村の
「今夜はひどい雨になりますよ。お気をおつけ遊ばして。」
灸の母はそう客にいってお辞儀をした。
「そうでしょうね。では、どうもいろいろ。」
客はまた旅へ出ていった。
灸は雨が降ると悲しかった。向うの山が雲の中に隠れてしまう。
「雨、こんこん降るなよ。
屋根の虫が鳴くぞよ。」
灸は柱に屋根の虫が鳴くぞよ。」
「雨こんこん降るなよ。
屋根の虫が鳴くぞよ。」
暗い外で客と話している屋根の虫が鳴くぞよ。」
「いらっしゃいませ。今晩はまア、大へんな降りでこざいまして。さア、どうぞ。」
灸の母は玄関の時計の下へ膝をついて婦人にいった。
「まアお嬢様のお
女の子は眠むそうな顔をして灸の方を眺めていた。女の子の着物は
「またッ、お前はあちらへ行っていらっしゃい。」と母は叱った。
灸は指を
「三つ葉はあって?」
「まア、卵がないわ。姉さん、もう卵がなくなってしまったのね。」
活気よく灸の姉たちの声がした。茶の間では
宿の者らの
翌朝灸はいつもより早く起きて来た。雨はまだ降っていた。家々の屋根は寒そうに濡れていた。
灸は起きると直ぐ二階へ行った。そして、五号の部屋の
灸は早く女の子を起したかった。彼は子供を遊ばすことが何よりも上手であった。彼はいつも子供の
「坊ちゃんはいい子ですね。あのね、
灸は婦人を見上げたまま少し顔を
「あの子、まだ起きないの?」
「もう直ぐ起きますよ。起きたら遊んでやって下さいな。いい子ね、坊ちゃんは。」
灸は障子が閉まると黙って下へ降りた。母は
「灸ちゃん。雨がかかるじゃないの。灸ちゃん。雨がよう。」と姉がいった。
二度目に灸が五号の部屋を覗いたとき、女の子はもう赤い昨夜の着物を着て母親に御飯を食べさせてもらっていた。女の子が母親の差し出す
灸はふとまだ自分が御飯を食べていないことに気がついた。彼は直ぐ下へ降りていった。しかし、彼の御飯はまだであった。灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの
「雨こんこん降るなよ。
屋根の虫が鳴くぞよ。」
河は濁って屋根の虫が鳴くぞよ。」
「灸ちゃん。御飯よ。」と姉が呼んだ。
茶の間へ行くと、灸の茶碗に盛られた御飯の上からはもう湯気が昇っていた。青い野菜は
「何によ。」と母は
「御飯。」
「まア、この子ってば!」
「御飯よう。」
「そこにあなたのがあるじゃありませんか。」
母はひとり御飯を食べ始めた。灸は
三度目に灸が五号の部屋を覗くと、女の子は座蒲団を
「お嬢ちゃん。」
灸は廊下の外から呼んでみた。
「お
灸は部屋の中へ這入ると暫く明けた障子に手をかけて立っていた。女の子は彼の傍へ寄って来て、
「アッ、アッ。」といいながら座蒲団を灸の胸へ押しつけた。
灸は座蒲団を受けとると女の子のしていたようにそれを頭へ冠ってみた。
「エヘエヘエヘエヘ。」と女の子は笑った。
灸は頭を振り始めた。顔を
女の子の笑い声は高くなった。灸はそのままころりと横になると女の子の足元の方へ転がった。
女の子は笑いながら手紙を書いている母親の肩を引っ張って、
「アッ、アッ。」といった。
婦人は灸の方をちょっと見ると、
「まア、兄さんは面白いことをなさるわね。」といっておいて、また急がしそうに、別れた愛人へ出す手紙を書き続けた。
女の子は灸の傍へ戻ると彼の頭を一つ叩いた。
灸は「ア痛ッ。」といった。
女の子は笑いながらまた叩いた。
「ア痛ッ、ア痛ッ。」
そう灸は叩かれる
「ア痛ッ、ア痛ッ。」といった。
女の子が笑うと、彼は調子づいてなお強く自分の頭をぴしゃりぴしゃりと叩いていった。すると、女の子も、「た、た。」といいながら自分の頭を叩き出した。
しかし、いつまでもそういう遊びをしているわけにはいかなかった。灸は突然犬の真似をした。そして、高く「わん、わん。」と
「エヘエヘエヘエヘ。」とまた女の子は笑い出した。
すると、灸はそのままひっくり返りながら廊下へ出た。女の子はますます面白がって灸の転がる後からついて出た。灸は女の子が笑えば笑うほど転がることに夢中になった。顔が赤く熱して来た。
「エヘエヘエヘエヘ。」
いつまでも続く女の子の笑い声を聞いていると、灸はもう止まることが出来なかった。笑い声に
「エヘエヘエヘエヘ。」
女の子は腹を波打たして笑い出した。二、三段ほど下りたときであった。突然、灸の尻は
「エヘエヘエヘエヘ。」
階段の上では、女の子は一層高く笑って面白がった。
「エヘエヘエヘエヘ。」
物音を聞きつけて灸の母は
「どうしたの、どうしたの。」
母は灸を抱き上げて
「痛いか、どこが痛いの。」
灸は眼を閉じたまま黙っていた。
母は灸を抱いて直ぐ近所の医者の所へ馳けつけた。医者は灸の顔を見ると、「アッ。」と低く声を上げた。灸は死んでいた。
その翌日もまた雨は朝から降っていた。街へ通う飛脚の荷車の上には破れた雨合羽がかかっていた。河には山から
「いろいろどうもありがとうこざいまして。」
彼女は女の子の手を持って灸の母に礼をいった。
「では御気嫌よろしく。」
赤い着物の女の子は
夕暮れになると、またいつものように点燈夫が灸の家の門へ来た。献燈には新らしい油が注ぎ込まれた。梨の花は濡れ光った葉の中で