白骨温泉

若山牧水




 嶮しい崖下の渓間に、宿屋が四軒、蕎麦屋が二軒、煎餅や絵葉書などを売る小店が一軒、都合唯だ七軒の家が一握りの狭い処に建って、そして郵便局所在地から八里の登りでその配達は往復二日がかり、乗鞍岳の北麓に当り、海抜四五千尺(?)春五月から秋十一月までが開業期間でその他の五個月は犬一疋残る事なく、それより三里下の村里に降って、あとはただ全く雪に埋れてしまう、と云えば大抵信州白骨温泉の概念は得られる事と思う。そして胃腸に利く事は恐らく日本一であろうという評判になっている。
 松本市から島々村まではたしか四里か五里、この間はいろいろな乗物がある。この島々に郵便局があるのである。其処から稲※いねこき[#「てへん+亥」、U+39E1、128-10]村まで二里、此処に無集配の郵便局があって、附近の物産の集散地になって居る。それより梓川に沿うて六里、殆んど人家とてもない様な山道を片登りに登ってゆくのだ。この間の乗物といえば先ず馬であるが、それも私の行った時には道がいたんで途絶していた。ただ旧道をとるとすると白骨より三里ほど手前に大野川という古びた宿場があって、其処を迂回する事になり、辛うじて馬の通わぬ事もないという話であった。温泉はすべてこの大野川の人たちが登って経営しているのだ。女中も何もみな大野川の者である。雪が来る様になると、夜具も家具も其儘にしておいて、七軒家の者が残らずこの大野川へ降りて来るのだ。客を泊めるのは大抵十月一杯で、あとは多く宿屋の者のみ残り、いよいよ雪が深くなってどんな泥棒も往来出来なくなるのを見ると、大きな家をがら空きにしたまますべて大野川に帰って来るのだそうだ。稀な大雪が来ると、大野川全体の百何十人が総出となって七軒の屋根の雪を落しに行く、そうしないと家がつぶれるのだそうだ。
 信州は養蚕の国である。春蚕夏蚕秋蚕と飼いあげるとその骨休めにこの山の上の温泉に登って来る。多い時は四軒の宿屋、と云っても大きいのは二軒だけだが、この中へ八百人から千人の客を泊めるのだそうだ。大きいと云っても知れたもので、勿論一人若くは一組で一室を取るなどという事はなく所謂追い込みの制度で出来るだけの数を一つの部屋の中へ詰め込もうとするのである。たたみ一畳ひと一人の割が贅沢となる場合もあるそうだ。彼等の入浴期間は先ず一週間、永くて二週間である。それだけ入って行けば一年中無病息災で働き得るという信念で年々登って来るらしい。それは九月の中頃から十月の初旬までで、それがすぎて稲の刈り入れとなると、めっきり彼等の数は減ってしまう。
 私の其処に行っていたのは昨年の九月二十日から十月十五日までであった。矢張り年来の胃腸の痛みを除くために、その国の友人から勧められ遥々と信州入りをして登って行ったのであった。松本まで行って、其処でたたみ一畳ひと一人の話を聞くと、折柄季節にも当っていたので、とてももう登る元気は無くなったのであったが、不思議にまた蕎麦の花ざかりのその季節の湯がよく利くのだと種々説き勧められて、半ば泣く泣く登って行ったのであった。前に云った稲※[#「てへん+亥」、U+39E1、130-11]からの道で馬の事を訊ねたほど、その頃私の身体は弱っていた。
 が、行ってみると案外であった。その年は丁度欧洲戦のあとの経済界がひどく萎縮していた時だとかで、繭や生糸の値ががた落ちになっていたため、それらで一年中の金をとるお百姓たちのひどく弱っている場合であったのだそうだ。白骨の湯に行けば繭の相場が解ると云われているほど、その影響は早速その山の上の湯にひびいて、私の行った時は例年の三分の一もそれらの浴客が来ていなかった。一番多かった十月初旬の頃で四五百人どまりであった。ために私は悠々と滞在中一室を占領する事も出来たのであった。
 彼等の多くは最も休息を要する爺さん婆さんたちであるが、若者も相当に来ていた。そしてそうした人里離れた場所であるだけその若者たちの被解放感は他の温泉場に於けるより一層甚だしく、入湯にというより唯だ騒ぎに来たという方が適当なほどよく騒いだ。騒ぐと云っても料理屋があるではなく(二軒の蕎麦屋がさし当りその代理を勤めるものであるが)宿屋の酒だとて里で飲むよりずっと割が高くなっているのでさまでは飲まず、ただもう終日湯槽から湯槽を裸体のまま廻り歩いて、出来るだけの声を出して唄を唄うのである。唄と云っても唯だ二種類に限られている。曰く木曾節、曰く伊奈節、共に信州自慢の俗謡であるのだ。また其処に来る信州人という中にも伊那谷、木曾谷の者が過半を占めている様で、従ってこの二つの唄が繁昌するのである。朝は先ず二時三時からその声が起る、そして夜は十一時十二時にまで及ぶ。私は最初一つの共同湯に面した部屋にいたのであるが、終にその唄に耐え兼ねてずっと奥まった小さな部屋へ移して貰ったのであった。然し、久しくきいているうちに、その粗野や無作法を責むるよりも、いかにも自然な原始的な娯楽場を其処に見るおもいがして、いつか私は渋面よりも多く微笑を以てそれに面する様になった。粗野ではあっても、卑しいいやらしい所は彼等には少なかった。これは信州の若者の一つの特色かも知れぬ。
 湯は共同湯で、二個所に湧く。内湯のあるのは私のいた湯本館だけであったが、それは利目が薄いとか云って多く皆共同湯に行って浸っていた。多勢いないと騒ぐに張合が無いのであろうと私は割合にその内湯の空くのをいつも喜んでいた。サテ、湯の利目であるが、私はその湯に廿日あまりを浸って、其処から焼岳を越えて飛騨の高山に出、更らに徒歩して越中の富山に廻り、其処から汽車で沼津に帰って来たのであったが、初め稲※[#「てへん+亥」、U+39E1、132-11]から白骨まで六里の道を危ぶんだ身にあとでは毎日十里十一二里の山道を続けて歩き得たのも、見様によっては湯の利目だと見られぬこともない。然し私は温泉の効能がそう眼のあたりに表わるるものとは思わぬ者である。胃腸の事はとにかく、風邪にも弱い私が昨年の冬を珍しく無事に過し得たのは(もっとも伝染性の流感には罹ったが)一に白骨のお蔭だと信じている。其処の湯に三日入れば三年風邪を引かぬとも称えられているのだそうだ。
 山の上の癖に、渓間であるため眺望というものの利かぬのは意外であった。渓もまた渓ともいえぬ極めて細いものであった。八九町も急坂を登ると焼岳と相向うて立つ高台があった。紅葉が素敵であった。十月に入ると少しずつ色づきそめて、十日前後二三日のうちにばたばたと染まってしまった。それこそ全山燃ゆるという言葉の通りであった。附近の畑にはただ一種蕎麦のみが作られていた。「蕎麦の花ざかり」の言葉もそれから出たものであろうと思われた。
 私は時間の都合さえつけば今年の秋も登って行き度いものと思っている。夏がいい、夏ならば東京からも相当に客が来るのでお話相手もあろうから、と宿の者は繰返して云っていたが、それよりも寧ろ芋を洗う様な伊那節を聞く方が白骨らしいかも知れぬ。それに一時はアルプスの登山客で大変だそうだ。私の考えているのは、それらの何にもが影を消すであろう十月の半ばから雪のちらちらやって来る十一月の半ば頃まで、ぽっちりとその世ばなれのした湯の中へ浸っていたいということだ。無論、ウイスキーに何か二三種のよき鑵詰などどっさり用意してだ。其処から四里にして上高地、六里にして飛騨の平湯がある。共に焼岳をめぐった、雪の中の温泉である。





底本:「みなかみ紀行」中公文庫、中央公論社
   1993(平成5)年5月10日発行
底本の親本:「みなかみ紀行」書房マウンテン
   1924(大正13)年7月
入力:浦山敦子
校正:栗田美恵子
2024年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「てへん+亥」、U+39E1    128-10、130-11、132-11


●図書カード