書翰

大正十一年九月(推定) 小島勗宛

横光利一




45 九月(推定)小島勗宛(四百字詰原稿用紙十二枚・ペン書)

矢張り僕は、あの手紙を、もう少し待つて、もう少し長くかかつて書くべきであつたと思ふ。今から思ふと、あのままでは、非常に僕自身不愉快でもあり、君も、僕の書きたらないために不愉快を感じたにちがひないと思はれる。不愉快さを感じる可き所に感じて貰ふのには、僕はまだ忍耐が出來るとしても、さうでない所に感じられるのは不愉快なことである。しなくてもいい心のもつれ、さう云ふ種類の誤解を甚だし易いやうな微妙な心理ばかりを、殆どなぐり書きに荒々しく書いたやうな氣持ちがする。云へば云ふほど、云ひたりないやうな氣持ちのして來る手紙であつた。ならうことなら、君から不愉快なところを、我慢をせずに云つて貰へば、尚、僕もはつきりして氣持ちよくなれると思ふ。かう云ふことを書き出せば、君はうるさいと云ふかもしれない。が、出來るだけは、我慢をして讀んでほしい。もつとも、昨夜書いたあの手紙は、あの手紙にも云つた通り、あの手紙の部分だけでさへ、創作にすればかなりに長い長篇になる。いづれ、發表してもいい時期がくれば、心理經過を少しももらさず細密に書いてみるつもりもある。しかし、そのときまで誤解されてゐると云ふことは、僕としてはやりきれないことだ。もし一切を書いて了へば、きつと、君が僕をゆるしてくれると僕は確心してゐる。その確心が、あつたればこそ、あの手紙を、僕は書く氣に前からなつてゐたのだ。しかし、書き乍らも、これではいけない、これでは是非一度は直ぐ爭ひが起る、とさう云ふ不安が絶えずあつた。が、その爭ひをも通過して了へば、一層よくなるにちがひない、とも思はれてゐた。確實な心理、正しい氣持ちを理解し合ふまでには、人は幾度も爭はなければならない。殊に、僕の性格から流れる心理を理解して貰ふには、それが甚だしく必要である、と云ふことを、過去の經驗から僕は云はねばならない。君とも度々さうであつたと記憶する。そして、その度に、それは、君の誤解からであると、知つてゐたので、僕の感情は、君の怒りにつれて、決して前進しなかつた。(尤も、絶えず、僕の心の表現の仕方が惡かつたと、僕自身思つてゐたせいもあるが。)
昨夜の手紙の中にでも、友達に對する僕の心理の説明の仕方などは、殊に僕としては云ひたりない。君の家へ行かないやうに心掛ける、と云つた僕の云ひ方でも、あれだけでは、きつと誤解されてゐるのにちがひない。なぜなら、バナナを昌子にやつたから、マサ子が疫痢になつたと、僕の葉書の書き方でそんな風に君にとられたのを思ひ出してさへ、殊にさう思ふ。君の家へ行かない、と云つた意味を、もう一度云つてみると、つまり、僕が行くと、行つたそのとき、君が困ると思ふのだ。僕の氣持ちを(何故に來たかと云ふ、氣持ちを)君が知つただけでさへ、そして、僕が君のその氣持ちを知つてゐると云ふ場合、僕に對する君自身の態度に君は困る筈ではないか。それが一つ、第二には、僕の行つたとき、他の友人が來合せてゐた場合、僕の中に種々な苦痛の原因となる複雜な心理が働き出し、そして、その僕の苦痛さは、長年のことであるが故に、僕としてはも早や、如何ともすることが出來ず、僕を神經衰弱にして了つてゐること、そうして、それは、僕は無論、君でも誰でも、どうすることも出來ないことであると云ふこと、ただ忍耐だけであつて、そしてその忍耐をするには、成るだけ、君の家へ行かないやうにすることより方法がないと云ふこと、が第二である。第三には、俺に金のないことだ。何ぜかと云ふと、俺に金がないと云ふことを、君及び君の家の方々が充分よく知つてをられ、そして、そのことについては、別に何とも思つてゐられないと云ふことが充分よく僕に分つてゐる、それであるにも拘らず、僕としては、親切にされればされる程、すまないと云ふ氣持ちから僕は苦痛になるのだ。自由になれないのだ、殊に、目の前で、君ちやんを見てゐる場合、そしてそれだけ多く君ちやんにひきつけられてゐるその場合、俺として苦痛が激しくなるのは當然のことではないか。第四には、僕は叔父さんが不愉快だ。何ぜなら、あの人は、僕を見ると、たいていの場合、何ぜだか財産しらべのやうな、さう云ふ心理的なかけひきをよくやるのだ。僕に金が澤山あれば、そんなことはそれ程不愉快なことではないにちがひないが、さうでない場合、たとひ、あの人の云ひ方が、そんな謀計を持つてゐたのではないとしても、僕にはそれが實に苦痛だ。殊に君のゐないときなど、留守のとき、僕と君ちやんとが二人坐つてゐるとする。するとあの人は、僕を泥棒そつくりの取り扱ひ方をする。勿論、僕はさうされても仕方がないかもしれない。僕は一度君ちやんを膝の上へ乘せてゐたことがあつた。そこをあの人に見られたことがあつたのだ。もう一度は、あるとき、君ちやんと僕とが喧嘩をしたのだ。その苦痛な日が二日間續いて、まる二日俺は眠らずに、君の所へ行つたときだ。どちらも默つてゐた。すると、二人は二日間の苦痛から、同時に、何も云はないのに、悔恨と愛とが爆發した。僕は立ち上つて、君ちやんの立つてゐる勝手元へ降りていつた。君ちやんは泣きながら、僕の胸の所へ額をつけてゐた。そこをあの人が見た。(そのとき、君は君の部屋にゐた。)しかし、その夜、僕は知らないが、君ちやんの云ふことによると、おぢさんは、皆の人々のゐる前で、君ちやんを叱つたと云ふことであつた。君ちやんはくやしいと云つて泣いてゐた。僕は腹が立つてしかたがなかつた。君ちやんを叱るのなら、なぜ誰もゐないときに叱つてくれなかつたらう、さう思ふと、腹立たしさがとまらなかつた。俺はあの夜、おぢさんと喧嘩をしやうと思つて君の家へ行つた。しかし、叱るのも無理がない、と思ふと、今度は急に俺自身が泥棒のやうに見えて來た。それから、氣がついたが、俺は昨夜から、あまり、金、金と金のことを書き過ぎたやうであつた。あんなことを、あんな風に書くと、いかにも、俺に金がないために妹をくれない、とさう俺が思つてゐるやうに、君は思ふかもしれない。さうでは決してないことをどうぞ知つてくれ。ただ俺としては、俺に金がないと云ふことが、非常に氣になつて仕方がないのだ。それから、君が、君の留守に俺の行くことについて、いやがつてゐると云ふことを、俺は昨夜書いた。そのことについても、もつと俺は書くべきであつた。君のさう云ふことをいやがつてゐるのは矢張り今でも俺は疑はないが、しかし、君の氣持ちは充分よく、俺は分つてゐるのだ。誰だつていやがるのは知れきつてゐる。その點だ、實際、俺はすまないと思つてゐる。殊におぢさんが、君にいろいろなことを云つたと思ふ。どう云ふ風に、どんな具合に云つたかはしらないが、俺をあれほど露骨に泥棒扱ひにする所から見れば、そして、君に、あれほど僕の泥棒のやうに行くことをいやがらせ出したところを見れば、きつと、ひどいことを云つてゐることと思はれる。あの人には、俺に對する嫉妬が交つてゐるやうに俺は思ふ。なぜなら、俺は君の家であまり皆の人々から親切にされ過ぎて來たからだ。俺が泥棒のやうに行くことについても、昨夜の手紙だけでは決して半分も云ひつくされてはゐない。まだまだ僕としてはいくらもある。きつと君もそれを盡く俺が書いたなら赦してくれることと思ふ。どうぞ、かう云ふことも考へてみてくれ。互に愛し合つてゐる者が、殆ど毎日顏を合してゐて、そして、それが、四年間も續いてゐて、しかも、それがお互に、ますます、愛情が深く前進して行つてゐて、さうして、そのお互が、ただ二人きりになると云ふことは、一ヶ月の中で、綜合した時間を云つても殆んど、一時間か二時間なのだ。そのとき、二人はほんとうにまぢめになつて了ふのだ。今※(「二点しんにょう+占」、第4水準2-89-83)の長い間の嘘のつき合ひが、そのとき初めて盡くの假面を脱ぎ捨てて、眞情が光り出す。あれほどよく話する二人が、何一言もしやべらずに默つて了ふ。その間の喜びが、お互の長い間に生じた疑ひを盡く消して了ふのだ。何一つ口に出さないでも、自分を苦しめてゐた疑ひはことごとく誤解であつたことを、一眼で感じ合ふことが出來て了ふ。そのときの喜びを感じた者は、どうして、僕のやうに泥棒にならないでゐられるだらう。紙屋治兵衞が小春に、一日に一度づつ、「私はあなたを愛してゐる。」と云ふ證文を書かしたと云ふ。しかし、それでもまだ足らずに、たうたう二人は心中した。その心理は僕には充分よく分る。ほんとうに愛し合つた者で、その二人がはなればなれの生活をしてゐるとき、必ず一日に一度は疑ひが、どちらにとつても起つて來るのは定つてゐる。その疑ひを消し合ふためには、一日に一度は二人きりにならなければ、なかなか消し合ふことが出來るものではない。それに、君の所へは澤山の友人が來る。そんな場合、僕と君ちやんとが一ヶ月に一度か二度二人ぎりになれるとしたなら、その間の僕の苦痛は、多分君には想像出來まいと思ふ。これが二ヶ月も續けば、僕は狂人になるね。僕は去年の二月には、殆んど僕の生命が危險であつた。これは餘り大げさであるが、しかし、俺は、その頃部屋中の刃物を、手のとどかない忘れ容い所へ隱した。太陽の出てゐる間は、俺は助かる。しかし、夜が來ると、とても、たまつたものではない。
俺の尻が君の家にゐると長くなるのもそれだ。俺は一人歸つたときの苦痛を思ひ出すと、なかなか歸れないのだ。俺は眼を醒す。第一番に戸を開ける。太陽がカツとあたる。「おお、太陽よ。」と僕は云ふ。けれども、その喜びの太陽も、殆ど夕暮れ近くの太陽なのだ。また夜が來る。俺はこの夜と云ふ奴にはもう、へいこうだ。冬になると何も出來なくなるのもこれだ。
どうぞ、俺が泥棒のやうに留守をねらつて行つたことを赦してくれ。俺としては仕方のないことだつたのだ。
それから、君の所へ行つて、誰か他の者が來てゐるときには、それが誰であつても、僕は直ぐ歸るだらうと思ふ。どうぞ、そのときにも不愉快に思はないでくれ。何の理由がなくとも、俺にとつては、そこにぢつとしてゐると云ふことはたまらないことなのだから。二年も前なら平氣であつたらう。しかし、もう駄目なのだ。君からは、おかしく見えるだらうと思ふ。實際、ハムズンの「餓え」に匹敵する「怖れ」とでも云ふ創作を書くことが充分俺には出來るのだ。ほんとうに俺は妙な心理状態に落ちて了ふ。何だか絶えず、俺はおびやかされてゐるやうなのだ。街をさ迷うてゐるときにでも、少しも知らない男が、何か、物色してゐるやうな顏をして歩いてゐると、妙に、そいつが、君ちやんを奪ほふとして、きよろついてゐるやうに見えて來る。不思議だ。夜眼を醒ますと時計の音がする。すると、それが、また君ちやんをとらうとして、忍び寄つてゐる男の足音のやうな氣のするときがある。俺の心臟はもうどきどきとして來るのだ。俺は冬になると危險なのだ。こんな心理は他人には一寸分らなからうと思はれる。實際、俺は一人部屋にゐると君ちやんのことばかりを考へてゐる。本を讀んでも、讀むセンテンスの間へ、君ちやんを奪ほふとしてゐる男のやうな幻想が浮んで來て俺をおびやかす。こんな風で、俺はもうおびやかされづめなのだ。君には俺が阿呆に見えるだらうと思ふ。しかし、俺には、この苦痛から逃れる方法と云つて何一つないのだ。俺には世界は大きな一つの恐怖の塊りだ。俺の心臟は絶えず高く鳴つてゐる。これが冬だ。俺は去年で冬にこりこりした。しかし、またやつて來た。これから三ヶ月の間俺はこの夜と、冬と、鬪はなければならない。實際、君には、俺の行爲が、不愉快にちがひないと思ふ。しかし、赦してくれ。俺は最早や不思議な病氣にかかつてゐるのだ。健全だと思つてくれるな。今によくなるときが來ると思ふ。かう云ふ時にはなるだけ、君の家へ行かないやうにする方がいいのだと思ふ。去年の冬は、あまり行きすぎたから、あんなになつたのかもしれない。しかし、行かなくなるとすると、君ちやんが疑ひ出す。俺はこのためにもかなり弱つたことがあつた。また今日も、俺はいろいろの羞しいことを書いて了つた。出來ることなら、なるだけ俺の所へ君が遊びに來てくれる方がありがたい。君の所へ行つてゐるときの俺を、君が思つた場合、とても俺の所へ遊びに來る氣にもなれないのは分つてゐる。しかし、俺は、君の所へ行つてゐるときの俺と、自分の所にゐる俺とは、てんで人間が變つてゐるのだ。君の所へ行つてゐるときの俺は、決して人間ではない。病者だ、不可思議な一種の狂人だ。あの時の俺で俺を判斷してくれるな。あの時は俺に同情してくれ。何ぜなら、そのときには、俺の傍に俺の母親がゐやうとも、俺にはそれが又敵のやうに見えるだらう。俺のそのときの心の中には、一時に無數の爭ひが鬪ひ續けてゐるのだ。俺はこの樣々な苦痛の中に沈んであくまで城のやうに忍耐して來た。俺は死ぬまでするだらう。俺は自殺をするか狂人になるか、放蕩するか、この三つのいづれかに落ち込んで行くときがあるかもしれない。しかし、俺の理智が、もしあくまで強ければ、俺はこれらの三つを征服するときがあるだらう。そのときは俺は勝つたのだ。俺はどこまでも、俺の身體をぶちつけていつてみやう。俺は逃げてはならない。どうぞ、俺の所へ來て、前の俺の友情を感じてくれ。君が俺の所に來てゐると、實に何とも云はれないいい氣持ちに俺はなるのだ。人がゐてはだめだ。俺は君と二人きりにゐるとき、初めて、君は俺の愛を、君に最初に向つてゐたと同じ純粹な愛を、俺から感じることと思ふ。これは嘘ではないからだ。その以外の場合には、君は、俺から敵のやうな憎惡を感じてゐるにちがひない。何ぜなら、もし俺が俺の部屋に、誰とででもいい一緒にゐるとき、そして、もしそのとき、突然、君ちやんに俺が逢ひたくなると、俺はゐても立つてもゐられなくなつて來る。俺はいらいらする。ムツとする。俺は相手が誰であらうと憎惡を感じる。俺は石のやうに默つて了ふ。石のやうに冷たくなる。もしそのために、その者が俺を、捨てるやうなことがあつても、俺は何の後悔もそのときはしないのだ。却つて、俺はその者に石を投げつける。此の俺の暴君が、軈て總ての友人をなくして了ふときが來ると思ふ。さうして俺は、いつか、このため、大きな悲しみを感じるときが來ると思ふ。俺の運命の前途に大きな陷穽の潛んでゐるのは、ここだ。俺はこれをきりぬけなくてはならない。
俺は必死に理智を磨き續けなければならない。
俺は俺のこの暴君のために、君を第一に失ひかけてゐるのを感ずる。俺はこのために必ず悲しむときがあるだらう。
何もかも一切が俺は惡いのだ。現在の状態では、間もなく俺は亡びるだらう。俺は恐怖を感じてゐる。俺を助けてくれるのはしつかりした一人の友人だ。どうぞ俺の缺陷を知つてくれ。そして俺を助けてくれ。





底本:「定本 横光利一全集 第十六卷」河出書房新社
   1987(昭和62)年12月20日初版発行
底本の親本:「横光利一全集 第十二卷」河出書房
   1956(昭和31)年6月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※副題は、井上謙氏により底本編集時に、月日、宛名人の順に加筆されたものです。
※中見出しの番号は井上謙氏により底本編集時に加筆されたものです。
入力:橘美花
校正:奥野未悠
2020年5月27日作成
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