書翰

大正十二、三年(推定) 横光君子宛

横光利一




50 大正十二、三年(推定) 横光君子宛

くれぐれも云つて來たことだが、どうか、僕に滿足してもらひたい。滿足出來ないのは分つてゐる。しかし、人間と云ふものは、どんな境遇へいつても、どんな人間に逢つても必ず、それ相當な不滿があるに定つてゐるのだから。あなたが溜息をつくときの心理が分ると、僕にも、猛然と反抗心が起つて、あなたのそのときの心理のやうな氣持ちが湧き上つて來る。俺に滿足してくれないのだ。さう思ふと、愛したくても愛情が出ない、侮辱されたやうな氣がするのだ。
僕はあなたを妻にしてありがたいと思つてゐるのだ。どんな顏をしてゐるときでも、さう思つてゐるのである。それも知らないで、不愉快な溜息されるやうな氣持ちになられては、生活して行く氣が起らない。僕があなたでなければいけないのだと思つて、あなたを妻にすることが出來、あなたが僕を愛してくれて、さうして僕の妻になつてくれたのなら、もうこれ以上僕にとつてはありがたいことはないのである。誰でもいづれ不滿はあるにちがひないのだ。それを忍耐してくれて、初めてありがたいのである。愛情が、腹のままに湧き出ることが出來るのである。こんなことはもう書きたくはない。やめよう。とにかく、お願ひだから、溜息なんかよして貰ひたいものである。
それから、此の間書くと云つたことを一寸書く、長く書かねば分るまいけれど、今はひまがない。笛を山の中で吹いたと云ふこと、それは、學校で、あるとき、何とか大佐が來て、武勇談を話した。その話には、ある男、それは多分その大佐だつたと思ふが、あまり臆病なので、それを癒すため、毎日自分の最も恐ろしいと思ふことをしようと決心し、山へ夜になると、一人行つて笛を吹いたと云ふのである。さうしたら癒つて今のやうに出世したと云ふのである。講演を聽いた冬休みに親の傍へ歸つたとき、一週間ほど、それを眞似したのである。笛を吹くと云ふことは、その頃學生の間に流行したのである。あの女の子はその頃、僕の所へ勉強しに來てゐたので、それで竹の紙をくれたのである。いつも竹の紙があればいい/\と僕が云つてゐたからである。好きとか嫌ひとか云へば、それは好きであつた。しかし、そんな種類のものなら、あなたにだつてあるだらう。自分の心に訊いてみるがよい。それから、いろいろのその他のことを君は云ふが、そんなことは、君が想像するから恐いのである。分らないことを想像すればどんなにでも出來るのだ。丁度、僕が驛のことを思ふやうに。驛のことをいくら君が辯解したつて、僕に驛のことが何も分らない以上、いくらでもまだ想像出來るのである。好きな女、と云ふよりも好意を持つてゐた女、さう云ふ程度なら、自分に親切にしてくれたもので二人ほど覺えてゐる。しかし、それとて、僕が好きではなかつたのだ。愛するなんて、そんなに深い程度になんか行けるものか。しかし、そんな好きさなら君にだつて幾らだつてあるだらう。あつただらう。僕の知つてゐる限りだつて三四人はあるではないか。僕に怒れた義理ではなからう。それも、僕は君を知らないときにである。君のは、ちがふ。僕と愛に落ちてからだ。だから、君の方は、不貞な行爲なんだ。怒るなら僕からである。頭が少し惡くなつた。とにかく怒るなら僕からなのだ。僕はそんな女など思ひ出したこともないのだ。君とは違ふのだ。君は溜息までついてゐるではないか。それに僕は、君に感謝して、どうかして、なほ幸福に二人がならうとしてゐるのだ。それに君は、一度、君の心を考へて見るが良からう。とにかく、君を妻に持つたと云ふことで、どれ程僕は絶えず感謝してゐるか。それも知らずに。もうよした。少し位は、長い間、君から苦しめられてゐたそのことでも、一度位思つてみてくれ給へ。漸く明るみへ! それに、それに、ああ、暗黒よ、去れ、暗い影よ、飛んでいけ、もしもなんぢがまだ俺を追ふならば、もう俺は。

(左は別紙。右の手紙を夫人が見た後、改めて重ねて書いたのかも知れない。)
君なんかに、うかうか文字が書けない。一體、泣かねばならないやうなことを僕は何も云はない。言葉の讀み違へであらう。落ちついて言葉を批判すればごく分りきつたことなのだ。





底本:「定本 横光利一全集 第十六卷」河出書房新社
   1987(昭和62)年12月20日初版発行
底本の親本:「横光利一全集 第十二卷」河出書房
   1956(昭和31)年6月30日
※副題は、井上謙氏により底本編集時に、月日、宛名人の順に加筆されたものです。
※中見出しの番号は井上謙氏により底本編集時に加筆されたものです。
入力:橘美花
校正:きりんの手紙
2020年5月31日作成
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