書翰

大正十一年九月(推定) 小島勗宛

横光利一




46 九月(推定)小島勗宛

くはしく種々のことを書けば、非常に長くなると思へたので、いつか温泉へ行つて、頭のはつきりとしたとき、ひまにかかつて、誤解をされないやうに丁寧にはつきり書かうと思つてゐた。しかし、たうとうそれも出來ないらしい。そんなこともしてゐられなくなつたので、云ふことは前後するかもしれないが書かねばならないと思ふ。しかし、書くとすると、種々、君の怒るやうなこと、君の腹のたつことを必然的に書いて行かなければならないにちがひないと思ふ。
君と僕との爭ひは、傍の者からはとても容易に理解出來ないものだと云ふことは君も知つてゐることと思ふ。それだけに、もし君が僕の云ひたいことを理解してやらうと云ふ好意が少しでもあつたなら、傍の第三者の言葉など先づ、僕のためばかりにさへも訊かないやうにしてくれればありがたい。さて、何から云つてよいか分らないが、僕は、少くとも僕だけは、君と僕との、かかる氣持ちの行き違ひは、爭ひは、やがて、起きるときが來るにちがひないと云ふことを、四年前に氣附いてゐた。四年前と云ふと、君が兵隊に行く二年前である。僕は君ちやんを愛し出し、さうして、他人にいかにしても、與へることが出來ないと云ふ氣持ちになつたとき、既に君と僕とのかかる爭ひは、必ず來ることと豫想してゐた。それは君と僕との性格の違ひから。さうして、此の爭ひは必ずある時期が來れば遲かれ早かれ、癒るときが來ると思つてゐた。それまでには、僕と君とは非常にはなれて了はなければならないと思つてゐた。非常に長い時間が必要である。それは恐らく一生の問題になるにちがひないと思はれる。君と僕との和解は、恐らく、まだまだ十年はかかるやうに思はれる。しかし、僕は君のハートの中に正義心の強さを誰からよりも強く、いかなるときにも認めてゐた。僕は、君と僕との爭ひを、非人格的なものにはしたくはなかつた。たゞエゴの強さの爭ひであるやうに思はれる。しかし、僕は、君と僕との爭ひの根本をなしてゐる君ちやんの問題については、君から多くの誤解を受けて來た。また、誤解を與へるやうな多くのことを僕はなして來た。僕は自分の行ひが、他から見て、君から見て、決して正しくいいものであつたとは思はないし、また、それを主張しようとしない。が、自分から見て、決して惡かつたとは思はれなく、云ひたくもなかつた。このため、君をして、「横光は自分が惡い惡いと云ひながら、ほんたうにさう感じてゐる所が一寸もない。」と云はしめたことも無理ではないと思ふ。僕は自分の行爲を惡いとは思へないのだ。しかし、君に僕の氣持ちを云つたからとて、一寸やそつとでは、とても分らない、と思へばこそ、絶えず僕は君にあやまつて來たのであつた。僕は君に逆らつたことが(議論以外に)さうなかつたと記憶する。絶えず非常な自尊心を傷けてあやまつて來た。それは何ぜか、それは後の氣持ちは君にはとても今では分つてくれる筈がないと思つてゐたからであつた。君は僕にこう云つた。「君は僕から妹をむしり取るやうに奪つて行かうとするからだ。」と。しかし、これはよく考へてみてほしい。一體誰れが、自分の友人から、その妹をむりに取るやうにして奪はうとするものか。しかし、誰が、他家の女性を愛し取らうとする場合、むしり取るやうにしないものがあるだらうか。僕はこの二つのなした條件を、一時にかねて君の前に立つたのだ。此の苦境は、なみ大抵の者では切り拔けて行くことが出來ないのは分りきつてゐるではないか。まして、君、考へてみてくれ給へ。僕は非常にそれは不可思議なほど非常に君の妹を愛して來た。この感情を持つたものこそ、天下に於て不幸な者はなく、幸福なものはないと云ふことは、人間の歴史に於て絶えず示されてゐるのは分つてゐる。僕はその人間の一人になつた。此の人間に選ばれた者にとつて世の中の總ての人間が邪魔になるものだ、といふことをもし君が知つてゐてくれたなら、僕はこれ程苦しみはしなかつたらう。しかし、君は、君が君の妹を愛する感情と僕が君の妹を愛する感情とが等しいものだと思つてゐた。君が君の妹に對して悠々と愛するごとく、それほど僕も同時に悠々と出來得るものだと君は信じてゐてくれた。ここにも僕の一つの苦痛があつた。そればかりではない。もし、君と君の妹君との前に現れる男達が、ただ、絶えず僕一人であつたとすれば、僕の心も、君が僕に要求してやまない悠々たる感情と等しく悠々と禮節を重んじて長い年月を待つことが出來たかも分らなかつた。しかし、事實はさうではなかつた。僕は絶えず、いかなる時でも内心で鬪はねばなら(以下無し)





底本:「定本 横光利一全集 第十六卷」河出書房新社
   1987(昭和62)年12月20日初版発行
底本の親本:「横光利一全集 第十二卷」河出書房
   1956(昭和31)年6月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※副題は、井上謙氏により底本編集時に、月日、宛名人の順に加筆されたものです。
※中見出しの番号は井上謙氏により底本編集時に加筆されたものです。
入力:橘美花
校正:奥野未悠
2020年5月27日作成
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