私が沼津に越して来ていつか七年経つた。或はこのまゝ此処に居据わることになるかも知れない。沼津に何の取柄があるではないが、唯だ一つ私の自慢するものがある。千本松原である。
千本松原位ゐ見事な松が揃つてまたこの位ゐの大きさ豊さを持つた松原は恐らく他に無いと思ふ。狩野川の川口に起つて、千本浜、片浜、原、田子の浦の海岸に沿ひ
徐に彎曲しながら遠く西、富士川の川口に及んでゐる。長さにして四里に近く、幅は百間以上の広さを保つて続いてをる。この全体を千本松原といふは或は当らないかも知れないが、
而も寸分の断え間なく茂り合つて続き渡つてゐるのである。而して普通いふ千本松原、即ち沼津千本浜を中心とした辺が最もよく茂つて居る。松は多く古松、二抱へ三抱へのものが眼の及ぶ限りみつちりと相並んで聳え立つてゐるのである。ことに珍しいのはすべて此処の松には
所謂磯馴松の曲りくねつた姿態がなく、杉や欅に見る真直な幹を伸ばして
矗々と聳えて居ることである。
今一つ二つ松原の特色として挙げたいのは、単に松ばかりが砂の上に並んでゐる所謂白砂青松式でないことである。白砂青松は明るくて綺麗ではあるが、見た感じが浅い、飽き易い。此処には聳え立つた松の下草に見ごとな雑木林が繁茂してゐるのである。下草だの雑木だのと云つても一握りの小さな枝幹を想像してはいけない。いづれも一抱へ前後、或はそれを越えてゐるものがある。
その種類がまたいろ/\である。最も多いのはたぶ、犬ゆづり葉の二種類で、一は
犬樟とも玉樟ともいふ樟科の木であり、一は本当のゆづり葉の木のやゝ葉の小さいものである。そして共にかゞやかしい葉を持つた常緑樹である。その他冬
青木、椿、楢、
櫨、
楝、
椋、とべら、
胡頽子、臭木等多く、

などの思ひがけないものも立ち混つてゐる。而して此等の木々の根がたには篠や
虎杖が生え、まんりやう藪柑子が群がり、所によつては
羊歯が密生してをる。さういふ所に入つてゆくと、もう浜の松原の感じではない。森林の中を歩く気持である。
順序としてこれ等の木の茂み、またはその木の実に集まつて来るいろ/\の鳥の事を語らねばならぬ。が、不幸にして私はたゞ
徒にその微妙な啼き声を聴き、愛らしい姿を見るだけで、その名を知らぬ。
僅に其処に常住する
鴉――これもこの大きな松の梢の茂みの中に見る時おもひの外の美しい姿となるものである、ことに雨にいゝ――季節によつて往来する
山雀、
四十雀、
松雀、
鵯、椋鳥、
鶫、
百舌鳥、鶯、
眼白、
頬白等を数ふるに過ぎぬ。有明月の影もまだ明らかな暁に其処に入つてゆけば
折々啄木鳥の鋭い姿と声とに出会ふ。
夜はまた遠く近く
梟の声が起る。見ごとなのは椋鳥の群るゝ時で数百羽のこの鳥が中空に聳えた老松の梢から梢を群れながら渡つてゆくのは壮観である。
秋の紅葉は寒国のもので、暖かい国だとよく紅葉しない。楓など
寧ろきたない黄褐色に染つて永い間枝頭にくつ着いてゐる。僅に櫨のみ暖国でもよく紅葉する。どうしたものかその櫨がこの松原の中に多い。なか/\大きいものもある。老松の間に在つてこの木の
漸く染まる頃からこの松原はよくなつて来る。
茅萱が美しい色に枯れ、万両や藪柑子の実の熟れて来る冬もいゝ。冬は朝にゆふべに、淡い靄が必ずこの松原の松の根がたに漂うて居る。十二月には椿が咲いて――その頃まで
撫子も咲いてゐるが――やがて春になる。春もいゝ。小鳥の声の次第に多くなる初夏、この時もいい。たゞ真夏だけは感心しない。
この広く且つ長い松原の中央に縦に一筋の小径が通じてゐる。狩野川の川口から原町の停車場に到る間二里あまりは紛れなく通じて居るが、それから西は判然してゐない。この小径はもと甲州街道とも甲駿街道とも呼ばれたもので、その出来た初めは現在の東海道よりずつと旧いものださうだ。想ふに今の東海道の通じてゐる辺は昔は現在の浮島村附近の如く一帯に深い沼沢地であつて道路など造れなかつたものであらう。而してこの海岸沿ひの砂丘の上に一筋の道をつけて通行してゐたであらう。それはとまれ、私はこの松原の中の甲州街道を歩くことを非常に好む。何とも云へぬ静けさ、何ともいへぬ明るさ、何ともいへぬうるほひがこの松原の、といふより長い長い森の中の小径に漂ふてゐるのである。たま/\出会ふのは漁師たちで、たゞ松風とやゝ遠い浪の音と小鳥の声とがあるのみである。芝居でやる伊賀越の沼津の平作が腹を切つたは東海道でなく、この甲州街道を使つてあるさうだ。
沼津から千本浜へ出やうとする浜道の右手に千本山乗運寺といふ寺がある。当代よりは廿六世以前、山城国延暦寺乗運公の実弟、増誉上人といふ人がこの沼津の地に来り、以前鬱蒼として茂つてゐたと伝へらるゝ松原が相模の北条と甲斐の武田との戦ひの戦略から一本残らず伐り払はれ、見る影もない
荊棘の曠原となつてゐたのを嘆き自ら植樹に着手した。然し、今もさうだが此処の浜は砂地でなく荒い石の原である。植ゑてもなかなか根づかない。ために上人は一本植うるごとに阿弥陀経を誦し、植ゑ且つ読経しながら辛うじて先づ一千本を植ゑつけた。而して時の政府に建言し、枝一本腕一本といふきびしい
法度を設けて苗木を愛護し、数代の苦心によつて現在の壮大な松原が出来上つたものださうだ。元来この東駿河地方は秋口から春にかけて吹きつくる沖の西風の極めて烈しい所で今でも大の男がまともに歩きかぬる風に出会ふことが
屡々ある。松原の絶えてゐた時代、その西風が海から汐煙を吹きあげて遠く四周に撒き散らし、農作物は出来なくなつてしまつた。増誉上人は単に松の眺めの絶えたを惜しんだばかりでなく、斯うした済世救民の志もあつたのである。この大きな松原に遮られて汐煙はおろか、風そのものすらも遠く数町の間には落ちて来ぬのである。
初め私がほんの一二年間休養するつもりでの転地先をこの沼津に選んだのは、その前年伊豆の土肥温泉に渡らうとして沼津に一泊し
端なくこの松原の一端を見出し、それに心を惹かれてのことであつた。で、沼津に移つて来てからは折あればこの松原にわけ入つて逍遥した。そして
終に昨年、その松原の松の蔭の土地を選み、自分の住家を建てた。それこそ松原の
直の蔭で、隣接する家とてもなく、いまだに門に人力車を乗りつくる事も出来ぬといふ不便の地点の一軒家である。無論松に親しむ心が先立つたのであつたが、一つはこの冬の西風を避けたいためでもあつた。そしてこの二つの願ひは願ひどほりに叶うたのである。此処で私は今まで何といふことなしに始終追はれ通しに追はれて来た様な慌しい生活を棄て、心静かに自分の思ふまゝの歩みを歩むといふ様な朝夕に入らうとしたのであつた。
ところが、昨今、聞くに耐へぬ忌まはしい風説を聞くことになつた。曰く静岡県は何とかの財源を
獲むがために沼津千本松原の一部を伐採すべしといふのである。
元来この千本松原は帝室御料林に属してゐた。それを永年運動の効があつて静岡県は今年これを自分の手に納めた。納むるや否や、百年の風雨に耐へて来たこの老樹の幹の皮を剥いで黒々と番号を書き込んだのである。松ばかりか、茂り合うて枝葉を輝かしてゐるたぶの木にも犬ゆづり葉の木にもみなそれが記された。薪に売らむがためである。
無論、松原全体を伐らうといふのではない。右云うた甲州街道から北寄りの沼津市内に属する部分を伐らうといふのである。
然り
而うして其処は実に東西四里にわたる松原のうち最も老松に富み、最も雑木が茂り、最も幅広く、千本松原の眼目とも謂ふべき位置に当るのである。此処を伐られてはもう千本松原は日本一の松原ではなくなる、普通の平凡な一松原となり終るのである。
流石に沼津も騒ぎ始めた。沼津として此処を伐り払はるゝ事は全く眉を落し頭を剃りこぼたるるに等しい形になるのである。また、静岡県としても此処を伐つて幾らの銭を獲むとしてゐるのであらうか。幾らの銭のために増誉上人以来幾百歳の歳月の結晶ともいふべきこの老樹たちを犠牲にしようといふのであらうか。
私は無論その松原の蔭に住む一私人としてこの事を嘆き悲しむ。が、そればかりではない。比類なき自然のこの一つの美しさを眺め楽しむ一公人として、またその美しさを歌ひ讚へて世人と共に楽しまうとする一詩人として、限りなく嘆き悲しむのである。まつたく此処が伐られたらば日本にはもう斯の松原は見られないのである。
豈其処の蔭に住む一私人の嘆きのみならむやである。
静岡県にも、県庁にも、また沼津市にも、具眼の士のある事を信ずる。而して眼前の些事に囚はれず徐に百年の計を建てゝ欲しいことを請ひ祈るものである。
(九月六日、徐ろに揺るる老松の梢を仰ぎつゝ)