村から少し放れた寺の一室を借りた。そこでその夏を送ることにした。寺の芝生の庭には鐘樓と塔とがあつた。門には鐵の鋲を打つた大きな扉が夜でも重く默つて開いてゐた。塔の九輪の上には鳩がとまつてゐた。靜かな山寺である。寺には和尚が死んでゐなかつた。誰もゐないその寺の中を時々私は歩いてみた。佛壇もなければ内陣もなかつた。ただ平安朝時代の貴族の廣い
私はこの寺を借りるとき番人から、
「あなたのお好きなやうに、」と云ふ答へを得た。番人は私に寺を任せて旅へ出て行つた。
私は一日に一度鐘樓に登つて釣り鐘を撞けばそれでよかつた。三つの捨て鐘を打つて、十二
夕暮になると門の厚い扉の前へ村の娘らが塊まつて遊びに來た。彼女らは門から中へは這入らなかつた。芭蕉の葉のゆるやかに搖れる下で彼女らは華やかに笑つてゐた。空は湖の明るさを受けて薄桃色に輝いてゐた。芝生は靄の中でいよいよ緑の色を増し始めた。行水に洗はれた娘達はそこで母親の呼び聲のするまで笑ひ合ふのである。彼女らは京の娘の美しくなよやかな風を持つてゐた。
或る日、Kが海を越えて遠くからぶらりと來た。彼は戀人を
「鈴子さんはいい人だつたね。」と私は云つた。
彼は默つてゐた。鈴子とは彼の戀人の名前である。
「靜かで、愛情が深かつた。」
私は堂を廻つてゐる高縁に蹲んで
「ここはいい所だね。」とKは云つた。
「僕は氣に入つてゐるんだ。それにこの家は僕の自由になるんだ。」
「いいね。」
彼は跣足のまま飛石の上へ降りて庭の奧へ奧へと歩いていつた。私も彼の後からついていつた。樹の
「ここはあまり淋し過る。」とKは云つた。
「雉子が澤山ゐるんだよ。」
「さうだらう。」
彼は暗く繁つた周圍の樹々を眺めてゐた。苔をつけた石塔が一つ傾いて草の中に立つてゐた。笹の中を潛る猫の音がした。私は高い一本の松の樹を仰いだ。
「松と云ふものはどこか淋しいものだね。なぜだらう。」
「風が渡ると松はとても淋しいよ。」
「ひとり長生きをすると云ふ感じを強く受けるからぢやないか。」
「樹を見てゐるといつもさうだが……」
「しかし、樹になりたいね。」
二人はそこから奧へは行かずに戻つて來た。私は煙草を吸つて火を彼の方へ差し出した。彼は鐘樓へ登りたがつた。私は冷たい石段に腰を降ろして蝙蝠の飛ぶのを眺めてゐた。塔は夜の空に靜かにだんだんと浮き始めた。
「君、此の村に、君を愛してゐる女の子がゐるのかね?」と彼は鐘樓の上から訊いた。
「ゐないよ。」
「ゐてもいいぢやないか。」
「それやもう。」
「かう云ふ寺へ、人眼を忍んで靜かに誰か來ると云ふのはいいね。」
「いい。」
「草を分けて。」
「君が來てくれたぢやないか。」
「いいのかね?」
芝生は柔かに濕つて來た。空は澄み渡つてゐた。その日晝間暑かつたそれだけに星は晴れ晴れと冴えて光つてゐた。萩の
「戀人を失ふと馬鹿になると云ふね。」とKは云つた。
私は彼に彼の亡くなつた愛人を追憶せしめる言葉を云つてよいかどうか分らなかつた。空氣はだんだんに冷えて來た。村の火が草の中から搖れて見えた。夜烏が二羽鳴きながら塔の方へ飛んでいつた。
「君のお父さんは死んだのだね?」と彼は云つた。
「死んだ。」
「夢を見ないか?」
「見ない。」
「夢を見てゐるといいよ。」
「さうかね。」
「鈴子はそれは僕を愛するね。實に驚くほどだ。」
「夢の中でか?」
「うむ。」
「さう云ふことがいつまでも續けば一番いいね。」
「うむ。」
塔の向うに私の知人の家が見えた。窓がまだ一點明るく開いてゐて、そこから吊られた蚊帳がよく見えた。その中にはその家の子が長らく病んで寢てゐる筈であつた。醫者の俥が絶えず降ろされてゐたのを思ひ出した。風が柔かく平原の上を渡つて來た。草は葉を擦つて胸の
「君、あそこに明るい窓が見えるだらう。」
「うむ。」
「今誰か起き上つて何んか覗いてゐるだらう。」
「うむ。」
「あそこに僕の知り合ひの子が重病で寢てゐるんだよ。死ぬんぢやないかね。」
二人は長らく默つて草の中からその病人の部屋を覗いてゐた。草の緑の匂ひが微風に搖られてさまようて來た。時々星が斬りつけるやうに流れた。遠くの道を歸る馬子の唄が聞えて來た。村はだんだんと眠つていつた。梨畑の番小屋の中で火が赤く燃え始めた。足を延ばし變へると草は冷めたかつた。さうして露は葉の上に降り始めた。
「いけない。」と急にKは叫ぶやうに云つた。
「どうした?」
「かう云ふ草の中で鈴子を抱いてやつたことがあるんだ。」
私は默つてゐた。
「それに丁度こんな夜だ。」
彼は頭をかかへてそのときの草の匂ひを嗅ぎつけるやうに雜草の中へ倒れ込んだ。