村住居の秋

若山牧水




小さな流


 この沼津の地に移住を企てゝ初めて私がこの家を見に来た時、その時は村の旧家でいま村医などを勤めてゐる或る老人と、その息子さんと、この家の差配をしてゐる年寄の百姓との四人連で、その老医の息子さんが私たちの結んでゐる歌の社中の一人であるところから斯んな借家の世話などを頼むことになつたのであつたが、先づ私の眼のついたのは門の前を流れてゐる小さな流であつた。附近を流るる狩野川から引いた灌漑用の堀らしいものではあるが、それでも水量はかなり豊かで、うす濁りに濁りながら瀬をなして流れてゐた。
『今日は雨の後で濁つてますが、平常へいぜいはよく澄んでるのですよ。』
 と、早稲田の文科の生徒でその頃暑中休暇で村に帰つてゐたその息子さんは、同じくその流に見入りながら私に言つた。
 いよ/\家族を連れて東京から移つて来て見ると家が古いだけにあちこちと諸所造作を直さねばならぬところがあつた。井戸の喞筒ポンプなどもその一つであつた。完全に直すとすると十八円ばかり出さねばならなかつた。その時その余裕が私に無く、差配一人でも出し渋つた。そしてほんの当座の修繕をしておく事にして、差配は私と妻とを連れて勝手口から小さな畠の畔を通りながら桜や柳の植ゑ込んである一ならびの木立の下まで来て、
『なアに、これがありますからあちらはほんの飲み水だけで沢山ですよ、何や彼やの洗物はみな此処でなさいまし。』
 と言つた。
 其処には特に目にたつ大きな枝垂柳が一本あつて、その蔭の石段をとろ/\と降りて例の流に臨んだ洗場がこさへてあつた。
 其処は石段が壊れてゐて足場がわるく、向側の道路からあらはに見下されたりするので妻などはよくよくの時でなくては出掛けて行かなつたが、埃つぽい真夏の道を歩いて来た時など下駄のまま其処から流の中に歩み入つてゆくのは心地よかつた。八歳になる長男などは泳ぎも知らぬ癖に私の其処に行くのを見付けては飛んで来て真裸体になりながら一緒になつて飛び込んだ。水の深さは恰度彼の乳あたりに及ぶのが常であつた。後にはその妹も兄や父に手を取られながらその中へ入つてゆくやうになつた。そして其処に泳いでゐる小さな魚の影を見たと云つては大騒ぎをして父子おやこして町に釣道具などを買つて来たりした。
 その年の八月が過ぎ、九月も半ば頃になるといつとなく子供たちは其処に近づかなくなり、水量も幾らか減つて次第に流が澄んで来た。そして思ひがけなくもその柳の蔭の物洗場に一面に曼珠沙華まんじゆしやげが咲き出した。まつたく思ひがけないことで、附近の田圃の畦などに真赤なその花を一つか二つ見附けてひどく珍しがつた頃まで、まだ気がつかなかつたのであつた。オヤ/\と思ふうちに、咲きも咲いたり、まつたく其処の土堤を埋めて燃えひろがる様に咲いて行つた。
 盛りの短い花で、やがてまた火の消えた様にいつとなくひつそりと草隠れに茎まで朽ちてしまふと、今度は野菊が咲き出した。ぽつり、ぽつり、とそれこそ一つ二つの花が光の中に浮くやうに静かに徐ろに草むらのなかに咲いて来た。附近の田圃も其処此処と刈られ始めて今は全く灌漑の用はなく、唯だ斯うした家ごとの洗場や野菜洗のために流れてゐるらしい水はいよ/\このごろ痩せて澄んで来た。柳や桜の葉も次第に散つて手足を洗ひに日に一度位ゐづゝ私の出てゆくその洗場の石段などはおほかたその落葉のために埋れてしまつた。

土橋


 道路から小さな流の上にかけられた厚ぼつたい土橋があり、それを渡ると花崗岩の門が立つてゐる。その門から一二間の広さでゆるやかに曲りながら十四五間ほど小砂利が敷かれて、其処にまたつたのからんだ古びた冠木かぶき門がある。私の好きなのはその石の門と土橋との間にある二坪あまりの所から富士を仰ぎ、遠く沼津の町の方面を見ることである。土橋の上も無論よい。移つてからもう三月ちかく、よほどの雨の日でもなくば私は先づ毎朝此処に来て眼を覚すのを楽しみとしてゐる。
 この家はもとどんな人が建てたのだか、元来は矢張り百姓家らしいが、それから何代かの間を経てあちらに継ぎ足しこちらを造作して今日に及んでゐるらしい。が、とにかくその入口の土橋はまさに正しく富士の嶺に向つて架けられてある。
駿河するがなる沼津より見れば富士が嶺の前に垣なせる愛鷹あしたかの山
愛鷹の真黒き峰にまき立てる天雲あまぐもの奥に富士は籠りつ
 先づ愛鷹の山が見える。この愛鷹山は見やうによつては富士の裾野の一部が瘤起したものとも思はるゝほどの位置と形とを持つて居る。やはらかに四方になだれた裾野の、海に向つた一端に其処だけ不意に隆起したやうな、三千尺ほどの高さを持つた山である。そして沼津あたりの海岸から見ればこの山の麓からまた直ちに富士の裾野と調子を合はせて西南東の三方にゆるやかに拡がつてゐる。山の五合目近くまで、即ち富士の裾野と同じ様なゆるやかな傾斜を持つた部分までは大抵いま開墾されてゐるやうで、それから上が急に嶮しくなり、そのあたりから御料林だといふことで墨色をした木深い峰となつてゐる。その峰の真上の空に富士山は静かに高く聳えてゐるのである。
 移つて来た頃からツイこの十日ほど前まで、この富士山もまだ真黒な色をしてゐた。木深いためではなく、あらはに見ゆる山の肌が黒いので、愛鷹の峰とちがつて何となく寂しく寒く眺められてゐた。この山は矢張り遠くから見るべき山だ、近くでは駄目だ、と毎日思つてゐたものであつた。
 が、いつであつたか、もう二十日も前のこと、或朝非常によく晴れて寒い朝があつた。附近の野菜畑の間を歩いてゐると畑中にゐる女房たちが、寒い筈だ、今朝は初めて山に雪が見えたと挨拶してゐる声を聞いた。よく見ればいかにも鮮かな朝日を受けた頂上のあたりに、微かに白く降つてゐるのが見えた。それは昼になつてはもう影もなくなつたが、それから折々さうした日が続いた。そして一昨日の夜のことであつた。かなりに烈しい雨が降つて、朝かけてからりと晴れた。何気なく私はいつものやうにその朝早く門前の土橋の上まで来て思はず息を呑んで立ち止つた。真青な空に浮き出た山全体が、それこそ毛ほどの隙もなく唯だどつしりと真白くなつてゐたのである。驚いて家に飛び込んで、まだ睡つてゐた妻子や、信州から来て滞在してゐた友人やを引き起して、土橋の上まで連れ出してそれを仰がしめたのであつた。そして恐らくこれが今年この山の根雪となるものと思はれたのであつた。斯うなるとまたこの山の姿は一段と美しく見えて来る。もう遠近をいふ必要がなくなつて来るのを感ずるのだ。寧ろ近いだけいゝかも知れない。
 沼津の町はこの大正三年に全焼したのであつた。狩野川の川口に在る漁師町らしい場末などが多数残つただけで殆んど全部焼けてしまつた。で、今の町は建て直されてからまだ間のない町なのだ。和風洋風と半々に混つた町の建築がいづれもみな新しく、且つ土地の気風から殆んど東京化してゐる様な所なのでその建てぶりもなか/\に気が利いてゐる。そのうら若い町の横顔が私の門前の土橋の上から実にくつきりと見渡さるゝ。
 土橋を道路に出ると、道路の下からずつと左右東西に打ち開けた水田で、田の向側には一列に青い竹藪が連つてゐる。その竹藪の向うの蔭をば極めて水のゆたかな狩野川が流れてゐるが、その四五丁下流に当つた向岸に町の半面は見えてゐるのである。
 その辺は町の中心でも目貫めぬきの場所で、会社銀行料理店などから普通の商家まですべて大きいのゝみが並んでゐる。それをずばりと切断した様な河岸の軒並がはつきりと水田の末に眺めらるゝのだ。十四五丁距てた距離から云つても、東南の日光を受くる方角から云つても、次第に刈られる冬の姿を表はしてゆく昨日今日の田圃の前景から云つても、いよ/\この町の遠望は私に楽しいものとなつてゆく様である。





底本:「日本の名随筆84 村」作品社
   1989(平成元)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第六巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年6月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2011年5月28日作成
2016年1月19日修正
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