丁度この欧化主義の最絶頂に達して、一も西洋、二も西洋と、上下
有頂天となって西欧文化を高調した時、この潮流に
棹さして極端に西洋臭い言文一致の文体を
創めたのが
忽ち人気を沸騰して、一躍文壇の
大立者となったのは
山田美妙斎であった。美妙斎はあたかも欧化熱の人工
孵卵器で孵化された早産児であった。
これより先き美妙斎は
薩摩の美少年の古い物語を歌った新体詞を単行本として発表した。
外山博士一流の「死地に乗入る六百騎」的の
書生節とは違って優艶富麗の七五調を
聯べた歌らしい歌であったが、世間を動かすほどに注意を
牽かないでしまった。が、この詩を発表した時が十八だというから、美妙の早熟の才は推して知るべきである。
美妙斎の名が初めて世間を騒がしたは『読売新聞』で発表した短篇「
武蔵野」であった。極めて新らしい言文一致と
奥浄瑠璃の古い「おじゃる」
詞とが巧みに調和した文章の新味が著るしく読書界を驚倒した。「美妙斎とはドンナ人だろう?」と、当時美妙斎の作を読んだものは作者の人物を
揣摩せずにはおられなかった。が、新聞で読んで感嘆したのはマダ一部少数者だけであったが、越えて数月この「武蔵野」を巻軸として短篇数種を合冊した『
夏木立』が
金港堂から出版されて美妙斎の文名が一時に忽ち高くなった。
丁度同時に
硯友社の『
我楽多文庫』が創刊された。
紅葉、
漣、
思案と
妍を競う中にも美妙の「情詩人」が
一頭地を
抽んでて評判となった。続いて金港堂から美妙斎を主筆とした『
都之花』とが発行されて、純文芸雑誌としてのエポックを作ったので、美妙斎の名は忽ち
喧伝されて、トントン拍子に一方の
旗頭と
成済ましてしまった。
今日の金港堂は
強弩の
末魯縞を
穿つ
能わざる感があるが、当時は対抗するものがない
大書肆であった。その
編輯に従事しその協議に
与かるものは皆
錚々たる第一人者であった。
然るにこの大勢力ある金港堂が一大小説雑誌を発行するに
方って
如何なる大作家でも招き得られるのに
漸と
二十歳を越えたばかりの美妙を
聘して主筆の
椅子を与えたのは美妙の人気が十分読者を
牽くに足るを認めたからであろう。その頃金港堂の編輯を督していたのは先年
興津で孤独の
覊客として隠者の生涯を終った
中根香亭であった。が、『都之花』については美妙が一切を主宰して香亭はただ巻尾に謡曲の註釈を載せただけであった。その時は明治二十一年の春であった。
『都之花』以前に『
芳譚雑誌』とか『人情雑誌』とかいう小説雑誌があった。が、皆
戯作者の残党に編輯されていたので、内容も体裁も古めかしくて飽かれていた。『都の花』はあたかも世間が清新の読物に渇する時に生れたので、忽ち当時の雑誌のレコードを破って、美くしい花やかな気持の好い表紙が新らしい気分を
漲らして若い読書家の心を
誘った。
随ってその主筆たる美妙の位置と人気とは当時の文学青年の
羨望の中心であった。
『我楽多文庫』は『都之花』に先んじて、硯友社の名は新時代の若い文人の集団としてその時既に読書界を騒がしていた。二者を比較すると『都の花』は
羽二重の
黒紋付の如く、『我楽多文庫』は
飛白の羽織の如き等差があった。その代りに前者はドコとなく市気があったが、後者は
微塵も
算盤気がなくて自由な放縦な
駄々ッ
子気分を思う存分に発揮していた。ドチラにも各々長所があってそれぞれ人気を呼んだが、美妙斎はこの二雑誌に
跨がって、あたかも政党の
領袖であって内閣の椅子に座しているような観があったから声望隆々として硯友社同人を圧していた。紅葉でさえが当時はなお微々として、美妙に対しては太陽の前の月ほども光らなかった。
美妙と紅葉とは
本と同じ町に育って同じ学校に学び、
或時は同じ家に同宿して同じ文学に志ざし、
相共に提携して硯友社を組織した仲であった。然るに『我楽多文庫』公刊
匆々二人が忽ち手を別ってしまったはいわゆる両雄
聯び立たずであって、陽には
磊落らしく見えて実は極めて狭量な神経家たる紅葉は美妙が同人に
抜駈けして一足飛びに名を成したのを余り快よく思わなかったらしい。が、『我楽多文庫』の基礎がマダ固まらない
中に美妙が『都之花』に
趨って別に一
旗幟を建て、あまつさえ自分一人が幸運に
舌鼓を打って一つ
鍋を
突付いた
糟糠の仲の同人の四苦八苦の経営を
余所々々しく冷やかに
視た態度と決して
穏当でなかったから、紅葉初め硯友社の同人が美妙を
謀反人扱いしたのも
万更無理ではなかった。
が、美妙としてはその時既に『都之花』の外に『
以良都女』という婦人雑誌を経営し、『女学雑誌』の特別
寄書家として毎号寄稿し、それ以外にもアチラコチラの新聞雑誌社から寄書を依頼されるという日の出の勢いであったから、紅葉は
左に
右く他の硯友社同人と
伍するには余りに地位が懸隔し、実際上にも糟糠の友を助けて『我楽多文庫』に寄与するだけの余裕はなかったのだ。紅葉と
乖離するのは決して本意ではなかったろうが、美妙の見識は既に
眇たる硯友社の一美妙でなくて天下の美妙斎美妙であったのだ。
私が初めて美妙と音信したのは『夏木立』発行後間もなくであった。私はその中の「武蔵野」を感嘆した一人であったから、マダ学生の貧しいポッケットの中から『夏木立』をも購読し、『我楽多文庫』をも『都之花』をも愛読していた。
今から考えると幼稚な鑑賞眼が楽隊入りの異形な文章に
眩まされたのだろうが、「武蔵野」には非常に驚嘆した。が、続いて発表された他の諸作には余り感服しなかった。
殊に『都之花』の巻頭の
呼物となった「
花車」は愚作であると思った。が、偶然の機会から二、三回音信したのが縁となって、
偶々金港堂の編輯所近くへ用達しに行った戻りに天下の人気作者を見るべく刺を通じたのがタシカ明治二十一年の十一月
頃であったと思う。
応接室に通されておよそ十五分ばかりも待ってると、やがて軽い
靴の音が聞えてスウッと
扉を
排いて現れたのは
白皙無髯の美少年であった。「私が山田美妙斎でござります」と
叮嚀に会釈された時は余り若々しいので
呆気に取られた。美妙が私と同齢の青年であるとは前から聞いていたが、私の
蓬頭垢面に
反対えてノッペリした
優男だったから少くも私よりは二、三歳
弱齢のように見えた。が、
一ト
言二タ言話して見ると極めて
世事慣れていて、物ごし態度も
沈着払っていて二つも三つも
年長のように思えた。何を話したか忘れてしまったが、こんな色の
生白い若い男があんな
巧い文章を書くかと呆気に取られた外には初対面の何の印象も今は残っていない。かえって当の美妙斎よりはその時美妙に紹介された同席の中根香亭の
清
鶴のような表々たる高人の
風
が今でもなお眼に残っている。香亭は幕人であった。亡朝の遺臣として声利を謝し聞達を求めず、『
天王寺大懺悔』一冊を残した外には何の足跡をも残さないで、
韜晦して
終に天涯の一覊客として
興津の
逆旅に
易簀したが、容易に
匹を求められない一代の高士であった。
二度目に美妙を
訪うたのは
駿河台の自宅であった。
水道橋内の
莢坂を駿河台へ登り切った
堤際の、その頃坊城伯爵が
住っていた
旗本屋敷の長屋であった。売れッ子の若い人気作者の
住居とは思われない古風な
武者窓の付いた
頗る
見窄らしい陰気な長屋であった。(この家は
最う三十年も前に
取毀たれてしまった。)
精々が
四室かそこらの家であったが、書斎を兼ねた八畳の座敷の周囲に大小の本箱を積み重ね、ギッシリ
塞った和漢洋の書籍が室内を威圧していた。今考えるとそれほどの蔵書ではなかったが、二本立ちの本箱の一つしか持っていなかったその頃の私の眼には非常な大蔵書家であるかのように映った。殊に
函入の『源氏物語』や
上海版の函入の
石印本などが馬鹿に光って無知な書生ッぽの私を驚かした。
その頃の私は文学よりは経済に志ざしていた。が、小説は好きで新刊も旧刊もかなり広く読んでいた。外国小説も語学の研究かたがた少しは見ていた。専門小説家がドレホド広く読んでいたかは知らぬが、読書の量はそれほど負けているとは思わなかった。が、その晩の美妙斎の談が古今東西に
渉ってかつて聞いた事もない作家の名を五つも六つも聞かされたには我を折って、自分よりも二つも三つも年下に見えるコンナ若々しい青年がドウしてこんなに博識かと
煙に巻かれて降参してしまった。どんな話をしたか、この時の談話はスッカリ忘れてしまったが、古今東西に渉った博覧に煙に巻かれてしまった事だけを記憶しておる。
その頃
徳富蘇峰、
朝比奈碌堂、
森田思軒の三人が新らしい文人の会合を
思立って文学会を組織した。蘇峰と碌堂とは新進第一の論客として勢望既に論壇を圧していた。思軒の名声はマダ両者に及ばなかったが、
造詣文章は
夙に文壇の第一人者と推されていた。この三人が幹事となって文壇各方面の第一流と目される名士を毎月案内して会合した。この文学会は後には次第に
有象無象を狩集めて結局文人特有の
放肆乱脈に堕して二、三年後に自然的に解体したが、初めは最も選ばれたる少数者の集団であって、当時の私設
翰林院を
以て目されていた。美妙は実に純文学を代表して
耆宿依田百川と共に最始の少数集団に
加っていたので、白面の書生が白髯の翁と並び推された当時の美妙の人気を知るべきである。
当時徳富蘇峰の『国民之友』は政治を中心としてあまねく各方面の名士を寄書家に
網羅し、
鬱然として思想壇に重きをなした雑誌界の
覇王であった。この『国民之友』が特別附録として小説を載せ初めたのは従来この種の評論雑誌が漢詩文あるいは国風の外は小説その他の純粋美文を決して載せなかった習慣を破った破天荒の新例であった。随って『国民之友』の附録は著るしく読書界の興味を
惹き、尋常小説読者以外の知識階級者の注目をも集めて世評の焼点となった。かつこれに加えて広告に巧みな民友社が商略上
大袈裟に
吹聴したから、自然この附録に載ったものは大家を公認される形があって、読書界が毎年二季のこの附録を迎うるやあたかも
回向院の番附を見ると同一の感があった。その文壇に重きをなしたは今の『改造』や『中央公論』の附録のようなものでなくて、皮肉な正太夫はこれを称して民友社の大家製造といった。
尤もこの大家製造は年々次第に粗製
濫造となって、終には民友社の
折紙が余りに権威を持たなくなってしまったが、その初めはこの附録が文人の進士登第と認められていた。
この新例を創めたのは二十二年の春であって、美妙の新作は
春廼舎朧の短篇と相並んで第一回の選に入った。当時春廼舎は既に文壇の第一人者として仰がれていたから選に入るのは少しも不思議はないが、新進年少の美妙が春廼舎と並んで推されたのは異数であった。シカモ、美妙は特にその作「
蝴蝶」のための
挿画を註文し、普通の画をだも評論雑誌に
挿入するは異例であるのを、
択りに択ってその頃まだ
看慣れない女の裸体画を註文して容易に
容れしめたのは、蘇峰に作家の意思を尊重する理解があったからだが、また以て美妙の人気が先例のない無理な註文をすらも容れしめたほど高かったのを証する事が出来る。
が、この挿画の策略が見事に
中って作その物よりは美くしい女の裸体画が公衆の非常なる好奇心を喚起した。この画は平家の若い美くしい
上臈が
壇の
浦から
遁れて、岸へ上ったばかりの一糸をも掛けない裸体姿で源氏の若武者と向い合ってる処で、ツイこの頃も明治の裸体画の初めとして或る雑誌に写真が載せられた。今見れば何でもない
拙い画であるが、好奇心から評判になると同時に道学先生の物議を
醸し、一時論壇は裸体画論を盛んに戦わして
甲論乙駁暫らくは止まなかった。美妙自身もまた幼稚な裸体画論を主張して、議論が盛んになればなるほど「蝴蝶」の挿画が
益々評判となって、知るも知らざるも皆裸蝴蝶を喧伝した。この評判に
蹴落されて春廼舎の洗練された新作を口にするものは
殆んどなく、『国民之友』附録に対する人気を美妙が一人で
背負ってしまった。が、実をいうとこの評判は美妙の作よりは
省亭の拙い裸体画の成功であったのだ。今なら当然発売禁止となるべきこういう下劣な裸体画を寛仮した当時の内務省の役人の頭は今の官憲よりも美妙斎よりも進歩していた。S・S・S即ち
鴎外の新声社派の「おも影」が『国民之友』に載って読書界を騒がしたのはこの年の夏の第二回の特別附録の時であって、美妙は文壇的には鴎外よりも早く、春廼舎に次いでのエポック・メーカーであった。
一方、美妙斎が経営していた『以良都女』は、婦人雑誌としての思想上の位置こそ
巌本善治の『女学雑誌』に及ばなかったが、美妙の編輯だけに頗る文学的色彩に富み、
搗てて加えて美妙の人気が手伝ってかなりに多数の読者を吸収していた。質も量も今の雑誌と比べては話にならぬが、丁度一と頃売れた『女子文壇』に若干の芸術趣味を加味したような相当な雑誌であった。厳本の『女学雑誌』の素朴に引換えて極めて花やかな色彩を帯び、その寄書欄から多くの若い女の秀才を輩出した。後に美妙と結婚して蜜月の甘い陶酔が
覚めない中に
果敢ない悲劇の犠牲となった
田沢稲舟もまたこの寄書欄から出身した女秀才であった。
美妙は美男であった。ドチラかというと
為永の人情本にありそうなニヤケ男であった。言語が物柔らかで応対も巧みであった。女の好きな国文の素養があって、歌や韻文も
上手なら芝居や音楽をも
噛っていて、初対面のものを煙に巻く博覧の才弁を持っていた。その上に天下の人気を背負って立って、一世を
空うする大文豪であるかのように歌いはやされていたから、当時の文学少女の愛慕の中心となっていた。『我楽多文庫』に載った「情詩人」というは多分自分自身を主人公としたのであろうが、如何にも多恨多感な詩人らしい生活を描いたものだ。男の我々が見ると
堪らなくキザで鼻持がならないもんだが、当時の若い女をゾクゾクさした作で、キザな
厭味な文句を文学少女は皆
暗誦していたもんだ。
が、美妙斎の全盛は裸蝴蝶時代が絶頂で、それから以後は次第に下り坂となった。『都之花』に載った「花車」は人気のお
庇で多少読まれたが、具眼者の間には愚作と認められていた。最も
苦辛した労作と自からも称していた「いちご姫」は昔しの物語の焼直し
染みて根ッから面白くなかった。一時は好奇心を牽いた「おじゃる」
詞も
徐々鼻に附いて飽かれ出した。これに反して一方妙なイキサツから美妙と
睨み合いになった紅葉はメキメキ売出して硯友社の勢力が漸次に文壇を
席巻し、
何時とはなしに美妙に取って代って人気を蚕食してしまった。文壇の寿命が如何に短かいにしても美妙の人気は余りに
飽気なくて線香花火のようであった。だが、その短かい間の人気は後の紅葉よりも
樗牛よりも
独歩よりも
漱石よりも、あるいは今の
倉田よりも
武者よりも花々しかった。美妙がもし裸蝴蝶時代に早世したなら必ず一代の大天才なるかのように天下を挙げて痛惜哀悼を惜まなかったろう。
生じい
生延び過ぎて最も気の毒な末路に終った。
美妙斎はドウシテ人気を失墜したろう。美妙斎について実は余り多くを知っていないから、私の憶測が
中るか中らないかは
請合わないが、試みにその原因を数えようなら、
第一、美妙斎には限らないが、少年名を成すは第一の不幸で、美妙斎は余り早くから世間に
管待やされ過ぎた。詩人には随分早くから売出したのが古今珍らしくないが、美妙斎は世間に出るなり直ぐ大家となってしまった。
二十か二十一で一躍して数年以上の
操觚の閲歴を持つ先輩を乗越して名声を博し、文章識見共に当代の雄を以て推される
耆宿と同格に扱われた。如何に天才でも非凡人でもこう
易々とトントン拍子に成上ると勢い
矜驕となり
有頂天となるは人間の免かるべからざる弱点である。美妙斎は余りに早く大家となったために自分をもまた余りに高く買い被り過ぎて少しも
造詣に励まなかった。自然頭の中が忽ち空乏となって、文章上の
工風も構想上の進歩も
行詰って飽かれてしまった。
第二、美妙斎の人気を博した第一の理由は文章上の新味であるが、この新味はこれまでの日本文には余りなかった非情物即ち草木や動物の擬人法、
例えば花が
囁※[#「口+需」、U+5685、179-8]いたとか犬が
欠伸したとかいうような文句や、前にもいった
足利時代の「おじゃる」
詞や「
発矢!……何々」というような
際立った誇張的の新らしい文調であったので、初めの珍らしい中こそヤンヤと
喝采されたが、段々
馴れると鼻に附いて飽かれてしまった。匂いの高いものは鼻に附くようになると
嘔吐くほどイヤになるもんで、美妙斎の文章の新味も余り香気が高過ぎたので一時は盛んに
管待やされたが、その反動として今度は極端に
嫌われるようになった。
第三、美妙斎に限らず、創作家は余り評論をしない方が得策である。創作家と評論家とは
自ずから領分が違ってる。二者共に長ずる少数特殊の人を除いては、創作家は評論をするとボロが出る。どういうもんだか美妙斎は評論が好きで、やたらと幼稚な評論をしては頭の貧弱を
惜気なく
露け出してしまった。殊に美妙斎の
生緩い冗漫の言文一致は論難に不適当であって、いとど薄弱なる議論を益々力弱くさせて世間の軽侮を招くようになった。(この点においてはかつて一度もマジメな議論をした事のない紅葉は
有繋に怜悧であった。)
第四、美妙斎は余りに多才多能で、何でもちょっとは器用にやってのけたので、一事の完成に全力を注がなかった。創作もすれば評論もする、文学も論ずれば婦人も論ずる、小説の評判が悪くなると字引を作る、著述が受けなくなると算盤を持つ、
甚だしいのはラムネの製造までもして損をしたというように、始終転々して一事を貫く熱心が欠けていた。文壇に乗出したそもそもの初めこそ小説を生涯の使命とする
意気込があったらしいが、人気が去ってからは他の仕事に転々して、最後に再び文壇に舞戻った時は
最う時代に遅れてしまって、口を
糊するに忙がしくて
捲土重来の花を咲かせようとする意気地が抜けていた。
第五、美妙斎は人となりが偏狭で、誰とでも親密になれなかった。かつ誠実が多少乏しかったようである。その頃我々は大抵独身で、始終互いに往来して共に飲食する事が珍らしくなかったが、美妙と一緒に飯を
喰ったという話を誰からも聞いた事がなかった。
勿論美妙の家で
蕎麦一つ
御馳走になったという人もなかったようだ。かえって美妙を尋ねる時は
最中の一と折も持って行かないと
御機嫌が悪いというような
影口があった。かつ、文人の集まる席へ案内されても滅多に顔を出さなかった。尾崎と一緒に下宿して一つ鍋のものを突ッついた仲でありながら、文壇の
羽振が
宜くなると忽ち裏切してしまった。
二葉亭とは親同士が同僚であって、小学時代からの友人であったが、中年以後は全く疎隔して音信不通であった。文壇人とは誰とも面識があったが、親友というものは殆んど一人もなかったようだ。であるから金港堂を離れて後の美妙斎は全く孤立して、誰とも
交際わないから随って誰にも余り同情されないで、社会的にも私的交際にも段々存在を認められなくなってしまった。
第六、稲舟女史との関係については真相を判断する材料を持っていないが、無責任な新聞紙に大袈裟に伝えられるほどの不徳が美妙にあったとは思われない。美妙にも必ず同情すべき気の毒な事情があったろうと思うが、
平生誰とも交際わないから自然文壇の同情が薄く、同情したいにも同情するだけの材料を持ってる者がなかったから、
蔭にも
日向にも美妙のため弁疏する事が出来ないで、新聞紙の報道を半分虚伝と思いつつも
暗々裡に認める外はなかった。実をいうと、日本のような道徳的基準の低い国で美妙が犯したぐらいの恋愛的過失で社会的に葬むられてしまうというのは不思議である。が、
嶮峻の
隘路に立つものは
拳石にだも
躓いて直ぐ
千仭の底に
墜ちる。人気が落ちて下り坂となった時だから、責むるに足りない
聊かの過失でも取返しの付かない意外な致命傷となったのであろう。愛の冷却した夫婦の結合は不自然であるとか虚偽であるとかいう勝手な
理窟を附けて不条理極まる破縁を不人情とも
没義道とも思わず、あるいは三角や四角の恋愛を臆面もなく
手柄顔に告白するのを少しも
怪まない今から考えると、ただこれだけで葬むられてしまったのは誠に気の毒であった。
以上は美妙が文壇に失墜した
所以の重なる理由である。それ以外に幾多の遠因も近因もあろうが、
畢竟するに最後が極めて悲惨であったのは自ら求めて世間や友人の同情を薄くしたためである。文壇が美妙に
背いたのではなくて美妙が文壇に背いたのである。
だが、ドウしてこんな風に偏小狭隘求めて世間に遠ざかるようになったかというと、美妙をこんなに偏屈に孤立を好むようにならしめた所以の美妙の
生立ちの家庭の事情に
遡らねばならないが、美妙と交際の極めて浅かった私はこれを
究むるだけの材料に不足しておる。が、美妙の生立ちには一貫した一条の悲劇的径路があったように聞いている。
美妙と紅葉とは種々の点で違っていた。第一に雅号である。美妙斎美妙と名乗った理由は知らぬが、別段説明を聞かないでも
解るほど露骨であって詩人の奥床しさを欠いておる。小説家よりは曲芸師
染みて
寄席のビラに書かれそうだ。紅葉山人というは青年時代に芝に
住っていた
因みから
紅葉山の人という意味で命じたので、格別
捻くらない処に洒落の風が現われている。第二に筆跡である。美妙斎の筆蹟は
定家ようの極めて美くしい書風であったが、何となく芸人披露の
名弘めの散らしの
板下然として気品に欠けていた。紅葉は
蜀山人を学んで、若い頃のは蜀山人以上に
衒気満々としていたが、晩年はスッカリ枯れ切って
蒼勁となった。蜀山人から出て蜀山人よりも力があって、
何処となく豪快の風が現われていた。
風采からいっても、美妙は
色白な
柔々しい、ドチラかというと少し
柔気て、如何にも「詩人でございます」といったような美男であったが、紅葉は色の浅黒い、
苦み走った、スッキリと背の高い江戸前の、美男というよりは好男子という方であった。美妙は
鯔の背のように光ったベラベラ着物に
角帯をキチンと締め、イツでも
頭髪を奇麗に分けて
安香水の匂いをさしていたが、紅葉は
燻んだ光らない着物に絞りの
兵児帯をグルグル巻いて、五分刈頭の紺足袋で
八幡黒の鼻緒の下駄が好きであった。万事がこんな風に著るしく違っていた。
私が先ず二人の性格の相違を著るしく感じたのは初対面の印象であった。美妙斎との初対面は前にもいった通りに何を
訊いても知らざる事なく、打てば響くように直ぐ答える博覧に驚かされたが、二度三度と重なるとイツデモ一つ話ばかりをしていて博覧の奥底が忽ち
看え透いて来たには
嫌気が挿して来た。
紅葉を尋ねたのは美妙に会ってから三、四カ月後であった。その頃紅葉は
飯田町の国学院大学の横町にお
祖父さんと一緒に住んでいた。美妙の
武者窓の長屋よりは気の
利いた一軒
建であったが、美妙が既に一人前の紳士であったと違って、紅葉はマダ書生ッぽで三畳の書斎に納まっていた。何しろ三畳敷だから二、三人座るとギッシリ詰って身動きも出来ない位で、美妙の書斎のように
嚇かし道具を
列べる余地もなかったし、美妙のように何でも来いと
頤を
撫でる
物識ぶりを発揮しなかった。例えば美妙は、これなら
豈夫知っていまいと
窃に予期して質問した
西鶴についてすらも初対面の私を煙に巻くだけの批評をしたが、紅葉はこの頃
漸と『一代男』を読んだばかしで何が何やらサッパリ解らない、女の
行水している処を隣りの屋根から
遠目鏡で
覗いている画なんぞあって面白そうだが少しも解らない、『源氏』よりは難かしいもんだと率直に答えた。美妙はディッケンスもサッカレーも
鵜呑にした批評をしたが、紅葉はやはり難かしくて少しも解らないといった。字引をコツコツ引いて油汗をダクダク出して考え考え読んで、なるほどコイツは
巧エやでは
少とも面白くないと言った。美妙は学者然と取澄ましていたが紅葉は極めてザックバランで少しも飾らなかった。美妙の知識の領分はかなり広いようだったが、イツデモ一つ領分の中を
彷徨して同じ話ばかりしていた。紅葉はこれに反して段々と新らしい領分を開拓して、会う
度毎に必ず新らしい本を読んでいて新らしい話をした。
美妙斎は少しも温か味がなかった。
何度会っても他人行儀で、
心底から
胸襟を開いて語るという事がなかった。
強ち
裃を付けた四角四面の
切口上で応接するというわけではなかったが、態度が何となく
余所々々しくて、自分では打解けてるツモリだったかも知れぬが、
他には
何時でも
城府を設けてるように見えた。紅葉はこれに反して、腹の中には鉄条網を張って余人の
闖入を決して許さなかったが、
表面は城門を開放して靴でも
草鞋でも
出入通り抜け勝手たるべしというような顔をしていた。それゆえ美妙斎とは何年
交際っても親友となる事が難かしかったが、紅葉は初対面の時から百年の友のように打解け、
戯言もいえば
気焔も吐いて誰とでも直ぐ肝胆を照らして語り合った。
その実、紅葉は初対面から誰でも親友扱いするが心から打解けるのではなかった。江戸ッ子風の
洒脱らしく見えて実は根ッから洒脱でなかった。硯友社という小さな王国に
立籠って容易に人を寄せ付けなかった。実をいったら美妙の方がリベラルで、紅葉の方が
遥かにオーソドキシカルであったかも知れぬが、リベラルな美妙が人に嫌われてオーソドキシカルな紅葉がかえって人に
親まれたというは紅葉の社交の才が
勝れていたからで、文壇的には狭量偏固な鎖港攘夷党であっても、社交上には如才なく振舞って勢力を扶植し、硯友社以外にも多数の後援を擁していた。美妙はこれに反して自分から世間を狭くして友人にも遠ざかったから、文壇的にも社会的にも孤独無援の位置に落ちて、
終に悲惨の生涯の幕を閉じた。
美妙の文壇生活の最高調は『都之花』時代であったが、社会生活としての最得意は
平永町に新築した頃であったろう。駿河台の
暗ぼったい旗本屋敷の長屋から移転したので、タシカ今の
神田キネマの辺であった。
軒並の町家の中で目立った相当に大きな門構えの二階建で、間数もかなり多かったらしい。
木口は余り上等とも思わなかったが、
左に
右く木の
香のする明るい新築だった。今と違ってマダ
操觚者の報酬の薄かったその頃に三十になるかならぬかの文筆労働者でこれだけの家を建築したのは左も右くも成功者であった。
書斎は二階であったが、椅子テーブル式で、クローム画の額や、ブロンズや、西洋家具の古道具屋から仕入れたものをゴテゴテ列べ、何のツモリか知らぬが
弾けもせぬヴァイオリンが壁へ掛けてあった。今なら文化生活で、美妙の得意はこの安価洋風装飾に現れていた。が、その頃は字書を
編纂していたので文壇人としては既に一歩を降り坂に踏入れていたのだ。
美妙を訪問したのは前後三、四回しかなかったが、この平永町の新居を偶然通り
縋りに尋ねたのが最後であった。
僅か二十分ほど話して美術学校の一年生ぐらいが作ったらしい
木雕の牛を見せられたが、それぎり美妙とは会わなかった。自分ばかりじゃない、その頃から以後は美妙が時折寄稿した雑誌の編輯者以外には美妙と往来したものは
殆んどなかったろう。
それでも稲舟と結婚した時は両人連名で益々御愛顧を願うというような開業の引札然たる活版
摺の通知を交友間に配った。が、新婚のお祝いをする
遑がない中に
最う二人の恋の
破綻が新聞で
剔抉かれた。それから以来はラムネを作って損をしたとか、公園
芸妓を引入れたとかいうような面白くない風説を新聞の三面で聞くばかりで、文壇人としての消息はまるきり絶えてしまった。それから二、三年経ってから
復たポツポツと美妙の名が低級な雑誌に見え出して、そういう雑誌の発行者や編輯者の口から
噂を聞く事があったが、お
情に原稿を買ってやるというような
口吻で美妙の気の毒な境遇が想像された。書いたものもまた色も香も
艶も生気もない
萎れた花の
憐れさを思わせるようなものばかりだった。
二葉亭が没した時、諸家の追懐談を集めた追悼録を作ろうとして少年時代の友たる美妙斎へも寄稿を依頼した。その時の美妙の返事は敗残者の卑下した文体で、勝誇った
寵児のプライドに
充ちた昔の面影は微塵も見られないで
惻隠に堪えられなかった。
それから一、二年経ってからであろう、美妙の
訃の伝わったのは。最後の隠れ家は
駒込の伝中辺だと聞いたが、丁度旅行していたし、十何年間もまるで音信不通であったし、それ以前とても親友というほどの関係でなかったから葬儀に行かなかったが、後に聞くと送棺者がただ僅かに三、四人だったそうだ。自ら世を狭くしたのだとはいえ、誠に気の毒な最後であった。
それから数月経って聞いた
咄だが、最後は
石橋思案と
丸岡九華が
専ら世話をしたそうだ。いよいよ重体となってから、九華はシュークリームが美妙の大好物であると聞いて見舞に一と折持って行った。美妙は大変喜んだので、家人も厚く感謝して大切にし、病人の外は子供にさえも手をつけさせなかったそうで、
黴の
生えたシュークリームが臨終の
枕頭に残っていたそうだ。日本の言文一致の先駆者(あるいは創始者)として文壇の風雲を
捲起した一代の才人の
終焉として何たる悲惨の逸事であろう。こういう悲惨な運命を
速いたのは畢竟美妙自身の罪であったが、身から出た
錆であったにしても、日本の新文体の創始者に対して天才の一失を寛容しなかった社会は実に残忍である。
(大正十三年九月補修再録)