みなさん、魚はどういふものを食べたがるか、御承知ですか?。
蚯蚓に団子………。さ
様、それから
生の肉類。エー、それに同じ魚で自分より
少さいのを食べるものが多いといふことを知つておいでのお
児も
有ませう。ホラ鯨が
鰯をおつかけるといふこともお
聞なすつたでせう。それから
鮫などの様な大きい魚になり升と、随分人間を
呑み兼ねないのですよ。それはさうと、子供の鼻を食べさうにした魚のはなしをお
聞になつたことが
有升か。有升まいネ、わたくしは聞いたことがあるんですよ。現に
其児をよく知つて居て、今でも生きて居る人ですから、其おはなしをしておあげ申ませう。
ある夏
此児が両親と避暑に
余処へ行つて居升たが、近処に美事な大きい湖水があるので、父は小舟を借りては
其児の母と其児を載せ、
麗らかなる日や、又月の光澄んだ夜に湖水の上に
好い
楽みをして居り升た。ある時父は用が出来て
一寸家へ帰つた留守に母が
武(此児の名)をつれて湖辺を散歩して居升と、武はいつも乗る小舟が岸に
繋いで有るのを見て母にせがみ、一処にのつて、母は見覚えの
漕手となり、武はチヨコント、
舳の方へ座つてニコ/\して居り升た。武は此時、
漸やく八才
計りの子供のことですから、母は心配して、
コレ、武ちやん、舟の椽へ寄りかゝるのでは有ませんよ、音なしくシヤントして入つしやい。
武は
畏こまりて、
ハイ、でもネかあちやん、少ウし顔出して、水ん中の草が見度んだもの、だからソーット少し丈顔出してませうネ、かあちやん、草んなかに、さかながはいつてるだらうか?
エイ、はいつてませうよ、でも舟がいけば驚ろいて余処へ逃げてつてしまひ升だらうよ。
ぢやあ僕見てゝやらうや、逃てく処を、かあちやん、いつかとうさまの入つしやる時、釣に来ようネ。
さうネ、いつか来ても好けど、何にもつれやしまひと思ひ升よ、それに釣をするには針だの餌だのなければなりませんもの、一寸は来られないの。
かあちやん、餌つて何?。
さかなの食べたがる物ですよ、それを針の先へつけて、水の中へ入れて置くと、さかなが来て食ひつく、食ひつく処を引あげるの。
さかなは何が一番好だらう?、
蚯蚓だの、生の肉が、一番好でせうよ。
武は直ぐと、
釣つて見たくなり、困つた顔つきして、
かあちやん、今こゝに直とあれば好ネ、
母は、武の妙な顔つきを見て、笑ひながら、
さ様さ、あおいにくさまだつたネ、それとも武ちやんが自分の肉でも切れば有るけどホヽヽヽヽ
武は、一層困つた顔になり、
でも、あのたんと切れば、いたいや、嫌だ/\。
といひながらも、そこらにもしや魚が来て居るかと
尚一
際湖水の面へ顔をさし出して、
頻りに
眺めて居り升たが、見える物とては自分の小さなポツチヤリした丸顔の、水に映る
処計りでした。
併し魚が
眼にはいらなかつた武の顔は、
却つて魚に
見付られ升た。丁度
此処へ通り
掛つた、ではない泳ぎかゝつた湖水のひれ仲間に名を知られた老成な
鱒どのが、お
腹のすき加減といひ、
甘さうな物が水の面に見える
工合といひ、堪え
切なかつたさうで
年甲斐の分別が
一寸どこやらへ行升て、大口をあきながら、思ひきつてピヨイーと
跳び、
俯向いて余念のない武の
孫芋の様なお鼻へ
食ひつかうとする。鱒の口がピシヤリと〆ると、武の口が大きく開いて、
恐はいのと痛いので、ワツト一声叫びを
洩し升た。
武は
容赦なくグイと頭を
引こませる、鱒どのも飛んだ
粗相をしたと気がついて、食ひついた
処をはなす其途端にバシヤリと音して、鱒は舟の
中の
擒となり升た。
ホラ大変!、母も武も驚ろいたことといつたら、
跳ねるやら、
蹴るやら、もがくやらで、四百
目もある魚のことですから、舟も
揺ぐ
計りでした。母は思ひがけなくはいつた邪魔ものを、どうかして放りださうと思ふより
他の
考もなく、
どうして出してやらう、ネイー、
と困つた声でいひ升た。折しも、
湖岸に此珍事を
傍観て居た人があつて、
艪で、其艪で殺しておしまひなさい、頭をなぐつてお遣んなさい!
母は大骨折つて、やつと、此大鱒を打殺し升た。それから、武の顔を見ると、鱒の歯に
当られて、少し血が出て居り升た。母は可愛さうだと思ひながらも
可笑くつてたまらず、
武ちやん、たうとう餌をはづんだネ、どうだえ? 大変痛いの?
武は余りビツクリして
泣にも
泣れず、これから泣くのも、少く
締りがわるいといふ
処で、
いゝーえ、だけど、これからモウかうしてさかな釣のは嫌。
母は又しても
可笑しく涙の出るほど、笑ひ興じながら、
おまへかうして釣度とつて、モウ釣やしますまい、誰も真似の出来ないことを武ちやんが一人おしなのだわ、昔しから、子供の鼻を食べようとしたさかなの話しはない様だ、聞いたことがないから、サア、これから宿へ持つて帰つて料つて貰つて、おとうさまのお帰りを待ちませう。
かあちやん、とうさま、僕が釣たんだつていつても、本たうになさらないかも知れないネ。
おまへの鼻が何よりの証拠ですよ、それさへ見れば………
といつて、母は又も吹出し升た。武は、モウ
成人になつて、此湖水などへは舟で幾度も遊びに来たことが有り升。
併し其後鼻で
釣をしたといふ
噂は、一度もきこえません。