探偵小説家の
棚の時計を見ると、指針は二時十五分を指していた。それは午後の二時ではなくて、午前の二時であった。カーテンをかかげて外を見ると、ストーブの温か味で汗をかいた
もう数時間すれば夜が明けるであろう。すると窓の外も明るくなって、電車がチンチン動きだすことであろう。するとその電車から、一人の
原稿紙の上には、ただの一行半句も
「ええ、手前は探偵小説専門雑誌『新探偵』
――それを考えると梅野十伍は自分の顔の前で曲馬団の飢えたるライオンにピンク色の裏のついた大きな口をカーッと開かれたような恐怖を感ずるのであった。実に戦慄すべきことではある。
なぜ彼は、原稿用紙の
これには無論ワケがあった。ワケなくして物事というものは結果が有り得ない。
実はこのごろ梅野十伍にとって何が恐ろしいといって、探偵小説を書くほど恐ろしいことはないのであった。今月彼が一つの探偵小説を発表すれば、この翌月にはその小説が、すくなくとも十ヶ所の批評台の上にのぼらされ、そこでそれぞれ執行人の思い思いの趣味によって、虐殺されなければならなかった。
もしこれが人間虐殺の場合だったら、もっと楽な筈だった。なぜなら人間の生命は一つであるから、一遍刺し殺されればそれで終局であって、その後二度も三度も重ねて殺され直さぬでもよい。ところが、小説虐殺の場合は十遍でも二十遍でも引立てられていっては念入の虐殺をうけるのであるから、たまったものではない、
執行人の多くは、いろいろな色彩に分れているにしてもいずれも探偵小説至上論者であって、新発表の探偵小説は従来
――と、彼は書けないワケを、こんなところに押しつけているのだった。しかし、元来、彼は生れつきの被害妄想仮装症であったから、どこまで本気でこれを書けないワケに換算しているのか分らなかった。実をいえば、彼にはもっと心当りの書けないワケを持っていたのである。
それはブチまけた話、彼はもう探偵小説のネタを只の一つも持ち合わせていなかったのである。さきごろまでたった一つネタが残っていたが、それも先日使い果してしまったので今はもうネタについては全くの無一文の状態にあった。しかるにこの暁方までに、なにがなんでも一篇の探偵小説を書き上げてしまわねばならぬというのであるから、これは
そんなことを考えているうちにも、時計の針は馬鹿正直にドンドン廻ってゆき、やがて来る暁までの余裕がズンズン短くなってゆくのだった。なにか早く、書くべき題材を考えつかないことには、一体これはどういうことになるんだ。時刻は午前二時三十分正に
このとき梅野十伍は、憎々しげなるうわ目をつかって鼠の走る天井板を
「うむ、済まん」
といいながら、天井裏のかたを伏し拝んだのであった。
彼は急に元気づいて、原稿用紙を手許へ引きよせ、ペンを取り上げた。いよいよなにか考えついて書くらしい。
彼はまず、原稿用紙の欄に「1」と大書した。それは原稿の第一
原稿の第一字を認めた彼は、こんどはペンを取り直して第六行目のトップの紙面へ持っていった。いよいよ本文を書く気らしい。
「梅田十八は、夜の更くるのを待って、壊れた大時計の裏からソッと抜けだした。
真暗なジャリジャリする石の階段を、
階段を登りきると、ボンヤリと黄色い
そこで梅野十伍は、左手を伸ばして缶の中から
どうやらソロソロ彼の右手が機嫌を直したらしい、彼の
「――梅田十八は、恐る恐る大広間に入りこんだ。彼はよく名探偵が大胆にも賊の
机の上を見ると、なるほど青い表紙の小さい本が載っている。
『アダムガ八千年目ノ誕生日ヲ迎エタルトキ、天帝ハ彼ノ姿ヲ老婆ノ姿ニ変ゼシメラレキ、ソレト共ニ一ツノ神通力ヲ下シ給エリ、スナワチアダムノ飼エル多数ノ鼠ヲ、彼ノ欲スルママニ如何ナル物品生物ニモ変ゼシメ
読み終った梅田十八は、非常なる恐怖に襲われた。以前から、どうもこういう気がせぬでもなかったのである。今日世の中に充満する人間のうち、ダーウィンの進化論に従って、猿を先祖とする者もあるかもしれないが、中にはまたこの妖婆アダムウイッチの日記帳にあるごとくそれが鼠からか
果然彼は猿から進化した恒久の人間にあらずして、一時人間に化けた鼠だかも知れないのである。そういえば、彼は別にハッキリした理由がないのにも
というところで、梅野十伍は後を書きつづけるのが
そのとき彼がちょっと関心を持ったことがあった。それはいま書いた原稿の中に、
「――いつぞや鏡の中に自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキョトキョトしている具合や、口吻がなんとなく尖って見え、唇の切れ目の上には鼠のような粗い髯が生えているところが鼠くさい!」
と書いたが、彼はなぜこんなことを考えついたのだろうと不審をうった。
さっき鼠が天井裏で暴れはじめたのを、時にとっての福の神として、鼠の話などを原稿に書きだした件はよく分る。しかしその鼠の話を、そんな風に主人公の顔が鼠に似ているという話にまで持っていったについては、何かワケがなくてはならぬ。
ひょっとすると、これは梅野十伍自身は自覚しないのに彼の顔が鼠に似ていて、それでその潜在意識が彼にこんな
彼は時計がもう午前三時になっているのに気がつかないで
明るいスタンドの下とは云え、この深夜に唯一人起きていて、自分の顔を凹面鏡に写してみて、それで間違いはないであろうか。もしその鏡の底に、彼のテラテラした
そう思うと、急に彼の手はブルブルと
机の前の時計は午前三時を大分廻っていた。彼はまた煙草を口に咥え、今度は原稿用紙の上に頬杖をついて考えこんだ。
さっきの妖婆アダムウイッチの話をもっと書くのだったらそれから先に或るアイデアがないでもなかった。――すなわち、作中の主人公梅田十八が遂に意を決して妖婆を殺そうとする。城内から大きな
しかし、そこで妖婆を殺してしまったのでは、小説として一向面白くない。もっと妖婆の妖術を生かさなければ損である。
では、こうしてはどうであろうか。主人公梅田十八はお城へ探検になど来なかったことにする。
彼は原稿の債務なんかすっかり片づけてしまって、のうのうとした身体になっている。そこへ彼が口説いてみようかと思っている近所の娘さんが
そこで梅田十八は、ルリ子――娘さんの名である――を伴って散歩に出かける。二人は歩き疲れて、月明るき古城を背にしてベンチに並んで腰を下ろす。そしてピッタリと寄りそい甘い恋を
ところが城の中にいた妖婆アダムウイッチが
お城の下では、十八とルリ子が、あたり
若き二人の抱き合っている傍には、大きな
お城では妖婆アダムウイッチが、床の上に
その結果は、お城の下にどんな光景を演出するに至ったであろうか。
ルリ子はうららかな太陽の光を浴びながら、梅田十八と抱き合っているうちに、急に梅田の身体が消えてしまって、弾みをくって
「――もちろん一匹の二十日鼠は、哀れな梅田十八の旧態にかえった姿だった。他の一匹は臙脂色のワンピースが旧態にかえった姿だった。ルリ子は自分が
と、するのである。
その辺で、きっとニヤリと口を曲げる読者が一人や二人はあるに違いない。
作者の彼にとっても、あまり悪い気持がしないのであったけれど、これでは探偵小説にはならない。
「ほう、もう四時だ。これはいけない」
原稿を書くことを忘れて、うっかりいい心地になっていた梅野十伍は、時計の指針を見て急に慌てだした。彼は随分時間を空費した、早く書き出さねば間に合わない。探偵小説、探偵小説、探偵小説ヤーイ。
探偵小説ということについては、なかなか
学説に
鼠の顔を推理で解いて、果してどういう答がでるだろうか。
「鼠の顔とかけて、何と解きなはるか」
「さあ何と解きまひょう。分りまへんよってにあげまひょう」
「そんなら、それを貰いまして、
「なんでやねン」
「その心は、
これは単なる謎々であって、探偵小説ではない。第一その謎を解く
もしこれが探偵小説の形で発表されていたにしても、その点で優等品とはゆかない。そうした欠点は、この謎を作るときに建てた推理が謎を解くときの推理と全く逆であるところに無理がある。つまり素直なる順序によってこの「鼠の顔」の謎を解いたわけではなかったのだ。逆ハ必ズシモ真ナラズとは、中学校――もちろん女学校でもいいが――で習う幾何の教科書に始めて現れるが、上記の場合は正に必ズシモの場合なのである。
「鼠の顔」の謎を
それが決まると、ミッキーと「鼠の顔」との連鎖事項を考える順序となる。但しその連鎖事項たるや同時に「鼠の顔」とは全く違う他のものを説明するものでなければならぬ。ここに至ればもう運と常識の戦争である。幸い臥竜梅を早く思いついたから、それで謎は出来上ったことにしたわけだが、その連鎖事項がすこし薄弱性を帯びていることを
謎々はこうして出来上ったが、前にも云ったとおり、謎の答から謎の説明を考究していったのだから、その謎を解くとき「鼠の顔」の連鎖事項を探して、謎の答を推理してゆくのとはちょうど逆の順序になる。そこに逆ハ必ズシモ真ナラズが侵入する余地があるのである。
――と、かれ梅野十伍は二、三枚の原稿用紙を右のように汚したが、これは探偵小説じゃないようだ。けっきょく探偵小説論の小乗的解析でしかないから、こんなものを編集局へさし出すわけには行かない。
彼は折角書いた原稿用紙を鷲づかみにすると、べりべりと破いて、机の下の屑籠のなかにポイと捨てた。始めからまた出直しの
――女流探偵作家
「十四子さん、
「――エエわたくしのはホラ『鼠の顔』てえのよ」
「アラ『鼠の顔』ですって、アラ本当ね。まあ面白い題だわ、なにが当るんでしょうネ」
「さあ、わたくしは皆さんと違ってまだチョンガーなんだから、天帝もわたくしの日頃の罪汚れなき生活を
「まあ、
(探偵作家梅野十伍は罪汚れ多き某夫人に代ってニヤリと笑い、ここでまたペンを置いた。そして
幹事森博士夫人と谷少佐夫人とによって福引が読みあげられ、それぞれ奇抜な景品が授与されていった。そのたびに、花のような夫人たち――たちと書いたのはなかに『処女』も一人加わっていることを示す(探偵作家は万事この調子で、些細なることもおろそかにせず、チャンと数学的正確さをもって記述してゆくよう、習慣づけられているものである)――そこで夫人たちが女生徒時代の昔に帰ってゲラゲラとワンタンのように笑うのだった。(ワンタンのように――は誰かの名文句を失敬したものである。作家というものは、それくらいの気転が
いよいよ「鼠の顔」が高らかに読みあげられた。
「あたくしよ。――」
と、梅ヶ枝女史が叫ぶよりも一歩お先へ、女史の隣りの夫人(名前をつけて置くのを忘れた)が、
「それは十四子さんのよ」
と叫んだ。女史はジロリと横目で睨んだ。
「ああ十四子さんなの。アラとてもいい景品ですわよ。今日の景品のなかで、一番素敵な貴重なものだわよ」
と、幹事の谷夫人が、話の割合には薄っぺらな白い西洋封筒に入ったものを持って梅ヶ枝女史の前に飛んできた。女史は少し
森幹事が向うの方から大きな声で披露をした。
「鼠の顔、鼠の顔。当った方は、目下読書界に白熱的人気の焦点にある新進女流探偵小説家(新進だなんて失礼ナ、既成の第一線作家だわよ――と、これは、梅ヶ枝女史の
というのであるが、この福引の方が「鼠の顔とかけてなんと解く。臥竜梅と解く。その心は
その理由は、この福引の「鼠の顔(景品はターキーのプロマイド)娘々が大騒ぎ」の方が前者に比較して、ずっと卑近にして、
これがそのまま、探偵小説作法にも引きうつして、云えるのであって、探偵小説の謎も
「これはいかんうっかりしていて、また探偵小説論を書いていた。森幹事が福引を披露して、『――そのわけは、娘々が大騒ぎ』のところで原稿の文章を切ることにして、そのあとの『というのであるが』以下『センセイショナルなものを……』までを削除しなければいかん」
と、梅野十伍は苦笑しながら、十行ばかりのところを、墨くろぐろと抹消した。
時計は午前四時半となった。
梅野十伍は、原稿が一向はかどらないのに業を煮やしている。うかうかしていると、もう郊外電車が動き出す時刻になる。新聞配達も、早い社のは、あと三十分ぐらいで門前に現われることだろう。そうなると、門の脇に取りつけてある郵便新聞受の金属函がカチャリと鳴り響くはずだった。それが夜明けの幕が上る拍子木の音のようなものであった。
彼は福引の話をとにかく物にして、すこし気をよくしていたが、それにしても、福引の話は飽くまで福引の話であって探偵小説とはいい
「さあ、早く探偵小説を書かなきゃあ!」
と、梅野十伍は、自分の勝手な清掃癖が禍をなしてペンの進行を阻んでいることにも気づかず、またやっこらやと立ち直って、探偵小説狩りに出発するのであった。
誰が見てもなるほどそれが探偵小説らしい形式を備えていることが分るようなものを選んで書くのが賢明なやり方だ。そういう形式を採ってみようと、梅野十伍は考えた。
それでは国際関係険悪の折柄、ひとつ国境に於ける紅白両国の人間の推理くらべを扱った探偵小説を書いてみることにしよう、と梅野は決心した。
まず道具立を考えるのにここは紅白両国の国境である。あまり広くない道路が両国を
その国境線を間に
まあ道具立はそのくらいにして置いて、ここに紅国人の有名なる密輸入の名手レッド老人を登場させることにする。
「また一つ、頼みますよ。ねえ、税関の旦那ァ。――」
レッドの銅鑼ごえに(この前にドラを銅羅と書いたのは誤り。どうもすこし変だと思って今辞書を引いてみると、ラの字は
「なあンだ、レッドか。また鼠の籠を持ちこもうてえんだろう。あんまり朝っぱらから来るなよ。鼠なんか夕方で沢山だ」
ワイトマンはいささか二日酔の体で、日頃赭い顔がさらに紅さを増して熟れすぎたトマトのようになっている。(この件は、作者梅野十伍に自信がなかった。彼は生れつきアルコールに合わない体質を持って居り、いまだ
「旦那、そういわないで見ておくんなさい。
「フフン、笑わせるない。生れつき正直だなんて云う奴に本当に正直な奴が居た
「エヘヘ、御冗談を、儂はそんな注意人物なんて大した代物じゃありませんや、ただ鼠を捕えてきては、この向うのラチェットさんに買って貰ってるばかりなんで」
「うむ、ラチェットという猶太人は、鼠をそんなに買いこんで、何にしようというんだ」
「それァね旦那、これは大秘密でございますが、この鼠の肉が近頃盛んにソーセージになるらしいんですよ」
「えッ、ソーセージ?」
税官吏ワイトマンはそれを聞くと妙な顔をして胃袋を抑えた。実は朝起きぬけに、ソーセージを
「いやァ旦那、そう云うけれども、鼠の肉を混ぜたソーセージと来た日にゃ、とても味がいいのですぜ。ヤポン国では、鼠のテンプラといって賞味してるそうですぜ。だから鼠の肉入りのソーセージは、なかなか値段が高いのです。ちょっとこちとらの手には届きませんや」
「手に届かんといって――一本
「そうですね。一本五ルーブリは取られますか」
「五ルーブリ? ああそうか、よしよし。それくらいはするじゃろう」と、税関吏ワイトマンはホット胸をなぜ下ろし「さあさあ、お前の持ちこもうという品物を早く見せろ、検査をしてやるから」
「へえ。――そこの台の上に載せてあります」
といってレッド老人は、磨きあげたワイトマン愛用の丸
ワイトマンは、鼠の籠が自分の愛用のテーブルの上に置かれてあるのにちょっと機嫌を悪くしたが、まあまあ我慢して文句を控えた。そして籠の近くに赭い大きな顔を近づけた。
「オイ、員数は?」
「員数は皆で二十匹です」
「二十匹だって。一イ二ウ三イ……となんだ一匹多いぞ。二十一匹居る」
「ああその一匹は員数外です。途中で死ぬと品数が揃わなくなるから、一匹加えてあるんです」
「員数外は許さん。もしも二十一匹で通すなら二十匹までは無税、第二十一匹目の一匹には一頭につき一ルーブルの関税を課する」
「こんな鼠一匹に一ルーブルの課税はひどすぎますよ。そんな大金を今ここに持ってやしません――じゃ二十一匹の中から一匹のけて、二十匹としましょう。それならようがしょう」
「うむ、二十匹以下なら無税だ」
「じゃあ、そうしまさあ、二十匹で無税で、二十一匹となると課税一ルーブルは何う考えても割に合いませんよ」
そういいながらレッド老人は、金網の小さい口を開けてなかから一匹の鼠を取出しポケットに入れ、そしてまた元のように金網の入口を閉めた。
「さあ、これでいいでしょう。もう一度数えてみて下さい。籠の中の鼠は二十匹となりましたぜ」
ワイトマンは再び籠の中に顔を近づけ、念のためにもう一度、籠の中の鼠を数えた。ゴソゴソ匍いまわっている鼠は、確かに二十匹だった。
「よォし、二十匹だ。無税だァ」
「へえ、有難うござんす。それでいいんですね。じゃ通して貰いましょう」
レッドは籠を
途端にワイトマンが叫んだ。
「オイ待て。――」
「なんですか、旦那」
「貴様は、もう許しておけんぞ。この卓子の上を見ろ」
ワイトマンが憤りの鼻息あらく指さしたところを見ると、彼の大事にしている丸卓子の上は、鼠の排泄した液体と固体とでビショビショになっていた。
レッドは鼠の籠をぶら下げたまま、頭を掻いた。そして腰にぶら下げてあった手拭を取って、卓子の上を綺麗に拭った。そしてワイトマンの
「レッド。勘弁ならぬところだが、今日のところは大目に見てやる。一体こんな金網の籠に時を嫌わず排泄するような動物を入れて持ってくるのが間違いじゃ。この次から、卓子の上に置いても汚れないような完全容器に入れて来い。さもないと、もう今度は通さんぞ」
「へえい。――」
レッド老人は恐縮しきって、ワイトマンの前を下った。そして税関の横の小門から出ていった。そこはもう白国の街道であった。
街道を、レッド老人は大きなパイプからプカプカ煙をくゆらしながら歩いていった。そして思い出したように、鼠の籠の入口を開けて、ポケットに忍ばせて置いた員数外の鼠を中に入れてやったのである。
梅野十伍はペンを下に置いて、湯呑茶碗の中の冷えたる茶を一口ゴクリと飲んだ。
これは探偵小説であろうかどうか。
密輸入はたしかに探偵小説の題材になるが、今書いた小説は、探偵小説というよりも落語の方に近い。つまりそのヤマは、税関吏ワイトマンが籠の中の鼠の数ばかりに気を取られていたこと、それから犯人レッドが至極無造作に員数外の鼠を籠から除いて、ワイトマンに疑いを抱かせる
ただ、税関吏ワイトマンが愛用する丸卓子の上を汚したことは、なんだか重要な探偵材料を提供したようでありながらその実わずかにワイトマンが員数外の鼠を思い出す
作家梅野十伍は、拳固をふりあげて、自分の頭をゴツーンとぶん
「旦那ァ。昨日は朝っぱらから来たと叱られたので、きょうはこうして午後になってやってきましたぜ」
「うむ、レッドだな。貴様は怪しからぬ奴だ。昨日儂を胡魔化して、鼠を一匹、密輸入したな。儂は今朝になって、それに気がついた」
「エヘヘ、手前はそんな悪いことをするものですか。旦那がいけないと
「そんな口には乗らんぞ。員数外の鼠を自分の家に放したなんて怪しいものだ」
「いえ、本当ですとも、だから今日はちゃんとこの籠の中に入れて来ました。ごらんなせえ、アレアレ、あの腹が減ったような顔つきをしているやつがそうです」
「もういい。鼠が腹が減ったらどんな顔をするか、儂にゃ見分けがつかん。――で、籠は改造して来たろうな」
「へえ、チャンと改造して来ました。籠を置いても、その下が汚れないように、これこのとおり籠の下半分を外から厚い板でもって囲んであります。これなら籠の中で鼠が腸
「うむ、なるほど。これなら卓子の上も汚れずに済むというものじゃ。しかし随分部の厚い板を使ったものじゃ。
「員数はやはり二十匹です。きょうは員数外なしで、正確に籠の中には二十匹居ます。どうかお
「うむ二十匹か。――一イ二ウ三イ……。なるほど二十匹だよし、無税だ」
レッド老人は、恭々しく礼をいって、税関の小門から出ていった。そしてラチェットのところへ行って、鼠を二十八匹売った。籠の中にいたのは、確かに二十匹だったのに……。
これだけでは、謎を提供しただけである。謎を解いてないこの小説をここで切って出すなら、これは謎の解答を「懸賞」として、一等当選者に金一千円也、以下五等まで賞品多数、応募用紙は必ず本誌挿込みのハガキ使用のことということにすれば「新探偵」の購読者は急に二、三倍がたの増加を示すことになろう。しかし「新探偵」の編集者
「懸賞」にすることを已むを得ず撤回して、右の小説の回答篇を後に接いで置こう――と作者梅野十伍は再びペンを取上げた。
その翌日の昼さがりのことだった。
レッド老人は、また昨日と同じような鼠の籠を持って税関に現れた。
「旦那、すみません。また鼠が二十匹です。どうか勘定して下さい」
「こら、レッド、貴様は怪しからん奴だ。
ワイトマンは満面朱盆のように赭くなってレッド老人を睨みつけた。
レッド老人のポケットが怪しいというのでそこから調べ始めた。それから老人の衣服が一枚一枚脱がされた。とうとう老人は、寒い風のなかに素裸に剥がれてしまった。しかし鼠は只の一匹も出て来なかった。
「身体の方はいいとして。こんどは籠の方を調べる」
「もし旦那。もう服を着てもいいでしょうネ」
「いや、服を着ることはならん。どんなことをするか分ったものじゃないから、籠の方を調べ上げるまで、そのまま待って居れ。コラコラ、服のところからもっと離れて居れッ」
老人は陽にやけた幅の広い背中をブルブル慄わせながら、故郷の方を向いて立っていた。
税関吏ワイトマンは、椅子のうしろから、大きな皮袋をとり出した。それは今朝からかかってレッドの鼠を検べるために拵え上げたものだった。彼はその皮袋の口を開いて、金網の籠の入口にしっかりと被せた。そして入口を開けると、籠の中の鼠をシッシッと追った。籠の中の鼠は
「うむ、これで二十匹、あとは……待て待て」
ワイトマンは腰をかがめて机の大きな引出をあけた。その中から一匹の美しいペルシャ猫ミミーが現れた。ミミーの首っ玉には
ワイトマンは小猫のミミーを大きな手で掴んだまま、空になった籠のまわり――特に部厚い木を貼った籠の下半分に近づけた。小猫は苦しがって身もだえした。そのたびに鈴がリンリンといい音をたてて鳴った。
すると愕くべし、俄然鼠の立ち騒ぐ音がしはじめた。どうやら籠底を
それを合図のように、栓穴から鼠が籠の中にとびだしてきた。一匹、二匹、……八匹。みんなで八匹、いずれも小さい仔鼠だった。その仔鼠は大慌てに慌てて、ワイトマンの仕掛けた皮袋のなかに飛びこんでしまった。
これでレッドの仕掛けは分ったものだとワイトマンは得意だった。網の外に貼った木は中空であって網目より小さい孔があり、それに木の栓をかってあったのだった。八匹の仔鼠は、ミミーの匂いにたまらずなって、その栓を内側から押しあげて飛びだしてきたものに相違なかった。
税関吏ワイトマンはレッドに八ルーブリの
「旦那、あんな仔鼠が八匹も籠の外に入っているなんて、手前は知らなかったんですよ、本当に……。あの仔鼠はきっと税関まで来る途中に生れたものに違いありませんぜ」
「莫迦を云え、親鼠が、わざわざ栓のかってある木箱の中に仔を生むものかい」
とワイトマンは相手にしなかった。
梅野十伍はこう書き終って
実はまだ彼はこの作の本当のヤマというべきところを一筆も書いていないのであった。読者が怒らないうちに、すぐ後を続けなければならぬと思い、
税関吏ワイトマンが、本部からの
「国境ヨリ 真珠ノ頸飾ノ密輸甚ダ盛ンナリ。此処数日間ニ密輸サレタル数量ハ時価ニシテ五十万るーぶりニ達ス。
なお三十分ばかりして、第二報の無線電信通牒が入った。
「密輸真珠ヲ検査ノ結果、げるとねる氏菌ヲ発見セリ。仍リテ鼠ノ所在スル附近ヲ厳重監視シ、
ゲルトネル氏菌の登場、そして数十万ルーブリの真珠の頸飾の密輸。――犯人はレッド老人の外に心当りはない。
ワイトマンは肝臓が破裂するほどの激憤を感じた。あの図太い
その日の暮れ方、税関の門がもう閉まろうという前、待ちに待ったレッド老人の声がやっと門の方から聞えた。
「旦那、すみません。きょうはどうも遅くなりましたが、一つ鼠をお調べねがいますぜ」
ワイトマンは肩で大きな
レッド老人は、昨日と寸分変らぬ鼠の籠を持って立っていた。
ワイトマンは無言で老人を部屋のなかに入れた。そして入口の錠をガチャリとかけ、その鍵を暗号金庫のなかに
それから執拗な検査が始まった。消毒衣にゴムの手袋、防毒マスクという物々しい扮装でもって、ワイトマンは立ち向った。まず例の皮袋のなかに鼠を追いこんだ。それからペルシャ猫ミミー嬢の力を借りて、木底から八匹の仔鼠を追いだした。
「今日の課税は八ルーブリだ」
ワイトマンは鉛筆をとりあげて机の上の用箋に8ルーブリと書きつけた。
それが済むと、空の籠を
パックリと底板が明いた。なかは洞になっていた。そこにはもう一匹の仔鼠も残っていなかったけれども、その代りに銀色に輝いた立派な真珠の頸飾が現れた。
「とうとう見つけた。そーれ見ろッ?」
ワイトマンは大得意だった。
彼はもうすこしで老人レッドの身体を調べることを忘れることであったが、
老人レッドは、命ぜられるままに、十万八ルーブリの税金を支払った。十万ルーブリは真珠の関税、残りの八ルーブリが鼠の超過関税だった。老人は二十八匹の鼠を歪んだ籠の中に入れて税関を出ていった。
後には得意の税関吏ワイトマンと、傷だらけになった丸卓子とが残った。
既に朝となった。
イヤ間違いである。一行あけてこの行に書くべきであった。
既に本当の朝である。作家梅野十伍の朝である。いつの間に夜が明けたのか、彼はちっとも気がつかなかった。窓外に編輯局からの給仕君の鉄鋲うった靴音が聞えてきそうである。ところが輸入鼠の話は、まだ終りまで書けていないのだ。
彼は、鼻の頭にかいた玉の汗をハンカチで拭いながら、原稿用紙の上にまたペンをぶっつけた。
その翌朝となった。(国境の朝である。そして同時に梅野十伍の朝でもある――ああ面白くもない!)
面白いのは、その早朝税関吏ワイトマンに対して本部から打たれた電文であった。
「昨夜ノ密輸真珠ハ、時価四十万るーぶりニ達ス。貴関ノ報告数ニ2倍ス。何ヲシテイルノダ。至急ヘンマツ」
税関吏ワイトマンは床の上にドシンと尻餅をついた。愕きのあまり腰がぬけたのであろう。そんな筈はない。すべてを調べたつもりだった。あの二倍も真珠が隠されていたとは、実に喰いついても飽き足りなき老耄密輸入者レッド!
一体その多数の真珠を、レッドは何処に隠して持っていたのだろう。
――こんな風にして、密輸入者レッド老人とワイトマン税関吏の追いかけごっこを書いてゆくと、何処まで行ってもキリがない。しかし予定の紙数は既に尽きた。もう筆を停めなければならない。
では、右の疑問符の答だけを書きつけて置こう。多数の真珠は鼠の胃袋のなかに押しこんであったのである。
さあこれで一応結末がついたようであるが、まだ最も大事なことが一つ説明してなかった。それは本篇の表題であるところの「
軍用鼠とは、軍用に鼠を使うことである。軍用犬にシェパードやエヤデルテリヤを使う話はよく知られている。軍用犬あって軍用鼠なからんや。
軍用犬に比して軍用鼠の利点は
実は老人レッドから盛んに鼠を買いあげるラチェットなる人物は、この軍用鼠の研究家であった。彼の住む寒い白国には鼠というものが棲息していなかった。それでやむを得ず密輸の名手レッドを駆使して、紅国の鼠を輸入させたのだ。
真珠の密輸は、生れつきの密輸趣味者レッドが鼠をラチェットに売る片手間にこれに托して真珠密輸を企てたのであって、その所得は
それなら紅国軍部は税関本部に通牒して鼠の輸入を黙許させればよかったと思うかもしれないけれど、そこがそれ軍機の秘密であった。鼠を輸入して軍用鼠の研究をしているということが国内官吏に知れても軍機上よろしくないのである。計略ハ密ナルヲ良シトスだの、敵ヲ図ラントスレバ先ズ味方ヲ図レなどという格言は紅国軍部といえどもよく心得ているのであった――というような結末まで、ゆっくり探偵小説に書いていると、いくら枚数があっても……。
丁度、編輯局の給仕さんが、