欧洲紀行

横光利一




二月二十二日

[注・昭和十一年]
家人への手紙 一
 今さき門司を出た。疲れているので手紙を書く気もしない。船のなかは馴れると楽だが頭がぼんやりして眠る前のようだ。温かく上衣を脱ぎたいほどだが、うっかり手紙をサロンで書いていると、突然日本海から隙間風が来て咳が出る。まだ風邪が癒らないのだと思う。あわてて隙間風のこない所へ逃げてまたペンを持つ。
 これから出す手紙は保存しておいてほしい。その時、思ったことを書きつけておくのは手紙に限る。僕が持っていると失って了うおそれがあるから番号でも書いて保存しておいてほしい。但し何も書かないことだろうと思うが、船中の心理の移動、自然の変化と自分の気持ちを後で引きくらべてみたいと思うから。
 昨夜事務長が、七つの男の子がロンドンから日本までお婆さんを慕って一人で帰った話をした。それも自分からどうしても一人で帰るといってきかないのでロンドンの親達も困って一人で帰らしたとのことだ。何処やらの日本婦人が世界を廻って帰って来て、横浜まで船が入ると、どぶんと海へとびこんで死んだという話もきいた。
 海ばかりを廻って来ると悩みがあればさもあろう。それは何んでもないことだ。
 僕の食卓は高浜虚子さんとお嬢さん、機関長上ノ畑純一氏と僕の四人である。


二月二十四日

 午前九時半、上海着。友人の今鷹の家の階段を昇って行くと、下から大きな声で呼ぶ者があるので、ふと下を見ると山本実彦氏である。全く偶然のこととて、降りて話をしたいと思うが、今鷹ともまだ挨拶もしないから、二階へそのまま上り込み、茶を一ぱい飲んでまた階下の内山書房へ降りて行く。書房には魯迅氏と実彦氏、内山書房主と三人。魯迅氏は昨夜から改造の原稿執筆のため眠らずとのこと、蒼顔、髯濃く、歯並美し。一同、南京路の新雅で中食の御馳走になる。


 出発。疲れているので、上海のことは後日に廻し日記は香港から書こうと思う。

天井に潮騒映る昼寝かな


二月二十六日

 東京に起った暗殺の報伝わる。まだ朝だ。台湾沖通過の際デッキゴルフをしている一団の若い船客達が、一勝負をつけた所へ、暗殺の報を持って来る。一同顔を曇らせてヘエッと云ったまま二分間ほど黙っている。と、一人が「さア、次をやろう」と云い出す。すると忽ち一同の顔はにッと笑い出し、一切を忘れてクラブを持って玉を突き始める。傍で見ていて、こんなものかと私は思う。


二月二十八日

 曇。朝八時香港着。港の景観は旅の幸福を事実となすに足る。このあたりも早や春雨だ。風に波立つリパルスベイ一面の黄色な花――香港島を自動車にて一周後、マスクをかけて街を散歩する。群衆は私のマスクに驚くことしきりである。子供らは追っかけて見に来る。立話をしているものも話をやめてぼんやりと口をあける。こうなるとその次の者はどんな顔をするものかと観て行くうち、逢うもの逢うもの同様な表情を一瞬私の面前でする。総て香港の支那人は上海のものより俊敏で活溌だ。

春雨や物乞ひどもと海を見る


 自動車で島を一周中、車に故障生じ、一時間余り山中にて停止。動くまで降りて港を見降ろす。風強く樹木の裏葉がめくれ上る下に、折からの日光に輝いた波頭が美しい。とうとう車は駄目だと云う。途方にくれて辻売りの蜜柑を買い、立食いをしながら句を作る。そこを一台の自動車が疾走して去る。見ると高浜虚子氏とお嬢さんだ。呼ぼうにも早やすでに遅い。仕方なくまた句を作る。支那人が竿の先のカギを梢の枯枝にひっかけ、折り落している。焚火用だ。

枯枝の落つ間も動く舟の数


 香港は建設以来八十年、全島鬱々たる樹木の山もそれまでは禿山との事。山の頂に向って階段をなす建築の美。香港の夜景は世界の四大夜景の一つだと云うが、私は昼間の景観の方をとる。

暴れ若葉九龍の波尖とがる


 船が左右に揺れつつ進むので頭が朦朧となって筆進まず。文章も船が左へ傾いたとき訂正した箇所は右に傾きかかったとき急にいやになる。頭の不思議さ。
 外は眼に触れるもの海ばかりだ。二尺の高さの窓の中央にある水平線が、窓いっぱいに上ったり下ったりしているだけである。


 内地にいるとき面白いとかえらいとか思っていたものも船の進行につれ、だんだんつまらなく見えて来る。価値の変化は距離に比例するのであろうか。


 アメリカの富豪が一人乗っている。この紳士はデッキの欄干に肱をつきながら、長谷部少将と話をしている。日本はバイカル以東を取ってもどこも何とも云わぬから、早く取るがいい。ただわいわい騒がさぬようにしてやるが良いと云う。


 八、九歳になるイギリスの少年がゴルフをやろうと私に云い出す。甲板には誰もいない。二人で始めると、この子供は他人には極めて厳格だが自分自身には寛大だ。しかし、母親と食事をするときには母に椅子をすすめている。


 香港へ着いた朝、チャイナメイルの英人の記者二人訪ねて来た。どちらも礼儀正しい。種々私に質問した後、直立不動の姿勢で並びサンクユーと同時に云って礼をする。
 新聞記者が礼儀を重んじない限り、一国の文化は絶対に上らない。民衆に恐怖を与える新聞記者が増加するほど文化は下降する。


 船中の話――ロンドンにイギリスの売春婦があり、日本人専門に商売をつづけているうち、八十ポンドの貯金が出来た。彼女は老齢になったが子供もない。彼女の口癖は「自分は八十磅の金を持っているが、これは皆日本人のために這入った金だから、自分の死ぬときには、これを全部日本人のクラブに提供して、有益なことに使ってもらうのだ」とこう云って遺言の中にそれを書き、常にその紙を懐中していたと云う話――。これは前のロンドンの総領事の米沢氏が直接私に話したこと。


 香港二十九日朝七時出帆。寒い。ここより以西は夏服だと聞いていたがオーバーを着たく思う。このごろは南洋まで変りつつあるのであろうか。
 このあたり島多く、総て少年時代に読んだ冒険物の絵のような島なり。海賊の根拠地もここらにありと云うが、このような形の島多ければ海賊になりたくなる筈だと思う。


三月一日

 昨日まではオーバーを着ているものがあったが今日は幾らか暑くなった。入梅ごろだ。印度支那の沖合である。上海以来ほとんど日光を見ない。雲もよくこれほどあるものと思う。海も大きいと思うが雲も大きい。来る日も来る日も海ばかりつづくと旅行をしている感じが起らない。姿を変えない海上ばかりにいるものは、冒険なくしては生き甲斐を感じないのだ。揺れない大きな船の乗組員は、小さな船の船員よりもうとの事だ。つまりたまにより大揺れに逢わないからである。サロンの桃の花しだいにこぼれていく。

船中に桃のみめぐる二三日


 欧洲航路のマルセイユまで行く船中生活ほど、この世の楽土はまたとないと人々はよく口にする。なるほどそうかもしれない。しかし、何と退屈なことだろう。私は船客や船員達と殆ど友達になってしまったが、船の中には何か足りないものがある。私はいろいろ考えてみたが、それは孤独というものだ。人間は限りもなく贅沢に出来ている。


三月二日

 晴天、初めて太陽を見る。印度支那の高い山々が四マイルほど彼方に見える。船中は夏服に変った。もうすぐ赤道にかかるのだが、それにしては涼しい。私はまだ合い着だ。ある練習艦隊が赤道近くまで来たときに士官が下士卒に望遠鏡を渡し、どうだ向うに赤い線が見えるだろう。あれが赤道だとからかうと、はい見えます。と答えたと云う話がある。水平線までは船から六哩だということ、マラッカ海峡の不思議さをいろいろ聞いたが、早くそこを見たいと思う。佐藤次郎の飛び込んだのもそこなら、あのときの船も、この船だ。


 シャリアピンの乗って来た船もこの船である。事務長はシャリアピンからウオッカの上等の残りを貰ったのがまだあるがこれだと云って一杯注いでくれる。ふと唇にあてると、獣の匂いがする。


 欧洲航路の船客というものは、どこかの学校へ入学したようなものだ。二度目の者を、われわれの先輩と呼ぶ。老若貴賤の区別なく一年生は一年生の感動をもって、先輩の意見に耳を傾ける。ところが先輩諸君の訓戒は、何人も興味を感じるに相違ない話ばかりを選んでいく。一度、これらの話中に巻き込まれたが最後、その警戒はなくなってしまう。夫婦の船客だけは自らノックアウトされていく。筆には書けぬ話というものは、いかにこの世の中に豊富に存在しているか、計り知れぬものだ。


 上海に前に行ったのは昭和三年である。この度で八年になるが、前には白系露人が殆ど乞食と売春婦であった。それが八年の間に、フランスタウンの一角へ堂々たる街を建設した。それらは総て独力で妻や子供を春婦にして得た金だ。


 オリオン星が殆ど直上に来る。この星が直上に来れば、赤道にかかった標とのこと。明日は三月三日の雛祭だ。

オリオンを直上に指す雛祭


 日本へ電報を打ってみる。船中は港へ這入らぬ限りどこでも八十銭均一なり。本日返電あって無事との事。初めて夏服を着る。私は夏服に着替えた最後の船客である。

古里の便りは無事と衣更


 この箱根丸の機関長は、ときどき新聞で見た上ノ畑純一氏である。この人は郵船全社員の三分の二の支持者のある人。私とは食卓が同じである。俳号を楠窓と云い虚子氏の弟子だ。会話は常に機械的だが、聞くうちに機械の面白さと深さを感じる。欧洲へ渡ること二十六回。横浜よりマルセイユまでの航行中の心理の移動をときどき私に説明してくれる。東京を立つときの送別会攻めの疲労はシンガポールまで続くとの統計が出ているそうだ。まだ私の身体も常態ではないのだ。桃の芽延びる。

桃の芽のふけしを忘る雛祭


 上海からシンガポールまで随分長いと思うが、この間ほとんど野蛮国である。まだまだこの三倍の長さの未開地がマルセイユまで続くのだと思うと、戦争の起るのも無理もないと思う。誰がこのまま捨てて置く筈があろう。


三月三日

 雛祭り。洋上句会あり。詠題は雛と衣更。私の句は三つ虚子氏の選に入る。

古里の便りは無事と衣更
カムランの島浅黄なる衣更
衣更はるかに椰子の傾ける

 この夜から風邪をひく。


三月四日

 朝八時、シンガポール着。一見港の風景は平凡だ。われわれの想像は全く見当外れで街へ降りる気もしない。しかし、一度降りるや熱帯の特長は急激に官感を襲う。
 花の襲撃、香の交響。文化の錯雑。植物の豊饒。こんな暑い日は近来にないと、シンガポールの住民が云う。今日は馬来マライ人の正月で公休日とのこと。土民の衣は新しく、色とりどりだ。あの樹はと問うと雨の樹という。

雨の樹の下には紅の花衣

 あの紅の花はと訊ねると、仏桑華ぶっそうげと答える。

水牛の車入りけり仏桑華


 真紅の花、黄なる花つけたる街路樹の間をジョホール王宮へ向う。椰子はここでは日本の松の木だ。椰子には八十種あるというが、どれも皆違う。われわれの内地で眼にする植物といえば、羊歯だけである。焔のごとき花の群団、火焔樹という。驟雨のような椰子林あり。

椰子乱るあたかも雨に似たるかな

 回教の寺院へ参り、それより護謨ゴム園を見に行く。四十哩の速力で三四十分の間、両側は護謨林ばかりだ。紅葉期らしく、護謨は紅葉。突如として香料の匂いが林中から吹き襲う。香木があるらしい。

護謨林を香吹き抜けし士乃道セナイミチ

 士乃セナイに着く。奥田氏支配の護謨園(奥田氏とは船中の友なり)椰子と護謨の林の中の一軒家が事務所であった。ここで休息する。ひからびた石垣のような鰐がいる。花咲く下で番人がこれを棒切れで突く。

鰐怒る上には紅の花鬘

 椰子酒を飲む。椰子の梢の新芽を切り、そこから流れ出た酒だ。味と色はカルピスに似ているが、生温かく臭気が強い。酒を取るため馬来人は猿のように大椰子の梢に乗る。椰子に昇るときには、土人は斎戒沐浴するとのこと。


 士乃の護謨林より引き返し、ジョホール王宮のサルタンの墓を見る。印度素馨そけいの花の匂いが門に漂う。口無しの強い匂だ。王妃の墓の上には、匂いの強烈な花ばかり撒いてある。

サルタンの妃の墓に薔薇もあり


 シンガポールの市街を通り、郊外の玉川園にて中食。カンジョンの干潮につづく椰子畑。各国人の服装の中、支那婦人の服装最も美し。季節に変化のないことは文語体のように経済的なことだと今さら思う。

尾花吹くスコール速し雲の峰
ペナン行花さす客の口赤し

 花の名は書ききれぬ。シンガポールから花を取り除けばその倦怠は地獄であろう。内地の渡航者はただ花にびっくりして人生の楽園ここにありと思うらしい。しかし、長い居住者にとって花はいったい何ものの代りとなろうか。馬来は流謫地という意味だそうだ。


 シンガポールの内地人は親に勘当されたものかあるいは失恋したものばかりの集合だとのことである。馬来の文化は護謨を中心として進展しつつあることは何人も知っている。しかし、そのために土人の苦痛は奇妙な所から増して来た。自然物の利用から衣食住に心配のなかった土人に文化が侵入すると、靴、服、帽子等を買わねばならぬ。ところが護謨の値段の下ったこのごろでは、値段の低下に従って同時に文化をも下げるわけにはいかぬ。しかし生活力の膨脹していたときと同様、用いるものがそのままとあっては、たしかに土人は苦痛であろう。物質的な苦痛は精神に影響しない筈はない。ここの土人の最大の理想は、メッカへ参り、最早や物慾に執着のなくなったという証明書を貰って来ることである。

 衣食住に配慮を要せぬ未開地の土人にとって、無慾の証明を得ることは、さほど困難なことではない。要はメッカへ参る費用を貯蓄することだ。貯蓄した金銭で無慾の証明を貰い、帰って無慾を終生の誇りとして終る。人生甚だ簡単だ。ところが文化の侵入は、靴と帽子から這入って来た。メッカへ参っても、靴と帽子は彼らからは放れない。イギリス製の靴一足を買う金で、日本製の靴と帽子と服まで買える。即ち日本が彼らの物質慾を刺戟し始め、文化を支えているという現象になっている。


 イギリス政府は通貨制度を新しく改革したときには、先ず最初に必ず印度にこれを応用して実験してみるそうだ。未開地の土人に適用してみることは、一番反応が明確に現れるからだ。現今のイギリスに於ける経済学者の最も優秀な人々は、夫々それぞれ印度に在任した人たちばかりだとの事である。日本ではこれが満洲。


 夜になって句会がある。出席者はすべてシンガポールにいる虚子氏の門人ばかり二十人。私も混る。私の句は十二点入り、第四番目なり。虚子氏は私の句中から次の二句を撰さる。

水牛の車入りけり仏桑華
鰐怒る上には紅の花鬘

 最高点は上ノ畑楠窓氏、機関長なり。十一時に終る。船までの帰りを日日新聞の特派員柳重徳氏が自身自動車を運転して送ってくれる。柳氏は少し酔って手もと危険と見えたが感じの良い青年なので、生命を託す気になった。月が沖天に昇り、まさに清涼爽快、椰子の幹高く連る中を疾駆する。


三月五日

 正午、シンガポール出帆。マラッカ海峡に入る。夜の九時より十一時ごろまで、佐藤次郎の話がサロンを賑わす。丁度佐藤の飛び込んだ時間だからだ。船長はそのときの苦心を話した。乗客の中にも、そのときの乗客のイギリス人が今もこの船に一人いるとのボーイの話だ。
 後より来たイギリス船は佐藤の死体の浮いているのを見たと云う。私は佐藤次郎と語ったことはないが、資生堂でときどき黙っている氏の横のテーブルに坐り合せて見ていた事がある。それも氏の出発幾日か前の事だ。ボートの金具二つ(重量十貫)を身体に巻いたと見えて無くなっていたとの事。原因は誰にも分らない。このあたりから後一日の間の海峡を魔の海と云って飛び込む者が一番多いという。海面は鏡の如く坦々としている。蒸し暑い。私は夜中ひとり佐藤次郎の飛び込んだ場所へ立って下を覗いてみた。ここだけは欄干がない。今にも足もとが海中へ辷りそうだ。眼まいがする。これかと思う。


三月六日

 朝、晴天。いよいよ魔の海に入る。全く波無し。折から海豚いるかの群舷側に現る。横転逆転。飛び上るもの、捻じれるもの。次ぎから次へと現れる。中には巨大なふかの腹もある。


 同日午後四時、ペナンに入港す。この地は恐らく船客の何人も、眼中に入れていなかった所であろう。しかし、私にとっては上海、香港、シンガポールと来た土地の中では、最も気に入った所である。夕立の後であろう。空気は清澄で、街は閑雅、静寂、全市が一つの公園だ。樹木が繁茂し、建築物が優雅であり花の種類がシンガポールに劣らない。まことに雅致掬すべき街だ。名所とて殆どないがどこを見ても私には名所である。


 ペナンの事は、あまり書く気が起らない。好きな所というものはこんなものだ。ここには問題もない。作者が自分の家庭内の出来事を小説に書くことは、罰のあたった事と同様である。もう夢幻のごとし。書くことほど馬鹿なことなし。


 私の着ている夏服は、東京で三人より着ていない。印度のセメントを入れる荒い麻袋で造ったものだが、これを見破ったものは、シンガポールの両替屋の馬来人が最初である。彼は眼を丸くし、指で私の服を掴み、感歎久しゅうするので、彼らの仲間がだんだんよって来た。誰も彼もびっくり仰天して、ベリーナイスと叫ぶ。ところが、ペナンへ来て私たちを案内した馬来人が、突然また叫声を発して私の洋服に感歎した。ベリイ・ナイス、ベリイ・ナイスの連発だ。ところが、船中でイギリス人の夫婦が、一組私の後に立ち、私の服を見ながら、おおホームスパンと感心した。服の材料は一円五十銭で、仕立賃は八円の服である。本場のコロンボへ着けば、印度人が何というか見ものだと、今から楽しみが一つ増す。


三月七日

 晴天。初めて印度洋にかかる。海はもう見倦きてしまったので、前から見たいと望んでいた印度洋へさしかかっても、何の感じも起らない。しかし、疲労は漸く恢復して来た。広田内閣の出現をきく。陸のことは陸のことだと思う気持ちだんだん強し。われら関せずと誰も思う。


 ヨーロッパへ行く道順として、アメリカを廻るのと、印度洋を通るのと、シベリア通過とどちらにしようかと迷ったが、今ここを廻り、良いことをしたと思う。
 印度洋を廻れば未開の地から漸次にヨーロッパの文化の頂上へ行くのである。つまり彼らの長い歴史を通って現代へ現れるようなものだ。これに増した豊富な実験は先ずこの世ではあるまい。これがもしヨーロッパ人であるなら倒逆の歴史を移動することになるから、幸福はアジアにはどこにもないなどと云わねばならなくなるのである。すべて実験というものは方法が肝要だ。ヨーロッパ人は位置の関係から何人も方法を誤らなければならぬものに出来ているのだ。この事は渡航してみて初めて感じる最も重要なことの一つだと思う。


 ベンガル湾に這入る。本当の魔の海はここ一両日中の洋上である。人間の心理はここで奇妙になり、飛び込む必要あるものはみな飛び込んでしまうとの事だ。二葉亭の死んだのもここだ。航海中一番船員の間に喧嘩の起るのもこことの事。これを過ぎれば各自まア無事で何よりだったと祝杯を上げるそうだ。


 夜中、人の寝静ったとき、起きて甲板に出て見る。人影誰もなし。浮雲が船の方向に同速力で走っている。月光皎々たり。人間が最も単純になるのはこのときだ。大海を二週間余りも渡って来ると、海は海に見えなくなって来るものだ。安全この上もない平坦温和な地上に見える。
 私は何を信頼してこの甲板に立っているのか。ただ足の下でごとごと鳴っている機関の音だけだ。これほど単純なことがあろうか。このとき人は誰だってそれぞれ哲学者になってしまうのだ。波、月、雲――私は長谷川の机の隅で、おでんを突ついている人々の顔をふと思い出した。今これらの友人たちの顔の前へ現れたら、恐らくこんな人もいたのかとぼんやりすることだろう。帰ろうにも行こうにも丁度今は半ばのところだ。どっちに転んでも同じものなら一つこの海へと思うものは思うにちがいない。海上の不思議さは地上の不思議さと反対な錯覚に満ちているものだ。海上の理智というものは、地上の理智を応用して出来ている不安定なものにすぎない。後は茫々たる雲のような真実ばかりだ。これに触れれば死ぬ決心など容易なことだ。まことにこのあたり不思議な恍惚状態の連続である。見果てぬ夢そのものだ。わけの分らぬ溜息のごときものばかりで全身がつつまれる。
 洋上から押し襲って来ている感覚は僅に持ち込んで来た荷物みたいな地上の理智というものを、ときどき批判するものだ。ここでは理智が感覚を批判するのじゃない。さかさまだ。こんな眼に毎日毎日出喰しておれば少しは気違いじみてくる。夫人をつれたり友達と来たりしては内地を引き摺って来ているみたいで、私のこの感情はわかるまいと思う。


 正確だから狂人になるのだ。とニイチェはこの人を見よの中で云っている。しかし、私はどこか単純だから狂人になるのだと思う。いったい複雑なものが狂人か、単純なものが狂人か。制動機というものは、優れた機械ほど幾つもあるものだ。


 私は今は、自分の意識を明瞭に意識している。恐らく地上の人々とそんなに変ってはおらぬつもりだが、もしかすると、或いは酔っぱらいが自分を正確だと思っているのと違わないのかもしれたものではない。しかし、地上で毎日毎日、新聞雑誌で喧嘩している人々の事を思うと、あれも正気の沙汰とは思えない。たしかに狂ったところがある。


 家を出てみなければ家に関する批判は正当じゃない。陸を放れてみなければ、陸上の批判は正当たるを得ない。こうなると海上の心理の批判は陸にいるものの方が正当かもしれぬ。新しい果物、マングステンが出る。乳をかけた柘榴の味。


 私はふと、私が今まで考えてもみなかったことに頭が触れたが、人々の世界観というものは、陸上の世界観ばかりだったということだ。しかも、人間闘争の原因は海陸いずれの心理から襲って来ているものか誰も知らぬのだ。海運国はいつも世界では強大な国になっている。これは陸上の理智では統整のとれぬ海上の情熱のしからしめたことであろう。海と陸とは人々の眼をくらますように、神様がうまい具合に造ってくれてあるものだ。


 朝起きると、挨拶を交した船客たちも、だんだん黙ってふくれて来る。
 外人の独身者の男女はもう無茶苦茶だ。ふと通りすがりに怪しい目つきを一方がする。すると、早くもその夜二人は腕を組んで甲板の闇を探している。日本人はそれを勘定しながら後を追う。島国根性というのは他人のすることが気にかかってならぬことだ。


三月八日

 晴。連日の暑気のところへ天ぷらを食べたので、胃が痛む。一日中不快。魔の海なり。このあたりまた最も退屈だ。恐ろしき倦怠。


三月九日

 今朝は少し胃は良かったが、朝持って来たコーヒーを一杯飲むと、またすぐいけない。これじゃ、フランスにも長くはいられないと思う。二三ヶ月して帰るかもしれない。船の左舷と右舷の部屋の暑さは非常な相違があるものだ。私の左舷の暑さは言語道断だ。夜など眠れたものじゃない。


 午後四時、第三回洋上句会がある。私は胃痛のため、良い句も出来ず投げた。虚子氏の撰に入った私の句一点。

京に似しペナンは月の真下にて

 私の好きな句は左の句。

雨晴れやパンの樹のある夏木立


三月十日

 今日の午後二時にコロンボに着く筈。漸く胃は恢復した。魔の海も無事通過だ。紅海の暑さはこれ以上との事だが、もう良い加減にしてもらいたいと思う。ヨーロッパへ行くにも、こんな苦労も入るのだ。しかも、まだこの倍の長さを行かねばならぬ。三等の客室を覗きに行こうと思うが、向うの客に同情してしまっては今は困る。なるだけ極楽にいるつもりでいたい。ところが、四等ともいうべきデッキパッセンジャーに印度人五六十名がいる。これは金を沢山持っている連中だそうだが、デッキで自炊をやり、天幕の下で寝起きをしている。各等羨望の的はこれだ。


 セイロン島が船と共に走っている。間もなくコロンボだ。見たところ、印度は九州の端みたいなもの。デッキパッセンジャーの印度人たちは、美しい衣を着替えて嬉しそうだ。彼らはここで降りて長い間憧れた故郷へ帰って行くのである。


三月十日

 午後四時、コロンボ着。ここまで来ると椰子はもう珍らしくはなくなった。日本の藪を見ているようなものだ。街に咲いた花々も、シンガポール、ペナンの方がはるかに美しい。象でものっそり歩いているのかと思えば、それさえ一疋もいない。雨が降りかかっては上るので、自動車のホロを脱したり懸けたりしているばかりだ。スコールでも来てくれれば良いと思うが、それも来ない。煙草も買いたいと思っても、ここはびっくりするほど高い。宝石でも一つと店を覗いても、贋物ばかり。街は狭くて貧しく、商人は狡そうで、うるさい。物価が高いとこんなになるのだろう。関税というものは人間の心理にこれほど影響を及ぼすものであろうか。それなら、英国も考える筈だ。恐らく前にはこうではなかっただろう。

国枯れて青葉うつろに繁りをる

 しかし、私は美しい光景を見た。空は暗く、樹木の多い街に瓦斯燈が点き始めたとき、突然、夢のような光りが空にぱッと煌いた。何とそれは美事な夕映えであろう。御仏のいる極楽浄土の絵は、まさに嘘ではない。空一面、朱と紫と金色の乱舞だ。樹木も人の肌も家も屋敷も光り輝き、唖然としているうちに闇が来た。いろいろな所が地上にはあるものだ。

夕茜浄土と仰ぐ暇もなし


 イギリスのランカシアーが印度へ自国品を売りつけるのが目的であったところへ、日本品が滝のように落ち込んだ。これを税関が喰いとめる。土人がこれに反対する。ところが、このごたごたの間に印度自身の機械が発達して、自国品が急激に膨れて来た。そこで英国の計算が面倒になって来たのである。誰にも分らぬ新しい問題が、続々発生しつつあるのだ。こういう場合に頭の良いという事は何の役にも立つものじゃない。どこの国も分らなくなると、
「押しだ。押しの一手で行くより、仕様がない。」
 とこうである。いったい、押しとは何んだろう。私はこういうのを考えるのが何よりも今は面白い。英国は頭の良さに今さら苦しんで来たのである。


 コロンボでは私の夏服は忽ち見破られた。印度人たちはぼそぼそ囁き合っては私の服を見ていたが、そのうちに突然一人の男が私の服を握ってみた。そして、やっぱりそうだと皆の者に教えたらしい。一同にやにやしながら私を見ているうち一人の者は何かしきりに私に云っている。多分、それはここじゃ、一番悪いものを入れる袋だぞと云うらしい顔つきだ。けれども、私が歩くと後からついて来て服に触ってみるものがだんだん増して来た。あんな袋が洋服になるなら何も印度は困りゃしないと云いたそうだ。私はあるいは爆弾を投げつけながら歩いていたのかもしれぬ。この私の印度のセメント袋が立派な洋服になるものなら、たしかにランカシアーも日本の紡績も問題じゃなくなるかもしれぬ。関税とは何物でもないのだ。


三月十一日

、正午コロンボ出帆。
 このあたり一帯の海の色の美しさは紺碧色。波の先を削り落したように滑かだ。

印度洋羽毛動かず鳥立ちぬ

 太陽の直下のため、ここは風波が起らぬと見える。人心もこれに準じるものらしい。人々の眼の黒く大きいのは、強い光線と闘って来たからだが、とうとう自然に負けて今では眼だけがぎろりと自然の眼のようになっている。このような眼でこそ色即是空というような虚無的な思想が生れたのであろう。日本は長い間これを真似して来たのである。得たものは無だ。生命を鴻毛の軽きにするのもここからだが、印度人の自然への執着の強さに比して日本のは何と変った獲物であろうか。


三月十二日

 季節に変化のない熱帯や、日本の季感季語の通用せぬ外国で、俳句を作る困乱と矛盾――これには説が種々あるようだ。私は俳句には、季感季語がなければ、俳句ではないと思う。しかし、熱帯へ来て実想を歪めてまで強いて季語季感を盛る必要は今のところあるまい。分らなくなれば理論というものは一息ついてほっておく方が延びる先の面白さがあるものだ。理論を実相に従えるべき期間を知ることが何事も肝要だ。


三月十三日

 晴。船客たちはそれぞれますます親しくなってしまった。科学者あり、軍人あり、領事あり、社長あり、重役あり、官吏あり、経済学者あり、裁判官あり、これら異った職業の人物ばかりが、一家団欒して、階級を去り、年齢を忘れ、互に心事を語って生活する。このような美しく、利益ある生活をすることは陸上では恐らく不可能なことだろう。なるほど人生の楽園は欧洲航路の船上にあると云われるのはこの事だと初めて気がついた。幕をマストの間に張って写真を楽しむ。

十五夜の月はシネマの上にあり


 子供たちも子供たちだ。日本人もイギリス人もフランス人も、三つの言葉が互に通じないにも拘らず、それぞれ勝手に何事か饒舌って、朝から一緒に遊んでいる。見ていると、まごまごすることなんか、一度もない。うまい具合に喧嘩もせずして遊ぶものだ。子供の世界にあんな自然な機構が存在しているものなら、いつの日か戦争のないときが来るのかもしれぬ。


三月十四日

 晴。アラビヤ海の真中。
 洋上句会第四回があった。俳句はだんだん下手まずくなって来た。定石を覚えて来ると下手くなるそうだ。昨日二千米の海中に、珊瑚島がぼつりと見える。ミニコイ島という。樹木一面に繁茂して白い鴎が群れている。

島栄ゆ鈴なる鴎白珊瑚

 燈台がある。大海の中の燈台守の生活はむかしはわれわれに夢想的な思考力を与えたものだが、もう長い間あのような考えは忘れていた。蔵の中から土用干に取り出した古着を見る思いで何となくこの考えは懐しい。あれこれと想いをいじくってみるが、そっとむかしのままにしておく方が良さそうだ。無事に過せる考えは無事にしとくに限る。今に巴里へつけば私の今までの考えなど無事にはすむまい。


三月十五日

 晴。一日毎に時計を二十分から五十分ずつ遅らせて来た。今日で日本より五時間ばかり、私の時計は遅れているだろう。
 今日は一番海が暴れる。ときどき甲板へ波が上る。このくらいの事がないと航海は面白くなくなるものだ。アフリカから吹く風とアラビアから吹く風と打ち合っているから、波は三角で突き上る。

熱海ねっかいの波あびて立つ鉢の松


 食慾は旺盛だが足に硬直が来る。しかし、頭はだんだんリアリスティックに戻って来た。マラッカ海峡通過のときを振り返ると、たしかにあのときは、船客の頭は同様にロマンティックになっていたのだ。人間の心理というものはどんなに自分を確かだと思っていても始終どっかに狂いのあるものだ。


三月十六日

 晴。午前九時すぎにアフリカの東端、サマリランドの一角が左に現れる。初めは雲の如く、次ぎには雪を戴いた山の如く、次ぎには樹木のない岩山になって来た。いかにもアフリカらしい。断崖の上には燈台一つあるきりだ。この壮観さは九時から十二時まで間断なく左舷に続いた。けれども、最初見たときに歎声を発した人々も十分とは見ていない。すぐ将棋にかかる。やはり政治の方が面白いのだ。その癖あの山々の向うでエチオピアの戦のあるのを誰一人口にしない。


 下の機関室から油だらけになった火夫らしい若者が上って来たのに、サマリランドを指差して、あれは何という島ですかと船客の一人が訊ねた。「いつも通っているが、何んだか私ら知らんね。上の豪い人に訊くと分ります。」と云う。

アフリカも知らざる火夫の声低し


 夜の九時から十時まで、一番上のブリッジへ登り、日本から見ることの出来ぬ星ばかりを探す。北斗と反対にある南十字星は、まだ水平線の上僅に登っているきりだ。時間とともに水平線はこれら天界の星座を左方に拡げて廻っていく。星は滴らんばかりだ。半時間も天上を仰ぎつづけていると、太古の憂鬱さと新鮮さとが身に滲み込んで来る。ふと下を見ると、私はほのかに灯をつけた羅針盤に肱をついている。真西を指した針の先がときどき波とともに五分ほど揺れつつ進んでいる。そのとき天上では、南極の方向をくっきりと指差す南十字星の柄が左方の水平線から登っていく。地球が円いというイメージを人間が獲得したということは驚くべきことだが、別にわれわれは、何の驚きも感じない鈍感な時代に棲んでいるのだ。それより愚かな事にも、私はこの大海の水がことごとく塩辛いという事の方が驚くべきことに見えて来ている。この豊かな水にいっぱいの塩を与えているという現象――これは理由のない筈がないではないか。

アラビヤの波塩辛き末路かな


 軍艦では海水から真水をとる機械があるそうだが、この水を飲むと皆下痢を起し、植物にこの水を与えると枯れるという。それだから人間だけが下痢を我慢してこれを飲み、植物には真水をやっているそうだ。優しく美しい。私はこの話を聞いて、他のどんな話よりも海軍を信頼する気になる。


三月十七日

 晴。今日は私の誕生日である。今日の午後一時にアデンへ着く筈。ここまで書いてふと窓から外を見るとアデンが見えて来た。峨々たる淡褐色の岩山だ。樹木が一本もない。何となくムハメットがいそうな空の色と岩の色だ。夢中で酒色の夢を見ているような感じである。


 アデン着。銅版色の横皺のある巨大な岩がアデンそのもの。峻峰奇峰の間に焼け崩れたようなぼろぼろの古代の城壁が見える。船を降りる。
 全く不毛の地らしい。千五百尺の深さまで掘ってようやく水を得た井戸が城郭の中に一つあるきりだ。草木の生えよう筈もない。井戸の傍で土人が白い花を折って私にくれる。
「ジャスミン。」という。
 匂いを嗅ぐとなるほどジャスミンだ。近ごろ植えたものとてアラビヤの土人には何より珍稀な見世物だろう。

わが家の春ふと思ふ花もあり

 小屋のような博物館がある。紀元前、二千年の発掘物や化石が並べてある。この地はアフリカとの交通の要路であり、印度へ廻るアラビヤの先端であるから、昔から争奪が激しかったにちがいない。

石に残るアラビヤ文字の懐しさ

 岩山を向うへ抜けるとそこから沙漠だ。はるか向うにオアシスが見える。


 沙漠の中には物々交換時代の隊商の屯所がある。行く路には白い天幕の連った屋根が見えたので、隊商の宿泊所かと思ったら一面の塩の山だ。大きな風車が塩の上で廻っている。風が激しい。このあたりの人心嶮しと聞く。上陸時間を急がねば船が出るので、キャラバンの酪駝の匂いばかりを嗅ぎ廻っているようなものだ。暑い。

キヤラバンの疾風はやてに眠る塩の山


 ほとんど草木さえ植える事の不可能な土地、――水なく、暑気激しく、熱風吹き暴れるこのような土地でなければ生活出来ぬ人種もあるのだ。荘厳なものは岩の峻峰と空と太陽と城砦である。しかも、それらは極めて、壮麗で、ここに生活している人種とは比較を絶して美しい。こうなればも早や人間はこの自然を利用するわけにはいかなくなる。ただ自身の衰えを待つばかりだ。

岩焦けていのちを奪ふ砦かな


 夕空の下をアデン出帆。ルビー色の山々が酒の中に溶け流れてゆくようだ。私はふと気がついたが、旅行というのは行く先の自然と人間とを比較することだと思う。それだけが作用だ。ところが、こんなに遠い紅海の真ん中で、突然、東京音頭や長唄のレコードを聴かされると、首を絞められたような気持になり、これは自分は刑罰を受けに誰かに流されたのだと気がつく。喜びなんかどこにもない。洋行などという洒落はあれは曳かれものの小唄である。しかし、このような真綿で首を絞められる刑罰を受ければ、誰だって自慢でもしなければやりきれたものではあるまい。「あちらでは」と云いたがるのも実はあれは苦痛の表現にすぎぬのだ。


三月十八日

 今ごろ東京の真ん中で退屈で何とも仕方のない人間は、大往生をしているようなものだと思う。


 自分の行為が分らなくなり、自意識過多に落ち込んでいるものは一番やくざな蛮人と同じだ。巨大な太陽と限りない碧空とを見なければ頭が下らぬのである。


 私がもしコロンブスの水夫だったら彼を海中へ抛り込んだだろう。


三月十九日

 晴。外人たちは本国が近づいて来たので皆嬉しそうだ。日本人の乗客はせめて船中でなり我儘でもしなくちゃするときがないと、ようやく実行にうつしかけたころだ。神経衰弱の徴候はそろそろこのあたりから現れ出すと見える。夫人同伴の人々は皆元気が良い。若い役人たちは外国へやられる事は受難だと思ってあきらめていると云っている。ある人は外国へ行くのは良いが、帰ってから自分の夫人が有難くなって大切にするようになるから、それに注意せよ、役所の勤めがおろそかになる、と上役から訓戒を与えられたそうだ。


 われわれは毎日毎日こうして遊んで許りいるけれども、これで船は動いているんだから、まア、われわれは働いているようなものだ。とある重役の船客は云う。


 人間は地球にわざわざ生れたのに、それを一廻りもせずに、話せるか、とこう云う船客もある。ところが、突然、アラビヤとはいったい、どこの国だ、と云い出すものもある。誰もこれには何とも云えない。綿布の仕事に従事して世界をごろごろ廻って来た客は、「ああ、もう世界は、ユダヤ人と印度人と支那人とで、廻っていますよ。これには、どこも敵わん。」と投げ出したようなことを云う。誰も彼もノルウェーが良いと云うから行ってみたが、あそこの駐在官の月給を減らしても良い。全く良い所だと云うものもある。トルコへ行ったところがあそこは旅客が自分の金を、自分で使えない。つまり五磅以上は持って出る事が許されぬのだという。


 ヨーロッパというからどんなところかと思って行ったら、小さい小さい。あれじゃ東洋が問題になるのは当然だと云うものもいる。長く外国にいる者でヨーロッパ人を頭から馬鹿にしているものもいる。理由は頭が悪いと云うのだ。


三月二十日

 晴。紅海は今日で終り。明日はピラミッド見物だ。
 ヨーロッパから日本へ帰る榛名丸と擦れ違う。船はこの箱根丸と寸分違わぬ。(と船長の言)御安航を祈ると大きく書かれた幟が垂れている。両船はだんだん接近して来る。それぞれ船客達は手に旗を持って振っている。久し振りの日本船なので熱狂して叫び合っているのだが、突然、私の横から「がん張れ。」と向うの船に向って叫んだ者があった。すると、「もう駄目だ。」と頓狂なのが答えて来た。見るまに船は遠ざかって行く。さア、また夕暮の仕度。その後はまた寝る。榛名丸の行衛を見たがもう影も形も見えぬ。

紅き海名のみにすぎぬ夏の空


三月二十一日

 晴。毎日、日を忘れてばかりだ。今日は幾日ですかと他人に訊ねても、いつも、さア、という返事が多い。日というものは眼に見えぬ上に、海の中ではどこを掴まえて日を記憶して良いのかこれも分らぬ。しかも、進行している船。


 スエズに近づいている。右にシナイ山が見え、左にエジプトが見える。このあたりを通りつつあるときには、頭は聖書の匂いで満ちて来る。樹木のない乳褐色の山々が延々と暁の両岸に連っているきりだ。

モーゼ来りたまはばや朝の星落ちぬ


 スエズを通る税金は一船片道五万円。船客全部の船賃が、つまりここの税金で消えてしまう。ここ一つにも問題は山とあるのだ。

 少し細かいことを書こうとすると、頭が痛んで来て駄目だ。よほど変調を来していることがペンを持つとはっきりする。


三月二十一日

 午後三時、スエズ着。ここで途中下船してカイロへピラミッドを見に行く。一行十四五人。自動車で百哩ほど沙漠の中を疾駆する。道路は京浜より完全だ。五六十哩の速力をつづける。この速力なら石ころ一つあっても車は顛覆するのだ。樹木のない荒涼たる淡褐色の沙漠だが、こんなに茫々とした風景はも早や風景とは云い難い。真赤な夕陽が真正面にかかっている。沙漠に陽が落ちると云う歌があるが、太陽は沙漠に落ちるよりどうしようもないのだ。まるで槍でも突き刺しに行くように太陽に向って驀進する。海ばかり見つけた眼に沙漠は一種の興奮を与えるが、しかし、今度はまたあんまり沙漠ばかりだ。私は初めは驚きつづけた。しかし、だんだん何らの興奮もなくなり、疲労がうまい具合に救ってくれているのに気がついた。

まるまると陽を吸ひ落す沙漠かな


 ところが、全く夜になって、沙漠の端に、突然、想像もしなかった大都会が現れた。それがカイロだ。いったい、砂ばかりの中に、どうしてこのような近代的な大都会が必要であり、維持されているのか。大胆なのもほどがある。――初めの私の疑問はそれだ。ナイルのデルタの肥沃なことは聞いていた。しかし、それにしてもなお不思議だ。物貨の集散地にしても、一国の首府にしても、世界最古の人間活動地だとしても、なお疑問は残る。思うにわれわれの想像を越してはるかにこの地への旅行者が多いからにちがいあるまい。


 物価の高いことと、勘定を誤魔化すことを考えるのが巧いことは、またこれも想像以上だ。紅茶一杯が八十五銭もする。小さな蜜柑五つが一円五十銭だ。マッチが一つが六銭。スエズから百哩自動車を飛ばし、一泊して翌日ポートサイドに我々を待っている船まで帰って来る旅費が、一人百円以上の割あてである。しかし、こんな高価な遠足にも拘らず、このカイロへ来た事だけは、後悔をさせぬものが確にあるのだから、この地の大都会になることは恐らくこのへんに原因しているのだろう。エジプト国でありながらわれわれがエジプトの貨幣を出して物を買うと、いやがって売ってくれぬ。ホテルの女中がこっそり団体一人の旅費を訊ねたので六ポンドシリングだと答えると、びっくりして云うには、六磅あればカイロから巴里まで行って自分たちは帰って来るのが習慣だと云っていたから、万事はこの調子だろう。


 ピラミッドや、スフィンクスや、博物館にある無数の古代の発掘物を見た。しかし、これには私は大して興味を覚えない。ごろごろしている豊富な遺物がどれもこれも五六千年前の物ばかりだ。こんな風になれば、われわれの知覚は通じなく、却って興ざめてしまうものだ。それより、ツタンカアメンを発掘した英国の伯爵が発掘するとすぐ狂人になって死んでしまった事の方が面白い。王の墓を掘ると神経病になって死ぬと云う云い伝えがこの地には昔から流れているのだ。古代の王は墓を尊重したあまり、何か古代独得の薬品で死ぬ仕かけがしてないとも限らぬ。科学でこれを証明出来ぬところが近代の負けとも云えるような、何物かがないとは断言出来ぬ。何ぜかと云うならこれらの古代文明を眼前に目撃して、先ず感じる第一の事は、疑いもなく、われわれの近代文化を支配している根幹の知識とは全く別種の豊かな知識がここにあったという事だ。つまり法則の性質が違うのだ。ここへ来て最も興味あることは、われわれ近代人の頭が意外に単純になるということだ。

 絶えず頭の上にピラミッドを眺めて暮しているエジプト王の現代の虚栄心は、古代の王と競栄せんとすることにあるにちがいあるまい。この王の夢はカイロをかくも必要以上に装飾せずにはおれぬのにちがいない。これが、寝ても醒めてもピラミッドに軽蔑せられてやまぬ現代王の苦痛だろう。

王の夢むかしの夢のスフインクス


三月二十四日

 晴。ギリシアのクリート島が右方に長く連っている。二日前から地中海に這入って来た。夏服はまた冬服に変った。クリートの山の頂に雪がある。雲の棚曳き何となく日本の春景色だ。幾百度の戦がこのあたりで行われたことであろう。

クリートの雪見て変へん衣更


 地中海に這入れば定めし一種の興奮を感じることだろうと思っていた。ところが、別に何らの感動も起って来ない。海は海だ。実は私はこのあたりで、さっぱりと少年のような空想にふけりたいと願ってやまなかったのだが、エジプトの疲れが未だに喰ついて放れない。地図を見て他愛もなく地中海だと思うばかりだ。紅海の前にマルセーユでも見え出してくれたなら、私はどんなに喜びを感じたことだろう。惜しいことをしたものだ。喜びたいときに喜びを感じなければ、喜びというものは役には立たぬ。遅すぎた恋人のようなものだ。


 地中海へ這入って来ると、旅客の心理はいかに隠しても複雑になって来る。このあたりから、今まで英語の上手かったものが、引っ張り凧の歓迎を受けたのに、そろそろ仏蘭西語の巧みな者が、尊重され始めて来る。小さくなっていたフランス語が、妙に大きくふくれて来るのだ。一般人心の中で、英語と仏語の闘争も、地中海のようなものだ。ところが、奇妙なことにも、今まで少しも気づかなかった事だが、われわれの心底の中には、「ふん、何が地中海だ。」という肚が、不意に出始めて来るのである。これは圧えに圧えてもどこからか隙間風のように出て来るものだ。
 こんな心理がもぞもぞし始めたら、もう旅行記というものは安全に書けるもんじゃない。恐らく、私は幾多の無益な闘争をこれからしつづけねばならぬことだろう。困ったものだ。


三月廿五日

 曇。初めてヨーロッパの市街を見た。イタリーの先端、メッシナ海峡にさしかかって、左岸にシシリイ島のメッシナ、右岸にレジア、門司、下関という距離だ。海峡には渦が巻きひどい急流である。海峡を渡りつつあるときにはオーバーを着たが、渡り終るとまた温かになる。つい二三日前までは夏服でも暑い暑いと云っていたものが、急に煽風機が停り、今日からはスチームが部屋に通っている。


 レジアという街は熱海に似ている。海軍の根拠地だが聖フランシスのいそうな感じだ。段丘に橄欖かんらんの林、赤い屋根、白い砂ばかりの川。右のメッシナの横にエトナ火山が見える筈だのに雲の中に隠れている。


 夜の九時、海中にストロンボリの噴火山が五哩の所に見える。ときどき噴出する火がぼうと頂上で明るい。桜島のように全島が富士形の火山だ。ナポリへこの船の寄らぬ事が惜しい。後二日目にマルセイユへ着くので誰も彼も上陸の準備ばかりで急がしい。


三月廿六日

 晴。夕暮だ。右にコルシカ島、左にサルジニア。二島の距離は無きがごときものだ。この間を船は割り込んで進んで行く。夕陽がコルシカ島の上に落ちる。妙義山を連ねたようなサルジニアには波が荒い。ガリバルジイの生れた島とナポレオンの生れた島との間であるこの海峡には、夕陽というものは刺身のつまのようなものだ。


三月廿七日

 マルセイユ見ゆ――灰白色の陸地に松色の樹木が苔のように喰いついている。地質は石灰岩のため風浪に浸蝕されて逸宕いっとうたる趣きだ。上陸直後税関だが、われわれ船客の一番年長者が、一人税金をとられた。この人の荷物だけは底から見るも無惨にひっかき廻された。そして、次のようなことを云う。
「見たところ、あなたはここで一番年上だから、みなに代ってあなたの荷物を厳重に検べたが、悪く思わないで貰いたい。これからいろいろの国境を通過されることだから、こんなに不用な土産物を沢山持たれてはいかん。どうかあなた一人あきらめて税金を払っていただきたい。」
 こう云う事を云ってから、後は私の番だったが、殆ど何も見ない。他も同様である。フランス人の最初の自由さをわれわれは見たのである。


 マルセイユの街を廻る。街路樹は皆揃いも揃った大木ばかりだ。家は古びて灰白色。ノートルダムの頂上へ上る。私の足は硬直して片方が動かない。再び街を自動車で廻り歩いた。ところが、不思議なことに、マルセイユの群衆は誰一人笑っているものがない。どうもおかしいと思って、同行のものに、笑っているものを見つけたら教えてくれるようと頼んだ。
 午後の五時近くでいっぱいの群衆がぞろぞろ街に溢れているのだが、疲れて、青ざめて、沈み込んで、むっつりしているものばかりだ。そこへ夕陽があたっている。これがヨーロッパか。――これは想像したより、はるかに地獄だ。本国を捻じ倒している植民地の勃興は現代の一大事実になっているのだ。


三月廿八日

 晴。マルセイユ出発。巴里へ。
 汽車の進行にしたがって繰り拡がって来る田園。私は冷やかに眺めることばかりに努力した。けれども、どうにも美しい。桃杏一時に開く春の木の芽の柔かさ。連り下るなだらかな牧場。点在する風雅な農家。杏の花に包まれたローヌのゆるやかな流れ。――私はこういう恍惚とした風景を見ながら、ふと気がつくと、なお植民地の勃興を考えているのである。


 夕暮の六時。巴里着。


四月四日

 雨。巴里へ着いてから今日で一週間も立つ。見るべき所は皆見てしまった。しかし、私はここの事は書く気が起らぬ。早く帰ろうと思う。こんな所は人間の住む所じゃない。中には長くいることを競争するものもいるが、愚かなことだ。


 巴里について、いろいろの人が、いろんな事を云ったり書いたりした。しかし、それらの人々が、自分の顔がどんなに変ったか誰も云いもしなければ、知りもしない。


四月六日

 晴。巴里へ来てから初めての晴天だ。しかし、私の頭の中では、渦が幾つも巻きつづけ、衝突し、崩れ、巻き込み合い、不断に変化をつづけていく。私がひとり部屋に帰り、夜更けて思い浮ぶ風景は、通って来たアラビアの沙漠である。


 人間の資本は金だということ――この簡単なことが、この巴里へ来て初めて分る。われわれは、資本を金だと容易に思えるものじゃない。文化の頂上というものは至極透明なものだ。洞察などという厄介なものは、不用で経済の割に合わぬ。ここでは何もかも向うが透いて見える。こんなガラス製の家の中では、人間の心はどこへ置いて良いものか誰だって迷うのだ。恐らく道徳もわれわれの想像したものとはよほど縁遠いものにちがいあるまい。
 第一自由というものが、たしかにわれわれの考えていたものとは違っている。縦横無尽の格律の上に、滑かに辷る厳格な法規の活用が自由である。しかし、整然とした威儀を正した食卓で、紳士淑女がなに一つ非の打ち所のない典雅さでフォークを使っている真最中に於てでも、いきなりパンだけは手掴みだ。パンだけは別だ。という心使いがまだまだヨーロッパの文化を支持しているのである。それともこれだけは忘れているのかもしれぬ。しかし、日本は、もうこんなところは清算した時代がわれわれの知らぬ昔にあったのではないか。


 誰も彼もドイツとの戦争がいつ起るかを問題にしている。しかも、この次の戦争では伝統などという誇りは吹き飛んでしまうのだ。思想家の準備はどこの国でも出来ていない。植民地を軽蔑してまだ思想があり得るのである。夢のごときものだ。私は思想がこの人間の夢の間に間に、ひとり勝手に人間の頭の中で、体系の美しさをとどめているのが、奇怪な城郭に見えて来る。人間は何と深すぎた努力をして来たものだろう。


 手紙1
 巴里へついてから一週間にもなる。ペンをもつのが今はじめてだ。着いた二三日は文化の相違のために眼をまわしたが、もう飽きてしまった。そろそろ帰り仕度をしよう。今日は雨で寒い。この手紙は宿の近くのドームという外国の芸術家たちの巣をなしているカフェーで書いているのだが、テーブルのすぐむこうの方に、藤田嗣治氏を有名にしたといわれている例の婦人がしきりに誰かと饒舌っている。怖ろしい顔の人だ。しかし着ている上衣のがらは日本の能衣裳のようなもので美しい。僕がその婦人の服のがらをほめると、この布を売ってる店は巴里のサンゼルマンにある古代布屋ただ一軒よりないといって私にその店の番地を教えてくれた。ただしこの店は紹介がないと中へ入れぬとのことだ。このおばあさんは毎日ドームへ来て話しこんでいるが、もう男にはあきあきしたという顔である。しかし、日本人を見ると懐しそうだ。
 僕はもう見るべきものは、この一週間全部みてしまったので、どこも見たいとは思わない。男でほれぼれするようなのはまだ一人も見ないのはどういうものか。子供たちの健康のことをきいても返事をすぐ貰えるわけのものでもなし、以後きかんことにするから身体に気をつけられよ。マロニエの花はまだ咲かぬ。買いたいものは少しはあるが、そのうち少しずつ買おう。
 街がまだ美しくみえる間は、あまり買物などはしたくないのだ。街はどの一部分をとってみても絵になっている。画家は虱みたいになる筈だと思う。しかし僕などすぐこんなものにも飽きて了う。
 どういうものか巴里にいると、日本の田舎の温泉に行きたくて仕方がなくなる。東京なぞはあまり魅力がない。


 手紙2
 日本へ手紙を出すのは月曜か木曜でなければ此処は役に立たない。日本から来るのもやはりその通りだ。月曜か木曜以外には手紙は来ない。毎日雨の便りをするようであるが、昨日も今日も雨ばかりだ。(四月二十二日)今日なんかマロニエの花かと思って散って来るのをみていると、なんと、雪だ。それにタクシーが全部ストライキで街は静かである。絵はピカソやマチスをみたが、どれも売れないらしく画商はどんどんつぶれて行く。しかしピカソの絵は写真でみるよりはるかによい。このごろやっと街を歩いてもピントがあって来て、人の歩く影まで眼につくようになり写生が出来るようになって来た。困るのは何といっても食事だ。お腹が空いて一寸ホークを持つと、もう食べる気が起らない。そのままたべないとすぐ空腹になる。コーヒーばかりものんでいられないという調子で頼りない。
 朝起きて今日は起きてから何処へ行こうかと考えると格別どこへも行くところがないのでうんざりする。お昼の御馳走を何にしようかと君が毎日考えるのを思い出す。いやなこと、さぞいやなことだろうとこんなところで同情するようになる。
 色々の所の日本人が招待して呉れるけれども知らぬ人と食事をするのは、身体に膏薬を貼られているようで、そう無雑作に身体は動かない。
 もう日本の桜も散っただろう。
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ハンガリア行




 パリーの大罷業はパリー始って以来の最初の出来事である。この罷業はマロニエの花が散り、アカシアの花が雨に浮き流れて、街路の敷石にたまるころから急激に進行した。朝眼を醒し、何が最初に聞えて来るかと、枕に頭をつけたまま、うとうとしていると、フロン・ポピュレール(人民戦線)と叫ぶ声が、いつの朝でも、先ず聞えた。
 大通りを歩いていても、各国の外人たちは、買い物をすることも出来ず、鉄の網目の降りた飾窓を覗き歩いているだけだ。罷業をしないものは、お寺と警官だけになってしまった。
 罷業が一段落をつげ、店の戸の開き始めた六月半ばになって、私はパリーを一人発った。アルザスからドイツのミュンヘンへ入り、チロルからウイン、ブダペストと延びて、ダニューブ河の河岸のホテルへ著いたときには、ハンガリアの曠野は、真紅の葵の花盛りだ。ヨーロッパの中で、一番に美しい都会は、パリーとブダペストといわれている。ハンガリアの都、ブダペストは、街も自然も人も美しい。しかも、市中の河岸半里の間に、百二十の自然温泉が、高温の湯を噴き上げている。この海のない国は、温泉の中に機械製の波を起し、磯に打ち上げる波頭を想像しつつ抜き手を切って喜び勇んでいる。
 官庁や役所は朝の九時に早やひける。街の人々は朝から温泉に浸り、カフェーや踊り場は満員だ。カフェーといっても、街路樹の緑の下に、数町に亘る壮大なものが、いたる所に人を湛えて群れている。その中の一つに、ジャパンというのが、市中目抜きの場所にある。
 日が暮れて夕月がダニューブの上にかかると、ジプシイの一団がハンガリアの歌を弾く。肋骨の飾りを胸につけ、袖とスカートが空色の、胴の緊った赤い服に、赤い長靴を履いた娘たちの、ハンガリアの踊りは、月の出のころからはじまり出す。蒙古に奪われ、トルコに負け、オーストリアに属したこの国の悲しみは、踊る足さきから蹴られていく。十九世紀のロマンチシズムの、地を払ったヨーロッパに、まだ一抹の叙情を残しているのはここだけだ。
 ある夜、私はダニューブ河の岸べで、一人ベンチにもたれていた。折から月が丘の上にのぼり、ひたひたと満ちて来た水の上に、月光のゆらめき遠くかすみ渡っているときだ。どこからともなく、太い低音の連続する笛の音が聞えて来た。その切々たる哀調は、馬倒れ、鎧切れた敗将の、曠野の夜営空しく月を仰ぐがごとくである。後で人に訊ねると、そのタローガッタの吹奏者は、ハンガリア第一の名手との事であった。
 去る前日、ローマ町と呼ぶ郊外へ行ってみた。ここからは地中に埋れた二千年前の大都会が発掘されつつある。二万人ほども入れ得る円形の大劇場や、市場や、浴場、その他の床には細かいモザイクの模様が描かれている。並んだ石棺には、ペルシア模様の中に、ラテン語の碑文があり、水道の設備、浴場の排水路、暖炉の大きさから察すると、この都の文化は、その昔ギリシアやローマに劣らなかった繁栄を示したものにちがいない。しかも、この都の広さはどこまで続くか、今なお知れずとの事である。
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イタリア行




 イタリアへ入ったのは六月の下旬である。アルプスの峻峰を飛行機で飛び越えてベニスへ出る。
 十七世紀のパリーの都市国家の設計は、各国の都市の真似するところとなってから、どこの都会も同様である。ただひとりベニスだけは、ビザンチンの影響をそのまま、十二世紀の姿を残している。――こういう歴史家の説はともかく、ベニスは一見不思議な街だ。水中に大理石の宮殿を建て、屈曲した廊下を、深い水だと思えば間違いはない。土なく樹なく草もなく、水と石との間を、黒塗りの胴に、白銀の船首優雅なゴンドラが、今はモーターに客を奪われ、波間に浮き流されて漂っている。
 百間の石の広場を前に、サンマルコの寺院は、林立した尖塔に金色の輪を重ね、鳩を密集させている。堂塔の上高く、二つの鐘が鳴り渡ると、石に木霊し、水に響き、塔はさながら楽器である。うす竹色の水と空の晴れ静まった日、私はサンマルコの前で、鳩を集めてみた。鳩は私の頭から、肩から、両腕まで、鈴成りにとまり、ぎしぎし骨の音をさせつつ、両手の玉蜀黍の実を食べる。街中狭く、動けば水に突き衝るこの街では、鳩と遊ぶより仕方もない。
 夜の美しさを楽しみたいと、水辺をさ迷い歩いたが、黒いゴンドラは、灯の消えた建物の石壁の間で、ごとごと鳴っているだけだ。
 私はふと、石橋の階段の上に立ちつつ、この街の子供の事を考えた。この街の子供は、欄干もない底の見えぬ岸の、つるつる滑る石の上ばかりで遊んでいる。それも漸く歩き始めた幼年だ。この危険な状態をそのまま、幾百年も続けて来たベニスは、定めし多くの犠牲を払って、金銭を貯えたことだろう。ベニスの商人、史上有名な貯蓄の才は、あながちシャイロックのみではあるまい。サンマルコの鐘の音の美しさも、旅情を慰める助けとはならず、私には賽の河原の歌となって、悲しげに殷々と響くのである。
 雨中、ベニスを発ってフロウレンスへ行く。車中で日本人が二人私のコンパートメントへ這入って来た。この中の一人は私に、自分はフロウレンスへ行くのだが、この汽車で良いかと、ドイツ語で訊ねる。突嗟の事とて、よろしいと、どういうものだか私も英語で答えた。旅行中しばらく日本語を使わないので、しきりに話したいのだが向うも話さず、こちらも話さず、汽車はボロウニャの野を走って行く。いつの間にか雨上り、沿線日光強く、鉛筆を造るピーノの樹とオリーブが丘陵いたる所に直立して、漸くイタリアの風景濃厚になって来る。


 絵画と彫刻の街、フロウレンスは、幾度か人々の筆をつくしたところである。今また私もこの街へ這入って来たのであろうか。
 近代の世界に幸福と不幸を与えた最初の街――ルネッサンスはここから起り、パリーへ移行し、再びこの地へ這入って来て以来、フロウレンスは一変した。
 ヨーロッパのどの街も、イタリアのルネッサンスと、パリーのルネッサンスのへだたりを知らなければ、理解は出来ぬといわれるごとく、私もこのフロウレンスへ来て見て、パリーの発達が初めて明瞭になるのを感じた。照明機というものは歩き廻っているうちに、どこからか度が合わされて来るものだ。
 フロウレンスの街は、丘陵に包まれた盆地である。中央を流れるアルノ河は、橋も堤もセーヌ河に似ている。思うに十七世紀のパリーは、今のフロウレンスそのままと見ても良いだろう。私は周囲の山々へ登ってみて、ダビンチの画の背景となっている山野のフロウレンスの丘陵が、多くここから取材されているのを感じた。段階をなしている丘の道路には、油を塗ったような濃緑色のオリーブの葉蔭から、物珍らしげに藤の花が下っている。ゆるやかな遠山の流れが、日の射している温和な野に下り、再び丘陵となる頂きには、どこにも古い寺院の壁が見える。長い筆のように直立したピーノの樹は、丘々の皺を廻って連らなり、浮き雲の高く天空に動かぬ裾で、終日地上の祈りをしているようだ。
 私は丘を下り赤塗りの馬車に乗って街を廻り、アルノの河岸へ出てみた。そこここの街路には、目立って美を増すフロウレンスの婦人たちが、人体に似た肌滑かなマルモの幹の間を、通りすぎる風景を眺めつつ、私はダンテの探し求めた婦人を想像した。ビアトリイチェやモナリザは、この街にはどこにでもいるようだ。
 通るところ、博物館と寺院が競い建ち、そのどれもが名画を満たして静まり返っている。私は名画に飽きあきして、ふと覗く石庭の草の中の、人知れず咲いている真白な夾竹桃の花に、思わず旅の淋しさの慰められるのを感じた。
 フロウレンスには三日滞在してミラノへ発つ。ミラノは大都会であるが、樹木少く、足をとどめさせない都会である。街の景観にも個性が感じられず、靴の中で足の痛むのを、パリーまで保つであろうかと、足先を撫でつつ、スイスの国境の方へ近づく。この沿線には朽ちはてた街が谷間に潜み、古城も岩間で腐りかかり、僅に二三羽餌を拾う鶏のいるのを眺めつつ、山岳の中に汽車が入る。ここまで来ると牧水の歌が漸く口へのぼって来る。

幾山河越え去り行かば寂しさの果てなん国ぞ今日も旅行く
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スイス行




 山岳の美はドイツとオーストリアの国境、ミッテンワルドから、チロルへかけて第一と思ったが、シンプロンを越え、スイスに這入り、モントルウまで来ると、上には上があるものだと、ただ茫然と山々を眺めるばかりである。日本にいたとき眼にしたスイスの風景は、すべてモントルウの風景だ。雪を冠ったモンブランの峻嶺がレマン湖に映り、シロンの古城を取り包んだ清澄な湖面は、幾度か写真で見たのを記憶する。
 しかし、今眼前にこの風景に接するとき、写真はとうていその実景を映さずと思った。夏も冷えびえとして一波も立てぬ水面は、深い谷間の底辺となり、すっくとそこに直立した山貌の厳しさは、拭き磨かれた、壮大な機械を見るかのようだ。その底で二人の娘がテニスをしている。白い球が静かに木霊を繰り返す。見ていて世にこれほど贅を極めた遊びはあるまいと思う。傍にシロンの古城が立っている。私は少年のときから、幸福というものを夢想する度に、スイスの湖辺が頭に浮び、シロンの城の水辺が偶像となって現れたものである。
 今私のこの昔日の幸福の一端の中に浸入し得たものは、白いボールの音である。瞬間、たしかに私は幸福を見たと思った。このかすめ去った感覚の一片こそ、永遠に通じるただ一条の道にちがいない。地上の変化無限といえども、モントルウの風景の粛然たる静止こそ、絶頂を極めた森々乎とした静止である。山頂の茜ほのかに染まった雪の高さを眼で追いつつロザンヌに来る。ホテルの観台から見る湖上には月がのぼっている。月というものは、いつ見ても同じである。日本の秋草にのぼる月の美しさが身にしみ渡り、早く日本に帰りたいと、郷愁そぞろに起って窓を閉める。夏の終りの出羽の山々越後の山が、稲の中から浮き上っている風景が何物にも代え難く懐しい。
 日本に帰るには先ずパリーへと、翌日ジュネーヴまで戻る。ここは琵琶湖の入海の部分を公園にしたと同じである。モントルウの風光を見た眼には、さらに何の感興も起らない。ただホテルの応接の各国に勝ったところは、さすがにスイスだと感心しただけだ。翌日雷雨の中をパリーへ帰る。罷業は跡方もなく鎮って、街々は近づいて来た巴里祭の準備に賑やかだ。これがすめば私はベルリンへ発ち、日本の夏の終りに間に合いたいと、今は心急ぐばかりである。私にとっては日本ほど楽しいところはない。
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四月七日

 出逢う日本人は私にパリーはどうかと質問する。私は答えに窮してしまう。実はパリーから受ける私の印象は、廻るカットグラスの面を見ているように日々変化してやまぬ。その日の結論は、前日の結論とは反対になり、次の日はまた前日とは趣きを異にしてしまう。ぐるぐる廻る結論に絞め上げられると、思い悩んで黙る以外に能はなくなる。


 ドストエフスキイが多年あこがれた巴里へ来て、たった二ヶ月でフロウレンスへ逃げ出し、ほとんど巴里の事に関して書かなかったということはもっともだと思う。
 私もどういうものだか早くフロウレンスへ行きたくてならぬ。


 巴里に長くいる外国人は、誰も彼も、一様に巴里を尊敬し、熱愛して暮している。そこへドストエフスキイが飛び込んだのだ。当時巴里のロシア人たちは、本国を軽蔑する代りに、新米の彼を、事毎に軽蔑したのは、火を見るよりも明らかだ。こんなことに気づかぬドストエフスキイではあるまい。つまり、ロシア本国を、何故にロシア人が互に軽蔑し合って暮さねばならぬか、その残念な云い知れぬ口惜しさというものは、我慢出来るものではなかったのだ。


「ロシア精神を守れ。新しいロシア文学を起せ」こういう事をドストエフスキイがどうしても云い出さずにはいられなかったものが、この巴里には潜んでいるのである。


 巴里の憂鬱という言葉がある。私もこの年まで、度々憂鬱は経験したが、こんな憂鬱な思いに迫られたことは、まだなかった。身が粉な粉なに砕けたように思われ、ふと取りすがったものを見ると、いずれも壊れた砕片だ。殊に雨にでも降り籠められれば、建物の黒さが身の除けようもなく心に滲み渡って来る。立ち騒ぐ人もなく雨の中で悠々と傘もささずに立話をしている人々の風景は、のどかどころではない。
 いら立たしい感情はどこへかかき消え、うんとも声の出ない憂鬱さが腰かけている椅子の下から這い上って来る。何ともかとも身の持ち扱いに困るのだ。


 巴里にはリリシズムというものが、どこにもない。何とかかとか、旅人を喜ばす工夫に熱中して、うっとりする物ばかりふん段に並べ立ててはくれるのだが、そんな物にはびっくりも出来ず、向うの下心ばかりがいやに眼につく。雲形定木の面白さも何となく物足りぬ。私は巴里へ来てから一層上海の面白さが分って来たような気がする。上海には定木がない。リリシズムは上海だけに残っているのだ。フランス庭園の樹木の植込みを見れば分る。規矩整然としていて首を動かすにも角度が要るのだ。自然を変形することこの町人ほど巧みなものはあるまい。カソリックの精神というのも恐らくこのような第二の自然を云うのであろう。


四月八日

 ホテルを変ろうと思い、街を歩いているとストリンドベルヒのいたと書いてあるホテルがある。中へ這入ってどの部屋にストリンドベルヒがいたのかと訊ねると、三階へつれて行き、ここだと云う。細長い八畳で窓から隣家の屋根ばかりが見える。ルクサンブール公園のすぐ傍なので、「地獄」に出て来る公園もここの公園であろう。私は一時ストリンドベルヒに心酔したころもあり、殊に地獄は私の心の糧だったから、この部屋を借りようかと思ったが、千五百フランもする。それに年代から考えると彼の狂人になりかけた部屋だ。空気も息詰るようだし、細長いのが第一嫌いだったので思いとまることにした。
 夜の公園のベンチで誰だか俺のベンチに電気をかけて、殺そうと思っているなどと書いていたのを思い出すと、この部屋なら狂人になりかねないと思った。


 文学者の彫像の多いのはルクサンブールの公園である。ここにはベルレーヌの他に、スタンダール、フローベル、ジョルジ・サンドがいる。しかし、私の好きだったのは、公園を出て、ソルボンヌの前にあるモンテーニュの像だ。これは去年の三百年祭に出来たものだからまだ新しいが、この像を見て初めてモンテーニュの精神に触れた思いがした。彼の寛容、彼の自由さ、底を割った老獪の徳、他人のいかなる策謀も功を奏せぬ不思議な微笑。たしかに男性の底知れぬ柔らかな寛仁大度の風姿がよくこの像に現れていると思った。


四月廿一日

 雨。ここの代議士は過労のため一年に二十人も死んだそうだ。総選挙が近づいて来たので街頭は緊張している。タクシイは朝から全市一斉に罷業だ。
 ラスパイユのホテルの六階が私の部屋だ。広い墓場が眼下に見える。ボードレールもこの墓場にいる。栗の若葉でいっぱいになった墓場に雨は毎日降りつづけている。ときどき雲が破れる。若葉にあたる日光を見ていると、濡れた白い花が日々咲き増していくのがよく分る。


 パリーの建物は高さが同じで六階だがどの建物も煤けて黒い。道路を歩いていると峡谷の底にいるようだ。道路以外に脱け路はないから広場に出ない限り、一丈ほどの厚さで押し流れているガソリンの底を歩いているようなものだ。


 建物も彫像も大理石に似た石灰岩であるから、風雨を受ける突出した部分は白く雪を戴いたように美しい。つまり、街のうす黒く煤けているのは、反対に白い部分を明瞭に浮き立たさせるバックの役をしているのだ。そこへ例のマロニエであるがこれは花より葉の方が美しい。この葉の群生の仕方は重厚な建物の線といかにもよく調和している。このマロニエの葉が他のどんな街路樹でも早や駄目だ。マロニエに似た街路樹は、東京では警視庁の横から海軍省の前まで並んでいる栃の木がよく似ている。しかし、栃より少し葉が小さく密生していて光沢がある。


 どの街も美しさは均衡している。どこもかしこもつまりはるかに立派にした銀座ばかりのようなものだ。ふと上を仰ぐと建物の線や彫像の微妙な精緻さ。ふと下を向くと、装飾窓の中の絶妙極まる数々の品物。通りかかる人の美しさ。――こうして廿日ばかりぼんやりと暮しているうちに、はてどこから書くべきか糸口が見つからなくなってしまった。


 こういう話がある。――フランスでは、金を銀行に預けずに、現金で持っていると、税金がかからない。それ故、銀行に預けぬ金がどれほどあるか分らないということ。
 喧嘩は手を先に出した方が、いかなる場合でも、負けだということ。――貯金をすればするほど、他人から尊敬を受けるということ。――隣りの部屋で死んでいても、知らぬ顔をしていること。――親の許さぬ男は、絶対に結婚出来ぬということ。――車夫は車夫以外に、ボーイはボーイ以外に、出世を望まないということ。――婦人は金がなければ、結婚出来ぬこと。――親は子供に平等に財産を頒けねばならぬから、従って子供を産まぬ工夫をするということ。――誰も彼も、自分の国が世界で一番尊敬すべき国だと確信していること。
 以上を考えても、どことなくフランスは支那に似ている。


四月廿三日

 サンジェルマンへ行く。途中に椿姫がアルマンと一緒に棲んでいたというブーシバルを通った。ここはセーヌ河の上流であるから木の根も水に洗われた静かな村だ。ここでは雲の影さえ水に映り、樹木に取り包まれた古い屋敷が散在して、ニンジンに現れたごとき風景はいたる所にある。


 サンジェルマンは高台で、六里彼方にある巴里の街のゆるやかな起伏が一望の中に見渡せる。林檎の花盛りだ。遠くモンマルトルの頂上の、サクレクールがかすかに春霞の中に浮んでいる。林檎の花の下を蛇行しているセーヌ河は、古城の銃眼を高く一方に聳えさせ、延々と巴里に向って流れている。風はうすら寒い。
 フランソワ一世の宮庭の中を突きぬけて行くと、小梅桜が早くも満開を過ぎている。庭園の中にイギリス風の庭がある。フランスの王朝時代にはイギリス風の庭は、当時いかにもハイカラに思われたにちがいない。


四月廿六日

 雨。今日は総選挙の日だ。結果は夕方になるとほぼ分るそうだが、左翼が絶対多数で勝つことは決定的だと云われている。


 街頭のポスターには、左翼が勝てば戦争が起るぞと右翼が書き、左翼は、右翼が勝てば戦争が起るぞと書いている。


 フランスの左翼は日本の右翼のように勢力を政府の中に持っているので、圧迫を受けつづけているのは右翼である。左翼への転向のごときは、ここでは日本で右傾するがごときやさしさだと云うことに、初めて気がついた。


四月廿七日

 まだ明瞭ではないが極右と極左が競り合っているとの事だ。


四月廿八日

 樋口、岡本太郎君と三人で、ブロウニュへ午後から行く。市中に五里四方の大きな森を残しておいた市民は、この森のために心は絶えず洗われているのだ。森の中はマロニエの花盛りだ。コーヒーを飲んでいる茶碗の中へ花が舞い落ちて来る。花蔭からもる日光にあたっていると、物云うのもいやになり、自分が何ぜこんな所へ来ているのか、おかしなこともあったもんだと不意に疑問を持つのである。私は自分で来たくて巴里へ来たのでは決してない。私の友人たちが、行け行け、行け行けと、とうとう押し出してしまったのだ。さて来て見るとこの通りで、どっちを向いても白い花と青葉ばかりだ。ここにいて日本を思うと、日本人は誰も彼も枯野の中で酒を飲んでいるように見えて来る。ここでは樹の梢にラジオがあるので、音楽は花の中から降って来る。


 さて夕暮になって立ち上った。若い男女の二人が、喧嘩をしていると見えて、黙って立っているその上に、白い蝋燭を立て連ねたようなマロニエの花叢が、風に重々しく揺れ動く。岡本君は巴里の屋根の下を「若者よ、愛せ。」とフランス語で唄いながら、その前を行き過ぎる。すると、若い男女の二人は前からの争いのまま、どちらからともなく不機嫌そうに接吻した。鶯が衰えた声で濃密な葉の中で鳴いているのを聞きつつ、私はこれをこの日の終りとした。


五月一日

 曇っている。風邪気味だ。
 午後初めて前の広い墓地の中へ這入ってみた。モウパッサンの墓がある。花の落ちた薔薇が墓石に延び上っている他に、光沢のない名の知れぬ汚い花が咲いている。死ねばこうかと思う以外に急に作家の苦しさが身に滲んで、急いでその傍から遠ざかった。
 次ぎには行くまいと思ったボードレールの墓の前へ出てしまった。このボードレールの石像は、よく出来ているので有名だが、私はこのポーズが嫌いである。顎を支えて前方を睨んでいる恰好は散文家ならしない。陰鬱な樹の下影に寝像もある。しかし、私には裏の石塀に滲んでいる鉄錆の方が、はるかに彼の詩を読む思いがした。
 微熱があるのであろうか、押し詰った墓石の寒さが、足もとをぞくぞくさせる。落ち塊っているプラターンの花の上を、足早やに通りへ出ると、街はメーデーだ。寒い。
 一緒に行った樋口君がモウパッサンの墓にあった花を折って、私のポケットに押し込んでくれたのがふと手にふれたので、街角で私は花をやった。ここのメーデーは行列の代りに街で鈴蘭を売るのだ。幸福を皆にもたらせるようにと。


五月二日

 たしかに少し神経衰弱の気味がある。しかし、ニイチェの云う如く正当だから神経衰弱になったのだと思う方があるいは正確かもしれぬ。


 シャンゼリゼーの大通りのテラスにいて通る人々の顔を日がな眺め暮すことがある。すると、第一流だと思われる婦人のやくざな者は、グレタ・ガルボの真似をしている。この男はどんな男だろうと疑問が起った場合、傍についている女人を見ればすぐ分る。伝統を誇っている男女の顔や姿は美しい。しかし、そんな者はどことなく馬鹿に見えるのは日本と変らぬ。


 フランスにいてフランス人らしくしている外国人や日本人は、またこれも足らぬように見える。私はどういうものだかまだパリーに来て、いかなる意味に於ても恐いと思ったことは一度もない。日本にはたしかに恐れさせないものがあるのだ。それが何かと此頃考えてみているのだが、明瞭な像はまだ捉えられぬ。私は日々外国人ばかり押しひしいでいる中に浸って、ぼんやり周囲の顔を見ているが、恐れる何物も感じたことはない。真似出来ぬものを除いては、真似する必要あるものが日本になくなって来ているのだ。うす黄ろい皮膚の色の美しさは、白色の中に混っていると、渋い銀のように見えることもたまにはある。低い体躯もそれに物云う他の高い上脊をかがませて、ねばり強く根を張った松に見える。しかし、人間はあんまりいろいろな事を沢山しすぎたようだ。


五月四日

 ロンドンへ来た。ドーバーを越した飛行機の中で、足が側面の立壁に触れると、電気にかかったような振動を身に感じ、吐気をもよおしそうだ。日本の飛行機ではこんなことは一度もなかった。これを人に話すと、その人の云うには、日本の旅客飛行機に使用しているモーターほど優秀なものは、世界にはないとの事だ。それも国産である。バイブレイションがちがうのだ。(パリーを九時出発、機上で一時間半、十二時にロンドンのピカデリ着)


 日日の南條氏に、市中と郊外を自動車で廻って貰う。前日からの睡眠の不足で、瞼が垂れそうだったのに、郊外へ出ると眼が醒めた。新緑の広大な曠野に連り咲いた、えにしだの金色の花の群団。――旅から旅へさまようものの、第一眼を喜ばすものは、やはり花である。ロンドン市中の建物は、大阪の堂島に似ている。石柱が太く重い。テームスの景観も丁度中之島だ。実質一点張りで、装飾は堂々たる威嚇となり、大国の鷹揚さの裏影から、どことなく気ぜわしい煙りが立ち昇って感ぜられる。


五月五日

 ペンクラブの招待日だが、招待の最中に、出席者の一員が南條氏に、これを英国のペンクラブだと思ってくれては困ると打ちあけたそうだ。会の計画者がひどく不自然なことをしているのだ。


五月六日

 市中を一人歩いて見る。タクシイはいくら手を上げても停らず、バスに乗ると反対の方角に乗って降ろされたので、またてくてく歩いて宿へ帰る。宿の庭には梨と林檎の花が満開だ。私はここの庭ほど好きな庭はまだ見たことがない。トキワの別館であるが開業してから一二ヶ月よりならぬとの事だ。屋敷は富豪の家だったらしく荒れてはいるが風趣がある。庭は館の四倍ほどの広さで一面の草の中に衰えた噴水と、耳に囁き合う古びた男女の石像が一つあるきりだ。アッシャー家の没落を眼のあたりに見るようだ。絶えず音なく散っている梨の花や木の下影に取り包まれた林檎の花の中で山鳩はときどき重い羽音を立てている。壊れかかった煉瓦の塀に薔薇蔓が這い上り、樹幹を廻って出て来た老人が赤子を抱いたまま林檎の花の下で眠っている。客は私と細菌学の博士とただ二人きりである。博士は私に昼から夜の一時まで細菌学の話をしてくれる。


五月七日

 雨かと思うと噴水の飛沫だ。梨の花は一夜の中に散って了った。もうパリーへ帰ろうと思うがこの宿にいると外へ出る気にもならぬ。終日静かに曇っている。二十幾年この方、水夫をして近海を廻っていたこの家の老爺は、ごほんごほん咳き込みながら、毎日イギリスはこの天気でさと云う。庭に出るとあたり一面の青葉の中に、まだ淡桃色の林檎の花が残っている。スコットランド行はもう思いとまった。


 先日パリーのドウムの群集の中で茶を飲んでいたとき、三つ四つ向うのテーブルにいたアメリカの婦人と、ロンドンのピカデリの群集の真ん中でふと出逢った。物も云ったこともないのに向うも覚えていたらしく、にっこり笑いつつハロウと声をかけて行きすぎた。ロンドンの良い印象の一つである。


五月八日

 曇った市中を歩いてみる。どこを歩いてどこへ出たのか分らない。重いオーバーを脱いだり着たり五六度もしただけだ。同じような建物の間を歩き疲れるまで歩き、公園らしい青草が見えると立ち停るのだ。何のために街を歩いているのか分らない。今日はパリーへ帰ろうと街を歩く度に思うのだが、宿へ帰ると庭の美しさと家人の質朴さに、また一日と日を延ばす。


五月九日

 どこ一つ見る気も起らずロンドンを発つ。十二時半。ドーバーの上は霧ばかりだ。霧は茫々と際限なく続いた雪原と同じだ。太陽の輝いた青空と雪原の間を、珈琲を飲みつつ飛ぶ。フランスの下界は整然とした方形の群団だが、イギリスの下界は雲形だ。三時にパリーへ着く。何と気楽な都会だろう。初めて家へ帰ったような気持ちになる。私のロンドン行は、パリーを見直すために行ったようなものだ。
 一週間見ぬ間に、マロニエの花は咲き切ってしまっている。グランブルヴァールから、サン・マルタンまで歩きつづけ、サンゼリゼーへ引きかえし、飽かず街々を眺め廻した。六月になれば、もう一度ロンドンへ行き、イギリスを見直そうと思う。


五月十日

 ロンシャンの競馬を見に行く。ここの競馬は花見遊山に行くのと同じだ。青芝の上に寝転びながら、競馬場で小説を読み耽っている婦人もある。馬券が安く五フランからあるので、狂人沙汰にもならずのどかに半日をすごすことが出来る。帰途、シャンゼリゼーのロンパンで休む。
 一面に穂を揃えたマロニエの真白な花の間で、霧を噴き靡かせている噴水。エトワールから下る散歩道は、日曜のこととて、流行の春着の流れ下って来る河だ。


五月十一日

 ローザンベリへマチスの展覧会を見に行く。今年の製作品が主なものだ。またマチスは変って来た。先日ピカソの会を見たときにはいかにしてマチスはピカソの豪宕な変化に太刀打するかがひそかに私の興味であったが、やはりマチスも大天才だと感歎した。この二人の競い合った結果は、セザンヌを第三位に落し始めて来つつあるようだ。ピカソの本格の追求に対してマチスの豊かさは、いささか横に外れた傾きを感じさせるが美しさではマチスは第一等であろう。今年のマチスの主調色は黒色である。何となく、日本婦人の黒襟の華美な着物を見ているようだがしかし味には落ちていない。


五月十二日

 今日もまたマチスを見に行く。絵画も文学と同じだとつくづくと思う。日本には文学にも絵画にもまだ本格がないのだ。そのため直ちに味に堕落する危険性が何人にもあるのである。心すべきことだと思う。これに芸術家が足をすくわれたら最後だ。しかし、今はこんなことを書くのはやめよう。


五月十三日

 珍らしく晴れだ。今日もマチスの展覧会のある前まで来る。いったい、この街まで二里はあるのだが毎日来たくなるのには理由がある。このリュウ・ラ・ボエッシイからサントノレの長さ十町足らずの通りは、パリーの伝統の一番濃厚に出ている町であるからだ。人通りは少く、美しさは平凡で古く、何の目立ったものもないにも拘らず、ショウウインドウに出ている品物は、手袋一つにしてからが純芸術品ばかりだからだ。恐らく世界最高の通りであろう。パリー全市でこの細長いさびれた通りばかりが、パリーを私に最もよく物語るのだ。東京で云えば薬研堀から人形町の裏町へかけた所である。私は東京市中で純粋の東京の品物を売っているのは恐らくここだけだと思うが、これがパリー全市では、サントノレからボエッシイにかけた十町足らずのこの平凡な通りだけだ。その他は外国人や大衆の愛する町である。


 私にも好きな通りがある。それはルクサンブール公園の外郭に沿った、オーグスト・コント通りだ。人は殆ど通らないが、夜のこの通りの美しさは、神気寒倹たるものがある。
 一丈余りの高い鉄柵に沿って、黒々としたマロニエの太い幹が立ち並び、鬱蒼とした樹木の下をこつこつと稀に歩く人影が黙りこくっている。古い瓦斯燈が青く輝き、片側の建物は尽く窓を閉ざしている中を自分も黙々として歩く寂寥は物凄く身慄いのするほど美しい。ふと御影石の滑かな石垣に手を触れると、甘酸っぱい花弁の腐りかけたのが指先きに喰っついて来る。人は死ぬ前には恐らくこの通りの寂寞たる光景と似ていることだろう。私はここを通る度にパリーもこんな所のある限りは早やお終いだと思う。他の町は見ずしても想像の出来る所が多いがここだけは末期の世界だ。市中の峡谷。


 パリーの中で最も俗っぽく、しかも何人が見ても一番高雅な所はロンパン・ゼ・サンゼリゼーであろうと思う。文化の最高に位置するものは何となく俗っぽくなければ価値を失うものだ。私は好みを殺してここを最高と認める。好みは所詮その人間の弱点から来ているのだ。


 コンコルドの広場も私は人工の美の極を尽したものと思う。坦々として光り輝いた広場に群った彫像から噴き上る幾多の噴水の壮麗さ。これを東洋のどこかにその比を捜すなら奉天の北陵か日本でなら京都の東本願寺の屋根である。深夜に森林の中を一人歩く凄さより、コンコルドの広々とした人工の極みの中を歩く物凄さは、はるかに人々を興奮させることだろう。私はここに来て真の感傷というものを感じた。自然というものは要するに自然なだけだ。


 私は今日佐分真君の自殺を聞いた。この人からは三通の紹介状を貰って来たが、まだ二通は残っている。真面目な字を書く人だ。牧野信一君も先日自殺したが、二人とも最後に私の逢ったのは私の出発する四日ほど前だった。それも日はそれぞれ一二日違うのだが、逢った場所は揃いも揃って銀座のヱビスビールの前である。それも夜の群衆の中で通りすがりのこととて互に手を上げただけである。二人とも共通に世にも快活な笑顔をし、同じポーズをして通っていった。
 私はオーグスト・コント通りの峡谷の中を通る度に、二人の冥福を祈ろうと思う。


五月十八日

 樋口、岡本両君とヴァンセンヌの森へ行く。一昨日から続いている暑さが今日もつづく。広い森の中は人でいっぱいだ。人のいない奥深くへ這入って休もうとすると、雑木の中には、あちらにもこちらにも男女の二人づれが横になっている。私たち男三人は森をけがしているのじゃないかと思うほどだ。小さくより固ってただ梢を眺めているのだが、誰も沈んで物云うものもない。樋口君はときどき溜息をもらして早く日本へ帰りたいと云う。岡本君はむっつりして木の葉をむしり取っているばかりだ。私はふとこの森を戯曲の一場面にしたくなってノートを取る。パリー市民の理想は日曜日になると森へ男女で来ることだと云う説も耳にした。もうただ野蛮になりたくて仕方がないというパリー人の苦しみ。


 第一の自然を征服し、第二の自然の技術を尽し、第三の自然である思想を、窮極へまで押し縮めたパリーでは、どうかして第一の自然へ返りたく、野蛮な扮装をしているのだ。これが第四の自然である。リアリズムはここにはも早やない。


五月十九日

 立体活動写真というものを見に行く。ところが、これは二三日前初めてこの地に現れたものだが、日本では一ヶ月前に出ているとの事だ。発明国が他国に先に幕を切らせるところなかなか油断がならぬと思う。


 酔っぱらいはフランスにはいない。智能の低級な者でなければ酔っぱらわないという見解を持っていて、そんな者が現れると直ちにカフェーから掴み出されてしまう。ところが、居眠りをしていても掴み出される。居眠りと酔っぱらいは馬鹿者の証拠になっている。


 どちらを向いても美人揃いというものは、美人が一人もいないのと同じ事だ。ネロがローマに火をつけたのも、あまり美人がいすぎたからだ。


 この国の運転手や給仕には、一国の総理大臣同様な恰幅容貌の男が多い。ところが、ここの大臣は日本の給仕のように寒げな顔をしている者が多い。筋肉の量は精神の量と反比例しているようだ。これが文化というものだ。


 夜、夕食を終えてから街を歩き、十時ごろからブローニュの森へ行く。三方の道から自動車の群が陸続と森の中へ繰り込んで行く。その夥しい車はどこへ向って散って行くのか分らない。森の一隅にある露天のカフェーの上だけは紅の霧を流したようにぼうと明るい。森の中の湖水へボートで出る。真黒な水面を揺れる紅の円い提燈。擦れ違うボートを見るとどれも男女の組だ。提燈のほのかな光りでは顔は見えない。停っているボートは島の木影へ乗り捨てていった客たちのものばかりだ。ぼんやりと待っている空のボートの紅提燈は、カーテンを閉めた窓のようになまめかしい。白鳥がぼとりと重く、暗い水面へ飛び込む。垂れ下った樹の枝が顔を撫でて通り過ぎる。藻の匂いが脂粉の匂いと混って来る。ときどき、男ばかりのボートが黙々として行き過ぎる。何となく粋なものだ。岡本君が手を上げて互に敬意を表し合う。


 湖を一周して島へ上る。木蔭を歩きたくなったが水鳥を驚かしてはと、やめて旗亭へ入る。この旗亭では先日コーヒーを飲むとき、落ちかかるマロニエの花を追うのに忙しかったが、今は青葉ばかりが厚く重い。レモンを割ると強い匂いに日本の青葉のころが身にしんで来る。


五月廿日

 ルーアンへ行く。ここはシャヴァンヌやラシーヌの生れた所。ジャンダークが火刑に処せられた町でもある。
 フローベルのボアワリイ夫人が附近の村から出て来て、愛人と馬車に乗って通るのもここである。


 パリーからルーアン迄バスで三時間、沿道の田園はノルマンディにかかっているのでフランス特有の明るい日光が漲っている。マダム・ボアワリイが靴を磨き、村の牧場を歩くと、小さな草の実の靴に映るところ、弛く大きくカーブを描いた緑の地平線、畷や畔の何もない茫々とした田園には、一面の軟草が谷を造り、丘を盛り上げ、風吹けば草を割り、羊を集めて移動させ、島のような森を浮き上らせている傍に傾いた教会の塔が立っている。滑かな道は草の中を真直ぐにルーアンまで延びている。ところどころに五六軒の村がある。どの村ものどかでものうげで、強い日光に人の声も低く重い。


 丘を越えると谷のような低い平野に、セーヌ河を取り包んでルーアンの町が見える。河の両岸は起重機ばかり。ファーブルから上って来た船が多い。市中の中央に数箇の高いゴシックの寺院の塔が聳えている。この丘を下る道から眺めた風景は最も良いらしく、シャヴァンヌがそっくりそのまま描いているという事だ。


 夜になると数日来の暑気とは反対にひどく寒くなる。オーバーなしには歩けぬほどだ。暗い町を河岸まで出る。河の上を流れる雲足早く寒さ一層つのる。
 純粋のフランス人を見たければ、ルーアンへ行けと云われて出て来たのだが、寒くて外出不能である。しかし、質素な人々、人擦れせぬ娘たち、笑顔を慎しむ人々の真面目さは一度の往来で見受けられた。


五月廿一日

 セーヌ河に沿って汽車でパリーへ帰る。パリーという所は戻るたびに心が落ちつき、気楽になる街だ。最も法規の完備している所が最も自由で気楽なのは、今に始ったことではない。


 ベートーベンがパリーへ来て、私の宿の傍のブリューバールへ馬車で降り、いきなり店頭にかかっていた淫らな画を見て腹を立て、早速次の日、ウインへ帰って行ったという。淫らな絵画は到る所に今もなおかかっている。しかし、このような絵画を店頭にかけるのは、あらゆる道はローマへ通じると訓戒をしているようなものだ。仏訳になった印度のカーマストラが堂々たる新刊屋の店頭の一線に立ててある。誰もここではこれを猥本とは見ない。聖典と並んだ生理の書として扱う誠実さは、公衆の面前で接吻して顔色一つ動かさぬ国民の複雑な歴史を説明してあまりある。


 つまり人間に見せて不都合なものは、も早やこの土地にはなくなっているのだ。恐ろしい退屈と虚無が襲いかかって来ているのだ。運転手が終生運転手のまま不平とせず、小使が終生を小使として終るリアリズムに、理由のあるわけはここにある。こうなれば幸福とは金銭の浪費にはない。貯蓄にあるのみだ。勤勉の徳はここから出ている。


 このフランスという国は手形を現物と直接交換しなければ、受けとらぬとのことだ。信用の世の中にこの古風は暗愚もまた甚だしい。しかし、貯蓄を終生の希望とし、唯一の幸福としている人物に、現物を見せぬ紙一枚の手形が何の役に立つだろう。他人を信用して生涯を棒に振る冒険は絶対確実な幸福には反するのだ。


 現金を家に隠して持っていること、これほど握覚の充実していることはあるまい。しかし、またこれほど無慾なこともない。虚無とはむかしは何物も放すことであった。しかし、今は最も確実に物を持ってみることだ。


五月廿二日

 パリーにいると俳句は作る気にならぬ。隙き間もなく押し重なって来る考えに、ぼけてしまう。パリーぼけという言葉がこの地の日本人間にあるが、ぼけずにここにいるには金の音に眼を醒す度胸がいるのだ。


 本日、水原秋桜子氏の句集、葛飾が着く。開巻第一に、

なく雲雀松風立てて落ちにけむ

 春の大和、唐招提寺の句だ。現在の私の日々眼にしているものとこれほど違っているのかと驚く。

コンコルド女神老けにし春の雨
シヤンゼリゼ驢馬鈴沈む花曇
騎手落す春寒の野やみぞれをり

 ここでは句にはならぬ。以上は巴里着即後の私の句であるが、外国で俳句を作るには発明のために句を殺さねばならぬ困難さがある。


 印度洋で、高浜虚子氏は、

印度洋月は東に日は西に

 という句をつくられたが、この句ほど下手な句はないにも拘らず、この幼稚な平凡さに落ち込んだ所に、名手でなければ落ち込み難い、外国という越ゆべからざる穴がある。


 小説もこの通りだと思う。本格というものは型から型を通り、自分を極度に殺し、押しのけ、突き抜け、大通俗に達したときを云うので、この修業なくして本格はないと思う。


 純粋さのみをかき集め、高度の純粋さに達することは一種の低級さだ。この考えは、今やフランス文壇画壇劇壇共通の問題である。新現実主義の起って来た所以である。


五月廿六日

 フランスという所は無銭飲食のうち、食だけは罪が重い。飲に至っては問題にならぬ。


 ここの裁判では陪審制度が強力な判決権を持っているために、美人が殺人を犯しても、多くの場合無罪となる。美人は存在しているのみで国家に貢献しているという理由が、暗黙の諧謔となって現れたのだ。


 フランス人は笑うことが非常に少い。笑う必要を感じぬだけの言葉があるからだ。まだ日本は笑わねばならぬ。笑う間は福が来ないのだ。


 喧嘩を見たことがほとんどない。突き衝っても衝られたものから「御免なさい。」を云う。


 大道の四つ辻で盲人が来るとあらゆる通行を断ち、警官が一町ほど手を曳きつつゆっくりと安全な所へつれていったのを、私は見たことがある。


 フランスの画家の製作品が海外に売れる金額の量は、日本全部の絹物の輸出額よりもはるかに大きい。ここでは芸術は実業以上だ。


 スペインへ入る海外からの旅客の大部分は、博物館の絵を見に行くものだとの事である。この旅客の落す金額は、国庫の最も重要な収入となっている。グレコ、ピカソ、ベラスケス、ゴヤ、この四人の天才の出たために、国民は永久に遊べるのだ。


 徳川家康の最も日本に貢献した事は、日光に自身の廟を建てた事かもしれぬ。


 歌舞伎を国営とし、新劇を松竹と東宝に任すべきと思う。これ以外に劇芸術発展の法はあるまい。


 文学については、政府が新鋭の批評家に留学費を与えるべきと思う。それも、一人に長期の必要はない。三ヶ月で結構だ。半年以上この地にいる者は必ず何らかの意味で馬鹿になるからだ。ここには麻酔剤がいたる所から噴出している。これに気附かぬものは、つまり、眠てしまった者ばかりだ。


五月廿七日

 日本製の物尺は、パリーへ来れば二倍にしなければ底へは届かぬ。私はパリーに来て、底を見たものはそんなに沢山あるとは思えない。長くこの地にいなければ、フランスは分り難いというものは、フランスの伝統と競争しようと思うものだ。この者は死ぬ以外に方法はあるまい。


 到着一日目に街を歩き、興味のある珍奇な品物に眼が触れると、すぐこれを買いたいと思う。しかし、一ヶ月後には、よくあれを買いたいと思ったものだと、後悔する。けれども、到着の日に眼についた物こそ、日本人には必要なものだと気づくのである。


 本日、セザンヌの展覧会を見に行く。三十年祭の事とて、各国からセザンヌの逸品ばかりが集って来ているので、長くフランスにいる者も、これだけは見られぬとの事だ。チュイレリイの画館には総数百四十点と手紙類とだ。外庭の噴水が青葉の間で輝いている。


 セザンヌの初期から晩年にかけての変化は、文学の変化と等しいと思った。この人は真似から真似を追い、変貌に変貌を重ね、写実を追求し、象徴に達して死んだ。旅に寝て夢は枯野をかけめぐる、この境地に到達した後は、画壇は分裂の続出である。ピカソの内面描写の変転痛苦を、才人と呼ぶ人が多いが、盲人の哀れさと思う。


五月三十一日

 日本の小説を読んでみる。繊細微妙なその美しさに感歎した。私はいつの間にかこんな感心の仕方を、自国の文学にしなければならぬように、なったのであろうか。しかし、誰も彼も、無意識に、寄ってたかって、プルーストをやっていたのだ。つまり、死ぬ練習をしていたのである。もう良い加減に、生きる練習をしなければならぬ。


 何より先ず、生きる事だ。新しい文学は、つまらなくてもかまわない。


六月一日

 人はそれぞれ心に聾を持っている。日本にいると自分の聾の部分には、滅多に気附くものではない。しかし、一たびここへ踏み込むと、ひどい聾の部分が逆毛立って、刺さり込んで来るのである。
 さア、耳は聞え出したが、もう世は遅い。日が暮れかかっている。今から走っても追いつかぬ。そこで聾の楽しさを忘れかね、無我夢中に東洋的なものにしがみつく、救いはこれだ。
 歌舞伎と能の美しさほど、人を小馬鹿にしたものは、恐らくあるまい。


六月二日

 私は出発前に青年時代を長く外国で暮した吉田健一氏とよく会った。この人は銀座の資生堂がどこより好きな青年である。どうして君はそこが好きかと訊ねると、非常に良い東洋的なものがあるとの答えであった。われわれが銀座で一番ヨーロッパ的だと信じていた物が、東洋的に見えるのだ。
 奈良、京都など、東洋的には見えぬという。この不思議さも、ヨーロッパへ来て見て初めて私にもよく分った。


 資生堂どころではない。軽井沢も日比谷も、東洋的な良さである。日本の外人がすでに東洋的なのだから仕方がない。


 文学に於ては、久米正雄と林房雄、この両氏が一番東洋的に見える。
 奈良、京都はすでに電池の切れた日本である。


六月三日

 パリーと云う所はどこの国のものでもなく、パリーと名附けられた特別の国だと思う。ここには、豊かな知識と性とがあるだけだ。感情のある真似をしたくてならぬ悩み――これがパリーの憂鬱の原因である。


 私のよく行くレストランの主人に、日本へ暫く行っていた男がある。この男はいつも私が黙っているので、傍へ来て云うには、どうだ、パリーは女が金を受け取ることと、勘定することとより考えていないから、日本人には面白くはないだろう。日本の女はそこへいくと実によろしい。自分はここで金を儲けて、日本へ行くのが何より楽しみだと云う。


 仏国革命のとき、自由平等の法律を実行した、その効果の悪の部分が、国民の感情を失ってしまった原因をなしているという定説がこの地にある。しかも、各自がそれを意識しているのだ。町々に聳えているカソリックの鋭い尖塔は、自由平等に対する恨めしい反抗のように見える。ジイドのロシヤ行は、感情を探しに行ったのだ。


 先日から工場二百に罷業が起っている。その飛火がフランス全部に拡大して、今は踊場や雑貨商にも起って来た。昨夜で三十五万人に達したが、政府が左翼であるから、この争いは少しも騒がない。祭りのようにのどかだ。しかし、新聞までストライキだ。


 各自が自身の金銭を失うことなくして、左傾しようという精神、――これが個人主義的コンミュニズムとなって現れたのだが、フランスで一番人気の良いのはこれだ。自身の金銭を失う左傾というものは法律が許さぬ。なおそれ以上に、人々の精神が許さない。左傾とは金を奪われぬ用心だという原則を、ここほど了解している所はあるまい。それ以上の複雑な理窟など民衆には用をなさぬ。


 フランスの大富豪二十家、二百数十名の住所番地を委しく書き連ねた印刷物を街頭で売りながら、いざ事が起ればこいつを叩き潰せと叫んでいる者が随所にいる。警官も人々も、平然とその前を通って何事も云わぬ。


六月四日

 パリーではアメリカ人であろうと、黒人であろうと、イギリス人であろうと同じことだ。ここでは人間など通用しない。通用するのは金だけだ。真に経済を学ぶにはここに限る。それ故に金と等しい心もまた明瞭に、その運行を看取し得る。日本では、金と心を別けなければ承知しない。つまり、フランスが金で心を買うのに反し日本は心で金を買うのだ。どちらが便利か世の中は便利な方へ延びて行くに定っている。


 内閣は今夜の中に出来る。社会党政府のときに、大ストライキが勃発したという事件は、未曾有の事だろう。共産党は自身の勢力示威にこれを使う。右翼は社会党攻撃にこれを用う。傍で見物していると、人間がいつの間にやら金の塊りに見えて来る。その間に金塊はぞろぞろ海外に血のように流れていく。狼狽うろたえてガーゼを持ち廻っているものの、血は滔々と音を立てる。そこで外科医が現れて、腕一本断り落そうというのが今夜の内閣だ。―――レオンブルムの内閣出現す。


六月五日

 雨に押し流されたアカシヤの白い花の群団が道路の石の上に浮いている。旅人はこんなものにも心が休まる。
 ひどい雨だ。文藝春秋社より原稿料が着く。佐佐木君の手紙が中に這入っていたが、日本の事が一つも書いてない。


 巴里に淡徳三郎氏の出している、日仏通信というガリ版の一頁新聞がある。これは日本に起った出来事の報道と批判の部分を、外国新聞と日本の新聞から抜き出したものだが、同一事件が、東西かように解釈を異にしているものかという見本になり、非常に興味が深い。ヨーロッパは東洋を知らずに動き、東洋またヨーロッパを知らずに廻っている。この互に知らない差が為替となり、戦争となる。よく知るとは心理に入るという事だ。文学はここから起り、これが世界の平和を保証していく唯一の武器となるのだ。


六月六日

 罷業はますます拡大して行く一方だ。新聞も極左翼と極右翼の二つだけが、ようやく発行をつづけている。カルチェルラタンを歩いていると、日の暮れかかっている中を、極右の売子が胸に新聞を横にあてつつ叫んで行く。その数間後から、極左がそれをもみ消すように叫んで来る、すると、今度は極右、極左、と売子同志の声の争いが連続して来る。砂糖も明日は買えぬと云う。ガソリンも売らぬから自動車は少い。


 電燈と瓦斯と水道だけは、軍隊がこれを守っているとの事だ。いったい、ここの軍隊はどっちの軍隊かわれわれには明瞭でない。


 夜、レストランに休んでいると、ガソリンが買えぬので遊んでいる運転手たちが塊って這入って来る。彼らは政治の話ばかりだ。
 去年、われわれは一週間四十時間労働と定めた時、アメリカが賛成して来たのに、イギリスが黙っていた。それだから、今になってイギリスが困って来たのだと云う。


 フランスの労働者は皆金を持っているからストライキが続いても困らない。血を吐くような争いはどこにもないが、それだけ長く続くだろう。持久戦という自然力の依頼は、ここでは戦法として役に立たぬ。火つけが消防夫を気取っている、と云う極右新聞の新内閣攻撃法は、独得の高等戦術を想像させる。


 四百八十一の工場主が負けて来た。このため、労働者一人の賃金は三百から四百フランの増加だ。おまけに休日は増す上に、その日も賃金が貰えるのだ。街の大きな店はたいてい店員の罷業で戸を降ろしている。この日、グランブルヴァルから、シャンゼリゼー一帯を廻ってみたが、喧嘩口論一つもない。遊ぶ者は遊んでおり、散歩するものは散歩している。この静粛な閑日の趣きが徐々としてパリーのレヴォリュションに変っているのだ。


六月七日

 円とフランが下り合いの競争をしかけている。この二つの国には、容易ならぬ暴風が、渦巻き起ろうとしているらしい。――今日は雨だ。前の墓場の中に、赤旗が靡いている。道の辻に、銃を組んだ警官隊が守っている。何事かと訊ねると、レオンブルムが会合しているとの事だ。墓場が会場になるのは、葬式ばかりじゃないのだ。


六月八日

 新聞は少しずつ出始めた。その代りに、汽車の食堂とチュリーストが休み出す。フランス銀行の頭取が更迭した。


 大きな百貨店はどれも大戸を降ろしているが、こうなれば一度はどの店も罷業をして行くにちがいあるまい。長年忘れていた大掃除をするように、掃除を終った店からまた開業をやっていく。埃りが通行人の顔に少しもかからぬところは流石にフランスだと思う。


六月九日

 スペインかイタリイへ旅行に出ようと思うが、パリーの罷業を見終ってからにしようと、また腰を据える。巴里へ来た人はこの地の歓楽場の話をよくしたものだが、そんなものはあるにはあっても、歓楽場でもなんでもない。皆ここのは仕事場だ。歓楽を仕事とする。もとより東京とて同じであるが、ここのは真面目な仕事であるから、一層歓楽が白熱する。考える暇など与えては、仕事にならぬ四苦八苦の策謀が、産業のように着実な火花を散らす。も早やこれはデカダンではない。殺気漲る手術室だ。


六月十日

 罷業はますます拡大している。しかし、もう皆忘れてしまったようだ。大火が続くと、傍に燃えている火の事など、誰も忘れてしまうようなものだ。


 フランスがソビエット化する事は、ヨーロッパにとって、一大事件に相違ない。しかし、ここは容易に染色するまい。それよりむしろ、全く反対の独逸の方が、フランスの先手を打って、ソビエット化する多くの条件を備えているように思われる。最右翼と最左翼は紙一重の差がある許りだ。一つは感情の壮烈、一つは理智の尖鋭。自由主義は、ぷすぷす矢を突き立てられる的となり、それ自体の混濁した鍛錬をもって、思想の母体を守護していく。私の最も注目したいのは押し揉れる、そのデカダンの行方である。ここにはまだ一度も吹き消されたことのない神火が、細々と燃えている。


六月十一日

 罷業の大火は、とうとうわれわれ見物の足もとにまで及んで来た。今日は食事に宿を出ると、モンパルナス一帯のレストランは、椅子の足を上向けてどの店も森閑としている。私同様食事に出て来た外人たちは、うろうろしながら笑っているだけだ。近所に白系露人ばかりで経営している食事場が、一つあるのを思い出し、そこも罷業するものかどうかと行ってみる。行くと果してここだけが店を開けている。しかし、窓には組合に加入している証明書を、今日に限って張り付けてある。しばらくして一団の罷業実行委員会が検べに来たが、窓の紙を見て何も云わずに通過した。ところが、店のカウンターの前には、良く見ると白系露人運動の寄附金箱が、軽そうにぶら下って傾いている。


 午後、ブリュヴァールから河を越え、オペラへ出て、マデレーヌの前をサントノレの方へ曲り、サンゼリゼーからカルチェルラタンまで歩いてみた。ほとんど巴里の中心を廻ってみたのだが、ホテルとカフェーとレストランは、どこも閉じて罷業である。夕食をとるのに困った揚句五六里も歩いたわけだが、頼みにして来たカルチェルラタンのイタリアの食事場も、主婦がにっこり笑って駄目だと云う。空腹だが仕方もない。ルクサンブールの公園の中へ這入り、冷たい鉄の椅子に腰かけ、暮れかかっていく空を見上げながら、東京のあれこれを考えていると、不意に婆さんが肩を叩いて、腰かけ料をくれと云う。眼の前でフロオベルの石像が空とぼけた顔をして、明日の天気を見つづけている。


六月十二日

 食事は出来るようになった。夜、岡本太郎君が友人の家を訪問するから、一緒に遊びに行こうと誘ってくれたので出かけてみる。行く先はトリスツァンツァラアの家だ。ツァラアはダダイズムの始祖、及び超現実派の宗家であり、山中散生氏の邦訳もある詩人。家はモンマルトルの上にあり、豪奢なものだ。テラスにいると、客が十一人も集って来る。女流詩人が四五人と、カイヨワと云う作家、及び彫刻家のジャコメッティ等である。岡本君は驚くべき流暢なフランス語でよく話す。殊に知名なフランス人その他の外人と、堂々と対等の交際をしているところは、若くして異国で一家をなしている、氏の力量人物を知るに余りある。


 集るフランス人の話はすべて罷業の話ばかりだ。殊に興味あるのは、罷業のために潰れる資本家を、政府が潰さぬように援助を与えつつ、労働者の罷業を進めていく難事なやりくりに関しての、一同の注目である。


 ピカソが左傾をしてバスティユ騒動の壁画を描くという話が、ひそひそ話の中に出る。これはパリー人の誰も知らぬ事だが、ピカソの友人の女流詩人が私の横にいて、この夜ツァラアに囁いていた話、嘘か真事か、私の知る限りではない。
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六月十七日

 パリー出発。ストラスブルグへ。東京からパリーまでは一人旅と云っても連れは多い。しかしこの度の五ヶ国の旅行は、私一人の旅立ちなので、何事が行くさきざきの国にあろうかと興味も多い。ストラスブルグまでの沿線は、フランスの中のことだから変りもないが、行く先き十二の国境は、今も昔も変りのない国々の関所である。薄白いフランスの土の色が、次第に鮭の肉のように赤くなって来る。赤松が多くなる、石炭が多くなる、牧場は工場に変って来る。


 午後七時、ストラスブルグ着。アルサスの首都――鶴が煙突の上から人間の子供を持って来るという、西洋の云い伝えは、この街が起りである。ドイツとフランスが取り合いをして来て、独仏戦争の永久の病源の地であるだけに、見渡したところ色彩は独仏混淆だ。ドイツとフランスの最も良いところばかりを取り入れているなら、ここはヨーロッパ第一の都というべきだが、筒井順慶のほらが峠の趣きなきにしも非ざれば、生き馬の眼を抜く早業もときどき感ぜられる。軍人はどこの国の軍人と雖も、この街へは降りられぬ。


 山脈を境として、地形から見れば、ここはドイツである。しかし、言葉はフランス語だ。料理はドイツ風だが、家は独仏入り乱れている。


 ここからベルギイの国境に至るまで、地下に一大市街が連っているとのことだ。ドイツからフランスへの侵入は、鼠一疋たりとも這入れぬように出来ているとも聞く。しかし、見たところ別に変りはない。


六月十八日

 ミュンヘン着。静かな街だがどこか底の方で大きな機械がごとごと動いているような街だ。ホテルも大きければ、部屋の鍵もまた大きい。水、甚だ美味し。翌朝、起きても街見物の興味さらに起らず。菩提樹の下蔭を追い、五六町歩いたばかりでホテルへ帰る。暑さ激し。ビールを飲んでみたが、僕にはキリンビールの方が少しばかり味良し。


六月十九日

 チロルへ出発。ミュンヘン一帯の駅では、プラットフォームで、慎しやかな婦人が、ビールの立飲みをやっている。男は丸坊主が多く、婦人は顔が赧い。このあたり、森林の美しさの一段と増すのは、あながち森自身のせいばかりでもない。


 ガルミッシ、パルテンキルヘンを過ぎ、ミッテンワルドの国境に近づくに従って、自然の変化と美しさも絶頂に達する。峨々たる灰藍色の山峰湧くが如し。額にまで迫る雪渓の氾濫。山と云わず、谷と云わず、花満ち溢れた牧場の連続。入れ代り立ち代り現れる、峻峰奇峰の無端の変貌。この世にかかる美しい高原があったのかと歎息するほどだ。しかも、それがどこまでも続くのである。


 あざみ、さふらん、黄色な小菊、乾草――大木は花の中から浮き上り、汽車は花の中を割って進む。氷河また花の中に流れ下る所に、先きを揃えた牧場の軟草幾十里となくつづいている。波打つ花の中を自転車に乗った娘が昂然として行く。全山これ大公園だ。この美しさは、行けども行けどもさらに尽きず、沼あり森あり、雪渓のまばゆさ、峰を廻る度に新たに現れ、窓いっぱいに拡がり近づく所、ミッテンワルドという。谷から霧湧き上り、眼下に古城が静かに沈んでいる。このあたりよりオーストリアに入る。


同日

 インスブルック着。この街はチロルの中心地である。西、南、北の三方より雪を冠った高山に抱かれ、僅に東方ウインの方に向って平野となる。インスブルックの街は自分の靴音が響き返って、気にかかるほどだ。自転車のチェーンの鳴るのもよく聞える。ヨーロッパ第一の勝地であるから、外人の旅客が多い。地の男の顔は猿に似ているが、女は山家の素朴な美しさを持ち、牧場の花をあしらった模様が、衣服によく似合う。雪渓より流れ下る水の美味さ。


 夜になると雨だ。連る山脈の雪線に電雷の閃めく美しさ。雨やみ、寝られず、寝静まった街へ出てベンチに一人腰かけ、噴水を眺めている。人一人通らず。山々の峰は近より、森々として物凄い。旅の寂しさはチロルの夜で尽きるが如し。夜中、眼が醒め、寝てみたり起きてみたりしているうちに、また雨が降って来る。


六月廿日

 ここの公園は小鳥でいっぱいだ。あちこちのベンチで人々は休んでいるが、物言うものが一人もない。地に垂れ下っている樹々の枝。その上に聳える氷河の峰々。落ちて来る鳥のふん。足もとで栗鼠と四十雀が遊んでいる。日光強し。空気清澄。こういう所では、何をして良いのか分らない。


 午後、山に登る。スイス、オーストリア、ドイツ、イタリヤの国境である。高山の波頭尽く雪を戴き、碧空に連る。このあたりの絵葉書には、山上はるかに他国の山々を眺め、泣き伏しているチロルの娘の絵が多い。下は花を満した牧場ばかり。そぞろに今さら夢二を追慕する。


 山上には鈴をつけた牛がいる。蜜蜂の羽音、雪の流れる水音、動く度に鳴る牛の鈴。――私の靴の下の雪は濁っているから、ここはそんなに高くはないのだろう。茶店の娘が私の横にくの字になり、細い字で手紙を書いている。スイスの空の方へ雲がゆるゆる流れて行く。山上、日に焦げたこの小娘と私とただ二人だ。鈴の音がいつまでもつづく。「あの牧場にサフランが咲くまで。」
 岸田国士氏の戯曲、チロルの秋には、こんな言葉もあったと思う。


 夜、雨になる。篠突く雨だ。


六月廿一日

 ウインへ出発。沿線、石灰岩の山多し。道路はために真白だ。風吹けば、窓へ吹き込むほこりが皆チョークの匂いがする。


 夜十時半ウイン着。ここは長く私の憧れていた都である。来て見ると、私は何の魅力もここから感じない。相すまぬと思うが少し悪口だ。しかし、それにしても、ハプスブルグ家代々の都であるから、衰えたとは云え、土の光りに脂のにじんだ後が歴然と感じられる。街々に並んだ彫刻にしても、パリーを押すのはこの都だ。殊にステファンドムのゴシックの壮麗さはノートルダムより設計に於て優れている。


 しかし、ヨーロッパの中央にあって、周囲が強国に包まれ、絶えず何事かの威厳をもってこれらを圧服していかなければならぬという勢力の浪費は、長くつづくものではない。この国の人々の顔を見ていると、威風堂々として、あたりを払う風貌が多い。黙々としていても眼光が鋭く、沈毅重厚、自ら他を圧するところがある。ところが、よく見ていると、それは何事でもないのだ。いざ事だとなると第一番に水の中へ沈んでしまいそうなところがある。駅弁の売子にしても、体躯に似合わず蚊の鳴くような声だ。しかし、老人に現れた品位の高さは、ウインの人々が第一等と思う。


六月廿二日

 ブダペストへ出発。オーストリアからハンガリアの野へかけて、雛芥子ひなげしが所嫌わず生えている。ダニユーブ河は雛芥子とともに太っていく。


 午後六時ブダペスト着。――ヨーロッパへ来てどこが一番面白かったかという話が出る度に、異口同音にブダペストと誰も云う。ここはブダとペストが河を挟んで合している街。ハンガリアの総人口八百万のうち、百六万人がこの都で生活している。ペストの平原に対してブダは対岸の緑樹鬱々とした丘陵である。この丘陵の下ダニューブの河岸半里の間に、高温の自然温泉が百二十もある。しかも市街の真ん中だ。この地の理想を一手にかね備えた街を各民族が取り合いしないという筈はない。二千年この方争奪の絶え間なき所以だ。


 ジンギスカンにとられ、トルコにとられ、オーストリアにとられ、いままたイタリアの手が八分まで延びている。ハンガリアの曠野は真紅の葵の花がシンボルだ。コンパスでヨーロッパに円を描くと、中心がブダペストの上に刺さる。海岸線を一つも持たず、兵力の集中をどちらの国境に向けて良いのかうろうろしなければならぬ民族というものは、その絶え間もなき悲しみの結果、生活の享楽に唯一の道を発見する。殺戮に次ぐ殺戮が、戦国時代の無教養を民衆に強いた日本のごとく、ここでは、無に代って慰楽の道が強いられたのだ。


六月廿四日

 夕月がダニューブ河の上にかかる。河岸でジプシイの一団が、ハンガリアの曠野の唄を弾く。一望千里の哀感胸に迫る。ダニューブ河のさざなみは、あれはハンガリアをとったウインの喜びだ。しかし、ここの漣は、圧制のもとに唸り、遠吠え、あきらめ、沈み、悵怏として悲しむ漣である。


六月廿五日

 日本を愛すること、ここの国民のごときはなかろう。ブダペストには、一町四方もあろうかと思われる大カフェーの名前にジャパンというのがある。


 感情の豊かなところ、リリシズムの横溢しているところ、ここのごときは、ヨーロッパにその比を見ず。しかも、パリーに負けじと、その市街の壮観、設備の整頓、道路の拡張、街路樹の美しさ、東京など面赤し。


 東京市庁に芸術家をもっと入れるが良いと思う。ここの街では、彫刻家の集団に無償で家を与えている。芸術家に金を与えずして文化の向上した国は、かつてどこにもないのである。


 外国人が世界を一周して、日本の京都と奈良に来ると、初めてほッと救われた気持ちになると云う。是は先日実験を終ってパリーに帰ったセリグマン氏の話である。


 国々の都市を廻っていると、街路樹の少い所からは、すぐ去りたくなるのが私の例だ。


 ブダペストの郊外の地中から、二千年前の遺跡が近年発見された。この遺跡はペルシャとギリシャとローマの混合であるが、往時の文化の高さを物語るもろもろの要素が、一見して感じられる。私はここの発掘場から、油差しを貰うことが出来た。日本人という理由で、特にさし上げると云う。


六月廿六日

 切符ではウインへ一度戻り、そこからベニスへ出るのだが、面倒なので飛行機に変更し、ベニスへと飛ぶ。しかし、飛行機でも一度ウインまで戻らねばならぬ。


 ハンガリアの野はどこまでも連続した錦のつづれ帯だ。その間を流れるダニューブの蛇行は、一人娘の気儘勝手な遊行のさま。廻りめぐるのびのびとした流れは、むすぼれ、ほどけ、廻環して出所を忘れた形である。


 ハンガリアの曠野の終る所、徐々にアルプス連山が迫って来る。雪を冠った山峰の牙は不意に機体の腹部をめがけて、競い上る。地の力の豊饒さ。行けども行けども窪みを抱いて盛り襲う雪の堆積。辷り流れる岩石の放射。深海の底のように黒々と澄み渡った渓谷の皺。雲はここでは船のようだ。


六月廿六日

 ベニス着。あるいは今日は廿五日かも知れず。――オーストリア、ハンガリイを通りベニスへ入るのは、最も良いと聞いた。私は偶然にこの通路を選んだのだが、高山と曠野ばかりの国から、急にイタリアの海へ出たのであるから印象の鮮明なのも無理はない。


「その夕、アドリアティックの海は菫色であった。」ダヌンチヨの小猫という短篇の書き出しは、こうだったと思う。なるほど、陽の輝いている間は、アドリアティックの海は竹色であり、夕暮れるに従って菫色に変って来る。一塊の土もない石畳ばかりのベニスの街の中には、濁らぬ深い水が、軒々に入り組んで静まっている。黒塗りの胴に、白銀の船首を飾った華奢なゴンドラは、ベニスの商人の豊かな日を偲ばしめる。なまめかしく、妖艶な舟だ。


 私のホテルのローヤル・ダニエルの広間はベルサイユの宮殿よりも美しい。海は窓の傍にあり、ホテルを包んで水路が深くサンマルコの寺の裏へ廻っている。サンマルコは、板垣鷹穂氏の「イタリアの寺院」の中で、三つの代表的な美しい寺の一つに上げられていたと思う。前の広場の鳩の密集している様は、浅草寺の比ではない。差し延ばす腕に、身を擦りよせてとまる鳩の群の暖かさ。


 夜になると、軒から軒にかかっている橋の下を、舞姫たちが歌いながら、ゴンドラを流して行く。その合唱は狭い建物の石壁と水とに響き合い、も早や姿も遠く消え失せている幾分間の後にも、なお間近に聞えて響いて来る。ここは街全体が一つの楽器に仕組まれて出来ているのだ。二千年前のピアノは、水ピアノであった。ベニスの街の設計者は、思うに、このロマンティックな楽器を頭に浮べたのにちがいあるまい。


六月廿七日

 今日はサンマルコの前で朝食をしていると、給仕がひそひそ声で、十五リラ出せば島めぐりの切符をやると云う。幸いと思い金を仕払うと、午後からの切符をくれたが、秘密と見えて、柱の影から出て来ては私の眺めている切符をナフキンの下へ隠し、次ぎには帽子の下へ隠す。


 島巡りは何という島か忘れたが、三つ四つも渡り廻ったと思う。ベニスの街は石畳ばかりで、樹木も草もないが、島は緑色豊かな南国だ。一つの島には硝子工場があった。他の一つには、純粋の古いイタリア人ばかりの生活があった。最後の一番遠方の島は、草の中に、朽ちた寺院があった。この寺院の中には、名も分らぬ多くの名画があり、仏像があったが、驚いたことには、窓のドアがどれも一枚の厚い、セメントのような石で出来ていることだ。この島には、生活の苦しみは、ベニスから押しよせては来ていなかった。明るい日光の中に葡萄が実り、花が乱れ、鶏がいる。ふと建物の窓から中を覗くと、婦人はみな気品豊かな顔をして、汚い衣をつけ、麻に刺繍をして黙っている。


六月廿八日

 ベニスの雨。――朝から細雨だ。午後ホテルを出て、停車場まで行かねばならぬのだが、ここは水路でタクシーが一つもない。蒸気に乗ったまでは良かったが、どこが停車場だか少しも分らず。


同日

 七時、フロウレンス着。日の暮れぬ間にホテルの周囲を歩いてみる。ここもタクシーが少く、街にふさわしい馬車が多い。街は店を閉めてしまった後なので、石壁ばかりのような気がするだけだ。私は疲れながら、汽車の中で買った弁当の鶏が忘れられず、しきりにまた鶏を探して歩く。


六月廿九日

 フロウレンスの街は丘陵に包まれた盆地にある。周囲の丘の頂上は、すべて寺院だ。緑樹豊かな中に遠望される寺院の美しさに、ともかくそこへと動かされ、タクシーをとる。イタリアの名画で、しばしば見た風景ばかりの連続である。いかなる名画も写生が基調をしているのだ。擦れ違う婦人たちにしても、フロウレンスの婦人は、ラファエロやチチアンの画中の人そっくりなのが多い。


 この地で生れたダヴィンチの、モナリザの絵は、パリーのルーブルで見たが、あのリザにしてからが、微笑に意味を見付けようと骨折った批評家たちの方が、買いかぶったにすぎぬ。ダヴィンチが、婦人の微笑から、意味を探求しようと努力する筈がないではないか。


 フロウレンスへ来て見て、私はパリーを一層確実に了解する事が出来たと思う。この地を中心として起ったイタリアのルネッサンスから百年遅れて侵入したパリーのルネッサンスは、総てフロウレンスの真似だったのだ。しかし、十七世紀になると、早やフロウレンスはパリーの真似をせずにはいられなかったのだ。フランス人は自身の古い伝統に、絶えず打ち勝つ新しい伝統の建設を忘れたことがなかった。これがイタリアの最後の美をさらに乗り越え、層々と並び起った新世紀の、文化の美を蒐集し創造し得たパリーの偉大な原因であろう。


 古い伝統を重んじること、こればかりが能ではない。フロウレンスの品位は、美女がいつの間にか年とった悲しみに似ている。われわれは、ただこれに敬意を表して去るばかりだ。


 フロウレンスの街は名画の洪水である。しかし、現実のフロウレンスは絵よりもはるかに美しい。何を好んで、博物館に入る必要があろうか。私はそれだけ時間があれば、街と丘とを馬車で馳け廻ろうと思う。


 ダンテの生れた所、ダヴィンチ、ボッカチオ、マキアベリ、ジオット、シマブエ、セリニ、皆この街で生れている。その他天才雲の如く現れたフロウレンス市中を流れるアルノの河岸を馬車で通る。丁度、ダンテがビアトリイチェを見た橋の上へかかって馬車をとめたが、橋の上には、ビアトリイチェも、今はお洒落な軍人と並んで歩いている。河は水が少しも動かない。沼のように森閑としたアルノ河は古雅な建物と雲とを映したまま、死んでいるかのようだ。波もなければ舟もなく、人もいない。馬車の蹄のかつかつと石を鳴る寂しさは、あたかも柩に釘を打つごとし。


 夜、再び馬車で通る。公園のマルモの樹間には、蛍がいっぱいだ。馭者は四辻の立像を指差し、くつくつ笑いながら、ジョージ・ワシントンと云う。なるほど、ワシントンの立像が、どう云うものだか、こんなところで光っている。私が笑うと馭者は一層げらげら笑って鞭を振る。


六月三十日

 出発に先立ち、博物館を廻ってみる。パリーで買ったイタリア名画の版画の本物は皆ここに並んでいる。しかし、版画というものは本物よりもどれも少しずつ良いものだ。鰯の缶詰が生きた鰯より時には味あるごとし。


同日

 午後五時ミラノ着。――予約しておいたホテル・レジナの切符の期間が切れているので、満員のため追い出され、ホテル・マルノへ移される。しかし、立つときには、金を払いにこちらへ来いと云う。


 山紫水明のミラノと云う。然しここには、水もなければ山もないおまけに樹木もない。


 パリーを出てから、旅行について私は一つの見識を持つようになった。それは、新しい街へ着くと同時に、荷物をホテルへ預け、何はともあれその街の公園まで歩くことだ。そこで暫く休むのである。そうすると、旅行の失望は無くなって来る。
 パルムの僧院に出て来そうな古城がある。水の枯れた堀を廻らせ、城壁高く、中には王公か囚人がいたにちがいないと想像させる煉瓦の城――私は沢山の城を見て来たが、このミラノ城は、最もおとぎ話の城に似ていて立派である。私は堀の鉄柵に身をよせかけ、高い城壁を見上げながら、疲労も忘れてしばらく夢想に耽った。鐘一つ鳴れば祖帰り、二つ鳴れば、無二に帰り、無三に帰る。――ロンドン塔のあの名描写は、少年の私には難解であったが、今は何となく馬鹿らしい。頭のない聳え立った円塔の上では、燕が蚊柱のように群り立って飛んでいる。


 公園からタクシーを拾い、スカラ座までと云う。スカラ座の横でタクシーが停ったが、門がどこも閉っている。仕方がないので、ホテルへ帰ろうとホテル・マルノまでと命じる。ところが、運転手は急に大きな声で叫び出して動かない。私にはさっぱり分らないので、ぼんやり顔を見ていると、何のことはない、そこがつまり、同時にホテル・マルノの前で停っていたのだ。


七月一日

 ミラノ出発。立つとき、ホテルの灰皿が気に入ったので、自分の廻って来たホテルの中では、ここのこの灰皿が一番良いと賞めてみた。それでは持って行ってくれと、すぐ紙に包んでくれる。外人に似合わぬと感心したので、二リラの礼を出す。ところが十リラくれと向うからの催促だ。万事この調子は、イタリアに限らず、いかなるときにもつきまとう。


 およそ隙間を見せたら最後、そこへは必ず常に何ものか喰い込んで来ているものだ。ところが、私などは隙間だらけだから、どこから手出しをして良いものか分らぬと見えて、うっかり外人もよって来ない。しかし、ときには、恐ろしく手の早い奴がいて、隙だと見たら何の躊躇もなく一撃のもとに飛びかかる。あッと云う間にもうやられてしまっている。こういう時には、税金と思って私は金を払う。


 イタリアからスイスへ入る国境のあたりはここがスイスじゃないかと間違うほど、山水の美が増して来る。しかし、一度シンプロンを越えてスイスへ這入ると、山岳の峻嶮、空気の清澄、氷河の豪宕、隔段の相違がある。さらに下り、モントルウの附近に来ると、その景観の玲瓏秀抜、自ら襟を正さしめるものがある。ここを通過し、レマンの古城を下に見下しつつ、湖水の沿岸をロザンヌに近づくに従って、頭は全く空虚になり、物事など考えず、ようやく旅の本格に這入って来る。山野の美、たけなわだ。あまりに優れた所というものは、何となく俗っぽい。これなくして美は本物ではないのだ。


 午後八時半、ロザンヌ着。さまざまな国を見て来たものだと思う。感想など湧き上る暇もない。思うにこれは、頭がいっぱい何かで詰ってしまったからだ。物というものは、中が空虚でなければ廻るものじゃないと老子は云ったが、私の空虚さは詰って空虚になったのだ。


 ロザンヌは小さなパリーに湖を置いたようなもの。胸突くような坂を登る毎に、横に平坦な大通りが増して来る。月が湖上にかかっているので、見降すと街がうるさい。


七月二日

 街を上へ登るに従って、汗が出て来る。下へ降るに従って足が冷え、くさめの数が増して来る。困った街だ。


 湖水は雨で曇っている。観台に咲く大輪の薔薇の上に氷河は次第に隠れていく。

さみだれや薔薇冴えまさる雲の中

 雨中、満庭の花みな動く中を去る。


 レマン湖を半周して、午後五時ジュネーブに着く。旅行の最後の地であるから、時計を買いたく、ホテル・ヴェレビュへ着くと、すぐ街へ出る。ジュネーブはホテルと時計屋ばかりのような街だ。ショウウインドに煙草を並べてあるから、煙草屋かと思うと、煙草の隅々に時計が並べてある。子供の玩具を売っているから玩具屋かと思って這入って行くと、玩具の下から高価な本物の時計がぞろぞろ出て来る。似せ物のピストルが玩具屋にあるようで、買う気にならず、専門の時計屋を探そうと街をぶらぶらして居たが、そんなものはさらにない。ここでは時計専門などとは馬鹿馬鹿しくて出来ぬと見える。


 ここの時計屋は、水中へ時計を十分ほど浸しておき、取り出してから、これこの通り停っちゃいないと云って売る。
 時計ほど公平なものは、この世にはない。それがこの地の最上の名物だということは、理由のない事じゃない。何んでも平和の会議はここだという事、――時計と平和の関係を考えることは、一見愚なようだが、地上最も風光明媚な土地が、誰からも守護せられ、永久の平和を保ち得られるという特権を受け、それを誇りとする人々の感謝と奉仕が、最も確実正確な時計を世に贈るという仕事――これがただ事であろうか。もし、このような暗合が無意味な事なら象徴というものは、何事でもないのだ。誰が平和に関してせっせと頭を使うものか。


七月三日

 夜十一時、パリー着。旅から帰る毎に深みのさらに増して来るのは、いつもながらパリーの不思議さだ。廻って来た五ヶ国の大小の都会が、例外なくパリーの真似を尽していたのは、あれは真似ではないのだと気がついた。ものは本格に近づけば近づくほど、軌道が一つになり、個性が無くなっていくのである。


 デカルトに始った都市国家の智的設計は、ヨーロッパから個性を奪ったのだ。この幾何学の勝利は、人心の中に於てでも、暴威を逞しくして近代に及んだ。人心もコンパスの両足に挟まれては動けないのだ。


 一度び罷業が起ると、道路が尽くの道路に連続しているように、労働の各部門を燃え進ませたパリー。コンコルドの広場が、あらゆるパリーの道路を吸収しているごとく、パリーの人心のあらゆる機能を収斂している金銭。――私はこういう街へ戻って来る度に心が静まりなお一層計り知れぬ深さを感じていく。この不思議さ。つまり、私はだんだん、個性という鈍重なものを失って来つつあるからだ。


 私もいつの間にか、物がその場に存在しているという事実の価値より、認めなくなって来たのであろう。私は自分への不信を最早ややめてしまっている。空虚な笑顔の美しさにとやこう叫ぶ意気はなくなった。


七月九日

 ポルザ協会主催の講演に出席する。講師はソルボンヌ大学の植物学者として有名な、ブラランゲ氏と私とただ二人だ。私は日本文学の基礎について話す。通訳は山田きく子女史だが、パリーの講演は話そのものよりも、聴衆の面前で、種々の質問攻めにあい、それに答えるのが難事だとのことだ。聴衆はどういう人々かよく分らぬが、見たところポルザ協会の会員が大部分らしい。協会の会長は前の文部大臣だが顧問の顔触にアインスタインやポール・ヴァレリイ、その他十人ほどの名が書いてある。


 話をすませて後、書記長が聴衆に向い、質問のある方はどうぞ、と云う。誰も質問するものはない。ただ私に握手をしに来てくれたものは、老人ばかりで、若い青年や婦入は、遠くの方からぼんやりとした、奇妙な顔で私を見ているきりである。そのうちに聴衆の中から演壇へ上って話し出したものがある。傍にいた人があれは有名な彫刻家だと教えてくれた。


七月十三日

 パリーは巴里祭の準備で賑やかだが、人に聞くと、毎年毎年この祭りはさびれていくとの事、今年などはひどく淋しいと云う。それにしても、人々は雨の中を踊り狂っている。明日がいよいよ祭りだ。今年は祭りの最中に、右翼と左翼の衝突が必ずあると皆待ち構えている。このごろは毎日ほど、右翼が弾圧を受けて警官に殴られているのを見る。ここの右翼は精神主義者が多い。三色旗をかかげて国歌を歌う者が解散を命ぜられるパリーは見るところ聞くところ、最早や昔日の面影などうせてしまった。夏だと云うのに、雨ばかりでひどく寒い。
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七月十三日夜

 夜オートイユの塩谷氏、大久保氏から招待あって行く。帝大の矢部教授も一緒である。
 ブローニュの森を突きぬけた郊外だが、このあたりは共産党の巣窟であるから、赤旗が立っている。夕食まで四人でサンクルーの森を散歩する。この森は一度拙作「ナポレオンと田虫」の中で書いた所だ。今、その本場を歩き、想像よりはるかに美しいのに驚く。先日、盛装の中に書いたジャルダン・ダグリマタションへも行ってみたが、そこは私の空想とあまり違わなかった。


 サンクルーの森は、広大な森林だ。他の森と違うところは、日の目を見せぬマロニエの大木が、整然と並んでいる庭園であることだ。その下にセーヌが幅広く流れているが、どういうものだか、コルクの栓が島をなして浮いている。


 夜になって、大久保氏の部屋で雑談中、上の部屋の松平男夫妻、鶴岡氏らが集り、談話一層賑う。この人達はそれぞれ祖国を愛し憂うる紳士達だ。折から夜の二時過ぎ、日蓮宗の儀式のように楽隊入りの提灯隊が長々と続いて来る。すべて共産党の行列だ。明日の巴里祭までこれがつづいていくのである。三時になって外へ出ると自動車がなくなっていて帰れない。松平氏が自身の自動車を運転して、遠方のラスパイユまで送らる。私はこういう親切で温雅な、しかも、教養ある貴族を今までに見たことがない。


七月十四日

、巴里祭――
 毎年この日は雨が降るそうだ。今日は空が晴れている。いつもは道路という道路は、踊り狂う人波で自動車も電車も通らないとの事だが、今年は、モンパルナス一帯常の日とどこも変りはない。


 ナシオンの広場へ群衆の祭りを見に行く。広場は赤旗と三色旗だ。その中へ、全国から集合して来た種々の団体が、それぞれの旗をさしかざし、陸続と行進して来る。この行進の中には、多くの女子や子供も混っている。見ていると、その数幾十万人とも知れず。各々右手を握って高く上げ、取り包む群衆と呼応しながら、インターナショナルとマルセーズの歌を合唱する。辻々には警官隊が銃を持って、闖入する右翼団体の防禦をしている。


 行進して来る群衆の頭上高く、レーニンやゴルキー、スターリンなどの大きな写真が、看板のように揺れて来る。これは共産党だ。次にはフロン・ポピュレーの上で、ジイドやマロウ、バルビュス、ロマンローラン等の写真が流れて来る。何の諷刺か、むかしの女王の真似をした山車も、幾台も続いたが、侍女に扮した醜い女は、しょんぼりつまらなそうに悄げている中で、女王ひとりにこにこ群衆に向って笑っている。


 先日私を招待してくれた文化擁護万国作家協会という長い文句の旗がすすんで来る。私は旅行の都合で出席出来なかったが、この人達も左翼に変ったのであろうか、あるいは、左翼でなくとも、この行進に加わっているのであろうか。旗の色はこの一群だけは真白だ。察するにこの団体は混合であろう。


 夜、シャンゼリゼーへ行く。ひどい雨だ。鉄甲を冠った警官隊が、要所要所を堅めているばかりで、何の事もない。すぐモンパルナスへ引き返す。ここでは、ざざ降りの中で、傘もささずに踊っている。


七月十五日

 このごろは一日の中に、五六度も雨の降るのが習慣である。借りて来た文藝春秋を読む。私の第二回の通信を読んでいるとパリーへ着いた当時の事が書いてある。あのころのひどく興奮して、あえいでいる様が、いろいろに思い出され、自分も高い峠を越したものだと、振り返る気持ちが強い。それにしても、先日の五ヶ国の一人旅行は、私に種々の実益を与えてくれた。大きな旅行は一人に限ると思う。万事万端、自分ですると云う事が、何物にも換え難く良いのだ。


七月十七日

 巴里祭の過ぎた後で、パリーに残っているものは馬鹿にされるという事だが、人のいなくなった街々は、互に顔を見合す気楽さで、手持無沙汰な感じである。
 金持の逍遥するフォッシュ通りから、シャンゼリゼー、バードブロウニュあたりには、身なりをかまわぬ人々が、何をして良いのか分らなそうに、うろうろして遊んでいる。このあたりのブルジョワは皆自動車で旅に出て、汽車には乗らぬということだ。海を渡るにも、そのまま自動車を船に乗せる事が出来るから、遠くアフリカの方にまで自動車旅行をする習慣があるそうだ。日曜などには、イギリスから一晩泊りで来ている自動車を、よくシャンゼリゼーあたりで見受けることのあるのも、つまりは、自動車を乗せる特別船の仕度があるからだ。日本で富豪になっても、たいした仕合せがあろうとは思えないが、ヨーロッパの富豪は、次から次へと新しい遊びを考案しつづけていくのである。


七月十八日

 部屋でひとり、中央公論の水上瀧太郎氏の相撲雑記を読んでいる。(私は相撲の記事を読むのが好きだが、この水上氏の雑記は非常に優れたものだと感心した)丁度読み終ろうとしている所へ、樋口君が一週間ぶりに這入って来て、いきなり、水上瀧太郎さんが死にましたねと云う。あまりに偶然の事とて、黙って驚いていると、脳溢血だとまた云う。この人の晩年飲み過ぎる苦しさを誰かに聞かされていたから、僕の父親もそうだったと、いろいろ感慨にふけりつつ、その日は外へ出て行った。途中で岡本太郎君に逢い、三人でオペラの方へ行く。車中、水上氏の死去の事を訊ねると、南部修太郎氏の死んだ事は知っているが、水上氏とはどんな人かと云う。話が一層混乱して死んだのは南部氏かと思う。この人なら私が来るとき、紹介状をくれた人だ。いったいどっちが死んだのか、二十分ほど迷っているうちに、突然、樋口君が真っ青になり、横腹を圧えたまま、マデレーヌの横のベンチへ倒れてしまった。だんだん死が傍へ近づいて来たような気がして、岡本君と二人でうろたえていると、このままに捨てておいてくれ、そうすると癒るのだと、樋口君が悲しげな声で云う。油汗がたらたら額から流れ出して、見るも苦しそうだ。すると、五六分もして、顔はまた常態に復し、さアもう行きましょうと云って樋口君から歩き出す。私は車に樋口君を乗せながら、これでは樋口君の云った水上氏の死の方が誤りだと思う。


 夜、山田きく子氏の招待に出る。沢山な御馳走の後、汐汲その他のレコードを聞く。歌舞伎を見たくて禁じ難し。


七月十九日

 日本へ帰る準備をする。荷物をまとめ、前に船で送るのだが、何となく楽しい。ぷすぷす槍襖の突き立っている中へ帰るのも、勇気は出るものだ。


七月廿日

 私の「失望の巴里」という第二信は、こちらの日本人間で問題を起したらしいが、この題は私のつけた題ではない。私の通信は、巴里そのものを書くのが目的ではなく、私という一個の自然人が、この高級な都会の中へ抛り出され、形成されてゆく心理の推移を、偽りなく眺めるのが目的である。


 小出楢重という画家は、日本を発ち、巴里へ着いたその翌日、もう帰ると云って、どんなに友人たちがひきとめても聞かず、翌日マルセーユまで引き返し、船に乗ろうとすると金をすられ、三日間マルセーユにとどまって帰っていったという。高浜虚子氏がやはりそうだ。私も同様に感じたが、峠を乗り越えると、更に次の峠が現れ幾つ峠を越して良いのか見極め難い。私はパリーにはリアリズムがないと思うにいたったが、日のたつに従って一層その感じを深めるばかりである。この都の小説をみるとよく分る。こんなところでは、評論以外に小説など成り立たぬ。


七月廿一日

 見ているとどの男も女に飽き飽きし、女は男に飽き飽きしている。それにも拘らず、どっちもどうすることも出来ず、おまけの積りで男は甘いことを女に云い、女はせっせとかせいでいるという都――つまり、美人だらけで美人という事が、女にとって、何の価値にもならぬ都というものは、恐らく世界でここだけだろう。同様に才能もここでは才能あるものばかりである。美人と才能の掃き溜の中では、世の人々の最も誇りとするこれらのものも何らの光彩も発揮しない。巴里の憂鬱というのはげらげら笑っていようと、黙りこくっていようと、何の変りもないことだ。本分を守ること、これがここでは一番に美しく貴くなるのは尤もである。


 心理が金銭とともに常に平衡を失わず、上下し左右する人間の行為――これを極度に発達した人間の美しさと感じることの出来るまでは、パリーの美しさは分り難い。金銭と人情は全く同様のものだという信念を得ることの難しさが、パリーの難解な第一歩だ。さらに、次の難解さは男女間の倫理である。


 ここでは貞操観念が失われているのではない。男が一人の女性を愛しつづける苦しさと、女が一人の男を愛する苦しさに堪えられず、どちらも楽しく、より長く相手を愛しつづけ得られるために、相互に愛人以外の男女を探すという手段。つまり互の中心を堅固にする方法として、他にそれぞれの植民地を造るヨーロッパのごときものだ。


七月廿二日

 スペインの反乱拡大し、昨日は負傷者三千人との報がある。旅行者は帰れないそうだ。私も行く予定であったのを延ばしたために事なきを得た。


七月廿三日

 ベルリンへ発つ飛行機の切符を買う。この夜、西條八十氏とぼたん屋で出逢う。アメリカを廻り、昨日パリーへ着いたばかりとの事である。
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七月廿四日

 九時起床。十時ブルジェ飛行場出発であるから、一時間より間がない。岡本太郎君とは三四日逢わないので私の急なベルリン行をまだ知らない。しかし、もう報らせる暇もない。このまま逢わずにパリーを去ろう。――
 こう思って荷物をしめているところへ、突如として岡本君が現れる。
「やあ、やっぱりそうだ。今ね、寝ていたら夢を見てね、あなたがもうベルリンへ行くと云って僕のところへ来たんですよ。僕びっくりして、飛び起きて、あわてて来たんだがやっぱりあたった。驚いたなア。」
 私も驚いた。別に行ったわけではないのだが少々気味悪くなる。
「今日は芥川さんの死んだ日だから、こりゃ、飛行機落ちるかもしれないぞ。」
「じゃ、やめなさい。」
「やめるか。」
 二人は笑いながら街を見降ろす。マロニエの葉もそろそろ枯葉を落としている。そこへ樋口君来る。少し遅れて西村君また来る。写真を撮ってもらって自動車に乗り、グランブルヴァールの飛行館へ行く。嵯峨善兵、井上清の両君、見送りに来てくれている。

 少し時間があるのでオペラの方へ最後の買物に一同と歩く。うす靄がかかっていて風もない。
「だんだん帰るのがいやになって来たね。」
 と云うと、そこがパリーの良さだと皆云う。パリーに長くいる人は帰るときには泣くそうだ。地球の上にこのような都会が一つあるのは人類の誇りであろう。

 朝十一時、パリー出発。飛行館のバスがいっぱいのため飛行場まで樋口君一人にしてもらう。
「あなたが帰られた後、どうしたら良いだろう。淋しくなるなあ。」
 と樋口君が飛行場で云う。
「早く君も日本へ帰りなさい。長くいちゃいかん。」と私は云う。
「ほんとに良いことを云って下さいました。私も早く帰ります。」
 樋口君は私より一船後でパリーへ来た人であるから、私にとっては同期生のようなものだ。飛行機に乗って窓から見ると樋口君が写真機を私の方へ向けている。しかし私の姿は見えないのであろう、一向に私の上げている手には気附かない。そのうちに漸くにッと笑って応じる。機のドアが閉る。すると、もう機体は空へ舞い上る。

 機は五百米の高度を保ってパリーをだんだん離れて行く。国境はどの辺りか全く分らない。森と畑の上をただ飛ぶだけだ。ヨーロッパの大戦で最も激しく殺戮し合った土地が今眼下にあるのだ。人間があらん限りの智慧を絞ると、あのような愚かなことをするということ――こう考えた以外に私には何の感懐も起って来ない。ただ私は、もう一度この上を飛ぶことが恐らくあるまいと思うにも拘らず、平然としている自分が怪しまれて来るだけだ。

 どこを飛ぼうと飛んでしまった以上は、一刻も早く目的地へ着きたいと思う心ばかりである。つまり、私は機に乗っている限りは鳥の心理になっているのだ。空中では人間は眠っていればそれで良いと見える。森、畑、同じものばかりだが、その他に見る物がないからときどき下界を眺めてみる。
「ああ、また覗いた。何と単調なものだろう。」
 河がある。しかし、どこの河だってかまやしない。――このように心はふてぶてしい限りになって、退屈な空中と闘いながら、どうかして眠ろうとするばかりだ。

 午後二時(時間表では十四時と書いてある)ケルンへ着く。平野の中央に尖塔を鋭く立てた煉瓦色の市街である。石炭の匂いが全市を包んでいる。地上の近代活動は空中の疲労をもって舞い降りて来る旅人には、どうしてこんなに憐れに見えるのであろう。フランスとは違いここは一瞥して活気を人々から感じるが、それも人間臭くてしばらくは私から別世界だ。人々の厳しい動きも眼のあたりに見ると、また早く機上の人となりたくなるのみだ。

 午後四時。赤黒い鱗の厚い怪竜が翼を拡げ、火を吹いて横わっている。それがベルリンだ。これにのた打ち廻られてはパリーもたまるまいと思う。

 ベルリン飛行場からルイットポオル・ストラッセまで自動車で行く。路の両側の建物はみな五階だ。重厚な石の建物はどれも同じで均衡がとれている。枝が頭に触れそうに垂れているリンデンの街路樹、葉の間を真直に伸びている砥のような路、建物の窓々には真紅のゲラニヤの花が咲き列っている。パリーの町の建物の中を歩いている時には、山の頂きを仰ぐような感じであったが、ここベルリンの建物の下では岩石の谷間を歩いているような感じである。町に起伏がなく何処まで行っても同様な町ばかりだ。町の何処かに見覚えの場所を決めておこうと思うが、これでは見覚えておく処がない。定めて出入を間違うことであろう。建物と建物の間に隙間が一つもないということは、人間の心に窓のないのと同じである。眼につくもの悉く石とリンデンの青葉、これがくる日もくる日も続いたなら人の眼は自ら人間の皮膚ばかりに刺さるようになるだろう。つまり、心の窓はここでは人間の肌だ。

 パリーの町ではわれわれの眼は市街の彫刻にさ迷い、商店の装飾に戯れ、マロニエの幹の優雅さに休息し、街々の起伏や人々の上に憩い得られた自由さがあった。しかし、此処では最初に一目見たもの許りが何処までも続くのである。このようになれば、人の心の鍛錬の仕方は忍耐許りとならざるを得ない。この市街の人々の心が団結のままに動くのも尤もだと思う。
 眼を使う必要のない町にいれば、勉強するには何よりである。町の清潔であるのも清潔にせずにはいられぬからだ。ここから思うと、日本の市街はその汚さのために何という豊富な自由さがあることだろう。


七月廿五日

 ルッツェンブルガア・ストラッセ三十三番地に宿泊す。ホテルが満員なので私の宿は女医の家だ。女主人はキエフの白系露人の貴族である。王朝時代の品位と善良さを持った五十過ぎの婦人であるが、無一文で革命の際に老母と息子二人を連れベルリンまで逃げて来た。刻苦精励医学を勉強し医者の免状をそれから取ろうとしたのだが、独乙では医者の免状は難しく、殊に女医は一層難事である。漸くパスした時には心身の疲労で卒倒したという。しかも、この一家はユダヤ人であるからドイツでも今はなかなか生活が困難だということである。この人の主人は現在もロシアにまだいるとのことであるが、革命以来別れてからは何の消息もなくどこにいるかも分らないとのことだ。日本では想像し難い事件である。


七月廿六日

 デペリッツのオリンピック村を訪問してから町を歩く。どの家の窓からも旗が下っている。日本人が多いというがあまり出会わない。晴れたと思うとすぐ雨だ。雨かと思うとまたすぐ晴れる。町々のショウウインドを覗いてみたが立止って眺めたいものは主として機械類である。ツオウ駅を中心とした町々の最も繁華な通りの飾りつけは一時パリーと同様にしたことがあるそうだが、禁じられてドイツ流に変ったとのことである。もしこれが東京で演ぜられたことであったなら、いかに政府は攻撃されたか分らない。むしろ日本でなら、日本流の飾りつけが禁止されそうな恐れがある。

 何もすることがないと思うと天気ばかりが気懸りなものだ。オリンピック見物で外国人が次第に殖えてきたようだ。七時以後の外国の町は何処の国でも静かであり人出がないが、今は此処は夜になる程群集で一杯になる。私は人種も一目で分るようになって来た。笑婦も脚の運びで見当がつく。ベルリン、パリー、ロンドンは笑婦に一脈の共通な悲しいところがある。しかし、このようなものも日本に来れば貴婦人に見えるだろう。


七月廿七日

 どこもかしこもこれ程掃除の行き届いた街はない。人間の心もこのように清潔になれば戦争をするより希望はなくなるのかもしれぬ。

 いったい地上で生活している限り、考えに考えて、考えぬいた者は何によって動くか。整理の限りを尽した人物は、団結するより方法はあるまい。団結のおもむくところ絶対の平和か戦争か、そのいずれか以外に動く筈はない。大戦に敗北したこの国では善悪の問題はも早や過ぎ去ったのだ。人間共通の問題を考えるというがごとき迂遠なことは、ここでは意味をなさぬのである。ここではカントとゲーテの出たのは百年も前のことだ。今は、ドイツではファッショ以外には赦されぬのであろう。負けてみなければ分らぬ心理については、勝ってばかりいるものに分らぬという不合理がある。


七月廿八日

 ウンテルデンリンデンを歩き、正金銀行を探してみたがよく分らない。すると、老婆が一人私の袖を曳いて、あなたは正金を探してるんだろう、正金ならそこを行って横へ曲れと教えてくれる。云われたままに横を廻ったがどの建物だかよく分らぬ。ところが、後ろからまだ私を見ていたものと見え、老婆がまた馳けて来て、
「そこそこ、そこを這入って三階へ上れ。」と云う。
 身なりのあまり美しくない老婆だが、一つの国で、ただ一度でも良いこのような親切さを受けると、大きな出来事に逢ったような気がするものだ。私はドイツがどのようなことをしようと、この老婆を思うと国の不評が私から遠のいていくのを感じる。私はこれを私の無知だとは思えない。国と国民とは違うという簡単なことがなかなか他人には通じぬものだ。私はパリーでは一度もこの老婆のような人には出逢わなかった。


七月廿九日

 パリーから十八の姪が来るというので女主人は嬉しそうだ。ベルリンの娘は十八ならもう大人と同じ事をしているが、パリーの姪はまだほんの子供ですよという。私の隣室に日日新聞のパリー特派員城戸又一氏夫妻がいる。城戸氏は社務に多忙なため、私は夫人に何から何までお世話を受く。まことによく気のつく頭の良い夫人である。フランス語も上手で感じの良い人だが、この人は先日パリーへ日本から来たばかりにも拘らず、パリーは長くいる気はしないがベルリンならいつまでだっていられると云う。
 これからヨーロッパに長くいようという人と、私のように無目的にぶらぶら遊びに来たものとは見方は自然に変るのであろう。


七月三十日

 次回のオリンピックが日本と決定する。逢う日本人は互に顔を見合せた形だ。どことなく誰もがっかりしている。
「どうするものかね。」
 と誰も彼もが云う。また喧嘩ばかりだろうと一人が云う。これから始まろうとするベルリンのオリンピックのことなど、今はどうでもよいという気持ちになって来る。

 日本人の集る街の食事場もまた一種異様な興奮の仕方である。
「いよいよ来たね。」
「うむ。」
 こういう会話の次には誰も黙って何も云わない。ヨーロッパ各国の視線が同時にこちらを向いたのだ。さて日本人はとわれわれは互に見合うのだが、このベルリンに匹敵する文化をどこから引き摺り出すのか、答えに詰った顔を撫で廻しているだけだ。脂汗でどの顔も赧黒く蒸せている。互に無茶苦茶に食欲を満すばかりだ。


七月三十一日

 嵯峨善兵君がパリーから来る。夜、ツオウ駅まで出て行く。街はますます雑踏して来る。カフェーに坐っていると、ボーイはわれわれの卓の上に日の丸の旗を置くという始末だ。外国の客たちは一斉にわれわれの方を見る。昨日から大舞台に出ているようで少々うるさい。しかし、各国人は各自紳士をもって繰り込んで来ているので、街は礼儀と節度と寛大とで飾られた祭りのようなものだ。オリンピックも運動そのものより、その期間の人々の平和な国際性と謙譲さが何よりだ。これを外面的な虚偽の美しさだと云うことは出来ぬ。目的と内容が空虚な運動であるが故に、精神の美しさもかくのごとく見事に咲くのだ。


八月一日

 オリンピック始まる。夜、スタジアムの様子を書く。城戸氏がこれをローマ字でタイプに打ち日本へ送ってくれる。四十分の後この文章は日本の机の上で私の本文のままに書き換えられているのである。しかし、昼間の疲労で私の頭は意の如くに動かない。書き終えて、城戸、北澤清、本田親男三君と附近のヴィクトリヤのテラスへ行く。中は踊りの最中だが、誰も中へも這入らず、人一人もいない寒さの増して来たテラスでビールを飲み、それぞれ帰る。ヴィクトリヤは俗称トリアと云い、代々日本人の一番世話になるところだとの事だ。日本人が一人女を抱えて闇の中へ消えていく。


八月二日

 日本選手の成績が悪いのでこれを文章に書く気がしない。書け書けと喧しい新聞社の催促を受けるが、ペンを持つ気さらになし。記者諸君は全く気の毒なほど多忙である。食事をする暇もないようだ。睡眠さえろくにしない。


八月三日

 買い物をして店を出ようとすると、店主の老婆がさようならの代りに、「ハイル・ヒットラア」と言う。フランスの老女は昔を絶えず追想して懐しがっていたのに反し、ここのは今を敬慕しているのだ。市民にとってはカイゼルの昔よりあるいは今の制度の方が良いのであろう。

 カイゼルはお洒落であったから街々の窓を装飾させ、月に一回街を巡視し、装飾の美麗な窓に賞金を与えたとの事である。今もなおゲラニヤの花の咲き競っている風景はカイゼルの名残である。帝王の習癖も一つは市民の習慣となって後世に伝わるのだ。


八月四日

 パリーより宿の主婦の姪が来る。競技場に同道を頼まれたので案内する。十八のパリーの少女と一緒に一日を暮したことは初めてだ。この娘はフランス人らしい装いで軽やかに美しい。しかし、運動に関しては私よりも無知である。
 英、独、仏、日、これらの四ヶ国の中、最も運動の選手に憧れを持つのは日本であろう。日本選手の多くは学生であるのに反し、他国の選手の多くは商人だからである。しかし、ドイツの女子の選手は、勝敗によって嫁入りの結果に甚大なる影響を及ぼすとの事である。ドイツ女子軍の成績抜群なる所以も想像に難くない。


八月五日

 前大毎ベルリン特派員の大塚虎雄氏が隠れた馬占山を見破り、これを捕えて初めて彼の生死を明かにした支那料理店へ夕食をとりに行く。この部屋ですよ。と城戸氏は言う。見ると汚い料理店だ。料理の味も不味い。壁は赤く書かれた竹の模様の金粉も書割のようで、叩けばぼこぼこ張子の音を立てそうな粗末なものだ。支那人もここへは来ていない。馬占山の生活もここでは常人と変らなかったのであろう。本国を逃がれた東洋人はいずれもヨーロッパの文化に対して批判を失うのが常である。果してそのようにわれわれに誇り得るものがないのであろうか。われわれは尽くの自国の文化を軽蔑せずには存在の可能性がないのであろうか。

 私は東洋三千年の歴史の価値を無駄なものだとは思わぬ。この価値を認めるものをさして日本の知識階級は同情する。日本の近代知性にはびこる色彩はこの部屋の竹の書割の粗末な金粉に似て浮き上って見えて来る。しかし、それにも私は失望しない。


八月六日

 日本へ帰る道をアメリカにしようかソビエットにしようかと迷う。二者撰一の難関に立てばおのれを動かす他の力に従って傾こうと私は決心する。このようなときに神が現れるのだ。私は先ず何より私の神を見たい。全く空しい気持ちになって自然力に従う場合が今だと思う。どの方向から私を東西に動かして来るか。


八月七日

 私は今は全く空虚である。自分の通りたい意志はアメリカにもなくソビエットにもない。私の感じ得られることは、出来得る限り、感じてしまった。膨れ切った袋のような自分はただ外界から襲って来る力を信ずるだけだ。私には人々の批判も言葉も今は全く無益である。雨が降ったかと思うとすぐまた天気だ。私にとっては、今日はレインコートを持って出ようかどうしようかを考えるのが最大の私の関心事になって来た。街々を歩いても足の向く方へ歩いているだけである。今日のコーヒー一杯飲めれば世の中がどうなろうとかまやしないと、このように言ったドストエフスキイのベルリンに於ける心理も、何も珍らしいことではない。

 ドストエフスキイはここで毎日賭博をした。私がレインコートを持って出ようかどうしようかと、必死に考えているのとどこが違うのか。


八月八日

 この地の博物館さえまだ私は見ていない。私はベルリンの歴史よりソセージの美味なのを一つ食べあてれば、それで心は満足しきって煙草を吹かしている。このように空しい心の外では、今やオリンピックが頂上へと奔騰をつづけている。

「どうです、アメリカを廻られますか、ソビエットにしますか。」と城戸氏は訊ねる。
「さア、僕も知らんのですよ。どっちになるのかそれが僕のオリンピックというところです。」
 城戸氏は苦笑するばかりだ。
 一人ぶらぶら街を歩いていると村社に逢う。美しい眼だ。


八月九日

 夜になって突然マラソンの映画を日本へ持って帰ってくれないかと頼まれる。賽の目が出たのだ。これに従うことにする。

 ホテル、アドロンで私の送別会をしてくれる。このホテルはオリンピック世界聯合委員会の本部である。ベルリン第一のホテルだとのことであるが、どことなく大劇場の壮麗さだ。食事の途中私に電話がある。長いホールを通り電話に出ると脇村氏からだ。氏は石油研究のためロンドンに滞在中の学者であるが、大森義太郎氏の紹介に預り、今初めてベルリンで逢う。
 送別会後、脇村氏を待って二人でウンテルデンリンデンを通り、チヤガーデンを歩く。この公園は菩提樹の大木鬱蒼として昼なお暗き所である。そこでビールを飲みつつ英国の話を聞く。脇村氏は篤実温厚な人、学者の臭味少しもない。


八月十日

 シベリヤを廻る準備のため、城戸夫人と二人で買物に街へ出る。ヨーロッパも今日一日で最後になるのだ。しかし飽きたということは恐ろしい。私は何の未練もも早やヨーロッパには感じない。私はヨーロッパを知ったか知らぬか反問さえもしないのだ。しかし見ただけのものは確かに見た。私は眼にしたどこ一つとして忘れていない。私はパリーの屋根に生えていた草の陰影まで明瞭に覚えている。今にして私は私の近眼でなかったことを幸いと思う。ただこれの表現が困難なだけである。

 それにしても私は人間の頭脳というものが、かくも膨大な風景をその組織の中に入れ得られるということに驚きを感じる。私は人間の頭に驚いているのだ。このような驚異は私にはかつてなかったことである。記憶が複雑になれば人間の行為もそれに従って複雑になるのは必定だ。私は日本に帰れば、この記憶をどのように仕舞い隠して言葉を人々に言わねばならぬか、も早やここまで来れば眼を瞑るより仕方がない。

 表現というものは自分の頭に浮ぶ幾万分の一を表現するものか誰も計ったものはない。文学者の技術はこれを他人より二三倍の度で多く表現するだけにすぎぬ。

 自然力、すなわち物理を人々は社会現象という。世のすべては一つにかかってこれのみの表現である。しかし、人々の頭はこれより幾層倍の精彩を増して自己を取り包む物理の自然さを見守っていることか。
「あのような豪い人が何ぜあのようなつまらぬことを言うのであろうか。」
 という青年の疑問も、所詮は人々の自然科学に対する疑問である。自然科学は人の頭という生理に対してどれほど無力になり得られるかという疑問、――これが現代の最高の疑問である。すべての社会現象はこの疑問の中を彷徨してはてしない運命をたどっている。この暗中を貫き進んで輝いているのは今はベルグソンだ。思想界に於て彼に及ぶものなき現代知性の明るさこそ、われわれの近代世界を眺め廻し得る可能の眼だ。しかも、この眼が精神力に於て、心霊界にまで進んで来たということは、ヨーロッパの知性と論理がついに東洋に廻って来たということだ。

 しかし、現代東洋の知識とは、これとは全く相反した唯物主義者の知識である。彼らはヨーロッパの論理以外のものを世界の知性界から退けようと努力する。知識の換算率はいつもその国民の最高の部分を持ち合わして表を造る。このとき東洋人は、自身の歴史を抛棄する大胆さをもってヨーロッパに迫るのだ。ここに直感がある。このわれを忘れた直感力の行衛こそ私の興味ある的だ。


八月十一日

 夜十一時ベルリン、ツオウ駅出発。――汽車が動き出すと突然五十過ぎの日本人が一人這入って来る。好人物らしい紳士である。
「私はこういうものです。これから日本まで帰るのですが、この汽車には日本人があなたと私と二人よりいませんから、よろしくお頼みします。」という。
 大山氏、この人と私はこれから東京まで行くのである。オリンピックの水泳が後まだ四日も残っているとき、日本へ帰ろうという変り者だ。
 雑談のうち、南米から廻って来た貿易商人で、兼エンジニアだと判明する。大山氏は言う。
「私は今新聞からフィルムを托されましてね。満洲里まで持っていってくれというのですよ。ところが、昨日、日日新聞の人から手紙が来まして、フィルムを持っていってくれと同じことを頼まれたものですから、日日のだとばかり思っていたら、今見ると朝日のだ。何んだか分らないですよ。しかし、まア、どっちだっていいやと思って、持ってるんですが、何を撮ってあるのか見ましょうか。厳重に封がしてあるんですよ。」
「日日のフィルムは僕が持ってますよ。」
 と私は言ってみた。
「へえ、あなたが。何んだかますます分らなくなった。どうです。一つこっそり取り変えっこしときましょうか。」
 このように暢気な人だ。マラソンと言えば両社にとっては、オリンピック最大のフィルムである。実は私と大山氏も共にシベリヤ中を競走しなければならぬのだが、同一の汽車の中ではそれも出来ぬ。


八月十二日

 まだ夜も明けないころ突然私の部屋を叩くものがある。ドイツとポーランドの国境だ。監督官が這入って来て所持金を検べる。マルクは一切持ち出し禁止である。午前三時ごろであろう。再び眠る。
 眼を醒して窓から景色を眺める。朝の九時ごろだ。いつの間にかポーランドの奥へ這入っていると見えて、雨の降っているワルシャワへ着く。どことなく濃尾の平原にある街のようだ。錆びたレールの間に草が生えている。

 牧場がつづく。ここの牧場は草が軟かそうだ。ときどき鶴が草の中に降りている。人里離れた森、林、うち捨てられた汚い草原が湿ったまま起伏もない。草の中に汽車を眺めて立っている少女の眼の色も次第に青さを増していく。曇った空の下で、ところどころに沼を抱いてどこまでも続いている草原というものは陰鬱なものだ。私は電柱が一本野の中に抜き忘れられている淋しい風景を見ながらふとここから出たショパンのことを考えた。この国の中には、何か天才を生む忘我の怠惰さがあるのにちがいない。

「文化が低いとこんなに憐れに見えるものかな。」と大山氏は私に云う。
 この国の娘は男子と一度同衾すると、宗教上の鉄則として、いかなることがあろうともその者と結婚しなければならぬ。しかし、結婚した人妻は春婦のように貞操観念を捨てるのが常態だと、この国に長く住んだ人が私に話したことがある。またある他の人は、ポーランドほど美人の多い国はないと云ったこともある。

 私はパリーでポーランドの若い美しい婦人とよく話したことがある。この婦人に私はお国の人は数学の天才が多いそうですねと訊くと、「たったそれより何も無いんですもの」と答えたのを覚えている。私はそのとき、自国のことは、たとえどんなに謙遜しても悪く云うものではないと思った。私にはそれ以来ポーランドのその婦人が美しく見えなくなった。

 私は自分の国の特長を愛しない人間の偉大さというものを想像出来ない。私はパリーでドイツから追われたベルリンの共産党の婦人と知合いになったことがある。この婦人にあなたはどこが一番好きかと訊ねたら、「そりゃ、やはりベルリンですわ」と答えたことがある。

 日本の一番非文化的なところは、知識階級の中に日本を嫌う人間の多いことだ。私は何より日本にとって重要なものは自信だと思う。

 朝眼を醒してから午後の四時頃まで、窓から見える風景は湿気のある草原ばかりだ。恐らくポーランドは国内いたる所これと同じであろう。私は生涯このような国で生活している人間の心を考えると、婦人の貞操観念のなくなるのも尤もと思う。ここには数学より何もないと云うことも了解するに難くはない。この単調さ、しかもこれは恐るべき虚無の単調さだ。この単調な平面ばかりの地上では、人々は虚無そのものであるところの数学と格闘する以外は、心を使う手段がないのである。数学か意味のない音楽か。人々はこのどちらかへ傾かねば心を支える生活は不可能なのだ。


 しだいに落葉松が多くなる。午後五時半、ロシアの国境へ這入る。私の傍にいる二人のドイツ人の外交官は、不安そうな眼で国境を眺めている。国境の駅からは鎌と槌とを打ち違えた紋章が鮮かに浮いて来る。
 これがソビエットかと私は思う。白樺がだんだんと増して来る。原始的な野の緑の色が濃くなって来る。沿線の人々の顔色には自信と思想が加わってヨーロッパから来たわれわれの年老いた国際列車を無意味な風のように眺めている。あたりの風景は、太古の森林地帯にいきなり近代科学の流れ込んだ突飛さだ。その中で落ちつき払っている人々の様子は、も早や再び家へは戻れぬピクニックの光景である。丸木を積み重ねた小舎のような家にも、簡素な満足に浸っているのであろうか、静かな諦念と笑顔を見せぬ一味の清新な憂鬱さが空気の中に漂っている。


 午後六時、ネゴレエ着。われわれはここで汽車の乗り換えだ。旅券もここで取り上げられる。荷物の検査も厳重だ。ドルもルーブルに十枚替える。金銭の換算率――これこそ世界の平和を乱す曲者だ。もしこの換算率に変化がなければ世界はどんなに幸福であろうか。世界の民族の一切の心理もすべてこの中に含まれているのである。数学が天文学に使用されることと、金銭の換算率に使用されることとの差は、天と地との相違である。地獄と極楽との違いである。世のすべての知性の努力は換算率を無くすることに使用されているのだが、何んと人間の知性は無駄な努力に費されていることであろうか。私はロシアの茫々たる平原の天と地を眺め、今さら換算率の不思議な性格を思い描いた。世界のすべての歴史――人間が殺し合い、信じ合い、憎み合った地上の歴史は、ことごとくこの換算率から一歩も出ることが出来ないのだ。あらゆる思想もまた同様にここから発言の権利を失うのだ。

 私が日本人であるということ、これだけは私はどうしても疑えぬ。これだけが私にとって唯一の真実であるということを信じることの難しさ。これがつまり換算率の不思議さを感じることの難しさだ。このあたりで、祖国という言葉を、まだ一度も自分の国の国境さえ見たことのない日本人に聞かしてみたい。四面海をもって包まれている日本人の欠陥の一つは、確かに祖国という言葉の不思議な戦慄を知らぬことだ。


 汽車を乗り換える。深緑色の部屋だ。見たところ古風なシルクハットの裏側を覗いているようだ。これが私を日本まで連れて行ってくれるのである。定めしぎしぎし鳴ることであろう。私は私の日本にいる友人たちのことをふと思った。これらの親愛な、しかも私にとっては、私が友人となり得たことのために、世の無上の光栄と私に思わしめる賢明な人々も、私の感じて来たことも見てくれぬという惨忍な行為をつづけてくれるのだ。私はこれらの人々にいかなることを報告するのであろうか。私の友人たちはそれぞれ私を得手勝手に想像するであろう。

 私は今は無感覚な気持ちでソビエットの平原を眺めている。何故かと云うなら、これは日本ではないからだ。私にとってロシアの平原の美しさは、ただ美しさにすぎぬ。共産主義、それは現在の私にとっては何事でもないのだ。私には日本を愛する以外に今は何もないと見える。

 愛することの喜ばしさ。これこそ生活だ。私は日本のことを思うと胸がどきどきしてならぬ。祖国という言葉の肉感を感じたことのない人々は定めし私のこの愛情をファッショと云って攻撃するであろう。しかしそれは必ず間違っている。私は人々にいきどおりを感じさせねばならぬ感傷を持ってはいない。しかし私は攻撃に合おう。私は私の胸を貫くどのような弾丸をも抜き取る術を覚えている。

 夜、九時、アンドレ・ジイドに食堂で逢う。


八月十三日

 晴。ジイドにまた朝の食堂で逢う。

 ロシアは平原ばかりである。日本の幾十倍の平原の連続。これがみな草ばかりだ。荒涼とした草の奇怪さ。私は草ほど人を愚かに見下げているものはないという気になって来た。どのような高度の文化も草には敵うものではない。自然というものはロシアでなければ見られない。ここには技巧は皆無である。技巧の皆無という平原は日本人の頭には浮びようがない。私はさながら馬鹿のようにきょとんとしているだけだ。

 ロシア文学の尨大さは自国のこの草と競争しているようなものだ。ここでは尨大の外何があるのか。人間が地上に立って望み得られる視野は六哩四方だ。ところがここでは、森と草原を含んだ六哩四方の空間が坦々としてどこまでも走るのだ。


 午前十一時、モスコウ着。

 モスコウの街には河を中心としてなだらかな起伏がある。大草原のただ中の、ここに一つの街を造った人々も、最初は必ずこの地の起伏と水に心をひかれたからであろう。一つの小さな起伏も、この平原の人々にとっては人間らしい唯一の楽しい変化である。

 白濁した河の向うの塵埃の多い淡褐色の丘の上に、金色に塗られた丸いクレムリンのドウムが見える。ここの市民は樹木の愛がないのであろうか。ひょろひょろした痩せた街路樹も名ばかりだ。平原に森林を多く持つ住民にとっては、街に樹木を繁茂させる工夫など愚かなことなのであろう。たしかにモスコウという街は、森林の真ん中にある街である以上、ここだけはせめて樹を植えたくないにちがいない。つまり、ロシアの美しい自然の中で、最も汚いところがモスコウというわけだ。これは日本の東京も同様である。

 街に土木工事の多いのも東京と匹敵している。この二つの国は今は新築の最中である。工事の進行上邪魔するものを片っ端からり倒す。

 伝統に論理を持たなかったということも、モスコウと東京とはまた似ている。伝統に論理のない限りは何をどこから取り入れようと遠慮は不用だ。自国の文化をヨーロッパと均等にする必要も警戒もまた不用である。やるからには、それ以上にしなければ新興の意義はない。

 クレムリンの建築は赤黒い刺繍を見ているようで奇怪な面の感じである。これを包んだ赤い広場の周囲一帯はアメリカ式の建築だ。モスコウの銀座を歩く。なるほど、ここは労働者の国だったのだと気がつく。国々を廻っていると、いつの間にか国の制度のことなどは忘れてしまっているのである。全く空虚な眼で見廻して受ける感じをさえ、そのままに書き得られぬという不便さ――ここの銀座には商店もカフェーもないのと同様だ。そんなものは不用なのだ。街を歩いている沢山な人々も逍遥しているのではない。ここでは街とは人が流れているだけである。勇壮活溌だと云ってみても、もしこれがのらくらされてみれば、――そのように考えると、私には人間の慾望というものの力強さが、どうして人間を滅ぼさぬのかということも分って来た。

 私は商店のない街をここで初めて見ることが出来たのだ。商店が市街の最大の装飾となっているヨーロッパの街々に比べて、今さらモスコウの単純素朴なことに驚いても始まらぬ。ここでは人々が楽しもうと思えば郊外の森林へ行くのである。

 レーニンの廟の前には銃剣の番兵が立っている。廟は拭き磨かれたような赤い大理石の方形であるが、今日は休日で中へ這入れない。世界第一の大ホテルとソビエットの自称するホテルへ行く。まだ全部出来上ってはいないが、何となく中は市庁という感じだ。

 私はパリーでソビエットの活動写真を多く見た。この国の軍備の充実している有様は宣伝のみではないのであろう。この国と軍備の競争をしなければならぬ国の困難さから、不思議に軍備景気の風の吹き起るのは、人々意想外の実況であろう。現実の混乱もここまで来れば、思想とて混乱せずには通用しないのだ。

 論理さえ守っていればそれで良いという信念の薄弱さは、実行の不可能ということだ。実行せざる信念の高貴さは、今は何ものをも悪罵せずにはおれぬという軽薄さにさえ変じて来ている。しかも、この軽薄なものが、誰よりも物事を考えているということ――も早や人々迷わずして此の世の中には生きられない。

 ロシアでは青年と乙女との交遊が厳格になって来た。男女七歳にして席を同じゅうせずというのは、今はロシアのことになりつつある。

 モスコウの街を歩いて感じる第一のことは、なぜ人々がこのように憂鬱な顔をしているのかということだ。これは人種の伝統が限りもない巨大な草の中から這い上って来たからであろうと思う。チェホフの桜の園で、桜の木の切り倒される悲しさは日本で同一の木を切り倒す悲しさとは、その質が根本から違っている。私はロシアの民族がよくこの草原の中で今まで忍耐して来たものだと感服した。山あり谷あり川あり野ある変化の上に、四季の花を満し、風月の優雅さに溺れ得られる日本の庭から、ドストエフスキイもトルストイも想像は出来ない。私は日本の青年たちに一番見せたいものは、パリーの文化とロシアの草である。ロシアの草を見ていると私は反対に、突拍子もなく、カントの純粋理性批判を感じる。あの茫漠とした精神の広野を感じる。

 日本人は日本を喜んで良いと思う。ただ喜びさえすれば救われるという有難い条件が、日本には眼を上げただけで満ちているのだ。
 お前は労働者と農民の苦しさを知らぬのだと人々は云うであろう。しかし、それはどこの国でも同じことだ。問題は別である。


 午後三時、モスコウを出発する。着いた駅とは違った駅だが、汽車は同じだ。再び草の中を汽車は走る。森林が又つづく。しかも、地の起伏が何もない。


八月十四日

 草原、森林、白樺の連続。それも樹木という樹木はどれも真直ぐだ。
 二畳敷ほどの四角い部屋が私のコンパートメントだが、下のベッドを大山氏が占め、私のはそれと直角をなした上の吊りベッドだ。そこに寝ているとときどき振り落されそうで眼が醒める。食堂の食物はそんなに悪くはない。しかし、それよりシベリアがこれから見られるということが何よりの楽しみだ。
 風景は前日と同様白樺と落葉松ばかりだ。白樺というものは沢山につづくと樹木には見えず、しなやかな優しい生物のように美しく見えて来る。

 よくもこのように樹木がどれも辛抱強く、真直ぐに立つことが出来たものだと思う。一度曲りくねった樹を見たい。ここでは曲っている樹があれば、倒れているのだ。このようになると、駅に売っている丸焼の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が不思議に生き生きと眼を奪って来る。

 ウラル山脈にかかる。しかし、山脈といえども平坦な草原とどこも違わない。


八月十六日

 平原がつづく。草はだんだん短くなる。
「こりゃ、アルゼンチンにも、アメリカにも、こんなところはありませんよ。」
 と大山氏は驚歎して云う。私は線路の傍に細々とついている一条の路を眺め、ここをドストエフスキイが橇に乗って流されて来たのかと見詰めているばかりだ。


 大海の真ん中に出て水平線に取り包まれたときとどこも変らぬ地平線だ。それが起きている限りどちらを向いてもつづいていく。

 私はパリーにいるとき、人間があまりいろいろの事をしすぎた悲しさを感じた。しかし、ここではまだ人間が何もしていない悲しさを感じる。
「これは、どうじゃ、まアまア広いの広くないのと云ったって、話にならぬ。」
 と大山氏は云う。私は語ることはもう尽きた。私はどんなに誇張をしようとも、誇張の威力というもののないところを初めて地上で見た思いに打たれている。
「虚無」
 こう云ってみて、私は私の感じていた今までの虚無に顔が赧らんで来るのを覚える。地平線のはるか向うのぼッとした薄明りを見ていると、ラスコオルニコフとソウニャが物も云わずに立っているところが浮んで来る。


 日本の虚無というのはある限りの知力で探し廻り、ようやくおのれの馬鹿さに気附くことだが、しかし、ここでは眼のあたり虚無以外には何もないのだ。

 ところどころに畑はある。しかし、それも指でひっ痒いたようなものだ。


八月十七日

 この茫々としたロシアが軍備を拡張したときの恐ろしさ――しかし、それは不可能だ。人間がこんな広大もない自然を支配出来るものではない。出来たとしたところでただ僅に一本の鉄道だ。ここでは鉄道だけが国である。この鉄道という筋肉が不随意筋を動かしたと仮定しても、それは知れている。私は何も軽蔑しているのではない。自然に対する人間の無力さを感じているのみだ。

 時計が正確に午前の九時をさしているとき、列車内の現実は午後の三時ごろである。もう夕刻近いのだ。このあたりまではモスコウ以来の時間をそのまま訂正せずに使って来たからだ。
 これを訂正して世界公認の時間にすると、さまざまな故障が生じて来ると同時にそんな必要のあるほど人間がいないのだ。


 黒い土の上に駅はちょこちょこと沢山ある。どれも汚く周囲の人家も村とは云い難い部落である。しかし、未婚の男女の厳格さはどの駅からも感じられる。淫らなところがどこにもない。私たちの汽車が着くと手に手に卵や牛乳を持った老婆やキルギスの娘が、人家の方から馳けて来る。中には丸焼の鳥の足を提げて来るのもある。

 駅のプラットフォムに沢山な労働者が塊って、誰も動かず蹲んだまま汽車を見ている。私は近づいてその中の一人の老人に、ドイツから持って来た良い煙草を一本出すと、老人は手も出さなければ笑いもしない。やむなく煙草を老人の指に触れるまで差し出すと、初めてそれをただ指先に挟んだだけだ。思想がこれ程頭に滲み渡っているのであろうか。これは迷い子になった誇りであろうか。


 四日に一度より通らぬ国際列車であるから、村の者は総出で駅に集っている。どの駅のプラットも賑やかだ。誰も嬉しさを押し隠した誇りの表情をもっている。汽車から出て来たヨーロッパ人はこの中を歩くのだが、文化の誇りと地方人の思想の誇りが互に微妙な視線を交して短い祭りを惜しんでいる。果しのない地平に包まれた小さな祭り。思想も金銭も、愛情もみなここで終りである。知性は祈りあるだけだ。その他のことは私は何ももう知らない。私はこの向うに、雪を掘ると五千年前のマンモス象が、いまだにナイフで肉が切れるという肉をもって掘り出されているということを知っているだけだ。


 駅毎にアメリカの新婚夫婦が写真を撮っている。他の国の者はみな禁止だが、この夫婦だけには黙許されている。ベルリンから日本へ外交文書を持って行くドイツ人の外交官二人は、紐で結えた大きな鞄を食堂へ行くにも傍を放さず持って行く。
「それは何んですか。」
 と大山氏が訊く。
「これは日本にとっちゃ大事な大事な物ですよ。」
 と云って二人が笑う。

 パリーへ向って行く国際列車が停っている。私の列車とその列車の間三尺ほどの間が時ならぬ人で賑う。一人日本人が混っていて傍へよって来るとお辞儀をして、
「今あちらで受け承りましたが、どうも御苦労でございました。私はこれからワルシャワへ行く外務省の者です。」
 との挨拶がある。この人も二人がかりで外交文書を持って行くのだが、一人は傍から放れることは出来ないから、列車の中にいるとのことだ。大山氏がそれをドイツの外交官に話すと、ともに大笑いとなる。

 これこそ大切なものだと見せびらかしてしまうと、も早やそれだけは誰も盗み出そうとはしないのだ。

 われわれのボーイは大山氏と私とが部屋の中で話をしていても、外に立って聞いている。夜は一切外が覗けない。しかし、後二日で満洲里へ着く。


 いったいここはどこの国だ、とこのような反問が出て来ても、別に不自然ではないと思われる世界が拡がりつづける。もう私は空の広さに驚きなんか感じない。心はさっぱりしてしまった。


八月十八日

 バイカル湖にかかって来る。山がだんだん多くなる。ベルリン以来山らしいものを見たのは初めてだ。しかし、それもまだ山とは云い難い。それにしてもこんなに山がなくとも差支えのないものであろうか。これでこそロシアにあの風が吹きまくったのであろう。

 外国から帰ると馬鹿になるという説は、日本人の間では常識である。しかし、これではたしかに、馬鹿になるよりしようがない。

 人間が地上を完全に一人で廻ってみたということは、古往今来絶無なのだ。世界の話というものからよせ集めた知力が、つまりわれわれの知っている論理である。この誰もの信じている論理からどれほど多くのことが洩れているか。否、むしろ、洩れているものの方が、知っているものよりどれほど多いか。こういうことに気附いたとき、この者は馬鹿になる。これは懐疑主義というがごとき、言語心理学的な間延びのした知的なものではない。

 万国共通の論理というものがある。これも同様に人間の不完全性から押し上げて来た電流のようなものだ。その証拠にこれが絶えず変るのは、知性の極がどこにあるのか分らぬという危険さを示したことだ。全く何も分らなくなった安全さ――この頭からばかり弁証法という知力が出て来た。私はヨーロッパを廻って来た人で、おのれが賢明になったと信じる人の頭を疑う。


八月十九日

 もうすぐに満洲里だ。ジンギスカンを出した人種はバイカルからこのあたりにかけての人種である。まことに恍惚とする黄緑色の地の起伏のゆるやかな美しさ。人家の一つも見えぬ緩慢なスロープの谷間には、白い羊の群れの移動するのが雲のように見える。何事が起ろうとも平然としてにこやかな蒙古人の顔が、野の中に立ってわれわれの汽車を眺めている。地貌の襞が地の襞に投げている鮮かな陰影、これは極めて近代的な美しさだ。この表現は不可能である。

 夜十二時ごろいよいよ国境にかかる。ここでロシア側の荷物の検査があって、旅券が初めて自分の手に戻される。ドイツの外交官の一人が所持していた日本紙幣百円を取り上げられる。理由はポーランド国境のネゴレエ入国の際、旅券にその記入を忘れていたためだ。
「返して下さい。それは日本で私は使わなければならないのですから。私の大切にして来たものだから。」
 ドイツ人は幾重にも頼んだが若い国境監督官は応じない。ドイツとロシアの政治の険悪な度がここに現れたのだ。
「あなたは幾日日本にいますか。」
「二週間です。」
「それなら、帰りのときにお返ししましょう。」
 ドイツ人は歯を喰いしばって拳を固め、反り返ってどんと拳で卓を打ったまま睨んでいる。「じゃ、いい。」そのままそこから放れていく。


八月廿日

 満洲里までもう三時間だ。ベッドへ這入ってみたが眠れない。私には日本がどんなに見えるか楽しみだ。

 午前三時、満洲里へ着く。暗くて分らない。私は汽車の中に坐ったまま動く気がしない。日本の波もここまで拡がって来たのかと思う。しかし、ロシアがポーランドからここまで拡がって来たのに比べれば話にならぬ。先ず誰でもここで感じるであろうこのようなことさえも、これだけは黙っているべきだという礼儀について思う。――私には今さらながら思想の恐ろしさに人間の運命を感じた。しかも、ここは無人の境だ。この地を誰か羊に代って豊かにすることが様々な反対にあうという神秘なこと――私は一度国境で日本の知識人と話をしてみたいとしみじみ思う。

 満洲里では、私の持って帰ったマラソンのフィルムを受けとりに来た男が真先に私の所へ近寄った。
「横光利一さんはいませんかア。」
 このように呼びながら汽車の廊下を這入って来る。
「僕です。」と云う。
「あなたですか、マラソンのフィルムありますか。」
「あります。」
「じゃ、それ貰おうじゃないか。」
 と後にいる他の者に云う。御苦労さまと云う代りに、このように云う男が最初の日本人であったのか。
「フィルムは持っているけれども、とにかく大事の預り物だから、名刺を見せてくれ給え。」
 と私は答える。
 すると、今一人の別の優しい若者は大毎記者の名刺を出して、
「私が記者です。どうもありがとうございました。お疲れでしょう。ハイラルから今飛行機で来たばかりですが、さっきまでは豪雨で今夜帰れないかもしれないのですよ。朝日の方も困っているようです。」
 と云う。第二に私は競争を国境で見たのである。
「何もかも日本はこれだ。」と思う。
 ヨーロッパでは新聞は号外も出さぬ。次ぎには支那服を着た特高課の刑事が来る。
「私はこういうものですが、お荷物はそのままにしといて下さい。もうすぐ夜が明けますから大丈夫ですよ。ここは泥棒だけは絶対におりませんから。逃げ場がないのですからな。お宿が定っていないなら、私が御案内しますよ。もうお眠みになる時間もありませんが、それでも一寸お眠みになる方が良いですよ。まだ八時間も発車には間がありますから。」
 特高課であろうと何んであろうと、私には日本人でありさえすれば今はこの上もない安心である。刑事に連れられて駅を出る。この刑事はなかなか親切で優しい。私はこの人の裏の気持ちなぞ考えたくもない。よほど物好きな好人物か、さもなくば何か大きな理由がなければ、満洲里の人里放れたところへ来て生活する筈はないのだ。
 駅から線路へ降りると、ほのぼの朝日がさして来る。
 大山氏と二人で宿の方へ歩いていく。
「ここは日本の軍人が多いのですが、軍人でない普通の日本人に自殺をするものが多いのですよ。どういうものですかね。」
 と刑事は不思議そうに云う。

 私は初めて夢のような美しい国境の草の起伏の連りをよく眺めた。なるほど、ここは自殺をするものに与えられた最後の幸福の地としては恐らくこれ以上に美しい所はあるまいと思う。樹木が一本もない。見る限り黄色な草で蔽われた柔く低い山々の重なり。明るい光線。雲の流れ、眼を据えてじっと山々を見ていると、この無人の境では空と地とが狎れ合ってのどかに戯れているようだ。どことなく土地は一抹の羞しそうな処女の表情をしている。

 朝日がだんだん高くのぼって来る。野の美しさは一層増す。しかし、この美しい地上が国境であるということのために、全く何人もここでは自由を奪われているのである。山のこちらにいるものは、その向うの美しさを見ることが許されぬ。向うのものはこちらのこの美しさを見ることを許されぬ。こちらとあちらのその間に、まだ誰も見たことのない美しい国境がひとり延々と続いているのだ。
「あれが国境ですか。」
「そうです。まあ、そう云うているだけですがね。実際はどこからどこが国境だかはっきりしたことは分りませんよ。」
 と特高課の人は云う。私はこの日本人が職務的に忠実だということについて、この人も良いことをしているのだと思う以外に批判の仕方はなくなった。それ以上の立派なことは何もない。お互にやろう。私はこの人に縛られても文句はないと思う。私もまたソクラテスのように国法を重んじよう。


 午前十時、ハルピンに向う。
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オリンピック記




七月廿四日

 芥川忌日に飛行機で発つ。パリーをなつかしむ間もなくケルンを過ぎ、早くもポツダムの湖水が眼下に見え、赭黒い尖塔のかたまった巨大なベルリンが現れた。空巣のようにさびれた夏のパリーとは違ってここは祭りである。枝低く垂れた菩提樹の間を真直に伸びた磨かれた道、葵の紅い花を咲き誇らせた窓、窓、風に靡く※[#「卍」を左右反転したもの、199-6]の旗の列なった風景は戦国の昔、どこからか一群の武士が攻め寄せて来るようだ。人おのおの何の戦争の準備であろうか。菩提樹下の街々は外国人の横行でさながら国際都市である。ベルリンの市民はこれ等の歓待に謙遜で礼儀正しく清潔で親切だ。雨れた日曜日オリンピック村を見物する。ここは街から遠くはなれたところ多摩墓地に似た一角の赤松の林に取囲まれたデーベリッツである。裏門から入るとアントワープという家屋に日本の旗が立っている。写真でよく見た吉岡氏、ベンチで陽に当り初秋のような雲行を眺めている。屋内には人もいず、森閑としている。廊下に砲丸が転がっているばかりだ。白樺の林のなかに米国選手の宿舎がある。一帯の風景は軽井沢に似ていて裏葉をかえした白樺の梢が日光にきらめき、はればれとした芝生の丘に細く道が曲っている。メトカルフがただ一人麻地の背広で胸をはり坂を下って来る。傍の池には白鳥がうかんでいる。淡紅色の花の群の微風にゆらめきわたる花壇、流れ降る緑の野、森の間には鶴も自由に歩いている。歩を移すごとに迫る競技の日のことなど遠い昔の日のようにのどかとなり、視界は拡がり空気は清澄、人かげ稀で樹間からわずかに隠見する屋舎の紅い瓦は平和な楽園を思わせる。競技場はベルリンの郊外一里のところにある。灰白色の方円の底に緑の芝生をとり囲む紅瓦色の楕円が水をかい出した池のようだ。そこの芝生でリーフェンシュタールが青い旗を持ち活動の準備をしている。工事中の騒音のなかで孫、南両氏がかけている。ギリシアのオリンピアから運ぶ鉄の火皿の三本の脚と脊を比べるとまだ一尺を見上げねばならぬ。その荘厳さ、千年の後までも残るであろう。
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オリンピック開会式




八月一日

 前日からの曇天続くウンター・デン・リンデンから競技場までの街路は、突撃隊の褐色の整列で群衆はピタリと止っている。式場近くになると一層精鋭な黒色の親衛隊に変ってくる。一直線になった道路の真上を巨大なツェッペリンが悠々と平衡しつつ流れてくる。空を仰ぐとあたかもわれわれは海底にいるようだ。
 次回のオリンピックは日本に廻った。前日の事件で街々の旗の中から日の丸が急に大きくふくれて見える。天界から日本の文化に垂れ下って来た一本の縄、快活に剛健にこれをよじ登らねばならぬ。式場に著席すると雨がポツポツ降ってくる。ツェッペリンが再び巨体をスタジアムの上に現す。楕円形の会場の上を静かに横切る船姿の美しさは機械文化の精粋ここに極まれるが如きである。塔の上より平和なラッパが鳴る。それに応じて奏楽が起ると歓呼の声があがり、ヒットラーが正面の入口より入って来る。ナチスの挙手の礼が斜に穂先を揃えた槍のようだ。
 粛然とした場内に、折から開催の鐘の音が、初めは低く、次第に大きく鳴って来る。鐘が鳴り鎮まると同時に、ギリシアの選手の一団が旗手を先頭に足並揃えて歩いて来る。これに続いてアルファベットの順序に五十ヶ国の群団が陸続と入場する。場内を埋めた各国の観衆は、新しい一団の現れる度毎にドッと拍手の波を打ち上げる。しかし、私は民族を異にした全体が、一つの興奮にまき込まれながらも、各々の好みに従って歓呼し、拍手するヨーロッパの態度を、この時まのあたりに見ることが出来たと思う。
 正面ヒットラーの前まで行進した各国の選手は、その国々の礼をしなければならぬ。しかし、喜ばれた国はドイツ式の宣誓の挙手をした国である。横に正面を見上げつつ進んだ国に、英国と日本がある。誰も黙ってこの二ヶ国には拍手をしない。服装や顔色で明快な国はその美しさのために拍手があがる。オーストリアと米国はむしろ政治的背景として歓呼の声が場内を圧したが、選手を旗手ただ一人より送らぬコスタ・リカはその寂しい孤影のため厚意の波を湧き上がらせた。フランスはドイツの環視の内を静かに黙って通って行く。如何にもこれは当然のことと観衆一般も観測の刹那、突如としてヒットラー総統の面前まで来かかった時、ドイツ式の宣誓の礼をする。その巧みな逆転に、観衆はドヨめき立って暫くは鳴りもやまず、後から続く英国は、ただこのフランスに与えられた歓呼の中を行くばかりだ。スイスは旗手が旗を高く抛り上げては受けとめ、奇声を発して観衆に挨拶しつつ進んで来る。何の礼儀か分らぬが曲芸をみているようで、荘厳な式場もために一角から崩れかかる危機を孕む。
 中華民国は悉く夏帽を冠って出て来たが、一斉に揃えた脱帽の美しさは民国の優雅さが感じられる。むしろ日本選手の後半が足乱れ、踏むべからざる芝生を踏んで行進して来るのをみると、オリンピック日本招致が選手に与えた興奮を思いやられ手に汗を握るのである。殊に堂々たるイタリーの行進と拍手湧くが如きその後だ。選手行進の最後はドイツである。各国のうち最も足並み整い、白の服色明快で場内の緊張に一層強く輪をしめた観がある。
 組織委員長レーワルト氏の式辞の後、ヒットラー総統の開会の辞がすむと、突然号砲が鳴り渡る。数千羽の鳩が地上から一斉に飛び上り円を描きつつ場内を舞う。号砲が殷々と続くたびに方向を転じて上空高く上って散って行く。その時一人の選手がギリシアのオリンピアから運ばれた竹刀のような神火の松明を持ってかけつける。火が鉄の大皿の上に燃え広がる。観衆は襟を正し吹き靡く焔を見ている内に、静かに、徐々に、高く合唱団がリヒャルト・ストラウス作のオリンピックの歌曲を合唱する。民族の平和の戦いはこれから起るのである。


八月三日

 昨日(二日)も今日(三日)も天気が悪い。家を出る時空を見て降りそうな天気の日は、今日は日本は駄目だといつも思う。日本人は植物のように一片の雲にも皮膚の感覚がちぢむのである。殊に円錐型のベルリン競技場は吾々の想像以上に底が深く円錐の縁が深い。このように空の少なく見える平面では日頃の練習は役に立つものではない。日本人が自分の記録を誰も出さず敗北している第一の原因は、底から仰ぐ狭い空の曇っていることだ。たとえば比較的によい成績をあげた村社と、山本嬢二人の出場の時は太陽が雲を破って珍しく場内が輝き渡っていた。人間が実力以上の活動を希えるのはその時の自然によらねばならぬ。山本嬢の槍投、これはもう一息のところだった。殊にさていよいよという時になると、他の一方の八百メートルの競技でどっと拍手がその方にあがるのだ。また次に投げようとすると高跳の方の拍手があがる。これでは働ける筈がない。敗れて風呂敷包を抱え、とぼとぼ退場して行く姿は離縁されて実家へ戻る不運な主婦を見るようだ。一万メートルの村社とフィンランド陣との競走はこの日の圧巻であった。卅一人の選手のうち最初の一回から十二回までは、村社が先頭を切りっ放して進んで行く。しかし、十三回目の終るところでちょっと後を向いたので、これは駄目だと思うと果して十六回目の時にフィンランドの一人に抜かれた。あと二回の時にはフィンランド陣三人の抜き合いとなり村社が四番目になって進んでいる。ところが次の時には再び先頭に立って進んで来たのでこれは続くと思っていると次にはもはや駄目だ。このような日はただ肉体がものをいうだけだ。大きなものが殆どあらゆる競技に勝ってしまった。民族の肉体の限界を眼下に眺める壮観さは曇天のオリンピック以外には絶対に見られない。日本の負けた日は私は大きな実験室にいるように時々望遠鏡を顕微鏡のように手にとって人々の筋肉を調べて見るので楽しみになる。


八月五日

 四日、五日、日本の一行が目ざましかった。各国の観衆の中で昨日までは黒人とドイツ人の一人舞台の観があった。ドイツが沈んで日本が頭を擡げてくると各国の応援はことごとく日本に向って押しよせて来た。殊に一昨日の村社と昨日の西田、大江の受けた拍手の波は満場われんばかりである。棒高跳決勝の時には陽は全く暮れ、明るく照明をうけた底を見下す観衆は西田と大江の名ばかり呼び続け、さて愈々二人が跳ぶ姿勢をとると水を打ったように静かになり、各国へ打つタイプライターの音と大空の上ではじけるオリンピアの焔の音ばかりパチパチとするだけだ。私はこれらの情景を眺めつつオリンピックが日本へ廻って来た日の観衆の態度が、かくの如く公明に美しくあらんことを望んで止まなかった。
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巴里から帰って




 フランスへ出発前、中島健蔵氏から同氏訳のラミエルを貰ったので、向うでゆっくりフランスと引きくらべて読んでみようと思い、これだけ持っていったのに、それも読まずに持って帰って来た。今になってこれを読むと、パリーからノルマンディへ行く道の書き出しなど、ルーアンへ私の行った道と同じである。
 何事も打算という理由なくしては風景さえも造らないパリー人を、この本で容赦なくやっつけてあるのは、本人のスタンダールが、グルノーブル人だという考えがなくとも、攻撃せらるべき価値がある。


 しかし、この「攻撃せらるべき価値」ほど、またわれわれ外人にとって考えさせられる問題はない。パリーはすべての外人から攻撃せらるべき標的なのである。しかも、いかなる者がいかに攻撃しようとも、何者もこのようになり、このようになってこそ、おのれを知るぞと、黙々と蹴返して来るのがまたパリーだ。


 世界の才能ある人物が、一度は攻めのぼって、故国へ落ちて来る度に、姿の全く変ってしまうところ。婦人が美貌を誇って出て行く度に、それが何の価値にもならぬことを悟って帰国するところ。このような所では、男が完全に女を軽蔑し、女が全く男を馬鹿にし尽した結果が、恋愛になっていく。これは最も新しい近代恋愛の形相であろう。いったい、こういう男女の形に対して、どんな批判が役立つであろうか。芝居は人生よりも、はるかに高尚なものだという言葉は、真実である。


 フランス首相のレオン・ブルムは、スタンダール論を書き、小説を書いていた若い日の記事が、パリー・ソワアルに出ていたことがあったが、小説は馬鹿者が書くものとの日本の通念も、ここでは馬鹿者なればこそ、生活に役立つところである。私は文学がこの国ほど生活を指導し、一般がそれによって生活を潤沢ならしめている所を、まだ見たことがない。それなればこそ、俗化しないものでかつて偉大なものがあったかという、ジイドの言葉も出るのである。しかし、いかなる者も、必ず行き詰まるときがある。このとき、それぞれ人は自己に返り、青年に戻る。


 六十、七十から語学を始め、十六、七の少年を対等に尊敬し、独立独行、齢を眼中に入れざるフランス人の態度の基礎は、自身の年齢から青春を常に発見する努力にあろうと思う。私がパリー滞在中に最も羨ましく感じたことは、この国の老人の美しさと豪さであった。個人主義の徹底は、男子をこのようにするものかと、私は常に老人の観察に注意を向けたが、老人を老人らしくする日本人の修養は人生を幸福ならしめる修養とは、最早やならないことを知るにいたった。私も十六の少年を念頭に描いて、再び勉強をし直そうと思い、若くして大人になる練習などせぬことこそ、近代的修養の第一であると気附いたのも、フランスのお蔭であろう。青年論どころではない。何が大人か、誰も語らない。


 私は失望の巴里という題で、文藝春秋へ通信したことがある。あの通信はパリーの日本人間に問題を起し、日本にいる友人達に心配をさせたが、実はあの題は私が書いたのではない。私はパリーに失望したどころか、得る処が多かったのである。いつか前に、ベルリンにいる日本人で、ベルリンの料理は不味くて困ると書いたところが、日本から沢山の投書が来て、お前にベルリンの料理の味が分るかと、さんざんな攻撃を受けたという。日本の内地にも、かつて外国に渡った人々の間には、それぞれ聖地を守護する精神があって、互に異国を心の故郷と思って生活している人々が、いまだに多い。


 パリーを守る人と、ベルリンを守る人と、ロンドンを守る人との熱心な争いは、しばしば外国で見る光景であるが、中でも一番強烈なのはベルリン党である。正宗白鳥氏がモスコウへ降りて、日本人に案内され、見るところを罵倒しつつ歩くので、そんなに不快なら、早くモスコウから出て行かれたら良いでしょうとすすめたと、案内した人が話したことがある。この案内の役目の人は、特にモスコウを好んでいたのではなかったが、長くその地にいると、自然にその土地に愛著を感ずること、誰しも変らぬのであろう。しかし、西條八十氏や藤原義江氏などと、外国で逢ったときには、この両氏は、「何といっても、日本は一番いいですね。早く帰りたい」と同じことを口にされたので、長く異国を憧れている人々も、われわれと同様かと思ったが、十年以上も外国で暮している人々は、一度日本へ洋行して来なければ、馬鹿になってねと、われわれ新参の者にいう。こういう人々の顔を見ていると、若いのか年寄りなのか分らない、年齢というものは、生れた国を基本として成長しているものだと、ふと気附くのであるが、若年で異国へ渡ったものと、年老いて海外に移ったものとは、その土地に対する成長力がひどく違う。つまり激しくいうなら、若人の方が老人よりもその土地に対して早く老人になるのである。私などはまだ若者というべき方であるが、それでも異国にいると、ひどく青年からかけ離れた自分を感じて、何事にも退屈した。
 何の目的もなく海外を渡るものは、見たいものを見てしまうと、後にはやり場のない退屈だけが残って来る。朝眼を醒して、さて今日はどこへ行こうかなと考えるのが、主婦が昼の食事を何にしようかと迷う日々の苦労のようであった。それに私の一番困ったことは建物が高くて空が見えず、頭から押しつけて来る石の壁が、どこへ行っても打ちつづいている事である。山野の荒涼とした風景よりも、垂直になった石壁の蕭条たる様の方が、人間に鬼畜の心を養うものだ。物を眺めるささやかな愛情よりも、一にも二にも行動する心ばかりが先き立って来るのである。


 悪にも行動、善にも行動、これが石壁の中の心理なら日本の低徊観望は、草木風月の中の心理であろう。東洋趣味というものは、私は東洋人から脱けることは、絶対にないと思う。このごろは、東洋趣味を軽蔑する風潮が、ようやく日本に旺になって来たようだが、東西両様の一致に進む理想も、セルの著物のように安手な物とならねばよいと思う。


 ベルリンやパリーのことを悪しざまに書けば、いろいろ攻撃を受ける不便は、ロシアに入れば、一層激しいであろうと思う。パリーの日本人で、一番パリーのために尽した伴野商店の主人は、レジオン・ドヌウルをフランス政府から貰っているほどの人であるが、東京に帰ったとき、フランスの放送をして、ふと話がフランス人の悪い部分に触れたことがある。すると、パリーへ帰ったとき、早速呼び出しを受け、非常な叱責の後、フランスの勲章も取り上げられたそうだが、実感をそのまま話すにしても、自国のことのみならず、今はさまざまな苦労がいるのである。何となく徳川時代の封建の気苦労が、夢にも思わなかった所にひろがっているのを知って、一時は自由主義の全盛を誇ったヨーロッパも、このようになったのかと、感慨を深くしたことがしばしばであった。


 ベルリンにいる時、政治の話だけはしないでくれ、外人といえどもすぐ連れて行かれて殺される恐れがあるからと、人々に注意を受けたが、モスコウに入れば、写真も写すことが禁ぜられ、手も足ももがれたのと同様な不自由を少からず感じさせられた。人を見れば、右翼か左翼かどちらかだと判ずる観念が、濃厚に全世界にはびこっているのである。人間自由に物を見る観念など、どこにもないという考えは、今は世の通念となってしまった。スペインの争乱など、その観念の争闘であることは、今は誰でも知っていることだが、それにしても旅行者は、何らかの意味でスパイと見られ得る可能が、新しく生じて来たのであるから、この封建思想の錯誤には、何人もまき込まれずにはおられない。かい潜る度に、新しい縄の取手に追いかけられる近代人は、拱手傍観の態度で日を送ることなど、今は夢である。


 そこへいくと、日本はまだ自然な、一つの態度が赦されて残っている。つまり、「おけらの唄」という、自分を捨てて他を刺し殺し、総てを無にする奇怪な道場が丹波の山奥の修験場のように、呼吸をつづけているのである。ここへ光線をあてると、野蛮人か文化人か分らぬ様々な顔が、どちらを向いているのでもなく、あぐらをかいてえへらえへらと笑っている。


 私はウラルを越えてシベリアへ入って来たとき、幾千里となくつづいた原野を見ると、過ぎて来たヨーロッパの智的文化が、ロマンチックな儚い城に見えてならなかったが、人間努力の結果を、無にする物の見方は、われわれからは抜けぬと見える。


 ヨーロッパ人の文筆の士の争いは、敵の絶対の急所は避けて突かぬが、日本人のは相手のどうしようともない急所でなければ突かぬのである。豚のように急所のなくなるのを本懐とする風習は、常にわれわれから遠ざかろうとしない。しかし、今は、急所を持たぬものなどどこにもいない。「おけらの唄」の栄えるのは、福徳円満を祈る吉相である。
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人間の研究




 それぞれ人々は人間について考えているという事――どのような職業の者も、その職業に従って、人間のことを考えているという興味ある大事実が、また新年となって渦巻き流れていく壮観さ。
 一年に一度、すべての者が自身の年齢を共通に考え、今年は幸福であるようにと願う心の祝典に際して、開幕すでに朝の日光が昇って来る。このようなことは、まことに目出度いことだとは、長い間私は忘れていた。しかし、誰も彼もひそかに人間の研究に従事しつつ、新年松の内のみこの研究を中止する習慣は、私の生れて以来この世の中に続いてやまなかった。これだけは変らぬということのうちで、新年だけは、いつまでも変らぬであろう。
 人間は祭典をするために生れて来たのであるから、祭典を軽蔑すべからずといった久米正雄氏の言葉は、一つの卓見だと思う。人間が人間を忘れることが祭りである。しかし、そろそろ人間の研究を、私は新年から始めようと思う。研究始めである。
 私はパリーにいるとき、日本の内地に起っている事を、ときどき注意した。すると、それらの活字の中から、私の悪口も混って、眼の中にはいって来た。異国の果てで、懐しく思いを母国によせているときに、ふと自分の悪口を見つけた時の感情は、度し難くいやなものだ。
 いろいろの国をめぐってパリーへ戻り、めぐった国の記憶を呼び戻してみていると、国々がそれぞれ色や声や丸みを持った生物に見えて来るが、そのようなときに一番懐しい生物を眼に浮べ、そっと手出しをしようとすると、いきなり悪口をいわれた気味悪さがそれである。ところが、このような気味悪さにこりもせず、何はともあれ帰ろうと、地球の脊柱のようなシベリアを駈けて来て、どっと辷り込みのような形で日本の中へ倒れ込む。どちらを向いて倒れているのか分らぬが、ひどく眼まいのしている自分の頭の上で、誰やらが、セイフだ、いや、アウトだといい合っている声だけが、かすかに聞きとれるだけである。ようやく眼まいも停り、立上って砂ほこりを払って歩き出そうとすると、まだ足がふらふらである。
 そこへ質問攻めに合うのだが、第一番の質問は、定ってパリーの女はどうだと、こうである。この質問はどこでも受けたが、してみると、何より日本の国の男子の関心事は、女の事だったのかと、今さら憮然とせざるを得なかった。
 蒋介石の西安事件より、シンプソン事件の方が世界の人心を衝動したことを思うと、パリーの婦人への人々の関心も、故あることと思う。政治よりも日常生活の方が、やはり人間には面白いのである。人間研究の衰えざること、今も昔も変りはない。作家は思想の商人となるよりも、人間の研究から独自の思想を拾い上げて来ることに、また今年も費すべきが勉強と思う。
「おのれの実価を生かすことすべてから逃げたくない。」
 ジイドのように私も今はそう思う。セイフであろうと、アウトであろうと、そんなことは私は知らない。


 冬にしてはひどく暖かい。火鉢も火を消し、羽織をぬいで縁側に立って見ていると、ぎっしり花をつけた白梅が枝をたれたまま風に震えている。
 ふと私は家内をつれて附近を散歩してみようと思った。ドイツで買った写真機に手をつけてないので、それを持って家内を外へ誘い出した。子供がみな遊びに出ていていないから家内と二人の散策はこっそり逃げ出すようで、何となく興味深い。こんな遊びはほとんどしたこともなかった。これならなるほど人もするはずだと、自宅が見えなくなったころのびのびと新春の気持ちになった。
 日光が強くあたって体が少し汗ばみ気味の気だるさも、周囲の枯野や雲を見るのにおっとりとなって来る。冬木立の連った梢が薄紫色にぼうと霞んでいて、まだ新芽の出そうな気配もないから騒がしげな心も起らない。冬日和の人の通らぬ静かな午後である。去年この同じ道を歩いたとき、花を密集させていた椿や柊はもうなくなって家が建っている。森の中で松の大木を引きずり倒す音がする。
 陽のあたる道を選んでぶらぶら行くうちに、写真など写す気持ちはなくなって来たが、それでも公孫樹の大木が見えると、妻をその傍に立たせて一、二枚撮ってみた。妻も撮ってやろうというから、私も立って撮ってもらっているうちになかなかこれは良い遊びだと思い初めた。現実の夫婦がまた別の現実を再現し合っているのであるから、理窟はともかく、今までなかった微妙な感覚に、どちらも新しく襲われているのであった。撮った写真は、その場で見るわけにはいかないから、どのような物が出来ているか分らないが、写し合う気持ちは、写さぬ前よりも自然と高度になっているのである。
 夫婦という動かし難い生活を、何とかして動かしてみることに、日夜骨折っている夫婦と、夫婦は夫婦だからこれは仕方がないとあきらめて、淵の底へずぼんと沈んだ気になっている者と二いろあるが、動かぬ夫婦の進化というものは、思っても見なかったところにあるものだと、よくこのごろ私は思う。人間の研究という点でも、動かぬ夫婦の間の進化を見ることは、一番に難かしい。私は外国での旅行中、異国の婦人との間で、陥りやすい事にも出逢わず、無事行くときのままで帰って来た。他人の多くは私を笑ったけれども私にはまた私の勉強の仕方があるので、他人からはむげに乱されてもいられない。このため私はなかなか得るところが多かった。
 人間四十年も生きると、妙な人間になるものだとドストエフスキイはいう。なるほど私なども、妙な風な人間になって来たと思うことが度々ある。だいいち人間というものが、ひどく前より単純なものに見えて来た。ただ眼に見える人間という将棋の駒が、沢山ありすぎるので、数の多数がわれわれの眼をくらましてしまうのである。戦いは常にただ一人と相手は幾十万の戦いでこれだけはいかなる者も同じことだ。


 通りや会場や人の集合場所で、この人物は面白い人物だと思うと、私はその人の見えなくなるまで、立ってじっと眺めている癖がある。もっともこれは閑なときである。外国にいるときも、閑ばかりであったから、この癖だけはいつも出し放して歩いてみた。毎日人ばかりを眺め暮していると、今度は非常な激しさで、書物ばかりを読みたくなって来るものだが、ここを我慢してなお人を見つづけていると、今度は家庭と自分の関係が、明瞭に分って来るのが私の常である。
 去年の八月十二日の夜であった。この夜、私は面白い経験にぶつかったことがある。ベルリンからモスコウへ行くために、ポーランドの国境で汽車を乗換えねばならなかった。乗換えた汽車は、満洲里まで私を連れて行くのであるから、相当に私とは親しくなるはずだ。そう思って夕食をとりに食堂へはいって行くと、食事をすませた一人の立派な紳士が私の方を向いて、何か考え込んでいた。私は初めは空腹のあまりに、二間半ほど私から離れてこちらを向いているその紳士には、あまり気をとめなかった。
 その中に空腹を満たしたので、ゆっくりと食堂車の人々を例によって眺めはじめた。すると、前から動かずにいるその紳士の様子が私の心をひき出した。年恰好は四十八、九に見える。服装は薄茶の厚手な背広に、同色のゴルフパンツをはき、靴下も竪縞の同色で、ひどく瀟洒としたものだ。顔つきも首がすらりとしていて、恐らく笑顔を見せたことすらないであろうと思われるような、憂鬱な顔をして、右手を卓に横に置き、視線を一、二尺前の同じ卓上に落しつづけているのである。とにかく、見たところフランス人にはちがいないが、フランス人にしては幾分身体が大きくもある。職業となると全く見当がつきかねた。うすく禿げ上った頭も、薄茶の服色のために禿頭には感ぜられない。しかも眼は年には似ず青年と同じで澄み切っているのだが、非常に冷たく我がままな鋭さのあるのが、この紳士の何よりの特長であった。私はそれまで日々夜々沢山の外人を廻った国々で眺めて来たが、私の人間研究という点では、準備してあるどの範疇にも入れられない性格の外人である。
 その紳士は命じた紅茶を飲みもせず、不機嫌そうな様子で眺めていたが、今度はじっと私を見詰め始めた。実に美しい顔である。その美しさはなみなみならぬ好男子の美しさであるのは勿論であるが、最早や世の中には、早くから何の面白さも感ぜられないというような、動かぬ剃刀のごときなまなましい美しさだ。私はふと世の中にこのような人物がもし沢山いたとしたら、定めし私は生きているのがいやになることだろうと思った。東洋には、このような人物だけは一人もいない。それがまだよい。東洋は救われていると、このように思っていると、まだその紳士は私をじっと見つづけて眼を放さないのである。勝手にしてくれと、私はビールを飲み出した。私はもうその人物を考えると、何ともいえず心がひかれるにも拘らず、文化の終局を見る思いに迫られて、心は反対に稲穂の健康さに憧れるのである。自分はあの人から比べると、まだ地の幸福を感じている。自分の中にはあのような文化の寒さがない。これは幸福なことだ。これだけは背負い込みたくはないと、私はまことにこう思った。
 ところが、この私の前にいる人物が、世界第一の精神界の偉人、ジイドだったのである。私はそれを少しも知らなかったのだ。


 ジイドの写真は今までに幾つも私は見たことがあった。それにも拘らず、眼前に私を見詰めている人物が、ジイドだと気附かなかった原因は、そのとき、すでに二ヶ月も前にジイドがモスコウにいることを、私は聞き知っていたからである。モスコウにいる人が、ポーランドの国境から再びモスコウへ行くものとは、そのときの私には思えなかった。しかし、私が眼前の紳士をジイドだと気附きかけたのは、その紳士が食堂から出ていって姿の見えなくなったころからである。立ち上って出て行くときに、手にフランスの本を持っているところを見ると、あるいは文筆の人ではないかと思い、ジイドがフランス人であるからには、多分ジイドはあのような系統に属する人に相違ないと思い始めたのが、はじまりである。
 翌朝私が食堂へ出かけて行くと、また例の紳士が現れていて、今度は私に背を見せ、三間ほど向うのテーブルで読書している姿が見えた。このときには、斜に足を組み、眼鏡をかけている。一眼で明らかにこれはジイドだと私は思った。ボーイを呼んであれはどういう人かと訊ねてみると、あれはフランスの有名な文学者ですとの答えである。それならもう疑うところはない。まさしくジイドだ。それにしても、何んとこの人は前から見るときと、後から見るときと、変って見える人であろうか。後からの氏の姿は、何もかも知り尽した温雅で善良で快活そうな老紳士である。ときどき本に書き入れをしているが、この世にこれほど楽しさはないという風に、少しそり身になったまま、頭をひねりひねり、揺れる本の上に書き難そうに鉛筆を走らせている。昨夜は私が見られた番であるから、今朝は私がよく見ようと、あかずジイドの後姿を眺めていた。読書しながらも食物を無雑作に口の中へ抛り込んでは、また書き入れに急がしそうだ。私も紅茶を飲みながら、モスコウへ近づきつつある朝の美しい曠野を眺め、ジイドを眺め、これは現世で楽しめる風景のうち、これほど興味ある風景はないと、ひとりゆっくり食事をとった。
 必ずジイドはロシア紀行を発表するときが遠からずあるだろうが、それならも早や氏の頭のなかでは、ロシヤに関する何らかの明瞭な主体が、浮かんでいるころであろうと思われた。それにしても、私には受入れかねる一つの疑問が起って来てやまなかった。
 いったい、フランスともあろう世界第一の文化国の、最も偉大な知性であるところのジイドが、ロシヤの精神上の植民地になろうとしている現象である。これがまともな精神世界の歴史であろうか。私にはこれは全く分らぬことであった。もとより、精神世界に国境はないであろう。しかし、文化国が文化国であることの最大の理由は、その国の伝統にあるのではないか。それ以外に、文化とは何物でもない。およそ愚劣な話の中で、文化をしりぞけた知性ほど無意味なものはない。このことが明らかなことであるなら、フランスの知性とは、何だったのか。引いてはフランスの伝統の精神の世界における訓練は、そのように軟弱なものであったのか。――このように思う心の中から、また更に私には疑問が続出し初めて来るのであった。これが私の人間研究の最大関心事であったのだ。


 朝の食事をすますと、いよいよモスコウが近づいて来た。下車の支度をしなければならぬ。私はジイドとは、もう二度と逢うこともあるまいと思いながら、自分のコンパートメントへ戻ってきた。モスコウで降りると、すぐそれから特派員の森氏につれられ、街見物に廻ってみた。
 正午ごろに、メトロポリスという大きなホテルの入口で、写真を撮って貰っているとき、そこへまたひょっこりジイドが現れた。「あれはジイドじゃないですか。」
 と私は森氏に尋ねてみた。そうです、ここがジイドの定宿ですとの答えの間に、すでにジイドの姿はホテルの中へ消えてしまった。
 私は森氏にホテルのテラスで昼食の御馳走になった。ナイフで出された鳥を切っていると、そこへ再びジイドが現れた。同じテラスで食事をするのかと見ていると、入口から前の劇場広場の方へ出ていった。帽子も冠らず、旅行者らしいゴルフズボンで、群衆の中をあちらこちら見廻しつつ、ぶらぶら広場を横切って通りの方へ行くのだが、日光が強いので、禿頭の頂がよく輝き、多い群衆の中にも拘らず、どこまでも明瞭にひと眼でそれと見別けがつく。
 ジイドとの最後はその時である。私は森氏につれられ、再び見物に街を歩いた。そのうちにある広場を上ったところに重苦しい赤黒い建築物を一つ見た。「あれがゲ・ペ・ウの本部です。あの門を一度くぐったもので、出てきたものはないのです。」という。
 私はロシアに対して、特に悪感情を抱いたことは、まだかつてなかったといってよい。しかし、ロシアが多くの人材の生命を、無雑作に奪う行為を聞くたびに、日本とはそこが違うと思わざるを得なかった。文化の最大の有難さは、何より人命を尊重することだと私は思う。
 私はゲ・ペ・ウの前に立ちながら日本がもしロシアだったなら、転向の問題など起り得る暇など、なかったであろうと思った。私は前の私の多くの優れた友人たちと無事に再び逢い得た喜びを思うと、まだ気づかなかった日本の知性の高級さを感じた。この高級さをもって日本の文化の高まらぬはずはない。
 この一月号の中央公論を見ると、ジイドのロシア紀行が出ている。私はロシアでのジイドとの二日間を思い出しながら、これを興味深く読んだのは勿論であるが、最も私の興味を感じたのは、まだ何人もいうことの出来なかったことを、ジイドが初めていったことである。氏はロシアの様々な幸福と良質な生活を述べ、これを口を極めて礼讃し尽くして後、しかしそれにしても、時としてロシアでは最悪なものが、最良のものを追い越している、といっている。この言葉こそ私はフランスの知性だと思う。ここにフランスの伝統の高さが現れたのだ。氏はいう。
「私にとっては、私自身よりも、ソヴィエットよりもずっと重大なものがある。それは、人類であり、その運命であり、その文化である。」と。
 私は今は他の多くの問題は書かぬことにするが、しかし、今一番の文化の問題として、また人間の問題として重要なことは、何より人命を尊重しなければならぬということだ。この意識の強さが種族の知性であり、一切の文化の根底をなすものだと思う。その他の悪は、今の日本はしばらく許されねばならぬときだと思う。





底本:「欧洲紀行」講談社文芸文庫、講談社
   2006(平成18)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「定本 横山利一全集 第一三巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年7月
※「シベリア」と「シベリヤ」、「アラビア」と「アラビヤ」、「イタリア」と「イタリヤ」と「イタリー」、「ロシア」と「ロシヤ」の混在は、底本通りです。
入力:酒井裕二
校正:岡村和彦
2015年11月17日作成
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●表記について

「卍」を左右反転したもの    199-6


●図書カード