聞くと、緑町
被服廠の惨状は、とうてい筆にするに忍びない。――お千は、オイオイ声をあげて泣いた。やがて声だけはたてなくなったが、彼女ははふり落ちる涙を、何時までたってもとどめ得なかった。
「ああ、みんな死んじゃった。――あたし一人、後に残されたんだ。おお、これからどうしたらいいだろう」
両国橋の袂までくるとお千は、そういってまた声をあげて泣きだした。そして緑町の方を向いて合掌し、くどくどとお念仏を
こうして、杜とお千との寄り合い世帯が始まった。二十五の若い男と、三十二の大年増の取組は、内容に於て甚だ錯倒的であったけれど、外観に於て、さほど目立たなかった。
二人は、いろいろなところに泊った。
興奮と猟奇にみちた新しい生活がつづいた。二人は夫婦気取りで、同じ部屋に泊ったが、それは便宜のためであって、二人の身体の関係は、長く純潔に保たれていた。
毎日毎日、宿泊所の朝が来ると、二人は連れだってそこを出た。それから杜は、ミチミと房子との二重の名のついた「尋ね人」の
そうして九月一日から数えて、十二日というものを、無駄に過ごした。杜の心は、だんだん暗くなっていった。それと反対に、お千の気持はだんだん落ちつきを取りかえし、日増しに元気になって、古女房のように杜の身のまわりを世話した。
それは丁度九月十三日のことであった。
杜はいつものように、お千をともなって、朝早くバラックを出た。その日はカラリと晴れた上天気で、陽はカンカンと
その日、
6
所は焼け落ちた吾妻橋の上だった。
まるで
杜は人妻お千を伴って、この橋を浅草の方から本所の方へ渡っていた。なにしろ足を載せる板幅がたいへん狭く、その上ところどころに寸の足りないところがあって、躍り越えでもしないと前進ができなかった。杜は
「さあ、この手につかまって――」
と、杜が手を差出しても、お千はモジモジして板の端にふるえているという始末だった。そのうちに彼女は、水中に飴のように曲って落ちこんだ
それは震災の日の緊張が、この辺ですこし
ことに始末のわるいことは、この場になってお千が意識的に杜にしなだれ
「これ、そう顔を近づけちゃ、
「ウフフフ……」とお千はヒステリックに笑った。そして、わざと唇を彼の
といって、太い両足を子供かなにかのようにバタバタさせるのであった。
「危い危い。冗談じゃない。そんな無茶を云うんだったら、僕はそこで手を離して、君だけ河ンなかへ落としちまう――」
「いやよいやよ。お前さんが離しても、あたしは死んだってお前さんの首を離しやしないわ、どうしてお前さんはそう
「こーれ、危いというのに。第一、みっともない――」
といったが、お千はもうすっかり興奮してしまって、そこが人通の多いところであることも、白昼であることにも、もう
「あぶないッ――これ止せッ」
「これ、生命を粗末にするなッ」
突然大きな声が耳許にして、二人の身体は両方から支えられた。――杜はその力の下からフーフー息を切った。そして誰か通行人が、自分たちのために叫び、自分たちを
「さあ、落着いて落着いて」と見知らぬ声が云った。
「まあ無理はないよ、お互いに無一文何にもなしになったんだからネ。しかしお前さん方もまだまだ若いんだ。もっと気を大きく持ち、これから夫婦して共稼ぎをするなりしてもう一度花を咲かす気持でなくちゃあ――」
「そうだそうだ」と別の声が云った。
「全く死にたくもなるよ。俺も昨日それをやりかけた。しかしそれは死神が今俺たちについていると知って止したんだ。死神のやつのせいで、今ならとても簡単に死ねるような気持になっているんだ。しかし考えて見なよ、このとおり多い惨死者のなかで、俺たちはともかくも助かっているんだ。なぜ助かったか、そこを考えなくちゃいけない。ねえ、
要らざる訓戒とは思ったが、それを聞いているうちに、杜はそれがなんだかしみじみ自分の心をうっているのに気がついた。そして自分も、すっかり気力を失って本当に夫婦心中をしようと思っていたらしい気がしてくるのだった。不思議な気持ちだった。もちろん後で考えると、それは震災の大きなショックから来た神経衰弱症にちがいなく、
お千は、彼の首に廻していた両腕を解いて、おせっかいな通行人の
「可哀想に――。無理もねえや。
と、同情の声が傍から聞えた。二人は全く夫婦心中者に見られてしまったらしい。
杜はお千の背中を抱いたまま、不思議に自然に、その場の気分になっていた。が、そのとき
「おお、ミチミ――」
ミチミが生きていた。ミチミは彼のすぐ傍にいた。僅か一本の太い鉄管を
ミチミの顔は真青だった。
ミチミは
「ミチミ――」
と、杜はお千を引離して駆けよろうとしたが、この時お千はまた両腕を彼の頸にまわして、力まかせにぶら下ってきた。離すどころの騒ぎではなかった。
ミチミは唇を、ワナワナ慄わせていた。その下ぶくれの唇を、やがてツーンと前につきだしたかと思うと、
「莫迦――」
と只一言。叩きつけるように云った。
「これミチミ、何をいうんだ――」
ミチミはツと身を引いたかと思うと、彼女のうしろに立っていた二十歳あまりの、すこぶる長身の青年の、オープンの襟に手をかけて、何ごとか訴えるような姿勢をとった。
その男はフンフンと、彼女の話を聞いているようであったが、やがて杜の方に向って
「――さあ行こう、ミチミ」
男はそういって、杜に当てつけがましく、ミチミを抱かんばかりにして、焼け
「ミチミ――」
杜は魂をあずけた少女ミチミの名を、もう一度声に出す元気もなくなって、わずかに口のなかでそう叫んだ。いやいや、おお愛するミチミ、私の魂であるミチミ! という呼び方も、いまは自分だけのものではなくなったらしい。あの
ミチミは頬を膨らまし、背中を向けて向うへいってしまった。杜には、あれがいつものミチミなのだろうかと疑ったほど、彼女の身体はあかの他人のように見えた。お互に理解し合うことはありながら、こうなっては、たとえ何から何までうちあけても、その一部とて信用されないかもしれない。それほど致命的なこの場の破局だった。杜は痛心を
橋桁を渡って、本所区へ――
そして彼は
7
「よう、あんたァ、――」
と、お千が追いすがるようにして、
「……」
杜はお千の声を聞いてピクンとした。しかし振り向き返りもしないで、相変らず黙々としてズンズン歩いていった。
「よう、何処まで行くのさあ。――」
それでも彼は黙って歩みつづけた。
するとお千がバタバタと追いついてきて、彼の腕をとらえた。
「こんな方へ来てどうするの。柳島を渡って千葉へでも逃げるつもりなのかネ」
でも、彼は執拗に黙っていた。お千は怒りを帯びた声で、
「チョッ」と舌打をし、彼の腕を
「なんだい、面白くもない。黙って見ていりゃ、いい気になってサ。いくら年が若いたって、あのざまは何だネ。あんな乳くさい女学生にゾッコン惚れこんで、手も足も出やしないじゃないか。あたしゃ横から見ていても腹が立つっちゃない。お前さんはなかなかしっかりもんだと思って、あたしゃ前から――イエ何さ、しっかりした人だと思ってたのさ。ところが今のざまですっかり嫌いになっちゃった。嫌いも嫌いも大嫌いさ。あたしゃもうお前と歩かないよ。飛んだ思いちがいさ。大河から土左衛門の女でも引張りあげて、抱いて寝てるがいいさ。意気地なしの、大甘野郎の、女たらしの……」
お千はまた興奮して、
杜は後向きになって、じっと足を停めていた。
「じゃお前さんともお別れだよ。あたしゃ好きなところへ行っちまうよ。――ああ、あのとき横浜の崩れた屋根瓦の下で焼け死んじゃった方がどんなに気持がよかったか分りゃしない。薄情男! 女たらし!」
そのとき杜は、顔をクルリと廻して、お千の方を見た。お千は不意を喰らって
杜はツカツカとお千の方に寄っていった。彼の勢いに呑まれたお千がタジタジとなるのを追いかけるようにして、杜はお千の手首をムズと補えた。肉づきのいい餅のように柔かな手首だった。
「――僕と一緒についてくるんだ。逃げると承知しないぞ」
「ええッ。――」
「意気地なしか大甘野郎かどうか、君に納得のゆくようにしてやるんだッ」
杜はお千の手首を色の変るほどギュッとつかんで、サッサと歩きだした。杜のこの突然の変った態度を、お千はどう理解する
「この辺がよかろう」
杜は誰に云うともなくそう云った。
杜は
「――さあ、まず焼けトタンを十枚ほど拾いあつめるんだ――」
杜は手をふって、お千に命令を下した。
お千は杜の
「オイ、早くしろ。腕なんか釣っているのをよせッ。両手を使ってドンドンやるんだ」
お千は目を
トタン板が集められると、こんどは柱になるような木が集められた。溝の中に落ちていた丸太やら、焼け折れている庭木などが、それでも五、六本集められた。つづいて水びたしになっていた空虚の芋俵が引上げられ、その縄が解かれた。太い針金が出てきた。
そうした建築材料が集まると、杜はそこに穴を掘って棒を立てた。それから横木や、床張りの木を渡し、屋根には焼けトタン板を何枚も重ねあわした。――バラック建がこうして出来上った。もう正午に近かった。
二人は救護所まで出かけて、昼食の代りにふかし芋を貰ってきた。それを喰べ終ると、二間ほどある縄切れを持って、拾い物に出かけた。
欲しいものは、なるべく大きな板切れと、なるべく広い
二人は眼を光らせて、それ等のものを探して歩いた。はじめは、焼け跡に立ちかけている本物のバラック建の家や、河や溝の中を探しまわっていたが、そのうちにそんなところよりもむしろ
欲しいものは、たいてい重かった。二人の力はすぐに足りなくなった。一つの俵を引きずって帰っては、また駈け足をしていって、別な一つの函を担いで帰るという有様だった。
でも人間の一心は恐ろしいもので、かなり豊富な畳建具の代用材料が集まった。そのときはもう日がすっかり傾いて、あたりはだんだん暗くなっていった。
二坪ばかりの小屋のうち、僅かに一坪ほどの床めいたものを作り、その上に俵をほぐして、
まだ作らなければならぬものが沢山あったけれど、もうあたりが暗くなって駄目だった。途中で貰ってきた手拭づつみの握り飯を二人で喰べると、昼間の疲れが一時に出てきた。
二人はだいたい
次の日の暁が来たのも、もちろん二人は知らなかった。どっちが先とも分らず目が覚めたが、そのときはもう太陽が高く上っていて、バラックの外には荷車がギシギシ音を立てて通ってゆくのが聞えた。
杜は目が覚めたが、何もすることがないので、そのままゴロリと寝ていた。頭と足とを逆に寝ていたお千は、藁の中に起きあがった。そして下駄をつっかけると、天井の低い土間に
お千が小屋の外に出てゆくと、間もなくガヤガヤと元気な人声がした。なんだか木の箱がゴトンゴトンとかち会う音などが聞えた。なんだろうなと思っているうちに、お千がヌッと小屋のなかに入ってきた。彼女は両手に沢山の品物を抱えていた。
「あんた、こんなに貰ったのよ。みな配給品だわ。
お千はすっかり機嫌を直していた。
配給品が時の
「昨日のことは――あのことは、あんた忘れてネ。あたし、どうかしていたのよ。いくらでも謝るわ」
お千はいい
「うん、なァに、なんでもないさ。――」
杜はいままでに一度も懸けたことのない優しい言葉を云った。その優しい言葉は、お千に対してよりも、自分自身の
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昨日に続いて、杜とお千とは、また連れだって拾い物に出かけた。
ちょっとした煮物の出来る
こうして、どうやら恰好のついた一家が出来上った。拾い集めて来た材料は、むしろ余ったくらいであった。しかしそれが今の二人には堂々たる財産なのだった。
「あんた、お金持ってないの」
「うむ。――少しは持っているよ。三円なにがし……。なんだネお金のことを云って」
「あたしはもうお金がないのよ、ずっと前からネ。それであんたお金持っているんなら、
「なァんだ、蝋燭か。君は暗いのが、こわいのだな」
「こわいって訳じゃないけれど、蝋燭があった方がいいわ」
「よし、とにかく買おう。じゃこれから浅草まで買いにゆこうよ」
もう日暮れ時だった。
二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや
蝋燭は、仁王門を入ったところの店に売っていた。杜はお千と相談して、五銭の蝋燭を四本と、その外に東北地方から来たらしい大きな
「おお、生ビールがあるじゃないか。こいつはいい。一杯やろう」
杜は思いがけない生ビールの店を見つけて舌なめずりをした。彼はお千を手招きして、二つのコップの一つを彼女に与えた。杜の腸に、久しぶりのアルコールがキューッと
彼は更にもう一杯をお代りした。
お千はコップを台の上に置いて、口をつけそうになかった。
「お呑みよ。いい味だ。それに元気がつく」
そういって杜はお千にビールを
三ばいの生ビールが、杜をこの上なく楽しませた。思わない御馳走だった。震災以来の桁ちがいの味覚であった。彼はお千に、では帰ろうと云った。お千は、ちょっと待ってと云いながら、ビールを売る店のお
やがて二人は、小暗い道を、ソロソロ元来た方に引返していった。
雷門を離れると、もう真暗だった。そこで買って来た提灯をつけたお千は吾妻橋の脇の共同便所の前で、杜を待たせて置いて、また用を達しに入った。
吾妻橋は直したと見えて、昨日よりも遥かに安全に通りやすくなっていたが、それでも提灯の灯があればこそ僅かに通れるのであった。しかし夜のこととて、壊れた橋の
橋を渡りきって、石原の大通りを二人が肩を並べて歩いているときのことだった。
「ねえ、あんたァ。あたしどうも辺なのよ。またおしもに行きたくなった」
「フフン、それはビールのせいだろう」
「いいえ、けさからそうなのよ。とてもたまらないの。また
とまで云ったお千は、急に身体をブルブルッと
杜はその夜、小屋にかえってから、遂にお千の身体を知った。
志操堅固な杜だったけれど、どういうものかその夜の尿の音を思いだすごとに、彼はどうにも仕方のない興奮状態に陥ってしまい、その後もその度に、彼は哀れな敗残者となることを繰りかえした。
十七日から、彼は丸の内へ出勤することになった。商会は焼け跡に、仮事務所を作り、再び商売に打って出ることになったからである。
「ね、早く帰って来てネ。
とお千は杜の出勤の前に五度も六度も同じことを繰返し云った。
「うん、大丈夫だ。早く帰ってくる。――」
そういって出かけたが、彼の帰りは、いつも日暮時になった。
お千は門口に彼の帰ってきた気配がすると、子供のように小屋の中から飛んで出て来た。そして半泣きの顔にニッと悦びの
「きょうネ」とお千は或るとき彼を迎えて
「ホラこの前吾妻橋の上で行き会ったあんたのいいひとネ。あの女学生みたいな娘がサ、向うの道を歩いていたわよ。あんた嬉しいでしょう。――まあ憎らしい」
などといって、はてはキャアキャアふざけるのであった。
またその後の或る日の出来ごとだったが(後で考えるとそれは二十三日のことだったが)彼が会社から帰ってみるといつもは子供のように胸にとびついてくる筈のお千が、迎えに出もせず、小屋のなかに蒼い顔をしてジッと座っているのを発見した。彼は、留守中なにごとかあったのだなと、すぐ悟った。
「いやに元気がないじゃないか。どうしたんだ」
と問えば、
「いえ、なんでもないの」
と、お千は蒼い顔を一層蒼くして、強くかぶりを振った。
「変だな。何かあるんだろう。云ってみたまえ」
彼女は、もう口を堅く閉じて首を左右に振った。
杜はどうしてお千に
「ごめんなさいまし。――」
そのとき
「あッ、――」
とお千は、電気に懸ったように飛び上り、すぐさま門口に両手を拡げて立ちふさがった。
「あんたは出ちゃいけない。なんでもよいの。あたしが話をつけるから……」
そういっているとき、入口の幕をおし分けて、五十がらみの大きな男の顔がヌッと現われた。彼の顔は、渋柿のように
「いやあ、これはお安くないところをお邪魔
五十男は、
「き、君は何者だ。ここは僕の住居だ。無断で入ってくるなんて、君は――」
「はッはッはッ、無断で無断でと
「なんだとォ――」
と、杜も強く云いかえした。
「フン、お千がたいへんお世話になっていまして、お礼を申上げますよ。貴公は、人の女房にたいへんに親切ですネ」
「なにッ――では君は」
「もちろんお察しのとおり、私はお千の亭主でさあ。区役所の戸籍係へ行って調べてきたらいいだろう。よくも貴公は、――」
「ああ、そうだったか。
「ちゃんと生きていらあ。貴公にもそれがよく見えるだろうが。さあどうしてくれる」
「さあ――」
といっているところへ、表の方で、なんだか意味はわからないが、呼んでいるような声がした。すると五十男は、急に
「ちえッ。――まあそのうち、改めて来るから、そのときは
と云い捨てて、裏の便所の方から、
お千も同じように、ホッと吐息をついた。そして彼の方に
「――あいつは悪い奴なのよ。あたしの本当の亭主じゃなくて、その前にちょっと世話になっていた
「でも、こうなっては僕も――」
「心配いらないのよ。あたしに委せて置いてちょうだいよ」
「そうだ、丁度会社の方も仕事を始めて、給料をくれることになったから、どこか焼けていない
「いやいやいや」とお千は大きくかぶりを振って、その先を云わせなかった。
「引越した方がいいと思うわ。あたし、どこへでもついてゆくわ」
そういったお千は、そこでまた身体をブルブルと慄わせると、慌てて座を立って、奥へ駈けこんだ。
9
お千が、冷たい
その日、杜は会社へ出たが、戦争のように忙しい仕事の中にいて、ともすれば仕事をまるで忘れてしまうことがあった。彼はなにかの隙があったら、お千と一緒に住む家を、焼け残った牛込か芝かに求めたいものだと
帰りついたのは、かれこれ十一時であったろうか――。
駈け足も同然に、バラックの幕を押しわけて家のうちに飛びこんだ杜は、その場にハッと立ち
「お千、オイお千、――」
杜は女の名を呼びながら、
「――とうとう、お千のやつ、逃げてしまったんだな」
杜は悲しみと
彼はゴロリと横になった。
ミチミの顔が
(ミチミはどうしているだろうか。いまごろは、やはりこうしたバラックの中で、あの長身の青年の腕に抱かれて睡っているだろうか?)
などと、しきりにミチミのことが思い出された。お千
杜は夢から夢を見た。ただ暗い床のうえに
彼は改めて寝床のまわりを見廻した。もしやお千の姿がそこに帰ってきていはしないかと思ったが、それは空しき夢であった。彼女の寝床は、昨夜のとおり藻ぬけの殻であった。
ただ彼は、
杜は「ゴールデンバット」ばかり吸っていた。敷島は絶対に吸わなかった。お千も吸わない。
「敷島」の吸殻は三つほどあった。取りあげてみるとそこへ捨てて間もないように見えるものだった。
もう一つの「敷島」の吸殻を発見した。それは土間の中に堅く埋まっていた。土間の上はなにかを引摺ったように縦の方向に何本もの
土間の上の何本もの条溝は何のためについたのであろう。今朝がたは、こんなものを見なかったことは確かだ。
杜はこの条溝の伸びている方向に目をやった。その条溝は裏口の幕の下に続いて、まだそこから外に伸びているようであった。杜はそれをボンヤリ見つめていたが、そのうち起き上って土間に下り、裏口の幕を掻き
そのとき彼は、実に不思議な光景を見た。
裏口の正面に、焼けて坊主になり、幹だけ残った大樹があった。そこに人間が青い脚をブランとして垂れて下っているのであった。それが暁の光を浴びて、なんとなく
杜は、わりあいに愕かなかった。ただしそれはほんの最初のうちだけであったけれど。
「お千が死んでいる。――お千はなぜ死んだのであろう?」
杜は裏口に立って、ボンヤリ死体を見上げていた。
よくよく見ていると、お千の首にまきついている縄は、焼けた大樹の地上から八、九尺もある木の股のところに懸っていた。縄はそこでお仕舞いになってはいず、股のところから大樹の向う側にずっと長く斜に引き張られているのではないか。縄の末端は、大樹の向う三間ほど先にある
「ああ、これは自殺じゃないんだ!」
杜はハッと顔色をかえた。
自殺の
誰だ? お千を殺したのは?
杜はだんだんと
さあ大変である。すくなくとも、彼自身は容疑者の一人として、警察署に連行されるであろう。自分はなにかヘマをやっていないであろうか。待てよ――。
杜は、裏口の幕をはねのけるようにして、小屋のなかに飛びこんだ。
彼はそこに今の今まで自分が横わっていた寝床を見た。その隣にはお千の
そのとき、寝床の下の
蓙の上の血痕をそのまま放置しておくことは、彼の弱い心が許さなかった。彼はナイフを出して、その血痕の周囲を蓙のまま四角に切りとった。
毛布の血痕と、蓙に赤黒く固まりついている血痕とは捨てては危険である。彼は
もう何か残っていないかと、あたりを見廻した。
「おお、これァ何だッ」
妙なものがお千の寝床の向う側に落ちていた。拾いあげてみると、それは古風な縫い刺し細工の煙草入であった。彼は急いで中を明けてみた。中には口切煙草が沢山入っていた。その煙草は「敷島」だった。
「ああ『敷島』だ。――」
胸躍らせながら、彼は中に残っている煙草の数を数えた。丁度十六本ある。
十六本の「敷島」――そして土間に落ちている四本の「敷島」の吸殻!
これ等は、杜が事件に対して
だが、この煙草入れの持ち主は、誰であろうか?
夜がすっかり明け放れた。
戸外は大きな叫び声がしている。誰か通行人が、お千の死体を見つけたのだろう。杜は外に出たものか、小屋の中に待っていたものかと思案に暮れたが、どうしても小屋の中にジッとして居られずになった。それで裏口の幕を押し開いて、集まってきた朝起きの人たちと同じく、お千のブランコ死体の下に馳けつけた。
急報によって警官の出張があり、杜は真先に警官の手に逮捕せられた。
警官が後から後へと何人もやってきた。背広服の検事や予審判事の姿も現れた。現場の写真が撮影されると、お千の死体は始めて下に下ろされた。
「死後十時間ぐらい経っていますネ」と裁判医が首を傾げながら云った「ですからまず昨夜の八時前後となりますネ」
杜は、さんざんばら係官に
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「ただ、正直に
と、係の検事は
杜はそれが手だと思わぬでもなかったけれど、適当に検事の温情に心服したような態度を示しながら、出来るだけ詳しい話をした。しかしマッチの函の中に収めた血痕のことだけは、とうとう云わなかった。なにしろそのマッチの函を某所に隠してしまったので、もしその隠し場所などを
「――前日に来たこの五十男は何という名前だって」
と検事は鉛筆をなめなめ杜に聞いた。
「たしか麹町の殿様半次とか云っていました」
「ええっ、殿様半次だと、――」
と警官連は半次の仕業と知ると、云いあわせたように
「――つまりこの女の情夫である麹町の殿様半次が一番怪しいということになる。半次ならやりかねないだろう」
重大なるお尋ね者である半次は、天には勝てず、
それから取調べが始まった。
半次の前には、例の
彼のアリバイは、彼の当初の声明を裏切って、遂に立証すべき何ものも見つからず、遂に彼は恐れ入ってしまった。
事件は次のように審理された。
すなわち半次は、当日お千をまた尋ねて、昔の如き情交を迫り、遂に目的を達したことは、お千の死体解剖によって明白である。
しかれどもお千は、今後の情交を拒絶し、もし
これに反して、杜のアリバイは確実であった。なにしろその日はずっと会社に居り、そして会社の門を外に出たのが午後十時だというから、お千の死に無関係であることが証明された。
半次はお千殺しを頑強に否認しつづけたが、遂に観念したものか、とうとうそれを白状してしまった。係官はホッと息をついた。そしてやがて、半次を公判に懸ける準備に急いだのだった。
杜はずっと早く釈放せられて、思い出のバラックに、只一人起き伏しする身とはなった。
或る夢では、杜自身が犯人であって、お千を殺した
恐ろしい夢から覚めた彼は、きまって寝床のなかにいて、今度は現実にお千殺しの顛末を考え直すのであった。――果して半次がお千を殺した真犯人であろうか!
敷島の吸殻といい、煙草入れといい、それからまたあの前日の会見の
(どうしてそんな風に思うんだろう?)
杜は自分の心の隅々を綿密に探してみるのであった。別にこれこれと思うものも見当らないのだ。だがそのうちに、もしかするとこれかも知れないと思うことがあった。それは、あの事件の後で、杜が現場に落ちていた血痕を
あの血痕を、それから自身持参して検事局を訪ねようかと思わぬでもなかったけれど、一日経ち二日経ち、彼は遂にそれを決行しなかった。
11
それは事件があってから、もう一ヶ月に
杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌を
「今晩は――」
という若い女の声を耳にして、ハッと
「だ、誰です。――」
彼は
「ああよかった。いらっしったのネ」
「ど、誰方?――」
杜にはそれが何人であるかは
「あたしよォ。――ミチミ」
ああミチミだ。やっぱりミチミだった。ミチミが来た、ミチミが帰って来たのだ。震災の日に生き別れ、それから一度焼け落ちた吾妻橋の上で
「おおミチミ。――さあお上り」
その年はいつまでも真夏がつづいているように暑かった。ミチミは何処で求めたものか彼女らしい気品の高い
「よく分ったネ。こんな所にいるということが――」
「ええ。――でも、新聞に
「いや、やっぱり僕の行いがよくなかったんだ。魔がさしたんだネ。誰を
杜は心の底から
「そうネ。世の中には、自分の考えどおりにならないことが沢山あるのネ。今のあたしもそうなのよ」
ミチミはそれを鼻にかかった甘ったるい声でいって、眼を下に
「もうわざとらしい云い訳なんかしないでいいよ。君は正面きってあの長髪の御主人の
「まあ、――」
ミチミは張りのある大きな眼で杜を見据えた。
「
「いやにむきになるじゃないか。むきにならざるを得ないわけがありますって、自分で語るようなものだよ。もうよせったら、そんなこと。僕は一向興味がないんだ」
「先生――」
たまりかねたかミチミは、いきなり中腰になって、杜の前に飛びついてきた。彼は全体が一度にカーッと熱くなるのを覚えた。
「先生、あたしはもともとそんなに節操のない軽薄な女なんでしょうか。いえいえそれは全く反対です。先生はそれをよく御存知だったじゃありませんか。先生がどんなことをされていても、あたしはそれに関係なく、いつも純潔なんです。魂を捧げた方に、身体をも将来をも捧げますと固く誓った筈です。それをどうしてムザムザあたしが破るとお考えなんです。あたし、ほんとに無念ですわ。無念も無念、死んでも死に切れませんわ。あたしが先生のために、どんな大きな
「おっと待ちたまえ。君はまるで、夢の中で演説しているように見えるよ。長髪の青年氏と同棲していて、なんの純潔ぞやといいたくなる。もっとも僕は一向そんなことを非難しているわけではないがネ」
「まあ、そ、それは、いくら先生のお言葉でも、あんまりですわ、あんまりですわ。――」
ミチミは子供のように声をあげて、その場に泣き伏した。
杜は、
ミチミは、泣き足りてか、やがて静かに身体を起した。両の袂を顔の前にあて、その上から
「――覚えてらっしゃい」
ミチミは、たった一言云って、膝を立てて立ち上ろうとした。しかし彼女はヨロヨロとして畳の上に膝をついた。
「ウム、――」
そのとき杜は、不思議なものを見た。ミチミの白い
見れば畳の上にも、ポツンと赤い血の滴りが
「おい、ミチミ待て――」
ミチミはそれが聞えぬらしく、外へ出てゆきかけたが、何を思ったか、また引返してきて、杜の前に突立った。そしてまるで別人のような態度で、
「さあ、これからあたしと一緒に行くのよ。あたしのうちに行って、そしてあたしの奪われているものを、
杜はミチミの意外な力に引張られて、やがて家を後にした。
ミチミは道々、杜にくどくどと説いた。
ミチミがどうしても有坂――長髪の青年のこと――から離れられないわけは、彼のためにミチミの所有になる或る重大なる秘密物品が有坂の手によって保管されていることだ。それを取戻さない限り、有坂の許を離れるわけにはゆかない事情がある。有坂の手から、ぜひそれを取返さなければならないが、その品物は彼女のバラックの屋根の下にある一つの壊れた井戸の中に、大きな石に結びつけて綱によって垂らしてある。ミチミの手では、この重い石をどうしても引上げられないから、今夜杜に手伝って貰いたい。――というのである。
杜は承知の
12
ミチミの
ミチミはバラックの窓の灯を指して、彼を二十間ほど手前で待っているように云った。そして彼女は、スタスタとバラックに近づき、やがて戸を開いて内側に姿は見えなくなった。杜はポケットの底を探って一本の煙草を口に
ミチミはなかなか出て来なかった。
杜は、さっき道々で彼女の云ったことを考えていた。――有坂青年に奪われている彼女の秘密物品を取り返すのを手伝って呉れ、それはバラックの中にある古井戸の中に、大きな石に結びつけて沈めてあるから、手伝って綱を引張って呉れ――というのだ。一体どんな秘密物品を彼女は有坂に奪われているのだろう。ミチミが持っていそうな秘密物品とは、どんなものが有り得るだろうかと、昔の生活をいろいろと思い浮べてみた。しかしどうも心あたりがなかった。ラブレーターであろうか。日記帳であろうか。それとも或る種の
そのとき、ジャングルから黒豹が足音を忍んでソッと獲物の方に近づいてくるように、ミチミが静かに静かに戸口から現れた。彼女は一本の長い綱を持っている。それは戸口の中まで続いているのであった。
「――あの人が、今いい気持に眠っているのよ。目を覚まさないように気をつけてネ。そこであたしがお願いするのは、この綱よ。これをあたしが内側から合図をしたとき、綱が千切られるくらいウンと引張って向うへ駆けだしてネ。四、五間も走ると、きっと綱が何かに引懸ってそれ以上伸びなくなるから、そこんところで、ジッと持っててネ。あたしが帰ってくるまで、離しちゃ駄目よ。いいこと」
ミチミは杜の
ミチミが、またバラックの中にかえってゆくと、杜は綱を両手でソッと握った。綱を握っていると、なんとなく変な気持になってきた。この暗黒の焼野原の真ン中で、自分はいま何をしようとしているのだろう。なんだか非常に恐ろしいことを手伝っているような気持がして、彼は思わずブルブルと
途端に綱を握っている手に、ピーンと手応えがあった。ミチミがバラックの中で綱を引いて合図をしたのであった。
「ウン、今だナ――」
彼は綱をグッと握りしめると、後を向いてトットと駆けだした。大地に
ドーンと鈍いそして力づよい手応えが両腕を
ミチミが杜の方に駆けだしてきたのは、それから十分ほど経った後のことだった。
「もう大丈夫よ。その綱の端を、
ミチミは、しっかりした調子で、それを命じた。
杜はミチミに手伝わせて、そのようにした。
「さあそれでいいわ。――ではバラックの中にあるあたしの必要なものを片づけましょう。一緒に行って、片づけてくれない」
「ウン、行ってもいいかしら」
「もう大丈夫よ。有坂は、もうなんにも邪魔をしないわよ」
杜はミチミの言葉を深く考えもせず、彼女について、恐る恐るバラックの入口をくぐった。バラックの中には、暗い電灯が一つ天井から下っていた。彼は極めて自然に、自分がピンと引張った綱の先を眼でもって追っていった。その綱は上向きになって、
「ウム、これは有坂青年だ。これはどういうわけだッ。――」
ミチミは、ジャンヌ・ダルクのように
「これがあたしの自由を奪っていたものよ。この有坂さんは、この前は今夜貴郎がやってくれたと同じようにお千さんの始末をするのを手伝ってくれたのよ。もちろん、すべての計画と命令とは、あたし一人がやったんだわ」
「人を殺してどうするんだ」
「そんなことはよく分っているじゃないの。あたしはただ貴郎が欲しいばっかりよ。だからそれを邪魔する者を片づけたばかりなんだわ」
杜は大きくブルブルと身慄いした。
「――ああ僕は、この手でとうとう人を殺してしまったのだ。ああ、もっともっと前に気がつかなけりゃならなかったんだ。
そういって、杜はわれとわが頭を
13
杜はミチミを連れて、久方ぶりで郷里に帰った。今はもう誰に
その切迫した新生活の展開いくばくもならぬうちに、杜はミチミについていろいろの愕くべき事実を知った。その一つは彼女が、いつか
もう一つは、彼女の犯行がいつも一定の条件のもとに突発したということだった。それは彼女の生理的な周期的変調が犯行を刺戟するのであった。杜はそれを彼女の口から聞いて、過去に於けるいろいろな事象を思い出して、なるほどと
しかし人間の世界を高き雲の上の国から見給う神の
実はあれだけ立派な証拠を残して来た犯罪事件ではあったが、震災直後の手配不備のせいであったか、それから一月経っても、二月経っても、司直はミチミたちを
折から桜花は故郷の山に野に
杜はミチミの
ミチミの蝋細工のような白い
白蝋の
ミチミはいきいきと生きかえったように見えた。真赤な長襦袢と、死化粧うるわしい
杜は惚れ惚れと、棺桶の花嫁をいつまでも飽かず眺めていた。――
この静かな家の中の出来ごとを、村の人々がハッキリ知ったのは、次の日の昼下りのことであった。杜は自ら
人々の騒ぎを