忘れ形見
若松賤子
How kind, how fair she was, how good,
I cannot tell you. If I could,
You too would love her.
Procter
: "
The Sailor Boy
."
ミス、プロクトルの“
The Sailor Boy
”という詩を読みまして、一方ならず感じました。どうかその心持をと思って物語ぶりに
書綴
(
かきつづ
)
って見ましたが、元より小説などいうべきものではありません。
あなた僕の履歴を話せって
仰
(
おっしゃ
)
るの? 話しますとも、
直
(
じっ
)
き話せっちまいますよ。だって十四にしかならないんですから。別段
大
(
たい
)
した
悦
(
よろこび
)
も苦労もした事がないんですもの。ダガネ、モウ少し過ぎると僕は
船乗
(
ふなのり
)
になって、初めて航海に
行
(
ゆ
)
くんです。実に
楽
(
たのし
)
みなんです。どんな珍しいものを見るかと思って……段々海へ乗出して
往
(
ゆ
)
く
中
(
うち
)
には、
為朝
(
ためとも
)
なんかのように、海賊を
平
(
たい
)
らげたり、
虜
(
とりこ
)
になってるお姫さまを助けるような事があるかも知れませんからね。それから、ロビンソン、クルーソーみたように難船に
逢
(
あ
)
って一人ッきり、
人跡
(
じんせき
)
の絶えた島に泳ぎ着くなんかも随分面白かろうと考えるんです。
これまでは、ズット北の山の中に、徳蔵おじと一処にいたんですが、そのまえは、
先
(
せん
)
の殿様ね、今では東京にお住いの
従四位様
(
じゅよいさま
)
のお
城趾
(
しろあと
)
を番していたんです。
足利
(
あしかが
)
時代からあったお城は御維新のあとでお
取崩
(
とりくず
)
しになって、今じゃ
塀
(
へい
)
や
築地
(
ついじ
)
の破れを
蔦桂
(
つたかづら
)
が
漸
(
ようや
)
く着物を着せてる位ですけれど、お城に続いてる古い森が大層広いのを幸いその後
鹿
(
しか
)
や
兎
(
うさぎ
)
を沢山にお放しになって
遊猟場
(
ゆうりょうば
)
に変えておしまいなさり、また
最寄
(
もより
)
の
小高見
(
こだかみ
)
へ別荘をお建てになって、毎年秋の
木
(
こ
)
の
葉
(
は
)
を鹿ががさつかせるという時分、大したお
供揃
(
ともぞろい
)
で猟犬や馬を
率
(
ひか
)
せてお
下
(
くだ
)
りになったんです。いらっしゃれば大概二週間位は遊興をお尽しなさって、その間は、常に
寂
(
ひっ
)
そりしてる市中が大そう
賑
(
にぎやか
)
になるんです。お帰りのあとはいつも火の
消
(
きえ
)
たようですが、この時の事は、村のものの一年中の話の種になって、あの時はドウであった、コウであったのと
雑談
(
ぞうだん
)
が、始終尽ない位でした。
僕はまだ
少
(
ちい
)
さかったけれど、あの時分の事はよく覚えていますよ。サアお
出
(
いで
)
だというお
先布令
(
さきぶれ
)
があると、
昔堅気
(
むかしかたぎ
)
の百姓たちが一同に
炬火
(
たいまつ
)
をふり
輝
(
て
)
らして、
我先
(
われさき
)
と二里も三里も
出揃
(
でぞろ
)
って、お
待受
(
まちうけ
)
をするのです。やがて
二頭曳
(
にとうびき
)
の馬車の
轟
(
とどろき
)
が聞えると思うと、その内に
手綱
(
たづな
)
を
扣
(
ひか
)
えさせて、
緩々
(
ゆるゆる
)
お乗込になっている殿様と奥様、
物慣
(
ものなれ
)
ない僕たちの眼にはよほど
豪気
(
ごうぎ
)
に見えたんです。その殿様というのはエラソウで、なかなか
傲然
(
ごうぜん
)
と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御門をお通りになる
度
(
たび
)
ごとに徳蔵おじが「こわいから隠れていろ」といい/\しましたから、僕は急いで、木の
蔭
(
かげ
)
やなんかへかくれるんです。ですがその奥さまというのが、僕のためにはナンともいえない
好
(
い
)
い方で、その方の事を考えても、話にしても、何だか妙に
嬉
(
うれ
)
しいような悲しいような心持がして来るんです。美人といえばそれまでですが、僕はあんな高尚な、
天人
(
てんにん
)
のような美人は見た事がないんです。
先
(
まず
)
下々
(
しもじも
)
の者が
御挨拶
(
ごあいさつ
)
を申上ると、一々しとやかにお
請
(
うけ
)
をなさる、その柔和でどこか悲しそうな
眼付
(
めつき
)
は夏の夜の星とでもいいそうで、心持
俯向
(
うつむ
)
いていらっしゃるお顔の
品
(
ひん
)
の好さ! しかし奥様がどことなく
萎
(
しお
)
れていらしって
恍惚
(
うっとり
)
なすった御様子は、トント
嬉
(
うれし
)
かった昔を忍ぶとでもいいそうで、折ふしお
膝
(
ひざ
)
の上へ乗せてお
連
(
つれ
)
になる若殿さま、これがまた見事に
可愛
(
かあい
)
い坊様なのを、ろくろくお愛しもなさらない
塩梅
(
あんばい
)
、なぜだろうと子供心にも思いました。
近処
(
きんじょ
)
のものは、折ふし
怪
(
け
)
しからぬお
噂
(
うわさ
)
をする事があって、冬の夜、
炉
(
ろ
)
の
周囲
(
まわり
)
をとりまいては、
不断
(
ふだん
)
こわがってる殿様が
聞咎
(
ききとが
)
めでもなさるかのように、つむりを集めて
潜々声
(
ひそひそごえ
)
に、
御身分違
(
おみぶんちがい
)
の奥様をお迎えなさったという話を、殿様のお家柄にあるまじき
瑕瑾
(
きず
)
のようにいいました。この噂を聞いて「それは嘘だ、殿様に限ってそんな
白痴
(
たわけ
)
をなさろうはずがない」といい
罵
(
ののし
)
るものもありましたが、また元の奥様を知っていた人から、すぐに
聞
(
きい
)
たッて、一々ほんとうだといい張る者さえあったんです。その話というはこうなんです。
人の知らない遠い片田舎に、今の奥さまが、まだ
新嫁
(
にいよめ
)
でいらしッたころ、一人の
緑子
(
みどりご
)
を
形見
(
かたみ
)
に残して、
契合
(
ちぎりあっ
)
た夫が世をお去りなすったので、
迹
(
あと
)
に一人
淋
(
さび
)
しく
侘住
(
わびずま
)
いをして、いらっしゃった事があったそうです。さすがの美人が
憂
(
うれい
)
に
沈
(
しずん
)
でる有様、白そうびが露に悩むとでもいいそうな
風情
(
ふぜい
)
を殿がフト御覧になってからは、
優
(
ゆう
)
に
妙
(
たえ
)
なお
容姿
(
ようす
)
に深く思いを
寄
(
よせ
)
られて、子爵の
御名望
(
ごめいぼう
)
にも
代
(
かえ
)
られぬ御執心と見えて、
行
(
ゆき
)
つ
戻
(
もど
)
りつして
躊躇
(
ためら
)
っていらっしゃるうちに
遂々
(
とうとう
)
奥方にと
御所望
(
ごしょもう
)
なさったんだそうです。ところがいよいよ子爵夫人の格式をお
授
(
さず
)
けになるという
間際
(
まぎわ
)
、まだ
乳房
(
ちぶさ
)
にすがってる
赤子
(
あかご
)
を「きょうよりは手放して以後親子の縁はなきものにせい」という
厳敷
(
きびしき
)
お
掛合
(
かけあい
)
があって涙ながらにお請をなさってからは今の通り、やん事なき方々と
居並
(
いなら
)
ぶ御身分とおなりなさったのだそうです。ところがあの通りこの上もない出世をして、
重畳
(
ちょうじょう
)
の幸福と人の
羨
(
うらや
)
むにも似ず、何故か始終浮立ぬようにおくらし
成
(
なさ
)
るのに不審を
打
(
うつ
)
ものさえ多く、それのみか、
御寵愛
(
ごちょうあい
)
を重ねられる殿にさえろくろく笑顔をお作りなさるのを見上た人もないとか、
鬱陶
(
うっとう
)
しそうにおもてなしなさるは、お
側
(
そば
)
のチンも子爵様も変った事はないとお
附
(
つき
)
の女中が
申
(
もうし
)
たとか、マアとりどりに
口賢
(
くちさが
)
なく雑談をしました。徳蔵おじがこんな
噂
(
うわさ
)
をするのを
聞
(
きき
)
でもしようもんなら、いつも
叱
(
しか
)
り
止
(
とめ
)
るので、僕なんかは
聞
(
きい
)
ても聞流しにしちまって人に話した事もありません。徳蔵おじは大層な
主人
(
あるじ
)
おもいで格別奥さまを敬愛している様子でしたが、
度々
(
たびたび
)
林の中でお目通りをしてる処を木の影から見た事があるんです。そういう時は、徳蔵おじは、いつも
畏
(
かしこま
)
って奥様の
仰事
(
おおせごと
)
を
承
(
うけたまわ
)
っているようでした。
勿論
(
もちろん
)
何のことか判然
聞取
(
ききとれ
)
なかったんですが、ある時
茜
(
あかね
)
さす夕日の光線が
樅
(
もみ
)
の木を大きな
篝火
(
かがりび
)
にして、それから枝を通して薄暗い松の大木にもたれていらっしゃる奥さまのまわりを
眩
(
まばゆ
)
く輝かさせた残りで、お
着衣
(
めし
)
の辺を、狂い廻り、ついでに落葉を一と
燃
(
もえ
)
させて
行頃
(
ゆくころ
)
何か徳蔵おじが
仔細
(
しさい
)
ありげに申上るのをお聞なさって、チョット
俯向
(
うつむ
)
きにおなりなさるはずみに、はらはらと
落
(
おつ
)
る涙が、お手にお
持
(
もち
)
なさった一と房の花の上へかかるのを、たしかに見た事があるんですが、これをおもえば、徳蔵おじの
実貞
(
じってい
)
な処を愛して、深い
思召
(
おぼしめし
)
のある事をおおせにでもなったものと見えます。おもえばあのように陰気で
冷淡
(
つれなさ
)
そうな方が僕のようなものを可愛がって下さるのは、不思議なようですが、ほんとうにそうなんでした。よく僕は奥さまの仰しゃる通りに、頭を胸へよせ掛けて、いつまでか
抱
(
だか
)
れていると、ジット顔を見つめていながら色々
仰
(
おっしゃ
)
ったその言葉の柔和さ! それからトント赤子でもあやすように、お口の内で
朧
(
おぼろ
)
におっしゃることの
懐
(
なつ
)
かしさ! 僕は
少
(
ちい
)
さい内から、まじめで静かだったもんだから、近処のものがあたりまえの子供のあどけなく可愛ところがないといい/\しましたが、どうしたものか奥さまは僕を可愛やとおっしゃらぬ
斗
(
ばか
)
りに、しっかり
抱〆
(
だきしめ
)
て下すったことの嬉しさは、忘れられないで、よく夢に見い見いしました。僕はモウ
先
(
せん
)
から
孤
(
みなしご
)
になってたんだそうでお袋なんかはちっとも覚えがないんですから、僕の子供心に思うことなんざあ、
聞
(
きい
)
てくれる人はなかったんですが、奥さま斗りには、なんでも
好
(
すき
)
なことがいえたんです、「いいからどんなことでもかまわずお話し」と仰しゃるもんだから、お目に掛ったその日は木登りをして一番大きな松ぼっくりを落したというような事から、いつか船に乗って海へ行って見たいなんていう事まで、いっちまうと、面白がって
聞
(
きい
)
ていて下すったんです。
時々は夢に見たって色々不思議な話しをして下すった事がありました。そのお話しというのは、ほんとうに有そうな事ではないんでしたが、奥さまの
柔和
(
おとなし
)
くッて、時として大層
哀
(
あわれ
)
っぽいお声を聞くばかりでも、嬉しいのでした。一度なんぞは、ある気狂い女が夢中に
成
(
なっ
)
て自分の子の生血を取てお金にし、それから鬼に
誘惑
(
だま
)
されて自分の心を
黄金
(
こがね
)
に売払ったという、恐ろしいお話しを聞いて、僕はおっかなくなり、青くなって
震
(
ふる
)
えたのを見て「やっぱりそれも夢だったよ」と仰って、
淋
(
さび
)
しそうにニッコリなすった事がありましたッけ。
マアどれほど親切で、美しくッて、好い方だったか、僕は話せない位ですよ。話せればあなただってどんなに
好
(
すき
)
におなんなさるか! 非常に僕を可愛がって下すったことを思い出してさえ、なんだか涙が眼に一杯になります。モウ先のことだけれど、きのうきょうのように思われますよ。ホラ晴た夜に空をジット
眺
(
なが
)
めてると初めは少ししか見えなかった星が段だんいくらもいくらも見えて来ますネイ。
丁度
(
ちょうど
)
そういうように、ぼんやりおぼえてるあの時分のことを考うれば考えるほど、色々新しいことを思出して、今そこに見えたり聞えたりするような心持がします。いつかフト子供心に浮んだことを、たわいなく「アノ坊なんぞも、若さまのように可愛らしくなりたい」といいましたら、奥様が妙に苦々しい笑いようを
為
(
なす
)
って、急に改まって、きっぱりと
[#「きっぱりと」は底本では「きつぱりと」]
「マアぼうは、そんなことを決していうのじゃありませんよ、坊はやっぱりそのままがわたしには
幾
(
いく
)
ら
好
(
いい
)
のか知れぬ、坊のその嬉しそうな目付、そのまじめな口元、ひとつも変えたい処はありませんよ。あの
赤坊
(
あかんぼう
)
は
奇麗
(
きれい
)
かは知りませんが、アノ従四位様のお家筋に坊の
気高
(
けだか
)
い器量に及ぶ者は一人もありません。とにかく坊はソックリそのまま、わたしの心には、あの赤んぼうよりか、だれよりか可愛くッてならないのだよ」と
仰有
(
おっしゃ
)
って、少しだまっていらっしゃると思ったら泣出して、「坊はね
能
(
よ
)
くお
聞
(
きき
)
よ。先におなくなり
為
(
なす
)
って、遠方の墓に埋られていらっしゃる方に、似てるのだよ。ぼうもねその方の通りに、
寛大
(
ゆったり
)
して、やさしくッて、
剛勇
(
つよ
)
くなっておくれよ」。こう聞いて訳もなく悲しくなって、すすり
泣
(
なき
)
しながら、また
何気
(
なにげ
)
なく、「アアその墓に埋ってる人は殿さまのようにえらいお方?」というと、さも
見下果
(
みさげはて
)
たという様子を口元にあらわして、僕の手を思い入れ握りしめ、「どうしてどうしてお死になされたとわたしが
申
(
もうし
)
た
愛
(
いと
)
しいお方の側へ、従四位様を並べたら、まるで
下郎
(
げろう
)
を
以
(
もっ
)
て
往
(
いっ
)
たようだろうよ」と仰有ってまたちょっと口を結び、力のなさそうな
溜息
(
ためいき
)
をなすって、僕のあたまを
撫
(
なで
)
ながら、「坊もどうぞあの通りな立派な生涯を送って、命を終る時もあのようにいさぎよくなければなりません。真の名誉というものは、神を信じて、世の中に働くことにあるので、
真
(
まこと
)
の安全も満足もこの外に得られるものでないと、つねづね
仰
(
おっしゃ
)
ったことを、御遺言として、記憶しておいで」と、心を一杯
籠
(
こ
)
めて仰ったのを、訳はよく分らないでも、忘れる処か、今そこでうかがったようにおぼえているんです。
いつかはまた、ちょっとした子供によくある熱に浮されて苦しみながら、ひるの
中
(
うち
)
は
頻
(
しき
)
りに
寐反
(
ねがえ
)
りを打って、シクシク
泣
(
ない
)
ていたのが、夜に
入
(
い
)
ってから少しウツウツしたと思って、フト眼を
覚
(
さま
)
すと、僕の枕元近く奥さまが来ていらっしゃって、折ふし
霜月
(
しもつき
)
の雨のビショビショ降る夜を
侵
(
おか
)
していらしったものだから、見事な
頭髪
(
おぐし
)
からは冷たい
雫
(
しずく
)
が
滴
(
したた
)
っていて、
気遣
(
きづか
)
わしげなお眼は、涙にうるんでいました。
身動
(
みうごき
)
をなさる度ごとに、
辺
(
あた
)
りを
輝
(
て
)
らすような宝石がおむねの辺やおぐしの中で、ピカピカしているのは、なんでもどこかの宴会へお
出
(
いで
)
になる処であったのでしょう。奥さまの涙が僕の顔へ当って、奥様の
頬
(
ほほ
)
は僕の頬に
圧
(
おっ
)
ついている中に僕は熱の勢か妙な感じがムラムラと心に浮んで、「アア/\おっかさんが
生
(
いき
)
ていらっしゃれば
好
(
い
)
いにねえ」というのを徳蔵おじが側から「だまってねるだアよ」といいましたッけが、奥様が「坊はわたしが
床
(
とこ
)
の側に
附
(
つい
)
ていて上ればおんなじじゃないか」とおっしゃったのを、僕がまた
臆面
(
おくめん
)
なく「エエあなたも大変
好
(
すき
)
だけれど、おんなじじゃないわ。だっておっかさんは、そんな立派な光る物なんぞ着てる人じゃなかったんだものを」というと、それはそれは急にお顔色が変ったこと、ワットお泣なさったそのお声の
悲
(
かなし
)
そうでしたこと。僕はあんなに身をふるわしてお
泣
(
なき
)
なさるような失礼をどうしていったかと思って、今だに不思議でなりませんよ。そしてその夜は、
明方
(
あけがた
)
まで、
勿体
(
もったい
)
ないほど大事にかけて看病して下すったんです。しかし僕はあなたが聞いて下さるからッて、
好気
(
いいき
)
になって、際限もなく話しをしていたら、退屈なさるでしょうから、いい加減にしますが、モ一ツ切り話しましょう。僕はこの時の事が悲しいといえば実に何ともいえないほど悲しいんですが、またどことなく嬉しいような処もあって、判然覚えているんです。丁度しわすのもの淋しい夜の事でしたが、
吹
(
ふき
)
すさぶその晩の山おろしの
唸
(
うな
)
るような
凄
(
すご
)
い音は、今に思出されます。折ふし徳蔵おじは
椽先
(
えんさき
)
で、
霜
(
しも
)
に
白
(
しら
)
んだ
樅
(
もみ
)
の木の上に、大きな星が二つ三つ光っている寒空をながめて、いつもになく、ひどく心配そうな、いかにも沈んだ
顔付
(
かおつき
)
をしていましたッけが、いつか僕のいる方を向て、「ナニ、
奥
(
おく
)
さまがナ、えらい遠方へ旅に
行
(
いら
)
しッて、いつまでも帰らっしゃらないんだから、
逢
(
あい
)
に
来
(
こ
)
いッてよびによこしなすったよ」と気のなさそうにいいました。何か
仔細
(
しさい
)
の有そうな様子でしたが問返しもせず、徳蔵おじに
連
(
つれ
)
られるまま、ふたりともだんまりで遠くもない御殿の方へ
出掛
(
でかけ
)
て行ましたが、通って行く林の中は
寂
(
さびし
)
くッて、ふたりの足音が気味わるく
林響
(
こだま
)
に響くばかりでした。やがて薄暗いような大きい御殿へ来て、辺の立派なのに
肝
(
きも
)
を
潰
(
つぶ
)
し、語らえばどこまでもひびき渡りそうな天井を見ても、おっかなく、ヒョット殿さまが出ていらしッたらどうしようと、おそるおそる徳蔵おじの手をしっかり握りながら、テカテカする
梯子段
(
はしごだん
)
を登り、長いお廊下を通って、
漸
(
ようや
)
く奥様のお
寝間
(
ねま
)
へ
行着
(
ゆきつき
)
ましたが、どこからともなく、ホンノリと来る
香
(
こう
)
は
薫
(
かお
)
り
床
(
ゆか
)
しく、わざと細めてある
行燈
(
あんどう
)
の
火影
(
ほかげ
)
幽
(
かす
)
かに、
室
(
へや
)
は薄暗がりでしたが、
炉
(
ろ
)
に
焚
(
た
)
く火が、
僅
(
わず
)
か
燃残
(
もえのこ
)
って、思い掛けぬ時分にパット燃上っては廻りを急に明るくすると思えば、また
俄
(
にわ
)
かに消失せて、元の薄暗がりになりました。僕は気味悪さに、ただそこここと見廻している
斗
(
ばか
)
りでしたが、「モット側へおより」と徳蔵おじにいわれて、オジオジしながら二タ足三足、奥さまの
御寝
(
おやすみ
)
なってるほうへ
寄
(
より
)
ますと、横になっていらっしゃる奥様のお顔は、トント大理石の彫刻のように青白く、静な事は寝ていらっしゃるかのようでした。僕はその枕元にツクネンとあっけにとられて
眺
(
なが
)
めていると、やがて
恍惚
(
うっとり
)
とした眼を
開
(
ひらい
)
てフト僕の方を御覧になって、
初
(
はじめ
)
て気が
着
(
つい
)
て嬉しいという風に、僕をソット引寄て、手枕をさせて横に寐かし、何かいおうとして言い
兼
(
かね
)
るように、出そうと思う言葉は一々長い
歎息
(
ためいき
)
になって、心に
畳
(
たた
)
まってる思いの数々が胸に波を打たせて、僕をジット
抱〆
(
だきしめ
)
ようとして、モウそれも
叶
(
かな
)
わぬほどに弱ったお手は、ブルブル震えていましたが、やがて少し落着て……、落着てもまだ苦しそうに口を開けて、神に感謝の一言「神よ、オオ神よ、日々年々のこの
婢女
(
しもめ
)
の苦痛を哀れと見そなわし、
小児
(
こども
)
を側に、臨終を
遂
(
とげ
)
させ玉うを謝し
奉
(
たてま
)
つる。いと浅からぬ
御恵
(
みめぐみ
)
もて、婢女の罪と苦痛を除き、この
期
(
ご
)
におよび、慈悲の
御使
(
おんつかい
)
として、
童
(
わらべ
)
を
遣
(
つか
)
わし玉いし事と深く信じて疑わず、いといとかしこみ謝し奉る」と。祈り終って声は一層
幽
(
かすか
)
に遠くなり、「坊や坊には色々いい残したいことがあるが、時
迫
(
せま
)
って……何もいえない……ぼうはどうぞ、無事に成人して、こののちどこへ行て、どのような生涯を送っても、立派に真の道を
守
(
まもっ
)
ておくれ。わたしの
霊
(
たましい
)
はここを離れて、天の喜びに
赴
(
おもむ
)
いても、坊の行末によっては満足が出来ないかも知れません、よっくここを
弁
(
わきま
)
えるのだよ……」。
仰
(
おっしゃ
)
って、いまは、透き通るようなお手をお組みなされ、
暫
(
しばら
)
く無言でいらっしゃる、お側へツッ
伏
(
ぷ
)
して、
平常
(
ふだん
)
教えて下すった
祈願
(
いのり
)
の言葉を二た度三度繰返して
誦
(
とな
)
える
中
(
うち
)
に、ツートよくお
寐入
(
ねいり
)
なさった様子で、あとは身動きもなさらず、
寂
(
ひっそ
)
りした室内には、何の物音もなく、ただ
彼
(
か
)
の
暖炉
(
だんろ
)
の明滅が
凄
(
すご
)
さを添えてるばかりでした。子供ながらもその場の
厳
(
おごそ
)
かな
気込
(
きごみ
)
に感じ入って、
佇
(
たたず
)
んだままでいた間はどの位でしたか、その内に徳蔵おじが、「奥さまはモウおなくなりなさったから、お
暇
(
いとま
)
しなければならない、
見納
(
みおさめ
)
にモウ一度お顔をよく
拝
(
おが
)
んでおけ」と声を曇らしていいました。僕は死ぬるという事はどういう事か、まだ判然分らなかったのですが、この時大事な大事な奥様の静かに眠っていらっしゃるのを、跡に見てすすり泣きしながら、徳蔵おじに手を
引
(
ひか
)
れて、外へ出た時、初めて世はういものという、習い始めをしました。
これからあと
直
(
すぐ
)
に、徳蔵おじはお
暇
(
いとま
)
を願って、
元
(
も
)
と出た自分の国へ引込みました。徳蔵おじはモウ年が寄って、
故郷
(
ふるさと
)
を離れる事が出来ないので、七年という実に面白い気楽な生涯をそこで送り、
極
(
ごく
)
おだやかに往生を
遂
(
とげ
)
る時に、僕をよんで、これからは兼て
望
(
のぞみ
)
の通り、船乗りになっても
好
(
よい
)
といいました。僕は望が
叶
(
かなっ
)
たんだから、嬉しいことは嬉しいけれど、ここを離れて行くとなると何だか
心残
(
こころのこり
)
です。ですが僕はこんなに気楽には見えてもあのように終りまで心にかけて、僕のようなものの行末を案じて下すった奥さまに対して、
是非
(
ぜひ
)
清い勇ましい人物にならなくッてはならないと、始終考えているんです。
底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店
1998(平成10)年6月15日第8刷
入力校正者:浜野 智
1999年2月20日公開
2007年8月25日修正
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