横光利一

 リカ子はときどき私の顔を盗見するように艶のある眼を上げた。私は彼女が何ぜそんな顔を今日に限ってするのか初めの間は見当がつかなかったのだが、それが分った頃にはもう私は彼女が私を愛していることを感じていた。便利なことには私はリカ子を彼女の良人から奪おうという気もなければ彼女を奪う必要もないことだ。何ぜなら私はリカ子を彼女の良人に奪われたのだからである。この不幸なことが幸いにも今頃幸福な結果になって来たということは、私にとっては依然として不幸なことになるのであろうかどうか、それは私には分らない。私はリカ子――私の妻だったリカ子をQから奪られたのはそれは事実だ。しかし、それは私が彼にリカ子を与えたのだといえばいえる。それほども私とリカ子とQとの間には単純な迷いを起させる條がある。それは世間にありふれたことだと思われるとおりの平凡な行状だが、ここに私にとっては平凡だと思えない一点がひそんでいるのだ。人は二人おればまア無事だが三人おれば無事ではなくなる心理の流れがそれが無事にいっているというのは、どこか三人の中で一人が素晴らしく賢いか誰かが馬鹿かのどちらかであろうように、三人の中でこの場合私が一番図抜けて馬鹿なことは確かなことだ。Qと私とにいたってはことごとに私の方が馬鹿な成績を上げているのだ。もとを洗えば私達二人、Qと私とは同年で同級で専攻科目さえ同じだった所へ、同じ食客としてリカ子の家の上と下とで彼女を迷わせることにかけても同様な注意を払っていたのだ。結晶学の実習でダイヤモンドの標本を学校から持って帰り、初めてリカ子に見せたのが思えばこのリカ子のわれわれ二人に迷い出した初めであった。つまり、リカ子の人生はダイヤモンドから始まったのだ。そのとき私達はQの部屋で今私が下でして来たダイヤモンドの結晶面の測定について話していた。すると、リカ子は丁度お茶を持って這入って来ていつものように話し出し、そのダイヤモンドはどこの産かと質問した。所が、私にはそのダイヤモンドの母岩との関係とか産出状態とか自然性の結晶面とかは分っていても、その少女の最も知りたい平凡なことだけは分らなかった。すると、Qは実に私も驚歎したのであるが、直ちにそれはミナスゲラスだといい切った。私にはミナスゲラスはどこの国にあるのかさえも分らないのに、リカ子――漸く女学校を出かかった彼女に、分ろう筈もないことをいうQの心理に、初めは私とて驚かざるを得ないのだが、しかし、私の驚きは忽ち彼への尊敬の念へ変り出して再び全く別の驚きに変り出したというのは、他でもない。Qは怪しい顔をしている私の表情に向って投げつけるように、そのダイヤモンドの母岩が礫岩であり削剥堆積の噴出状態の痕跡を表している所を見ると、オルドウィス紀の噴出にちがいなく、母岩が礫岩でオルドウィス紀の噴出なら、ミナスゲラス以外にはないではないかといい出した。私にはミナスゲラスさえ知らないのにどうしてQがそのミナスゲラスとダイヤモンドとの関係を知っているのだろうか、これは全く驚く以外にはなくなって、ふと私はリカ子が傍にいることさえ忘れてしまい、君のいうミナスゲラスとはいったいどこだいと訊いてみた。すると、Qはこれ以上リカ子のいる前で私に辱い思いをさせるのを慎むかのように黙りながら、Minas Geraesと鉛筆で書いてコーヒーだといった。ははあブラジルかと私はいったがもうそのときは遅かった。いつも二人の知識を比べたがる年齢のリカ子の前でのこの最初の敗北は、人生の半ばを敗北し続けたのと同じことだ。私はそれからはこの最初の敗北を取り返そうとして彼の下で一層激しく勉強をし始めたのだが、私がすればするほどQも二階でそれだけ勉強をしているのだ。同じ量の勉強を二人がしているとするといつも私の方がはるかに彼より勉強しないことになっていく。私がランゲを読めばQはバウエルを読んでいる。私がフムボルトを読めば彼はローレンツとモアッサンを読んでいる。私が漸くモアッサンにかかるともう彼はウォルフとハッスリンガーにかかっているという状態で、夜の目も寝ずに私が勉強したとてとても彼には及ぶことが出来ないのだ。何が悲しいといったとて自分の敵が頭の上で自分との距離をますます延ばしていくことほど口惜しいことはないであろう。しかし、それがあまりにかけ離れるともう私はただ彼を尊敬することだけが専門になり始めた。彼にとっては初めから私などは敵ではないのだ。それを愚かしくもこちらが敵だと思ってひとりくよくよしていた自分の格好を考えると、私は私自身が気の毒でならなくなった。殊にQには彼を絶えず凌駕していた敵手のAがあったのだ。AとQとはQと私との場合におけるがように何かにつけてAの方が上になった。Qが凡水論にかかっているとAは凡火論にかかっている。Qが災異論にかかっているとAはもうパイエルの進化論にかかっているという調子がQをますます勉強させていたのである。しかし私はQがAに圧迫されているこの状態に対して復讐の快感よりも応援の快感を感じて鞭を打った。ある日の研究報告会でQがAに打ち負かされたときなどには私は私がQであるかのように萎れてしまった。それは丁度私がQからミナスゲラスで刺されたときのように。QはAから岩石学の最大問題である岩漿分化と母液との関係の説明に這入って刺され出したのだが、Aは突然、黒曜石の結晶母液となるべき硅酸の比重測定の方式はダーウィンによって始められたといい出したのだ。私は無論のことそこに並んでいた者達と同様に今までダーウィンを生物学者だとばかり思っていたQにとって、これはあまりに意外であった。もうそうなれば今までの問題であった熔岩中の各鉱物の比重差と沈澱位置などということにかけてはAが最もよく知っているに定っているのだ。座はそれから次第に結晶学の法則そのままの形をとり始め、その各人の比重に従って沈み出した。私はQよりはるかに劣っている自分を考え、そのQよりもはるかに優れたAを考え、そのAと自分との比較すべくもなき素質の距離を考えると、もう自分の運命さえ判然となって眼の前に現れ出したのだ。私の頭はそれからいよいよ謙遜になる一方であった。Qに対しては勿論のこと、他の友人や隣人、長上や年少の者に対してさえも私は頭を上げることが出来なくなった。私が神のことを考え出したのもつまりはそのときからである。人の肉体が皆それぞれ尽く同数の筋肉と骨格とを持っているにも拘らず、この素質の不均衡は何事であろうか、と考えたのが神への一歩の私の近づきであった。今思えば私がこの探索の方向をもったということが、私達友人の中での特長ある素質であったことに気がつくのだが、そのときはそれが私の友人達からの敗北の結果だとばかりより思えなかった。それ以後の私の謙譲さは私とQとの間を一層親しく接近せしめるばかりであった。Qは私にはことごとに助力を与え、私の性格を友人中並ぶものもなく高いといい、私の頭脳の速度の遅い原因を過度の頭の良さが常に逆に働くがためだと賞め、発見力や発明力はQやAの頭の働きにはなく常に私の頭の逆廻転力にあるという。それのみならず彼は私とリカ子を近づけることに喜びを感じるかのように彼女と私とを労わるのだ。私はQがそのようにも変り始めたことについては、それが彼の美徳の当然の現れだと思う以外には感じることが出来なかった。そうして、私とリカ子とはいつの間にかQの寛大さに甘えて結婚する破目になった。それは私が彼女を最初に誘惑したのか彼女に私が誘惑されたのか分らぬのだが、その時家中に誰も人がいなかったということが二人の不幸の原因を造ったのだ。ただ私はそのときいつものように噴火口から拾って来た粗面岩の吹管分析にかかっていると、突然リカ子が私の部屋に這入って来てデアテルミイが壊れたようだから見て貰いたいという。私は彼女に何事かいわれると不思議に自分の勉強を投げ出す習慣がついていて、投げ出した瞬間これは失敗ったといつも思うのだ。そこへいくとQは勉強の時となると誰が何をいっても横を向くことさえ稀である。私は私の勉強を投げ出してリカ子の後から従いていきながらもQの豪さを考えさせられてひとり腹立たしささえ感じていた。それで私は他人の勉強をしているとき教養ある女性ともあろうものが何ぜ邪魔をするのだと怒りながらリカ子の部屋へ這入っていくと、あなただからこそいつでも何んでも頼めるのだ、デアテルミイのように直接自分の皮膚へあてがう機械の狂ったのを直して貰うのもあなただからこそではないかという。しかし、私は私で自分の頭がだんだん悪くなるのも君が私の頭を使うからだ。同じ使うなら私の頭を引き摺り上げるように使ってくれ、そうでなくとも私の頭は君の方へ向き過ぎて困るのだというと、リカ子は急に黙ってしまって私の膝へ頭をつけたまま動かない。私は動かないリカ子を上から見ていると、私がリカ子にそういうことをいう資格もないにも拘らずいい出したのでリカ子は困って泣いているのだと思い込んだ。それで私は直ぐ何かいい訳をしようと思い、周章てて彼女を起そうとすると、リカ子はリカ子で私が彼女をいよいよ事実的に愛し出したのだと思い込んだと見えて、ますますぴったり身体をひっつけて来て放れない。すると、私の頭は一層混乱を始めるばかりで何が何んだか分らなくなり、時間も場所も私達二人からだんだんと退いてしまったのだ。この過失をこれだけだとすると別にこの場の二人の行為は過失ではないのだが、この事件の最も最初に、二人の意志とは全く関係のないデアテルミイの振動がリカ子の身体を振動させていたということが、二人の運命をひき裂く原因となって黙々と横たわっていたのである。後で気づいたのだがこのラジオレーヤーと同様な機械は私がリカ子の部屋へいく前から、リカ子は最早いくらかの腹痛を自分で癒すためにかけていたのだ。だから彼女がその途中で機械の狂いを直そうとして私を呼びに来た時には、もう彼女の身体は十分刺戟を受けて既に過失に侵されていたのである。しかし、私は彼女のその時の興奮がただ私の為ばかりだと長い間思っていて、彼女がその時そのようにも私を愛した態度の中には、機械が恐らくその大半をこっそり占めていようなどとは思っていなかった。私はそれからというもの夜盗のように家人の隙を狙うと同時にリカ子と結婚する準備ばかりに急ぎ出した。私はそのことをQに話して良いものかどうかと初め暫くの間は迷っていたのだが、とうとうそれを切り出した。すると、Qは暫く黙っていてから私の顔を見て、大丈夫かと一言いった。私はQが黙っているのはQがリカ子を愛していたからに違いないと思ってひやりとしていた所なので、Qがそういうと初めてQは私の生活を心配していてくれたが為に黙っていたのだと気がついた。私はQに感謝をし、Qにもいわずリカ子とそういう状態になったのも実は君が余り私を看視していてくれなかったからだというと、それなら看視をしなくて良かったといってQは笑いながら、もしこれから二人の生活が困れば遠慮をせずにいうようと迄励ましてくれた。そこで私達は結婚すると同時に私は地質学協会に勤めQは大学院に残るようになった。そうして私達はその後三年の間幸福であった。Qとの穏やかな交際が続けられた。私は第三紀層の調査にかかるとQはますます深く層位学の方へ這入っていった。しかし、このわれわれの交友期間の静けさは河水を挟んで屹立している岩石のようなものであった。水は絶えず流れていたのだ。私をも感動せしめるQの美徳と才能とは二人の間を昔から流れていたリカ子にだけ映らない筈はないのである。間もなくリカ子の心はQの幻想の為に日々私を忘れ出した。これをいい換えると、その最初に私に身を与えたリカ子の中からデアテルミイの効力がだんだん影を潜めて来始めたのだ。機械と一緒になって彼女を征服していた私が機械から去られると、それに代るべき何ものかを彼女に与えなければならなくなったのだ。しかし、私にはそれが何ものであるか分らなかった。初めの間は私はリカ子のそれが頭脳の成長だと思って忍んでいた。所が彼女はだんだん私を突き除けるばかりではない。一言の争いにも彼女はしまいにQの名を出し、独りいる時は絶えず紙の上へQの名を書き、睡眠の時の囈言にもQの名を呼び始めた。私は彼女のそうすることには嫉妬を感じないばかりか良人の友人を愛することは最も良人を愛する証拠であり最も気品のある礼譲だとさえ思っていた。するとリカ子は私のこの快活な礼節に対して一層彼女のその礼節を適用させ、終いにはQは自分を私が彼女を愛していたよりも愛していたといい始めた。そういわれると私は何もいうことが出来なくなり、リカ子から考えれば考えようによってはそれに違いないと思い出し、それがしばしば続けられると或いはそれはそうであったのかもしれないと思い、なお彼女にいわれるとそれほど彼女のいう所を見てもこれは必ずQの方が私よりも愛していたのだと思うようにまで進んで来た。すると私は結婚する前Qに打ちあけた際のQの暫くの沈黙を思い出した。そのとき私はそれはQが私のことを心配していたからだと喜んだことが実は反対で、Qは悲しみのあまり黙ってしまい、私に気附かれたと思うやいなや急に私への心配さを表したのではないかと思うようになった。そう思うともう私は俄にリカ子がそのときから自分の妻だという気がしなくなった。私の生活は根柢から逆さまになり始めた。今まで私はリカ子が私を愛していたから結婚したのだと思っていたのもそれも私だけの考えで、実はリカ子もQを愛しており、Qもリカ子を愛していたのだと分ってみると、私の狼狽の仕方はもう穴ばかり捜して隠れることよりなくなり出した。かつてのQの美徳のためになされた私達の結婚が、これほども私に不幸を与えたことを私は歎き続けた。結婚とは負けたことだと思いだしたのもそのときからだ。しかし、私はQがひそかに愛していたリカ子をQから最初に奪ったのだと思うと、私よりも日々歎き続けていたにちがいないQの忍耐に対して、再び私は今の私の小さい忍耐をもって対立させねばならなかった。この奇怪な忍悔の競争の中で、リカ子はますます私と結婚したことの後悔の重さのために縮んで来た。私は彼女の日々の容子をもう見るに忍びなかったし、私自身ももうそれ以上このままの生活には耐えることが出来なくなった。或る日私は思いきってリカ子にQの所へ行くようにとすすめてみた。一度人の妻になった身だとはいえ、人の妻などにさせたのはQではないか、しかもおのれの負うべき石を私に負わしたのだ。私がその石を再びQに返したとて彼が私に怒ることは出来ないであろうと私がいうと、リカ子は顔を赧らめながら「行く」といった。そこで私はリカ子をQの家の門まで送ってゆきながら、途々、また私はQとの「忍耐」の競争においても彼から敗かされたことに気がついた。しかし、それからの私ひとりの生活の寂しさは彼女を負っていた日の「忍耐」とは比べものにならなかった。殊にときどきリカ子はひとり私の所へ遊びに来るのだ。私はリカ子に来るなといっても是非Qが私の所へゆけといってきかないという。それならなお来てはいけないではないかというと、でも私も来てみたいのだと彼女はいう。私が来るなといいQが行けというこの虔ましやかな美徳の点においてさえも、猶且つ行けとすすめるQの方が私よりも優れているのだ。美徳の悪徳、私はリカ子の顔を見せられる度毎に、私とQとの美徳を押し合う悪徳について考えずにはいられなかった。しかもリカ子は私を愛していないにも拘らず、私を憐れむ姿に愛情の大きさをさえ含めなければならぬのだ。私は私でQとリカ子とから受けた過去の過度の恩愛に対しても彼女のしたいままなる行状を赦していなければならない。私は彼等二人のいかなる点に怒る必要があるのだろう。ただ私にとって惨酷なのはQとリカ子との私を憐む愛情だけだ。それも彼等にとっては私を憐れまないより憐れむ方が私を尊重することになっているのは分っている。しかも、彼等にとって私を憐れみ続けることはなお一層の苦痛を続けていることになっているのだ。ここに不用なものが一つある。――私は或る日それをリカ子に説明してQにいうように彼女にいった。すると彼女のいうにはそんな取越苦労はあなたたちのすることではなくって、私ひとりでしていれば良いのだという。それならもう来て貰わない方が結構だというと、私はあなたがやはり好きなんだから仕方がない。もう暫くすっかり嫌いになるまで逢っていてくれと頼むのだ。あまりに虫が良く、あまりにそれは勝手すぎるではないかと私がいっても、こんなにしたのはそれなら二人の中の誰だという。そういわれればそれは矢張り私にちがいないのだし、私とても彼女に逢わない日が続くと、その間は殆どリカ子の幻想ばかりで埋まってしまうのだ。これでは困る、どうかしようと思ってもそのうちにわれながら浅ましくなるほど元気がすっかりなくなってぼんやりする。私はリカ子に私の寂しさを告げることが出来ないばかりではない。彼女に逢うとただ一途に彼女に逢いたくないことばかりをいわねばならぬのだ。彼女もそれを知っていて、私に逢いに来ると逢いたくなったとはいわずにQの美点ばかりをいうのである。私は彼女からQの悪口を聞くよりも二人で認めた美点をなお持続させて喜ぶ方が良いのだが、しかしだんだんQを賞めているリカ子の言葉が私の性格に喜びを与えるためだけだと感じ出した。何か彼女のうちには私の思っていること以外の新しい変化が起っているのではないか。そう私が思ってから暫くしてからであった。地質学者の雑誌の上で続けていたQとAとの介殻類の化石に関する論争が激しくなった。それは私のQを怨む心が手伝わなくとも、その豊富な材料の帰納的な整理においても推理を貫く原則の確実な使用法においても明らかにQの方の負けであった。終いにはQはAから独逸語のPerefactenよりFossilの方が化石の意味には適当しているからそれを使え、Fossilはラテン語の掘り出すことを意味するFossereからの転化で古生物と訳する位は誰でも知っていることであろうとまでいわれていた。勿論私はAのこの傲慢な態度には腹を立てたがそれより差し詰めQの敗北には同情せざるを得なかった。定めしQは日々不快な日を続けていることであろうと思うとその傍にいるリカ子の顔色が眼に見えるのだ。彼女の容子はQの怏々として日々の不快な心の波を伝えて私へ向って打ち寄せて来ているのだ。私はリカ子を見ているとQの敗北した打撃の度合までも感じることが出来始めた。しかもリカ子はQがAよりはるかに劣った人物だと知り出した動揺さえ私は彼女がQを賞める言葉の裏から嗅ぎつけた。私は彼女の一番嫌いな所はそこだ。自分の良人の敗北に対して動揺する彼女の新しい醜悪さ、この醜悪さは女の最も野蛮な兇悪さにすぎない。しかし、あくまでリカ子のこの兇悪さと闘いながら、なお日々不断に逞しいAに打ち負かされ続けていかねばならぬであろうQの生涯を考えると、私はQが一番誰よりも悲惨な男に思われて来た。もうリカ子とQの間には恐らく陽の目のさすことはないであろう。もしQがリカ子をAに渡さぬ限り。――しかし、Qはそこが私と違っていた。彼は自身より弱者に対してはいくらでも自身を犠牲にすることの出来る善徳を持つ代りに、自身よりも強者に対しては死ぬまで身を引くことの出来ない男である。しかもAとQとは、この二人の闘いならどこまでいってもAが勝ち続けるに定っているのだ。その度にリカ子がQを軽蔑するなら、――私はリカ子をQに返したことは彼と彼女とのためには最大の悪徳でさえあったことに気がついた。私は私の善行だと思ってしたことが悪行に変ったとて恐縮する要のないこと位は分っていても、それにしてもリカ子が急にこの時から嫌いになったと同時に、私にはますますQが親わしくなって来たことも事実である。或る日私はリカ子にそれとなく地質学界の過去の大天才が次ぎ次ぎに現われる新しい天才に負かされていった歴史を話してやった。まことに過去一世紀の間に現われた新学説の興亡を私が思い出しても、個人の力の限界の小ささを感ぜざるを得ないのだ。一世を風靡した凡水論の主唱者エルナーを顛覆させた凡火論、その凡火論の主唱者ハットンを顛覆させた災異説、その災異説の主唱者セヂウィックを破った斉一説のライエルと、そうしてそれらの総てを綜合した進化説のダーウィンを思えば、私は一個人が他個に敗北することはそれは敗北することではなくして神への奉仕に思えてならないのだ。もしそれが敗北なら、勝ったものは必ず誰かに負けねばならぬ。AとQとの闘いもそれは闘いではなくして次に現われる天才への贈物を製造しているにすぎないと私がいえば、今まで黙って私の饒舌っているのを聞いていたリカ子は急に私の胸の上へ倒れて来た。彼女のこの感情の転向がもしQと彼女の上に、再び幸福をもたらすなら――と私が思っていると、それは意外にもリカ子が私へ転向して来たことを示していたのだ。なるほど個人の負 けることが負けることでないなら、QがAに負けたのではないごとく私もまたQに負けたことにはならぬのだ。私の今まで饒舌っていたことは誰のためでもない私のためだったのだ。リカ子が私の胸の上へ倒れたのも多分私が私のためにいったのだと思ったからでもあったろうが、それにしても彼女のその行為は、私が饒舌っている間、彼女がQのことを考えずに私のことを考えていてくれた証拠にだけは十分になっているのだ。復活した愛――しかし、それは所詮私が捻向けたものではないか。私は私としてもう一度彼女をQへ捻戻さねばならぬ。そうおもった私は早速リカ子にお前はわれわれ二人で製作したQの美徳の使用法を間違っているのだから、今日から心を入れ変えてQに慰安を与えるよう、それでない限りお前には永久に幸福はもうないのだ、幸福というものは知識の上には絶対にあったためしがなく、ただ自身の頭を下げて同化することにあるばかりだというと、いった瞬間また私はこれもますます私自身のためのみにいっているにすぎないことだと気がついた。それで私は結局私の注告する言葉は私の心の中から出ていくにちがいないのだから、私が私のためにいっていると思わないで聞いてくれ、私のいうのは皆お前のためにいっているので、私のためだと思えば私は死んでもいわぬであろう位のことは長い二人の生活に対して敬意を表する意味でも思ってくれ、そうでない限り何のための二人の生活だったのか分らぬではないかというと、リカ子は、それはあなたが近頃の私について考え違いばかりをしているからだという。どういう考え違いかと聞くと、あなたは私の行いを私の醜い部分からばかりで見たがり、そのため折角の良い部分もあなたの私を愛して下さる心のために払い落してしまっている。だからもっと私から前のように良い所を探してくれ、そうでない限り自分にはもう幸福がないとまでいう。私は急にリカ子にそんなことをいわしたのはQのどこがいわしめたのかともう一度考えたが、私の考えた以上にはもう考えることが出来なかった。それで私はお前はそれでQを愛しているのかと訊くと、愛してはいるが前のようではない、私はやはりあなたの方を愛しているのだという、嘘にしてもそれは私には喜ばしいのだが、どうしてこういうことが喜ばしいのかもう私は自分が分らなくなって来た。いやそれよりあれほどもQを慕いながら出ていったリカ子が、まだ一年ともたたない今頃どうしてこれほども変って来たのであろう。それは丁度私の家にいたときの彼女がデアテルミイの醒めるに従って逃げ出たように、Qから逃げ出して来始めたのも、Qの中に潜んでいた新しいデアテルミイの私が効力を失い出して来たからではなかろうか。私がリカ子と最初に結婚する破目になったのも、彼女の身体にデアテルミイが火を点けたからにちがいないのだ。彼女がQと結婚したのも、私がデアテルミイのように彼女に火を点けていたからにちがいないのだ。そうしていままた彼女が私へ舞い戻って来始めたのは、Qのデアテルミイが彼女に火を点け返して来たのであろう。私はこの女がもう嫌いだ。出ていけ、畜生、そう私が黙って腹の中で叫んでいると、リカ子は私に考えを与えないかのように、急に今迄慎んで来たQの悪口を切って落したようにいい始めた。彼女のいうにはあなたの悪口をいう、あなたがあれほどもQをひそかに賞めているにも拘らずQはそれが反対だ。私はQのどこが豪いのかこの頃どこからも感じることが出来ない。あれは贋物で嘘つきで負けず嫌いでその癖威張ることだけが何より好きで、知っているのは女のことと人を軽蔑することだけだという。私は唖然として彼女の顔を見ているとリカ子は笑いながらもその笑う度にだんだん蒼ざめていきつつ涙を流していい出すのだ。私は擦りあったガラスの奥でまた別のガラスが擦り合っているのを見ているようで、どこからどこまでが私の喜ぶべき領分かどこでQが蹴りつけられているのか朦朧とし始めた。するとリカ子は私の咽喉笛に食いつくように、あなたは馬鹿でお人好しのように見える癖に猾くて隅に置けなくて、くよくよしている坊主みたいにめそめそしていてそれに説教ばかりしたがってとやっつけ出した。このリカ子の暴風のような暴れ出し方が今迄Qの悪口を聞いて不快になっていた私の心を吹き払った。そればかりではない、私にはリカ子のいっていることがいちいち胸に応えて来て、そうだ、そうだと首まで調子を合せて頷くのだ。全く私は今までQとリカ子とから賞められすぎて来たのである。私は賞められれば賞められるままの姿に堅められ、ますます不幸な方向へばかり辷り込んで来ていたのだ。その癖心は絶えず反対の幸福を望み、人に勝つことを心がけ、負けると人の急所を眺めて心を沈め、あらゆる凡人の長所を持ち、心静かに悟得し澄ましたような顔をし続けてひそかに歎き、闘いを好まず気品を貴んで下劣になり、――私は私自身でまだかまだかと私をやっつけ出すと、面前のリカ子と一緒に兇暴に笑い出した。Qが陰でひそかに私の悪口をいったことが、今は私に彼への尊敬の念を増さしめるだけとなった。しかし、それにしても私のこの心の動きは本当であろうか。私の物の見方は間違いであるとしても、おのれの痛さを痛さと感じて喜ぶ人間は私だけではないであろう。私の豪さ、もしそれがあるなら、私は私の弱さを強さと感じないことだけだ。私はリカ子にいった。お前はいつの間にやら私のびっくりするような女の知識を探して来たが、それはお前がお前とQとを滅ぼしていく知識であるだけで、結果は私を一層救い上げていくにすぎないのだ。私はお前の落していくものをいつも拾ってばかりいるのを知らないのか。お前はお前の落しているものが何んであるのか知らないのか。しかし、いくらいってもリカ子はただ自身の投げた言葉のために蒼ざめているだけで、終いには私の膝の上で泣きながらもう再びQの所へは戻らないといい出した。私はもう一度彼女をQの所へ帰すために、また偽りを並べて苦心しなければならなかった。彼女は私を生臭坊主といい、嘘つきといい、弱虫といい、それからなお私の悪口を探すために言葉が詰まると、私の手首に噛みついた。私は彼女を突き飛ばして、お前なんかを愛することは忘れているのだ。穢らわしい、帰れ、といってもリカ子は再び私の身体に飛びかかり、あなたは私を愛している。いくら嘘をいったって駄目だといって私から放れない。私は――私はそこで今迄惨憺たる姿をして漸く崖の上まで這い上った私を、再び泥の中へ突き落してしまったのだ。リカ子は私の惨落した姿を見ると急に生き生きと子供のようになり始めた。それは喜ぶときの彼女の癖だ、しかし、それより彼女にひとり置かれたQはこれからどうするだろう。彼女とまた一つの生活を続けていかねばならぬ私こそどうすれば良いのであろう。が、何はともあれ先ずその夜は一度Qの家へ帰り、来たければQにその事をいって更めて来るようにとリカ子をなだめて私達二人は外へ出た。外へ出ると彼女は通りがかりの神社の境内へ這入っていって鈴を振った。その間私はひとり門前に立ったまま宙にぶらりと浮き上っているかのような不安定な自分を感じていた。リカ子は神前から戻って来ると私にそこの神前へいってお辞儀をせよという。私はいやだといった。すると彼女は私のためにお辞儀をして来てくれ、私は長い間迷い続けて漸く本当のあなたの有り難さが分って来たのだからそのためにでも一度だけお辞儀をしてくれるようにという。しかし私はまだ内心彼女への怒りが沈まっていないのにお辞儀も出来ないのだ。私は黙ってそのまま行き過ぎようとした。しかしリカ子は私の腕を持って放さない。どうか私のためだ、あなたのような良い人を困らせ続けた自分を思うと私がいくらひとりでお辞儀をしたって駄目だからという。いやだという。それでは私はいつまでたったって罰のあたり通しだ、あなたの所へ来たってもう私には幸わせがないといって泣き始めた。私はリカ子の泣くのを眺めていると心が自然に折れて来るのを感じた。それにしても、さきにはあれほど私を罵っていたのに今は何ぜこれほども惨めに弱っているのであろうか、これは多分猛々しい女の私に負けていく姿なのであろうと思いながらも、私は彼女の面部を叩きつけるように頭を屈しなかった。するとリカ子は私の身体を無理矢理に神前の方へ向けると頭を上から圧さえるのだ。私は怒ることは出来ないのだがリカ子のその手をはじき返すと人込の中へ這入ろうとした。彼女は私を追っ駈けて来るとまたいうのだ。あなたは私に怒っている、私はあなたに怒られたって仕方がないが今日だけは赦して欲しい。自分は心から改心しているのだからそれだけでも受け入れて貰いたい、もしあなたが私の改心も突き放すなら自分は堕落するより道がない。今私を助けてほしい、頼むという。私は何をまだ怒り続けているだろうかと思いながら前に立って歩くのだが、急にリカ子の萎れているのが憐れになって、もうよしもうよしといってしまうのだ。これだからいけないと思ってまた彼女を苦しめた長い時間を思い出しては腹を立てても直ぐ駄目になって自分よりリカ子の方が可哀相になってくるのである。どうしようもないこの自分に気がつくと今度は私からいつの間にかQに対して頭を下げているのである。恐らくリカ子にしてもQにひそかに頭を下げているのであろうと思うと私はぜひ彼女がそうであってくれれば良いと思い出した。私はリカ子にお前はQに対してさきから一度でも謝罪をしたことがあるか、と訊いてみた。するとリカ子は黙っていていつまでも答えない。それで神前へいってお辞儀をしたって何の役にも立つかというと、そんなことをしてはあなたの有難さがなくなってしまうという。それではまたいつかお前はQの所へ舞い戻ってしまうにちがいないというと、リカ子はまた私の後へ廻って泣き始めた。私は彼女に自分がお前にそういうことをいうのは自分のQとは比較にならぬ善良さをなおこの上お前に示そうとしていうのではなく、お前がQから去った後のQの寂しさが自分には一番胸に応えて分るからだというと、それではQに今夜帰って謝罪ると彼女はいう。よしそれならと私はいったが彼女をQの家の門前まで送っていって帰って来ると、また一層私はリカ子の処置に迷い出した。事実私はQからリカ子を最初に奪るときも黙って奪り、返すときも黙って返し、そうして再び彼女を奪った今日もまた黙って奪り、いったい私のどこにそれだけの特権があるのだろう。いかにリカ子が私の前の妻だとはいえ今は他人の妻ではないか、しかしそう考えた後から、不意に冷水を浴びたように負けたものはQではないこの俺だと気がついた。彼女を奪ったものこそ負かされたのだ。何を好んで自分の敗北に罪の深さまですりつけて苦しむ奴があるだろう。するとそのときから私の心は掌を返すがように明るくなった。私は先ず何より一切の過去の記憶から絶縁しなければならぬ。過去の生活を振り捨てねばならぬ。敗けたら敗けたでそれでも良い。先ず何よりも雲を突き抜けたような明るさだ。そう思った私は早速私とリカ子とのとりかかるべき最も新しい生活の手初めとして、地を蹴って疾走する飛行機に乗って旅行に出ようと決心した。翌朝リカ子が私の所へやって来ると、私はひと眼で彼女の喜びを見抜くことが出来た。私はもうQがどんなことをいったかどうかは一切訊かぬことにして直ぐ私の計画を話し出した。私はいった。お前と私との関係は長い間もつれていたが私と一緒に今日という今日過去の総ての記憶や生活を振り落して貰いたい。二人は生れ変るのだ。もしそれがお前にとっても慶びなら私と一緒に今日これから飛行機で旅行に立って貰いたい。しかしもし落ちて死んだらと彼女はいった。落ちて死んだら生活の始まりで終りなだけだ、それほど結構なことはないではないか。われわれの関係は他人とは違う。一度地上から足を洗わなければ古い生活の匂いはどこまでだってくっついてくるにちがいないのだ。もしこの上絶えずわれわれが古い生活に追われるようなら、そのときを限りとしてわれわれの生活を私から打ち切るだろう! そう私がいい切るとリカ子も初めて頷いた。頷くと私より彼女の方が乗り気になり出し、直ぐそれから航空会社へ電話をかけて二席を買った。間もなく二人は鳥になるのだ。鳥に。この喜びは地質学者の私にとってもこの上もなく大きいのだ。山と川と海と平野の上を飛び越える肉体、地を蹴る刹那、雲の上の感覚、私はもう今まさに飛ぼうとしている鷲のように空を見上げながら飛行場へ自動車を駈けさせた。――さてそのときになっていよいよ野の中で廻っているプロペラの音を聞き出すと、私はリカ子に耳へ綿を込ませ、良いかと訊いた。良いと答える。二人は機体の中の傾いた席に並んで腰を降ろした。飛行場の黒い人々は私達二人の最後の姿を見るかのように、まだ開いているドアの口から中を覗き込んだ。私は一刻も早くこの地を離れたくてならない。過去へ向って手袋を投げつけたい。長い間の萎びた過去に。すると、いきなりドアが閉まった。もう良い、さらばだ。機体が滑走を始め出した。私は足のような車輪の円弧が地を蹴る刹那を今か今かと待ち構えた。と私の身体に、羽根が生えた。車輪が空間で廻い停った。見る間に森が縮み出した。家が落ち込んだ。畑が波のように足の裏で浮き始めた。私は鳥になったのだ。鳥に。私の羽根は山を叩く。羽根の下から潰れた半島が現われる。乾いた街が皮膚病のように竦み出す。私は過去をどこへ落して来たのであろう。雲と雲との中で扇のように廻っている光りばかり[#「ばかり」は底本では「かばり」]を追っ駈けながら、私は浮き続けているのである。今や私には生活はどこにもない。心は光線のように地上を蹂躙しているだけだ。直っ二ツに割れていく時間の底から見えるのは、墓場ばかりだ。太古が私の周囲を取り包んで眠り出した。夢と夢とが大海のように拡がってはまた拡がる。私はその行衛を見守りながらいつの間にか砕けてしまう。ふと私は横にいるリカ子を見ると、自分の位置を取り戻した。しかしリカ子は――この半島とも匹敵すべき巨大な怪物は何物であろう。――私は彼女の身体に触ってみた。すると、私の指先は地上からつながっているただ一本の線のように長い間全く忘れていた地上の習慣や匂いや温度を私の体内へ送って来た。だが、それは隙間から吹き込む鋭い風のように、今はただ私の胸を新鮮にするだけだった。私はリカ子を抱き寄せると、紙の上へ「結婚」と書いた。するとリカ子はその横へ「有り難う」と書き添えた。二人は新しい夫婦の生活の第一歩を雲の真中に置いた。微細な水粒が翼の裏へ溜ってはぶるぶる慄えながら腋の下へ流れていった。翼を支えた針金の結び目が虹の中で蝶々のように舞い続けた。私達は一つの虹を突き抜けるとまた新しい虹に襲われた。それは一つの連った虹であろうか、群生した虹であろうか、合戦するかのように煌めく虹の足もとにひれ伏して私とリカ子とはまた再び結婚をしたのである。


入力者注
底本:「定本 横光利一全集 第三巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年刊
入力:佐藤和人
校正:野口英司
1998年9月5日公開
2003年6月1日修正
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