私の父

堺利彦




 私の覚えている父は既に五十であった。髪の毛などは既にやや薄くなっていたように思う。「何さよ気分に変りは無いのじゃがなア」などと、若やいだようなことを言うていることもあったが、何しろ私の目には既に老人であった。名は堺得司とくじ
 父の顔にはかなり多く疱瘡ほうそうの跡があった。いわゆるジャモクエであった。しかしその顔立ちは尋常で、むしろ品のよい方であった。体格は小柄で、しかも痩せぎすであった。サムライのたしなみとしては、剣術よりも多く柔術をやったらしい。弓も少しは引いたらしい。喘息持ちでずいぶん永く寝ていることもあったが、ズット年を取ってからは直っていた。そういう体質上、力わざはあまりしなかったが、元来が器用なたちで、よく大工の真似をやっていた。大工道具はすっかり揃っていて、棚を釣る、ひさしを拵えるくらいのことは、人手を借らずにズンズンやっていた。
 学問はない方の人で、四書の素読くらいはやったのだろうが、ついぞ漢学なり国学なりの話をしたことがなかった。ただ俳諧は大ぶん熱心で、後には立机りっきを許されて有竹庵眠雲みんうん宗匠になっていた。『風俗文選もんぜん』などいう本をわざわざ東京から取寄せて、幾らか俳文をひねくったりしたこともあった。碁もかなり好きだし、花もちょっと活けていた。私も自然、その三つの趣味を受けついでいる。花の方は、別だん受けついだというほどでもないが、「遠州流はどうもちっと拵えすぎたようで厭じゃ。俺の流儀の池の坊の方がわざとらしゅううてええ」というくらいの話を聞いている。そういうことは多少、私の処世上の教訓にもなったような気がする。碁について一つおかしいことがある。初めて私の家に碁盤が運びこまれた時、父はそれを余所よそからの預かり物だと言っていた。しかし私らは、いつの頃からか、決してそれが預かり物でないことを知っていた。思うに父は、私らに対して、望むだけの本など買ってやらないのだから、自分の娯楽のために金を費すことを遠慮したのだろう。しかし私は、それについて何も言ったことはないし、ただむしろ父の遠慮に対して好い感情を持っていた。
 父の俳句に「夕立の来はなに土の臭ひかな」というのがある。これなどは豊津の生活の実景で、初めてそれを聞いた時、子供心にもハハアと思った。豊津の原にはよく夕立が来た。暑い日の午後、毎日のようにきまってサーッとやって来るのが、いかにもいい気持だった。そしてその夕立の来はなに、大粒の奴がパラ/\パラ/\と地面を打つ時、涼気がスウーッと催して来ると同時に、プーンと土の臭いが我々の鼻をつのであった。「かんざしのあしではかるや雪の寸」などというのも、私の子供心には別だんえんな景色とも思わず、ただ眼前の実景と感じていた。「百までも此の友達で花見たし」「菜の花や昔を問へば海の上」「目に立ちて春のふえるや柳原」などいうのも覚えている。系統としては美濃派だとか、支考派だとか言っていた。しかし父の主張としては、「俺はもげた句が好きじゃ」と言っていた、もげたとは奇抜を意味する。ついでに少し後のことだが、私はある時、父から俳句で叱られた。「我が顔の皺を見て置け年の暮」これには実際ギクリと参った。
 これも後に、「明月や畳の上の松の影」という古人の句を初めて見た時、なるほどハハアと、私は心の中で手を打った。曾てその通りの景色が豊津の家にあった。そしてそんな時、火を消してその月影の間に寝ころぶと言ったような趣味を、自然に父から養われていたのであった。
 しかし父の最も得意とするところは、野菜つくりであった。私が今、私の少年時代における父の姿をしのぶ時、それは炬燵こたつにあたっている姿か、さもなくば畑いじりの姿である。ことに、越中褌一つで、その前ごをキチンと三角にして、すっぱだかで菜園の中に立っている姿が、今も私の目の前に浮ぶ。五日に一度くらい働きにくる小六という若い百姓男を相手にして、父はあらゆる野菜物を作っていた。大根、桜島、蕪菜、朝鮮芋(さつま芋)、荒苧あらお(里芋)、豌豆えんどう、唐豆(そら豆)、あずき、ささげ、大豆、なた豆、何でもあった。茄子なす、ぼうぶら(かぼちゃ)、人参、牛蒡ごぼう、瓜、黄瓜など、もとよりあった。ふきもあり、みょうがもあり、唐黍とうきび(唐もろこし)もあり、葱もあり、ちしゃもあり、らっきょもあった。
 ことに西瓜は父の誇りであった。あの大きな丸い奴が、あるいは青く、あるいは白く、朝の畑に露を帯びて転がっているのを、私はよく父の尻について検分に廻ったものだ。苗の時から、花落ちの時から、いろいろ苦心して育てた奴が、一日一日に膨大して、とうとうここまで、一貫目以上もあろうというところまで大きくなったのだから、父が上機嫌で破顔微笑するのも無理はない。私としても、虫取りの時から父の助手を勤めているのだから、幾分か成功の光栄を分有する権利があるわけであった。虫取りの時には、粘土を水でネバネバにした奴を茶碗に入れておいて、葉裏や若芽にとまっている黒い小さい虫を見つけては、そのネバネバを附けた箸の先で、ソット苗にさわらないようにして取るのだった。それから花落ちの時には、ツケギで立札をして、その月日を記しておくのだから、およそ何日間であったか、それは忘れたけれども、大体成熟の日取りになって、父が小首を傾けながら爪の先ではじいて見る。コンコンカンカンというような響きの出る間は、まだ少し早い。「もうアサッテかシアサッテじゃろう」と言いながら、毎日弾いている中、少しボトボトという音がして来る、サアもうしめたというので、それをちぎる。大抵の場合、私の主張は父の意見に依って一日二日延ばされるのであった。さてそれからが大変で、それを食う日時が容易に決定されない。アシタにせよとか、アサッテにせよとか、毎日食うては悪いとかいう親たちの意見に依ってとかく私らの即時断行説が阻止される。それからいよいよ日時が決定されると、その日の早朝、あるいは前夜、その西瓜を細引でしばっていどにつける。午後になって、私らが学校から戻って来ると、その冷えきった西瓜がいどから引上げられて、まず母の庖刀で真二つに切られる。グウ、グウという音がして、庖刀が西瓜の胴体に食いこんで行く時、果してそれの赤いか否か一刻も早く見究みきわめようとして、私らが息を殺してのぞきこむ。「オ! 赤いぞな!」と母がまず希望の叫びを揚げる。やがてグウグウ、ザクザクと、その胴体が二個の半球に切り割かれた時、「ほう! 見事じゃのう!」と父がサモ嬉しそうな感嘆の声を発する。その中、半球がさらに二つに割かれて、ザクリ、ザクリ、赤い山形が続々と切り出される。私らは物をも言わずに、いきなりそれにかじりつくのであった。ただ一つ私の不満で堪らないのは、父母が馬鹿に念を入れた、腹下しの用心からして、ついぞ一度も、思う存分、食わせてくれなかったことである。
 西瓜について一つおかしい話がある。お隣り――と言っても、裏の松山の間の小道を二十けんばかりも行った処だが――そのお隣りの中村という家では、どういうものか西瓜を作らない。「あそこの嫁嬢よめじょうは西瓜が大好きじゃちゅうのに一度も食べんで気の毒じゃ」と言うので、ある日の西瓜切りの時、母がその嫁嬢を呼んで来た。嫁嬢は大喜びで散々食べて行った。ところが、その嫁嬢、ちょうど臨月であったのだが、その晩、急に産気がついた。サア私の内では大心配をした。西瓜が当ったのではあるまいか。もしかそうだとすると申しわけがない。余計のことをせねばよかった! ことに母は、気が気でなく騒いでいた。しかしお産は幸いに無事で、好い女の子が生れたので、西瓜は却って手柄をした。
 父はまた、野菜作りばかりでなく、屋敷内に竹林を作り、果樹をふやし、花物を植えつけ、接穂つぎほをするなど、いろいろ計画を立てて実行した。茶の木も少しあった。煙草の少し作られたこともあった。蓮池の計画もあったが、これは実現されなかった。珍しい物としては、甘茶の木だの、三叉みつまたの木などがあった。桑の木のことは、後に記す。
 父は煙草も好き、酒も好きだった。晩酌の一合ばかりを、ちしゃの葉に味噌をくるんで頬ばったりしながら、ちびちびやるのがよほどの楽しみであったらしい。いよいよ飯の菜や酒のさかなのない時には、いたら貝か何かに菜漬を入れて、鰹節を少し振りかけて煮るのが父の発明で、それを「煮茎にぐき」と呼んでいた。「ただの香物こうのものでも、こうして煮ると皆がくけえ、これは煮茎じゃのうて煮ずきじゃ」などと言って面白がっていた。
 父は律義りちぎな人であり、正直な人であり、キチンとした、小心の人であった。そして多くの場合、機嫌のよい人であったが、どうかするとかなり不機嫌の時もあった。私としては、ある時、意外なことで叱られたことがある。それは私より二つばかり年上の、少し裕福な家の友達が詩を作っているのを見て、私も真似したくなって、たしかそれに関する雑誌が買いたいとか何とか言いだしたところが、そんなことを見習うほどなら、あんな友達とつきあうのをやめてしまえと、さんざんにきめつけられた。私としては、金がないから買ってやれぬと言われるのなら、少しも不平など起さぬつもりであったが、友達とつきあうなと言われたのが不平で堪らなかった。しかし父はその後、東京に行っている兄の処に言ってやって、『作詩自在』という小さい本を取寄せてくれた。私はまた、その事件のつづきであったかどうかは忘れたが、その頃、父から横面を平手で烈しくぶたれたことがある。私がよほどあくたれたことでも言ったからであろうが、私としては、悔しくて悔しくて、ずいぶん永いあいだ泣いたように思う。そして一生涯、その不愉快の感じが幾らか残っていた。
 また、私は父に対してこういう滑稽な不平も持っていた。私は犬が好きで、途中で犬に会うと、口笛を吹いてやったり、頭を撫でてやったりして、仲好しになってしまう。そして結局、内まで連れて帰って来る。ところが、せっかく内までついて来た奴に対して、何らの愛嬌をすることが私に出来ない。私はそれらが堪らんほどつらい。私としては、餅の一きれなり、飯の一塊まりなり食わせてやりたい。しかしそれは父から禁じられていた。そんな癖をつけると、いつかその犬が内の犬になってしもうて困る、と言うのであった。貧乏士族の生活としては、犬一ぴきの食い料も問題であったに相違ない。だから私も勿論、犬を飼おうとは言わない。また必ずしも毎度飯をやろうとは言わない。そこで私は父と協定して、犬のお客のあった時にはぬかを一にぎりだけやることにしていた。ところが、それすらも父はあまり喜ばなかった。思うに父は、糠一にぎりを惜しんだわけではなく、犬の愛に溺れそうな傾きのある私の性情を危ぶんだのだろう。しかし父も、毎晩の食事時に必ずやって来る習慣になっていた隣家の犬に対しては、黒、黒と言って、鰯の頭など投げやっていた。
 しかし私はまた、深く父の寛大に感じていることがある。ある時、私の家に東京の親類から「鶴の子」という結構な菓子の箱が送られて来た。一つだけ貰って食った時、おそろしくうまかった。その後も欲しくて堪らないが、なかなか貰えない。あんな結構な物をムザムザ食うものではないと言って、父はそれを部屋の高い棚に上げてしまった。それから幾日たった後のことか知らんが、父も母もどこかに行って、私ひとり内にいた。フト悪心を起して、踏台を持って来て棚の上の鶴の子を取った。勿論たった一つだった。露見するかどうかとうかがっていたが、誰も何とも言わない。そうこうする中に、また機会があって一つ取った。とうとう三つ取り、四つ取り、五つ取った。もういよいよ露見しないはずがない。幾ら年寄りがぼんやりでも、五つも不足してるのに気のつかんはずがない。困った、困ったと思いながら、また幾日も幾日も過ぎたが遂に誰も何とも言わなかった。結局、そのことはそれきりで、年寄りなどという者は随分馬鹿な者だくらいに考えていた。そして、ズット後になって、私が自分の浅はかさに思い当って、今さら冷たい汗を流したのは、父も母も亡くなってしまってからのことだった。
 今一つ、私は父の机の抽出しから一円紙幣を盗んだことがある。その頃の一円は少なくとも今の十円の値打ちがあった。子供としては大金であった。私はすぐにそれを持って町に行き、新店しんみせという店で、唐紙とうしと白紙をたくさん買った。たくさんと言っても五銭か十銭かだったろう。そして釣がないからと言うので、代は払わずに帰った。唐紙と白紙を買ったのは、その頃、少し文人風の書画の真似をやりかけていたからであった。ところが二、三日後のある日、母が私を連れて屋敷内を歩いていた。何か母が私に言いたいことがあるのだと直感された。私は非常におそろしくなった。しかし母の態度は平生よりもやさしかった。竹藪の片わきの、梨の木の下に来た時、母はいよいよ口を切った。「としさん、ひょっとお前は――」サア来たと私は思った。しかし母は非常に柔しく、非常に遠慮がちに「ひょっと」「ひょっと」を繰返して、そうならそうで仕方がない、決して叱りはせぬから、とにかく素直にそれを出してくれと言った。私は非常な慚愧ざんきを感じて、一も二もなくかぶとをぬいだ。父はそれについて、遂に一言も言わなかった。
 ついでに今一つ私の盗みを書きつけておく。その頃、錦町にしきまちのある小間物店で、私は人のそばで遊んでいるようなふりをして、柄のついた小さい虫眼鏡を一つ盗み取った。それを通して物を見ると、何でも素晴らしく大きく見えたので、面白くて仕様がなかった。しかしそれを友達に見せて自慢することも、一緒に面白がることも出来ないのが、非常に残念だった。同時に、もしか露見しやせぬかという恐怖が盛んに起って来た。もうそうなると、ただそれを持ってることだけが大変な苦労で、毎日毎日どうしたものかと心配していた。いっそ元の処に持って行って返そうと決心した。しかし気がつかれないように返すということがまた大変だった。そうこうする中、幸いなことには、ある日どこかでその虫眼鏡を落してしまった。それを落したと気がついた時、私は実にホッとして安心した。





底本:「日本の名随筆49 父」作品社
   1986(昭和61)年11月25日第1刷発行
   1988(昭和63)年1月20日第4刷発行
底本の親本:「堺利彦伝」中公文庫、中央公論社
   1978(昭和53)年4月
入力:もりみつじゅんじ
校正:今井忠夫
2000年11月15日公開
2005年6月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について