悲しみの代價

横光利一





 彼は窓の敷居に腰を下ろして、菜園の方を眺めてゐた。
「あなたお湯へいらつしやる?」と妻が勝手元から、訊いた。
 彼は默つてゐた。近頃殊に彼は妻が自分の妻だと思へなくなつて來てゐた。
 妻は小さな金盥を持つて彼の傍へ來た。
「いらつしやらないの。」
「ああ。」
「私さきへ行つてくるわ。」
 妻は室を出て行かうとしたとき、また彼の方を振り返つた。
「三島さんはまだお歸りにならないでせうね。」
「もう歸るだらう。何ぜだ?」
「大久保の方を廻るつて仰言つたわね。遲くなるわよ、きつと。」
 が、妻は室を出てゆくと下駄を履くらしい音をさせながら、
「ちよつと、ちよつと、七輪を見て頂戴な。御飯がしかけてあるのよ。忘れちやいやよ。」とまた云つた。
 三島がいい家が見附からなくて、彼の家へ來てからは妻の容子がにはかに華やかになつて來たのを彼は感じてゐた。今も彼は、自分を意識してよりも三島の歸りを頭に描いて湯に行く妻をはつきり感じると彼の心は又急に曇つて來た。しかしそれよりも彼は自分の心が三島から放れて行きつつあるのを知つて恐ろしくなつて來た。彼が辰子を妻に持たないまではかなり澤山な友達を持つてゐた。それが二年とたたない間に三島ひとりを殘して殆ど總ての親しい者を失つた。それは彼から放れていつたのかそれとも親しかつた總ての者が彼を見捨てていつたのか? 彼はそれを考へる度毎に、妻が心を閃かせてゐる友達に對しては彼から少くとも放れて行かうとした態度をとつてきたことだけは否めなかつた。さうしてその中に友人の間で彼のさうした態度が評判になり始めると彼の所へと來る者が一人一人と減つて來たのにちがひなかつた。彼は幼い時ある易者にみて貰つたことがあつた。その時易者は彼の足の裏を眺めてゐて、この子には友達が出來ないと云つたことを彼は覺えてゐた。それが何の理由か長い間不安なまま彼には分らなかつた。が、今彼にはその理由が分つたやうに思はれた。しかし、その不思議な謎が、妻の辰子の媚弄コケテイカルな性格と彼の小心な性格との組み合せの中に潛んでゐたのだと思ふとなほ彼は恐ろしくなつて來た。それも初めのうちは、友達を失ふと云ふことよりも、妻の心の對象が完全に自分一人に向つて來ることの方により多く自分の幸福を見出すであらうと思つてゐた。だが、果して自分は總ての者を失つてまで妻を完全に所有しなければならない程、それ程妻の辰子の何處に價値があるのであるかと彼は疑ひ出した。妻が眞實に自分を愛してゐるなら自分の苦痛に同感して愼しまねばならない筈なのだ。それに妻は? 嘘だ! と又彼は思つた。幾度考へても彼女と結婚したと云ふことが間違つてゐたやうに思はれる。自分は妻の華やかな擧動に魅せられて彼女を愛し始めた。さうして彼女も自分の愛を感じて自分を愛したとは云ふものの、しかし彼女が自分に示した愛は、彼女が自分の失つた友人達に與へた媚弄な擧動と何處も變つたものではない。ただ自分は彼らより二年早く彼女から媚弄な微笑を送られたと云ふことそのことだけで結婚が成り立つたのだ。してみれば今自分が彼女から身を退いたとしても、彼女は自分に代つた第二の良人の妻になることを新らしく着物を着變へるやうにしか思つてゐないにちがひない。彼はつねにも増して妻の存在が不愉快になつて來た。彼は空を見た。これは彼の癖である。彼はいつか宇宙が十三萬あると書かれた書物を見て以來、空を見るとその見たときに限つて、十三萬の宇宙と人間とを比較しながら想像して自分を極度に輕蔑する氣になつた。
 今も彼は空を見てゐると自分の肉體も妻も總ての者を輕蔑し去つた自分の心だけが清く天上へ擴つてゆくやうな氣持ちがした。さうして彼のこの癖は彼が妻から苦痛を受けたときに限つていつのまにか自然と用ひられる療法の一つになつて來てゐた。が、まだ此の他に彼の苦痛の療法は四種あつた。その一つは賑かな人通の多い街路を散歩することである。街路で綺麗な好ましい澤山な少女に行き逢ふと云ふことはいつも彼にこれからさき自分の妻になる新鮮な娘が無數にあると思はせる。それは活氣を起させた。妻を厭ふ氣持ちからそれを感じれば媚弄な妻から受ける苦痛は却つて、彼には都合よくなつて來た。なぜなら、その時に限つて新らしい妻を求める理由の説明を一層強く自分に向つてすることが出來たから。
 今一つは或る定つたカフヱーへ行くことである。しかしこれは臆病で自尊心の強い彼にとつては、あまりいい所ではなかつた。たまたま彼に好意を見せて來た女があつても、その女が他の客に示してゐる好意を見るともう彼はその女が好きになれなかつた。それよりも彼にはさう云ふ場所で逢ふ女としては、全然彼に冷淡な綺麗な女の方が却つて氣持ちが良かつた。今一つの苦痛の療法は彼には一番氣持ちが良いものであつた。それは、彼の行きつけてゐるある古本屋へ行くことであつた。そこの主婦は彼が大學にゐる頃から彼を特別な客にしてゐた。彼がまだその店へ行き馴れないある日のこと、本棚の前で次の時間に必要な本を落して無くしてゐたのに氣がついた。その時彼は「アツ」と小さく聲を立てた。
「どうなさいましたの?」と主婦は訊ねた。
 彼は本のことを云ふと、彼女は默つて本棚からその本をぬいてきて、「これを持つていらつしやいませ、」と云つて彼に渡した。彼は時間が終むとその時その本を買ふだけの金の持ち合せがなかつたのでその本を直ぐ彼女に返さうとして持つて行つたが、彼女は又矢張り、前のやうに「持つていらつしやいませ。」と云つた。彼はその彼女の表情から音聲から商法的な手段としての愛戀的な媚弄を少しも感じなかつた。それは譬ひその場合が彼でなくとも彼女はさうしたにちがひないであらうと思はれる優しさだつた。そしてその彼女の優しさは、それは最初から彼ひとりの性質にわざわざ適合して造られたかのやうに思はれる程、それ程彼の心を温く柔げた。
 勿論彼女とても、時としては、至極靜な媚びを湛へて彼を迎へることはあつたが、それは彼の妻が近づく男達の誰彼に對して振りまくそれのやうに、對照に比例して變化させたりまたその效果を充分意識してするものとは全く違つて、自然に流れた自分の友人に向ふ媚びのやうに綺麗な靜なものであつた。彼は彼女に危險な欲望を少しも感じなかつた。そればかりではなく、彼女の前に出ると云ふことは寧ろ彼の一切の欲望を壓伏させて彼の氣持ちを一段と氣高く、清く朗かなものに變へることがしばしばあつた。けれども、さう云ふ彼の幸福も間もなく彼からなくなつた。或る夜、彼はいつものやうにいつもの時刻に本屋へは入つて行くと、店の火鉢を中に置いて主人と主婦とが坐つてゐた。主婦は不氣嫌さうな主人の前で俯向いて默つてゐたが、彼を見ると急に少し顏を赧らめて會釋をした。彼は彼女の會釋からいつもと違つたある剛い感じを受けた。
「稻妻はまだ出ませんか。」
 彼は主人を見ながら數日前に頼んでおいた本のことを聞いた。主人は彼には答へず表の方を眺めてゐた。
「まだでございますの。」と代りに主婦は答へた。
「出ないのですね。なかなか。」
 さう云つて彼は主婦を見た。が、主婦は俯向いて彼の眼を去けた。彼はそのとき、主人の不氣嫌の原因を始めて感じた。そしてそれが自分のことで自分の來る前から二人の間に續いてゐたものだと云ふこともはつきりと感じた。彼は身が引きしまつた。本棚の前を一度廻るとそのまま會釋を誰れにともつかずにして外へ出た。もう行ない、と彼は思つた。もう行ない、と思つたから。彼は暫くして道の上に立ち停つてゐた。すると自分の心の中で主人に對して怒つてゐる感情が最も高く動いてゐるのに氣がついた。
 あの妻を持ちながら、どうしてそんな氣持ちが起るのか? 彼は主人の氣持ちが理窟なしに間違つてゐると思つた。しかし、主人は妻に疑ひを向けてゐるのではなく、自分に向けてゐるのかもしれないと思つた。「馬鹿な。」と彼はひとり云つた。が、餘り行きすぎた自分を考へてみると妻を愛してゐればゐるほど疑ひを持つ主人の方が正しく思はれて來た。が、また、自分のゐない時、主人の前で主婦が自分に好意のあるらしい氣持ちを現したのかも分らないと思つてみた。さう思ふと彼は急に今迄と打つて變つた喜びを感じて來た。そしてもしそれが事實であるならば、もうそれで自分は澤山だと彼は思つた。彼はその喜びを少しでも失はないやうに、何か壞れ物を抱いてゐる時のやうな氣持ちで歩いていつた。が、突然妻の辰子が、今自分の感じてゐるのと同じ喜びをいやそれよりももつと強い自信を多くの男達に感じさせて來續けたのだと彼は思つた。彼は遽に又一層妻が妻だと思へなくなつて來た。
 そして、自分の苦しめてゐる本屋の主人の氣持ちがそれだけはつきりと胸に映つて來ると、今さきに感じた自分の喜びは、汚いけしからぬこころの動きのやうに思はれた。主人の疑も自分に向けられてゐることを彼は願つた。そして、再び本屋へは行くまいと決心したものの、しかし彼は何となく淋しかつた。それから暫く、一ヶ月程彼は本屋へ行かなかつた。が或る日、彼は散歩から歸つて來ると、玄關の庭に妻宛になつた一封の書面が表を向いて落ちてゐた。彼は何心なくそれを拾はうとすると、急に不安な氣持ちが胸を打つた。彼は延ばした手を引いて上から封書を見詰めてゐた。
「男からにちがひない。」さう思ふ疑ひが、封書に書かれた見馴れぬペン文字から直覺的に強く感じれば感じる程、彼はそれを拾つて裏返す勇氣がなくなつて來た。いや、見ても仕方がない。譬へそれが男から來た戀文であつたとしても、男の名前は書いてなからうし、また、よしそれがさうであつても自分はどうすることも出來ない。ただ出來るのは自分の苦痛を増すだけである。と思ふとそれよりも、彼は此の場合自分の自尊心を保つためにその手紙をそのままにしておく方が一番自分として助かるやうに思はれた。彼は書齋へは入つた。思つた通り妻はゐなかつた。が、暫くして彼女は歸つて來た。彼は妻が、その手紙のことについて何か云ひ出すかと待つてゐたが、妻は彼の室へはは入つて來ずに箪笥の引き手をいつまでも鳴らしてゐた。
「おい。」
 彼は矢張り自分の氣持ちを壓へてゐることが出來なくなつた。妻は默つて彼の室の襖を開けると、
「もう直ぐ御飯にしますわ。」と云つた。
「手紙が來てゐたらう。」
「ええ。」
「誰だ。」
「お友達から。」
「何處へ行つてたんだ?」
「あのう、お味噌を買ひに行つたの。」
「嘘つけ。」
「ぢや、あそこにお味噌があるわ。」
「手紙のことだ。貴樣は嘘より云へない奴だ。」
「ほんたうよ。お友達からよ。見せませうか。」
「お前に友達なんて誰があるんだ。」
「それや私にだつて有るわ。」
「見せろ。」
 彼は手を差し出すと妻は子供らしく、
「いや。」と云つて次の室へ行かうとした。
 彼は怒りに突き動かされて立ち上つた。妻は逃げるやうに歩いた。
「破いちやつたの。だつてさ、いけないことが書いてあるんですもの。」
 彼は妻を追ふことをやめた。今ははつきりと彼女の祕密を意識した。妻は火鉢の傍まで行くと少し下顎を膨らせた横顏を赧らめて故意に落ち着き出した。それはとても手出しの出來ない不貞な感じであつた。彼は室の中央に突き立つたまま、默つて妻の横顏を睥んでゐた。が、突然、悲しくなつた。
「まア見てくれ、これが俺の妻なんだ。」彼は自分と自分に肚の中で云つた。眼がだんだん熱くなつて來た。
「もう駄目だ。」
 さう思ふと彼はそのまま表へ出た。妻の相手の男が誰であるのか。一度はさう考へると放れていつた總ての友達らの顏が次々に浮んでは來たが、しかしもうそれは誰であつても又それはいつの前から續いてゐても彼にとつては同じであつた。彼は妻から放れようと決心した。決心すると、それまでに放れていつた友達らに對して濟まないと思ふ心がしきりに動いて來た。彼らになした自分の一切の不愉快なことがらが、盡く不貞な妻から起つて來たとは云ふものの、それらは皆自分の馬鹿さからであつたのだ、と思へば思ふ程、彼はその妻に今迄牽きつけられてゐた自分の身體が、ただ情欲の詰つた穢れた壺のやうに思はれた。が、とにかく彼は今そのままではゐられなかつた。何かしなければならない。酒を飮まう。いや酒では駄目だ。何かかう素敵に強い力のもので自分の頭を叩かなければ。彼は俯向いてただ無闇にせかせかと歩いてゐたが、その時彼は本屋へ行かうと心に定めた。それは家を出るとき眞先に彼の頭に浮んだことだつた、けれども前からもう行かないと自分に誓つてゐたそれだけ、はつきり行かうとは思はなかつた。しかし、もう彼は自分の苦痛を救つてくれるのはそこだけよりないと思つた。ただ行けばよい、ただ彼女の顏を少しでも見ればよい。自分は彼女と良人の不和を今以上に増すやうなことはしないであらう。さう思つて本屋の横まで來ると彼の胸は激しく音を立て始めた。彼は主人に見られることを何より恐れながら本屋の前を足早やに通つた。そのとき中を急いで見ると、主婦はひとり表の方のどこか一點をじつと見續けながら坐つてゐた。
 彼は彼女がまだ彼に氣附かない前から一寸おじぎをして通り過ぎた。通り過ぎてから彼は彼女が自分を認めるまで大膽に彼女の方を見てゐなかつた自分を後悔した。暫く行つてから彼は本屋の方を見た。すると丁度その時本屋の中から彼の方を向いたまま出て來た處であつた。彼は直ぐくるりと向き返ると又歩き出した。何ぜさうしたのか彼は自分ながら自分の臆病さに愛想がつきた。が、彼は脊中に彼女の視線を感じながら、振り向いてよいものかどうかとためらひつつ、も一方で何ぜ彼女が自分の姿を見たと同時に出て來たのかと考へた。――ああ俺は今、喜びの頂點を感じてゐる。だが、しかし、彼女は頼んでおいた「稻妻」の出たのを自分に知らせるために現れたのかも分らないと彼は思つた。彼は後を向いた。彼女はまだ門口で彼を見詰めながら立つてゐた。彼は又、頭が下りかけたが、傍を通る人々に氣が働いた。もし「稻妻」が出てゐるからだとすると、何か一言報らせる筈だと思つた。暫く歩くと又彼は後を向いてみた。まだ彼女は立つてゐた。直ぐ彼の頭は跳ね返つた。何ぜ彼女は立つてゐるのか? 彼女は俺を愛してゐるのだ! だが、あの彼女が良人に隱れて俺を愛するとはどうしたことだ。彼は彼女に持つてゐた尊敬心が急になくなつたやうに思はれた。それより彼はだんだん窮窟な感じに追はれ始めるとまだ後を振り向く必要があるかどうかと考へたが、しかし、後を向いてみて、彼女のゐなくなつてゐたときの淋しさを想像するとそのまま足が動いていつた。と、突然、彼は自分の歸つてゆく先に潛んでゐる暗い氣持ちが浮んで來た。
「ああ、もう俺は、あれにはたまらない。」と彼は思つた。
 彼の歩みは弛んで來た。
「俺は、本屋へ行かう。俺は彼女を愛してゐるんだ。彼女も俺を愛してゐるぢやないか。それに、何を俺はぐづぐづしてゐるんだ。馬鹿な!」しかし彼には彼女の良人の苦痛が想像されると、自分の罪の意識が一層明瞭に感じられた。彼は自分の中にある一切の道徳的な氣持ちを今は盡く踏み潰して了ひたかつた。が、それにも拘らず再び本屋へ戻りたがる自分の欲望を絞め縛らうとする道義心を尚一層強く感じて來ると、彼はただ自分に反抗する氣持ちばかりで自分に向つて叫び出した。
「よしツ、俺は彼奴の妻を奪つてやるぞ。苦しむ奴は苦しむがいい。苦しんで苦しんで、耐へられなければ死ぬがいい。」
 彼は引き返へさうとして立ち停つた。が、足が動かなかつた。
「行かう!」と彼は云つて元氣をつけた。が、矢張り彼はそのままに立つてゐた。
「行かう!」と又云つた。
 彼は本屋の方へ歩き出した。彼女の姿はもう店頭から消えてゐた。彼は歩き出すと一歩毎に不思議な力を感じて來た。それはいつもの靜な臆病な彼とは全く別人な荒々しい彼であつた。そしてこれは、時折、彼が物事に行き詰つたとき、勃然として起つて來る遺傳的な狂暴性を持つた彼であつた。幼い時からこの彼が起り出すと、彼は事體の危險を識りながらも、その危險に身を投げつける癖があつた。彼は最早や、何の躊躇も警戒も感じずに本屋の中へは入つていつた。主婦は一人の客に釣り錢を渡してゐた。客が歸ると彼女は一寸彼を見たが、そのまま直ぐ火鉢の傍へ坐つて默つて自分の膝へ眼を落した。彼はいつまでも動かない彼女の顏を見詰めながら立つてゐた。すると、何の涙か彼は涙が浮んで來た。
「もう僕は參りませんよ。」と彼は暫くして云つた。
 主婦は初めて顏を上げた。彼は彼女の眼が濕んで立つてゐるのを見た。
「すみませんわ。」と彼女は小聲で云つた。
「郷里へ歸らうと思つてゐます。」
「又いらつしやるんでございませう?」
「御主人はお宅ですか?」
「いいえ。あの、またいらつしやるんでございませう。」
「分らないんです。御主人にはすまないと思つてゐます。」
「いえ、さうぢやございませんの。そんなことは何でもないんですの。お郷里の方に何かお變りがあるんですか。」
「別に變つたことつてないんですがね。」と彼は云つた。が、自分の口だけが氣持ちから全く放れてひとり饒舌つてゐるのを知ると、突然、
「御免なさい。」と云つてお辭儀をした。
 彼女は「まア」と云つたまま彼のお辭儀を默つて眺めてゐた。
 彼は頭を上げると彼女を見ずに急いで外へ出て行つた。彼は彼女の家から離れれば離れる程、だんだん昂奮がさめて來た。すると自分が彼女の前で云つた言葉を思ひ出した。
「事實俺はもう行くまいと思つてゐるのか。事實俺は郷里へ歸らうと思つてゐるのか?」
 さう考へると、彼は初めて、もう行くまいと思ひ、郷里へ歸らうと思ひ出した。が、それは、彼女の前で、もう來ないと云ひ、郷里へ歸ると宣言したがためでは決してなく、それとは全く獨立して此の時始めて彼の中に湧いて來た氣持ちであつた。が、いよいよ、彼女には二度と逢へないのだ、と思ふと、彼女の前で宣言した自分の言葉が、まだ彼女に逢はうと思ふ望みに、強く釘を打ちつけて了つてゐるのに氣がついた。彼は急に力が脱けて淋しくなつた。
「いやいや、俺はもう行くまい。郷里へ歸らう。彼女が俺を愛してゐるからと云つて、俺が彼女を愛してゐるからと云つて、ただそれだけで彼女を奪ふ理由や口實にはならないではないか。成る程、もし俺が彼女を
(四〇〇字詰原稿用紙一枚分缺)
が故に又皆の長い幸福な分だけ長く別な幸福を續けようと俺はしてゐる。これはいけない、俺達が社會生活をしてゐる以上一人にとつて幸福なことはただ一度より望まれないのだ。その一度の幸福を長く續けることのみ今の場合俺は考へなくてはならない。だけど、あの辰子はあいつはもう駄目だ。俺をますます苦めるだらう。俺は矢張りその苦痛を除くために辰子と放れればいい。ともかく今の俺に殘されてゐる幸福と云ふものは、ただ辰子から放れることだけになつてゐるのだ。止さう。もう本屋へは二度と行くまい。そして、ひと先づ俺は郷里へ歸らう。それがいい。
 彼は自分が妻に苦しめられたそれだけ本屋の主人の氣持ちを感じると、今の自分の氣持ちの長く續くことを願つた。そして本屋の主人に對して濟まないと思ふ心が今迄よりも一層強く動き出すと自分も世の中を汚してゐる多くの汚い心の者と同じやうに汚いのを知つて彼は憂鬱になつて來た。すると本屋の主婦が前のやうには綺麗な者に見えなくなつた。
「お前までが何ぜ、あんなことをしてくれたのだ。何ぜ良人を瞞してゐるのだ!」
 彼は自分の頭の中に浮んでゐる彼女に叱るやうにさう云つた。
 その夜彼は家へ歸つても妻の顏を見ないやうに氣をつけた。今迄の經驗から、妻を嫌ふ氣持ちがあつても、妻の顏を見ると忽ち妻にとらはれて了ふ自分を知つてゐたから。殊に寢床を一つの室へ一つにするとなほいけなかつた。彼は寢床もその夜は別々の室へ敷かせて眠つた。次の日からも彼はずつとさうし續けた。そして郷里へひとり歸るにはどうすればよいかその方法を絶えず頭に浮かべるやうになつたが、妻の方から別れ話を持ち出さないまでは、自分から云ひ出すことが彼として出來なかつた。それには決斷心の乏しい彼の性質も多少手傳つてはゐたと云ふもののそれよりも、彼はまだ妻から放れることの出來ない種々な感じ、全く捨てきれないものを感じてゐたから。妻としては辰子は無節操で、放縱で、我儘で淫奔で、彼のやうな臆病な小心な良人を軈て自滅さす種類の女であつたが、普通の女としてみたとき彼女は善良で快活で子供のやうに無邪氣であつた。それが最も彼を牽きつけてゐた。出來ることなら、彼としては、彼女と別々の家に住んでゐて、ただ逢ひたい時に誰からも苦しめられずに二人で逢へるさう云ふ生活がしたかつた。それには辰子は最も適當で、さうして、もしさうすることが出來たなら、いつまでもそれが續きさうな女であつた。ともかく彼はさう云ふ理由やそれから、直ぐ行かれる同じ地に本屋の彼女がゐると思ふことなどで、浮き足でゐながらも、ただ辰子を中心にしてぐるぐる廻り流れてゐる日を續けてゐるより仕方がなかつた。これは彼にとつては二重に苦しいことだつた。殊に本屋へ行かなくなつた今の場合、一層それは彼を苦しめた。彼は暇があると散歩をした。その都度彼は彼女が自分を愛してゐると確心してゐるそれだけ本屋へ彼は行きたくなる誘惑をしきりに感じたが漸くいつも耐へて來た。
 或る日、病氣で郷里へ歸つてゐた三島が二年振りに上京して來て彼の處へ來た。三島はまだ大學を卒業してゐなかつたので後一年學校へ通はなければならなかつた。三島と彼は前から親しかつたし、それに、三島は下宿屋が嫌ひだつたので、素人屋の見つかるまで、自分の處にゐるやうにと彼から薦めた。薦める前にも何よりもさきに彼は、妻の性質と三島とを考へないわけにはいかなかつた。殊に三島は彼の友人達の中でも飛び放れて綺麗な男であつたし、妻とも初對面であつた。一體に彼の友達らは揃つて彼よりもずつと綺麗であつた。が、三島は特に立派な男であつた。「危險だ!」と彼は理窟なしに思つた。けれども、そのとき彼はもう自分の臆病な警戒心には全く愛想がつきて來てゐた。一人一人自分の友人に猜疑心を向けてかかる自分、何の謀計もない親しい者に絶えず脅やかされてゐる自分、さうして、それらの友からただそれだけの自分の不純な氣持ちからばかりで放れて行かうとし、放れて來た自分、それにまだ今、最後に一人殘つた親友の三島にも警戒を感じようとした自分を思つたとき、彼はもう自分を輕蔑する以上に、自分に對して反逆したくなつて來た。自分を滅して了ひたくなつて來た。
「今頃、素人下宿なんてあるものか。をれをれ。俺の二階はまるあきなんだ。こ奴が少し不味いものを食はすかもしれないがね。」と彼は三島にさう云つて薦めた。さう云ひ乍ら彼はひとり、「これは面白いぞ。面白いぞ。」と自分に云つた。
 三島は一寸天井を仰いでみて、
「二階はどうなつてゐるんだね。ひと間か?」と彼に訊いた。
「ひと間だ。俺らは下で充分なんだよ。二階を誰かに借さうかとも思つてゐたんだ。」
 さう彼は嘘を云ひながら、自分に反抗したい氣持ちが自分の言葉と調子とに何の障りもなくすらすらと出て來るとますます、ある痛快な快感を感じて來た。それに妻が茶を煎れながら、
「御馳走なんか私には出來ませんけれど、ほんたうに二階は使つたことがございませんの。」と傍から云つた。
「ずぼらぢやなけりや厄介になるんですがね。」と三島は云つた。
「もう私、馴れてゐますわ。良人の無精者つたらございませんのよ。」
「それぢや二人も揃つたらなほお困りでせう。」
「あら。」と妻は云つた。
 彼は妻の顏を見なかつたが、そのときの驚きを示した中に媚びを閃せてゐる妻の表情を感じることが出來た。すると又急に彼の心の中に寒さを感じた。
 三島はともかく荷物の着くまで彼の處にゐることになつた。彼は三島の荷物が着いても、まだ引きとめようと決心した。そして、事實さう實行した。もう彼はその時、覺悟を定めてゐた。何事が起つても妻一人を失ふそれだけで濟むにちがひない。それから起る後の苦痛や種々の混亂した事柄は自分一人でどうにでもなることだと彼は思つた。彼は自分の暗い氣持ちを成るだけ三島に感じささないやうに氣をつけた。妻に對してもいつもより快活に打ちとけるやうな態度をとつたが、しかしそれは妻の氣持ちを自分の方へ引かうとする心算からではなく、自分の苦痛を、より少く感じるために赤の他人になつてゐたい氣持ちからであつた。妻もそれを感じてゐたらしかつた。そしてそれだけ彼女も復讐的な氣持ちを加へて、彼の前で、一層前より激しい媚弄な態度を三島に示し出した。すると、彼の快活さもますます激しくなつていつた。それは時には不自然な程快活で、尤も彼の快活さは最初から意識的なものであるだけに不自然にはちがひなかつたが、それでも、彼は自分ながら自分がたまらなく不快になるほど、それほど放埒に快活になり出した。それが續いてゆくところまで行き續けると、急に今度は彼の妻に對する態度が三島の來ない前より一層冷めたくなつて來た。すると妻の媚弄も少し柔いで來たが、もう彼はとてもそのままではゐることが出來ない程不快になつた。それと一緒に今迄漸く壓へてゐた本屋の主婦に逢ひたい願ひも壓へることが出來なくなつた。


「とてもやりきれないね。道が惡くつて。」
 三島が歸つて來るとさう云つて火鉢の傍へ坐つた。
 彼は三島のは入つて來た姿を見ると恐怖を感じた以外、友情らしい何物も感じなかつた。自分の心のものだけは、どうすることも出來ないんだ、とつくづく彼は思ひ乍ら三島と火鉢に向ひ合つた。
 暫くして妻が湯から歸つて來た。彼は妻が襖を開けたとき、最初に三島へ眼を走らせたのを見た。
「まア、早やう厶いましたわね。お湯へ行つてたものですから、御飯の準備もまだなんですの。お腹おすきになつたでせう。」
 妻はさう云つて、もうこれで綺麗になつた自分の顏を充分三島に見せたと思つたらしく、どれどれとでも云ふやうに急に忙がしさうに勝手元の方へ廻つていつた。
「あらあら、まア、御飯が焦げついてゐるぢやありませんか。あなたつて何も頼めない人ね。御覽なさいよ。どうしたらいいかしら。」と又妻は云つた。が、その浮いた聲の調子から推すと自身の綺麗さを三島に感じさせたと思ふ彼女の喜びが、事實とは餘程誇張してさう彼女に云はしめてゐるのを彼は感じた。彼はもう早く三島と妻とがなるやうになつて欲しいと願ふ氣持ちが起つて來た。とにかく、三島に對する自分の態度は嘘ばかりになつてゐると思ふと、もうこれ以上、親友を瞞し自分を欺いてゐることが出來なくなつた。いや、それよりも、彼は自分の小心さ、臆病さ、彼自身つねに思つてゐるそれらの自分の病のために、自分自身を滅ぼしたくなつて來た。自分の最も恐れてゐること妻の貞操の破れること、ただそれを防がうとするためにのみ全心の思想を傾けて警戒して來た賤しい自分の胸へ、その最も恐る可き運命を自分と自分の手で塗りつけてやりたくなつたのだ。それはいかに痛快なことだらう。俺は逃げねばならない。俺は郷里へ歸らう。さう思ふ決心がいよいよ彼の中で堅くなつた。が、さう決心が堅まれば堅まる程、又、本屋の彼女が一方で彼を強くつかまへた。そしてそのことよりも夜になつたら今夜こそ本屋へ行かうと朝から計畫した彼の氣持ちが、夕餉を濟ませる迄、彼に落ちつきを與へなかつた。
 外へ出たときはもう暗かつた。彼は直ぐ本屋の方へ歩いていつたが出來るだけ、種々の理窟を考へないやうに努めてゐた。考へ出すと何も出來なくなるのが彼のつねであつたから。彼の前を若い二人の夫婦が彼と同じ方向に歩いていつた。夫の方は俯向て歩いてゐるし、妻の方はあたりを見廻しながら歩いてゐた。夫は何を考へてゐるのだらうと彼は思つてみた。妻の方は彼女が横を向いた時非常に綺麗であつた。多分、あの綺麗さに捉はれてゐる良人は、そのため種々の汚いことをしなければならなかつただらうと彼は思つた。暫く行つたとき、妻は一寸良人から一歩退いて後へ廻ると、良人の羽織の襟を直してやつた。彼はそれを見ただけでもいい氣持ちがした。
 近頃殊にさう云ふことに關して感傷的になつてゐる彼には、良人に貞節な女の行爲が、よしそれが些細なことであつても彼を大へん喜ばした。
「あなたは決して自分の良人と他人の良人とを比較してはいけない。さう云ふ心を見せてはいけない。分りましたか。」
 そんな風に彼は胸の中で前へ行く女に云つた。が、ふと、彼は他人の妻に逢ひに行く自分のことを考へて了つた。それはどう云ふ理由があらうともまたいかに野心がないとは云へ、少くとも放蕩にはちがひなかつた。前に自分の處へ遊びに來た多くの友達の中で、實は今自分のしてゐるやうに自分の妻に放蕩する目的で出掛けて來たもののあつたのを感じたとき、自分は苦しまなかつたか。さう思ひ始めると、彼は自分の反省心が又五月蠅くなつて來た。圖太く本能のままに放蕩出來る者達の性格が溌溂として強く綺麗なものに見えて來た。しかし、もし妻や友達らの或る者から苦しめられた自分の經驗が、何かのために役立つとしたならば、それは自分だけは少くともさう云ふことにかけては他人を苦しめないと云ふことそれだけにあるのではないか、と彼は思つた。「さうだ、」と強く應へるものがあつた。その應へには、彼の中に群る總ての考へを鎭壓さすだけの力が充分あつた。
 彼は自分が恨めしくさへ思はれた。が、さうかと云つて、又このまま自分の家へ歸らねばならないことを思ふともう彼は足がどちらへも動かなくなつた。
「一體俺と云ふ男は何から出來てゐるのだらう?」
 彼は實際一人の女のために、これ程苦しんでゐる自分がをかしくなさけなかつた。彼は立ち乍らくつくつ笑ひ出した。それは自分を強ひて嘲弄してみる氣持からでもあつたのだが、そのうち笑ひに混つて涙が出て來た。すると、不意に一切のことがらが實に馬鹿らしくなつて來た。自分の物は自分の身體だけなのだ! さう云ふ思想が、一つの強い感じになつて彼を打つた。彼は身體の中では遽に眠つてゐた何かの力が溌溂として動き始めるのを感じた。
「俺は今から郷里へ歸つてやらう。」と彼は思つた。彼は何躊躇もなく直ぐ停留場の方へ歩いていつた。俺は實にしつかりと歩いてゐるぞと思つた。さう思ふと自分が馬鹿に出來ないのを知つて嬉しくなつた。とにかく今電車に乘りさへすればよい。次には驛で切符を買ひさへすればよい。それで了ひだ!
 電車が來た。彼は澤山な人々を押し除けて一番最初に電車に乘つた。いつもは、人の込み合ふ場合彼は一番最後になつた。誰か後ろの方でぶつぶつ彼に云つた。「何ツ。」と彼は云つた。彼は戰爭の時、命を的にして突進すると云ふことがいつもどう想像してもただ頷けるだけではつきりしたその感じを感じることが出來なかつた。が、今、彼はそれを感じることが出來た。
 百萬の人間が敵になつて一束に自分に對向して來ても、俺は今ならただ一人でその中へ突進することが出來ると思つた。彼は自分の今の意力なら電車も停るかも分らないと云ふ氣がした。彼は吊り革に下つたまま下腹に力を入れてみた。が、電車は矢張り走り續けた。彼は口惜しかつた。暫くすると彼は自分が今自分の運命を自分の手で轉開しつつあるのだと意識した。これは彼に悲壯な感じを起させた。そして自然に、妻と自分とを結び付けてゐた過去の種々の歡樂が頭に浮んで來ると、急に又彼の意力が萎みさうになつて來た。
「駄目だ、駄目だ。」と彼は自分を叱りつけた。
 彼は湧き上る過去に對する愛着心を振り撒くために周圍の人々の顏を見廻した。黒い顏、長い顏、白い顏、低い鼻、髮、手、眼、そして漸次に自分の傍の方へ視線を引き寄せて來ると、十六七の少女が上眼使ひで彼を見てゐた。彼は視線を彼女の眼の上で停めてみた。少女は直ぐ俯向いた。が、又彼を見上げると又俯向いた。それでも彼は尚見續けてゐると、今度は少女は顏を赧らめ乍ら遠くの方からだんだん彼の方へ眼を動かして來た。彼はもう眼を外らして了ひたかつた。が、今、外らすと却つて少女の心に傷がつきさうに思はれた。しかし、この同情心が放蕩だと彼は思つた。彼は眼を外らして反對の方を見た。すると一人の老人が居眠りしてゐる頭をひよいひよいと立て直してゐた。その横では丸髷に結つた若い婦人がシヨールに顎を埋めて時々眼だけで前の方を眺めてゐた。その眼つきが狙つたり狙はれたりしてゐる賤しい眼付きであつた。その傍では蔓の繼いだ眼鏡をかけた青年が少し横向きになつて本を見てゐた。時々眼を空に向けて何か呟いては、指先で紙面を叩いてゐる。
 東京驛へ着いたとき、發車時刻まで間がなければよいがと思つた。間があればそれだけ妻のことや彼女のことを考へて、又どうした拍子に引き返して了はないとも限らなかつた。三十分の間があつた。彼は直ぐ切符を買ひに行つた。買ふ前に、「いいか?」と自分にもう一度訊ねてみた。「いい。」と答へた。少し曖昧な調子も混つてゐたが、意志の惰力で案外平氣な氣持ちですらすらと切符が買へた。彼は廣い驛内の賑な所を往つたり來たりし續けた。此の場合ベンチに腰を掛けて動かないのは過去に心を引かれる危險があつたから。とにかく、今は手段として何より未來の華やかな幸福ばかりを夢想したり、それらの空想を刺戟する事物のみに頭を働かせてゐなければならなかつた。すると何處か遠くの圓柱と圓柱との間の人込みの中で一寸、白い鼻紙が桃色の頬を包んだやうに思はれた。何ぜともなく彼には彼が通り越せた視線を直ぐその方へ振り向けたときもうそのものは流れる人々に邪魔されて見えなくなつてゐた。が、それが綺麗なものにちがひないと直覺された。彼は直ぐその方へ歩いていつたけれどもそのあたりの何處にも綺麗なものは見あたらなかつた。暫くそのままぼんやり立つてゐると、どこにゐたのか蛇の目を持つた十六七の少女が父に連れられて彼の方へ進んで來た。此の少女だつたにちがひないと彼は何の疑ひもなくさう思つた。彼はまだこれまでにそれほど美しい少女を見た記憶がなかつた。彼は直ぐその少女の後を急がずに追つていつた。少女は改札口に竝んでゐる人々の後へ父と一緒に竝んで停つた。彼はその少女と一つの列車に乘つてゐる間の幸福を想像すると、たしかにこれなら郷里まで歸れると云ふ自信がついた。
 改札が始つて人波が前へ進んだ。彼は彼より前方にゐる少女を見失なはないやうに注意してゐたので彼の番が來たとき、馳けてゆく彼女を見守りながら驛夫に切符をさし出した。そしてプラツトに停つてゐる後から三番目のボギーの昇降口の處で漸く彼は少女に追ひついた。が、少女は列車の中へは入らずに窓の下で父と一緒に立つてゐた。彼は急に淋しくなつた。が、少女のゐる窓の傍のベンチを取ると、眞正面からはつきりと少女を見ることが出來た。少女の父は窓越しに彼の前にゐる太つた婦人に話しかけた。
「ええ、ええ。さう申しませう。」
 婦人はそんな返事をしながら黒い袋に入れた琵琶を棚に上げた。少女は父の傍で蛇の目を簫を吹くときのやうに捧げたまま片足を中心にして廻つてゐた。その彼女のどこからも自分の美しさを意識してゐる者の賤しさを彼は少しも感じなかつた。そして、それは彼女がいつまで立つてもまた、どれ程人々から賞讃され續けても恐らく生涯今の氣品を保つであらうと思はれる程、彼女の總てに謙讓な優しさが現はれてゐた。彼は自分をかくまで動かした美の力に驚いた。そして、もし今自分のやうに妻から苦しめられてゐる多くの若い良人達に彼女を一眼見せたら、彼らは必ず妻に復讐する力を感じて妻から放れようとするにちがひないと彼は思つた。
 ベルが鳴つた。少女は胸の上で兩手を合せて婦人を見乍ら、
「あらあらあらあら、」と云つてくやしさうに地團駄を踏んだ。彼は少女の小脇に挾まつてゐる蛇の目に「野田ゆき子」と書いてある朱字を見た。
 汽車が動き出した。彼は何よりも眼の前の少女から放れてゆくのが淋しかつた。そして、もしも少女とこの偶然な邂逅をしなかつたとしたならば、あるいは切符を握つたまま再び妻の傍へ自分は歸つたかも分らないと彼は思つた。


 果して、妻と三島とは自分の最も恐れてゐたことをなすであらうか、なしたであらうか。三島を信用しながらも矢張り絶えず彼の頭に浮んで來て、彼は歸國してからもなかなか落ちつくことが出來なかつた。そして、今かうして全く總てのことから、放れてみると、過去の中で一番彼の心に響いて來る者は妻の辰子であつた。「俺は矢張り辰子を愛してるんだ。」と彼は思つた。それに、一緒にゐるときはあまり彼女の性格の善良な部分を感じなかつたが、それが別れたとなると、急に彼女の全部の性格を代表して彼の心の中に現れて來た。一體辰子は自分に何をしたのであらうふと彼はさう云ふ疑ひを持ち出した。すると、辰子のしたことは、別に何んでもないただ普通のことを普通の妻達がするやうになしてゐたのにすぎないと思はれて來る。さうして、苦しんでゐたのは、ただ自分の中の下らない性格だけでそれが勝手に苦しい理由を作り出してそして絶えず勝手に苦しみ續けてゐたのではなかつたか。彼は歸國したと云ふことが急に馬鹿らしくなつて來た。が、僅か一日の妻の懷想で遽に又妻の傍へ歸るとすると、あれ程の覺悟で出かけて來た自分に對して面目ないやうな氣持ちもした。そして、又妻の不貞な性格をあれこれと出來る限り記憶の中から掘り起して無理に妻を不貞な女に仕上げることに努めてみた。すると再び、妻が不愉快な妻になつて來た。
「矢張り俺は歸るまい。」と彼は思つた。
 歸國して三四日した夜隣家の主婦がカルタをするから來るやうにと彼に云つた。彼はカルタをするといつも無駄な疲勞を激しく感じるので嫌ひであつた。が、その夜は行つた。すると、かん子が來てゐた。彼はかん子を大學時代に愛したことがあつた。かん子も彼を愛してゐた。しかし、どちらもそれを打ち明けるまでにはいかなかつたが、殆どそれを云ひ合つたのと同じであつた。或る日、彼の家の附近へ、活動寫眞の種を撮りにその頃有名であつた新派の役者が來た。その時彼もそれを見に行つたが、大勢の見物の中にかん子もゐた。實は最初から撮影を見るために行つたのではなく、かん子の來てゐることを豫想して彼は行つたのだつた。自然彼の眼はかん子の動作に注意した。すると、かん子は絶えず一座の中でも一番綺麗で有名な役者の顏をぼんやりして見とれてゐた。その表情には彼が傍にゐることを意識した感情が少しもなかつた。彼はそれぎりかん子を愛することをやめて了つた。又、逢ひもしなかつた。そして、今初めて二年半振りで彼は彼女を見たのだが、まだ嫁がない故か綺麗さは前のやうに綺麗であつた。傍にはかん子の友人の君子もゐた。カルタが始まると最初かん子は君子と竝んで彼と向ひ合はねばならなかつた。讀み方が讀まうとする前にかん子は小聲で、
「私、慄へて困るわ。」と傍の君子に云つた。
「私も。」さう君子も云つて一寸胸を壓へた。
 いよいよ勝負になつても、かん子はあまりとれなかつた。しかし、番が變つてからは皆の中で一番彼女は上手かつた。彼の注意は常に終りまでかん子に向いてゐたが、いつもより少し窮窟な感じがしただけで氣持ちは少しも亂れなかつた。かん子は殆ど誰とも話さなかつた。そして、彼の知つてゐる限りでは彼女は一目も彼を見なかつた。彼も人々の注意が誰のも自分に向つてゐないと思はれたとき以外には彼女の方を向かなかつた。蜜柑や菓子が出て休息の時になると皆が一時に騷ぎ始めた。君子と主婦とは一座から離れた長火鉢の傍で一寸顏を見合せて微笑してゐるのを彼は見た。それが彼には自分とかん子とのことに關連した微笑のやうに思はれて顏が顰んだ。かん子は厠へ立つていつた。暫くして彼がその方を見ると、かん子は暗い庭に立つて硝子戸越しに彼を見てゐた。その眼付きには、ただ過去の思ひ出を愛翫してゐるにすぎない弱いものがあるだけだつた。しかし、その夜、彼は床には入つてからもそのかん子の眼を中心にして彼女のことを考へた。もし自分がかん子を妻にしてゐたなら、今よりは、少くとも幸福であつただらうと思はれた。
 明る日彼が二階の窓から閉つてゐるかん子の家の二階を眺めてゐると、丁度そのとき下の細い路をかん子が通つた。彼女は彼の方を少しも見なかつたが、彼の視線を感じてゐるのが彼女の締つた唇や歩く樣子で直ぐ分つた。彼女は何處へ行つたのか、又、暫くして戻つて來た。彼は彼女の姿が見えなくなつてからも長らくそのまま弛んだ氣持ちでそこに立つてゐた。すると今迄閉つてゐた筈のかん子の家の二階の戸が二枚だけ開いてゐた。開いてゐるのを認めたとき、三枚目の戸がひとり又戸袋の中へ辷つていつた。そして、その戸の中から現れたのはかん子であつた。彼女は最後の戸を戸袋の中へ了ふと髮をいらひながら暫く遠くの山を眺めてゐた。その間、最初から矢張り彼女は一度も彼の方を向かずにそのまま室の中へは入つていつた。彼は彼女が再び出て來るであらうと思つて待つてゐた。が、彼女はいつまで經つても出て來なかつた。彼は自分が羞しかつた。それでも彼は彼女の立つてゐた戸袋から暫く眼を外すことが出來なかつた。前にはその戸袋が、彼女が彼女の家人に隱れて彼に彼女の愛情を示す都合のいいただ一つの場所であつた。
「お前はそこで默つて泣いたことがある。お前が泣いたと同じやうに、俺もお前を愛してゐた。しかしお前は一眼見た役者の美しさのために、俺の愛情を蹴飛ばした。何ぜそれが惡かつたのかと云ふのなら、俺はお前に云ふが、俺はその役者に負けたのだ。負かすやうにしたのは役者ではない俺のために泣いた時のお前なのだ。」
 彼はそんなことを胸の中で云つてゐるうちに、急にその時の不愉快さが甦つて來た。彼は窓を閉めて室の中を廻つた。
「本當に貞節な女はゐないのか。本當に貞節な女がゐたなら、俺は何時でも生命を投げ出してやるだらう。いや、本當に貞節な男もゐないぢやないか。不貞な男と女の集團から子供が産れ續けてゐる間、何が一體進歩なのだ!」
 ふと彼は辰子を妻に持つた當時のことを思ひ出した。その頃、精神的の苦悶は勿論肉體の苦痛も、夫妻は同樣に共感しなくてはならないと云ふ思想から、よく辰子を膝の上へ乘せ乍ら、自分と自分の顎を抓つてみて、「お前の顎が痛かないか、」と妻に訊ねた。「痛かない。」と妻が答へると「まだ駄目だ、」と云つて彼は妻を膝から下ろした。今彼はそれを思ひ出すと、あの辰子にそんなことを眞面目にやつてゐた自分がをかしくなつた。


 かん子は次の日から彼の家の前を一日に二度は通つた。彼は初めのうちは彼女の下駄の音がすると、自分の姿を見せないやうにして彼女を眺めてゐた。しかし、急に妻から放れた今の彼としては、ただかん子をさうして見てゐるだけでは物足りない氣持ちがして來た。彼は又最初のときのやうに露骨に彼女の通る姿を眺めるやうにした。
 彼は午後になると毎日錢湯へ行つた。そこへ行くにはかん子の家の軒を通つて行かねばならなかつた。彼の湯へ行く頃はまだ湯が漸く沸き始めた頃なので、女の方も男の方もいつも客は彼一人であつた。しかし湯へ行きつけて二三日した頃から女湯へも早く來る客が一人あつた。或る日彼は湯から上るとき水溜の水を汲まうとすると、御影石に包まれた靜かな水面にかん子の裸體の立像が半身を映してゐた。彼は水を汲むのを止めてその白い高まつた胸と顏とを眺めてゐた。が、ふと彼は自分の裸體も向ふから見れば同じやうに映つてゐさうに思はれて急いで身體を後へ引いた。暫くして又水溜を覗いてみたが、その時はもう彼女の姿は見られなかつた。彼は湯から出てからも着物を着るのに、出口でかん子と逢つてみたい氣持ちが湧いてわざと遲くかかつた。女湯へ早く來る一人の客がかん子であると知らないまでは、番臺にゐる娘の眼が恐くはなかつたが、彼女だと分るとその娘に氣がひけた。その娘は綺麗であつた。多分、多くの男客を牽きつけてゐさうであつたが、彼女の巧妙な愛想とよく動く眼の裏にはどこかに油斷のならぬものが潛んでゐさうで賤しかつた。彼は最初からその娘には少しも心がひかれなかつた。が、しかし、毎日自分の來るのをかん子が知つてゐるとすれば、自分の氣持ちをかん子に疑はれても仕方がないと彼は思つた。又、どちらから疑はれても別段今の彼には差し閊へはなかつた。が、疑はれるより疑はれない方が氣持ちがよかつた。かん子は入口を出るとき下駄を履いてゐる彼を一寸見た。その見方は矢張り早く來る男湯のただ一人の客が彼であることを充分知り拔いてゐる見方であつた。してみると、彼女も、自分が彼女の足音を知つてゐるやうに家の軒を通る自分の足音を知つてゐるのにちがひないと彼は思つた。彼がかん子の直ぐ後から表へ出るとかん子は、少し胸を反らして道の片端を歩いてゐた。その姿は、彼の視線を感じてゐるときの彼女のいつもの姿勢であつた。それは少し傲慢な感じであつたが、その傲慢さには、賤しい心の男が手出しをし兼ねる貴い處があつて、彼にいつも頼もしい感じを與へてゐた。すると、暫く行つたとき、彼女の小脇に支へてゐた金盥が道端の低い竹垣の角に引つかかつた。金盥は白粉やクリームや石鹸と一緒に道の上へ散らばつた。彼女は顏を赧らめて微笑しながらあちらこちらに轉げてゐる化粧道具を拾ひ集めにかかつた。彼は彼女の羞しさを感じると、何ぜかそのまま直ぐ後へ戻つていつた。が、さて何處へ行つていいのか自分の行く先きに彼は迷つた。すると彼はまた無意識に何の目的もなく湯屋へは入つた。
「いらつしやい。」
 さう娘は新らしい客に云ふやうに彼に云つた。彼は尚困つた。が、默つて上へ上るとあたりを見廻してから娘を見ないやうにして、又、そのまま外へ出た。その時はもうかん子は前のやうに落ちついて歩いてゐた。彼も初めて落ちついた。が、彼女の狼狽さとそれを見た自分の今さきの狼狽さを思ふと彼は自然に笑へて來た。彼女は彼の方を向かずに門の中へは入つて了つた。
 次の日も矢張りいつもの時刻にかん子は湯屋へ來た。彼はかん子の來てゐることを意識してゐるだけでも今迄のやうに弛やかな氣持ちで湯に浸ることが出來なくなつた。それに、ただ二人の容子だけが同時に見える番臺から絶えず見られてゐる處を想像すると尚だつた。それでも彼には一日の中で湯に行くときが一番待遠しくなつて來た。
 數日たつた雨上りの夜、彼は縁側に立つてゐると暗い門の塀の向ふを通る足音がした。前からかん子は夜は決して出なかつたが、彼にはその足音が、彼女に相違ないと思はれた。彼が足音の向いた方へ出ていつてみると隣家と彼の家の板塀との間の狹い露路に彼女はひとり立つてゐた。彼は彼女の前まで來ると自然に足がたち停つた。彼女は袂を胸の上で壓へたまま彼と向ひ合つて默つてゐた。彼も默つてゐた。すると不意に役者の顏に見とれてゐる彼女の顏が又彼の頭の中に浮いて來た。彼はそのまま彼女の横を通り拔けて裏の方へひとり歩いていつた。


 歸國してから半月程もたつた或る日彼宛の手紙が三島から來た。それには短く次のやうに書いてあつた。
 君は何ぜ歸つて來ないのか、多分君は郷里へ歸つてゐることと思ふが、出來ることなら、早く歸つてほしい。多くは云ふまい。ただ歸つてほしいのだ。俺は危險になつてゐる。
 彼は手紙の最後の言葉を讀むと急に落ちつかなくなつて來た。もとよりそれは充分豫期してゐたことではあつた。しかしその豫期してゐたことが、今明瞭に事實になりつつあるのだと思ふと、豫期してゐたときとは全く違つた恐怖が初めて彼に迫つて來た。そしてこの恐怖心は今まで續いてゐた妻に對する彼の反抗心を忽ち吹き拂つて了つて、理窟なしに直ぐ歸らうと云ふ氣持を強く彼に起させた。あれ程の覺悟をして歸つたものがさてとなると又遽に搖ぎ出す、さう云ふ自分がいかにも彼には安價な男に思はれた。けれども自分の意力を感じようとし自尊心を保たうとする心からばかりで故意にまだ愛してゐる妻を友人に開放して來た自分を思ふと、そのときの自分の方が、妻の傍へ歸らうと思つてゐる今の自分よりも尚一層安價なやうに思はれた。彼はもうかん子のことは頭になかつた。もともとかん子にはさう愛着も感じてゐなかつたが、しかし、妻に逢ひたくなつて來れば來る程、さうして彼の頭の中で妻がますます善良で無邪氣で綺麗に見えれば見えて來る程、かん子との自分の放蕩が譬へそれは暫くの好奇心からであつたとしても、妻に對して濟まないと思ふ心が起つて來た。妻と一緒にゐると放蕩心が起つたときに感じる自責の心も、直ぐ次に來る妻の不愉快な行爲のために消されて了ふのが例であつたが、一人となると起つた自責の心が容易に彼の中から消えなかつた。無論今も一度は妻の不貞な半面を再び心の中に浮かべてみた。だが、この場合最早や彼女の不貞な性格は、不思議にも彼女を飾る裝飾物になつて尚一層彼の心を捉まへるにすぎなかつた。さうして、あの時自分がどうして妻を殘して歸ることが出來たのか今の氣持ちならとても出來さうにも思はれないのにと思ふとそれが不思議にさへ思はれた。
 彼はその夜、歸國したときと同じやうに、何の躊躇もなく東京行きの列車に乘つた。彼は三島に逢つたなら、自分の總ての氣持の經過について正直に話して了はうと考へた。そして妻には出來るだけ彼女の性格と突き合ふ自分の警戒心を解放して寛大にならうと思つた。もしさうすることが出來たなら、多分新らしい生活が再び辰子と自分との間に展かれて來るにちがひない。だが、それにしても、辰子の氣持ちはもう自分に戻らない程、三島に向つてゐるかも分らない。さう思ふとあまり周章てて汽車に乘り過ぎたやうにも思はれたが、しかし、自分が歸れば又辰子の心を取り戻せると思ふ自信が三島の手紙を見たときから、彼にはあつた。彼は度々三島と妻との心理經過を想像した。が、自分の最も恐れてゐること、そのことは三島が手紙をくれたと云ふことだけでも、まだ結ばれてゐないにちがひないと彼は斷定した。無論此の斷定の仕方には三島を信用してゐる彼の氣持ちが大部分働いてゐたとは云ふものの、幾分かは恐る恐る、さう信じることを欲する彼の氣持ちが手傳つた傾がないでもなかつた。
 夜明けに彼は東京へ着いた。彼は眠らなかつたが、頭は病的に冴えてゐた。割引の電車で郊外まで來て、そこから寒かつたので俥に乘つた。まだたいていの家の戸は閉つてゐた。宅の前で俥を降りてまだ閉つてゐる戸を輕く叩いた。
「おい。」
 返事はなかつた。彼はいつもよく戸の締りをせずに眠る辰子の癖を思ひ出した。で、自分で戸を引いてみると、戸が開いた。彼は家の中へは入るのに何ぜだか少し他人の家へは入るやうな氣遲れを感じた。彼は玄關から六疊へ通る間の舞ひ戸になつた唐紙を引きながら、
「おお寒い。」と云つた。
 六疊へは入ると、辰子は三島と一つの夜具の中で眠つてゐた。
 その瞬間彼は自分が無禮なことをしたやうな氣持ちがして少し周章てた。と忽ち兩膝が慄へて來ると胸が痛み始めた。それと一緒に三島に對する怒りが彼の身體全體を引き締めた。がそれは暫くのことで間もなく漸次に彼の怒りは辰子にでもなく三島にでもない全然それらとは別箇の、かく自分を存在させ、かく自分を愚弄したある不可思議なものに對して向つていつた。彼は全心の怒りの力でそのものに反抗した。
「よしツ。俺を迫害するならしてみろ。俺はどこまでも貴樣に對向してみせる。」と彼は思つた。
 彼は自分の眼を外らさす心を、無理に壓へて二人の眠つてゐる枕もとへ坐ると、じつと妻の顏を見詰め始めた。彼の胸はますます痛んで來た。唇の慄へが止まらなかつた。すると、胸の痛さが、まだこれなら保てると思はれる程度のときに不意に、いつものやうに平靜になつて來た。それはどう云ふ理由か彼にも分らなかつたが、とにかく、「しめたツ」と彼は思つた。彼は全く妻を輕蔑する氣が起つて來ると、三島と眠つてゐる眼の前の妻が、相手になれない下品な動物のやうに見えて來た。
 そのとき妻は初めて眼を醒した。彼女は暫く醒ましたままの顏をして彼を見てゐたが、急に蒲團を頭から冠つた。
 彼はこのまま坐つてゐると、又苦痛が舞ひ戻りさうに思はれたので、立つて表の方へ出て行つた。表へ出たと云ふことは此の場合彼にとつては非常にいいことであつた。通りは次第に活氣づいて來てゐた。白い大根を積んだ荷馬車が幾臺も賑やかな街の方へ動いていつた。
「はい、よう、はい、よう。」數人の若者達はさう云ふかけ聲と一緒に白い息を吐き乍ら空車を輓いて勇しく彼の前を馳けて行つた。雀は朝日のあたつてゐる緑色のペンキ塗りの建物の上をけたたましく叫びながら追つ馳け合つた。
「一切が濟んだのだ! 俺は自由になつたのだ!」
 彼は急に病的な快活な氣持ちになると朝日を眺めて「素敵だ! 素敵だ!」と云つた。そのうちに涙が出て來た。彼は力の限り路の上を馳け廻つてみたかつた。彼は通りを横切つて庭園のやうに平な雜木林の中へ足早やには入つていつた。一人の男が驢馬をひいて來て木に縛いだ。女學校の寄宿舍の煙筒から上つてゐる煙の中で何處かの避雷針が時々きらきらと光つてゐた。彼は涙がしきりに流れて止まらなかつた。雜木林を拔けると起伏した牧場があつた。半白の牛の群れが小屋の中から一匹づつ追はれて出ると、圓を描いて夫々牧場の中を歩き廻つた。
 彼は自分の妻を傷つけられたと知つて、それ程快活になつてゐる自分が分らなかつた。彼は自分が氣が狂つたのではないかと疑つてもみたが、しかし總ての意識が明瞭すぎるほど明瞭であつた。とは云へ、此の氣持の急激な變化は、もし今出逢つたことがらについて昨日までどんなに彼が想像したとしてもそれはとても想像することが出來ない種類のものであつたにちがひなかつた。そして、それだけにまた、彼の快活さの裏には何時急變しないとも分らない不安さがあつたが、ともかくそれは譬へ一時的のものであるにせよ、自分がこんな氣持ちを持ち得たと云ふことだけでも彼は喜んだ。けれどもそれはあまり長くは續かなかつた。彼は三島とはこれ限り放れて了ひたくはなかつた。彼の頭の中の三島と目にした現在の三島の行爲とはあまり激しく違つてゐた。そしてその差が多ければ多いそれだけ現在の三島の行爲は何か不可抗的なものに敗北した三島の行爲のやうに思はれて、そこに自分の道義心を尺にしては裁斷することの出來ないあるもののあるのを彼は感じた。それに三島の罪の半分は彼自身にも充分あつた。もともと前には、三島と辰子のさうなることを願ひ、さうなるやうに自分から仕向けて行つて、そして、今、さうなつたが故に、三島を恨み辰子を輕蔑すると云ふことは、あまりエゴイステイツクすぎることにちがひなかつた。が、さうかと云つて、彼が二人のさうなることを願ひ、さうなるやうに仕向けた心の裏には、事實は多分さうならないであらうと思ふ安心さや、さうならないことを願ふ氣持ちが充分にあつたのだ。が、今となつてみれば、一切が終りである。彼のとり得る權能はただ自身を嘲弄し自身を輕蔑することのみに許されてゐる。
 彼は周章てて牧場の柵に添つて、田芹の生えた畔を通り、森の中へは入つてゐる路へ出た。すると彼は再び寒さを感じ始めた。そして彼の心を刺戟してゐた生々した外界が枯れた森や土の多い菜園や地平線の上の衰へた山波に變つて來ると、今迄張り詰めてゐた彼の昂奮も醒めて來た。それと同時に内部から押し上げて來る暗い氣持ちが遽に力を増して搖り返して來た。が、もう彼は自分がどうなるのか不安であつた。彼は急いでもと來た方へ引き返したが、眼に映る總てのものは新鮮な力を失つてゐた。さうして穢された美しい妻の肉體や奪はれた樣々な妻との過去の歡樂がひつきりなしに彼の頭の中に浮んで來ると彼の胸は再び激く疼いて來た。彼は倒れさうになつて來た。自分が妻にしたことを他人が代つてなしてゐる。さう思ふと彼はたまらなかつた。自分の一切の記憶を斷ち切るために、一突きにその胸の疼く所を突き刺したくなつた。彼は暫くそこに立ち停つたまま動けなかつた。齒が慄へて合はなかつた。すると突然彼は尚自分を虐めてやりたくなつた。今最も自分を苦しめてゐる妻の肉體を、自分の眼の前へ突き出してやつたなら。ああ、そして俺は俺を弄り殺してやつたなら。彼は家の方へ馳けるやうな氣持ちで歩いていつた。
 家へ歸つて、舞ひ戸を開けると、妻は蒲團の上へ立ち上つて襟を直した。三島は蒲團から半身を起すと、顰めた額に一寸片手をあてた。
「飯はないかね。」
 彼は二人を見ないでさう云ふと勝手もとの方へ足が動いた。
「郷里へ歸つてゐたのかね。」と三島は訊いた。
 彼は默つて飯櫃の蓋をとると、
「ないなア、腹がすいて腹がすいて。」とそんなことを口が云つた。
「今、焚きますわ。」と妻は云つた。
「どうも寒い。火がないなんていけないね。俺がひとつ起してやらう。」
 彼は炭取りの炭を荒々しく割り始めた。
「ありがたう。私がしますわ。」
 と云つて妻は彼の傍へ來た。その口調は全然他人のやうであつた。彼は彼女には關はずに默つて割つた炭を七輪の中へ入れようとしたとき、傍へ蹲んだ妻の匂ひと暖い空氣を身に感じた。彼の胸はまた急に激しく痛んで來た。彼は自分のマツチを袂から出してひとり焚きつけに火をつけ、團扇で七輪の下を煽ぎ出した。一切の頭の働きを追ふために彼はぱたぱたと故意に激しく音をたてた。これは效果があつた。彼は自分の考へを、火を起し終へてから直ぐ次にする可き仕事の方に向けていつた。米を磨がう、それから湯を沸かして、味噌汁を煮いた後で食器を洗ふ。それから室を掃いて、雜巾をかけ、庭を掃き、家の中の全部を殘らず丁寧に掃除をする。と彼は考へ續けていつたが、しかしその勞働は寸時の休みもなく身體の續く限り、一生し續けなければ休んだ時間から忽ち苦痛が肉體の中へ忍び込んで自分を破滅さしさうに思はれた。
 妻は暫く默つて彼の傍に立つてゐたが、また彼から離れると蒲團の上へ顏を伏せた。三島は怒つたやうな顏をして、胡坐の上で握り合せた手を見詰めてゐた。彼は火が起つても、かけるものを忘れて煽いでゐた。が、急に自分のしてゐることが馬鹿らしくなつて來た。團扇を捨てて室の中へは入らうとすると、不意に三島は立ち上つた。そして彼の顏を充血させた眼で暫く睥んでゐてから、默つて寢卷のまま外へ出ていつた。彼は三島が何故怒つてゐるのか分らなかつた。が、それについて考へたくもなかつた。彼は妻の傍へ寄つてゆくと蒲團の上へ突き立つたまま妻の肩を見下してゐた。彼は急に慄へる程腹立たしくなつた。すると又妻が汚ない動物のやうに下品な物に見えて來た。
「俺は歸る。」と彼は云つて舞ひ戸の方へ歩き出した。
 妻は泣き乍ら彼の片足を抱いて、
「待つて、待つて、」と早口で云つた。
 彼は妻を蹴飛ばした。妻は横に倒れると、
「私、腹が立つたわ。長い間置いてきぼりにしてゐて、私、腹が立つたわ。」
 さう云ひながらまた蒲團の上へ顏を伏せた。
 彼は一寸可哀想な氣持ちがした。
「俺はお前に俺の子を産まさうと思つてたんだ。」
 彼は舞ひ戸の外へ出て行つた。妻の泣き聲が急に高く室の中でした。
 彼は家の前で一寸立ち停つた。が、矢張り、今はとても辰子と一緒にゐる氣がしなかつた。彼は大通りの方へ歩いて行つた。小路をひと角曲ると、三島が向ふを向いて立つてゐた。彼は三島の傍まで來ると又自然に立ち停つた。三島は暫く彼に氣づかなかつた。
「俺は郷里へ歸る。」と暫くして彼から云ふと、三島は初めて彼の方を見た。三島の唇の端から血が一條流れてゐた。二人はそのままどちらも默つて俯向いてゐた。彼は歩き出した。
「辰子さんを呉れないか。」と突然三島は云つた。
「もう今は話せない。歸つてからにしてくれ。」
 さう云つて彼は通りの方へ出た。


 彼は三島とはこれ限り放れて了ひたくはなかつた。彼の頭の中にあつた三島と、現在目にした三島の行爲とはあまり激しく違つてゐた。無論三島が辰子に落ちたと云ふことは最初から彼の理解出來ないことではなかつたが、しかし、それにしても今となるとあまり三島のやりかたがひどすぎるやうに思はれる。とは云つても、三島の行爲のうちには、何か不可抗的なものに敗北した憐むべきものがありさうに思はれて、ただ自分の道義心を尺度として裁斷しかねるやうな氣持もした。それに、三島の罪の半分は自分にあるのを彼は知つてゐた。もともと前には三島と辰子の結ばれることを願ひ、結ばれるやうに自分からは仕向けていつて、さて今さうなつたが故に、三島や辰子に怒りを持つたとすると、それはあまりに利己的すぎるにちがひない。が、さうかと云つて自分が二人のさうなることを願ひ、さうなるやうに仕向けた心の裏には、事實は多分さうならないであらうと思ふ安心さや、さうならないことを願ふ氣持ちが多分にあつた。それはただ自分に對する反抗からだけだつたのだ。しかし、今は、三島の一本の手紙で舞ひ戻つた自分の馬鹿さをただ嗤つてやればそれでよい。もしあの手紙が來なかつたとするならば、自分はまだまだ歸つてゐなかつたにちがひない。とすれば、いづれ辰子は相手が三島でなくとも他の誰かと結ばれてゐたのにちがひない。と思ふと彼はもう何者にも怒れなくなつて來たばかりではなく、今さきまでの自分の動亂した容子が全く羞しく思はれだした。
 彼は本屋の方を廻つてみたい氣持ちがしきりに起つて來る。と、その方へ歩いていつた。もう行つてはいけないのだ。さう思ひながらも彼は自分の氣持ちを壓へることが出來なかつた。とにかく彼はもうたまらなく淋しかつた。今、傍にかん子がゐてくれればいいと思つた。三島と辰子の容子を見たときから彼の氣持の底には急にかん子の方へ倒れかかつていくものがあつたのだがそれにも拘らず、まだ本屋へ廻らうとする自分の意欲がなさけなかつた。彼は本屋の前を通るとき、豫め計畫してゐたやうに本屋の方を向かずに通り過ぎることが出來た。そして、それを喜びながら、「俺は何て馬鹿なんだらう。」と彼は思つた。
 彼はいそいで停留場の方へ歩き、三田行きの電車に乘つた。東京驛から汽車に乘つて了ふと、彼は急に疲れを感じて來た。まる二日眠つてゐないのと苦しさとで頭の後が痛んで來た。が、それでもなかなか眠れなかつた。少し眠つたと思ふと直ぐ眼が醒めた。醒めると何より眞先に穢れた妻の身體が浮んで來た。これが浮ぶと彼の胸は壓縮されるやうに痛むで來る。彼は時々走つてゐる汽車の窓から飛び降りてゐる所を想像した。彼は早くかん子に逢ひたかつた。今迄かん子に冷たい態度をとつてき乍ら、妻が駄目になつたとみてとると、急にその方へ心を向ける、さう云ふ自分がいかにも淺ましい氣がしたが、一切のことをかん子に云つて了へばよいとも思つた。けれども、まだ女から受けた自分の苦痛をなくするために他の女に心を向けてゐ、向けねばならない自分を思ふと彼は全く心から凋れて了つた。
「何ぜ俺はかうなのだらう? いつこれがなくなるのだらう。」
 彼は早く老人になりたかつた。そして列車の中にゐる老人を目で搜し、それから空を見た。すると涙がしきりに流れて來た。


 再び郷里へ着いたときには、夜だつた。彼は睡眠の不足と疲勞とのために言葉も云へない程疲れてゐた。頭の働きは全然鈍つて了ひ、心に受けた苦痛は他人の苦痛のやうに自分から遠のいてゐた。眠氣がとれ、疲勞が恢復したとき又甦つて來る苦痛を思ふと彼はいつまでも今の状態にありたかつた。家の者には又東京が嫌ひになつたから歸つて來たと云つておいた。
 その夜彼はかなり眠かつた。が、時々夢を見て、自分が夢をみてゐるのを意識される程度のうつつさに眼が醒め、又夢をみた。その夢のどのシーンにも必ず辰子が現れた。彼が死にたくもないのに、自分の身體だけが何物かに押されるやうに去つて[#「去つて」はママ]ゐる列車の車輪の下へずんずんと動いてゆく。そして、頭の骨が廻轉砥に素燒を磨りつけてゐるやうなガリガリと云ふ音を立てて減つて行くにもかかはらず、頭に殘つてゐる澄明な頭の形をした心だけが少しも車輪に咬まれずに殘つてゐる。その癖車輪は彼の心の中で廻つてゐる。辰子は彼の後ろで彼とは反對の方へ走つてゆく。何故走るのかと彼の心が車輪の中から彼女を眺めてゐると彼女は彼の助かるやうにと何處かの神社のやうな處へ願をかけに走つて行くらしかつた。が、彼女はのんきさうに誰かと他事を話しながらにこにこ笑つてゐた。それでも眼が醒めたとき彼は辰子を惡く思へなかつた。その夢に現れた辰子はいかにも辰子らしく善良でのんきであつた。今の場合辰子が善良で子供らしく彼に思はれて來るのは却つて彼を苦しめた。もつと不貞で惡竦で毒婦のやうな女に辰子を思ひたかつたが、しかし、彼女は自分と別れてどんな男と一緒になつてゐても、それを後悔しない代りに、また自分が來いと云へば何時でもその男を捨てて自分に戻つて來さうに彼には思はれる。それだけにまた彼は辰子を全然自分の心から捨て去ることが出來ないのが今、何より苦痛であつた。彼は自分が前に一時の昂奮から、辰子を捨てて歸國したのを後悔した。矢張り出來る限り總ての注意を拂ひ警戒し妻を防衞し續けてゐた方が好かつたやうに思はれた。そしてもしある時期が來るまでさうし續けてゐたなら、いつかはさう云ふ種類の總ての苦痛には軈て麻痺して了ひさうに思はれる。が、もはやそれらの心配は何事も必要がなくなつたのだ。そして、妻は傷ついた。彼は眼が醒めた時に三島を呪ふ氣持ちを強く感じた。その時はいくら自分のいけなかつた點を考へてみても無駄だつた。それにも拘らず、矢張り彼は三島とはこのまま放れて了ひたくはなかつた。今、妻を失ふか三島をなくするかのどちらかであるならば彼は寧ろ妻と放れたかつた。それ程三島の性格の何處かには、特に彼のために設けられたやうな徳があつた。そしてその徳は三島のただあれだけの行爲では彼から消し去ることの出來ないものでもあり、また時がたてばいつかは二人を前の二人のやうに結び合せて了ふであらうと思はれる彼にとつては不可思議な種類の徳であつた。


 翌日正午近くに彼は起きた。起きると彼は寢卷のまま直ぐ戸を開けて太陽を見た。太陽は雲のない空に輝いてゐた。水車は菜園の隅でし垂れた猫柳の葉に水をかけながら廻つてゐた。菜園の中から一人の娘が玉菜を抱いて立ち上つた。小寺の塔の下からは賑かな笑ひ聲が高く聞えて來ると、彼の母が卵を兩手に持つて塀の横から現れた。彼は太陽に自分の身體を干して心の暗さを無くしたかつた。下へ降りて顏を洗つてゐると母が裏口からは入つて來た。
「山下さんのお孃さんは顏が長いね。」
 母は彼が默つてゐるのにそんなことを云つて彼の横を通つた。彼は母がかん子とどこかで出逢つて來たのを知ると心に落ちつきがなくなつた。まさか母は自分とかん子とのことを知つてゐて故意に云つたとは思はれなかつた。ただ附近で一番眼につく綺麗な娘は當然かん子だと母同樣に自分も思つてゐるにちがひないと推測してゐる母の心が何氣なく、自分の傍で、さう母に云はしめたのだと彼は思つた。が、それでも彼は直ぐかん子を探しに行けなかつた。
「鷄に草をやつた?」と彼は暫くして母に訊いた。
「はこべをやりたいんだが、ここらにはない。」と母は答へた。
 彼は煙草を吹かしながら裏口から出ると母の歸つて來た小寺の方へゆるゆると歩いていつた。塔の下の芝生の上でかん子は小さな弟を腰にまつはらせながら君子と立ち話をしては時々腰をかがめて笑つてゐた。彼を見ると君子だけが彼にお辭儀をした。
「ここは暖くつていいですね。」と彼は君子に云つた。
「東京へはいつお歸りになりますの。」
 君子はなれなれしく自然に彼に話しかけた。
「田舍の方が氣に入つて了ひましてね。當分こちらにゐようと思つてゐるんです。お遊びにいらつしやい。あなたは學校はもう御卒業なさつたんでしたかね。」
「私は此の春ですの、かん子さんは去年出なしたんですけれど、もう學校もあきあきしましたわ。」
 かん子は始終彼に脊を向けて少し顏を赧らめて弟にかまつてゐた。弟は彼女の兩手を持つて反り返つて空を見ながら、
「シツ、シツ」と何かを追つた。
 かん子は弟を胯ぐやうにして、「あぶないわ、あぶないわ。」と云つてゐた。
 彼はかん子に何かひとこと云はしたかつた。
「ここらにはこべはありませんかね。」
「鷄におやりなさるの。」と君子は受けとつた。
「ええ、今頃はないでせうね。」
「搜せばあるかもしれませんわ。」
 君子はあたりの草叢の中を見廻した。かん子も弟の手を持ちながら一寸そこらを眺めたが、
「歸りませうか、もう御飯よ、」と弟に云つた。
「土手へ行つたらあるでせうね。一寸失敬します。」と彼は云つた。
 君子だけがお辭儀をした。彼は二人から離れて、寺の裏を廻り、人參畑をぬけて、山の麓を流れてゐる運河の堤の上へ出た。そこは一面の芝生になつてゐて、村や畠より一段と高かつた。彼ははこべを搜すことをやめて芝生の上に寢た。いつものやうにそこには人が一人も見えなかつた。彼はかん子を眺めたときも、彼女の前に立つてゐるときも、母からかん子のことを云はれたときより心の亂れを感じなかつたのが不思議に思はれた。夜汽車に乘つてゐるときは、此の次かん子に逢へば自分の氣持ちが全部彼女に向ふであらうと豫想してゐた。が、さて今逢つてみると豫想とは反對に心に何の張りも感じなかつた。彼はもう自分に全く熱情がなくなつてゐるやうな氣持ちがして淋しかつた。運河の水面を辷つてゆく荷舟の艪の音がした。山の峯が一つ空に高く聳えてゐるのが寢てゐて見えた。彼はその動かぬ峯を見詰めてゐると峯の心が自分の胸に通じ、麓に擴つてゐる平原の村や人や馬やその他一切の小さい事物が實に憐れなものに見えて來た。
「勝手に生れる者は生れるがいい。苦しむ者は苦しむがいい。だが俺は知つてゐる、お前らは何かぶつぶつ云つたと思ふと直ぐ無くなつて了ふのだ。」さう云つた顏をして山の峯はいつまでも押し默つて傲然と空を見てゐる。彼はそれが羨ましかつた。
 ふと彼は何ぜともなくかん子が自分の傍へ來さうな氣持ちがしてならなかつた。彼は頭を上げてあたりを見廻したがどこにもそれらしい人影は見えなかつた。曳き舟が一艘流れに逆らつて上つて來た。ちやぶちやぶ舟底で水が鳴る。彼は心の暗さに對向し得るだけの情熱を無理にもかん子に向けたかつた。しかし妻の辰子の豐かな情味を知り盡してゐる今の彼には、かん子の剛く淋しい感じは譬へ綺麗さは辰子以上であるとしてもあまり動きが少く冷たいものに思はれた。と云つて、今彼の眼の前に辰子とは比較にならない新鮮な女性が現れたとしても、彼はそれに全心の熱情を燃え上らすことが出來るかどうか、分らなかつた。彼はもう自分が疲れきつてゐるやうに思はれる。今迄、彼が本屋の主婦やかん子や、路上で出逢ふ美しい女性に心を向けてゐたのは、病苦に懊む病人が醫者から醫者へ轉々として移り歩くのと同じであつた。そして最後に死を宣言されて床の上に横つてゐる者にとつては最早や醫者も藥も必要でなくなるやうに、彼の望むものも、自分とは全くかけ放れてをりそして自分や自分と同じ穢れた肉體を輕蔑することに力を與へる空や星や山や森の美しさのやうに思はれる。
 彼は起き上つて運河の岸を下つていつた。鷄の鳴く聲が村の方から聞えて來た。暫く行つたとき、堤の下の森の中を運河の方へ上つて來る娘の姿が木の間から一寸目にとまつた。それはかん子にちがひなかつた。彼は先に感じたかん子の來さうな豫感を全く忘れてゐたときだつたので、この人目のない所で彼女に逢ふのはいいことかどうか自分の胸に訊ねてみた。このまま歩き續けて行くならば、彼女が森を拔けて堤の上へ昇りきつたとき丁度彼も彼女の傍あたりへ行つてゐさうに思はれたから。しかし、今は自分の氣持ちが充分靜に落ちついてゐるのを彼は知つてゐた。多分二人が逢つたとしても何事も起るまいとは思つたが、また自分の冷たさを知つてゐるそれだけに、今かん子に逢ふのは氣の毒な氣持ちもした。そのままそこに立ち停つてゐると、暫くしてかん子が堤の芝生の上へ現れた。彼女は一寸彼を見ると、彼とは反對の方へ流れを見ながら靜に歩いていつた。彼は彼女の後姿を見たまま立つてゐた。軈て彼女は森陰の中へ消えたとき、彼は初めて橋を渡つてひとり森林の奧深くへ入つていつた。彼は淋しかつた。ずんずん歩いてゆくと路は一面の落ち葉のために消されて分らなくなつた。彼は樫や椎の幹を除けながら枯葉の匂の中を進んでゆくうちに、空は全く見えなくなり、あたりは重なる木陰のためにますます淡暗くなつて來た。足の下では枯葉が鳴つた。彼は一歩毎に自分が人々から遠ざかつてゆくのだと思ふと、このまま、どこまでも奧深く歩いて行きたかつた。間もなく彼は小さな池の傍へ出た。そこも矢張り薄暗かつた。そして藤や蔓草が池の周圍からどす黒い水の中へ曲げた頭を浸してゐた。動くものは何もなかつた。彼は木の枝を握つたまま長らく池の水面を眺めてゐた。あたりは森閑としてゐた。すると、彼の心は總ての記憶からだんだん遠ざかつて澄み渡り、眼は森の木立を逆さまに映した水面の上でただ一つ動いてゐる小さな水澄しの黒い身體を見詰めてゐた。彼はそこからいつまでも動きたくはなかつた。暫くして眼を上げたとき、周圍に立ち籠めてゐる數萬本の森の木が默つて一齊に自分を見てゐるやうに思はれた。彼は森が恐くなつて來た。彼は森と、親しくなるためにマツチを擦つて煙草に火を點け、腰を下ろして柔いだ氣持ちで森の中を見廻した。すると、森の顏は初めて柔和になり、また彼は靜な落ちついた氣持ちになつた。


 家へは夕暮近くに彼は歸つた。晝間靜に落ちついてゐた彼の氣持ちも夜の暗さが増すにつれて亂れて來た。そして、彼の頭の中にまた樣々な妻の幻想が自由に浮び始めると、彼の苦痛もそれと一緒にだんだんに増して來た。彼は夜中眠れない間の苦痛が眼に見えてゐたので、ウイスキーと睡眠藥とを買ひに行つた歸りにかん子の家の横を通り裏口の塀の傍に立つてゐた。中から反物の話をしてゐるかん子の聲が時々聞えて來た。彼はまた急にかん子に逢つてみたい欲望を感じて來た。今の氣持ちが續くやうならかん子に結婚を申し込んでもいいとも思つてみたが、さて妻にしてからのかん子のことを考へてみると、とても辰子を愛した程、かん子を愛することが出來ないやうに思はれる。すると今更のやうに辰子を手放したことが後悔され、また苦痛が新らしく増して來た。彼はそのまま歸つても眠りつくまでの時間を待つのがたまらなかつた。彼はウイスキーを飮むと家へ歸らずに直ぐ夜道を歩き出した。彼は本屋の主婦にしきりに逢ひたくなつた。今彼女が近くにゐるなら、彼女の良人がゐるゐないに拘らずどうしてでも逢ふだらうと思つた。彼はウイスキーを無暗に飮んだ。早く一分でも自分の意識を掻き亂したかつたので、運河の方へ走り出した。だんだんと胸の鼓動が激しくなり足がふらふらともつれて來て間もなく呼吸するのも苦しくなつた。彼は運河の堤の上へ上り着くと、芝生の上へ俯伏せにぶつ倒れた。彼はそのまま意識がなくなつて了ふことを願つた。涙が出て來ると頬から冷たい芝生の葉の上へ傳つてゆくのが感じられた。彼は突然起き上つて運河の水面を見下ろした。
「何ぜ俺は死ねないのだ!」
 彼はまだ生きてゐる目的が自分のどこにあるのかを考へてみた。が、それは分らなかつた。ただ自分の輕蔑してゐる妻のために自分と自分の生命を投げ捨てる氣にはなれなかつた。彼は死が恐くはなかつた。
「俺は俺が人間であると云ふことが不快な筈だ。それに俺は死ねないのだ!」
 彼はまた芝生の上へ倒れた。頭が朦朧として來て胸が激しく波打ち出すと仰向きになつた。星が見えた。彼は片足を上げて星を蹴つてみた。曳き舟が舟底で水を鳴らしながら上つて來た。子供の母を呼ぶ聲が舟の中から聞えた。彼は起き上ると運河に沿つて下の方へ下つていつた。彼は友達が欲しくなつた。それから出鱈目の歌を歌つた。
「何んで似合ふそのうちかけが、
 ま男して來た嫁ぢやもの。」
 さう云ふ句が口から出て來ると彼は喜んだ。彼は幾度も幾度もその句を口詠みながらひよろひよろして歩いていつた。太い一本の立木があつた。彼はそれを叩きながら人間に云ふやうに云ひ出した。
「お前は、俺が死ねないと云ふ理由を知つてゐるかね、馬鹿野郎、貴樣は笑つてるな、笑へ笑へ、だがね、お前はかう云ふことを知つてるかい。今俺は生きてゐる。その生きてゐる俺が俺の手で俺の生命いのちを切りたいと云つてるんだ。こんなことは生きてゐることが必要であるなら確に不必要なことぢやないか、え、おい。さうだらう。その不必要なことだが、不必要でありながら、必要だと云ふんだ。神樣も變に不經濟なものを拵へたもんぢやないか。貴樣にもそんなものがあるのかね、こら、こら、默つてやがるなア。默ると云ふことは臆病者の社交術だぜ。馬鹿野郎、アーア、何んで似合ふぞそのうちかけが、ま男して來た嫁ぢやものか。」
 彼は立木を突いて又歩き出した。平原の所々に燈火の明りが見えた。何か地の底で鳴るやうな響がごうごうと聞えて來た。時々星が長く尾を引いては消えた。彼はだんだん寒さを感じて來ると、また頭が冴えて沈んで來た。彼は首を垂れ默つて歩き續けたが、そのうちにふとたまらなく母に逢ひたくなつて來た。自分を慰めてくれる者はもうただ母一人のやうに思はれる。そして今迄母のことを少しも思はなかつたのが急にすまないやうな氣持がして來ると、彼は急いで家の方へ引き返した。彼はもう一度子供になつて、心から母にあまえてみたかつた。
 家へ歸ると母は父の眼鏡をかけてひとり縫物をしてゐた。
「どこへ行つてたの。」と母は訊いた。
「歩いて來た。」
 彼は母に顏を見られたくなかつたので母の後へ廻つた。
「京都へ行つたのかと思うてゐた。」
「さうだな。行けばよかつた。」と云つて彼は母の影へ顏を埋めるやうにして横になつた。
 暫く母は默つてゐた。彼は母の後姿を仰いでみた。小さな丸髷の上で酒色のゴム櫛が走つて[#「走つて」はママ]ゐた。
「あなたの子は女のために苦しんでゐるのです。」と彼は心の中で母に云つてみた。母が氣の毒でならなかつた。彼は起き上ると母の後から負はれるやうに被さつた。
「重い重い。」と母は云つたがそのままじつとしてゐた。
「お母さんは小さいな。もとからこんなだつたかね。」
「お酒を飮んだの。」と母は訊いた。
「飮んだ。少しだ。」
「ぷんぷん匂がする。どこで飮んだの。」
「月見酒だ。」
「今夜はお月樣が出てゐませんよ。」と母は皮肉な調子で云つた。
「さうか、間違つた。星見酒だな。」
「此の頃はお酒を飮むやうになつたのかいな。」
「それや飮めるさ。」
「お父さんら、お前らの時はお飮みやなかつた。三十越してからや。」
「床を敷いて欲しいな。」
「もう敷いてある。」
「ああ水が飮みたい。何か食べる物がないかね。」
「何んと急がしいことや。戸棚を開けてみな。」
 成る程忙がしいことだと思ふと彼はをかしくなつて笑ひ出した。彼は母の傍にゐると云ふことだけで幸福を感じた。自分の心が何の疑ひもなく自然に相手の心の中に溶け込んでゆく、さう云ふ眞の幸福は、母以外の他の誰からも求められないことだと思つた。彼は母がありがたくなつた。彼は母の眼鏡をとると、自分の眼にあてて室の中を見廻した。
「見えないわ。ボーツとしてて。」
「それやさうやとも、年寄りのかける眼鏡やもの見えたら困る。」と母は云つて笑ひながら彼の顏を眺めてゐた。彼は故意に子供らしくならうと努めながら母の方へ眼鏡を向けると、
「お母さんの顏は、皺くちやに見えるぞ、これはをかしい。」と云つて笑つた。
 その夜彼は遲くまで母の傍から離れなかつた。眠るとき睡眠藥を少し多量に飮んで寢た。が、それでも矢張り駄目だつた。妻との幸福な戀の時代、嫉妬の時代、自分の復讐、それらが繰り返し繰り返し浮んで來ると、眼が痛む程眠つてゐるにも拘らず、頭の心だけが絶えず後の方で騷ぎ續けた。それに今頃自分に代つてゐる三島と妻との樣子が頭に浮んで來ると、彼は蒲團から跳ね起きた。彼は二人を殺したかつた。今手もとに刃があれば、二人の胸を突き刺す氣持ちそのままで、自分の胸を突き刺しさうに思はれた。彼は室から出て外を歩いた。だんだん自分の頭が狂つてゆくやうに思はれる。どこかで犬が鳴いてゐた。空には星が光つてゐた。彼はもう地上の何物にも寄りかかることが出來なくなつた。ただ星だけが頼りになれた。彼は星を仰ぎながら又運河の高い堤の上へ出ると、膝を抱いて空ばかりを眺めてゐた。すると、不意に彼は星を見てゐることが實に馬鹿らしいことに思へて來た。もつともつと、總ての人間から馬鹿にされ、自分の自尊心を盡く踏みにじられ、さうして、自分を最も侮辱した妻になほこれ以上侮辱されるために、彼女を心から愛してみたくなつて來た。自分の一生、さう云ふことは何ぜそんなに大切なことであるのか、もしも自分にとつて自分の一生がそれほど大切で貴いなら、自分は自分の一生を人のために糞のやうに汚してやらう。さう思ふと彼には空の星が何の魅力にもならなくなり、新らしい力が初めて全心に漲つて來た。彼は出來ることなら今から直ぐ東京の妻の傍へ歸りたかつた。彼は家へ歸つて寢床へ入ると暫くして、いつその力に代つて眠りが襲つて來たか分らないやうに眠りに落ちた。


 その翌日も空は晴れてゐた。彼は眼が醒めると直ぐ戸を開けて太陽を見た。彼の氣持ちはまた、昨日の朝のやうに一時に新鮮になり、微笑が自然に浮んで來た。太陽を見ると云ふことは何ぜこれ程健全な力を人に與へるのか、彼は太陽がありがたかつた。昨夜の暗い氣持ちを誘つたいろいろのことがらを今一度頭に浮べてみたが、もう何の實感も胸に迫つて來なかつた。彼はその太陽の光りの中で何か身體を働かす仕事をしたかつた。母に仕事がないか尋ねると、薪を割つてほしいと云つた。彼は裏の庭で松の丸太を割り始めた。斧に全身の力を籠めて狙ひを定め、打ち下ろすと、木片は屋根の上まで跳ね上つた。座敷の中で見てゐた母は笑ひながら、
「お前は荒つぽうて困る、硝子が割れるやないの。」と小言を云つた。しかし彼はいろいろのことを注意して割るのは嫌だつた。一斧ごとに、周圍の板塀や立木に跳ね衝る薪の凄じい音が彼を無性に愉快にした。薪の長さの丸太を十本も割り續けると彼はすつかり疲れて了つて、後かたづけもせずそのまま上り框へ仰向きに寢た。彼は氣持ちが晴々としてゐた。もうそれだけの仕事で今日一日潰して了つても別に惜しくはないやうに思はれた。母は彼の割り捨ててある薪を一つ一つ拾ひ集めては内庭の中へ運んでゐた。
 彼は疲れが休まると庭の植木に水をやつた。昨夜妻の傍へ歸らうと思つてゐたことなどはもう、自分の問題ではないやうな氣持ちがして、歸らうとも歸るまいとも彼は思はなかつた。ただ薪を割り、植木に水をやるそのことだけに心を籠めてゐれば、それで助かり、またそれでいいやうに思はれる。彼は鷄小屋の掃除をした。藁の中にまだ暖い卵が二つ産んであつた。掃除をした鷄の糞を筵のまま裏口から塵溜へ持つていつて、そこで叩いてゐると、後の方でよく鳴る下駄の音がした。一寸脊後を向くとそれはかん子であつた。彼が彼女を見たとき、かん子は少し青い顏をして横を見てゐたが、そのまま細い道を彼の方へ歩いて來た。その日の彼女は美しく見えた。彼は彼女の通る路幅だけをあけて脊を見せたまま筵を叩き續けた。かん子は彼の横まで來ると、身體を捻ぢらせ、前へ出てから裾を細めるやうに手で壓へて歩いていつた。彼の心は少し動いた。まだ俺の心は動くのだ、さう思ふと彼は眉を顰めた。
「姉さん姉さん。」
 さう呼びながらかん子の妹が後の方からばたばたと馳けて來た。かん子は一寸顏を赧らめて彼の方を振り向いた。かん子の妹は彼の傍で立ち停ると急に眞面目な顏をして上眼を使つて彼に丁寧にお辭儀をした。彼は彼女の新鮮な美しさにとらはれた。殊に上眼の下つてゆくときの處女らしい美しさが、今自分を動かしたばかりのかん子の美しさを全く打ち消して長らく彼の頭に殘つて來ると彼はもう憂鬱になつて來た。
「妻ばかりではない、矢張り俺もだ。」さう思ふと彼は妻を責める氣持ちがなくなつた許りではなく彼は妻に逢つて、譬へこのまま妻と別れるとしても、もう一度、今迄自分の頭に映つて來てゐた樣々な女の美しさを妻のために、妻の美しさで追ひ拂つてやりたい氣持ちも起つて來た。二度新らしい女を妻に持たうと思ふ望みなどは少しも感じなかつた。
 彼は子供を産んでおきたかつた。それは彼が子供好きのためばかりではなく、子供が二人の間に産れてゐれば、絶えずぐらぐら搖れてゐる二人の氣持ちも自然一つに固りさうに思はれたから。しかし今はもう駄目だと思つた。もし辰子を妻にし續けたとして、そして、彼女に彼の子供が生れたとしても、彼はその子の父となつて愛してゆけるかどうかが疑問であつた。

 その日の午後に三島から手紙が來た。
 今は何から書いて好いやら分らない。とにかく君と別れてもうかれこれ五時間はたつ。僕は君にすまないことをした。しかし今更、おわびをするのもあまり白ばくれてゐるから、おわびをしない。實は逢つたときおわびをしなければならなかつたのだが、あの時は僕は怒つてゐた。何ぜ怒つてゐたのか、これを云ふと自分と自分をいいやうにするやうで云ひたくはないが云はないではゐられない。僕は君に逢つたとき、自分の罪を意識するよりも君に逢つた懐しさの方が強かつたのだ。「郷里へ歸つてゐたのかね、」と僕が訊ねても君は僕の顏を見ない許りか返事もしなかつた。僕は君に捨てられたと思ふと自分のしたことを考へないで急に淋しくなり腹立たしくなつた。無論仕方がないとは思つたが、しかし僕は不思議にあの時は自分の罪の意識が頭になかつた。今から考へてみるとどうかしてゐたと思ふがそれは事實だつたのだから疑はないでほしい。どうぞこのことも赦してほしい。今赦してほしいと書きつつも、とても君は赦してくれなささうなので書く筆に力がない。しかし僕はここでは、自分の辯護をしたいために筆を持つてゐるのではない。僕にはもう辯護をするだけの力がない。が、君に對して戰鬪する力がそれに代つて出來てゐる。戰鬪するより仕方がない今の僕の氣持ちも君は分つてくれることと思ふ、辰子さんはまだ泣いてゐる、まだ僕は殆ど言葉さへも交へない。君が歸つてから急に僕に對する態度を變へた辰子さんの氣持ちも僕は分らないではないが、しかし、どうしてさうまで泣き續けてゐなければならないのか、もし、それほど君を愛し罪の意識を感じるのなら、何ぜ君の留守に僕に對してあのやうな態度をとつたのか、何ぜだか僕は君にも辰子さんにも正直に云ふと玩具にされてゐたやうな氣持ちがしてならない。僕は君が、辰子さんと僕とを殘して姿を消したと云ふことだけでも不愉快であつた。君が姿を消してから直ぐ僕は下宿でも搜して移らうと思つた。用意までしかけたのだが、辰子さんはいろいろ親切に僕をひきとめてくれたし僕も直ぐ君が歸つて來ることと思つてゐたので、移るのならそれからにした方がお互の氣持ちの搜り合ひもせずにすむとも思ふとまた腰が自然と落ちついた。それが第一にいけなかつた。ところが君はなかなか歸つて來ないばかりかどこにゐるのかそれすら分らない。僕はまた下宿へ移らうとした。が、そのときは僕の心も少し危險になつてゐた。これはいけないと思ひながらも、辰子さんにまたひきとめられるとまたぐらぐらと氣持ちが搖れた。殊に君が辰子さんを愛してゐないと思ふと尚だつた。辰子さんも、僕に對する態度から推すと君を愛してゐないにちがひないとあまり露骨になるが實はさう思つた。さう思つたと云ふことが一層僕を危險にした。或る夜辰子さんはひとり泣いてゐた。どうしたのかと訊くと、君が辰子さんを愛しないので、このさきどうなることやら分らないと云ふ答へであつた。僕は君が僕と辰子さんとを殘して出て行つたと云ふことだけでもそれを信じて辰子さんに同情した。僕は辰子さんに君の物事に倦きない性格を知つてゐたのでそのことを云ひ今にまたあなたを愛するやうになるだらうと自分が危いながらもさう云つて慰めておいた。しかし辰子さんは、君が歸つて來てももう君とは別れようと思つてゐると僕に云つた。僕はいよいよ危險になつた。辰子さんは君が故郷へ歸つてゐることをよく知つてゐたし僕もさう思つたので、まちがひの起らない間に君に早く歸つて貰ひたかつた。まちがひの起らないと云ふのは無論君のことではない。無論君の傍には、君が前に愛したことのあるかん子さんのゐることを僕も辰子さんもよく知つてゐたから君もそちらの方に危險になつてゐさうに僕も辰子さんも思はないことはなかつた。實にすまないがこの憶測がなほこちらで二人を危くしたのは事實である。僕は君に手紙を出した夜直ぐまた君の家を去らうと決心した。が、それは矢張り決心したにすぎなかつた。一度出たことは出た。が、その時僕は決心をした淋しさのために酒を飮んだ。このことは最もいけなかつた。と云ふのはそのまま辰子さんの傍へ歸つた僕は全く酒のために道義心が鈍つて了つてゐたから。どうぞ赦してほしい。それから最後に僕は君にお願ひする。どうぞ辰子さんを僕にくれ給へ。こんなことは云へたことではないが、君におわびをするよりも、寧ろ君に戰鬪する方が僕としてまだ助かる。この手紙の中で僕はもう嘘をつけないせゐかかなり大膽に正直になることが出來た。無論君に不快を澤山與へてゐることにちがひないと思ふが、今は讀み返してみる元氣もない。僕はこれで君に見捨てられることと思ふ。それを思ふと全く何もかもがなくなつたやうな氣持がする。
 彼は三島の手紙を讀んで自分を三島の位置に置き換へて考へてみた。もしさうされれば自分でも危險になりさうに思はれたばかりではなく、多分、自分なら、却つて無斷で妻と一緒に自分を置き去りにした相手の無禮さを憤るであらうと思はれた。彼は全く自分がいけなかつたと思つた。彼は直ぐ三島に返事を書いた。
 君に默つて歸國したことは重々おわびをする。俺は今は決して君に怒りを持つてはゐない。君のなした行爲については俺はかれこれ云ふ可き何の權利もない。俺が君に默つて歸國したことには種々複雜した理由があつた。そして、あの時あのやうな態度をとつたと云ふことは、今から思ふと馬鹿げたことではあつたが、その時の俺としてはどうとも仕方のないことだつた。俺は辰子を妻にしてから二年になる。俺は辰子を愛してゐた。愛が強くなればなる程、俺は辰子の心の對照を全部俺自身に向けねばおけなくなつた。が、それは結局無駄であつた。辰子の心は絶えず半分は俺に向けられてはゐた。が、後の半部は俺や辰子が絶えず接する俺の多くの友達に向けられてゐた。そして、それらの中のある者達は、辰子のさう云ふコケテイカルな性質と放蕩するためにのみ俺に近か寄つて來てゐたのは事實であつた。俺はそれを常に感じ、それに應ずることを悦んでゐる辰子を常に見て來た俺は、苦痛のためにだんだん俺の知人から放れていつた。俺の社會を造つてゐる者は結局俺の知人である。その知人から一人放れた俺は俺の社會から滅びたのも同じなわけだ。しかし俺はやうやく君ひとりを持ち續けて來た。ところが、その一人殘つた知人の君にまた辰子は放蕩しはじめた。前から俺は俺の友と一人放れる毎に自分の臆病な警戒心がたまらなく不快であつた。そして最後にまたまた君に俺が警戒し出したとき俺は全く自分を憎んだ。俺は自分の汚い小心さを根本的に自殺さすために、わざわざ君と辰子のさう結ばれる機會を造つたのだ。しかし、さう覺悟はしてゐたものの、さてとなると俺は苦しんだ。俺は辰子を最初と同じやうに愛してゐる自分に氣附いたから。
 郷里へ歸つてから、君や辰子の想像したやうに成る程、かん子に俺は心を向けることにつとめてみた。が、とても辰子を愛した程俺はかん子を愛する氣の起らなかつたと云ふことが尚俺を苦痛にした。前から俺は辰子を愛してゐると云ふ言葉を度々書いて來たが、これは、今になつて、辰子の心をとり戻さうとする俺の計畫からではないことを知つて貰ひたい。辰子をくれと君は云ふが、以上のことを書いた今となつてみれば、そんなことを俺に頼む必要がなくなつてゐると云ふことを君は知つただらう。辰子が君にゆくと云ふなら、君がどうしようと俺には不平が云へない。しかし、君が辰子とさう云ふ具合になつたと云ふことを、俺に知られたが故に辰子をくれと俺に云つたのだとすれば、もう一度考へ直す方がいいと思ふ。これはどうかすると皮肉になりさうだが、そんな氣持ちで云つてゐるのではない。もし俺が君の立場に置かれたなら當然君のやうになつてゐることを俺は知つてゐる。最後に矢張り俺は君をさう云ふ目に逢はせた俺のずるさを君におわびしなければならない。
 彼はその手紙を書き終つてから讀み返してみた。その中には、自分の最もいひたいこと、辰子を返して貰ひたいと云ふ意味のことをもつとはつきりと書きたい氣持ちが出てゐないと思つた。が、辰子の心が自分から放れて了つてゐる今はもうそれを要求出來ないやうにも思はれた。もし、三島が辰子をくれと云ひ出さなかつたなら、まだ辰子を妻にし續けるともし續けないとも自分ながら定めないにちがひないと彼は思つた。ただ三島が辰子を要求し出したためばかりで、また辰子を妻にしようと云ふ氣になつた自分を思ふと、自分の汚ない心がまた目についてその心を處理して了ひたい氣持からそのまま彼は手紙を出して了つた。出してからまだ暫く迷つてゐた方がよかつたやうに思はれて幾分後悔もしたが、やうやく總てのことが裁決されたと云ふ安意な氣樂さも湧いて來た。
 夜が來るとその手紙のこととは全く別に前夜のやうにまた彼は淋しくなり苦痛になつた。かん子の妹の顏が時々彼の頭に浮んで來た。
 彼は京都へ行つてみた。京都の市街を歩く群衆は東京の群衆よりも靜かで落ちついてゐる。彼はなるべく放心するやうにきよろきよろあたりを見廻しながら人流れの中を歩き廻つた。彼の前を姉につれられた綺麗な十六七の少女がシヨウ・ウインドウの飾り附けを矢張り彼のやうにきよろきよろし見廻しながら歩いてゐた。その樣子のいかにもまのぬけた正直さが彼をひきつけた。彼はその少女のあとからついて歩いた。この子なら何の疑ひもなく自分の心を全部開け放して愛することが出來るやうに思はれた。暫くいつたとき少女は活動へは入つた。彼もその中へは入つて人間の善良性を示した氣持のいい人情劇を見たいと思つたが看板を見ると、ピストルや油斷のならない女の顏などが竝べて畫いてあつたのでは入ること[#「は入ること」はママ]やめた。彼の横を二人の少女が肩を押し合ふやうにして足早やに通つていつた。
 その少女達は前の少女とは違つて生々とした近代的な活發さが身體の全體にあふれてゐた。彼女らは何か目的でもあるやうにずんずん人流れの中を横見もせずに突きぬけて進んでいつた。時々彼は辰子と共通な顏の女達に往き合つた。それらの女達に限つて、傍に良人がゐるにも拘らず彼を欲情的な眼付きで眺めながら通り過ぎた。その時彼の眼は跳ね返るやうに外れ彼の心は急に暗くなつた。彼は自分の顏がさう云ふ不貞な種類の女の欲情を刺戟し易いのだと思ふ自分の顏も厭になつた。ある繪葉書屋の前まで彼が來たとき、前に行つた二人の少女が立ち停つてそこの店頭に下つてゐる男の活動役者の繪顏を何か囁きながら眺めてゐた。漸く一人がその前から放れて他の一人を呼んだ。呼ばれた少女はなかなか放れようとしなかつたが、暫くして待つてゐる少女の傍まで急いで行くと、今度は待つてゐた少女はくつくつ下品な笑ひを浮べてまた一人繪顏の前へ戻つていつた。
「いや。」
 さう云ふと待たされてゐた少女もまた繪顏の方へ引き返した。彼は前にその二人の少女から感じた生々した美しさがもう美しく見えなくなつた。彼はその少女達の戀人のために悲しんだ。彼はもう女の顏を見るのが苦痛になつた。何か心を淨めてくれる高雅な氣品のあるものが見たかつた。しかし、彼の心を慰めてくれるものはとても生きてゐるものにはないやうに思はれる。時々骨董屋に竝べてある古めかしい美術品が彼の眼を喜ばしたが、それとても、彼の心の暗さを追ひ拂ふだけの力がなかつた。彼は電車の中へ沈み込むやうに乘ると家へ歸つた。彼は二階の一室へは入り、横になつたが、漠然とした淋しさが、夜全體の重みとなつて自分の身體の上へのりかかつてゐるやうに思はれた。溜息が度々出た。彼は身體を動かすことも出來なかつた。
「駄目だ。」と彼は暫くして呟いた。彼には人間が男と女とに分れてゐて、それから子供の生れてゐる間はとても苦痛が絶えるものではないと思はれた。彼は自分の身體に男女兩性を備へてゐて、産期が來れば自然と體分裂をし始めるアミーバのやうになりたかつた。人間の生き方はそもそもの始めから間違つてゐた。もし神が人間を創造したものとすれば、確に神はその創造の際賭博をやつてゐたのだと彼には思はれる。いかに社會制度がよくなり、完全な共産主義が行はれるやうになつたとしても、人間に男女と美醜の區別のある以上、階級爭鬪に代つて美醜の鬪爭が一層激しくなり、醜が美よりも多數で醜が一躍して美にならない限り人間の醜美を平均する運動が盛んになつて、數萬年の歴史を經て漸く形造つた適當な人間の肉體美を破壞しなければならないやうに思はれる。が、しかしそれでもまだ何か根本的に人間の區別が人間には立たなくなる方法を案出することが出來ないなら、人間苦は容易になくなるものでなく、もしそれが出來ない限りは人類一齊に自分の心の醜さと不幸を意識して、人類最高の道徳を自殺に置き換へなければならないと彼は思つた。とにかく彼はもう人間全體が氣の毒な感じがした。全然天上の世界に入ることも出來ず、それかと云つて全然動物にもなりきれない人間は永久に捨子のやうに彷徨しながら地の上で泣き續けてゐなければならないやうな氣持がした。が、もし人間が泣き熄まうとするならば、現在のままでは、矢張りただ專心に一生勞働し續けるより救ひの道がないやうに思はれた。
 その夜も彼はなかなか眠つくことが出來なかつた。眠つたと思ふと半意識の夢を見續け、眼が醒めるとまた夢を見た。
 翌日も矢張り空は晴れてゐた。しかしもう彼は今迄のやうに太陽の光りがありがたくは感じなかつた。心には何の希望もなく、力は身體のどこからも脱けてゐて身を動かすのもうるさかつた。
 彼はその日早く湯へ行つた。湯には誰も來てゐなかつた。彼は一度湯から上ると湯槽の縁へ腰を下ろし何の考へもなく身體の冷めるのを待つてゐた。するとふと自分の子供を産む器管が眼についた。
「まだ俺についてゐた。」そんな感じがすると彼にはそれが不似合なをかしいことでもあり、侮辱をされてゐるやうにも思はれた。
 彼はそれを斬りとる方法をいろいろ頭の中で考へてみたが、とにかく、何かよく切れる刃物で少し力を用ひれば濟みさうに思はれ、たださうすることだけで、自分が人間とは一段上の全く別な生物になれるやうな氣持ちがした。が、しかし、それにも拘らず何ぜさうすることが出來ないか、いや出來ると彼は思つた。
「人間の犯す罪惡の中で最も罪惡は自分が人間であると云ふことのためにこれ程苦しめられたにも拘らずまだ俺は子供を生まうと思つてゐる。子供を産むことだ。」さう云ふ考へが彼の頭に浮んで來ると、彼は落ちつかなくなつて來た。家へ歸ると直ぐ彼は剃刀を持つて二階へ上り自分の器管へ剃刀をあててみた。まだとても斷行出來さうにも思へなかつたが、出來ないと思ふと、なほ眞似でもしてみなければ氣が濟まなくなる自分が子供らしくてをかしかつた。彼は剃刀を自分の傍から手放したくはなかつた。いつどう云ふ氣持ちで斷行出來ないとも限らないと思ふと、直ぐそのときの用意に絶えず手近に剃刀を置いておく必要を感じた。もし、やすやすとそれが出來れば、もう自分には世の中で恐る可きものがなくなるやうに思はれたから。
 彼はふと自分が再び三島に戰鬪して辰子を三島から奪つて了ふ所を空想した。辰子は彼に逢ふと忽ち結婚前のやうに彼を愛し始める。三島は怒つて彼の家から出ていつて了ふ。が辰子は、少しも悲しまずますます彼を愛するやうになる、しかし彼は辰子の心を再び取り戻したことを感じれば感じる程、だんだん辰子を愛することが出來なくなる。けれどもいやいや乍らそのまま夫婦の生活を續けて行くのだが、或る夜全く辰子が不快になつて我慢がならなくなると、彼は妻の横から起き上り、默つて自分の器管を斬り落して了ふのだ。彼は痛さを耐へて血の中に蹲つてゐると、「どうしたの、どうしたの」と妻が訊く。
 彼は後を振り向くと半面を電氣の光りに照らされてゐる情欲的な妻の顏が眼についた。斬り落した器管を妻の顏へ投げつける。と、器管は血で妻の片頬を眞赤に塗りつけ、跳ね返つて疊の上を死んだ鼠のやうにころころと轉つた。
「あら!」
 さう云つたまま妻は眞青になつて動かない。
「お前は俺を愛する必要がなくなつたんだ。お前はお前の好きな所へ行くといい。」と彼は云ふ。
 そこまで想像して來ると、彼は妻に復讐し終へたやうな痛快な氣持ちがこみ上げて來た。殊に最後の妻の顏だけでも彼は見たかつた。それよりも世界の總ての男性が、一齊にさうしたときの女性の顏が尚見たいと思つた。もしさうすることが出來たなら、そのとき地上は一瞬間、
「アツ!」と
 しかし、その時狂亂してゐる地上の女性の大きな苦悶とそれを見守り乍ら冷笑してゐる男性の一瞬の安價な快感とはとても比較にはならないと彼は思つた。すると自分のものも、今、斬り落したとて別にそれが自慢にもならないばかりか、却つてそんなことに熱情を出してゐる自分自身が子供げてゐて馬鹿らしく思はれた。


 その日の夕暮れに彼はまた水車の傍でかん子に逢つた。いつもの彼女は彼に逢ふと彼を決して見なかつたが、そのときのかん子は遠方から大膽に彼を見詰めながら歩いて來た。その眼は何か決心したときのやうに開かれ、だんだん彼の方へ近よつて來るに從つて強い光りを籠めて來た。しかし、彼はそれに應じる表情を動かしたくはなかつた。彼の心は冷たく冴え少しの動搖も感じずに彼女を見詰めることが出來てくると彼は愉快な氣持ちになつた。かん子は彼の傍を通りぬけて了ふと萎れたやうに頭を垂れた。すると急に彼の心も動き出して淋しくなつた。が、しかしこれも今暫く自分がかん子に應じなければ、間もなく彼女は他の男を搜し始めるにちがひないと思はれた。が、もしさうでなくて、いつまでも自分の冷淡な態度を忍んでくれるそれほどの貞淑さを彼女から感じたなら、そのときは自分から何物を押しのけてでも彼女を奪はう、さうしてもし彼女の心が全然自分の心に溶け合はないまでも、さうならうと絶えず努めるやうならば、自分は彼女を今迄世界の中で最も忠實な良人であつた男よりもより完全な良人となつて愛するやうに努めてやらう。もしさうして、自分と彼女が、完全な心の一致に到達し、完全に立派な夫妻になることが出來たなら、幸福なものはただ自分とかん子との二人であるばかりではなく、人間は幸福になり得る可能性を有つてゐると云ふ實證を、世界の人々に告げ得るがために、幾十萬年の間無意識ながらも此の完全な心の一致を摸索し續けて來た人類の苦懊史に一つの希望を與へるにちがひないと彼は思つた。よく考へてみれば今迄の人類の歴史は此の一つの模範的な夫妻を造るためにだけ存在して來た價値があるだけのやうな氣持もする。男女間の鬪爭から宗教的な信仰には入つた人類史上に於ける樣々な偉人の到達した世界は、人間にとつては所詮一つの逃避所を教へたのにすぎないと彼は人間に男女の差別のある間人間にとつて何が最も幸福かと云つて、もつとも相愛する男女が、夫妻となり、いかなることがあつても良人は妻以外の女と妻とを比較することがなく、妻は良人以外の男と良人とを比較せず、さうして絶えず心臟を共同し合つた男女のやうに感じ合ふさう云ふ二人の間から子供を産んで育て合ふ程幸福なことはない。もしそれらのことから子供を産む産まないことを除いては何か一點でも外れたことがどちらかの間に生じたなら、そこにはもう何かの不幸が待ち伏せてゐる。さう思ふと彼は人間がどんなに遠く幸福から離れて造られてゐるものであるかと云ふことを今更のやうに感じ計ることが出來た。しかし、果して人間はどこから見てもそのやうに完全な幸福に達することが出來る性質のものであるかどうかが矢張り彼の疑問であつた。が、さう云ふ疑問は疑問としておいても、もしそれが出來たとしたらよしそれが箇人的な幸福であるとしてもその二人は人類の中で一番羨望せられ尊敬せらるべき者であることは勿論であり、彼らのそこまで達した過程は人間のとる可き最も正しい軌道であるにちがひないと彼は思つた。人々が、心から他人の不幸を歎いて社會のために奉仕するよりも、自分の不幸を心から歎き、より完全な幸福にならうと努める方が、自分の利益になる點から計つて凡人である人間にとつては一層尊いことのやうに彼には思はれた。そして人間が、さうなるには人間の所有してゐる總ての心理の中で最も謙讓になつたときに起る反省心のみが自分の醜さを嫌ひ、相手の醜さを赦すことが出來る優れた愛を對象からも自分からも呼び起すところから推してみて、ただ、絶えず自分を反省し續け、絶えず忍耐し續けて全部の心を絶えず自分の愛する對象にのみ集中し續けることによつて自分を磨き續けてゆく、それ以外のいかなる心理作用を發達せしめても、その先には決して人間の人間たるべき幸福はあり得ないやうに思はれる。もしあつたとしたなら瞞されてゐるのか、それとも長い歴史が人間に附着せしめたあきらめと云ふ心理のために彼らは彼らの心を無意識ながら自殺さしたときであるにちがひない。いかに多くの人々がこれまで自殺を強ひられたか。シヤカもクリストもトルストイもそしてそれらの自殺者の一人として、あきらめの幸福を福音した以外、人間に共通した眞の幸福の實となるべきいかなることがらを殘して來たか。この種の自殺者は卑怯なエゴイストである。人間は絶望すべきことにどこまでも絶望してはならないのだ。ただその者だけが神に對する偉大な反逆者であり、人間の再興者であると彼は思つた。
 これらのことを考へて得た結論は、彼の絶望してゐた心の中に、ある暖い感情を盛り上げて來た。彼は自分の心の對象をかん子に置いて、いま一度積極的に自分からかん子に向つてみたい氣持ちが起つて來た。彼は自分の勇氣のくじけないことを願つた。その夜直ぐ彼は自分の記憶の中で一番美しかつたときのかん子の顏を思ひ浮べて、なるだけ熱情を出すやうに努めながら手紙を書いた。
「私は前にはあなたを愛してゐました。それはあなたも御存知の筈だと思ひます。私は己惚れでなければ、あなたも私を愛してゐて下さつたと思ひます。ただ二人はどちらもそのことについては默つてゐました。少し皮肉になりますが、默つてゐたと云ふことが、不貞をする場合その者にとつて有效であると云ふことをもしあなたが御存知ならたしかにあなたは御聰明であつたのです。これだけ申し上げただけではお分りになりますまいが、先年私があなたからお別れした最後のときをあなたは御記憶になつておいでですか。それは、そのとき、京都の活動隊が場面をとりに來たときで、私はあなたが見物の中に必ず來ておいでのことだと思つて、行つたのです。そして、不幸にも多分、あなたも私と同樣に、私が見物の中に交つてゐることを豫想してお行きになつたのだと思つてゐたのです。もし、この豫想が私になかつたなら、恐らく、今頃は此の手紙の代りにあなたは私の子供のためにお窶れなさつてゐるにちがひないと大膽に推察します。ところがあなたは私の愛情を蹴飛ばしたのです。私はあなたのお顏ばかりを眺めてゐる幸福者であつたとき、丁度あなたは、あの立派な俳優の顏ばかりを眺めてゐられる幸福者でゐられたのです。以上の皮肉はお赦し下さい。何ぜなら、その時の私の悲しみを私は今あなたにかくのごとく冷く捧げて喜んでゐるのです。私はあなたから去つて了つた。そして、あなたとは別の婦人を妻としました。あなたに見せたい復讐からではありません。妻が私を愛すると云つたからです。けれども此の妻も、あなたと同樣に私が彼女に不貞をする前に、私に不貞をしたのです。しかし彼女の不貞は、あなたとは違つて徹底的な不貞であつた。それは放れなければならない不貞であつた。私は今彼女とは放れてゐます。そして今あなたに此の手紙を書いてゐる私は何のつもりで書き始めたか、あなたはお疑ひになりますか。
 私はあなたを再び愛し始めたのです。私は此の次にまた手紙をあなたにさし上げることと思ひますが、そのときには私と結婚して下さいと書くつもりです。今はそのことはまだ書きません。私はもう不貞な妻を持つのは嫌ひです。何ぜなら、私はもう決して不貞をしないと自分に誓ひ、あなたが不貞をしても不貞をしまいと思つてゐますが故に、あなたに不貞をされれば尚私は困るにちがひないと思ひますから。あなたは私に不貞をなさらないお覺悟でゐて下さるなら、私はこの上もなくありがたいのですが、しかし、不貞をなさつても、不貞をしまいと絶えず考へてゐて下さるならそれで結構です。あなたは多分お返事を下さることと思ひます。そのときに、もし私をお喜ばし下さるやうでしたなら、私はあなたに結婚を申し込みます。それまでは以上のことはとり消しにしておきます。
 私は今一度讀み返してみました。私はこれを戀文のつもりで書きましたのに、自分の亂暴な書き方に少し驚きました。今二三年前の私なら、もつと丁寧に美しく書けたのですが、今ではいくら丁寧に失禮にならないやうに書かうと思つても、このやうになつて了ひます。が、これもあなたが前に私にお與へになつた悲しみが原因してゐるからだと、もしあなたが私をお愛し下さるなら、私と同樣にそのやうにお考へ下さることと私は思つてゐます。
 彼はその手紙を書いてから讀み返してみた。が、矢張あまり亂暴のやうに思はれた。それに熱が少しも感じられなかつた。しかし彼は書き直す氣持ちがしなかつた。そして、手紙に表れてゐる自分の心は何の飾り氣もなく今の氣持ちを正直に出してゐると思ふと、尚だつた。彼はその手紙は出さずに殘しておきたいと思つた。不自然な状態から妻と別れて了つてゐる今の彼であつても第二の妻を假定し、それに書いてゐる自分の手紙が戀文だと思ふと、彼の氣持ちも少し明くなつた。しかし、それは所詮暫くの遊戲のやうに思はれた。そして彼の心の明さも間もなく、重い背景から壓迫して來る心の暗さのためにだんだん打ち消されまた彼は前夜のやうに萎れて了つた。彼はたまらなくなると、本屋の主婦を頭に描いて彼女のために手紙を書き出した。無論彼はそれを本當に出す氣は少しもなかつた。ただ紙の上に自分の熱情を込めてゆく樂しみだけで、夜の時間と苦痛とを潰したかつた。もし本屋の主婦を妻と呼ぶことが出來たなら、自分の今の悲しみは盡くなくなるやうな氣持ちがした。すると彼はだんだん本當に彼女にあてて手紙を出しさうな氣持ちになつた。彼はペンを置いてその手紙を引き破つた。
 次の日、彼が二階にゐると家の横を通るかん子の足音がした。彼は少しいつもとは違つてそはそはした。手紙を今渡してよいかどうかと考へたが、あまり自分が輕率のやうな氣持ちもし、また一方、その手紙を渡したと云ふことで、どんなに新らしく事件やそれにつれて自分の氣持ちが展開して行くか、みたかつた。が、どちらかと云ふと、自分の現在たくらみつつあることが遊戲的な氣持ちがして渡せない氣持ちの方が強かつた。が、また遊戲は遊戲であるとしても、軈て眞劍になるに定つた性質のものだと思ふと渡してみたくもなつた。とにかく彼は落ちつかなかつた。そのうちにかん子は何處かへ行つてまた引き返して來た。彼女は最初彼の立つてゐる二階の方を向かなかつたが、途中まで來ると彼の方を一寸見た。その時、彼は手紙を持つたままもうかん子が自分の方を向くか向くかと思つてゐたときだつたので、かん子が彼を見た拍子に彼は思はず手紙を上げた。かん子は暫く何の表情も動かさずに彼を見たまま彼の家の方へ近か寄つて來た。彼女がそのまま塀の横へ消えて了ふと、彼は直ぐ下へ降りて、かん子の進んで來る塀の方へ廻り、手紙だけを塀の上から軒の方へ出してゐた。かん子の足音がだんだ[#「だんだ」はママ]近か寄つて來た。そして彼の横まで來ると一寸立ち停る氣配がした。が、何ぜだか、手紙は暫く彼の指の間に挾まつたままでゐてそれから漸く塀の向ふへ脱きとられた。彼は少し昂奮しながら二階へ昇つて來たが、かん子が立ち停つてから手紙をとるまでの時間の經過を思ひ出すと、それが氣にかかり、不快な氣持も一寸した。が、間もなく、彼はそれらのことを忘れて了ひただその手紙の返事を待つのが樂しみになつて來た。彼女が受けとつた以上多分それは自分を喜ばすにちがひない返事のやうな氣持ちがして來た。彼は長い間の苦痛を洗ひ落すために、その日一日でも愉快にすごしてみたかつた。彼は夕暮から京都へ出ていつた。
 彼はなるだけ人々の中から氣持ちのいい所ばかりを搜すやうに努めて歩いた。彼は幾組もの若い夫婦づれと行き合つた。それらの幾組かの中には、妻も良人も通り過ぎる人達には少しも眼をかけず、何か二人の心に共通した樂しいことを同じ熱心さで語り合ひながら行き過ぎる夫婦もあつた。彼はそれらの二人を見ると自分のことのやうに嬉しくなつて、涙さへ出ることが時々あつた。
「どうぞ、仲好くしてほしい。あなた達の心に氣品があると、この通り自分までが嬉しくなるのだ。」
 彼はさう云つた氣持ちでそれらの二人を見送つた。彼は自分がよほど感傷的になつてゐると思つた。が、嬉しいのはどうも仕方がないと自分に辯解しながら、自分と竝んで歩いてゐるときのかん子の樣子を考へてみた。かん子は少し胸を張り肉感を打ち消した教養のある顏をして、さうして靜に淋しくそれでゐてどこかに心のたしかさを示しながら自分の横で歩いてゐる。そのかん子の樣子は、彼女の有つた樣々な樣子の中で一番氣品があり貞淑さうに見える姿であつた。そのとき彼の頭の中へまたかん子が俳優の顏に見とれてゐるときの顏が浮んで來た。けれども彼はもう何の不快さも感じなかつた。いづれそれほどの不貞さは豫算の中に入れてゐる今の彼には、過去の一時のことなどは全く力がなかつた。それが彼にはありがたかつた。幾組かの夫婦連れの中には、夫々良人以外の者、妻以外の者を物色しながら汚い眼付きをして通り過ぎる組があつた。彼はそれらを見ると輕蔑した。殊にさう云ふ賤しい眼のよく動く妻を持つてゐる男が彼には下品に見えた。行き合つた中に、一人の父が二人の子の質問に眞面目に應じ教へながら歩いて行くのがあつた。その後から二人の子の母らしい婦人が、三人の持ち物を自分で持つて、いかにも安心したらしく窓の飾り物を眺めながらついていつた。それら親子の四人からなる一つの親愛な空氣は周圍のもののためにどこ一點も亂される所がなく、人々の流れの中を、どこまでも流れ續けてゆく。ただ彼には、父親と母親とが少し弱さうに見えるのが氣になつた。その夜彼はまれに愉快な氣持ちでかなり遠方まで歩いて歸つた。が歸つて靜に一人二階へ横になると疲れからばかりではない、憂鬱な氣持ちが矢張り彼を襲つて來た。彼は辰子のことが頭の中に浮んで來た。彼は辰子が自分になしたいろいろの不快なことよりも、彼女を全く失つたと云ふことを悲しむ氣持の方が強かつた。今、かん子には結婚を申し込みつつある折に、辰子のことで悲しむ自分を思ふと彼はかん子にすまなく思つた。が、それでも矢張りまだ辰子を愛してゐる自分の心の或る部分には、誰にも默つてそのまま蓋をしておかねばならないのが苦しかつた。いつその蓋をとり去ることが出來るのか、さう思ふと、それは永久にとれないやうにも思はれ、またかん子が自ら手を延してとつてくれない限り自分ではとてもとれさうに思へなかつた。
 その翌日彼は一日かん子の返事を待つためにのみ心をいらだたした。かん子は郵便で手紙を送るつもりかそれとも自身で自分に渡すつもりかとこれさへも彼には見當がつかなかつた。が、夜になつても彼はかん子の姿を見ることが出來なかつた。もし郵便にしたとしても、毎日一度は姿を見せる筈だのに、それに今日に限つて、出て來ないのは、何か、かん子の心のうちに自分の手紙で卷き起こされた感情のもつれがありさうに思はれた。
 夜手紙が來た。が、それは三島からの手紙であつた。彼は暫くその手紙を開封する氣も起らなかつたが、三島の住所を見るとそれが自分の番地とは違つてゐたのに氣附いたので開封した。
「君の手紙を讀んだ、僕はくれぐれもすまないと思ふ。君の云つたやうに、君にすまないと云ふ心が僕にあつたから、辰子さんをくれと僕は云つたのだ。けれども無論そればかりではなかつた。僕は辰子さんを愛してゐた。今、辰子さんを君にとり戻されれば悲しむにちがひないのを自分で知つてゐた。僕は直ぐ君の手紙を辰子さんに見せた。辰子さんは讀み終るとまた泣き出した。僕は君に嫉妬さへ感じた。此の頃は何かすると直ぐ彼女は泣き出す。さうかと思ふと、まるきり見當のつかない子供らしさではしやぐかと思ふと、直ぐ又泣き出す。僕には全く辰子さんの氣持ちが分りさうで分らない。しかし僕は君の手紙を見せたあとで直ぐ結婚を迫つた。赦してほしい。ところが、彼女は默つてゐた。
『もうかうなれば仕方がないぢやありませんか、僕は木山にすまないし、もうあなたと結婚する方が一番木山にすまなくなるのだし。』さう僕が云ふ返事の代りにまた辰子さんは泣き出すのだ。しかし、僕はしつこく迫つた。が、矢張り辰子さんは默つてゐた。僕は腹が立つて來た。
『それぢやもう僕はここにゐられないんだから、出て行きます。それより仕方がない。』と僕は云つた。
『木山が何とも云はないぢやありませんか。』と辰子さんは始めて口をきいた。僕には何のことだか分らなかつた。
『何とも云はないつて何をです。』
 と僕は訊いたが辰子さんは默つてゐた。
『木山があなたに結婚してもいいつて云はないつて云ふ意味ですか。』と僕はまた訊いた。
 辰子さんは頷いた。
『云つてるぢやありませんか、僕の意志の通りにすればいいつて云つてるのぢやありませんか。』僕はあまり君に露骨すぎるが實はさう云つた。すると、
『あなたが木山に云つたからだわ。』と辰子さんは云つた。
 僕は前に君に出した手紙を辰子さんに見せてあつたから、辰子さんの云ふことがよく分つた。
『それやさうだ、だけど、それなら何ぜ僕にそんな罪を犯さすやうにあなたはしたんです。』と僕はなじつた。
 辰子さんはまた泣き出した。
『私が惡いのよ。私、どちらへも行かないわ。』さう云ふのだ。
『あなたは、木山を愛してゐたんですか。』と僕は訊いた。
 辰子さんは默つてゐた。僕は又腹が立つて來た。
『愛してゐたんですか、』と又僕は云つた。
 辰子さんは小さい聲だつたが『ええ、』と云つた。僕はあきれて了つた。君からも辰子さんからも馬鹿にされたやうな氣持がして、そのときは君にも腹が立つた。殊に辰子さんの圖々しさには全く僕も怒れなかつた。『すみませんわ、すみませんわ。』そんなことを云つて辰子さんは泣き續けてゐた。が、僕の前で、君を愛してゐるのだと辰子さんの口から聞かされた以上、とるべき手段は、矢張り君の家から去ることよりないと考へた。で、その夕方僕は直ぐ表記の下宿屋へ轉つた。惡く思はないでほしい。が、いくら考へても矢張り僕が惡かつたと思ふ。僕はもう君には逢へないと思ふ。譬へ君が僕をゆるしてくれたとしても、矢張り僕はもう逢へない。どうぞ健康でゐてほしい。」
 彼は三島の手紙を讀むと全く心が亂れて來た。三島には自分が惡いと尚思つたが、それよりも彼は喜ばしい氣持ちを強く感じると自分の喜んでゐる心が三島に對して惡いと自分に思はせてゐるやうな氣持ちがし出して羞しかつた。直ぐ彼は三島に手紙を書きたくなつた。が、しかし何を書いていいやら第一それが分らなかつた。實の所、今の彼の心を叩いて云ふと、自分と三島とは前よりもつと親しくなれるやうに思ふと云ふことを、先づ書いた後で、あれほどの狡さを三島にしたにも拘らず三島は自分にわびたその上に自分の最も愛してゐる辰子を返してくれたと云ふ禮を書かねばならないやうに思はれた。けれども、それをそのまま書けば、三島が自身の惡さを知つてゐればゐる程、三島にとつては皮肉になりさうにも思はれる。が、不意に彼は今迄感じてゐた喜びが消えて來た。ただ自分の性格がひねくれてゐただけ順調に行き得る事から總ての悲劇が卷き起り、與へなくともよい悲しみを善良な者達に與へ、さうして事件が自分に都合がよくなると急に喜び始める自分を思ふと不快になつた。今迄の自分の苦痛や悲しみは當然受くべきことでもあり、勝手に自分で受けてゐたことのやうに思はれる。彼は今は自分の心をただかん子に向けようと骨折つた。今自分が妻の傍へ歸つたならば、再び辰子は戀人時代のやうに自分を愛して來るにちがひないと思ひはしたが、しかしさうかと云つて譬へ自分がかん子より辰子を愛してゐるとは云へ、今さらかん子に與へた手紙を無視して上京することが出來ないのは勿論、かん子に手紙を與へてゐなかつたとしても、このまま三島に素面で上京出來ないやうに思はれた。それに三島が引き轉つてから手紙の着くまで二日はかかつてゐるとすれば、自分と再び一つになる氣がない辰子ならその間に辰子はどこかへ行つてゐさうにも考へられた。が、それはともかくとして、いづれそのうちにどこかから手紙が來るにちがひないと思ふと、彼は、かん子の返事を待つよりも、辰子の手紙を心に待つた。彼は三島に手紙を書いた。それにはなるだけ三島の惡さを三島に意識させないやうに注意して書く必要が充分にあると思つた。
「俺は君を失ひたくはない。この氣持ちからばかりで今ペンを持つてゐる。その他の氣持ちは今は書かないやうにする。それを書出すと、いろいろ自分の不純なことばかりを書かなければならない。だが最も素直に云ふと、前に書いた手紙の裏には、出來ることなら辰子を返して貰ひたかつた俺の氣持ちが隱れてゐた。それに多分、辰子も俺の手紙を讀むであらうと豫測してゐる俺の心が、知らず知らずに文面に汚なく出てゐたやうに思はれる。そしてそれが、君と辰子とを分離せしめるに有效であることを俺は知らない筈がなかつたのだ。無論出來る限りはその心を壓へて書いた。が、矢張り君と辰子とは分離した。分離することを俺は欲してゐたのだが、分離させてはならないと思つてゐた。もうこれ以上俺に書かしてはいけない。どうぞ前のやうに俺を見放さないでほしい。これは無理な注文のやうだが、俺の心は君と放れたくはないのだ。この手紙では前にも云つたやうにただそれだけが書きたいのだ。君が辰子とまた一つになるならないについては君の意志次第でどうにでもなることと思ふ。しかし、そのことについてはもう俺は云へない。此の上俺が一つにしようと盡力すると、また嘘の氣持ちが働き出さないとも限らないではないか。俺は昨日かん子に結婚をしてくれるやうに手紙を書いた。その返事はまだ受けとらないが、譬へそれが不調にならうとなるまいと、俺としてはもうかうなつた以上、辰子に心を向けてはならないのだ。東京の家の方は、君らが二人そのままそこにゐてくれると都合がいい。無論、かん子と俺とがそのやうになつたと云ふことには、いろいろ俺だけに關する複雜した氣持ちがあるから、そのことについては書かないことにする。辰子には、もし辰子がまだ俺の家にゐるやうならこのことを報すつもりだが、その前に君からも云つて貰ひたい。いろいろ迷惑をかけて本當にすまなかつた。かん子とのことが譬へ不調になつたとしてもならなくても君には報らさないことにするから、この方のことは氣にかけずに、君の意志の通りにやつてほしい。」
 彼はその手紙をそのまま出した。が、何ぜだか淋しかつた。それに、かん子が返事を一日も遲らせてゐる上に、一日顏を見せないと云ふことが、順調にいかないことをいよいよ明瞭に感じさせた。が、彼にはかん子の返事の模樣が譬へ彼を喜ばせたとしても、今は張り切つた喜びを感じないやうに思はれた。いや、それよりも、却つてそれが、より一層淋しさを自分に與へるやうな感じもすると、かん子にすまないと思ふ氣持ちが増して來て、矢張り自分があまく輕率であつたやうに思はれた。


 翌日は雨が降つた。彼は郵便の來る時間が待ち遠しかつた。その時間まで本でも讀まうと思つたがさうしてゐると、もしかん子が手紙を自身で渡さうとして出て來るなら彼女の足音を聞き逃しさうに思はれたので、それも出來なかつた。彼は時々閉つてゐるかん子の家の二階を見た。いらいらし續けながら、二度目の配達の時間まで待つたが、矢張り手紙は來なかつた。そのうちに夜が來さうになつた。雨は上つてゐた。彼は待ち疲れた腹立たしい氣持ちで夕餉を食べてゐると、かん子の足音がした。彼は直ぐ箸を置きかけたが、母に氣附かれることを恐れた。そのまま一膳を自然になるだけ早く片附けると、暫く腰を落ちつけて軒の樣子に氣をつけてゐた。足音はもうしなかつた。彼は室の中を靜に廻りながらかん子の歸りを待つた。が、いつまで待つても足音はしなかつた。彼は二階へ上つて窓から下を見ると、夜闇の中に立つてゐるかん子の青白い顏が、塀の横から彼の方を仰いでゐた。彼は直ぐ下へ降りて軒の露路へは入つて行くと、かん子も彼の方へ近寄つて來た。彼は初めて戀してゐるやうな張りのある氣持ちを感じた。彼はそれが嬉しかつた。露路の中頃迄來たとき、かん子は彼と胸を合せるやうに立ち停つて、掌を低く差し出した。彼はその手に觸れると堅い手紙が載つてゐた。彼は默つて手紙をとつてもまだそこから動けなかつた。かん子も彼のやうに動かなかつた。暫くして彼は手紙が讀みたくなり、かん子の傍をすりぬけようとしたが、しかしあまりそれでは冷淡なやうな氣がしたので、かん子の兩肩に手をのせた。輪廓だけ白くぼんやり見えてゐるかん子の顏が長らく彼を見詰めてゐた。彼はかん子を抱いてやりたかつた。いまではしかし一種の羞しさから輕々しく愛情のままに身體が動かなかつた。すると、かん子は急に首をたれて彼の横を通りぬけると靜に彼女の家の方へ歩いていつた。
 彼は自分の行爲に物足らなかつた。が、彼女が直接手紙を持つて來てくれたことが嬉しかつた。直ぐ家の中へは入らずに一度、水車の傍まで行つてそれから足早やに家へ引き返した。彼は豫想してゐたよりもつと緊張した氣持ちで手紙を開けた。
 何から書いて良いか分りません。私はこの手紙を幾度書いて破つたか。どうぞお赦し下さい。私はあなたと結婚することが出來ません。私には許婿があります。私は苦しい。あなたはきつと私を冷たい女だとお思ひなさるでせう。いえいえ、決してさうではありません。でも私はその人を捨て去ることが出來ません。私は矢張り古い女です。このままその人の妻になるにちがひありません。どうぞお赦し下さい。私は苦しくて、毎日毎夜泣いてゐます。こんなお返事であなたはきつと物足なくお思ひなさるでせう。私はあなたのお怒りなさるのが眼に浮んでゐます。私は苦しい。此の手紙もあなたにお渡しすることが出來るかどうか、切手を貼つて出さうかとも思ひますが、もしお家に知れては一大事と思ひますし。私は夜は出られません。私はもうこれ限りあなたとはお眼にかからないと決心してゐます。でもそれも出來るかどうか。私はあなたのお姿を見ると、心のない人、死人のやうになつて了ひます。誰か來たやうです。もうこれで書けません。人目を忍んで書いてゐますので亂筆亂書となりました。お許し下さい。
 愛する方へ。――たうとう書かないでゐようと思つてゐたのに書いて了ひました。
 彼は讀み終つた。しかし、彼は悲しまなかつた。無論淋しかつた。が、かん子の正直さがいぢらしく思はれたばかりではなく自身の良人のために自身に迫つた誘惑を跳ね除けたかん子が彼にはありがたかつた。彼は一層かん子にひきつけられた。が、それだけの覺悟のあるかん子なら、自分を愛するよりも、今に彼女は彼女の良人を尚愛することが出來るやうになれると思つた。彼はかん子の良人に心の中でわびた。もし一生かん子の胸の中に自分の姿が映つてゐるとすれば、彼女の良人は一生不幸に浸つて死ぬだらう、さう思ふと殊に彼はすまなくなつた。が、いくらわびても、かん子の心を處女でなくして良人に渡すのは自分であると思ふと新らしく罪を犯したやうな氣持ちがした。彼はかん子が早く自分を忘れてくれることを願つた。愛すると云ふ言葉や、愛すると云ふ態度は、餘程考へて眞劍にならない限りどこでどんなに人を苦しめるものとも分らないと思つた。彼はかん子や彼女の良人のためにかん子の手紙を裂いた。
 彼は淋しかつた。友達や妻や本屋の主婦やそしてかなり頼りになれると思つてゐたかん子ともこのまま放れていかなければならないと思ふと、それらが皆自分にとつては自分の過去を作つてゐる親しい者であり、愛してゐる者達であるだけに彼は淋しかつた。しかし彼は落ちついた平安を感じた。此の前から一人友達から放れる度にいづれ總ての者が自分から放れて了ふときが來るだらうと思つてゐた。今そのときが來てみると、放れていつた總ての者が同じやうに彼にとつて親しい者に思はれて懷しかつた。彼は今自分の心が一番謙遜になつてゐるやうに思はれた。そして、さう感じたことは彼の苦痛を一層柔げて靜にし、長らく迷つてゐた彼の心を一層彼の胸に落ちつけた。けれども矢張り彼は淋しかつた。彼はふと何ぜだか母の死ぬことを考へた。出來ることなら母だけは失ひたくはないと思つた。彼は母に逢はずにはゐられなくなつて來た。下へ降りてゆくと、母は神棚に燈明をあげてゐた。
「何に?」
 彼が默つてゐるのに母はさう云つて彼の方を振り向いた。
「何でもない。」と彼は云つた。
「くず湯飮みたうないかね。お湯がしんしん云うてゐるのやが。」
「飮んでもいいね。」
 母はくず湯をといてくれた。彼は母にいつまでも健康でゐて貰ひたかつた。が、かう云ふときに限つて母がありがたくなる自分を思ふとなさけなかつた。
「さつき郵便つて云うたやうやが何も來てゐんかいな。」と母は暫くして云つた。
 彼は辰子からではないかと思つた。來るのならもう來さうなものだと思ひながら庭へ降りて見ると、矢張り辰子からだつた。彼はまた二階へ上つてそれを見た。
 私はあなたの手紙を見ました。私は惡うございました。何も今は云ふことが出來ません。三島さんは三時間程前にお轉りになりましたわ。私はあの方の所へは參れません。私はあなたを愛してゐました。前からずつと變つたことは一度もございませんでしたわ。けれども私は腹が立ちました。もうあなたと一つの家なんかにゐまいと決心しましたの。それであんなことをしてしまひました。どうぞお赦し下さい。私、これからどこかへ行つて了はうと思つてゐますの。私もうあなたにお逢ひ出來ないし、だけど一度お逢ひしたいわ。あなたにもつと叱つていただきたいの。それから出て行きたいの。だけどあなたはもう來て下さらないでせうし。それに、このまま家をあけて出て行けないし、私困つてしまひました。どうぞ赦して下さい。私が惡かつたのよ、あなたを疑つてゐましたの。私あなたが愛してゐて下さると少しも思へなかつたんですもの。私、もう三日眠れませんの。云ひたいことなんかちつともまだ書けませんわ。私一度あなたに逢つておわびしたいんですの。本當に長らくありがたう厶いました。私決して忘れませんわ。赦して下さい。赦して下さい。私何と云つていいか分りません。私は馬鹿です。罪深いことをしたのに、どうぞ赦して下さい。どうぞ赦して下さい。私もうこれより云へません。
 また彼の心は亂れて來た。辰子を抱き寄せようとする氣持ちと、突き除けたい氣持ちとが入り亂れて、自分の心がいつどこで落ちつくのか彼には分らなかつた。彼は亂れる心を前のやうに靜な氣持ちの中へ整へようとした。
 母はくず湯を持つて上つて來た。
「どこから?」
「東京。」
「何つて云つて來たの?」
 彼は答へずにくず湯を一口飮んでみて、
「お砂糖がすぎたね。」と云つた。
 母は彼の顏を暫く眺めてゐてから默つてまた下へ降りた。彼はだんだん辰子の方へ牽きつけられてゆく自分の心を感じると、三島やかん子にすまなくなつた。今、かん子から拂はれると直ぐまた妻へ戻つてゆく。それは無論當然なことだと思つてみた。が、それでもあまり現金すぎた。それが自分でさうはつきり思はれれば思はれる程、彼は自分の心を非難した。けれども、いづれどれ程反抗してみても結局妻の傍へ戻つて了ひさうな氣持ちがすると、今、渡りに舟と云ふやうに、素直に舞ひ戻つて來た運命に乘り移つてもみたかつた。が、それにしても、三島へ出した手紙と自分の今の態度との變りかたは、あまり三島を無視してゐるやうに彼には思はれて氣がとがめた。まだ自分がかん子にあのやうな決定的な態度をとらない前なら、三島が自分に戰鬪して來たと同じやうに、自分から三島に向つて戰ひ始めも出來たのだと思つたが、今となればそれさへ彼は愼まねばならなかつた。が、さうかと云つて、自分の妻が前非を悔い、自分を愛してゐることが明瞭であつて、さうして自分も彼女を愛してをり、前の自分を後悔してゐる、さう云ふ二人の夫妻がまたどちらも一つに結び直りたいと願つてゐるにも拘らず、何ぜ一つになつてはいけないのか。さう彼は自分のひるむ心に鞭打つてもみた。が、矢張り彼は輕率な自分の過去の動作に縛られたまま同じ考へを幾度も幾度も巡り返して苦しんだ。一度は辰子を心の中から突き放してみるために、彼は一番自分の胸を痛める辰子の傷ついた肉體を自分の胸に突きつけて考へた。それを考へると暫くは彼も弱つた。けれども、それはもともと、自分の不愉快な性質を根本的に自殺せしめるために、自分から辰子を傷けたのと同じであると思つてみれば我慢が出來た許りではなく、辰子を傷けた代價として、辰子の心が洗はれ、自分の心が洗れて今迄より完全に二つの心が結び合はうとしてゐるのだと思ふと、妻の肉體の汚れは彼を苦しめ乍らも尚、彼を辰子の方へ牽き寄せる力となるだけだつた。しかし、妻の傍へ戻る戻らないはともかくとして、彼は今の自分の氣持ちを妻に報らせてやりたかつた。
「今さきお前の手紙を讀んだ。お前が俺にあやまつたと同じやうに矢張り俺もお前にあやまらなければならないのだ。三島から多分お前に話すことと思ふが、俺は三島とお前とが別れたことを知る前に、かん子に結婚を申し込むだ。これには種々な俺の氣持ちが働いてゐるので、一口には云へない。が、とにかく、それは彼女に許婿があることで失敗した。失敗したからまた俺はお前を愛し始めると云ふのではない。勿論さう思はれても仕方がない。が、俺はかん子に結婚が出來るかどうかを訊ねてみる手紙を書いてゐる際にも矢張りお前を愛してゐた。お前の心をとりたいがために云つてゐるのではなく、こんなことを今かくのは俺の本意ではない。何ぜならお前の手紙を今受けとる一時間前に漸くかん子のことが駄目だと分つたからだ。無論事實を云つたまでのことではあるが、しかし、事實ではないと思はれる方が今の場合は俺には都合がよい。俺はお前の傍へ歸りたい。だが、今着いたお前の手紙を見る前に、俺は三島にお前を妻にするしないは君の意志のままにやつてもらひたいと書いておいた。そのときにはまだかん子から俺に何の返事も來てゐなかつたし、それに三島の手紙によるとお前は俺とも別れて出て行くやうなことが書いてあつたから、俺も仕方がないとあきらめてゐた。今頃は多分三島がお前にこれらのことを話してゐることと思ふ。これらのために俺は今更、三島を出し拔いて直ぐお前の傍へ歸ることが出來ない破目に立つてゐる。無論、俺からは、お前と三島とが又一つになつてほしいと云ひたくはない。が、しかしさうかと云つて邪魔するつもりでも全然ない。今の俺の氣持ちを今の筆つきで書けば自然邪魔するやうになつてゆくにちがひないのは分つてゐる。が、今の俺の人格としてはもうありのままに俺の氣持ちを書くより仕方がない。俺はもうこれ以上人格を高めることが出來ない。この手紙と一緒に俺は三島にお前を返してほしいと願つてみるつもりもある。が、それはどうするか分らない。俺は三島にはすまない。ならうことなら、この手紙のつくまでに、三島がお前の傍へ行き、一切を片附けてお前を引きとつて了つてゐてくれれば一番今の俺としては助かるのだ。さうしたなら俺は多分お前を取り戻さうとはしなからう。これほどの悲劇を俺自身が卷き起しておいて、後のいい露ばかりを吸はうと思つてゐる俺が間違つてゐるのだ。俺はお前にはすまないことをした。何故俺が家出をしたか。何故お前から放れて行かうとしたか、それはもう此の前三島に出した手紙の中に俺は書いておいた筈である。以後、もし俺とお前がまた一緒に生活をしていつたとしても、前にお前から受けたやうな苦痛はもう感じないことと思ふ。その點から云つただけでも、俺もお前も幸福になるわけだ。けれども今から思つてみると、二人が愛し合つてゐたくせに、ただ一つの苦痛をお互に卒業するために、どれ程高價な悲しみの代價を拂つたことであるか。お前もそれを感じて欲しい。出來ることなら、俺はこの代價をむざむざと捨て去つて了ひたくはない。この次にまたどんな苦痛の階段が俺とお前の前に横たはつてゐるか、それはまだはつきりと俺には分らない。が、今程の苦痛は恐らくまたと來ないにちがひなからう。俺はもうお前に貞淑であつてくれとか、不貞をするなとか云ひたくもなければ云ひもすまい。が、ただ氣になるのは子供のことだ。もしお前がこれから後になつて子供を産んだとしたら、その子を俺は愛することが出來るかどうか、それが俺の新らしい苦しみとなるだらう。しかし、それもいつかは切り拔けることが出來ると思ふ。またそれは、その時に當つてみなければ、分らないことでもある。俺はもう云ひすぎた。お前と俺とがまた一つの生活をし續けてゐるつもりになつて了つた。が、何ぜだか、俺とお前とはまた一緒に結ばれるやうな氣持ちがしてゐる、何ぜだかさう思はれる。しかし、まださうはつきりと自分ひとりでは定められない。俺は三島の返事を待たなければならない。その次にはお前の返事だ。直ぐ返事をくれるやう。そして何もかもがうまくいつたなら俺は歸る。或いは少々無理をしてでも歸るかも分らない。三島には俺からもこのままのことを手紙に書く。が、お前からも、三島にこの手紙を見せてほしい。さうしたなら少しでも、俺は浮かばれる。一番今困るのはお前だらうと思ふ。三島に一番いけないことをしたのはお前だからだ。そして、お前は三島にわびなければならない。多分三島も赦してくれるだらう。少し自分勝手になるが、立場から推して今一番、苦しみを忍耐し易いのは三島だからだ。今はこれだけで筆を措く。多分、いま一度はどうしても逢へることと思ふ。俺の惡かつたことは重々お前にあやまる。
 彼はそれを書いて了つた後で、三島に直ぐ手紙を書かうと思つた。が、それは三島から此の次に來る手紙の模樣を見た後からにしてもかまはないと思つたので、妻のだけすぐ出した。郵便局から歸りに彼はまた運河の堤の方へ廻つてみた。雨上りの空には、雲の切れ目から星が所々に光つてゐた。その下をカーブを描いたいつもの運河が聲をひそめて流れてゐた。黒い森の上には時々微風が吹いた。空氣は少し寒かつた。
 菜園や村や藪を沈めてゐる夜の平原の上を、雲の塊りが靜に山の向ふの湖水の方へ動いていつた。彼は運河に添つて歩いた。彼は妻の手紙を見たときの喜びやそれらに關した種々な迷ひはもう感じなかつた。そしてそれらに代つて靜な落ちついた重い悲しみが彼の胸に擴つて來ると、その悲しみは、眼に見える平原の上にも山にも森にも一樣に流れてゐる悲しみのやうに思はれて來た。自分から悲しみが流れて出るのか、眼界から悲しみを感じるのかどちらか彼にも分らなかつた。が、ただ彼の明瞭に感じたのは、その悲しみを忍耐することそれだけだつた。そして、それだけが、生きてゐる各自に與へられた特權であるやうに思はれた。
 家へ歸ると母は彼の床を延べてゐた。
「近々に東京へ歸る。」と彼は云つた。
「さう。」と母は云つた。暫くして、「何か出來たのかいな。」と彼に訊いた。
「いーや。」と彼は云つた。
「もうちつとゐたつてよいやらう。お前どこも惡いことないのかね。」
「惡さうだらうね。」
「痩せて痩せて。あすから牛乳をとらうか。鷄のソツプの方が好いか。」
「そんなことしたつてだめだ。頭が駄目なんだから。」
「ソツプは好いやらう。」
「もういい。お母さん、東京へ出て來ないかね。」
「あんな、せつろしい所はまつぴらや。私ら行きたうない。」
 それは母のいつもの云ひ方だつたので、彼はただ笑つてゐた。が、出來ることなら、いつまでも自分の傍に母をおいておきたかつた。
 母は下へ降りるとき、
「お前あした京都へ行く?」と彼に訊いた。
「行つてもいい。何ぜ。」
「よいお醫者にみて貰ひなさい。」
「ああ、ああ、」
 さう答へておいて彼は蒲團の上へ頭をかかへて倒れた。又一段と暗い氣持ちに沈んでいつた。彼は酒を飮んでみたかつた。今、誰れか自分を刺し殺す者があつても自分は多分動かないだらうと彼は思つた。すると、ふと彼は妻の死んでゐる所を想像した。今妻が死んでくれれば、俺は悲しまないにちがひない。いや、俺は喜ぶにちがひないと彼は思つた。


 翌日彼は醫者の處へ行く氣がなかつたがまた京都へ行つてみたかつた。停留所の方へ歩いて行くと、かん子の妹が乘り場の所に立つてこちらを向いてゐた。彼がそこまで行かないうちに電車は兩方から同時に來て同時に出て了つた。それでもかん子の妹はどれにも乘らずに矢張り立つてゐた。彼女は包みを片腕に支へて、口を強く締めて自分の足もとを見詰めてゐたが、彼が傍まで行つてから暫くすると一寸彼の方に眼を向けた。その見方は自分がまだ見られてゐるかどうかを驗べる見方で、それがいかにも露骨に破れてゐて處女らしく下手かつた。彼はステツキに凭りかかり乍ら默つて彼女の横顏を吟味し始めた。彼女は矢張りかん子より美しかつた。が色が淺黒く頬が豐に張つてゐて、その強い眼の美しさは怜悧と我ままと大膽と媚弄と僞瞞と情慾と巧利的な果斷とさうして間もなく數人の愛人を同時に巧に操縱するであらうと思はれるある不純な光りの萌芽を潛めてゐた。その全體の感じはどこかある時の辰子に似通つた所があつた。彼は少し恐怖を感じた。すると、不意に彼女は彼に怒つたやうな顏をしてお辭儀をした。彼もお辭儀を返したが、彼女はそれを見ないらしく、また直ぐ前のやうに堅く口を締めて自分の足もとを見詰めてゐた。此の子を處女だとか純だとか云つてまじめに愛し出したが最後、その男は困るにちがひないと彼は思つた。彼は年甲斐もなくその小さな少女に自分を警戒し敵意さへ持つた。
 彼女を立派な貞女にするにはある時機までは愛では全く無駄でその代りに怜悧な全然冷淡で放縱なそして優れて美しい男を與へてみたかつた。自分が不貞をする暇よりも相手の不貞を防ぐことに絶えず追ひ立てられて苦しまない限り、彼女はとても貞淑な妻にはなれない種類の女性のやうに思はれたから。そしてもしこの種の女性が男性の意志を征服してをり、一般に女性が男性よりも社會上の權力が弱いとするならば、いかに社會の制度が完備したその時に於てでも、忽ちその社會は再び崩れるにちがひなく、その完全な制度にいたる過程としてもし、現在の社會主義が資本家階級を崩破したとしたならば、その同じ武器と力を以て、同時にこの種の女性とこれに匹敵する惡辣な美しい男性とを盡く殺戮するか、或いは呼吸の出來る程度の高さに彼らの鼻頭を切斷するかそのいづれかに到るまでの徹底さを示して彼らの勢力を絶滅させない限り、現在の社會主義の創造しようとする世界はその崩破が眼に見えてゐるやうに彼には思はれた。
 間もなく京都行きの電車が來た。彼女もそれに乘ることだと思つてゐたので彼は默つて乘らうとすると、
「さいなら、」と彼女は云つた。
「やア、」
 彼は會釋した。電車が出ると、彼女は向ふ側へ渡つた。そして暫して彼の電車と擦れちがつて來た電車に乘る彼女が見えた。
 あれは輕輕出來ない誘惑だと彼は思つた。その日彼は早く家へ歸つて來た。かん子はもう彼の家の傍を通らなかつた。翌日の朝三島から返事が來た。
「何故僕には今程の道義心が常になかつたか。それを悲しむ、僕は君に感謝を充分してゐる。が、矢張り今は君とは逢ふことは出來ない。君の二度目の手紙を見たとき、矢張りまた僕は迷ひ出して辰子さんの傍へ行かうとした。が途中まで行つて引き返した。僕は辰子さんから僕の所へ來てくれない限りもう行くまいと思つてゐる。僕は辰子さんには今も怒りを持つてゐる。もし君が辰子さんを愛してゐないなら僕は必ずいかなる方法を盡しても彼女を奪ふにちがひないやうな氣持ちがする。僕は此の頃酒に陶醉し續けてゐる。僕は一生出來る限り、不埒な女を玩弄し瞞着してやらうと思つてゐる。それが道徳のやうな氣持がする。かん子さんとはうまくいけることを希望する。」
 彼は三島に返事を書く氣がしなくなつた。それは三島の手紙が彼にとつて不愉快であつたからではなく、今更三島に、自分が辰子を愛してゐるとは書けなかつたからだつた。そして、もし三島に手紙を書くとするなら必然的にそのことは書かなければならないことだつたから。彼には三島の怒りがよく分つた。そして、彼も辰子には三島の怒りを柔げたやうな同じ腹立たしさを感じて來た。
 その日の午後辰子から彼へ電報が來た。それには「行く」と書かれてあつた。返事を手紙にはせず電報で寄こした辰子は賢いと彼は思つた。そしてこの豫想外のことは、彼の心を動かすに充分力があつた。が、彼は今暫くは逢ふ氣もしなかつたし、妻に來られては困ると思つた。第一、かん子に彼はすまなかつた。かん子から跳ねつけられると直ぐまた妻を呼び戻したやうに彼女に思はれさうで、それが彼には不快であつた。
「待て、行く。」
 さう云ふ返事を直ぐ彼は妻に打つた。郵便局からの歸りに通りを彼の方を向きながらこちらへ來るかん子らしい姿がずつと向ふに見えた。が暫くすると、その姿は横へ外れて見えなくなつた。矢張りかん子だと彼は思つたが、惡い氣持ちはしなかつた。
 その夜彼は妻の傍へ歸らうかと思つたが、これでいよいよ豫期してゐた通りに、辰子がまた自分の妻になつたのだと思ふと、彼の胸に湧いて來たものは喜びではなく淋しさであつた。寧ろ彼はこのままいつまでもひとりで暮したかつた。殊に、妻の壞れた身體のことを思ひ出すと譬へそこにはどんな理由があらうとも、矢張り前のやうに彼には苦痛であつた。彼は再び妻に逢つたときの感じが想像出來た。多分自分は妻から顏をそむけて平和らしい顏つきをしてどちらの心にも傷つけないことを饒舌り續けてゐるにちがひない。さう思ふと、彼はまた妻の傍へ歸つて行くと云ふことは、自分にとつて非常な冒險のやうな氣がして來た。が、とにかく今は、その冒險を避けてはならない。ただ突き衝つて行けばいい。その行くさきに絶望が眼に見えてゐたとしてもそれが問題ではない。最も問題なのは、絶望すべきことにへし折れないこちらの強さにあるだけだ、と彼は思つた。
 夜彼は三島に手紙を書いた。
「かん子のことは君には知らさないでゐようと思つてゐた。が、事件が今のやうになつて來ては知らさずにはゐられない。かん子のことは駄目になつた。ところがそれと殆ど同時に妻から手紙が來た。此の内容はあまり君には話したくはない。が、實はまたもとのやうに二人はなつて了つた。あまり早すぎると君は思ふにちがひない。が、赦してほしい。俺は辰子を前から返して貰ひたかつたのだ。けれども今はもう俺の氣持ちを君には云ふことが出來ない。
 俺は今朝着いた君の手紙の内容次第でまた辰子と一つになるならないと決めようと思つてゐたのだ。そして、なつた。君の手紙が來てから五六時間の後妻からの電報でこちらへ來ると云つて來た。俺は來るな行くと返事しておいた。間もなく妻の所へ歸ることと思ふが、君にはまことにすまないと思ふ。しかし、君は俺のかうした態度を赦してくれることと思ふ。そして俺は赦されてもいいと今は思ふことが出來るやうになつた。この傲慢な云ひ方もどうぞ赦してほしい。」
 彼は書き終つてそれを直ぐまた出しに行つた。もうこれで三島とも放れて了つたのと同じであると思ふと力がぬけた。が、今となつてはもう何事も仕方がなかつた。
 その翌日彼は東京へたつた。彼はまだ今暫く矢張り妻には逢ひたくはなかつたのだが、この上、妻に疑ひを起させる必要はもうなかつた。彼はなるだけ妻の善良な顏の表情や後悔してゐる彼女の心を頭に浮かべるやうに骨折つた。が、しかし、どのやうに考へても、絶えず頭の底から放れないのは矢張り壞れた辰子の肉體であつた。彼はそれを思ふと急に胸が痛み出し眉が險しく顰んで來た。
「もう幸福は決して俺にはない。」
 そんなある決定的な氣持ちの中に突き落されると彼は沈んだ心の底から、自分の仕事に沒頭したい熱情を遽に感じ始めた。
 ある寒村に汽車が停つたときま向ひに停つてゐた數臺の貨車の中で動かない數十疋の牛が鼻を縛がれたまま乘せられてゐた。間もなくその貨車は動き出した。黒い牛の群れが黒い貨車と一緒に夜の底を曳かれてゆく。それを見ると何も知らない牛が終には羨ましかつた。





底本:「定本 横光利一全集 第二卷」河出書房新社
   1981(昭和56)年8月31日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「俯向いて」と「俯向て」、「氣持ち」と「氣持」、「激しく」と「激く」、「冷たく」と「冷く」、「云う」と「云ふ」、「懷」と「懐」の混在は、底本通りです。
※底本のテキストは、日本近代文學館所蔵原稿によります。
入力:橘美花
校正:奥野未悠
2021年3月1日作成
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