この突拍子もない名称をかぶせられた「地球発狂事件」は、実はその前にもう一つの名称で呼ばれていた。それは「巨船ゼムリヤ号発狂事件」というのであった。これは前代未聞のこの怪事件を最初に発見し、そしてその現場に一番乗りをした上に、全世界の報道網に対し[#「対し」は底本では「封し」]輝かしき第一報を打つことに成功したデンマーク新報のアイスランド支局員ハリ・ドレゴの命名によるものであった。巨船ゼムリヤ号発狂事件――という名称からして既に怪奇味が
一体どうして巨船ゼムリヤ号が発狂したのか、また地球が発狂したのであろうか。率直にいって、この事件の名称はあまりに突拍子であり奇抜すぎて、なんだか本当のことのように思えないのである。ひょっとしたら、それはこれらの命名者であるドレゴ記者と水戸記者の、たちのよくない
ところが、この事件の内容がだんだんさらけ出されて行くにつれ、その怪奇なる点、
ドレゴ記者はオルタ町の郊外に、先祖伝来の家を持っていた。もちろん土地の旧家であって、農業や牧畜や交通について、彼の祖先は代々大きな権力をもっていたのである。ところが彼の父の代になって――というよりも数年前、このアイスランドがデンマーク領たることを
ハリ・ドレゴはこの家の長男で、今年二十四歳になる。前にもいったようにデンマーク新報の記者であるが、このような土地のことゆえ特権もなく、牡牛のように張り切っている彼にはむしろ気の毒の連続であった。
自然彼は、町の酒場を歴訪するのがその日その夜の重大な仕事であった。新聞記者としての収入をあてにせずともよい豪家の長男坊のことだから、どこの家でも彼はちやほやされた。が、彼はちやほやされればされるほどそれが気に入らず、口にまで出していわないが、胸の中でむしゃくしゃしていたのである。
そういう生活の中に、彼が話相手として或る程度の満足を得られる友人が一人だけあった。それは先にも名前をちょっと出したが、日本人記者で水戸宗一という三十歳ばかりの背の低い色の黒い男であった。
例の事件を発見する日の前夜、ハリ・ドレゴは水戸を
この論議は、ドレゴの家の玄関口まで続いた。水戸はこの友情に
「ああ、これは水戸様……おや、若旦那さまを。これは
ガロ爺やは、恐縮して水戸の腕から重いドレゴの身体を受取った。そのときドレゴは突然頭を獅子舞のようにふりたて、
「いや、何といっても僕はこの目で見て勘定して来たんだ。九百九十匹の悪魔が棲んでやがるんだ。……いやいや、もう一匹いたぞ。ううん違う二匹だ。悪魔め、ちょっと僕が油断している間に、九百九十……九百九十五匹かな、九十四匹かな……ううい」
後はガロ爺やの背中でむにゃむにゃいっていたが、それもやがて聞こえなくなった。爺やは水戸に丁寧に礼を述べて玄関口を閉め、それからアルコール漬の若旦那さまを担いで馬蹄形に曲った階段をのぼり、そして彼の寝台の上にまで届けたのであった。
ドレゴは寝台の上に大の字になって倒れると、またしても声を出して「キ、君、悪魔集団は僕たちの隙を窺っているんだぞ。油断は……」
あとは口の中、そしてガロ爺やが戸口を閉めて部屋を出て行くときには、若旦那さまの独白は大きな
そのままで何事もなかったなら、おそらくドレゴは昼前頃までぐっすりと眠り込んだことであろう。
ところがドレゴは思い懸けない出来事のため、それから一時間ばかり後に、一度目をさまさなければならなかった。
泥のように熟睡していたドレゴをほんの数秒の間なりとも目を覚まさせ、むっくり寝台の上に起上らせるという力を発揮したものは、相当のものであった。ドレゴは
「ちぇっ、うるせいぞ」
半睡半醒の状態にあったドレゴは如何なるわけにて不思議にもマリヤの額縁が半分に叩き壊されて落ちたのかを探求する慾も起らず、物音のしたわけだけを了解すると安心してそのまま再び寝台の上にぶっ倒れて睡ってしまったのである。
それから二時間ばかり経った。
ドレゴは再び目をさまさなければならなくなった。それは異様な血みどろの悪魔が、彼を包んでしまってその恐ろしさと苦しさにどうしても目をさまさずにいられなかったのである。
「ああ――っ、夢だったのか……」
ドレゴは、完全に目をさまして、寝台の上に半身を起こした。彼は沙漠を旅行した者のように、疲れ切っている自分を発見した。それから下腹が今にも破れそうに
彼は手をそこにやってみた。指先にかさかさしたものが触った。何だろうと、手を引いて見ると、それは赤黒い血の固まりであった。彼はびっくりして顔から頭へかけて手で
「いつ、やったのか。昨夜は大分飲んだらしいが、……はて、気がつかなかったぞ」
ドレゴは寝台を下りた。寝台を下りるとき枕許をふりかえると、枕も
そのときも彼はその負傷が、昨夜の
彼は、北側の壁にかけてある鏡の前に進み寄った。
「あ! ……」
彼は自分の顔を、幽鬼と見まちがえた。そうであろう、顔色は青く、目は光を失い、頭髪は
彼は、非常な後悔の念に駆られた。そして一刻も早くこのような幽鬼の形相から
水をじゃあじゃあと出して、顔をごしごし洗った。首筋から胸へかけても、ひりひりするほどタオルでこすった。うがいも丁寧に二度もやった。そして頭髪に爽快なローションをふりかけ、ブラッシュでぎゅうぎゅうとかきあげた。そして最後の仕上げをチックと櫛に托して、漸く鏡の中にこれなら見られる自分の顔を取戻したのであった。
彼は長大息した。こびりついて放れそうもなかった悪夢が、あらかた彼の身体から出ていったように思った。いやまだ悪夢の断片がまだどこか、この化粧室に残っているような気がする。
彼は
午前四時のすがすがしい空気が、ヘルナー山の方から彼の胸に向ってぶつかった。彼は目を細くして大きく呼吸をした。真夏といえども山頂に白く雪の帽子を被つているヘルナーの霊峰、そしてその山腹に残っている廃墟オルタの城塞の壁。毎朝目をさますと、きまってドレゴはこのヘルナーの霊峰とオルタの古城を仰いで宇宙万象古今へ挨拶を贈るのであった。この朝彼は不慮の負傷のため、
「おお、わが霊の峰ヘルナー。永遠に汚れなくあれ、われは今……」
といいかけて、ドレゴは突然声を停めた。彼の
「変だよ、変なものが見える、ヘルナーの峰に……」
ドレゴは、窓から半身を乗りだして、白い雪の帽子を被ったヘルナーの峰を見つめていたが、いくど目をしばたたいてみても、霊峰の上に船の形をしたようなものが見えるのだった。
「
それでも彼はまだ自分の頭を信じなかった。目を信ずるわけにいかなかった。その
「おお……こんな奇妙な風景があるだろうか……」
彼は見たのだ。信じられないものを霊峰の上に見たのだ。それは彼の目によって見、彼の頭脳によって判断すると、ヘルナー山の峰の雪の上を、一隻の汽船が航行しているのである、船体をやや斜めに傾けて……。
そんなことが有り得べき道理はない。海抜五千十七
ドレゴが再び雄々しく立上ったのは、それから五分も経たない後のことだった。彼が若し自分が新聞記者であることを忘れていたとしたら、いつまでも窓の下で狂おしく泣いていたかもしれない。
「……これは
ドレゴは、そういいながら、再び立上って窓から首を突出した。
今度は気が落ちついているので、あえて望遠鏡の力を借りずとも、霊峰ヘルナー山頂の白雪を噛んで巨船が横たわっているのが、はっきりと肉眼で確められた。一体どうしたというわけだろうか、海を渡るべきはずの汽船が山を登ったというのは……。
この解答は、ドレゴの一切の智力をもってしても出てこなかった。彼はいまいましくてならなかった。でも、かかる奇怪極まる謎を即座に解き得る者は、この世の中に誰一人としていないであろうと思い、彼は自己嫌悪の気持を
「答える術のない怪事件だ。だがその事実だけは誰の目にも正しくうつっているのだ。そうだ、もっと多く観察しなければならない、これから直ぐ、ヘルナー山へ登ってみることだ」
ドレゴはガロ爺やを呼んだ。そして急いで二日分の糧食と飲物の用意を命じた。何もしらないガロは
「若旦那さま、どこかへお出ましでございますか。一体いずれへ……」
と尋ねたが、ドレゴはそれには応えず、命じたものを急いでここへ持って来るように命じた。それはサンドウィッチ、ビスケット、チーズ、塩肉、野菜スープの缶詰、それから数種の飲物だった。ガロはいいつけられたものを地下物置から取出すと、大きな盆の上に山盛にして、ドレゴの部屋へ持って来た。
「若旦那さま。持参いたしました。これでよろしゅうございますか」
「うん、待てよ、忘れものがあってはたいへんだ」
登山の身支度半ばのドレゴは、ガロの持っている盆のまわりをまわって必要品を調べる。ガロはドレゴの登山服に目を留め、
「若旦那さま、ヘルナー山にお登りかと存じますが、御承知のとおり只今の気候は登山によろしくございませんで……」
「爺や、危険を顧みている
「はい。それは……しかし一体あの
「お前だって、一目見れば分るよ。窓のところへ行ってヘルナーの峰を見てごらん。疑問はたちどころに氷解するだろう」
「何と
爺やは窓のところへ歩みよったがそのときドレゴは、爺やに盆を下に置いてからそうするよう注意すべきだった。気のついたときは遅かった。霊峰へ目をやった爺やは、ああああっと長い叫び声を発すると、その場に卒倒してしまった。糧食の盆は大きな音と共に彼の手を放れて床の上に落ち、あたりへ大事なものを撒きちらし、転がせてしまった。
ドレゴは漸くにして身支度を整えて、家の前に待っている自動車に乗込んだ。彼はハンドルを山とは反対の方へ切って、町の中を降り出した。こういうときには絶対に協力者が必要だ。一人では成功することが
さすがの水戸も、いきなり門口から飛び込んで来たドレゴから、あと十分間に登山の用意をして車の中に乗り込めと命令同様にいわれた時には、何のことやら訳が分らず、しばらくは友の顔を穴のあくほど眺めるだけであった。
「水戸、そうしてぼんやりしている一分間というものが、全世界にとって如何に尊い浪費であるか、今に分るだろう。さあ、すぐ仕度に
「ドレゴよ。何故……」
「それは車の中で詳しく話をするよ。前代未聞の大事件発生だ」
「なに、前代未聞の大事件」
「そうだとも。そうしてわれわれは、一生涯の中に、二度とない機会を与えられているんだ。いや、君のように泰然と構えていては、その絶好の機会も掌の中からどんどん逃げ出しそうだ。早くせんか、この黄色い
「これは済まぬことをした。待っていてくれ、急いで支度をするから……」
水戸は何事とも知らないが、やっと事態の重大性を呑み込めたと見え、それからは室内をこま鼠のようにくるくる走りまわって登山の支度に取り懸った。
「食糧はある。君の大切にしている君の国の酒の壜だけは忘れないように」
「おう、
「一体どうしたのか。前代未聞の大事件というのは……」
水戸はドレゴの
「おお、そのことだ。言葉で説明する前に、まず君の目で見て貰った方がいいだろう。ヘルナーの
「なに、ヘルナーの峰を見ろというのか」
水戸は、きっとなって、顔を風よけの
「ここらの連中と来たら
「おう、あれか」と水戸の声は
「なるほど不思議だ。雪のあるヘルナーの峰が盛んにもえている……」
そういった水戸の言葉を、今度は逆にドレゴが愕く番となった。
「なに、ヘルナーの峰が燃えているって。そんなはずはない」
「そんなはずはないといっても、確かに燃えているよ。炎々たる火焔が空を焦がしている」
「え、それは本当か」
ドレゴはさっと顔色をかえて、車を停めた。そして扉をあけて下へ立った。
おお、なるほどヘルナー山頂は火焔と煙に包まれていた。例の汽船の姿はその煙の中に殆んど没入していた。さっきまでは煙一筋もあがっていなかったのに、これはどうしたことであろうか。
友はしきりに感歎の声を漏らしていた。そして滅多に興奮しない彼が日頃にもなく顔を赤く染めて、激しい感投詞を[#「感投詞を」はママ]口にした。
「これが僕の知っていることすべてだよ。後は、すっかり君の知識と同一さ」
ドレゴは言葉の終りをそう結んだ。
しかし正確にいうと、彼のこの言葉は完全だとはいい切れなかった。なぜならば彼はもう一つ水戸に語るべき事柄を忘れたのであった。
現場は惨憺たる[#「惨憺たる」は底本では「惨怛たる」]ものであった、荒涼目をそむけたいものがあった。
巨船は人を
町中の人が、皆戸外に立って、燃えさかる山頂を恐怖の面持で見守っていた。今や事件は、この町中にすっかり知れ亙ったのである。
ドレゴと水戸が、やっぱり一番乗りだった。ヘルナー山に登るには相当の用意が必要だったので、誰でも直ぐ駆けあがるというわけに行かなかった。
また自動車をこんなに速く山麓へ飛ばす芸も、この
それでも両人が現場に辿りつくまでには、かなりの時間がかかった。両人は全力をあげて能率的に互いを助け合ったつもりだったが、現場についたのは、もう夕刻であった。
その長い忍耐苦難の連続の道程に、ドレゴは彼の事件発見の顛末の一切を水戸に語って聞かせたのであった。そしてドレゴと水戸の両人は、船体から約二十
「残念だなあ。一番乗りはしたけれど……」
とドレゴは口惜しそうな声を出した。
「まあ我慢するさ。それより早いところ第一報を出そうではないか」
水戸はそういって、リュックの中から携帯用の超短波送受信機を取出して組立始めた。ドレゴはぎょッとした。そうだ、自分は非常に大きい不用意をやってのけたのであった。新聞記者でありながら、この山頂からの通信をどうするかを考えなかったのだ。いつもの調子で町から容易に通信が出来るように思っていた。そこへ行くと水戸は
「あの汽船の名前だけでも知りたいものだ。ドレゴ君、見て来てくれないか」
水戸は通信機の組立の手を休めないで、そういった。
「よし、見て来よう」
「それからこの事件の名称だ。ドレゴ君は名誉あるこの事件の発見者だから、君がいい名称を択ぶんだよ」
「うん、すばらしい名称を考え出すよ」
ドレゴは、すっかり機嫌を直して、燃える巨船の船尾の方へ駆け出して行った。
煙が、意地悪く船尾の方へなびいているので、そこについているはずの船名は、そのままで読みとれなかった。これには困ってしまった。
が、彼はこのままで引下がることは出来なかった。何かよい工夫はないかと、頭脳を絞ってみたが、
これは思い懸けなくいい方法だった。煙はこの
ゼムリヤ号。
これがこの怪しき巨船の名であった。一体どこの国の船であろうか。それを知りたいと思って、なおもしばらく雪礫で煙を払ってみたが、それは成功しなかった。船腹には国籍の文字もなく、船旗も信号旗も悉く焼け落ちていたからである。
それからこの事件の名称だ。
ドレゴは、水戸の待っている場所まで戻る間に、この事件のためにすばらしい名称を思付くことを祈念した。そしてその結果、
「巨船ゼムリヤ号発狂事件」
この名称では少々奇抜すぎるかなと思った。しかし後々になってこの事件の内容がだんだん明白になるにつれ、最初にドレゴが考えたこの奇抜過ぎる事件の名称も、案外この事件に相応しい魅力を備えてはいないことに気がつくに至った。それは後の話として、彼ドレゴが何故このような名をつけたかというと、海を渡るべき巨船が山の上の航行を企てたところは、このゼムリヤ号が発狂したものとしか考えられないという着想から来ていた。
それはそれとして、本当に巨船ゼムリヤ号は発狂したのであろうか。発狂したとしたら、何故発狂したのか。そして何故にこんな雪山の上に巨体を横たえるようなことになったのであろうか。不思議である。奇抜すぎる。本当のことと思われない。しかしこれは
若きハリ・ドレゴは、折角こうして怪奇きわまるゼムリヤ号の狂態現場に駆付けながら、これ以上手をつけ得ないことをたいへん
断崖の上で超短波の通信装置の組立に従っていた水戸宗一は、ドレゴの方に思いやりのある
「ねえハリ。口惜しがったり、くさったりする前に、君が是非とも果さなければならない義務があるじゃないか」
「なに、義務というと……」
「困るなあ、君は……。君は、この大事件の名誉ある発見者でありながら、まだその義務を世界に向かって果していないではないか。つまり君は、まだこの大事件について、一本の通信も送っていない」
水戸にそういわれると、ドレゴはおおと
「そ、そうだった。自分だけで愕いて、興奮して、騒ぎたてるばかりだった。そうだ。早く第一報を送らないと、誰かにだしぬかれてしまう。水戸、今からではもう遅すぎるかなあ」
ドレゴは、水戸の腕をゆすぶった。そのとき水戸は、通信装置の試験をようやく終ったところだった。
「その心配は無用だ。このヘルナー山頂の見える区域で、超短波の通信機を持っているのは、今のところ僕たちばかりだからね。村人も、もちろん今ではこの怪事件に気がついてはいるが、彼らは通信機関を持っていない。だから僕たちは依然として、第一報を送り得る恵まれた立場にあるのだ。なるべく早い方がいいが、しかしまだ
「ふうむ、それもそうだな」とドレゴは、ようやく気を取直した。
「無線機の用意はすっかり出来ているよ。さあ、今こそ君は光栄ある報道者として、この驚天動地の怪事件の第一報を、最も十分なる表現をもって全世界に放送するのだ。ハリ、原稿を書くがいい」
「うむ。よし。書くぞ」
ドレゴは、紙を出して、その上に鉛筆を走らせ始めた。彼の額には血管が太く
「第一報は、簡潔なのがいいぞ。しかし驚天地異の大報道であることについて
水戸は傍から
「これでどうだい」
ドレゴは紙片を水戸の方へ差出した。彼の声は明るく、そして大興奮に震えていた。
「やっ、これは書いたね。“汽船ゼムリヤ号は突然発狂した。何月何日の深夜、この汽船は発狂の極、アイスランド島ヘルナー山頂に坐礁した。そして目下火災を起し、炎々たる焔に包まれ、記者はあらゆる努力をしたが、船体から十メートル以内に近づくことが出来ない。この前代未聞の怪事件は、本記者の如く、自らの目をもって見た者でなければ到底信じられないであろう。このゼムリヤ号発狂の謎を、解き得る者が果たしてこの世界に一人でもいるであろうかと、疑わしく思う。もちろん本記者も決してその一人でないと、敢えて断言する。それほどこの事件は常識を超越しているのだ。だが本記者は、同業水戸記者の協力を得て、これより最大の努力を払って本事件の実相を掘りあて、刻々報道したいと思う”なるほど、これは上出来だ」
「ほめるのは後にして、大いにこき下ろして貰おう」
ドレゴは、
「そうだなあ。敢えて、こき下ろすとすれば、この記事は長すぎる。前半だけで沢山だ。それに……」
「それに?」
「ねえ、ハリ。君は“ゼムリヤ号発狂事件”という名称が大いに気に入っているのだと思う。いや、全くのところ、僕も君の鋭い感覚と、そして大胆なるこの表現とに
「ほう。そのわけは……」
「つまり、ゼムリヤ号が発狂してこんな山頂にとびあがった――というよりも、もっとスケールの偉大な物凄い事件だよ。発狂した者がありとすれば、その当人は一ゼムリヤ号ではなく、もっとでかいものだよ」
「ふふん。じゃあ、一体何が発狂したというのかね」
「そのことだが、僕なら、こう命名するね。“地球発狂事件”とね」
「なに、“地球発狂事件”? 君は、地球が発狂したというのかい、この巨大なる地球が……」
「そうなんだ。地球が発狂したのでもなければ、この一万数千トンもある巨船が、標高五千十七メートルのヘルナー山頂に噴きあげられた理由が説明できんじゃないか。もちろん地球が発狂したといっただけでは完全なる説明にはなっていないが、とにかく常識破りのこの怪事件のばかばかしさというものは、地球が発狂したとでもいわないかぎり、そのばかばかしさを伝える表現法が見付からない。そうは思わんかね、君は……」
「それは大いに思う。しかし……しかし、何だか僕の頭が変になって来るよ。地球発狂の次に、ハリ・ドレゴの発狂が起りそうだ」
「ははは、世界第一の報道記者がそんな気の弱いことでどうする、さあ、そのへんで、とにかくその第一報を全世界へ向かって送ろうや」
ハリ・ドレゴの発した“巨船ゼムリヤ号発狂事件”の第一報は、果して全世界に予期以上の一大衝撃を与えた。
この報道を受け取った新聞通信社の約半数は、この報道内容の常識逸脱ぶりを指摘して、報道者ドレゴの精神状態が正しいかどうかにつき疑問を持ち、報道をさしひかえた。これはこの事件が
世界各地の通信機関と調査団とが、ヘルナー山頂に続々と集まってきた。そういう人々の手によってやたらにキャンプが張られ、郵便所が出来、テレビジョンやラジオの放送塔が建てられた。それから簡易食堂や酒場や娯楽場までが出来て、あまり広くもない山頂一帯は、まだ火の手をおさめないゼムリヤ号を中心として、急設文化都市の出現に、もうキャンプ一戸分の余地も残さないようになってしまった。
どの通信社も、始めに派遣した団体のスケールでは、この大事件の報道には十分でないことが判った。そのことが判ると、彼らは本社へ向って、もっと強力な調査機関を備えた第二班の出動を請求した。しかし第二班が到着してみると、そのときには更に一層強力なる第三班の急派を打電しなければならない有様だった。それというのも、発狂したゼムリヤ号の火災は一向下火になる様子がなく、
そうなると、調査方針は自然変更されねばならなかった。今度は積極的に消火することに狙いが置かれた。今盛んに燃焼している部分を完全に消し留めることによって、これから先燃焼するであろう物件を助け出し、それによってゼムリヤ号の搭載荷物とか遺留物品を点検して何かの新しい手懸りを得ようとするのであった。そのためには、更に大掛りな機械類の現場到達を本社へ向けて要請しなければならなかった。
このような大掛りな調査競争となったために、ハリ・ドレゴや水戸宗一の役割は、すこぶる貧弱なものに
「これから、どうするかね、水戸」
野心
「うむ、ジム・ホーテンスの説に傾聴するんだな」
さっきから水戸は、
「ジム・ホーテンスって、アメリカのCPの記者のことか。あの背の高いそして口から煙草を放したことのない……」
「そうだ、あの
「水戸。君はホーテンスと話をしたんだな」
「うん。僕はどういうわけか、ホーテンスから話かけられてね、かなり深く本事件について意見を交換したんだが……」
「で、結論はどうだというんだ」
ドレゴは、せきこんで聞いた。
「……ホーテンスは、さすがに
「あのゼムリヤ号はソ連船かい」
「そうだ」
「なるほど、僕はそういう大切なことを調べないでいたわけだ。そしてホーテンスは、ゼムリヤ号について目的を達したかね」
「残念ながら、今朝までのところはね」
と水戸は
「おい水戸、これからホーテンスに会おうじゃないか。君は僕を紹介するのだ」
だが、水戸は首を左右にふった。
「ホーテンスは、今この山にいない」
「えっ、ここにいない。では何処にいる……」
「あそこだよ」
水戸は下界を指した。それは彼らの古巣であるオルタの町だった。町は、ここから見ると、フライパンの上にそっくり
まもなく
彼は、マハン・サンノム老人の経営する素人下宿に住居しているのだった。
サンノム老人は、神のように心の広い人で、元は船長であったそうだ。夫人も死に、子供は始めから無く、今は遠い親戚に当たるエミリーという働きざかりの婦人にこの家を切り盛りさせている。なお、この家には佐沼三平という中年の日本人がいて、手伝いの役を勤めていた。水戸がこの家へ下宿するようになったのも、この三平が
この家における目下の下宿人は、水戸の
水戸の計画した晩餐会は大成功であった。ドレゴが喜んだことは勿論のこと、ホーテンスもいつになくよく
すっかりいい気持ちになったところで、話題は例の巨船ゼムリヤ号の発狂事件に入っていた。
水戸は、ドレゴがホーテンスが調査したことの詳細を知りたがっていると述べると、ホーテンスは、
「よろしい、ではこの好ましき仲間のためにもう一度それを述べよう、今日握った新しい事実も加えて……」
といって気軽に語り出した。
「水戸君には話しておいたことだが、あの怪汽船ゼムリヤ号はソ連船なんだ」
と、ホーテンスは語り出してドレゴの顔を見た。ドレゴは血色のいい顔で肯いて、それは聞いて知っていると応えた。
「ほう、知っているんだね。よろしい、ではそれから先の資料だ。水戸君も愕くことがある筈だ、なぜといってこのゼムリヤ号は、調べれば調べるほど、なかなか興味ぶかい船だからね」
水戸が酒壜を持ってホーテンスの盃に
「有難う。まず君達を喜ばせるだろうと思うことは、あのゼムリヤ号は最新鋭の
「砕氷船! そうか、砕氷船か」
聞き手の両人は、目を
「それも並々ならぬ[#「並々ならぬ」は底本では「並々ならね」]新機軸を持った砕氷船なんだ。この船は、外部から氷に押されるとだんだん縮むのだ。船の幅で六十パアセントに圧縮されても沈みも壊れもしないで平気でいられるという凄い耐圧力を持った砕氷船なんだ。こんな新機構の船が今までに考えられたことを聞かないね」
「ふうん、凄い耐圧力だ。それだけの圧縮に平気なら、氷原でも何でもどんどん乗り切って行くだろう」
と、ドレゴは
「で、そういう事実を、君はどこで発見したのかね、ホーテンス君」
「そのことだ。僕は、怪船ゼムリヤ号の身許を知ることが、この事件の解決の近道だと思ったので、
そういってホーテンスは大きな溜息をつき、ぐっと一ぱい酒をあおった。
「努力が酬いられたのだ。神は常に見て
水戸が誰にいうともなく
「その雑誌の中に、今君がいったゼムリヤ号は六十パアセントの圧縮に耐えると記されていたのかね」
「そのとおりだよ、ドレゴ君。君もゼムリヤ号の特殊構造には興味を感じるだろう」
「全く、大いに感じる。第一、そういう凄い耐圧力を持たせるには普通の鋼材では駄目だね。何という材料かなあ」
「そのことは雑誌に少しも記されていない。だが我々は近き将来において、その材料のことや構造のことをはっきり知ることができるだろう。焼け落ちたとはいえ、その資料はヘルナー山頂に横たわり、今も我々の監視下にあるんだからね」
ホーテンスとドレゴは、新鋭砕氷船の特質につき大きな興味を沸かしているのだった。
「一体砕氷船というものは、そんなに強い耐圧構造を持っていなければならないものかね」
水戸が、疑問をなげかけた。
「さあ、それは強ければ強いほどいいだろうが、それにしても少し
と、ドレゴが、寒帯住人らしい自信を持っていい切った。が、ホーテンスが、別の見解を
「だがねえ、仮にゼムリヤ号のような砕氷船が百隻揃って北氷洋や南氷洋に出動したと考えて見給え。そうなると極寒の海に俄然常春が訪れるじゃないか、漁業や交通やその他いろいろの事業に関して……」
「ほう、これは面白い想定だ。ううむ、そして実現性もある」
「だが、僕はそう思わないね。ゼムリヤ号があのような強い耐圧力を持っている理由はもっと外にあるような気がするよ」
「というと、どういう意味かね、ドレゴ君」
「それは……」といいかけたドレゴは、後の言葉を
ホーテンスは、ドレゴの意見を聞きたがった。が、ドレゴは、
「いや、もう少し慎重に考えてから、
と、いつになく尻込みをして、煙草の煙をやけにふかすのであった。水戸はちょっと心配になった。ドレゴのそういう態度が、折角今夜この招待に応じたホーテンスの気持をここで悪化させないかを
「話はまだその先があるんだよ、君たち」とホーテンスは煙草に火をつけ、「さっきから述べてきたゼムリヤ号の正体を僕が発見して本社へ報告したところそれから間もなくゼムリヤ号の行動についての
とホーテンスは腕組みをして、二人の同業者の顔を見渡し、
「……事件の日から三週間前のことだが、ゼムリヤ号に相違ないと思われる汽船が、フィンランドの北岸ベチェンカ港外に現われたことが分ったのだ。ゼムリヤ号は沖合に碇泊し、港内へは入らなかったが、傭船を以て給水を受けた。そして三時間後には
「ふうん。一つの有力なる
「ところがさ、ゼムリヤ号の消息は、それっきり知られていないのだ。つまり事件の発生した日までの三週間に亙る行動は全く不明なんだ。そこでこういう説が行われている。ゼムリヤ号は、或る予期せざる
「僕はそうは思わない」ドレゴが途中で口を挿んだ。
「ゼムリヤ号が北極海からこのアイスランドへ飛来したという説は、全く事実に反するものだ」
「なに、事実に反するって。それは面白い。君は早速それについて説明をしてくれるだろうね」
今度はホーテンスが聴き手に廻る。
「ああ、是非聴いて貰いたいね。つまりこうなんだ。僕の結論を先にいえば、ゼ号は南方からこの島へ飛来したのだと思う。いいかね、南方からだ。君のいうように北方からではない。そしてそれには歴然たる証拠がある」
「ほう、全く正反対の説だ。で、その歴然たる証拠とはどんな事だ。そしてその証拠はどこにあるのかね」
「その歴然たる証拠物件は、何を隠そう、実は吾輩の寝室にあるんだよ。はっはっはっ」
ドレゴはそういい切って
「なに、君の寝室に……」
ホーテンスは目を丸くした。
「そうなんだ。事件の当夜、あの事件の発見に先立つこと数時間前、水戸も知っているとおり僕はあの夜泥酔していて
「聞いているとも。実に素晴らしい話だ。先を続けてくれたまえ」
ホーテンスも前へ乗り出して来た。
「それから僕は、この手斧がどこから部屋の中へ飛込んだかを確かめようと思ったさ。それは苦もなく分った。何故って、寝台の南側の窓のカーテンが一個所大きく、引き裂かれていたではないか。疑いもなくゼ号の手斧は南の窓から飛込んでカーテンを裂き、それから北側の壁の額縁にぶつかったんだ」
「なるほど、なるほど……」
「その手斧は、飛びつつあったゼ号からこぼれ落ちたものに相違ない。
ドレゴが語り終ると、ホーテンスは昂奮のあまり椅子からとびあがると口笛を吹いた。
「ほう、素晴らしい。
と、ホーテンスは盛んに手をふりながら叫んだことである。水戸は椅子の中に深く身体を沈めて、じっと考えこんでいる。
二人の若い記者の小晩餐があった翌日、ホーテンスはドレゴの邸宅を訪ね、彼の寝室の南のカーテンの裂けているところや壊れて真二つになった額縁や、そういう暴行を演じたゼムリヤ号の手斧などを見せて貰い、ドレゴの主張する南方飛来説が十分根拠のある訳を再確認したのであった。
「君の寝室は重大なる手懸りとして大切に保存せらるべきだ」と、ホーテンスは言葉を強めて云った。
「君の寝室はこの事件に関して僕の立てていた推定を根底から引繰り返してしまった。ゼ号は北極海からではなく大西洋方面から飛来したという事実を中心として、更に多くの資料を集めないことには、この怪事件は到底解決できないだろう。われわれは一層協力しなければならぬ」
そういって、この
この事件が発見された当時は各紙とも、この問題の解決に殆ど無能力に見えた。なにしろ一万数千トンもある巨船が、海抜五千米のヘルナー山頂へ
しかし、ドレゴの選んだこの事件の題名も、そばに
如何にこの事件の謎の解決が困難であるにせよ、時間の経過は、この事件の解決案を要求してやまない。全世界に亙る読者と聴取者とは、日の経つに従って焼けつくほどの熱心さを以てそれを新聞社や放送局へ求めるのであった。求められた方では全く弱ってしまった。そこで少しでもこの謎について発言して
この困難な解決案の収集において現われたものを分類すると、
この説によると、その事件の当時、某国が秘密裡に某海域においての実験を行ったのであるが、ゼムリヤ号は不幸にしてその実験現場附近を航行していた。そのために原子爆弾の巨大なる爆風に吹き飛ばされた結果、あのようなことになったのであろうというのである。この説は、四種類の答案中最も現実性を帯びているために、日と共に有力となっていった。と同時に、世界に第二の原子爆弾製造国が現われたのかも知れないという点で、原子爆弾の偉力に常に
このことについて更に一層人々の関心を高めたものは、世界における原子エネルギー学の権威として知られているワーナー博士の発言であった。博士は研究室において意見を発表して
「ゼムリヤ号を高山
と述べたのであった。
二つの台風の中心が双方から近づいて一つに合体し、更に一層猛烈な新台風を作ったかのように本事件は大沸騰を始めたのであった。そして、第二の原子爆弾製造国が現実に現われたかのように思い込んでしまう人々が多くなったばかりか、その製造工業に成功した某国とは一体何処なりやという点について熱心な論議が行われるようになった。
だがこの論議は、その影響するところの重大性に
しかるに別途、一つの疑惑に火がつけられた。それは、ゼムリヤ号がソ連船であり、そして驚異の性能を持った新鋭砕氷船であり、その行動も事件発生の三週間前から
そういう最中にソ連側の釈明が、ようやくにして公表されるに至った。その釈明は非常に簡単で、次のようなものであった。
“ゼムリヤ号は赤洋漁業会社の要求によりマルト大学造船科が設計した世界一の新鋭漁船である”
かかる世界に誇るべき国宝級の船舶を何故に我国は自らの手を以て破壊するであろうか、また同船の乗組員は船長以下、国賓級人物を以て組織せられていたが、かかる人物を全部何故に自ら
「僕はてっきりそうだと思っていたがね。だから僕は前にホーテンスにそのことをいいかけて、
ドレゴがいった。水戸は黙って肯いた。
「おや、君は何か別の意見を抱いているのかね」
ドレゴが、水戸の硬い面を凝視した。
「いや、僕は始めからあの国を疑ぐりはしなかった。しかしあの国は何故“ゼムリヤ号は当時
そういって水戸記者は、静かにドレゴの面を
「おお、可愛想な東洋の哲学者よ、何故君はそんなに懐疑を恋人として楽しむのかね」
それを聞いて水戸ははっと顔を硬くした。が、すぐさま元の何気ない表情に戻って、
「これは哲学ではない、事件真相の探究だ。悪くいっても推理遊戯の程度さ」
水戸は軽く笑って、冷たいコーヒーを飲み干した。
「そうかねぇ、それにしてもあの事件の真相だが、原子爆弾の実験説を支持するとして
「待ち給え!」と水戸は小さく叫んだ。
「この事件は原子爆弾には無関係だよ。何故そういうか。これは現在の僕の力では十分に確かめるわけに行かなくて遺憾ではあるが、とにかくこの事件は従来地球上で信じられている法則を破っている点に注目したい」
「すると結局かねて君の自慢の命名、“地球発狂事件”に
「真面目な話だが、僕は思うのに、この事件を解くには、ヘルナー山頂のゼムリヤ号にたかっていたのでは駄目で、
「はははは、大きなことを云うぞ、君は。おい水戸、誰がそんなことを実行に移すだろうか。大西洋は広く且つ深いのだ。全域に亙って探すということになれば一年懸るか二年懸るか分らない」
「いや、それには
「ふふふふ、すごい
と二人が盛んに論じ合っている
「おう、ドレゴ君に水戸君」
「やあホーテンス君だよ」
「へえ、そうかね、何事だい」
「一つの機会が、今君達の前にある。どうかね、これからワーナー博士の調査団に加わって一週間ばかり船旅する気はないか」
「ワーナー博士って、あの原子核エネルギーの権威であるワーナー博士のことか」
と水戸は、せきこんで
「そうだよ」
「ふうん、すると大西洋の海底を
「ほう、よく知っているね」
「ぜひ連れていって
水戸は何時になく昂奮して叫んだ。
その朝、オルタの港へ、一隻の奇妙な恰好をした船が入って来て、町の人々の目をみはらせた。いやに四角ばった殺風景な船で、甲板の上には
掃海船サンキス号だった。
掃海船とはいうものの、この船は水上機母艦と同じ役目もやってのけた。町の人々は怪飛行機が橋桁の上にのっているのを見つけた。それがばっと煙をあげて、いきなり船を放れたのには驚いた。続いて大砲を撃ったような音が聞え、その船はカタパルトを持っていたんだと始めて気がついた者もあった。
この掃海船サンキス号こそ、ワーナー博士調査団の用船だった。
ジム・ホーテンス記者は、ドレゴと水戸とを伴って乗船した。そして前甲板の喫煙所で団長ワーナー博士に二人を紹介した。
博士は白髪赭顔の静かな人物だった。
「おおドレゴ君。ゼムリヤ号事件の発見者たる名誉に輝くドレゴ君ですね」
博士は目をぱちぱちして、ドレゴの手を握って振った。ドレゴは、少女のように
水戸も丁寧な礼を博士に捧げた。
「まあお掛けなさい。間もなく出港ですから」
博士の言葉に、四人は籐椅子の上に落着いた。博士はパイプを
「ゼムリヤ号事件については原子爆弾説が圧倒的だった中に、水戸君はワーナー先生と同様に、大西洋にゼムリヤ号事件の鍵があると主張して断然異説をたてていた人です」
と、ホーテンスは博士に紹介した。
「それは愉快だ。で、大西洋についてどういう予見を持っておられるかな」
博士の問いに、水戸は何かを応えなければならなかった。
「私の説は、まだ証拠がないのですから、大した価値はありませんが、推理としてはゼムリヤ号があの事件当時居た大西洋で、まさか原子爆弾の実験が行われる筈はないと思ったからです」
「なるほどそれは同感だ」
「それにゼムリヤ号を山頂にまで吹飛ばした巨大なる力はもちろん原子核エネルギーを活用すれば得られますが、しかし原子核エネルギーは今のところ爆弾の形においてしか存在しません。で、原子爆弾を使ったとすればゼムリヤ号の船体はヘルナー山まで飛ぶことは飛ぶが、あのように船体が中程度の損傷で停っている事はないと思うのです。つまり原子爆弾の力によるものならば、吹飛ぶ前にゼムリヤ号の船体はばらばらに解体していなければならんと思うのです」
「それは卓見だ。どうぞ、もっと君の意見を聞かせてもらいたいものだ」
博士は、水戸の説に傾聴を惜しまなかった。が、当の水戸は、そこで
「……たったそれだけの事なんです。お恥かしい次第ですが……。で、とにかく大西洋をよく調査すれば何等かの新しい手懸りが得られるんではないか、といったわけです」
と水戸が新聞記者らしい率直さでぶちまければ、博士は真面目な顔で
「それで先生の御見込はどうなんですか」
と水戸が
「そのことだがね」と博士はいって、パイプに新しい葉をつめ、ライターで火を移したのち「これはまだこの事件に関係があるかどうか分らないが、僕が某観測所から得た報告によれば、最近大西洋の海底に小地震が
「ははあ」
三人の聴手は傾聴している。
「そしてね、最も興味あることは、異常地震が始めて記録されたのが、例のゼムリヤ号事件の起った日に極く近いのだ」
「それは面白い、どっちが早かったのですか、同じ日じゃなかったんですか」
水戸は昂奮して、思わず途中で口を挟んだ。
「同じ日ではなかった。異常海底地震の方が五時間ほど前に記録されているんだ」
「五時間前! すると前日の十九時から二十時の間ですね」
「そうだ。詳しい時刻は十九時三十五分と記録されている」
「五時間も喰い違いがあると合わないなあ」
水戸は呟いた。
「何が合わないって、水戸君」
ホーテンスが傍から訊ねた。
「いや。つまりその異常海底地震を起したものによってゼムリヤ号が吹飛ばされたと仮定すると、この時刻がきちんと合わなければならないという話さ。いま先生に伺えば、時刻が違っているんだから、これは成立たないと分った……で先生は、それでどうお考えになったのですか」
博士は何事かの考えに注意を奪われていた様であったがこの時、われに返り、
「おお、そのこと。その異常海底地震を、この船で詳細に調べて見たいと決心したんだ。さて海底に何事が起りつつあるか、何物が存在しているか甚だ興味のあることだ」
と、博士は火の消えたパイプを強く吸った。
サンキス号は、アイスランドを後にして、一路南下していった。航海は快適だった。翌朝になると、もう既に気温が五度ばかりあがっていた。海水も大西洋らしい青味を帯びた色に変った。
ドレゴと水戸は、船の
「どうしているかなあ、ヘルナー山の上の記者たちは……」
望郷の念に駆られたらしい、ドレゴがこんなことをいった。
「もう火災も消えたから船の中へ入って、さかんに
「ふふむ。いい手懸りの品物が見つかるだろうか」
ドレゴは、こっちへ来て失敗したかな、ヘルナー山頂にいた方がよかったかなと、ちょっと動揺した。
「なんの、大したものは有りはしないよ。結局において彼等もまたこの大西洋へ後から追駆けてくることになるのさ」
水戸は、そのことに信念を持っているようだった。
「なぜ、そう思うんだね」
ドレゴは、まだ思い切れないらしい。
「だってね、そもそもゼムリヤ号はあの事件の被害者なんだから、船内を探してみても何にも有りはしないよ。参考になるのは、被害程度だけだ、それなら、われわれが外から見た結果と大した変りはない筈」
「ふうん。だが、原子爆弾の破片でも船内に残ってはいないかな、放射線をすごく出すやつがね」
「呆れたね、君は。ドレゴ記者は、まだ原子爆弾説を堅持しているのかね」
「そんな大きな眼をして僕を見詰めるなよ」
とドレゴは恥かしそうに笑い、
「実をいうとね、僕は君の説である所の原子爆弾反対説になるべく同意したいと努力していたんだがね、ところがだ、この船に乗る直前、うちの爺やのガロが、僕のところへサンドウィッチの包といっしょに一通の手紙を持って来たんだ」
「ほう。それで……」
「その手紙の文句というのが、こうなんだ、――君は君の寝室へ飛込んだゼ号の手斧に放射能物質が付着しているかどうか確かめたことがあるだろうか、もし君がそうした注意を怠らなかったとしたら、君は今日サンキス号の客になりはしなかったろう、君の崇拝者より――というのだ」
「へえ、そいつは愕いたね」
水戸はドレゴの顔を改めて見直した、この友は、このことをなぜ二日間も黙っていたのだろう。
「で君はどう思う」
「そういわれりゃ僕も手落があったよ」
と水戸は手斧に放射能物質が付着しているかどうかを調べようとはしなかった点に手落のあったことを認めた。
「だがね、いつもいうことだが、そんなことは本事件の中の末梢部分なんだ、どっちでもよい、いや僕は恐らく手斧に放射能物質は付着していないと思う、それよりも問題として捨てておけないのは、その手紙を寄越した『君の崇拝者より』というやつだが、一体誰だね、君の崇拝者というのは」
「さあ、さっぱり見当がつかないよ。全文タイプでうってあるしね」
「その手紙、持っているかい」
「うん、ここにある」
ドレゴは、ポケットから皺くちゃになった封筒を引張りだして、水戸に見せた。
水戸は、それを拡げて見ていたが、やがてにやりと笑って、それをドレゴに返した。
「この手紙を書いたのは女だよ」
「へえ、女か、どうしてそれが分る」
「とにかく女だと分る。しかしこの警告は、果してこの女から出たか、それとも他に糸を引張っている者があるかどっちか分らない。それはそれとして、われわれは今まで少し
水戸は、そう言ってドレゴに警告した。
「おお君たち、わが艦隊の勢揃いを見て愕いたですか」
背後から声をかけられて、ホーテンス記者がやって来たのだと気がついた。
「わが艦隊?」
ドレゴが目を丸くした。
「ああ、あれだ。駆逐艦らしきものが三隻、こっちに潜水艦が二隻……」
水戸は数えた。
「そのとおり。われわれはこの調査の遂行に万全を期している。用意は周到である。しかし君たちは、あまり
ホーテンスがそういった。ドレゴと水戸とは共に頭を左右に振った。
「もう調査は始まっているの」
ドレゴが訊いた。
「観測はもう始まっている」
「何か手懸りになるようなものが出ましたか」
と、水戸がたずねた。
「いや、まだまだ。異常海底地震帯へ本船が入るのは、今から三時間後だ」
「三時間後。ほう、もうそんなに現場へ近づいているんですか。本船は[#「本船は」は底本では「本舟は」]トップ・スピードで走っているんですね」
護衛艦に周囲を守られた調査船サンキス号は、一路問題の地震帯へ急行している。果してその現場にどんなものが待っているだろうか。
船室の連絡用拡声器から、警報ブザーの音が気味わるく響いた。乗組員たちは、それぞれの胸に、どきんと不安な衝動を感じた。
「あと十五分で本船は問題の異常海底地震帯へ突入する。乗組員全部は、只今から警戒配置につけ」
南下中の掃海船サンキス号は、俄然緊張した。船橋には船長以下の硬い顔が並んで見える。その羅針船橋より一段高い無電室が、調査団の部屋に用意されてあったが、そこには団長ワーナー博士を始め有能なる研究員たちが、めいめいの観測装置にぴたりと寄添って、さてこれから如何なる異常現象が計器の面に現れるかと、軽い
ドレゴ記者も水戸記者も、ホーテンスと同じようにこの部屋に詰めていた。三人の記者たちはその隅に
「マイナス一分三十秒。……マイナス一分二十秒。……マイナス一分一秒……」
時計係は、自記航海図と時計とを見較べながら、刻々と迫り来る重大時刻について警告を続けた。
誰も余計な口を聞く者はなかった。団長ワーナー博士は胸に下っている小さい送話器を握りしめたまま、微動もしなかった。この送話器は、船橋に通じていて、もし本船の安全を
「……マイナス十秒……」
ドレゴ記者は緊張のあまり窒息しそうになり、ネクタイをぐいと引張って
「今だッ!」
時計係の声は、咽喉から血が出るような声で叫んだ。
大きな鈍い音が起った。
「あ、やられた?」
ホーテンスも、それに気がついた。そして二人の記者はドレゴの傍に膝をついた。
ドレゴは知覚がなかった。水戸は烈しい不安に捉われた。彼はドレゴを仰向かせると、オーバーの胸をひろげ、服やチョッキの
「おお、気がついた。どうした。何かあったか」
「しっかりしろ、ドレゴ。何か物をいえ」
二人の同僚は、心配と商売意識との両方に駆られ、ドレゴに顔を寄せた。その二人の鼻へ、ぷんぷんとアルコールの匂いが……。
「なあんだ、……」
「水はないか。目が廻ったんだ。咽喉がひりひりする」
「それだけか」
「おお水戸。異常現象らしいものが何か起ったね。どうだ」
「ふうん。冗談じゃないよ。てっきり君がその異常現象に喰われたと思ったんだ」
「莫迦をいえ。僕はそんなものに喰われるような間抜け男じゃない」
「いずれにしてもだ。こういうときはあまりアルコールを呑み過ぎるものじゃない。下手すれば脳溢血で、あの世へ急行だぞ」
「同感だ。水戸に同感」
ホーテンス記者が、とどめを刺すようにいった。
それを以てドレゴの卒倒事件は
「……」
研究員たちは、林の如く静かであった。先刻以来、石のように固くなって微動だにしない様子だ。ドレゴの卒倒事件にさえ誰もが気がついていないと見える。
ドレゴは起上って、隅っこの安楽椅子に自分の身体を投げこんだ。それをホーテンスの眼が抗議するように
「ホーテンス君。博士たちは何かを掴んだらしいね」
と水戸は、彼の胸を引いた。
「うん。何を掴んだかな」
そういったホーテンスは、つかつかと博士の傍へ歩み寄った。
「博士。何があったのですか、地震はどこに現われていますか」
「
博士は、ホーテンスの方へは振返らないで、自分の唇に人指し指をあてた。
「失礼しました……」
ホーテンスは悪びれず謝罪してから、水戸の方へ手をあげて合図をした。
水戸は肯いて、極度に足音を立てないように注意して、ホーテンスの傍へ寄った。
何事も未だ起っていないようだ。だが、
博士が
息詰まる緊張の幾秒が
しかし想像したような愕くべき何事も遂に起こらないように見えた。記者団の緊張が
と、その時だった。ワーナー博士が鋭い叫び声を発した。
「おお、異常の力の場に入った!」
博士の声と共に、各観測装置の計器の針は一斉に大きく揺れた。それは計器が
三人の記者たちは、困惑の絶頂に放り上げられていた。非常に愕くべき出来事の真只中に今自分たちが置かれているのだ。しかもその愕くべき出来事が一体何事であるのか、それがさっぱり分からない。
博士に聴きたい。そう思って博士の方を見るが、当の博士は、器械類の間を猟犬のように敏捷に縫いまわり、早口にしきりに部下を指揮している。だから話懸ける隙もないのだった。
「何事が起こっているのだろうね、ホーテンス」
ドレゴは酔いも醒め果てて、アメリカの記者の腕を揺すぶった。
「分らない。しかし博士が予期していた以上の驚愕にぶつかっていることは事実だ」
やがてこの調査団室の風が
「何事が起こったんですか、ワーナー博士」
ホーテンスが、待ち兼ねた質問の矢を放った。
「煙草を、誰か……」
博士が記者の方を見た。水戸が、ケースを博士に差し出した。そして博士の指に摘まれた紙巻煙草の一本に、ライターの火を移した。博士は、
「予想以上に奇怪なる海底地震にめぐり合ったのだ」
博士は、夥しい紫煙の中から、そういった。
「ほう。でも、われわれは自分の身体に地震を感じませんでしたがね」
水戸が早口に言葉を挿んだ。
「もちろん計器の上に感じた地震だ。すごい伝播速度のものだ。秒速二千四百キロメートルを観測したよ」
「なるほど、普通の地震の場合の三十倍以上の高速ですね」
「ふうん、君は勉強しているね」と博士は水戸の顔を見直していった。
「伝播速度だけの異常ではない。その他、波動法則にも普通の地震に見られない異常性が認められる。殊に合点のいかないのは、それに続くべき余震らしいものが発見できないことだ。もっとも、もっと時刻が経って起こるのかも知れないが、それにしても、もう相当時間が経っているんだから変だ」
ワーナー博士は、自ら観測した結果について、休みなく語り続け、博士の指にある煙草が幾度となく消えたが、水戸はその度に、ライターを
「で、地震は今どうなっているのですか」
ホーテンスが訊いた。
「今ちょっと落着き状態にある。とにかく敏感な計器は皆針を飛ばしたりなんかしたので、この間に次の観測の準備をしなければならない」
博士は、研究員たちの忙しそうな姿へ目をやった。
その後にも引き続いて起こるかと思われた海底地震が、予想を裏切って一向に起こらなかった。また余震が全然観測されなかった。
「変だね、あれだけの顕著な地震に余震がないなんて……」
と水戸は呟いた。
「余震がないということはそんなに怪しむことかね」
ドレゴがパイプを口からもぎ取って、目を
「そうだろう。地震には余震が付きものなんだから……」
「そうかね。僕には、ぴんと来ないがねえ。何かもっと目に見える派手な事件でも、起こって
ドレゴが誘ったので、水戸記者もそれに応じて、この無電室を出た。
「護衛艦たちは、いやに遠くへ離れちまったねえ、水戸君」
「うん、観測の邪魔にならないように、本船の間に相当の距離を置いたんだろう」
「そうかなあ。あれは駆逐艦らしいが、いい格好だねえ。おや、どうしたッ。変だぞ、あの艦は……」
ドレゴの声が驚愕に変わった。彼が指した方には海面からふわりと煙のように持上がる黒い固まりがあった。それは紛れもなく艦らしい形をしていた。が、突如として真赤な閃光に包まれると見る間に、天空に四散した。
怪また怪! 第二の怪事件起こる。
意外なる第二の怪事件突発に調査団員も護衛艦隊の乗組員も共に、大驚愕のうちに生色を失った。おお、吾々は気が確かであろうか。吾々は夢を見ているのではなかろうか。夢でなければ今我々は生命の危険に
その中に、さすがワーナー博士は誰よりも落ち着きを保持していた。博士は、サンキス号の観測室から、同じ船に坐乗している護衛艦隊の司令ペップ大佐に対し、適切にして明快なる指令を発した。
「ペップ司令、われわれは即時トップ・スピードでこの海底地震帯から脱出しなければならぬ。但し駆逐艦二隻は、しばらく現場に停り、不幸なる駆逐艦D十五号の遺留品を出来るだけ多く収容したのち、速やかにわれわれの跡を追うように
この指令を、高声器から受取った司令ペップ大佐は
「
二分間ほど間をおいて、ワーナー博士のところへ司令から報告があった、司令は博士の指令を実行に移したと。その頃にはサンキス号も
三人の新聞記者たちも、それぞれの形態でこのすさまじい戦慄の空気の中に息を停めていた。ドレゴは水戸にすがりついて震えていたし、水戸は水戸で火の消えた煙草をしきりに吸いつつ硝子戸越しに泡立つ海面へ空虚な目を停めていた。ホーテンスは拳をこしらえて彼の頸のうしろをとんとんと忙しく叩きながら、わけも分からぬ言葉を繰返していた。誰も気が変になったように見え、或いは生ける屍のようにも見えた。
白髪
「われわれはもう危機を脱した。心配することはない。あと五分で、みんな配置から解放される。――記録だけは大切に保管して置くのだよ」
博士のこの言葉に、期せずして一同の口から大きな溜息がとび出した。が、誰もまとまった言葉をいう者がなく、聞こえたのは呪いの声だけであった。
真先にワーナー博士のところに近づいたのはホーテンスだった。続いて水戸がドレゴの腕を押しながら、それに加わった。
「団長、ありゃ何です。今のあのすごい爆発はどうして起こったのですか、あの駆逐艦の失態ですか、それとも――それとも異常海底地震の禍いですか、まさかそうではないでしょう、では何とあれを説明しますか」
平常のホーテンス記者の冷静がどこかへ隠れてしまっている、彼は大きく
「さあ、今は分からないという外あるまいね」と博士は首を左右に振った、「だがたいへん幸運な収穫だ、われわれは、第二の怪事件を、自分の目で
「それはそうです。しかし博士あの爆発事件について、どういう感想を持たれますか。例えばあの事件とゼムリヤ号の間にどんな関係があると考えられます」
ホーテンスは猟犬のように迫った。
「それは興味ある問題だ」博士は肯いた。
「それがはっきり分かるときは、ゼムリヤ号事件も先刻の事件も共に解けるだろう。が、わしの手許には、まだこの問題を解くべき何の因子も集まっていない。むしろ……そうだ、むしろ君がたの意見を聞いて参考にしたいくらいだ」
博士は、あべこべに問題をホーテンスの方へ押しやった。
ホーテンスは、うむと
「僕の感じたところでは、さっきの駆逐艦爆発事件はゼムリヤ号事件よりもっと楽に解ける事件じゃないですか。僕の見たところで、まさか、さっきの事件は明らかに原子爆弾の攻撃によるものだと思いますよ。艦体が海面からもちあげられ、そして火焔に包まれ、それから煙のようになって四散し、天へ昇っていきましたからね。だからあれは海中で原子爆弾の攻撃を食ったのに違いありませんよ。ゼムリヤ号の場合はそれとは違うと思われる。だから両者は別物ですよ」
ホーテンスはここで言葉を停めて、博士の顔色を窺った。博士はちょっと眉の間に
「僕は同じ原因から起こったことだと思いますがね」
水戸記者の声だった。ホーテンスはふり返って水戸を認めると、笑いながらもっと前へ出て喋れと合図をした。水戸記者はホーテンスと反対の意見だが、何を考えているのであろうか。
「水戸君の説は、どうなんだ」
ワーナー博士はパイプに新しい煙草を詰めながら、東洋の記者の面に
「毎度のことながら、僕の説には、はっきりとした證拠の裏附けがないのが遺憾です」
と水戸は本当に残念そうな顔をした。
「が、二つの事件は同一手段によったとしか考えられません。もちろんさっきの事件も、原子爆弾によるものとは思われない」
「なぜ原子爆弾でないというのかね」
「ホーテンス君。君だってその点については充分疑問を持っているのではないかね。もしあれが原子爆弾だとしたら、いくら水中での爆発にしろ、あの駆逐艦D十五号だけがあんなにひどく損傷して粉砕したばかりか全部が気化してしまうことはないだろう、恐ろしい力だ。それにも
水戸はここでちょっと言葉を停めて、博士の顔を見た。博士は軽く肯いてみせた。
「そうはいったが、ゼムリヤ号の被害状況と駆逐艦D十五号のそれとは非常に異なっている。本事件の怪力の攻撃を受けてD十五号があのとおり粉砕気化するものなら、なぜゼムリヤ号は粉砕気化しなかったのか。明らかに二つの事件には相違がある。これが僕の同一原因説なんだよ、水戸君。だからこそ僕は新しい原因説を出した」
ホーテンスは熱心に水戸を見詰める。
「ところがねホーテンス君。これは博士に笑われると思うが僕は一つの仮定を置いたのだ。その結果、二つの事件に同一原因説を敢えて圧しつけているわけだが、つまりこうなんだ、その仮定というのは――」
「ふう」
「……同一原因による力が働いたんだが、その原因物と被害物体との距離にかなりの相違があったため、その結果である損傷程度に著しい相違を生じた――こう考えてはどうだろうか。つまりゼムリヤ号事件のときはその怪力源が相当遠くにあった。しかし駆逐艦D十五号の場合はずっと近くにあった。そう考えることはいけないだろうか」
水戸の説は大胆極まるものであった。そうしてここに論ぜられたもの以外にも多くの欠点を有していた。しかし彼は敢えて同一原因説を唱え、そして一見無理と思われる解釈を試みたのだった。なぜ彼はそんな無理を強行するのであろうか。
「君の説は興味深い」
ワーナー博士が突然口を開いたので、その周囲に集まっていた人々は愕いた。まさかそんな讃辞が博士より聞けようとは期待していなかったからである。だが水戸はひとり、
「博士は水戸の説に賛成なさるんですか」
ホーテンスは
「まだ賛成はしておらぬ」と博士は明らかに否定し「だが今の水戸の説により、わしは一つのヒントによって、わしは最近の機会に一つの冒険を決行するよ」
「冒険ですって」
ホーテンスを始め皆は愕いた。水戸も愕いた一人だった。
「そうだ、冒険だ、わしは準備の出来次第、その冒険を決行するつもりだ、何しろプログラムに全然なかったことを、水戸君から得たヒントで行くんだから、少々手数がかかる」
「先生その冒険というのは、どんなことですか」
ドレゴが沈黙を破って、前へ乗出した。[#「。」は底本では「、」]
「
「えっ、海底へ博士が御自身であの潜水服を着て下りられるというんですか」
水戸が顔を赤くして叫んだ。
「それは乱暴ですね、先生やめて下さい」
助手たちが口を揃えて反対した。もしも博士がそんなことを本当に実行し海底を歩いているとき、第三の怪事件が起こったらどうなるであろうか。とんでもないことだ。
だが博士は思い停るとはいわなかった。
「それが近道だと思うからだ。海底へ下りてみれば何もかも分かるかも知れない」
「しかし先生、そんな危険なことをどうしてなさるのですか」
「危険は、海上にいても出会うだろう。海底が危険なら、それと同様に海上もまた危険だよ。……とにかくわしは近いうちにそれを決行することとして計画を
博士はそういうと、パイプを口に
後には
「なによりもまず生命の危険率が頗る大きいことを考えなくてはね、仮りにかの怪奇なる怪力源問題がなかったとしても大西洋の海底を人間が潜水服でのこのこ歩くなんて前代未聞の冒険だよ」
「やっぱり歩一歩と地味な観測を続けるのがいいのではないか。それが一番の近道ではないだろうか」
「いや、団長は人類の幸福のため自分の尊い生命を犠牲にしておられるのだ。その崇高な決意に対し、われわれもまた団長と同一精神に燃え、世界人類の幸福のために大西洋の海底を歩くべきだ」
この結論は容易に一つの穴に流れ込むことはなかった。その間に調査団船とその護衛艦隊は恐怖の異常地震帯を離れること五〇キロの海域に脱出を終わったところで、各艦船は舷と舷をよくつけ合って
その夜のうちに、大急行で潜水の準備がなされた。取揃えられた深海用の潜水服は二十着であった。しかし実際に使用せられるものは十一着で、残りは予備としてサンキス号内に留め置かれる。
その外、海中標識灯や海中信号器に通信機、それから昇降機などの大きな機械類も手落ちなく点検され用意された。
また海底調査隊員十一名が持って行く品物も集められた。それは諸々の観測器具を始めとし食糧、飲料、工具、通信器、照明灯などの外にダイナマイトと水中鏡も加えられ、これらがずらりと並べられたところは、仲々ものものしかった。
海底調査隊員十一名の顔ぶれは、隊長ワーナー博士を始め、
記者三名を除く隊員八名は、ワーナー博士の部屋で海図を囲んで深更に至るも打合せを継続し、いつまで経っても誰も出て来なかった。
サロンでは、三名の記者を中に、壮行を激励する酒宴が賑やかに展開していた。
「ぜひ僕のために、大西洋の海底土産というやつを持って帰ってもらいたいね」
と鼻の頭を真赤に染めた酔払いの船員がホーテンスへねだった。
「海底土産だって。へえっ、一体何が欲しいのかね」
ホーテンスもすっかり
「何でもいいよ、しかしなるべく豪華なところを願いたいもんだよ。金貨が一杯入っている袋とか、金剛石紅玉青玉がざらざら出てくる古風な箱だとか、そういうものなら僕は悪くないと思うね」
「それは誰だって悪くないよ。君の欲の深いのには
「そんなら貴様も海底へ出張すればいいじゃないか」
と、同僚がまぜかえした。
「いや、僕は駄目だ。船員というものは船を離れると駄目なんだ。あんな芋虫の化物のような潜水服を着て、のこのこ海底を歩くなんてぇことは、われわれ船員の柄じゃない」
「うまくいってるぜ。しかし僕たちがこれから下りて行く海底はそんなものは見付からないだろう。お目に懸れるのは、骸骨に、腐った鉄材、それに深海魚ぐらいのところだろうよ」
「いや、必ず持って来てやるよ、はははは」
談笑が、煙草の煙とアルコールの強い匂いで飽和したサロンの空気をかきまわす。
水戸もドレゴも、その渦巻の中に顔を見せていたが、給仕が入って来てドレゴに何か紙片を渡した。ドレゴはそれを受取ると、はっとした様子で立上るとサロンを出ていった。
ドレゴが再びサロンへ戻って来たのは、それから三十分ほど後のことだった。水戸は
「どうしたんだ、ドレゴ」
水戸は彼が元の席についたとき、低い声で
「うん……後で話すよ」
ドレゴはそう応えて、苦しそうに顔を
宴が果てたのは、それから一時間後のことであった。時計は午後十一時を廻っていた。酩酊はしていたが、さすがにホーテンスはサロンを出るとすぐワーナー博士たちの打合せ会議が済んだかどうかを訊いた。会議は少し前に終わっていた。ホーテンスは、水戸とドレゴを呼んで博士の部屋を叩いた。
「ようやく準備は完了したよ」
と博士は満足らしく微笑した。
「その後、事件について何か判明したことはありませんか」とのホーテンスの質問に対し、博士は「あるよ」といいながら机上の書類を取上げ、
「D十五号の遺留品を、僚艦が現場附近において収容した。その品目がここに書出してある。ゆっくり見給え」
とホーテンスたちへ
「それについて何か特別の注意すべき材料がありましたか」
水戸が
「遺留品は、その表にあるように、殆ど原形を停めないまでに破壊されている。その二三のものを電子顕微鏡下において調べたが破壊面は非常な微粒子――コロイド程度にまで粉砕されている。火薬などによる普通の破壊事件では見られない現象だ」
「なぜそんなに破壊面が粉末化しているのでしょうか」
「それは今のところ不可解だ」
「その破壊面附近に、ウラニウムなどの放射性物質がついていませんでしたか」
「今までのところ、それを検出し得ない。多分付着していないのであろうと思う」
「それはおかしいですね」
とホーテンスが横合いから口を
「すると、D十五号は原子爆弾によって破壊されたのではないといい切っていいわけですか」
「まだ、そこまではいい切れないが、とにかくこれまでに知られたウラニウム爆弾でないといえる可能性が多分にある」
「どうもそれはおかしい。原子爆弾でなくて如何なるものがあんなひどい破壊を生ぜしめるでしょうか。いや、これは素人考えに墮していますかな」
博士は黙ってホーテンスに対していたが、それから暫くして口を開いた。
「だからわしは、明日海底へ下りることに決心したわけだ」
ホーテンスは目をぱちくりしたが、すぐ気づいて肯いた。
「なるほど、そうでしたね……いや、僕は今までなんだか原子爆弾の幽霊だけに
その翌朝、ドレゴは水戸に附き添われて、ワーナー博士の許へ行った。ドレゴは都合により、今日の海底探検に同行することを辞退したいこと、それから彼は出来るだけ早くこの調査団から離れて、アイスランドへ戻りたいことを申述べた。
博士は、それを聞くとすぐ諒解した。そして護衛艦の一隻が今日、アイスランドへ引返すことになっているから、それに便乗して行ったがいいだろうといって呉れた。そして博士はドレゴがなぜ急に予定を変更したかについて一言も
実はドレゴが急にこんな翻意をするようになったわけは、その前夜、アイスランドから一通の無線電信を受領したことに
“愛スルドレゴヨ、コレガ第二ノ警告! ゼ号ノ秘密ハ当地ニ於テ今ヤ解カレル一歩前ニアリ折角ノ名誉ト富ヲ捨テル気カ、スグ帰レ、花ヲ持ツテ待ツ、汝ノ崇拝者ヨリ”
これを受け取ったドレゴは一夜を悩み続けた末、今朝になって、とうとう帰国する気になったのだ。彼は水戸を誘ったが水戸は応じなかった、こうしてオルタの町の仲好しは一時北と南に別れることとなった。水戸はドレゴに花を持って迎えるという彼の崇拝者に対し十分注意を払う様にと忠言することを忘れなかった。
下船のとき、ドレゴは
「水戸。危険な仕事は出来るだけ早く切り上げて、オルタの町へ帰って来てくれ。僕はそれを待っているぞ」
ドレゴは水戸の両頬にいくども熱い口づけを残して、遂に去った。そのとき彼の心に、美しい花束を抱いた若い女の幻がちらりと浮かんですぐ消えた。
午前八時、サンキス号は護衛艦隊に護られ再び南下を企てた。作業の現場に着くまでに、約二時間の余裕があった。
十一名の壮行者からドレゴが減って、十名となった。ドレゴの補欠を希望する者は出て来なかった。誰でも、危険極まりなき大西洋の海底を散歩することは気が進まなかったからだ。隊員は早速身仕度に懸かった。芋虫とビール樽との混血児のような頑丈な潜水服をつけて、甲板に一列にならんだところは、壮観ともいえ、また悲壮の感じも強く出た。この潜水服は背中に圧搾空気タンクを持っていて、外から送気しなくとも自主的に呼吸が続けられる仕組みとなっていた。
午前十時半、現場へ到着。
現場の空は、飛行機で警戒せられていたし、海面は護衛の水上艦艇にて、海中は潜水艦が五隻も繰出されて
留守組の観測班員は、捕えた気象水温その他の数値を刻々と博士に報告した。
「諸君」
と、博士がマイクを
「本日は例の異常海底地震を全く感じない。といって安心するのはまだ早い。海底で異常地震に遭遇したときは、かねての注意に基き、わしからの信号により行動するように。冷静を失うと結局いいことはないから、どうかそのつもりでいて貰いたい」
博士の非常警報が出たときに限り、全員は応急浮揚器の紐を引いて、海底に[#「海底に」はママ]浮かびあがる手筈になっていた。それ以外は、どんなに不安に
ホーテンスも水戸も、列の最後尾に並んで共に元気だった。
「おい水戸君。昨日D十五号だけがあのとおりひどくやられて他の艦船が[#「艦船が」は底本では「艦舟が」]大した損害を受けなかったことを君は不思議に思わんかね」
ホーテンスは、闘志満々たるところを示して、この期になお同業者と討論を持ちかける。
「不思議は不思議さ。およそ何もかも不思議なんだ。だがその不思議と映る現象――その事件そのものを素直に受取るより外ないね」
「ははは。そこで君の持説“地球発狂事件”かね」
「そうなんだ。それはとにかくD十五号事件によって、あの驚異の力には方向性があるといえると思うんだ」
「方向性だって」
「そうだ。方向性があればこそ、D十五号だけがあのような大破壊を受け附近にいた水上艦艇も水中にいた潜水艦も共に惨害から免れたのだと思う。だからわれわれが水中であの種の驚異力の発生を感付いたら、すぐに物蔭に寝るといいと思うね。水中では波動速度がのろいから、きっとそれでも間に合うと思うよ」
「なるほど。それはいい考えだ、覚えておこう」
ホーテンスは水戸の説に興味を覚えた、しかし
午前十一時、遂に潜水が開始された。
サンキス号の左舷には十本の鋼鉄ロープが吊下げられた。その先は海面にたれていたが、それぞれ一体の潜水服に潜水兜をつけたグロテスクな人間をぶら下げていた。
まずワーナー博士が、一番舳に近いロープによって、海面に沈んでいった。そのあとから夥しい泡が湧き上って、甲板から見守っている人々に、何か息苦しさに似た感じを与えた。
第二番、第三番と順に進んで第九番のホーテンス、第十番の水戸が海面下に姿を消したのはそれから二十分後のことだった。甲板の連絡班長のいうところによれば、ワーナー博士外三名は、早くも海底に着き、ロープから離れて海底歩行を始めたそうである。水深百二十メートル、果たして博士一行は如何なるものを、暗黒の大海底において発見するであろうか。
この事件が起こって以来ずっと一緒に手をとって来た親友水戸記者を大西洋に置去り、自分ひとりアイスランドへ帰っていくドレゴの気持ちは、さすがに晴れなかった。
彼は北へ走りだした快速貨物船の甲板に立って、小さくなり行くワーナー調査隊の船団の姿を永いこと見送っていた。やがてその船団は水平線の彼方に没し、
それから彼は呑みつづけた。昼も夜もアルコールの漬物みたいになって、ひとりでわけのわからぬことを口走っていた。彼は水戸をどうしてあそこへ置去りにしたのか、それについて良心が
さすがに酒に強い彼も、その日の深更に至って遂に倒れ、ボーイたちによって船室へかつぎこまれた。泥のような熟睡に、彼は一切を知らないで約半日を過ごした。
彼が目を覚まして、甲板へ出て来たのは、翌日の正午に近かった。
海の色も空の模様も、もうすっかり様子が変わり、西北の季節風が氷のような冷たさを含んで船橋のあたりから吹き下ろしてくるのだった。彼はぶるぶると
昼食のとき、彼は船長の
「船長。昨日以来、ワーナー調査団から何か新しい情報は入らなかったですかね」
早速彼は、気にかかっていたことの質問を出した。
「詳しい情報は何も入らないですよ」
と船長はちらりとドレゴの顔へ視線を走らせて応えた。
「すると、昨日から始めた海底調査の結果なんか、何もいって来ませんかね」
「ええ、たいして詳しいことも」
「あれはうまく行っているんでしょうか」
「さあ……」船長は、ちょっと苦しそうな表情になって
「なかなか面倒らしいですね。昨日の午後になって本国へ航空隊の来援を打電していたようですよ」
「航空隊の来援を……。すると何か重大な[#「重大な」は底本では「重大に」]発見でもあったのかな」
ドレゴ記者は、商売がら、そういう方へ航空隊来援要請を解釈した。それに対して船長は何も応えず、料理へフォークを使うのに熱中しているように見えた。
もしもドレゴが、今船長の口を滑らせたことについて正確な解釈をすることが出来たら、彼は食事も何も放り出して、早速南方へ向かう飛行機の提供方を、船長に交渉したことであろうに。
船長は、或る出来事について沈黙を守っていなければならぬ義務があったのだ。
食事の途中で、この船が午後三時にオルタ港へ入る予定であることが発表された。
そうなると、ドレゴの胸は怪しく鳴りだした。いよいよオルタへ入るのだ。彼を待っている「崇拝者」と顔を合わすことになるのだ。その「崇拝者」は二度に亙って、彼に対して帰国をすすめた。そして埠頭に花束を持って彼を迎えるであろうと約束した女性にはちがいないと思う。一体、誰であろうか。オルタの町に、美人は多い。彼女はその中の誰であろうか。ドレゴは、かねて彼の胸に
酒場「青い靴」のスザンナであろうか。それとも「極光」のペペであろうか。いや、それでなくもっと高貴な婦人、たとえばプルスカヤ伯爵夫人か、公爵令嬢マリア・ムルマンクか。さっぱり見当がつかないなあ。
それからそれへと、いくら思い出してみてもこれならばという自信の湧き出る美しい女性を探し当てることはできなかった。ドレゴははげしく昂進してくる自分の心臓に気がつき、
解決のつかないままに、船はオルタ港口を入ってしまった。
ドレゴは、長いオーバーの胸にアスパラガスの小さい枝を挿し遊歩甲板に立って、全身の注意力を埠頭の方へ向けた。彼の眼にはパアサーから借りた六倍の双眼鏡があてられていた。
船が大きく曲線航跡を描いて七面鳥桟橋へ横付けになる用意の姿勢に移った。埠頭に群れ集まる数百人の男女の群が、はっきりと双眼鏡の奥に吸い込まれた、いろんな顔が重なっている、ドレゴは、早鐘のように打ちだした自分の心臓を気にしながら、美しい若い女性の顔を探し始めた、花束をその顔と一緒に並べているところの……。
「これはたいへんだ」
ドレゴは
「ふむ、すばらしいぞ。これは、新しいロマンスの開幕だ」
この夥しい女性のどれが、自分の胸に香りのいい頭髪を押しつけるであろうか、そう思うと、彼は船を乗り越えてざんぶりと海中に飛入り、桟橋までクロオルで泳ぎつきたい衝動に駆られた。
ところが、いよいよ船が桟橋について、彼が舷梯を駆下り、花束美人の真只中へ突入してみたところ、意外にも誰一人として彼の胸に花束を持って飛びついてくる女性がいなかったのである。彼はがっかりした。彼は十五分間に、ねたましいほど仲のいい恋人の何十組かを見送って、すっかり気を悪くし、そして疲れてしまった。仕方なく海岸通りの方へ少し歩き出したとき、突然彼の名前が呼ばれ、彼の目の前に飛び出してきた女があった。
「おお、エミリー……」
ドレゴの前へ飛び出してきた女は、チョコレート色の長いオーバに大きなお尻を包み、深緑のスカーフに血色のいい太い頸を巻いた丸々と肥えた年増のアイスランド女だった。彼女はサンノム老人の姪で、水戸なんかの泊っている下宿屋で働いていて、主人のサンノム老人を助けていたのだ。
「エミリー、君か。まさかね」
ドレゴは
だが、年増女のエミリーは、俄かに口がきけないらしく唇をぶるぶる
エミリーの手には、二つの花束があった。二つのうち、紅い花の数が少ないほうの花束を、ドレゴに手渡しながら始めて口をきいた。
「ドレゴ様、おひとりなんですか。水戸――水戸さんはどうしましたか……」
そういわれてドレゴは、釣りあげられた鯉のように「ああ……ああ……」と口を大きく開いて
「あたくし、がっかりしましたわ。ドレゴ様とあろう方が、気がおききになりませんのね。あたくしの手紙をごらんになり電報をお読みになれば、あなた様が必ず水戸さんを連れて帰っていらっしゃらなければならないことは、お分りの筈じゃありませんか。あたくし――」
「まあ待ってくれ、エミリー」
ドレゴは顔に汗をかいて、首をふりたてた。
「だってそれは無理だよ。あの手紙や電報では、そんな意味には取れやしない」
「そんなこと、ございませんわ。あなた様は水戸さんの唯一無二の御親友で……」
「唯一無二の親友であっても、そこまでは気がつきやしないそうだよ、ね。第一その手紙には、“あなたの崇拝者より”としてあるから、僕はてっきり僕の崇拝者が僕を呼んでいるんだと思った。このことは、はっきり分かるだろう、え」
「だって……」
「だっても何もないよ。僕の崇拝者でもないくせに、なぜ僕宛に“あなたの崇拝者より”なんて書いて寄越すんだい」
「あたくしは、あなた様も大いに崇拝いたしておりますわ」
「えっ、それはややこしいね」
「――だってあなたさまは愛する水戸の唯一無二の親友でいらっしゃいますものね」
「たははは……」
ドレゴはここで完全にエミリーから
もちろん彼はそれからバッカスの
彼は起き上がって暖炉の前に腰を下ろすと、下紐を引いて人を呼んだ。
ガロ爺やは坊ちゃま御帰邸のよろこびを懸命に
「浴槽を用意して貰おう」
「はい。もう用意ができておりますでございます」
「ふん。――何か変わったことはないか、早く僕に報告しなければならない性質のもので……」
「はい、ございます、昨日午後四時より始まりまして、サンノム家のエミリー嬢が坊ちゃま……おほん、若旦那様に至急の御用があるとかで六回もお見えになりましてございます」
「困ったねえ、あの女には」
「……」
「今朝は、まだ来ないか」
「はい、まだお見えになりませんよ」
「やれやれ、早いところ風呂へ入って、ずらかるかな」
ドレゴが、大理石の浴槽につかってとろんとしているとき、ガロ爺やがやって来て、エミリーの来訪を伝えた。
「まだお目ざめではないと申し上げては置きましたが……」
「いや会おう……昨日僕は頓馬だった、たとえエミリーがどう思っていようと、僕はゼムリヤ号事件の名誉ある発見者として、その最新情報を集め、その核心へ、突進しなければならないのだ」
ドレゴかひとりごとをいっているとき、浴槽の入り口が開いて女の首が中を
「あっ、エミリー……」
浴槽の中で、裸のドレゴは硬くなって叫んだ。傍に立っていたガロ爺やは、電気に懸ったようにその場にとびあがり、浴室の入口へ走った。
「こ、困りますね。広間でお待ち願うよう申上げたつもりでございますに……」
「一秒を争うことなんです。ドレゴさんにすぐお目にかからねばなりません」
牝牛のように身体の大きなエミリーは戸口に立ちはだかる枯木のようなガロ爺やをぐんぐん押し戻して、浴槽の傍まで入ってきた。
「エミリー。お願いだからあと二分間、部屋の外で待っていておくれ」と、さすがの心臓男ドレゴも、エミリーの
「ところがたいへんなのよ。ケノフスキーが飛行機で行っちまうんです」
「ケノフスキー?」
「そうなの。うちに下宿しているケノフスキーです。ゼムリヤ号に関しては、あの人が一番謎を知っているんです。そしてそれに関する取引も、あの人だけが握っているんです」
ドレゴは浴槽の中で、石鹸の泡をかきたてることも忘れて、「へえっ」とおどろいてしまった。ケノフスキーが水戸と同じくサンノム老人の下宿にいることは勿論知っていた。彼はソ連の商人として知られており、これまで魚の缶詰や魚油の取引をしていることはドレゴも知っていたが、ゼムリヤ号事件に関係しているとは知らなかった。また事実、爆弾事件発生以来も彼は全然無関心な顔をしていたし野次馬連中が争ってヘルナー山頂へ急いだときも、彼はその仲間には加わらず、相変わらず屋根裏に近い彼の部屋にくすぶっていたことをドレゴは知っていた。そのケノフスキーが、エミリーの話から推察すると、いつの間にかゼ号事件の大立者となっているらしいのだ。どうしてそんなことになったのだろうか。
「ドレゴさん、あなたはこの事件を最初に全世界に向って報道した最高名誉を
一秒を争うといったエミリーがさかんにまくしたてる。
「すぐかけつけてケノフスキーと会見するんです。彼の説はうんと儲かるように買取ってやらねば駄目。これからすぐかけつければ間に合わないこともありませんわ、飛行機が滑走を始めれば、もうお仕舞いですよ」
「ありがとうエミリー」と、ドレゴは本気になって感謝した。
「それで彼はゼムリヤ号についてどういう地位にあるのかね」
「原子爆弾防衛委員の一人ですわよ。そしてアイスランド海域の監視人なのよ」
「なに、やっぱり原子爆弾か。これはたいへんだ。エミリー、すぐ外へ出ておくれ。僕は湯舟から出るからね」
ドレゴはエミリーを浴室から追い出すと、ゆで
飛行場の傍まで来ると、旅客機は既に砂煙をあげて滑走中だったので、ドレゴもエミリーも歯をぎりぎり噛み合わせて口惜しがった。
ところがドレゴの運が強かったわけか、旅客機は滑走路のはずれまで行っても離陸しないでぐるっと方向転換をし、元の出発点に引返してきた。
事故の原因は、サイド・パイプから油が少々ふきだしたことにあった。そのおかげで、ドレゴは単身機内へ乗込んで、ケノフスキーに面会することができた。かれは、短刀直入に用件を切出した。
ケノフスキーは赤い
取引の契約が
「わしはヤクーツク造船所の一代理人だが、原子爆弾防衛委員でもなければ、アイスランド海域の監視人だなんて、それは嘘ですよ。しかしゼムリヤ号のことについては相当承知していますよ。あれは優秀砕氷船です。だがそれ以上の目的を持った試作船でさ。もうお察しでしょうが、あの船は、外部からの極めて大きな圧力に耐えるように、そして熱線を完全に防ぎ、それから放射性物質の浸透を或る程度食いとめるように設計されてある、つまり結局、原子爆弾の恐るべき破壊力にも[#「破壊力にも」は底本では「破壤力にも」]耐えられるだけのことが考えられてあるんでさ。こういう船を作っちゃいかんというわけはないですからね。いや、それよりも全人類が原子爆弾の脅威に曝らされている今日、われわれ人類は生存の安全のため一日も早く、あの脅威を防ぎ留める工夫をしなければならぬことは当然のことです。その対策としては、われわれが全く地底に隠れるのも一方法だが、しかしそれでは移動性に欠け、所要の交通や貿易ができなくなるわけだ。それじゃ困るですからな」
「航空機に耐力を持たせることも、今のところ不可能です。あれはマッチ箱みたいなものですからね。結局船である。水の上にふんわりと浮かんでいる船なら、伸縮があっても大丈夫、吹き飛ばされようが広い海の上なら大したことはない。陸の上じゃそうはいかん。結局船がいいということになるが、わがヤクーツク造船所では、マルト大学造船科にその設計を
ケノフスキーは、自分のいっていることに段々熱して来て、果てはドレゴの外套の襟を掴まんばかりの手つきで、
「ね、分るだろう。だからゼムリヤ号を世の中へ送ったわがヤクーツク造船所は、救世主の一人なんだ。ヤクーツク造船所はこの偉大なるゼ号型船をわが本国だけに独占しないで、これを広く、現に脅かされつつある人類へ送ることを決意した。崇高なる人類愛の
ドレゴは商人ケノフスキーの能弁にすっかり封殺されていた形だった。なるほどゼムリヤ号について、意外なる本質が明瞭となったことはよろこばしい。が、後ではどうやらケノフスキーの宣伝手伝いを勧誘された形だ。肝腎の
「でも、ゼムリヤ号は、最後はヘルナー山頂で爆破粉砕したというじゃないですか」
ドレゴは、一本突込んだ。
「それは仕方がないさ。内部で爆発が起こったんだからね。外部からの圧力には十分強く堪えられるあの船も、内部からの力に堪えるようには考えていなかったからね」
ケノフスキーのこの答弁は
「なぜ内部から爆発が起こったんですかね」
「知らんね。それは造船所の代理人たるわしに関係のないことだ」
ケノフスキーは何事かを知っているらしいが、喋ることはいやなのであろう。
「乗組員が皆死んでしまったのは、どういうわけですかね」
ケノフスキーが何かいいだそうとするのをドレゴは抑えて、
「せっかく丈夫な船が出来たにしろ、乗組員がその場で全部死んでしまうんでは、買い手がつかないですからなあ」
「いや、あれは当時乗組員用の衝撃緩和装置が間に合わなかったせいだよ。何しろ試運転を急いだものだから……今ならその安全器械は十分間に合うのだ」
「一体あの事件のとき、ゼ号の乗組員はどういうわけで死んだんですかね。いやもちろん激しい外力によって、壁に頭をぶつけ、
「そのことだがね。これは慎重な態度で取扱わねばならぬ問題だが、とにかく巨大なる外力が働いたことは確かであるし、それは海において発生したものであること……」
「それは原子爆弾にやられたんですか」
「そこが、その微妙なところで……実はこういう話があるんだが……」
その先をいいかけたとき、飛行場のサービス嬢が、旅客機の修理が終ってすぐ出発しますから、すぐ乗っていただきますと
「ケノフスキーさん。貴方は何の用でどこへ行くんですか」
ケノフスキーは答えるかわりに手を振った。
「いつ帰って来ますか」
「後で詳しく手紙にして送る。さよなら。さよなら」
彼は軽金属の階段を登り切って、旅客機の中へ姿を消した。もうどうしようもなかった。
飛行機の出発を見送ってから、ドレゴは柵の外に乗り捨ててあった自家用車へ戻ってきた。
「どう、うまくいって」
もうどこかへ行ってしまったかと思ったエミリーが、辛抱強く運転席の隣に座って待っていた。
「エミリー、ありがとう。かなりの収穫があったよ、が、時間が切れて話は胴中から尻方の方だけが残った恰好だ」
「ぼんやりしているのね、あの人だったら抜け目なく頭まで手にいれるんだけれど」
「水戸のことをいっているんだね」
とドレゴは苦笑しながら、車をスタートさせた。
「僕は君の気持ちを知らなかったもんだから、彼を大西洋に置いてきたんだ、一体君はいつ頃から水戸を愛していたんだね」
「もう古いことよ。水戸がうちへ下宿するようになって間もなくだわ」
エミリー牝牛嬢には似合わない細い溜息をついた。
「これは愕いた。水戸はちっともそんな気配を見せなかったのでね」
「あら、ドレゴさん。早合点しないでよ。あたし達の間はまだ何でもないし、第一水戸さんはご存じないのよ」
「へえ、そうかね」とドレゴは
「わが可憐なるエミリー嬢が見掛けとはおよそ似つかぬ清純たる恋に悩んでおられるとは、さっぱり気がつかなかったね」
「おおきにお世話よ、鈍感坊ちゃん」
「これはお言葉、痛み入る。しかしエミリー、実をいえば僕も水戸をひとり残して来たのをたいへん後悔しているんだがね」
「あたしも変に胸さわぎがするのよ。あっちで何か間違いでもあったんじゃないかしら」
二人の心配は果たして
海底へ下りたワーナー博士一行十名は人員点検をして異状のないことを確かめた上で、一団となって進発した。
五個の強力な灯火が前方を明るく照らしている。ここはいわゆる
博士の助手の一人は、超音波の装置を胸にかけて、前方を、この聴こえない音波で摸索している。
二人の護衛は、最前列に出て左右を確かめつつしずかにあるいている。
ホーテンス記者と水戸記者はワーナー博士のすぐ後ろにぴったり寄り添うようにして歩いている。博士の右隣には、博士の信任の篤いオーキー学士が、水中電話機を背負って、たえず水面に待機している掃海艇サンキス号と電話で連絡をとっている。そのオーキー学士の声が海水を伝わって水戸記者の耳にもよく入る。
「……一行異常なし。針路を南西にとっている。軟泥と海藻の棒だ。前方に何があるか、見当がつかない……」
オーキー学士はしきりに喋っている。
ワーナー博士の方は、点々として、ゆるやかな歩調で歩いていく、一群幾千とも知れぬ扁平な魚の群が、無遠慮に前方を横ぎり、そしていずれへともなく姿を消す。
昆布の林を一つ、ようようにして通抜け、ひろびろとした台地のようなところへ出た。ワーナー博士は、さっと手をあげ、合図の笛を吹いて一同に「停れ」の号令をかけた。
そこで底へ下りて最初の測定が始まった、器械や装置が並べられる、特別の照明が行われる、ワーナー博士がプリズム式の屈折鏡で計器の針の動きを
ホーテンス記者と水戸記者は、その計器を覗き込もうとしたが窮屈な潜水服をつけているので、それは見えなかった。
「ワーナー博士、海底地震はやっぱり起こっていますか」
とホーテンスが尋ねた[#「尋ねた」は底本では「訪ねた」]。
「さっき一回感じたが、計器をここへ据付けてからはまだ一度も起こらないね」
そういっているとき、博士は急に身体を
「どうしました、ワーナー博士」
ホーテンスが声をかけた。
「おお、今しがた待望の海底地震があったよ、その波形を初めて正確に見ることが出来た」博士はここでちょっとの間言葉を停め「とにかくわれわれがこれまで海底地震と呼んで来たものは本当は地震ではなかったのだと思う、そういう結論に達した」
博士は重大なる言明をした。
「あれは海底地震ではないというのですか、すると何ですか、あの異常震の正体は……」
「ホーテンス君。その正体をこれから調べにかかるのだよ……全員集合」
と博士は一同を呼び集めた。
「ここで隊を二つに分ける。三名は、装置と共にここに残留し、残りの七名はこれから前進して振動源に近接する。いよいよ注意を要する作業の始まりだ」
博士はその人選をした。それから博士は、今しがた判明した震動源の方向を説明し、七名の者は左右二団に分れてその方向へ進発することとなった。
ホーテンスと水戸記者は、右隊と左隊とに分れた。ホーテンスは、ワーナー博士とオーキー学士と一人の護衛の組に入った。水戸記者の方は二人の学士と共に左隊に入った。
両隊は互いに二十メートルの間隔を保ちながら、定められた方向に前進していった。
水戸記者もようやく潜水服に慣れ、前屈みになって歩くのが楽であることも知った。ゆるやかな海底の起伏を上がったり下がったりして行くうちに、三十分ほど時間が経ち、そこで小休止となった。水戸は、潜水服の中に温めてあった牛乳と甘いコーヒーを、ゴム管で吸った。
それからまた前進が始まった、すると間もなくかなり高い丘陵の下に出た。その丘陵をのぼり切ったとき、突然右隊から「警戒! 停れ」との信号があった。
何事かと、左隊の三名が潜水兜をくっつけ合って意見交換を始めたとき、右隊から誰かが近寄ってきた。
「おお、ホーテンス」
水戸は彼を認めて、名を呼んだ。そのホーテンスは途中急いだと見え、聞きながら水中電話機から声を出した。
「大警戒を要するのだ。前方百メートルのところに、海底からとび出したものがある」
「海底からとび出したもの?」
「そうだ。その正体はまだ分からぬ。沈没している船かもしれない。或いは岩かもしれない。とにかくこれから油断をしないで前進するように、との博士の注意だ」
ホーテンスが右隊のほうへ帰ってしまうと、左隊の三名は、前よりも一層互いに身体を寄り合って、そろそろと軟泥の上を前進していった。
(沈没船か、岩か?)
岩なら別に問題はない筈。博士が警告したわけは、それが沈没船の如き異様な物体だと判定したからであろう。
すると沈没船が、あの異常振動を出すのであろうか。
とにかく振動源の方向に、その沈没船らしいものが横たわっているので、博士は警戒を命じたものに相違ない。すると、そこまで行きつけば、その正体も、振動源の謎も解けるかもしれないのだ、いや、ひょっとしたら怪奇を極めたゼムリヤ号座礁事件の真相さえが、
一行が、それから百歩ばかり前進したとき、突然ものすごい地震が起こり、軟泥は舞上ってロンドンの霧のようにあたりに
水戸記者は誰よりも早く転がった方であるが、それは彼が誰よりも早く恐怖に陥ったというわけではなく、かねてこういう場合に迅速に姿勢を低くすべきであると考えていたことを実行に移したばかりであった。
が、潜水服を通じて、彼の五体に伝わって来る強い振動は、決して愉快なものではなく、彼はもうすこしで下痢が起こるような気がしたほどである。
やがて振動はぴたりと
「ほう、助かった!」
誰も皆が、そう思ったに違いない。が軟泥は
と、突然水戸は背後にがんがんと連続的な衝撃を受け、身体がくるくると回転を始めた。彼の手が空間で石のようなものに触れたが、思わず手を握ると、手の中ではたはた動くものがあったので、彼は背後から魚群に突当られたことを諒解した。
くるくるくると水戸の身体は転がって行く。何処とも行方は知らずに……。
幸いにも、やがて身体が転がるのは停った。彼は疲れ切ってしばらく寝たまま休んでいた。目は開いてはいられず、動悸がはげしく打って、重病人になったような気がしてならなかった彼はゴム管を
そのような困難のうちに、時間が過ぎた。十分間だか、三十分だか、それとも一時間だかも分らなかった。突然彼は瞼の下に痛いほどな眩しい光を感じて、はっと目をあいた。
「あっ!」
彼は思わず愕きの叫び声をあげた。信じられない位の意外な光景が、転がっている彼のすぐ上に展開しているのだった。そこには幅の広い大きな飾窓のようなものがあって、内部は舞台のように明るく照明されていた。そして複雑な器械類は、いまだかつて実物はおろか写真によっても見たことのない奇形な形をしているものばかりで、何に使うものやらさっぱり分りかねた。
(一体ここはどこだろうか。あの明るい部屋は何だろうか)
彼は自分が海底に寝転っていることを再認した。これはあまり時間を
(待てよ。前方に沈没した船のようなものが海底に横たわっているという話だったが、その沈没船かしら。いや、沈没船がこんな明るい部屋を持っているわけはなかろう)
彼は自分の頭脳が機能を半分も失っているような気がして残念でならなかったが、ようやく気がついたことは、前方の海底に横たわっているといわれたのは実は沈没船ではなく、なんだか訳は分らぬながら、それは今頭上に見えている明るい部屋を持ったものであること、そして今自分はその窓らしいものの下に横たわっているのだと悟った。
(沈没船でないとすると、一体これは何であろうか。もしや海底の要塞でもありはすまいか)
そう考えついて、彼が瞳を見張ってその明るい飾窓のような部屋の中へ懸命の視力を集めたとき、彼は再び叫び声をあげなければならなかった。
「おやっ。あれは何者だ。あの異形の者は……」
どこから現れたか、明るい部屋の器械の間に、人間の頭部の二倍もあるような大きな頭を持ち、そして顔といえば
「おお、あれは何者か。妖怪変化か。自分は気が変になったか。それとも悪夢を見ているのだろうか」
水戸記者は激しい
だがそれは夢ではなく、また気が変になったせいでもなかったらしかった。現実なんだ。自分はありありと、海底における怪奇極まる光景に接しているのだ。しかしあの上の怪しげなる怪物の姿を永く見つめていると、本当に気が変になりそうである。彼は目を閉じようとしたが、それは出来なかった。大きな恐怖がそれをさせないのであった。
が、これらのことは、後から考えると、彼の驚愕と戦慄のほんの入り口に過ぎなかったのである。――突然、その飾窓のようなものから、探照燈のような強い光線が水戸の頭上を飛び越してさっと外へ投射された。すると前方が真昼のように明るくなった。
水戸は、彼等が怪物たちが放出する光線か何ものかのため、身体の自由を失ったのであろうと察した。ああ、いつの間にか恐るべき争闘がこの深海底で始まっていたのである。ワーナー調査団対怪物団!
水戸は、今も自分が怪物団に見つけられはしないと
怪物たちは、飾窓のようなものの中でざわめき立ち、頭を寄せ、鞭のような細い手を互いに
「今だ」
と、水戸記者は思った。彼はむっくり起上って、始めてあたりをよく見廻した。そこで一切の事情が分かったような気がした。水戸が今まで横たわっていたところは大きな城壁の真下ともいうべき場所だった。その城壁は相当の高さであって、頂上は見えなかった。また左右のひろがりも見極めかねた。とにかく巨大な艦船みたいなものがこの海底にどっしりと腰を据えていることは確かであった。そしてそれには今も明るく外へ光を出している飾窓のようなものがあるのだ。さきに、超音波の方向探知機で探しあてたものは正にこれに違いなかったし、そして当時想像していたよりも実物はずっと巨大なものであった。
突然大砲を撃ったような大きな音が聞こえた。そして水戸が立っているところから十メートルばかり横のところが爆発したように思った。水戸は
それは爆発ではなく、多量の空気がぶくぶくと噴出したのであった。間もなく城壁の一部ががたんと
怪物の一隊は、ぞろぞろ歩きだした。その向かうところを辿って行くと、ワーナー調査団の連中の倒れている場所が彼等の目的らしく思われた。一体何が始まるというのであろうか。
怪物どもは、ずんずん歩いて行って、やがて目的の場所へ着いた、すると彼等は、倒れている船員を軽々と引張って、こっちへ引返してきた。水戸は城壁の中に引きずり込まれた五名の仲間を数えた、もうそれでお仕舞かと思って前方の海底原を見るともう一組だけが残っていた、と、その一組が突然格闘を始め、怪物対人間の死闘であったが、人間は怪物の敵ではなかった。忽ち人間の方は、怪物にのされてしまい、怪物は倒れた人間の足を肩にして
「あ、ホーテンスだ」
逆さになった潜水服の硝子越しに、水戸はホーテンスの無念の顔をちらと見た、だがどうする事もできなかった。
水戸記者は、よっぽどその場に躍出し、ホーテンス記者を奪還しようかと思った。だがそれを決行する一歩手前で思い停った。ホーテンスが、あの怪しい海底の城塞みたいなものの中へ
海底城塞の掛橋みたいなものは、ぎいっと怪音を発して、軟泥の嵐をまき起しながら大きく動いて、やがて元のようにぴったり閉った。そしてそのあたりは再び暗黒の世界に戻った。
例の飾窓みたいな所だけは依然として灯がついていて、無気味な赤味がかった光を外に投射している。水戸はその影線を選びつつ、しずかに
飾窓みたいなところから投射する光に捉えられないために、彼は海底を大まわりしなければならなかった。それはかなり苦しい
一つの丘があって、昆布の叢がゆれていた。その向側へ滑り落ちるようにして匐い込んだとき、彼はようやく安心感を得た。それまでは、いつ背後から怪光線をあびせかけられるかと、気が気でなかった。
彼は始めて上半身を起して中腰になった。中腰といってもぎこちない空気服を着ているので事実は寝ているようなものだった。そしてまた後退をつづけた。
と、彼はすぐ傍の岩の蔭に空気服を着た一人の隊員が倒れているのを発見して、たいへん愕いた。
(誰だろう?)
水戸記者はその方へ歩み寄った。相手は倒れたまま動かない。死んでいるのかなと心配しながら、ようやく傍へ寄って相手の身体を抱えて起してみた。
「おお、ワーナー博士だ」
博士であった。博士もまた既に怪人団のために搬び去られたものとばかり思っていた水戸は非常に意外にも感じ、そして大きな拾い物をしたことを悦んだ、だが博士はぐったりしている。気をうしなっているのか、それとも既に事切れているのか。
「博士。ワーナー博士、しっかりして下さい」
水戸は、博士の身体を空気服の上から強くゆすぶった。が、反応はない。こんどは潜水兜の上から、とんとんと叩いてみた、それでも博士は気がつかない。
(死んでしまったのかもしれない。もしそうなら、なんという大きな損失だろう)
水戸はやむなく博士の遺骸を背負って後退をつづけることに決めた。彼は博士の一方の腕を持って、博士の大きな身体を背中にかついだ。重かった。水戸の肩は
「ううっッ」
何が幸いになるか分らないもので、博士の身体は背負投げを食ったように大きく半回転して海底に叩きつけられたが、そのはげしい衝撃によって今まで喪っていた意識を恢復した。
博士の身体が動き出したのを、水戸記者はすぐに見て取った。彼は喜びの声をあげて、博士に抱きついた。
「ワーナー博士。気がつきましたか。僕は水戸です。お怪我はありませんか」
「ああ、水戸君か。ここ……ここは何処なのかね」
「もうすぐ観測器具を置いてある根拠地ですが……」
「ああ、そうか。やっぱり海底だね。皆はどうした、隊員たちは……」
水戸は、それについてすぐ応えるべきことばを知らなかった。それを聞けば博士はどんなに嘆くことであろうか。
水戸記者は、苦しさを
「まあ、こんなわけですが、博士はどうお考えになりますか、あの海底に棲む怪物団の正体を……」
と、水戸記者は、報告のあとで彼の一刻も早く知りたいと思っていることをワーナー博士に質問した。
これに対し博士はしばらく沈黙を以てうなづいた。そしてそのあとで
「アメリカ・インディアンは、コロンブスの船が着く以前において、この世の中に白人というものが存在することを知らなかった。インディアンとしては、それは無理もないことだと思う。当時のインディアンは驚愕と茫然自失の外に、途がなかったのだ。しかしわれわれの場合はどうであろうか」
「なんといわれます?」
水戸は問い返さないでいられなかった。
「新しいコロンブスは、地球の外から到着したのだ。遂に到着したのだ。われわれは、昔のインディアンと同じような驚愕と困惑にぶつかった。だがわれわれは昔のインディアンの場合とは違い、実は新しいコロンブスのやがて到来するだろうということを予想し得る能力を備えていたのだ。それにも拘らず、われわれはその用意がなかったのだ。私はある天文学者が遙か以前においてそれに関する警告を発したことを憶えている。しかしわれわれはその可能性を肯定したけれど、まさかそれが、われわれの時代に実現するとは思わなかった。だから、新しいコロンブスを迎える用意は全然していなかったのだ」
「新しいコロンブスというのは何者ですか」
「ああ、それは……」博士は
「それは何者であるか、不幸にして私は知らない。しかしこれだけは分っている。その新しいコロンブスたちは、地球以外の惑星に生を受けた生物であること、それからその生物たちは多分われわれ地球人類よりもずっと知能が勝れているということ――これだけは確かだといえよう」
「すると、さっき私たちの見たのは、あれは火星人だったのでしょうか」
水戸がせきこむようにして
「火星人? さあ、どうかなあ」博士はすぐには肯定しなかった。
「火星人かもしれないし、そうでないかもしれない」
「ですが、火星は、わが地球に一番よく似ていて、そこには植物が繁り生物が棲息していることは前からいわれていたではありませんか。ですから、地球の外から到来する可能性のある者といえば、火星人なんじゃありませんか」
「さあね。もしあれが火星人だとしたら、まだ問題は軽い方だ」
「問題は軽い方だ? すると博士は、彼らが火星人でなく、他の生物だとおっしゃるのですか。そういう可能性もあるのですか。一体彼らはどこから来た生物だとお考えなんですか」
「水戸君。生物が棲息し得る惑星というものは、何も火星だけに限らないのだよ。なるほどわが太陽系においては、生物の棲息し得る惑星、わが地球と火星とをおいて、その外には見当らないかもしれない。だが大宇宙は広大だ。そこには二百億個以上の恒星が眩しく輝いているのだ。つまりその二百億個以上の恒星や太陽の中には、地球や火星の如き生物棲息に都合のよい大気圧や気温や環境を具備した惑星を率いているものが相当にあると考えられるではないか、いわんやわが太陽の如きは、恒星の中でも極く小さい方だ。それでいて、ちゃんと生物棲息の条件を備えた二個の惑星を持っている。それなら、他の太陽の中には、もっと夥しい数の、かかる惑星を抱えていると考えられる。つまり大宇宙には、本当に数え切れないほど無数の生物があると思っていいのだ」
「なるほど、それは気味のわるいことですねえ」
「気味のわるい以上のものだよ。そういう生物は、われら地球人類と同等の知能を持っていると考えるだけでは正しくない。彼らの中にはわれら地球人類以来の歴史たる二万年よりももっともっと夥しい年代を経ているものも少くないであろう。従ってその知能や文化程度においては、とてもわが地球人類の及びもつかない程、高級の生物たちであると推定して
「何という淋しいことでしょう」
水戸記者は大きく溜息をついた。
「絶対無抵抗の
「ああ、何という恐しいことでしょう。僕はそういう局面にめぐり合いたくない」
「が、それが、やがてわれら地球人類の迎えなければならない運命なんだ。好むと好まざるとに
「博士。ちょっと待って下さい。博士が今おっしゃっていることは予想です。それは夢です。われらは[#「われらは」は底本では「わられは」]まだ、何も現実に彼らによって征服されたわけでない。新しいコロンブスの船らしいものが今この海底に来ていることは来ているようですが、彼らはまだほんのちょっぴりの交渉を持っているだけです」
「だが、それは、疑問に包まれた恐ろしき運命の第一頁が開かれたることを意味する」
「でも、先生。われらのやり方一つで、その新しいコロンブスと平和的な交際を取結ぶことが出来るんではないかと思うんですがね」
「それはねえ水戸君。それは希望的観測というもんだよ。われわれは優れた者の持つ力の働く範囲と程度とを冷静に観測し、そして最悪の場合を予想して置かねばならない。何しろわれわれ地球人類の間には、地球外の生物を迎えるための用意が少しもなされていない事実に、深く思いをせねばならない」
「そうでもありましょうが、われわれは努力によって好転させる可能性があるように思うんですがね。地球の全人類が共に血のつづいた同胞である如く、全宇宙の生物の間にも、当代同胞としての自覚が樹てられる筈、だから仲よく手を握りあえないことはないと思うんですがねえ」
「それはそうだが……」
「全宇宙のどこの隅にも不幸な者があってはならないのです。そういう不幸な一部があるということは、所詮宇宙の不幸なんですからねえ。この理屈は、如何なる時代にも、如何なる相手にも納得されることだと思うんですがねえ」
「水戸君。君のその信念は正しいと思う。そして君の熱情が、われわれが今怯えている影を吹き払って、われわれを不幸から救ってくれることを祈る」
「ええ、こうなったら、僕は一身を投げて、この問題の解決に努力しますよ」
水戸記者は、始めて晴々とした気持になって、そういい切った。
「ワーナー先生。船へ帰りましょう。さあ、僕の背に乗って下さい」
「うむ。すまないねえ、水戸君」
「元気を出して下さいよ。船へあがるまでは……」
繭玉が二つ、もつれ合ったような恰好で、博士を背に水戸は深海軟泥につまづきながら
その日は過ぎてその翌日の正午、全世界の通信網はおどろくべきニュースを受取った。それはワーナー調査団一行の遭難事件と、大西洋海底における怪異事件に関するものであった。
臨時放送ニュース、それから号外。このおどろくべき報道は間もなく全世界の隅々まで達した。
その第一報は、次のようなものだった。“アメリカが誇りとするワーナー博士とその調査団一行十名が、近来頻発する大西洋海底地震の調査のために昨日来大西洋の海底に下りて観測中であったが、博士一行は図らずも同海底に国籍不明の怪人集団と、それが拠れる海底構築物を発見した。この輝かしき発見の後、博士一行は悉く遭難し、全滅の悲運に陥った。それがため以後の調査は杜絶したが、アメリカ当局は更に新に調査団を編成し、大西洋海底の秘密の探求に本腰を入れることとなった。
一体何事が起るのだろう。大西洋の海底に如何なる秘密が隠されているのであろうか。有史以来の一大恐慌とは、どんな程度の恐慌を意味しているのだろうか。――このおどろくべき報道に接した誰もが、そういう疑問と不安とに陥った。そして第二報の発表が速かに行われるよう、放送局や新聞社には引切りなしに要請の電話がかかってきた。
「また、戦争じゃろうか」
「ふん。そうかもしれん。一体何国だろうか。あんなところに海底要塞なんか築いたのは……」
多くの民衆は、こんな会話を取交わした。彼等の想像は大体この程度を出なかった。
報道の専門家たちは、さすがに商売柄で、この事件について特別報道隊を編成するなどして、その事件を論じ、そして全力をあげて真相の追求にかかった。
「一体このニュースを初めに出したのは、どこの誰だい」
「それがおかしいのだ。今日の十一時にWGY局が短波で呼出され、あの第一報が伝えられたんだそうな。WGY局ではおどろいて政府当局に連絡して、真偽のほどを質問した。すると政府のスポークスマンは、それを否定もしないし、また肯定もしないと回答した。ところで、それではあの通信に幾分の真相が含まれているものと見なし、正午に全世界へ報道したというわけだそうだぜ」
「ちょっと妙だよ。政府のその態度は。当局の
「だからね。僕の考えじゃあ、政府当局はあの事件についてまだ調査中なんじゃないかね。調査中だから確かなことはいえない。だがともかくもああいう事件は事実存在する。そこであんな態度に出たと思うね」
「まあ、その辺だろう。と、われわれはもっと真相を知らねばならない。さあ、そうなるとどこから入り込むか」
「発信者の所在を早く探出すことだね」
と別の記者が口をはさんだ。
「いや、それよりはワーナー博士一行の所在地へ飛び込むことだ」
「それは出来ないんじゃないか。まさか、大西洋の海底まで下りて行くことは出来ないだろう」
「遭難し全滅したというんだから、仕様がないじゃないか」
別の記者がいった。
「ところがね、僕は博士一行が全部死に絶えたとは思わない。全滅とは必ずしも全部が死んでしまったという意味じゃない。死ぬか、さもなければ怪我をするかして、満足に動ける者がなくなりゃ、これをやっぱり全滅と報道していいんだ。だから皆死んだとは断定できない」
「しかしねえ……」
「まあ、待てよ。それにだ、もし博士一行が海底で全部死んだものなら、海底に怪人集団を発見したことを報告できやしないよ。われわれの場合は、ちゃんとそれを報告しているんだ。しかも吾人の想像に絶する巨大なる力を有するものだとか“性情
「君の説に賛成するよ」
その場において反対する者はなかった。
だが、ワーナー博士一行の所在をつきとめる方が早道だという者と、発信者を探したがよい、殊に第二報が聞えたら、すぐ無線探知器を使って発信者の位置を決定をする用意をなすべきだという者と、方針は二つに別れた。
記者たちは、経験と勘と、そして自動車と飛行機と電波と金とを利器として、四方八方に活動を開始した。
こんなことがどの通信社にも新聞社にも起った。正にヘルナー山頂に坐礁したゼムリヤ号事件以来の特種であった。いや、ゼムリヤ号事件から続いて起った事件だから、通信従事者の昂奮もまたすばらしく大きかったのである。
第一報発表以後のわずか十八時間に、各社の第一線記者は悉くへたばってしまった。あらゆる探索は失敗に帰し、何の収穫も手に入らなかったのである。
アイスランドは勿論のこと、大西洋全域から、各国の重要都市が一つ残らず探索されたけれど、どこにもワーナー博士一行の新しい消息も見当らず、聞き当らなかった。第一報の電波発信者も分らず、この電波を発射した位置も分らなかった。そして今にも入るかと思った第二報はいつまで経っても音沙汰がなかった。
このような失望と困憊のあとに、突然として待望久しき第二報が、WGY局から放送されたのだった。
無線探知器の前に頑張っていた無線班の連中は大失望した。第二報がWGY局放送局より放送される前に、何処からかWGY局へ第二報の原稿を電波で送る者がある筈で、それを捕えようと待構えていたのだ。ところがそれは遂に入らないで、いきなりWGY局が放送を始めたから、彼等ががっかりしたのも無理ではない。
だが、社の首脳部たちは一向構わなかった。それは、新たに発表された第二報の内容が非常に驚愕すべき、そして重要なものであったからだ。――第二報は、次のように報じている。
“――既報の大西洋海底に蟠居する怪人集団は、従来地球上にその存在を確認されたことのない高等生物の集団だと認むべき理由が発見された。但し彼等が、地球外の宇宙より侵入せるものか、或いは以前より海底又は地中に生存していたものが今回われらの目に触れたものであるか、それはまだ判別できない。いずれにせよ、彼等の出現により、われら世界人類は突如として測り知ることの出来ない脅威に曝されることとなった。目下のところ彼等怪人集団の勢力は大したものではないが、われら世界各国民は一致協力して、直ちに大警戒を始めねばならない。世界各国はこれまでの対立を即刻解き、その総力を結束して、われら地球人類の防衛に万全を図らねばならない”
なんという驚愕であろう。「従来地球上にその存在を確認されたことのない高等生物の集団」が大西洋の海底に蟠居していることが発見されたというのである。アメリカン・インディアンが白人コロンブス一行を迎えたときの驚愕、エスキモー人がロシア人を見たときの驚愕などは、今回の事件に比べると桁ちがいの小さい驚愕だ。世界の全同胞にとって恐るべき険悪なる事態が急にやって来たのだ。彼等は一体何物? そして彼等に対し、如何なる手段をもって如何に対すべきであろうか。
政治家も軍人も財閥も技術者も科学者も、この驚異的事態を真に了解した者は、いずれも皆茫然自失の結果、虚脱状態となってしまった。どうしたらいいのか、何も考えられない。どこから手をつけてよいか皆目わからないのだ。これが人間同士なら北の涯の者と南の涯の者の間にも、言葉は通じなくとも何とか意志を通ずる方法もあるし、相手の気持も能力も信頼度も、まず大体察知し得られる。ところが今の場合のように、これまで全然
時刻が移るに従って、事態はいよいよ深刻化していった。それは第二報が警告している内容の如何に重大なるかが世界各国にぼつぼつ分りかけて来たからであろう。
それでも世界の一部には懐疑病に取憑れた政治家があって、その報道の荒唐無稽なること、それが某国のためにする神経的威嚇であるとして攻撃を加えた。しかしこういう人達は、恐らく頭上に原子爆弾が落ちても、身は真黒焦になってしまった後でも、原子爆弾の威力を信ずるとはいわないひねくれ者一派にちがいなかった。そういう一派はいつの世にも必ず棲息しているものだ。
世界連合の臨時緊急会議がロンドンで開催せられた。これはいわずとしれた、大西洋海底の怪人集団に対するわが全世界の態度と処置を議するためのものだった。
その会議は、なかなか
アメリカの上院議員パスニー氏は、突然次の如き見解を発表した。
「地球防衛はわれら世界人類の義務であると共に権利である。地球外よりの無断侵入者に対しては何の仮借するところがあろう。よろしく即時われらはその全武力を大西洋海底に集中し、一秒たりともより速かに、かの無断侵入者を殲滅すべきである。もしわれらにして躊躇することあらば、悔いを千載に残すことになろう」
このパスニー氏の声明は、直ちにアメリカ人の一部の与論の支持を受けた。が、この意見は意外にもフランスの共産党によって非常な共鳴を受けた。すなわちフランス共産党は、即時にアメリカ海空軍の大西洋出動を要請したのである。それから始まって、パスニー氏の意見に賛成する者が、世界の方々に現われた。
やがてこのことは、連日秘密会議を開いている世界連合の臨時緊急会議にまで響いていった。実は、その会議でも、この防衛殲滅論が一方において断然有力であったのだ。その一方において平和的な外交手段による交渉論が支持されていた。
平和的交渉論は、一応誰しも賛同するところであったが、この主張の弱点は、その具体的手段が見付からないことだった。だから日と共に防衛殲滅論の方が優勢になっていった。しかしながら、この防衛殲滅論も百パーセント決定的勝利が得られるとはいい切れないところに、やはり弱点があった。
それは、果して大西洋海底の怪人集団が、現代の最強武器である原子爆弾によって完全に壊滅するものであろうかという危惧、それからもう一つ、たとえ現在蟠居する彼等を殲滅し得たとするも、彼等の後続部隊が後になって大挙襲来するのではなかろうか。この可能性は十分にあるものと思われる。そのときに至って、わが地球兵団は果して宇宙の強敵に対して必ず勝利を収めるだけの自信があるだろうか。またそれまでにわれらは十分の宇宙戦争の準備をすることが出来るであろうか。もし勝利に自信がなく、準備も間に合わないとすれば、今日大西洋海底に蟠居する彼等の前衛集団を攻撃することによって、無用不利の刺戟を彼等の本国に与えることは策の上々たるものではないというものであった。
このへんから会議は、
誰も彼も憂欝に閉ざされていた。
真綿が首を締めるように、日一日と深刻さが加わって来る。
気の早いものは、二十億の地球人類の死屍が累々として、地球全土を蔽っている光景を想像して、自殺の用意に
受信機は
だが、記者たちは、いずれも困憊し、そしていずれも
「一体これからどうなるんだ、われわれ人間さまは……」
「ビフテキ――いや人間テキにされちまって彼等にぱくつかれらあな」
「君なんかは肥っていて肉が軟かで、人間テキにはおあつらえ向きだってね」
「何をいうか、僕はテキになるまでこんなところにまごまごしてやしない」
「ふうん。自殺するってわけか」
「うんにゃ、自殺は嫌いだ」
「じゃあ、どうするんだ」
「ふふふ、こいつはあまり誰にも聞かせたくないビッグ[#「ビッグ」は底本では「ビック」]・アイデアだがね、外ならぬお仲間たちだから喋るが、実はアルプスの山の中へ
「なぜ」
「なぜって、例の怪物は今海底にいるところから考えると、あれは魚類の親類なんだ。魚類の親類なら氷の山の上までは昇ってこられないよ。もし来たら冷凍されちまうからね」
「なんだ、ばかばかしい。それにアルプスの中はいいが、末には食糧に困るぞ」
「うん、そのときは夜な夜な下山して、あの怪物狩をして、あべこべに彼等の肉でフィッシュ・フライを作って喰べる」
「はっはっはっ。そんなことはうまく行きやしないよ。僕はもっと違ったすばらしいアイデアを持っている」
「というと、どんな迷案かね」
「最もすぐれたアイデアだよ。某研究所が秘蔵している長距離ロケット機があるんだ。どうせそうすれば、あのロケット機に乗って地球から逃げ出す奴がいるに違いないから、前もってあの機中に潜伏していて、密航するというわけだ。そして月世界あたりへ行ってしまう」
「それはお伽噺だ。今、月世界まで行きつくロケット機なんてあるかよ。不可能だ。それにたとえ月世界に行きついたとしても、向うには空気は全然無いぜ、だから腹ぺこになるよりは、空気に飢えて
「いや、アルプスへ籠るよりは冒険的で近代的で――やあ、部長。どこへ行っていたんですか、さっきから探していましたよ」
「遂に、テームズ河口に繋留してある
「テームズ河口の浮標Dの十一号とは一体何ですか」
「それはね、第二報の入りこんだ道筋なんだ」
「第二報の入りこんだ道筋?」
「そうだ。第二報はいきなりWGY局から放送された。WGY局は第二報をどこから手に入れたか。それを調べてみたんだ。さきの第一報は無電で入った。ところがこんどの第二報は無電ではなかったんだ。それは有線電信で入ったことが分った。どこからその電信がうたれたか。WGY局でそれを見せて貰ったがね、ニューヨーク中央電信局扱いになっている。発信局はロンドンなんだ。海底電信で来たんだね。近頃めずらしい古風なやり方だ」
「ふうん」と一人の記者が
「たしかにそこに一つの性格が認められるね、この発信者のだ……。そこでロンドン局を呼出して、追及してみたよ。するとその電信を受付けた局員が出て来たが、結局それはテームズ河口の浮標Dの十一号から依頼されたものだという……」
「浮標が電信を依頼するということがあるだろうか」
「浮標そのものが依頼したわけじゃない。その浮標に繋留していた船から依頼されたわけだ。その浮標とロンドン局とは、やはり
「ふうん。その浮標に繋留した船がありながらその船名が分らないというのはおかしいね。必ず分らなければならない筈だ」
「ところが、港湾局にも記載がないのだ。つまりその日D十一号浮標に繋留した船はないと言明している」
「それはいよいよおかしい。ちゃんと電信依頼がロンドン局へ届いている。そんなら繋留船が存在しなければならない」
「そこに何か曰くがありとしなければならないだろうな。……とにかくさ、要するにロンドン港がくさい。これからロンドンへ網をかぶせるべきだ。誰か四五名、ロンドンへ行って貰おう。特別に社機を出して貰うよう、局長には話をして来たぜ」
「よし、僕が行こう」
「僕も行く。ワーナー博士一行の生残者か、それとも遺骸かもしれないが、とにかくそれがロンドン内に隠されていることは間違いなしだ」
「うん。成功を祈る。君たちの……」
こんなことから、ロンドンに
話はアイスランド島のオルタの町へ飛ぶ。
今やエミリーは悲しみのどん底にあって、涙と共に日を送っていた。大西洋海底におけるワーナー博士一行の遭難事件、それによって明らかにされた戦慄すべき怪人集団の暴行。彼女の愛人水戸の安否は今のところまだ確められていないが、四囲の情勢から憶測すると、まず彼水戸の運命は芳しからぬ方向を指しているとしか思われない。
ドレゴ記者は、エミリーを毎日のように慰問に来るが、来るたびにエミリーに
そのドレゴが、或る日いつもよりは明るい顔で、エミリーの許を訪れた。エミリーはサンノム老人の下宿の勝手許から、白いエプロンで手を拭きながら出て来た。早くも彼女の手には、ピンク色の絹のハンカチーフが丸まって握りこまれていた。
「やあ、エミリー。今日は珍しい人から手紙が来たよ」
「あら、うれしい。水戸さんから……」
「何でも皆、水戸の話だと思っちまうんだね。違うよ。水戸から手紙が来たんだったら、すぐ電話をかけるよ」
「まあ、つまんない。じゃあ誰から」
「ケノフスキーからだ。モスクワから出した手紙なんだ。これは僕が、約束しておいた手紙なんだ」
「……」
「ほら、これだがね。これを読むと、また面白いことになって来たよ」とドレゴは封筒から出した用箋をひろげながら「こういうことが書いてある。読んでみるよ。――“ゼムリヤ号事件は、まことに不幸な出来事ではあったが、一面から考えると、それはわれらのために全然マイナスではなかった。何故ならばゼムリヤ号がああいう事件に遭わなかったとしたら、わがヤクーツク造船所の技術が如何に優秀なものであるかを、世界の人々はまだ了解する機会を持たなかったであろう。ゼムリヤ号は、とにかく或る巨大な衝撃に耐えたばかりか、その巨力に跳ね飛ばされて実に七十
ドレゴは吐息と共に、片手で自分の
「あなたはお馬鹿さんよ。エミリーによろしく伝言を頼むのところだけを、あたしに読んで聞かせりゃいいじゃないの」
エミリーの目が少し笑った。
「いや、全文読んだ上で、エミリーによろしくと来ないと、感じがでないからね。はっはっはっ……それはいいが、このケノフスキーの提案をどうしたもんだろうね」
「あたしに相談したって、何が分るものかね」
「うん。水戸がいれば早速彼の意見を徴するんだ、
「あたしを馬鹿になさるのね、ドレゴさん」
エミリーが小さい目でドレゴを
「真面目な話なんだよ。僕は困ってしまった。ケノフスキーに恨まれたって何とも思やしないが、しかし何だかこう胸を圧迫されるようなものが残りそうで、いやだね」
「取引をなさってはどうなの。いい条件らしいじゃありませんか」
「だって、こっちからだして提供するものはありゃしないからね。僕はワーナー調査団について大西洋まで行くには行ったが、そのまま引返して来たんだからね、或る婦人の策謀にうまうまのせられて……」
「まあ、ドレゴさん」
「要するに、僕はケノフスキーを満足させるほどの物を持っていないのだ。お気の毒さまだがねえ」
「新聞を片端から切抜いて送ったらどう」
「ケノフスキーを怒らせるばかりだ」
「だって、あなたのような方に、それ以上を求めるのは
「はいはい、よくご承知で……。水戸君とは違いましてね」
「あら、そんな意味でいったんじゃないわ。本当に無理なんですもの」
「まあいいや。少し考えることにしよう。それじゃエミリー夫人。また会うまで」
ドレゴは口笛を吹きながら帰っていった。
その翌日から、ドレゴは何と心を決めたものか、港へ出ては船主関係の人々を探し出しては、すばらしいヤクーツク造船所製の砕氷船を買わないかと、外交員商売を始めた。
「砕氷船なんか買ったって、使うことはありゃしないよ」
と相手がいおうものなら、ドレゴは待ってましたという風に唇を
「使うことは大有りさ。年中時期を選ばず、氷の中で漁業が出来らあね。これは大した儲け仕事だよ、年中休みなしで漁獲があるんだからね」
「えへっ、そんなに年中儲けてどうするんだ。これ以上酒を呑めといっても呑めやしないぜ」
「儲けるのがいやならいやでいいが、この砕氷船を買っとけば、いざ戦争というときには原子爆弾よけには持ってこいなんだ。ほう、あのゼムリヤ号の事さ。あんなに遠方から空中を吹きとばされ山の上にぶちあたってもすこしも壊れないですむんだ。長生きがしたけりゃ一隻買っておきなさい」
「ばかいわねえもんだ。おれは長生きしたいなんて、一度もいったことはねえぞ」
ドレゴは、話のわからない船主の間を辛抱強く訪ねて廻って、くりかえし砕氷船の売込みに
ドレゴは、すっかり疲れ切って、夕暮の埠頭に沖を向いて腰を下ろした。めずらしくうすい霧が動いている。と、その向うから汽笛が聞え、一隻の汽船が入港して来る様子であった。
「あ、グロリア号だ。珍しいなあ」
その汽船はアメリカの貨物船で、二年前まではよくこの港へ姿を現わしたものである。この頃はどうしたものか、さっぱり姿を見せなくなっていた。ドレゴは、見覚えのある奇妙な形をしたグロリア号をなつかしく眺めているうちに、いつの間にか記者へ舞い戻っていた。
「そうだ。あの船長はターナーといったな。
ドレゴはむっくり立上ると、埠頭を海岸通の方へ引返した。
それから十五分ばかりして、ドレゴの乗った小蒸気船が、港内浮標に繋留せられているグロリア号に近づいていった。
舷梯が下ろされていて、その下に二隻ばかりの小汽艇が横づけになっていた。ドレゴはその外側に艇をつけさせ、先着の小汽艇を越えて舷梯の下へとりついた。
舷梯を登ろうとすると、なかから数人の者がどやどやと下りて来た。ドレゴは横にのいて、彼等を通す道をあけた。厚い外套を着て、就中包帯だらけの人物が、その中に交っていた。負傷者らしい。上陸してすぐ病院に入るのであろう。その包帯をした男は、ドレゴの前まで来ると、どうしたわけか棒のようにしゃちほこばった。
「痛むかい」
彼の介添と思われる船員が、うしろから声をかけた。
「いや。……ちょっと
その包帯男は、よろよろとなってドレゴの身体にちょっとぶつかったが、
「あ、危い」
と、彼の介添者に支えられて、小汽船へ乗り移った。ドレゴは、通り路があいたので、舷梯をとことこと登っていった。
舷梯を上り切ると、ターナー船長が立っていたので、ドレゴはほっと安心の声をあげて船長の手を握った。
「やあ、ドレゴ君だったね。アイスランド火酒の味が忘れられないで、またやって来たよ」
「船長、二年間も忘れているなんて、そんな法はないですよ。なんだって永いこと、来なかったんですか」
「会社の重役に訊いてくれたまえ。わしたちは命ぜられなければ、行きたいところへも行けないんでね」
「こんどはどうして来たんです。特別の使命ですか」
「可哀そうな記者君。君たちは地獄の港までも紙と鉛筆を持って行くつもりなんだろう。……魚油と毛皮と、それから例の火酒を少々貰いに来たのさ」
「それだけですか。もっともこんな船じゃあね……」
「こんな船とは……」
「船長、ゼムリヤ号のことは知っているでしょう。すばらしい耐圧力を持った砕氷船でさ。あのゼ号よりもっと強靱な船を買いませんか。ヤクーツク[#「ヤクーツク」は底本では「ヤークツク」]造船所製のすばらしいやつですぜ」
「おや、君は記者の方は廃業したのかね。いつブローカーになったんだ」
「今日からブローカー開業ですよ。これからの安全航海には、ぜひあのような耐圧力の大きい船が必要なんです」
「そうらしいね。こんど本国へ帰ったら重役にそういう船を買うよう話をして置こう」
「あっ、そうだ」
ドレゴが頓狂な声をあげて船長の腕をおさえた。
「船長。この船はアメリカからこのアイスランドへ直航したんでしょう」
「そのとおりだ」
「そうでしょう。じゃあ大西洋の真中を通って来たわけだ。何か見たでしょう、ものものしい風景を……」
「ははは、あれかね。怪人集団の一件だろう」
船長はにやにや笑った。
「見ましたか。どんな風だったですか」
「やあ、あれには愕いたね。午前二時頃だったね、わしたちが気がついたのは……」
「ほう。それで……」
ドレゴは、大きな魚がひっかかったので大昂奮の態で、顔を真赤にしている。
「……飛行機の爆音が夜空を圧しているのに気がついた。夥しい飛行機だ、四発の……。それでこれは演習かな、それとも遂に何事か始まったかなと思った。こっちが爆撃せられちゃたまらんから、わしは全船室に点灯を命ずると共に、探照灯のスイッチを入れて、飛行機の音のする方を照射させた」
「ほう。見えましたか」
「見えたね、銀翼がきらりと光った。飛鳥の群が空へ飛上ったかと思われるような光景だった。四、五十機は見えたがね、それが大体五百メートルぐらいにつっこんで来て、何かをぽいと放り出すんだ。と、落下傘が開いて、そのものがふわふわと暖かい海面へ落ちて行く。何だろう、あれは……。食糧投下かな、それとも機雷投下か。わしたちは船橋に固まって、今にも爆発音が起るかと耳と目とに全神経を集中していたが、一向爆発の起る様子もない。ふしぎだわいと首をひねっていると、大きな声がして無電局長がとびこんで来た。“船長、空中からの命令の無電です。すぐ探照灯を消せといって来ました。これが命令です”。わしは受信紙をとって読んだ。絶対の命令だ。違反すれば、軍行動の妨害者と見なすと注意がしてあった。わしは愕いて、すぐさま探照灯を消させた。わしが見たのはそれだけだ。その後も頭上ではいつまでも飛行機の音がひっきりなしにぶんぶんいっていたがね」
船長の顔が夕闇の中に溶けこんで、その表情が見えなくなった。
「すごいことでしたね。一体それは何だったんでしょう」
ドレゴは吐息と共に
「解釈は君の勝手さ」
「――その地点は……」
「間違いなく例の海域だった」
「機雷攻撃ぐらいで、あの怪人集団が参るでしょうか」
「機雷じゃないと思うね。水中爆雷でもない。もっと別のものだろう」
「船長は、それが何だと想像されるんですか」
「今もいうとおり、解釈は君の勝手さ。しかしねえ、ちょっと面白いことがあるんだよ」
そういって船長、暗闇の中にライターをかちっといわせて、煙草に火をつけた。
「君の身体がひまなら、無電局長のところへ行って、船長から聞いたが面白いものを見せてくれといってみたまえ」
ドレゴは、それを聞くと、猟犬のように甲板を走り、ラッタルを駈上って、無電室の扉を叩いた。
「ほっほっほっ。君は運のいい男だよ、ドレゴ君」
と、局長のブラウンは笑いながら、彼を奥の部屋へ引張っていった。そこは通信機器の修理室らしく、ごたごたとフレームが置かれ、リノリウムの床の上には
局長は、そのフレームの一つの前まで来ると立停って、指した。
「この機械は何だか分るかね」
「いや、分らないね。僕はさっぱりだ、この方面のことは……」
「これはテレビジョンの受影機なんだ。航海中アメリカやイギリスのテレビジョンを受けようと思って、僕が試作中のものなんだ」
「テレビジョン? 遠方の光景を映画のようにうつして見える器械のことだったね」
「そのとおり。この映写幕にうつるのさ」
局長ブラウンは、ぴちんと音をさせて、スイッチを入れた。するとしばらくしてその映写幕が光り出して、その上に、波のような模様が忙しく流れだした。
「今、この映写幕の上に映像がぴったりと停るだろうが、そうしたら君は、そこにうつっているものが何であるか、いい当ててみたまえ」
局長はそういうと、フレームの横に中腰になって、目盛盤をしずかにうごかしていった。ドレゴの目に、沢山の縞目がゆるやかになって来て、やがて映像が幕の上にぴったりと固定するのが分った。
「ほう、何だろう、これは……」
映写幕にうつっているものは、どこか草原の風景らしくある。草の生えている向うに錆びついたボイラーのようなものが、どしんと腰を据えている。空はあまり明るくない――いや、突然その空に、扁平な鯛のような魚群が現われ、幕面を占領してしまった。と思ううちにはやもうボイラーの上をとび越えて、煙のようにかすかになり、やがて姿を消した。
「どうだい、ドレゴ君分ったかね」
「ふしぎな光景だね。これはトリック映画だろうか」
「とんでもない。実写だ。
「だって変だぜ。魚の大群が空を飛んでいる」
「空ではない、海水の中だ」
「えっ、海水の中をだって、だだっ広い草原がつづいていて、魔物のボイラーかなんかが放り出してある……」
「違うよ。これは海の中の光景なんだ。名誉ある記者ドレゴにも、やっぱり分らないんだね。よく見たまえ、草原じゃない、海底だ。だから魚群が現われたって、すこしもふしぎではない」
「が、海の中がこんなに明るいだろうか」
「赤外線で照射してあるから、明るくうつるんだ」
「ふうん。すると……すると、あのボイラーみたいなものは何だ。もしやあの怪人……」
「そうらしいんだ。僕らにも最初のうちはよく分らなかったけれど、
「なにッ、あれが怪人集団の城塞だって。ああ、こんなに
ドレゴは、どきどきする自分の心臓を、服の上から抑えた。
「局長、これはみな本当だろうか。映画のテレビジョンかなんかを中継して、この映写幕へ出しているんじゃないか」
「君が信じなきゃ、それまでだよ。だがこれは映画じゃないと僕はかたく信じている。その証拠には、受信電波をかえると、これと同じものが別の角度や距離からうつるんだ。見ていたまえ」
局長はまたもや受影機の横に
すると幕面の映像が急に洪水のように流れ出し、何が何だか分らなくなったが、しばらくすると、その流れがゆるやかになって、やがてぴったりと停った。そして新しい光景が幕面にうつった。
それは例の怪人集団の城塞と思われる円筒型の構築物が、さっきの場合よりずっと上方から俯瞰した状態でうつっていた。その城塞の下から、もやもやとした妖気が立ちのぼるのが見えた。それは妖気ではなく、実は軟泥が噴きあげられたのではあったが……。
「ドレゴ君、ここを見給え、この籠みたいなもの[#「籠みたいなもの」は底本では「籠みたいもの」]――上からぶら下っていると見えて
「うへえッ。飛行機がテレビジョンの送影機を投げこんで行ったとは、一体どういうわけなんです。爆雷を投げこんで行くのなら、わけは分りますがね」
「うん、これはわれわれのような専門家じゃないと分らないだろうね。アメリカの飛行機は、怪人集団の様子を偵察するために、あのとおり送影機を投げこんで行ったんだと思う。それは賢明なやり方だからね」
「そうかね、そんなに賢明かな」
「知っているだろう、ワーナー博士の調査団一行があの海底で遭難したことを。それに代ってテレビジョンの送影機を投げこむと、尊い人間の生命を脅かされることは全然ないんだからね。それにテレビジョンの送影機をあんなにどっさり相手の周囲に投げこむなんてぇ、こんな大掛りなことは、わがアメリカじゃなけりゃ何処の国がやるだろうか。痛快じゃないか」
「なるほどね、ずいぶん突飛なことを考えたもんだ。ビッグ・アイデアだよ」
「あの籠みたいなものに、送影用のレンズや発振器装置などがついているんだ。そしてあの鋼条の中には絶縁されたアンテナ線が海面までつづいていて、海面からそれがテレビジョンの像電波を発射しているんだ。それをアメリカ本国では、沢山の受影機に捕捉し、あらゆる角度から怪人集団の様子を監視しているのだと思うね」
「すると、怪人の姿もうつっていいわけだよ。それはこの器械じゃ見えないのかね」
「僕もそう思って、さっきから、いろいろと同調波長を変えて、違った映像をうつしてみたんだが、残念ながらそれらしいものを捉えている電波はなかった」
そういっているとき、受影幕の映像が突然ぱっと消えた。あとに明るい縞目の光のみが走る。
「あれっ、変だなあ。同調が外れたかな」
局長は目盛盤を前後へ廻してみた。だが再び前のような映像はうつらなかった。
「周波数はちゃんと合っているのに……変だなあ、電波が消えたらしい」
「どうしたんだ、停電かね」
ドレゴが訊いた。
「停電じゃない。今まで受けていたテレビジョンの電波が停ってしまったんだ。じゃ別の電波に合わせてみよう」
局長は目盛盤をうごかして、ちがった映像を映写幕の上にうつし出した。それはずっと後方に位置する送影機からのものらしく、怪人集団の城塞はずっと小さくなって見えた。その代りに、鋼条で吊り下げられた籠のような形の送影機が五つも六つも見えた。
と、画面が突然ぱっと
「あ痛ッ」
ドレゴが叫んだ。
「どうした、ドレゴ君」
局長がドレゴを背後から抱えた。するとドレゴが、わははと笑い出した。
「どこだ。痛いといったではないか」
「わははは。幕の上でぱっと光ったので、僕は手榴弾かなんかを投げつけられたような気がしたんだ。わははは、神経だよ、全く神経のせいだ」
「人騒がせな男だね」局長はドレゴの身体から手を放して、肩をすぼめた。が、彼はこのとき幕面へ目をやるが早いか、ドレゴが先に発したよりも大きな声で叫んだ。
「あッ、やられた。このへんにぶら下っていたテレビジョンの籠がやられてしまった」
そういっているとき、また、ぱぱッぱぱッと幕上の相ついで閃光が二人の目を射た。
「おいドレゴ君、分るかい。折角投げこんでおいたテレビジョンの送影機が、今
「ええッ、何だって」
「送影機が片端から
「すると怪人集団が、あの籠を見つけて壊しにかかっているんだろうか」
「そうらしい」
といっているとき、幕面がぱっと白くなって映像が消えてしまった。
「あっ、やられた」
「えっ」
「今まで像を送ってくれていた送影機がやられちまったんだ。ああ、それで分った。さっきもこんなことがあったね。あの前の送影機もやられちまったんだ」
「すると、怪人集団がどんどん送影機を壊しているというわけか」
「そうなんだ。それに違いない、早くも彼等は悟ったんだね。テレビジョンで見張られていては都合が悪いというんで、どんどん壊しにかかっているんだ。ああ、折角の名案も効なしか」
ドレゴは落ちつかぬ心を抱いて、グロリア号から埠頭へ戻った。
小蒸気船からあがるとき、彼はポケットに手を入れて金をつかみ出した。と、金に変って、彼の持ち物ではない小さいナイフが一挺入っていた。どうしたわけだろうと
海岸通は明るく灯がついて、いつものように客で賑っていた。
彼はすっかり精神的に疲労を感じていたので、早く一杯やりたかった。そこで、あまり
大入満員だった。相変わらず下級の船乗の顔が多い。
「これはこれはいらっしゃいまし、ドレゴさま。奥の方にいい席がございます」
ボーイ頭が心得顔に先に立って案内した。
そこは柱の蔭になっていたが、小綺麗に飾ったいい席だった。彼は強い酒を注文した。ボーイが去ると、すぐ女が来た。彼は今日は用がないからといって女達を無愛想に追払った。
酒は猛烈にうまかった。ボーイを呼んで、次の分を注文すると共に、彼へチップを、はずんだ。
彼の掌の上に、またもや彼の持ち物ではないナイフが載った。彼はそのことを改めて思い出した。
「どうしてこんなものがポケットに入っていたんだろう」
彼はそれを捨てようとして隅っこへ放りかけた。が、ふと気がついて、それをやめると、掌をひらいてそのナイフにじっと見入った。
彼の顔が紅潮して来た。彼は拳でぽんと卓子の上を叩くと、顔色をかえて立上った。
「……おお、これは水戸のナイフだ」
そのとき彼の腕をしっかりと抑えた者があった。ドレゴはその方へ振向いた。毛皮の長い外套を着、頭には同じく黒い毛皮の帽子をすっぽり被り、首のところを――いや顔の下半分をマフラーでぐるぐる巻き、茶色の眼鏡をかけた男が立っていた。
「しずかに……。御同席ねがえましょうかな」
「君は誰?――ああ、そうか……」
「しずかに。重大なんだ。極めて重大なんだから……」
その毛皮の男はドレゴを席に戻すと、自分もその横にしずかに腰を下ろした。ボーイが来たので、ドレゴは同じ酒を注文した、咽喉にひっかかったような声で……。
ボーイが向こうへ行ってしまうと、ドレゴはじっとしていることに、汗をかいて努力をした。しかし彼の靴は床をハイ・ピッチで叩きつづけている。
「……心配したぞ」
もうこれ以上
「うん」相手は肯いた。
「僕が今自由の身になってこの町にいるということが知られては、非常に
「そうか」
「しかし君の力を借りないでは、僕は思うように行動がとれないんだ」
「力は貸そう。で、身体はどうなんだ。一行全部遭難して全滅だと伝えられているが……」
「それは心配するな。少くとも僕自身は大した負傷でもない」
「それを聞いて安心した。このナイフは君へ返しとこう。いつ僕のポケットへ突込んだのか」
「あの汽船の舷梯の下で……」
「あっ、あのときか」
ドレゴは大きく目をあいて、友の顔をまじまじと見返した。
「頭から顔にかけてぐるぐる包帯を巻いていた怪我人が君だったのか」
「
ボーイが酒を置いて、卓子の上を拭いていった。
「これから何をしようというんだ、人々の目から隠れて……」
「むずかしい使命だ、ワーナー博士からの切なる懇請によって……」
「ワーナー博士も無事なのか」
「まあねぇ」
「で、何をするって」
「潜水艦を手に入れなければならない」
「潜水艦? そんなものはアメリカにたくさんあるんだろうに……」
「アメリカのでは駄目。ぜひヤクーツク[#「ヤクーツク」は底本では「ヤークツク」]造船所製のものが必要なんだ」
「ヤクーツク[#「ヤクーツク」は底本では「ヤークツク」]造船所のものが……。だってあそこで潜水艦を作った話は聞いていないぞ。それに、何もわざわざあんなところの手を借りなくても……」
といいかけてドレゴは出かかった言葉を急に嚥みこみ目を皿のように大きくした。
「……そうか、あの一件だな、ゼムリヤ号の耐圧力……」
「そうなんだ。あのすばらしい耐圧力を持った潜水艦がぜひ欲しいんだ」
「ふうん、それは……それはどうかなあ、果たしてうまく行くかなあ。困難だねえ、大困難だねえ。それにあそこで潜水艦をこしらえたという話は一向耳にしていないからね」
「たとえこれまでに建造したことがなくっても、今度ぜひ建造して貰わねばならないのだ」
「大困難。不可能。たとえ百の神々が味方したって、まず絶望に近いね」
水戸はドレゴの家に隠れて生活することとなった。
ドレゴは、水戸の顔を見るなりエミリーの恋を水戸に伝えたく思ったが、仲々その機会がなかった。それでもその翌朝は、彼に伝えることに成功した。だが水戸は一笑に附しただけであった。ドレゴは不満であった。東洋人というやつは、なぜにこう人間味がなくて枯れ木のようなんだろうと。
エミリーに一度会ってやることを
そのことについては幸いにもドレゴがケノフスキーと取引関係があったので、相当便宜を図れるかと思われた。そこで彼はケノフスキーへあてて、至急会いたき旨の電報をつづけさまに数通も打った。しかしどういうものか、ケノフスキーからの返電は一度も来なかった。水戸は、見苦しい焦燥の色も見せはしなかったが、彼は次第に無口の度を加えた。
その頃、新聞やラジオは、大西洋の特定水域の航行航空禁止を報道すると共に、アメリカ空軍が空中よりテレビジョン送影機の投下を行いつつあり、それは相当の効果をあげている旨を伝えた。それに続いて、そのテレビジョンが新聞写真とニュース映画とによって、世界の人々の目にうつるようになった。しかしそのテレビジョンをそのまま受信して公開することだけは禁止されていた。
今や大西洋海底に怪人集団が蟠居していることは世界の隅々まで知れ亙った。そしてそれに対抗する手段が活発に議論せられるに至った。小田原評定をつづけていた世界連合の臨時緊急会議も
“――この際最も必要とするところは、如何なる方法により、かの怪人たちとわれわれとが意志の疎通を図ることが出来るかという問題にある。この問題が解決しないかぎり、われわれが如何に平和的解決を望んでいたところで、その目的は達せられないのだ。有能なる世界の人士たちよ。至急知力を働かして、この問題について適切なるアイデアを本連盟へ提供せられんことを。われら地球人類の安危は、一にこの問題の解決如何に懸っているのである。云々”
というような文句があるのを見ても知られる。
この対怪人意志疎通法の募集は、世界始まって以来の莫大なる懸賞付で行われた。その一等には、地中海にある一孤島に広大豪華なる文化施設を施し、交通通信設備を完備し、向う百年に亙っての孤島経営生活費を提供し、その孤島は永世中立として他より侵犯せらるることなきを保証するというのであった。
このすばらしい懸賞は、世界中の人々をわくわくさせた。そしてその効果は大いにあって、世界連合の会議には毎日応募者の手紙が山のように積まれた。
だが、やっぱり探し求めている適切なる意志疎通法はどの手紙からも発見されなかった。あらゆる単語を一々美しい絵入りで説明したものをまず送っておけという説もあった。喜怒哀楽とか、平常よく繰返される行為を、トーキー映画におさめて送りつけてはという説もあった。最も自信のある手真似通信法を書いて来た者もあった。そうかと思うと、百人の美女を先方へ送って、まず懐柔すべしという説もあった。地球上の御馳走をうんと送れというのもあった。が、どれもこれも靴を隔てて痒きを掻くの流を出でなかった。
その一方において、怪人集団を即時※[#「歹+繊のつくり」、89-上段-9]滅すべしとの強硬意見が日に増して有力になって行った。テレビジョン送影機を雨下する代りに、なぜ原子爆弾の雨をかの怪人集団の蟠居地域へ送らなかったのかと非難する者さえあった。
とにかく、至急何事かを怪人集団に対してなさねば済まないことが、誰にも分った。だが、その実行方法の適切なるものが知られないために、世界の人々は日毎に焦燥と憂鬱の度を加えていったのである。それと共に、世界連合会議への[#「世界連合会議への」は底本では「世界連合会議の」]非難は厳しさを増していった。
その結果、遂に世界連合会議は具体的に行動を始めることを発表した。それは実にワーナー博士の遭難から二週間を経た後のことであった。
何を始めたかというと、まずグリーンランドの海岸から、水中を伝わる超音波をもって、毎日のように怪人集団の城塞の方位へ向けて音楽を送ることになった。これは音楽というものが最も精神的な純粋な芸術であるところから、或いは怪人たちにも幾分理解されるのではないかという狙いだった。
その音楽の間に、城塞内に万一捕われて生きているわが調査団員がいるかもしれないというところから、これに対して激励の言葉とそして平和的折衝を懇請する件を、やはり超音波の電話で送ることとなった。
それから、怪人とわが地球人類の交歓の段取を編集し、これを一連の映画に撮影したものを多数こしらえ、映写機及びその回転動力とをつけて荷造りしたものを数百台用意し、これをかの怪人城塞の近くに投下させることにした。
もう一つは御馳走政策で、これは地球上の珍味珍菓を潜水艇に満載し、怪人城塞へ送りつけることだった。
こういう実行案を発表してみると、何だか大いに効果があがりそうに思われて来た。むしろなぜかかることを早急に実行しなかったか、その遅きを残念に思うとの批評も出て来て、当局を悦ばせた。
択ばれた対策は、いよいよ実行に移された。
その効目はどうかと、全世界の人々は、その報告を待ちかねた。だが、その報告は人々の期待を裏切って遷延し、やっと五日後になって発表をみたが、それによると超音波によるメッセージも効果が見えず、映画は届くより前に水中にて焼きつくされ、御馳走船は例の海域の三キロの近くまで行ったときに、突然大閃光と共に火の塊となって空中にまいあがり、跡片もなくなったそうである。怪人集団は何に
大失敗と分ると、怪人集団に対する世界の恐怖と激昂とは、ますます強くなっていった。
どうすればいいのか。だから躊躇するところなく怪人集団の海底城塞に大攻勢を加えるという主戦論は、いよいよ高まった。そして、平和的手段を要望する側の気勢は、反対に静けさを加えた。
アメリカのユタ州の技術大学のアンダーソン教授が、始めて一つの対策研究を発表したときは、実はあまり世界の注目を惹かなかった。そのときはもう全世界が深い絶望感に捉われていて、またしても対策案かという低調な態度でこれを眺めたからであった。
そのアンダーソン教授の研究というのは、次のようなものであった。
およそ頭脳を持つ生物は、それが頭脳を使用したときには、その思考に応じて特有な電波を
教授は、この画期的なる新研究をこんどの事件に利用することができるように思った。そこで教授は、極秘裡に
ワーナー博士は、困憊の極に達していたが、よくこの教授の説を理解し、教授に会見することと決め、この旨返電した。
それから後は、サンキス号はオルタへの入港を取止め、そして秘密航海の途についた。またワーナー博士一行の存在もまた秘密に保たれることになったのである。サンキス号はその夜は海上に漂泊し、この翌日の夜になってテームズ河を溯江し、ロンドン港に入った。そこで博士と三名の生残った助手と、それに水戸を交えた四名が上陸した。
このときワーナー博士は、思う仔細があって、水戸を手放し、アイスランドへ赴かせたのである。そのわけは、既に水戸がドレゴに語ったところによって朧気ながら輪郭が出ているが、或る容易ならぬ特別の使命を彼に授けたためであった。
ワーナー博士ほか二名は、その夜飛行機で大西洋を越え、
なお博士の発表によれば、この生理電波――と博士はその頭脳使用によっても生ずる電波をそう名付けている――の利用こそ、かの怪人とわれら地球人類の間の意志疎通を図り得る純粋通信手段だと信ずるというのである。
教授のこの発表は、さきにも述べたように、世界的な反響は大してなかった。ただ専門家の間にはこの説を取上げ、活発な論議を行ったところもある。但し教授の説に敬意と賛意を表する学者たちが、十分の一反対し、或いは疑問を持つ者たちが十分の七興味ありとして、賛否を述べないものが十分の二あった。つまり教授の説をそのまま信ずる者は割合に少かった。
アンダーソン教授は、その反駁にも一切応うところなく、只一回の発表で、あとは沈黙してしまった。新聞記者は直ちに教授の研究室へ駈付けたが、教授の姿はなく、その行方は知れなかった。研究室の友人の話では、もう三週間も前から教授に会わないそうであるし、研究室も鍵が懸ったままで、一人の助手さえも残っていなかったという。
ヤクーツク[#「ヤクーツク」は底本では「ヤークツク」]造船所製の耐圧潜水艦ウラル号が大西洋へ乗出したのは、アンダーソン教授の生理電波説の発表があってから、更に一週間の後のことだった。
このウラル号は、ソ連船員によって運転されていた[#「されていた」は底本では「さられていた」]。
そしてこの潜水艦には十人の外国人が特別に乗組んでいた。その人たちの顔触れは、ワーナー博士と二人の助手、アンダーソン教授とその三人の助手、それからドレゴ記者、水戸記者、それにエミリーだった。ケノフスキーもその一行に加わっていた。
この顔触れによって、この潜水艦ウラル号が一体何の目的あって大西洋へ乗出したか、その理由が想像できるであろう。
世界に今も存在する少数の歪んだ視力の持主たちは、このウラル号を見て、ふしぎな感を懐くことであろう。これこそ呉越同舟だというかもしれない。
だがそんな見方は、始めから誤っているのだ。今日となっては、もはや地球人類の間に呉越同舟だなんて見方は成立しないのである。いや、厳密にいえば、ずっと前からそんな悲しむべき状態は存在しなかったのである。広大なる宇宙の中に真に
そういう他の惑星の高等生物をまだわれわれが一度も見たことがないという理由によって、そういう高等生物が存在しないというものがあったとしたら、それは、余程の楽天家か、愚鈍の者か、さもなければ哀れむべき想像力の貧困なる者である。コロンブスの船がアメリカ大陸に到着する前において、アメリカ・インディアンが白人の存在を全く考えなかった如く、また黒船が来航する前において、蒸気船を駆使して大洋を乗切っているアメリカ人のあることを知らなかった幕府の役人の如く、この広大なる宇宙に地球人類以外の優秀なる生物の存在を想像し得ない者は真に気の毒なる人間である。
彼等他惑星の生物が、まだわれわれの前に現われないのは、彼等が真に存在しないのではなくて、まだコロンブスの船がアメリカ大陸に到着する前に等しく、また黒船がまだ浦賀沖へ姿を見せる前と同じ状態にあることを知るべきである。
果して然らば、地球人類がお互い同士に
大西洋の海底に突如として現われた怪人集団は、地球人類をして、永年繰返された人類同士の戦争に対し見事に終止符をうたせることになった。ウラル号を指して、呉越同舟だなんて嗤う者があったら、それは愚劣であろう。ヤクーツク[#「ヤクーツク」は底本では「ヤークツク」]造船所は、秘密の耐圧潜水艦を提供し、しかもワーナー博士とアンダーソン教授の希望どおりに短期間に改造を加え、乗組員の全部を提供した。至宝ワーナー博士とアンダーソン教授は、ウラル号にその運命を托したのだ。この快挙を具体化させた者は、ドレゴ、水戸、エミリーの三人と、
ウラル号は
深度三十メートルまで降りると、艦は水平に直った。水中レーダーは、完全に城塞の位置を捉えていた。艦は直進する。
それから暫くして、アンダーソン教授の手によって、いよいよ生理電波で変調された超音波が城塞へ向けて発射された。これは、
――尋ねたいことがある。
という呼びかけの思想を現わしているものだった。これは十秒に一回の割合で発射された。それと共に、怪人集団から応答があるかと、受音装置が広汎な幅を持って相手の信号を探し続けた。
だが、何の応答もなかった。
その日別途に約二百台の集電器が怪人城塞の周囲に投下された。この集電器は城塞の近くに落ちて、怪人たちの発する生理電波を吸収し、そしてそれを水上に浮かんでいるアンテナを通じて放送させ、それをグリーンランドの[#「グリーンランドの」は底本では「グリーランドの」]海岸無電局が受信することになっていた。そして更にそれは局より超音波に変えて水中へ放送され、当然ウラル号へも届くことになっていた。ところが、これがうまく行かなかった。そのわけは、怪人集団の警戒心はいよいよ鋭くなって、城塞附近に投下される物に対して監視を怠らず、水面から落ちて来たものは城塞に達するまでに片端から爆破していたからであった。
ウラル号の使節団は、それに
ウラル号が怪人集団の城塞の手前五キロのところに達したとき、突然艦は真正面より猛烈な外力をうけた。それは怪人集団の城塞よりの攻撃に違いなかった。もしこれが普通の構造を持った潜水艦なら、立ちどころに火の塊と化し去る筈であった。だがわがウラル号の場合はそうはならず、そのまま海中を後方へ一キロばかり押し返された――というよりも叩き飛ばされたのだった。
もしワーナー博士をはじめ乗組員たちが、緩衝帽衣をつけていなかったらとしたら、彼等はこの激しい衝撃によって、頭部を壁にぶっつけて
また艦体は、ヤクーツク[#「ヤクーツク」は底本では「ヤークツク」]造船所の研究の成果による最も強力な耐圧構造を持っていたので、巨大な外力を受けた瞬間に、前後に約二分の一に収縮したが、破壊を免れることが出来た。それから艦体の外部に張りめぐらされた網状の電界中和装置は、怪人集団の城塞から発射した嵐のような原子弾をよく捕捉し、中和して無害とならしめた。
「目標までの距離、五千八百……」
航海士がレーダーにあらわれた目盛を元気に読みあげたときには、艦は再び正常な航路についていた。
「……五千五百……五千四百……」
やがて再び艦が城塞までの距離を五キロに縮めたとき、又しても正面から外力によって突き戻された。
が、やっぱり同じ順序によって、艦はなお安全であり、航路を恢復した。
こんなことが前後に三時間に亙って六回も繰返えされた。だがウラル号とその乗組員は、すこしもひるむ色を見せず、執拗に城塞への肉迫をくりかえした。
「この次起ったら七回目だぜ。少々こたえるね」
ドレゴが遂に弱音をちょっぴり吐いた。
「われわれはピストンにつかまっているんだと思ってりゃ、大したことはないやね」
水戸が痩せ我慢を見せた。エミリーが二人のうしろから、火酒の壜を差出した。
「ありがとう。エミリー。君は気持は何ともないのかね」
そういいながらドレゴは壜から
「あなたたち二人が気絶した後で、あたしはゆっくり目をまわすつもりよ」
「女は気が強いね。無理もない。大事な、殿御を先ずもって介抱する義務があるからね。おい水戸。エミリーの言葉を聞いていたかい」
「聞えたようだがね」
「僕も恋人を一緒に連れてくればよかった」
「有りもしないのに、
エミリーがまぜかえした。
「目標までの距離、四千七百……」
航海士の声がした。
「ほほう、四千七百メートルか。これは意外だ。こんどは攻撃をくらわないぜ」
水戸が目を輝かせた。
「……四千六百……四千五百……」
艦は進力を早めて前進した。
艦内には活気があふれ、緊張の度が増した。アンダーソン教授は、怪人集団への信号を変更した。
――あなたがたの傍まで近づいた上で、互いに十分話しあいたい。
この複雑な内容の生理電波が、彼等に理解されるかどうか、少し疑問があった。だが、それ以後においても、相手からの攻撃が起らないままに時刻が過ぎて行ったので、この信号は多分相手に理解されたことと思われた。城塞への距離が遂に千五百メートルにまで短縮したとき、俄かに艦内の受信器が働きだした。
――来たぞ。
――見える、見える。
――早くあれを破壊せよ。安全のために……。
――あいつらは、われわれに何かを尋ねたいといっているのだ。しばらく待った方がいい。
――何遍でもやって来るわ。
――叩き潰せ。
――いや、そっくり捉えた方がいい。
――慾張るとよくない。この前採収しただけで、十分だ。
――違った性別の生物が乗っている。あれをぜひ捕えて帰りたい。
エミリーのことをいっているらしい。エミリーはそんなことは知らないで、水戸の背中を後から抱えるようにしている。――怪人集団は、厚い綱鉄を透して艦内の様子を見る力を持っているようだ。
ワーナー博士は、艦の前方にある鋼鉄張りの窓を明けさせた。その窓のところにはテレビジョン送影機のレンズが取付けてあった。だから艦内の受影機に、近づく城塞の影が入って来た。
城塞の一部に、四角な明るい飾窓のようなものが開いていた。それはこの前に水戸が海底において認めたあの部屋らしかった。その飾窓の中には、大勢の怪人が顔をこっちへ向けて
――皆、中へ入れ。
怪人の中から、そういって叫んだ者があった。
――なぜ入るのか。
――これから大切な通信を相手へ送るんだ。さわぎ立てては困る。皆中へ入れ。
すると、飾窓のようなところへ犇き合っていた大勢の怪人たちは、ぞろぞろと、うち連れ合って、部屋を出ていった。そして後には、一人の怪人だけが残った、奇妙な器械の立ち並ぶ間に……。
アンダーソン教授とワーナー博士は、互いに身体をぴったり寄せ合い、前方を凝視している。映写幕面の上に、例の一人の怪人がやはりじっとこっちを
エミリーは水戸にしがみついて、歯をぎりぎりいわせた。
――停れ。停れ。
怪人が信号を出した。それはこれまでにない明瞭な強力な信号だった。
ワーナー博士はエンジン停止を命じた。
「目標への距離三百八十……」
航海士が叫んだ。[#「叫んだ。」は底本では「叫んだ」]
今や怪人城塞とウラル号とは、約三百メートルの間隔をおいて相対峠しているのだ。
――承知した。われは停止した。
アンダーソン教授が応答した。
――何を尋ねるのか。
怪人が
――
この返事は、遺憾なことにその意味が怪人に通じないらしかった。こっちからは、それを繰返し信号した。
――分らない。
怪人は、そう返事して来た。
博士と教授とは顔を見合わせた。短い協議の結果、新たな信号が相手に向って発せられた。
――貴下達はそこで何をしているのか。
この信号は了解されたと見え、すぐ返事が来た。
――われわれは動けなくて困っている。
――困るものがあれば、持って来てあげたいと思う。
――不用だ。
――われわれの仲間はどうなったか。生きているか。すぐ釈放せられよ。
このうちワーナー調査団員の釈放を要請した。だがこの信号はよく通じなかった。それで繰返し別の言葉にかえて通信した。
――彼等は動いている。
ようやく返事があった。
――すぐ彼等をこっちへ送りかえせ。
――否。彼等はわれわれにとって貴重な収穫だ。
――それは困る。ぜひ返せ。
――否。
――他の物と交換しよう。
――否。
怪人は
――欲しいものがあるなら、持って来てあげよう。何が欲しいか。
――何でも欲しい。すべてはわれわれに珍しい。
――よろしい。われわれは今艦内にそれを持っている。近づいて、それを渡したい。
――待て。……この次のことにする。君たちはすぐ帰れ。
――今、渡したい。
――帰れ。すぐ帰れ。
怪人はやっぱり頑固にいい張る。ワーナー博士は今日の仕事を諦めねばならなくなった。
――では、われわれは帰る。この次は、いつ来ることが許されるか。
――何?
――われわれは明日今頃にここに来たい。
――明日? 今頃?
これは始めから危ぶまれていたことであったが、相手に通じなかった。時間の単位がはっきり分からないからだ。
――われわれはここへ来る、太陽が再び上に来る頃に……。
――よろしい。分った。早く帰れ。
ウラル号は再びエンジンを廻して、早々に怪人城塞から立ち去らねばならなかった。
ワーナー博士たちは、その翌日、まだ疲れの取れない身体に鞭打って、再びウラル号を駆って海底の冒険に乗出した。
ところが意外なことに、昨日に引換え、今日はレーダーに怪人城塞が感じなかった。
どうしたんであろうか。
たとえレーダーに感じなくても、怪人城塞の位置は分っていたので、航海には困らなかった。
現場に近づくに従って、怪人城塞が、有るべき場所から姿を消しているのが確かとなった。
「どうしたんだろうか。怪人たちは移動したんだろうか」
「でも、われわれは動けないと、咋日
「そうだったね。だが、たしかに見えない。早く傍まで行ってみよう」
ワーナー博士たちは不審にたえない面持ちで、ウラル号を現場へ急がせた。
現場に到着して発見したものは、潜水服に身を固めた三人の人間――ワーナー調査団員だけだった。彼等は直ちに艦内へ収容された。
三人は救助されると、一せいに気を
二人の助手と、ホーテンス記者だった。
「いや、ひどい目に遭いましたよ。何しろ言葉が通じないのでね。一番困ったのは食事だった。妙なものを食わせられた。
と、ホーテンス記者は、すっかり
「今から十時間ばかり前のことでしたよ。僕たち三名は一旦脱がされていた潜水服を着せられ、それから外へ出されたんです。おやおや、どうするつもりかなと思っていたら、それから暫くして彼奴等の船――怪人城塞てぇやつですかね――それがすうっと浮き上った。僕たちがあれよあれよと見まもっているうちに、あの船はだんだん上へあがってしまって、やがて見えなくなったんです。誰か知っていますか。あの化物たちの船の行方を……」
誰もそれに応える者はいなかった。
後に分かったことであるが、丁度その時刻と思われる深夜のこと、或る
「怪人集団は、地球から撤退したんだ。恐らくエンジンの修理が出来たんで、出発したんだろう」
ワーナー博士は、そのように説明した。
ホーテンスの話によると、彼等三名以外の者は城塞へ収容されて間もなく死亡したという。彼等の遺骸だけは、戻って来なかった。恐らく怪人たちは、この前日のこっちからの申し入れを聞入れて、生きているホーテンスたち三名を返して寄越し、その代り遺骸となっている分だけは、すばらしい土産――地球人類の標本として、彼等の星へ持ちかえったものと思われる。
怪人集団は、本当に地球を撤退したものらしく、その後念入りに大西洋の海底探査が行われたが、彼等の姿もその城塞も発見されなかった。またかつては
こうして、ゼムリヤ号の山頂座礁事件から始まった一連の恐怖事件は、一応解決し、終結をとげたのであった。そしてこの事件の名称は、ゼムリヤ事件の名誉ある第一報発信者のドレゴが採用したとおり“地球発狂事件”と呼ばれることに本式の決定をみた。この物語はこれですべて述べ終ったのであるが、なお、この上に書きつけて置くのがいいかと思われることは、エミリーが遂に水戸夫人となったことであるが、これはそう簡単なことでなく、殊に当時水戸が仲々うんといわなかったのを、ドレゴがさんざん説きつけてやっと結実に至ったのだった。それは水戸がエミリーを嫌っているわけではなく、水戸は結婚という問題をこの十年あまり全く考えたことがないためであったという。
それから、これは今更説明する必要もあるまいが、ゼムリヤ号がヘルナー山頂に吹き上げられたのも、駆逐艦D十五号が一団の火焔と化したのも、共に彼の怪物団の行使した驚異のエネルギー投射によるものであった。
それからもう一つ、水戸記者が、かかる事件を探訪して、「あのような事件を肯定するためには地球が発狂したと思わねば答えが出ない」といった言葉は、正しく当っていた。確かにそうであった、あれは地球外における力が作用したものであって、地球だけの諸条件をもってしては到底解答が出来ないものだった。だから水戸記者が初めからこれを「地球発狂事件」と命名したのは的中だったのである。
すぐれた直感の奥には必ず正しい真理が存立するものなのである。