日本脱出記

大杉栄





 去年の十一月二十日だった。少し仕事に疲れたので、夕飯を食うとすぐ寝床にはいっていると、Mが下から手紙の束を持って来た。いつものように、地方の同志らしい未知の人からの、幾通かの手紙の中に、珍らしく横文字で書いた四角い封筒が一つまじっていた。見ると、かねてから新聞でその名や書いたものは知っている、フランスの同志コロメルからだ。何を言って来たのだろうと思って、ちょっとその封筒をすかして見たが、薄い一枚の紙を四つ折にしたぐらいの手触りのものだ。もう長い間の習慣になっているように、それがどこかで開封されているかどうか、まず調べて見たが、それらしい形跡は別になかった。ただ附箋が三、四枚はってあったが、それは鎌倉に宛てて書いてあったので、そこから逗子に廻り、さらにまた東京に廻って来た[#「廻って来た」は底本では「廻った来た」]しるしに過ぎなかった。そんなにあちこちと廻って来ながら、よく開封されなかったものだと思いながら、とにかく開けて見た。ほんのただ十行ばかり、タイプで打ってある。
 それを読むと、急に僕の心は踊りあがった。一月の末から二月の初めにかけて、ベルリンで国際無政府主義大会を開くことになったが、ぜひやって来ないか、という、その準備委員コロメルの招待状なのだ。
 大会の開かれることは僕はまだちっとも知らなかった。が、ちょうどいい機会だ、行こう、と僕は心の中できめた。そして枕もとの小さな丸テーブルの上から、その日の昼来たまままだ封も切ってなかった、イギリスの無政府主義新聞『フリーダム』を取って見た。はたしてそれには大会のことが載っていた。

 招待状にもちょっと書いてあったように、九月の半ばに、スイスのセン・ティミエで、最初の国際無政府主義大会と言ってもいい、いわゆるセン・ティミエ大会の五十年紀念会があった。フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ロシア、および支那の、百五十名ばかりの同志が集まった。そしてそのセン・ティミエ大会に与かった一人のマラテスタも、ローマからひそかに国境を脱け出て、そこに出席した。先年彼はこのスイスから追放されているので、そこにはいれば、見つかり次第捕まる恐れがあったのだ。
 紀念会は一種の国際大会のようなものになった。そしてそこで、無政府主義の組織のことや、無政府主義とサンジカリズムの関係のことなぞが問題となって、いろいろ議論のあった末に、フランスの代表者コロメル等の発議で、新たに国際無政府主義同盟を組織しようということになって、急に国際大会を開くことにきまったのであった。
 この国際同盟のことは、もうずいぶん古い頃から始終問題になっていて、現に十五、六年前のアムステルダム大会でそれがいったん組織されたのであった。この同盟には、僕等日本の無政府主義者も、幸徳を代表にして加わった。そして幸徳は毎月その機関誌に通信を送っていた。しかし、元来無政府主義者には、個人的または小団体的の運動を重んじて、一国的とか国際的とかの組織を軽んずる傾向があり、国際大会を開くにしても、その選定した土地の政府がそれを許さなかったり、また、各国の同志がそれに参加しようと思っても、政府の迫害や経済上の不如意なぞのいろんな邪魔があったりして、わずか一、二年の間にこの同盟も立消えになってしまった。最近満足に開かれた大会は、前に言ったアムステルダム大会一つくらいのもので、ずいぶん久しぶりに開かれた一昨年の暮れのベルリン大会なぞも、長い間の運動の経験を持った名のある同志はほとんど一人も見ることができなかったほどの、よほど不完全なものであったらしい。
 しかし時はもう迫って来た。ことに、ロシアの革命が与えた教訓は、各国の無政府主義者に非常な刺激となって、今までのような怠慢を許さなくなった。

『フリーダム』のこの記事を読んでいる間に、Kがその勤めさきから帰って来た。
「おい、こんな手紙が来たんだがね。」
 と言って、僕はコロメルからの手紙の内容と大会の性質とをざっと話した。
「それやぜひ行くんですね。」
 Kも大ぶ興奮しながら言った。
「僕もそうは思っているんだがね。問題はまず何よりも金なんだ。」
「どのくらい要るんです。」
「さあ、ちょっと見当はつかないがね。最低のところで千円あれば、とにかく向うへ行って、まだ二、三カ月の滞在費は残ろうと思うんだ。」
「そのくらいなら何とかなるでしょう。あとはまたあとのことにして。」
「僕もそうきめているんだ。で、あした一日金策に廻って見て、その上ではっきりきめようと思うんだ。」
「旅行券は?」
「そんなものは要らないよ。もう、とうの昔に、うまく胡麻化して行く方法をちゃんと研究してあるんだから。ただその方法を講ずるのにちょっとひまがかかるから、あしたじゅうにきめないと、大会に間に合いそうもないんだ。」
 Kはこの二つの条件を聞いて、すっかり安心したらしかった。そして下へ降りて行った。
 しかし僕にはまだ、そうやすやすと安心はできなかった。実はその借金の当てがほとんどなかったのだ。借りれる本屋からは、もう借りれるだけ、というよりもそれ以上に借りている。そして、約束の原稿は、まだほとんどどこへも何にも渡してない。それに、もしまだ借りれるとしても、いやどうしても借りなければならんのだが、それは留守中の社や家族の費用に当てなければならない。ほかに二、三人多少金を持っている友人はあるが、それもほんの少々の金であれば時々貰ったこともあるが、少しもまとまった金はくれるかどうか分らない。それにこの頃はずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずいずん」]景気が悪いんだから。
 そんなことをそれからそれへと、いろいろと寝床の中で考えて見たが、要するに考えてきまることではない。あした早く起きて、あちこち当って見ることだ、そうきめて、僕は頭と目とを疲らせる眠り薬の、一週間ほど前から読みかけている『其角研究』を読み始めた。
 翌日は尾行をまいて歩き廻った。はたして思うように行かない。夕方になって、うんざりして帰りかけたが、ふと一人の友人のことを思い浮んで、そこへ電話をかけて見た。そして、最後の幽かな希望のそこで、案外世話なく話がついた。

 それでもう事はきまった。
 その翌日は、九州の郷里に帰っている女房と子供とを呼びよせに、Mを使いにやった。関西支局のWも女房や子供と前後して上京した。
 準備は何にも要らない。ただ小さなスーツケース一つ持って出かければいいのだ。が、その前に、正月号の雑誌に約束した原稿と、やはり正月に出す筈のある単行本とを書いてしまわなければならない。そんなことで愚図愚図している間に、もう暮れ近いことだ、ようやく貰って来た金が半分ばかりに減ってしまった。そして、それをまたようやくのことで借り埋めて、十二月十一日の晩ひそかに家を脱け出た。


 家を脱け出ることにはもう馴れ切っている。しかしそれも、尾行をまいて出ることがすぐ知れていい時と、当分の間知れては困る時とがある。前の場合だと何でもないが、後の場合だとちょっと厄介だ。
 去年の夏日本から追放されたロシア人のコズロフが、その前年ひそかに葉山の家から僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ逃げて行った時には、そのあとで僕は三日ばかり時々大きな声で一人で英語で話していた。が、二、三日ならそんなことでもして何とか胡麻化して行けるが、一週間も十日も胡麻化そうとなるとちょっと困る。
 一昨々年の十月、僕はひそかに上海へ行った。その時には、上海に着いてしまうまでは、僕が家を出たことをその筋に知らせたくなかった。で、夜遅く家を出たのであったが、その翌日から僕は病気で寝ているということになった。しかし大して広い家でもなし、それに往来から十分のぞかれる家でもあったので、尾行どもはすぐ疑いだした。そして四つになる女の子をつかまえて、幾度もききただして見た。そしてその後、その尾行の一人が僕にこんな話をした。
「魔子ちゃんにはとても敵いませんよ。パパさんいる? と聞くと、うんと言うんでしょう。でも可笑しいと思って、こんどはパパさんいないの? と聞くと、やっぱりうんと言うんです。おやと思いながら、またパパさんいる? と聞くと、やっぱりまたうんと言うんです。そしてこんどは、パパさんいないの? いるの? と聞くと、うんうんと二つうなずいて逃げて行ってしまうんです。そんな風でとうとう十日ばかりの間どっちともはっきりしませんでしたよ。」
 こんどだって、駒込の家はやはり狭いし、そとから十分のぞかれる。すぐ前のあき地の小さな稲荷さんの小舎の中にいる尾行どもには、家の中の話し声を聞いているだけでも、いるかいないかは大てい知れよう。
 もっとも、四つの魔子は六つになった。それだけ利口にもなっている筈だ。そして女房は、子供をだますのは可哀そうだからと言って、よく言い聞かして、尾行の口車に乗らせないようにしようと主張した。しかし僕は利口になっているだけそれだけ安心ができないと思った。そして僕が出る日の朝、Mに連れさして、同志のLの家へ遊びにやった。そこには魔子より一つ二つ下のやはり女の子がいた。
「こんどは魔子の好きなだけ幾つ泊って来てもいいんだがね。幾つ泊る? 二つ? 三つ?」
 僕は子供の頭をなでながら言った。その前に二つ泊った翌朝僕が迎いに行って、彼女が大ぶ不平だったことがあったのだ。そしてこんどもやはり、「二つ? 三つ?」と言われたのに彼女は不平だったものと見えて、ただにこにこしながら黙っていた。
「じゃ、四つ? 五つ?」
 僕は重ねて聞いた。やはりにこにこしながら、首をふって、
「もっと。」
 と言った。
「もっと? それじゃ幾つ?」
 僕が驚いたふりをして尋ねると、彼女は左の掌の上に右の手の中指を三本置いて、
「八つ。」
 と言いきった。
「そう、そんなに長い間?」
 僕は彼女を抱きあげてその顔にキスした。そして、
「でも、いやになったら、いつでもいいからお帰り。」
 と附け加えて彼女を離してやった。彼女は踊るようにして、Mと一緒に出かけて行った。
 彼女はその一カ月前に、その母が半年ばかりの予定で郷里に帰った時にも、どうしても一緒に行くことを承知しないで、社の二階に僕と二人きりで残っていたほどの、パパっ子なのだ。そして今でもまだ僕は、時々彼女を思いだしては、なぜ一緒に連れて来なかったのだろうなぞと、理性の少しも許さない後悔をしている。
 子供のことはそれできまった。あとは僕の顔がちょっとも見えないことの口実だ。それは、こんどもまた、病気ということにした。そして多少それを本当らしく見せるために、毎朝氷を一斤ずつ買うことにした。
「それも尾行を使いにやるんですね。」
 そんなことにはごく如才のないMがそう発案して、一人でにこにこしていた。

 家からつい近所までKが一緒に来て、そこから僕は自動車で市内のある駅近くまで駆けつけた。そしてその辺で小さなトランク一つとちょっとした買物をして、急いで駅の中へはいって行った。もう発車時刻の間際だったのだ。
 僕はプラットホームを見廻した。が、僕の荷物のふろしき包みを持って来ている筈の、Wの姿が見えなかった。待合室の中にでもはいっているのだろうと思って、その方へ行こうとすると、中から誰か出て来た。姿は違うが、その歩きかたは確かにWだ。その旧式のビロードの服が、人夫か土方の帳つけというように見せるので、よくそう言ってからかわれているのだが、どこから借りて来たのか、今日は黒い長いマントなぞを着こんで、やはり黒のソフトの前の方を上に折りまげたのをかぶって、足駄をカラカラ鳴らしてやって来るところは、どう見ても立派な不良少年だ。
 僕はWから荷物を受取ってもう発車しようとしている列車に飛び乗った。列車は走りだした。Wは手をあげた。僕も手をあげてそれに応じた。これが日本での同志との最後の別れなのだ。
 前の上海行きの時には、Rがこの役目を勤めてくれた。偶然その日に鎌倉へ遊びに来たのだったが、行先きは言わずにただちょっと行衛不明になるんだから手伝ってくれと頼んで、トランクを一つ持って貰って、一里ばかりある大船の停車場まで一緒に行った。もう夜更けだったが、ちょいちょい人通りはあった。そして家を出る時に何だか見つかったような気がしたので、後ろから来るあかりはみな追手のように思われて、二人ともずいぶんびくびくしながら行った。ことに一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走って来て、やがてまたそれらしい自動車が戻って来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟していた。
 それが何でもなく通りすぎた時、僕はRに本当の目的を話してないことが堪らなく済まなかった。そして幾度もそれを言おうとして、口まで出て来るのをようやくのことでとめた。彼は決して信用のできない同志ではなかった。しかしまだ僕等の仲間にはいってから日も浅かった。そしてごく狭い意味での僕等の団体とは直接に何の関係もなかった。
 そして僕は無事に大船から下りの列車に、彼は上りの列車に乗った。これはあとでKから聞いたことだが、Rはその時のことを誰にも話さず、またKにもその他の誰にもかつて僕の行衛を尋ねることがなかったそうだ。僕は今でもまだ、彼の顔を見るたびに、ひそかに当時のことを彼にわびそして感謝している。
 Wの姿が見えなくなるとすぐ、僕はボーイに顔を見られないように外套の襟を高く立てて、車内にはいって寝台の中にもぐりこんだ。僕はまだ僕の顔の一番の特徴の、鬚をそり落していなかったのだ。そして一と寝入りした夜中に、そっと起きて、洗面場へ行って上下とも綺麗に鬚をそってしまった。そしてWが持って来てくれたふろしき包みの荷物を、トランクの中に入れかえた。荷物といっても、途中の船の中でやる予定の、仕事の材料と原稿紙とだけなのだ。そしてまた一と寝入りした。
 移動警察の成績が大へんいいので、十五日からその人数を今までの幾倍とかにするという新聞の記事が出たばかりの時だ。その成績のいい一つの例に挙げられては大へんだ。が、それらしい顔もついに見ないで、翌朝無事に神戸に着いた。
 神戸は、実は僕にとっては、大きな鬼門なのだ。先きにコズロフの追放されるのを送りに来た時、警察本部の外事課や特別高等課に顔を出しているので、大勢のスパイどもによく顔を見知られている筈だ。そこから船に乗るのはずいぶん剣呑だとも思ったが、しかしそれよりもっと剣呑な横浜からよりは、安全だと思った。横浜の警官でほとんど僕の顔を知らないものはないくらいなのだ。長年鎌倉や逗子にいた間に、代る代るいろんな奴が尾行に来ている。
 改札口を出ようとすると、どこの停車場にも大てい一人二人はいるのだが、怪しい目つきの男が一人見はっている。そして僕が通り過ぎたあとですぐ、改札の男の方へ走り寄ったような気はいがした。僕はすぐ車に乗って、いい加減のところまで走らせて、それからさらに車をかえてあるホテルまで行った。
 あした出る筈で、その切符を買って来てあるある船は、あさっての出帆に延びていた。仕方なしに、その日と翌日の二日は、ホテルの一室に引っこんで、近く共訳で出すある本の原稿を直して暮した。そしてたった一度、昼飯後の散歩にぶらぶらそとへ出て見たが、道で改造社の二、三人が車に乗って、その晩のアインシュタインの講演のビラをまいて歩いているのにぶつかった。僕は僕の顔がはたして彼等に分るかどうかと思って、わざとその方へ近づいて行って、車の正面のところでちょっと立ち止まって見た。が、分る筈はない。かつて僕が入獄する数日前、僕のための送別会があった時、僕は頭を一分刈りにして顔を綺麗にそって、すっかり囚人面になって出かけて行った。そして室の片隅のテーブルに座を占めていたが、僕のすぐ前に来て腰掛けたものでも、すぐにそれを僕と気のついたものはなかったくらいだ。
 船の中に四、五人の私服がはいりこんで、あちこちとうろうろしたり、僕が乗った二等の喫煙室に坐りこんだりしていた。ずいぶん気味は悪い。しかしまたそれをひやかすのもちょっと面白い。船の出るまでキャビンの中に閉じ籠っているのも癪だし、僕はよほどの自信をもって、喫煙室とデッキの間をぶらぶらしていた。そして一度は、私服らしい三、四人のもののほかは誰もはいっていなかった喫煙室に行って、彼等の横顔をながめながら煙草をふかしていた。
 船は門司を通過して長崎に着いた。そこでもやはり、二人の制服と四、五人の私服とがはいって来た。そして乗客の日本人を一人一人つかまえて何か調べ始めた。日本人といっても、船はイギリスの船なのだから、二等には僕ともで四人しかいないのだ。僕の番はすぐに来た。が、それはむしろあっけないくらいに無事に過ぎた。そして彼等は一人のフィリッピンの学生をつかまえて何やかやとひつっこく尋ねていた。
 上海に着いた、そこの税関の出口にも、やはり私服らしいのが二人見はっていた。警視庁から四人とか五人とか出張して来ているそうだから、たぶんそれなのだろう。
 僕は税関を出るとすぐ、馬車を呼んで走らした。そしてしばらく行ってから角々で二、三度あとをふり返って見たが、あとをつけて来るらしいものは何にもなかった。


 最初僕はこの上海に上陸することが一番難関だと思っていた。そしてたぶんここで捕まるものとまず覚悟して、捕まった上での逃げ道までもそっと考えていたのであった。それが、こうして何のこともなくコトコト馬車を走らしているとなると、少々張合いぬけの感じがしないでもない。
「フランス租界へ。」
 御者にはただこう言っただけなのだが、上海の銀座通り大馬路を通りぬけて、二大歓楽場の新世界の角から大世界の方へ、馬車は先年初めてここに来た時と同じ道を走って行く。
 僕はここで、もう幾度も洩らして来たこの先年の旅のことを、少し詳しく思いだすことを許して貰いたい。

 八月の末頃だった。朝鮮仮政府の首要の地位にいる一青年Mが、鎌倉の僕の家にふいと訪ねて来た。要件は、要するに、近く上海で、(二十一字削除)を開きたいのだが、そして今はただ日本の参加を待っているだけなのだが、それに出席してくれないかと言うのだ。
 僕等はかつて、(五十二字削除)というものを組織したことがあった。が、その組織後間もなく、例の赤旗事件のために、僕等日本の同志の大部分が投獄され、そしてそれと同時に和親会の諸同志の上にも厳重な監視が加えられて、会員のほとんど全部は日本に止まることができなくなってしまった。その次に起ったのが例の大逆事件だ。そしてそれ以来僕等は、ずいぶん長い間、僕等自身の運動はもとより、諸外国の同志との交通もまったく不可能にされてしまった。
 それが今、この朝鮮の同志がもたらして来た(七字削除)の提案によって、こんどは社会主義というもっと狭い範囲で再び復活されようとするのだ。僕は喜んですぐさまそれを応ずるのほかはなかった。
 が、それと同時に、というよりも、それよりももっとという方が本当かも知れない。僕をして進んでそれに応じさせた、ある特殊の原因があった。それは、Mがすでにそれを堺や山川と相談して、そして二人から体よくそれを拒絶されたということであった。
 Mを密使として送った上海の同志等は、最初、(二十六字削除)。そしてMはまずひそかに堺と会ってそれを謀った。しかし、まだ組織中でもありまたごく雑ぱくな分子を含んでいる社会主義同盟が、すぐさまそれに加わるということは勿論、創立委員会でそれを相談するということですらも、とうてい不可能だった。第一にはまず、事が非常な秘密を保たれなければならなかった。そして第二には、(二十五字削除)の主なる人達がそれを助けているということは、いろんな異論とともに非常な危険をも伴わなければならなかった。
 そこでMはさらに個人としての加盟を堺と山川とに申込んだ。が、二人とも、大して理由にならない理由で、それを拒絶した。そしてさらにまた、誰かほかに出席することのできそうな人の推選を頼んだが、そしてその中には僕の名もあったそうだが、二人はそれもとうていあるまいと言って拒絶した。Mは仕方なしに、それでは、せめてその会議に賛成するという何か書いたものを土産にして持って帰りたいと頼んだが、それも体よく拒絶された。
 そしてMはほとんど絶望の末に僕のところへ来たのだ。僕は堺や山川がMをどこまで信用していいのか悪いのか分らないという腹を持っていたことはよく分った。僕にもその腹はあったのだ。よしMが誰からどんな信任状や紹介状を持って来たところで、外国の同志との連絡のなかった僕等には、その信任状や紹介状そのものがすでに信用されないのだ。しかし一、二時間と話ししているうちに、Mが本物かどうかぐらいのことは分る。そして本物とさえ分れば、その持って来た話に、多少は乗ってもいい訳だ。しかも堺や山川は、当時すでに、ほとんど、あるいはまったくと言ってもよかったかも知れない、共産主義に傾いていたのだ。
 が、堺や山川の腹の中には、それよりももっと大きな、あるものがあったのだ。それは危険の感じだ。(二十一字削除)、ということには、まかり間違うと内乱罪にひっかけられる恐れがある。これはその当時僕等がみんな持っていた恐怖だ。そしてこの恐怖が、堺や山川をして、上海の同志等の提案にまるで乗らせなかった、一番の原因なのだ。
 Mもそのことは十分に知っていたようだった。そしてその使命を果たすことのできない絶望とともに、日本のいわゆる(十四字削除)らしいかの絶望をもひそかに持っているようだった。彼自身も、見つかればすぐ捕まる、そして幾年の間か分らない入獄の危険を冒してやって来たのだ。そして日本のいわゆる同志は誰一人その話に見向いてもくれないのだ。そしてMはその会議の計画を僕に話しするのにも、最初から僕に正面から加盟を求めるというよりも、むしろごく臆病に、まるで義理の悪い借金にでも来たかのようなおずおずした態度で、まず僕の腹をさぐって見るような話しぶりであった。そして僕がその廻りくどい長い話を黙って一応聞いた上で、「よし行こう」と一言言った時には、彼はむしろ自分の耳を疑っているかのようにすら見えた。

 実は、この上海行きのことは、その二年ほど前にも僕に計画があったのだった。僕は、日本での運動の困難を感ずるたびに、この上海を考えないことはできなかった。支那の同志との連絡を新しくすることを思わない訳には行かなかった。そして僕は、いよいよそれを実行する間際になったある日、山川と荒畑とにその計画を洩らした。堺にも山川を通じて、その席に出てくれるよう頼んだのだが、堺はそれに応じなかった。堺と僕との間にはその少し以前からある個人的確執があったのだ。山川と荒畑とはただ僕の言うことだけをごく冷淡に聞いてくれただけだった。二人とも、やはりその少し以前から、僕とは大ぶ冷淡な仲になっていたのだ。もっとも、僕のこの計画は中途で失敗して、まだ日本を去らない前に再び東京に帰って来ることを余儀なくされたに過ぎなかった。

 社会主義同盟は、いろんな一般的の目的を持っていたと同時に、十数年以前からのこれらの親しかった旧い同志等の確執や冷淡を和らげるという、特殊の一目的をも持っていた。が、それは無駄だった。僕等の間には、いろんな感情の行き違いの上に、さらに思想上の差違がだんだん深くなっていたのだ。そして堺や山川はMのことを僕に話さず、僕もまた二人にそのことは話さなかった。Mが鼻であしらわれたように、僕も鼻であしらわれるだろうことをも恐れたのだ。そしてもし事がうまく運べば、帰って来てから彼等に相談しても遅くないと思った。

 約束の十月になった。僕はひそかに家を出た。その時のことは前に言った。
 上海へ着いた時には、あらかじめ電報を打って置いたのだから、誰か迎いに来ていると思った。が、誰も来ていない。仕方なしに僕は、税関の前でしばらくうろうろしている間にしきりに勧められる馬車の中に、腰を下ろした。
 馬車は、まだ見たことはないがまったくヨーロッパの街らしいところや、話に聞いている支那の街らしいところや、とにかくどこもかも人間で埋まっているようないろんな街を通って、目的の何とか路何とか里というのに着いた。僕はこの何とか路何とか里という町名だけ支那語で覚えて来たのだ。
 尋ねる筈の家は二軒あった。同じ何とか里の中の、たとえば、十番と十五番とだ。最初は十番の方へ行った。そこにMが住んでいる筈なのだ。が、そんな人間はいないと言う。で、もう一軒の、そこに(三字削除)がある筈なのだ、十五番の方へ行ったが、そこでもそんな人間はいないと言う。また十番へ行った。返事はやはり同じことだ。そこでまた十五番へ行った。が、返事はやはり同じことだ。そして、こうして尋ね廻るたびごとに、出て来る男の語気はますます荒くなり、態度もますます荒くなるのだ。しかし、御者と何事か支那語で言い争っているようなそれらの男が朝鮮人であることだけはたしかだ。僕は、こんどは何と言われても、そこに坐りこむつもりで、また十番へ行った。
 十番では、初めて戸を開けてくれて、中へ入れた。僕は僕の名とMの名とを書いて、四、五人で僕を取りかこんでいる朝鮮人にそれを渡した。すると、その一人が二階へ上って行って、しばらくしてもう一人の朝鮮人と一緒に降りて来た。見ると、それは船の中で、日本人だと言いまたそれで通って来た、そして僕がかなり注意して来た男だ。
「やあ君か。君なら僕は船の中で知っている。」
 僕は初めて日本語で、馴れ馴れしく彼に言葉をかけた。こうした調子で、彼はいつもデッキで、ほかの日本人と話ししていたのだ。もっとも僕は彼と話をすることはことさらに避けてはいたが。しかしもうこの家にいるとなれば、僕の予想も当ったのだし、何の遠慮することもなくなったのだ。
 しかし彼は、船の中での日本人に対する馴れ馴れしさを見せるどころでなく、反対に僕の方からのこの馴れ馴れしさをまずその態度で斥けてしまった。そして僕が腰かけている前に突っ立ったまま、僕の言葉なぞに頓着なく、まるで裁判官のような調子で僕を訊問しはじめた。
「君はどうしてMを知っているんです。」
 僕は、はあ始まったな、と思いながら、机の上に頬杖をついて煙草をふかしながら、ありのままに答えた。こうしている間に、きっとまだ電報を受取っていないMが、どこかからそっと僕をのぞいてでもいるんじゃないかと思いながら。
 しかし訊問はなかなか長かった。そして裁判官の調子もちっとも和らいでは来なかった。
 そこへ、ふいと表の戸が開いて、Mがはいって来た。そしてあわてて僕の手を握って、ポカンとしているみんなに何か言い置いて、僕を二階へ連れて行った。


「いや、どうも失礼。実は、日本人でここへはいって来たのはあなたが初めてなんですよ。それに、あなたが来るということは僕とLとのほかには誰も知らないんだし、僕もまだあなたからの電報は受取ってなかったんですよ。」
 Mは、さっきの裁判官ほどではないが、かなりうまい日本語で、弁解しはじめた。で、怪しい日本人がはいって来たというので、この朝鮮人町では大騒ぎになったのだそうだ。そして、まず僕を十番の家へ入れたあとで、御者に聞いて見ると、日本の領事館の前から来たというので、(また実際税関の前はすぐ領事館なのだが)ますます僕は怪しい人間になって、一応調べて見た上でもしいよいよ怪しいときまれば殺されるかどうかするところだったそうだ。それにまた、どうしたものか、Mの名の書き方を僕は間違えていた。二字名の偽名を二つ教わっていたのを、甲の方の一字と乙の方の一字とを組合せたので、それがMの本当の、しかもあまり人の知らない号になった。犯罪学の方ではよく出て来る話だが、偽名には大ていこうしたごく近い本当の何かの名の連想作用があるものなのだ。で、Mはその日本人が僕の名をかたって、自分を捕縛しに来た日本の警察官だとまずきめた。そしてここへ一人で警官がはいって来る筈はないから、きっともっと大勢どこかに隠れているのだろうと思って、あちこちとあたりを探して見た。が、それらしいものはどこにも見当らない。そして最後に、ようやく、自分でその日本人に会って見る決心をした。
「何しろ、顔だの服装だのをいろいろと細かく聞いて見ても、ちっともあなたらしくないんですからね。」
 Mは最後にこう附け加えて、そのちっとも僕らしくなくなっているという顔を、今さらのようにまた見つめ直した。
 Mは、Lのところへ行こうといって、さっきの十五番の家へ案内した。
 Lの室にはもう五、六人つめかけて僕を待っていた。その中で一番年とったそしてからだの大きな、東洋人というよりもむしろフランスの高級の軍人といった風の、口髯をねじり上げてポワンテュの顎鬚を延ばした、一見してこれがあのLだなと思われる男に、僕はまず紹介された。はたしてそれが、日本でも有名な、いわゆる(四字削除)のLだった。
「日本人とこうして膝を交えて話しするのは、これが十幾年目(あるいは二十年目と言ったかとも覚えている)です。あるいは一生こんなことはないかとも思っていました。」
 Lは一応の挨拶がすむと、Mの通訳でこう言った。Lは軍人で、朝鮮が日本の保護国となった最初からの(九十五字削除)。

 こうして僕は一時間ばかりLと話ししたあとで、Lの注意でMに案内されてあるホテルへ行った。そこはつい最近までイギリスのラッセルも泊っていた、支那人の経営している西洋式の一流のホテルだということだった。
(四字削除)の室と言っても、ごくお粗末な汚ない机一つと幾つかの椅子と寝台一つのファニテュアで、敷物もなければカーテンもない、何の飾りっ気もない貧弱極まるものだった。それに僕がこんなホテルに泊るのは、少々気も引けたし、金の方の心配もあったので、もっと小さな宿屋へ行こうじゃないかとMに言い出た。が、Mは小さな宿屋では排日で日本人は泊めないからと言って、とにかくそこへ連れて行った。実際、道であちこちでMに注意されたように、「抵制日貨」という、日本の商品に対するボイコットの張札がいたるところの壁にはりつけられてあった。
 そして僕は、それともう一つは日本の警察に対する注意とから、支那人の名でそのホテルの客となった。
 翌日は、ロシア人のTや、支那人のCや、朝鮮人のRなどの、こんどの会議に参加する六、七人の先生等がやって来た。そしてそれからはほとんど二、三日置きに、Cの家で会議を開いた。Cは北京大学の教授だったのだが、あることで入獄させられようとして、ひそかに上海に逃げて来て、そこで『新青年』という社会主義雑誌を出していた、支那での共産主義の権威だった。Rはその前年、例の古賀廉造の胆入りで日本へやって来て、大ぶ騒がしかった問題になったことのある男だ。
 僕は、日本を出る時に、きっと喧嘩をして帰って来るんだろうと、同志に話していたが、はたしてその会議はいつも僕とTとの議論で終った。Tは、ここで(六十二字削除)。支那の同志も朝鮮の同志もそれにはほぼ賛成していたようだった。で、僕がもしそれに賛成すれば、会議は何のこともなくすぐ済んでしまうのだった。
 しかし僕は、当時日本の社会主義同盟に加わっていた事実の通り、無政府主義者と共産主義者との提携の可能を信じ、またその必要をも感じていたが、各々の異なった主義者の思想や行動の自由は十分に尊重しなければならないと思っていた。で、無政府主義者としての僕は、極東共産党同盟に加わることもできずまた国際共産党同盟の第三インタナショナルに加わることもできなかった。そして僕の主張は、(三十七字削除)いうこと以上に出ることはできなかった。
 また、そこに集まった各国同志の実情から見ても、朝鮮の同志ははっきりとした共産主義者ではなかった。ただ、単なる独立の不可能とまたその無駄とを感じて、社会主義でもいい、共産主義でもいい、また無政府主義でもいい、(二十字削除)に過ぎなかった。支那の同志は、Cはすでに思想的には大ぶはっきりした共産主義者だったがまだ共産党のいわゆる「鉄の規律」の感情には染まっていなかった。そしてみんな、ロシアのTの、各国の運動の内部に関するいろんな細かいおせっかいに、多少の反感を持っていたのだった。
 で、この各国諸革命党の運動の自由ということには、朝鮮の同志も支那の同志も僕に賛成した。そうなればもう、(百十五字削除)。

 この委員会の相談がきまると、Tは「少し内緒の話があるから二人きりで会いたい」と言って、僕を自分の家に誘った。
 その話というのは要するに金のことなのだ。運動をするのに金が要るなら出そう、そこで今どんな計画があり、またそのためにどれほど金が要るか、と言うのだ。僕はさしあたり大して計画はないが、週刊新聞一つ出したいと思っている、それには一万円もあれば半年は支えて行けよう、そしてそのあとは何とかして自分等でやって行けよう、と答えた。
 その金はすぐ貰えることにきまった。が、その後また幾度も会っているうちに、Tは新聞の内容について例の細かいおせっかいを出しはじめた。僕には、このおせっかいが僕の持って生れた性質の上からも、また僕の主義の上からも、許すことができなかった。そして最後に僕は、前の会議の時にもそんなことならもう相談はよしてすぐ帰ると言ったように、金などは一文も貰いたくないと言った。もともと僕は金を貰いに来たのじゃない。またそんな予想もほとんどまったく持って来なかった。ただ東洋各国の同志の連絡を謀りに来たのだ。それができさえすれば、各国は各国で勝手に運動をやる。日本は日本で、どこから金が来なくても、今までもすでに自分で自分の運動を続けて来たのだ。これからだって同じことだ。条件がつくような金は一文も欲しくない。僕はそういう意味のことを、それまでお互いに話ししていた英語で、特に書いて彼に渡した。
 Tはそれで承知した。そしてなお、一般の運動の上で要る金があればいつでも送る、とも約束した。が、いよいよ僕が帰る時には、今少し都合が悪いからというので、金は二千円しか受取らなかった。

 帰るとすぐ、僕は上海でのこの顛末を、まず堺に話しした。そして堺から山川に話しして、さらに三人でその相談をすることにきめた。そして僕は、近くロシアへ行く約束をして来たから、週刊新聞ももし彼等の手でやるなら任してもいい、また上海での仕事は共産主義者の彼等の方が都合がいいのだから、彼等の方でやって欲しい、と附け加えて置いた。が、それには、堺からも山川からも直接の返事はなくて、ある同志を通じて、僕の相談にはほとんど乗らないという返事だった。
 で、僕は、以前から一月には雑誌を出そうと約束していた近藤憲二、和田久太郎等のほかに、近藤栄蔵(別名伊井敬)高津正道等と一緒に、週刊『労働運動』を創めた。前の二人は無政府主義者で、後の二人は共産主義者なのだ。近藤栄蔵は、大杉等の無政府主義者とはたして一緒に仕事をやって行けるか、という注意を堺から受けたそうだが、かえって彼はそれを笑った。僕も一緒にそれを笑った。
 最初から僕は、この新聞はこれらの人達の協同に、全部を任せるつもりでいた。僕は仕事の目鼻さえつけば、すぐロシアへ出発する筈にしていたのだ。が、その仕事も始めないうちに、僕は病気になった。ずいぶん長い間そのために苦しんで、そしてしばらく落ちついていたと思った肺が、急にまた悪くなったのだ。医者からは絶対安静を命ぜられた。で、新聞の準備もほとんどみんなに任せきりにしている間に、こんどはチブスという難病に襲われた。
 僕の病気は上海の委員会との連絡をまったく絶たしてしまった。Tからすぐ送って来る筈の金も来なかった。が、近藤憲二が僕の名で本屋から借金して来て、みんな一緒になってよく働いた。そして新聞は、僕が退院後の静養をしてほとんどその仕事に与かっていなかった、六月まで続いた。
 たぶん四月だったろう。僕は再び上海との連絡を謀るためと約束の金を貰うためとに、近藤栄蔵を使いにやった。が、その留守中に、近藤栄蔵や高津正道が堺、山川等と通じて、ひそかに無政府主義者の排斥を謀っているらしいことが、大ぶ感づかれて来た。もしそうなら、僕は上海の方のことはいっさい共産党に譲って、また事実上栄蔵もそういう風にして来るだろうとも思ったが、そして新聞も止して、僕等無政府主義者だけで別にまた仕事を始めようと思った。
 すると、上海からの帰り途で近藤栄蔵が捕まった。新聞はこれを機会にして止した。
 栄蔵は一カ月余り監獄にいて、出て来ると山川とだけに会って、その妻子のいる神戸へ行った。そして僕は山川から栄蔵の伝言だというのを聞いた。それによると、Tはちょうど上海にいないで、朝鮮人の方から栄蔵がロシアへ行く旅費として二千円と僕への病気見舞金二百円とを貰って来たということだった。しかしそれは、僕等がほかの方面から聞いた話、もっとも十分に確実なものではなかったが、とは大ぶ違っていた。が、そんなことはもうどうでもいい、それで彼等と縁切りになりさえすればいいのだ、と思った。
 上海の委員会は、Tが大して気乗りしていなかったせいだろう、僕が帰ったあとで何の仕事もしないで立消えになってしまったらしい。そして栄蔵が警視庁で告白したところによると、朝鮮の某(そんな名の人間はいない)から六千円余り貰って来たことになっている。

「ヨーロッパまで」が脇道の昔ばなしにはいって、大ぶいやな話が出た。僕はその後ある文章の中で「共産党の奴等はゴマノハイだ」と罵ったことがある。それは一つには暗にこの事実を指したのだ。そしてもう一つには、これもその後だんだん明らかになって来たことだが、無産階級の独裁という美名(?)の下に、共産党がひそかに新権力をぬすみ取って、いわゆる独裁者の無産階級を新しい奴隷に陥しいれてしまう事実を指したのだ。
 かくして僕は、はなはだ遅まきながら、共産党との提携の事実上にもまた理論上にもまったく不可能なことをさとった。そしてまたそれ以上に、共産党は資本主義諸党と同じく、しかもより油断のならない、僕等無政府主義者の敵であることが分った。
 が、今ここに上海行きのこれだけの話ができるのは、共産党の先生等が捕まって、警察や裁判所でペラペラと仲間の秘密をしゃべってしまった、そのお蔭だ。それだけはここでお礼を言って置く。


 それでも、僕にはまだ、ロシア行きの約束だけは忘れられなかった。そしてからだの恢復とともに、僕等自身の雑誌の計画を進めながら、ひそかにその時を待っていた。僕はロシアの実情を自分の目で見るとともに、さらにヨーロッパに廻って戦後の混沌としている社会運動や労働運動の実際をも見たいと思った。
 そこへ、突然、その年の十月頃かに、ロシアで(十九字削除)。それは共産党の方に来たのだが、こんどは僕もその相談に与かった。共産党ではそこへやろうという労働者がいなかったのだ。そして僕は、いずれまた上海の時のようなことになるのだろうとは思ったが、とにかく日本から出席する十名ばかりの中に加わることにきめた。しかし、あとでよく考えて見て、それも無駄なような気がした。また、共産党との相談にも、いろいろ面白くないことが起きた。そして、いよいよ二、三日中に出発するという時になって、僕一人だけそこから抜けた。
 翌年、すなわち去年の一月に、僕はまたこんどは月刊の『労働運動』を始めた。そしてほとんど毎号、その頃になってようやく知れて来たロシアの共産党政府の無政府主義者やサンジカリストに対する暴虐な迫害や、その反無産階級的反革命的政治の紹介に、僕の全力を注いだ。
 八月の末に、大阪で、例の労働組合総連合創立大会が開かれた。そしてそこで、無政府主義者と共産主義者とが初めて公然と、しかもその根本的理論の差異の上に立って、中央集権論と自由連合論との二派の労働者の背後に対陣することとなった。
 日本の労働運動は、この大会を機として、その思想の上にもまた運動の上にも、特に劃時代的の新生面を開こうとする[#「開こうとする」は底本では「開こうにする」]非常な緊張ぶりを示して来た。そこへこんどの(九字削除)の通知が来たのだ。たとえ短かい一時とはいえ、日本を去るのは今は実に惜しい。また、ほとんど寝食を忘れるくらいに忙がしい同志を置き去りにして出るのも実に忍びない。しかし日本のことは日本のことで、僕がいようといまいと、勿論みんなが全力を尽してやって行くのだ。そして僕は僕で、外国の同志との、しかもこんどこそは本当の同志の無政府主義者との、交渉の機会が与えられたのだ。行こう。僕は即座にそう決心するほかはなかった。

 上海では、前は、三、四軒のホテルに十日ほどずつ泊った。同じホテルに長くいてはあぶないというので、そのたびに新しい変名を造っては、ほかのホテルへ移って行ったのだ。この時々変る自分の名を覚えるのは容易なことでなかった。まずその漢字とその支那音との、僕等にはほとんど連絡のない、というよりもむしろまったく違った二つのことを覚えなければならないのだ。が、それはまず無事に済んだ。けれども、支那語をちっとも知らない支那人というのも、ずいぶん変なものだ。が、それもまず、ボーイとは英語で、しかもほんの用事だけのことを話せばいいのだから、何とか胡麻化して済ました。
 しかし一度その変名で、失敗のようなまた過失の功名のようなことをした。それは、やはり上海にいた支那の国民党のある友人に会いたいということを、朝鮮のRに話した。Rはその友人の家へ行ったが、旅行中で留守なので、ただ僕が何々ホテルにいるということだけを書き置いて来た。友人は帰ってからすぐ僕のホテルへ来た。そして、きっと変名しているのだろうと思って、ただ日本人がいないかと尋ねた。すると、日本人はいないというので、さらに日本人らしい支那人はいないかと聞いたが、そんなのもいないと言う。で、仕方なしに旅客の名と室の番号を書き列ねた板の上を見廻した。
「はあ、これに違いない。」
 彼はその中のある名を見て、一人でそうきめて、その番号の室へ行った。そしてはたしてそこに僕を見出した。
「あんな馬鹿な名をつける奴があるもんか。」
 彼は僕の顔を見るとすぐ、笑いこけるようにして言った。
「何故だい。朝鮮人がつけてくれた名なんだけれど。」
 僕はその笑いこける理由がちっとも分らないので、真面目な顔をして聞いた。
「何故って君、唐世民だろう、あれは唐の太宗の名で、日本で言えば豊臣秀吉とか徳川家康とかいうのと同じことじゃないか。が、お蔭で僕は、それが君だってことがすぐ分ったんだ。本当の支那人でそんな馬鹿な名をつける奴はないからね。」
 この友人は、近く広東へ乗込む孫逸仙一行の先発隊として、あしたの朝上海を出発するのだった。したがって、もしその晩会えなければ、しばらくまた会う機会がないのだった。
「新政府の基礎ができたら、ぜひ広東へ遊びに来たまえ。陳烱明は何にも分らないただの軍人なのだが、社会問題には大ぶ興味を持っているし、僕等も向うへ行けばすぐ、支那や外国の資本家を圧迫する一方法としてだけでも、大いに労働運動を興して見るつもりなんだ。」
 今は立派な政治家になっているが、昔は熱心な労働運動者だった彼は、こうしてその新政治の必要の上からの労働運動を主張していたのだった。そして実際また、その頃すでにもう、陳烱明の保護の下に無政府主義者等が盛んに労働組合を起して、広東が支那の労働運動の中心になろうとしていたのだ。その後、香港で起った船員や仲仕の大罷工には、これらの無政府主義者がその背後にいたのだった。
 上海で無政府主義者の誰とも会うことのできなかった僕は、広東のそれらの無政府主義者と会いたいと思った。そしてこの支那の新政治家とは、近いうちにまた広東で会う約束をして分れた。

 が、こんどは、例の共産党の先生等のペラペラのお蔭で、これらのおなじみのホテルへは行けなかった。近藤栄蔵が捕まって以来、日本政府の上海警戒が急に厳重になったのだ。そして僕等が前に泊ったホテルにはどんな方法が講じてあるかも知れなかったのだ。
 で、僕はまず、支那の同志Bの家へ行った。まだ会ったことのない同志だ。しかしその夏、やはり支那の同志のWがひそかに東京に来て、お互いの連絡は十分についていたのだ。そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、ベルリンの大会で(九字削除)が組織されるのと同時に、僕等にとってはそれよりももっと必要な(八字削除)の組織を謀ろうと思ったからでもあった。
 折悪くBはいなかった。そしてその留守の誰も、支那語のほかは話もできず、また筆談もできそうになかった。僕は少々途方にくれた。ほかへ行くにも前に知っている支那人や朝鮮人は今はみなロシアに行ってしまった筈だ。新政治家の友人も、その後陳烱明の謀叛のために広東を落ちて、たぶん今は上海にいるんだろうとは思ったが、どこにいるんだか分らなかった。こんなことなら、あらかじめBに僕の来ることを知らして置くんだった、とも思った。が、今さらそんな無駄なことを考えても仕方がない。どこか西洋人経営のホテルを探しに行くか、あるいはここに坐り込んでBの帰るのを待つかだ。僕は長崎から上海までの暴風で大ぶ疲れていたので、そしてまたよくは分らないがBがすぐ帰って来そうな話しぶりなので、とにかく少し待って見るつもりで玄関の椅子の一つに腰を下ろした。
 すると、すぐそこへ、そとから若い支那人が一人はいって来た。僕はその顔を見てハッとした。知っている顔だ。去年まで東京でたびたび会って、よく知っているNだ。彼も無政府主義者だと言っていた。そしてその方面のいろんな団体や集会にも出入していた。しかし僕は彼がどこまで信用のできる同志だか知らなかった。そしてまた彼が支那に帰ってからの行動については何も知らなかった。僕は彼をちょうどいい助け舟だと思うよりも、今彼に見られていいのか悪いのか分らなかった。とにかく、何人によらず、知っている人間に会うのは今の僕には禁物なのだ。
 彼の方でも、僕の顔を見るとすぐ、ハッとしたようであった。が、そのすぐあとの瞬間に、僕は彼が僕の顔を分らなかったことが分った。そして僕は、そうだ、その筈だ、と初めて安心した。
 彼は取次のものと何か話していたが、Bはすぐ帰って来る筈だから、と日本語でその話を取次いでくれた。僕は彼が僕の顔を分らずに、そのハッとした態度をまだそのまま続けているのが少々可笑しかった。そしてちょっとからかって見る気になった。
「あなたはよほど長く日本においででしたか。」
 僕は済ました顔で尋ねた。
「いいえ、日本にいたことはありません。」
 僕は彼のむっつりした返事を少々意外に思った。がすぐまた、彼が排日運動の熱心家で、そのために日本の警察からかなり注意されていたことに気がついた。そして彼が僕を普通の日本人かあるいは多少怪しい日本人かと思っているらしいことは、さらにまた僕のからかい気を増長させた。
「しかしずいぶん日本語がうまいですね。」
「いや、ちっともうまくないです。」
 彼は前よりももっとむっつりした調子でこう言ったまま、テーブルの上にあった支那新聞を取り上げた。僕はますます可笑しくなったが、しかしまた多少気の毒にもなり、またあまり長い間話ししていては険呑だとも思ったので、それをいい機会にして黙ってしまった。そして彼には後ろむきになって、やはりテーブルの上の支那の新聞を取りあげた。
 こうしてしばらく待っている間にBが帰って来た。僕はNに分らんように、筆談で彼と話しした。彼は僕をいい加減な名でNに紹介した。
 翌日僕は、Bの家の近所を歩き廻って、ロシア人の下宿屋を見つけた。そして、ただ少々の前金を払っただけで、名も何にも言わずにそこの一室に落ちついた。
 僕は食堂へ出るのを避けて、いつも自分の室で食事した。したがって、下宿屋の神さんでもまたほかの下宿人でも、ほとんど顔を見合したことがなかった。二日経っても三日経っても、宿帳も持って来なければ、名刺をくれとも言って来ない。僕は呑気なもんだなと思いながら、支那人のボーイに僕がどこの国の人間だか分るかと聞いて見た。ボーイは何の疑うところもないらしく、
「イギリス人です。」
 と答えた。僕は変なことを言うと思って、
「どうしてそう思う?」
 と問い返した。
「お神さんがそう言いましたから。」
 ボーイは、神さんと同じように、ごく下手な僕の英語よりももっと下手な英語で、やはり何の疑うところもないような風で答えた。
「ハァ、奴等は僕をイギリス人と支那人との合の子とでも思っているんだな。」
 僕はこれはいい具合だなと思いながら、そのボーイの持って来た夕飯の皿に向った。実際、こうした下宿屋には、東洋人が来ることはほとんど絶対にない。お客はみな毛唐ばかりなのだ。


 上海に幾日いたか、またその間何をしていたか、ということについては今はまだ何にも言えない。ただそこにいる間に、ベルリンの大会が日延べになったことが分ったので、ゆっくりと目的を果たすことができた。そして、その間に、日本では、僕が信州の何とか温泉へ行ったとか、ハルピンからロシアへ行ったとか、香港からヨーロッパへ渡ったとか、いやどことかで捕まったとか、というようないろんな新聞のうわさを見た。上海の支那人の新聞にも、そうしたうわさを伝えたほかに、ロシアから毎月幾らかの宣伝費を貰っている、というようなことまでも伝えた。
 そして、本年某月某日、僕は四月一日の大会に間に合うように、ある国のある船で、そっとまた上海を出た。途中のことも今はまだ何にも言えない。
(上海で何をしていたのかは日本に帰った今でもまだ言えないが、ここで大会の日延べになったことが分ったとか、日本でのいろいろなうわさを聞いたとかいうのはうそだ。それはパリへ行ってからのことなのだ。途中でのことはほかの記事にちょいちょい書いてある。)

 某月某日――これがあんまり重なっては読者諸君にはなはだ相済まないのだが、仕方がない、まあ勘弁して貰おう――どこをどうしてだか知らないが、とにかくパリに着いた。
 コロメルの宛名の、フランス無政府主義同盟機関『ル・リベルテエル』社のあるところは、パリの、しかもブウルヴァル・ド・ベルヴィル(強いて翻訳すれば「美しい町の通り」)というのだ。地図を開いて見ても、かねてから名を聞いているオペラ座なぞのある大通りと同じような、大きな大通りになっている。
 いずれその横町か屋根裏にでもいるだろう、と思って行って見ると、なるほど大通りは大通りに違いないが、ちょうどあの、浅草から万年町の方へ行く何とかいう大きな通りそのままの感じだ。もっとも両側の家だけは五階六階七階の高い家だが、そのすすけた汚なさは、ちょっとお話にならない。自動車で走るんだからよくは分らないが、店だって何だか汚ならしいものばかり売っている。そして通りの真中の広い歩道が、道一ぱいに汚ならしいテントの小舎がけがあって、そこをまた日本ではとても見られないような汚ならしい風の野蛮人見たいな顔をした人間がうじゃうじゃと通っている。市場なのだ。そとからは店の様子はちょっと見えないが、みな朝の買物らしく、大きな袋にキャベツだのジャガ芋だの大きなパンの棒だのを入れて歩いている。
 ル・リベルテエル社は、それでも、その大通りの、地並みの室にあった。週刊『ル・リベルテエル[#「ル・リベルテエル」は底本では「ル・リベルテェル」]』(自由人)月刊『ラ・ルヴィユ・アナルシスト』(無政府主義評論)との事務所になっているほかに、ラ・リブレリ・ソシアル(社会書房)という小さな本屋をもやっているので、店はみな地並みにあるわけなのだ。
 その本屋の店にはいると、やはりおもてにいるのと同じような風や顔の人間が七、八人、何かガヤガヤと怒鳴るような口調でしゃべっていた。その一人をつかまえてコロメルはいないかと聞くと、奥にいると言う。奥と言っても、店からすぐ見える汚ならしい次の部屋なのだ。そこもやはり、同じような人間が七、八人突立っていて、ガヤガヤとしゃべっているほかに、やはり同じような人間が隅っこの机に二人ばかり何か仕事をしていた。その一つの机のそばに立って、手紙の束を手早く一つ一つ選り分けている男が一人、ほかの人間とは風も顔も少し違っていた。日本で言ってもちょっと芸術家といった風に頭の毛を長く延ばして髯のない白い顔をみんなの間に光らしていた。ネクタイもしていた。服も、黒の、とにかくそんなに汚れていないのを着ていた。僕はその男をコロメルだときめてそのそばへ行って、君がコロメルか、と聞いた。そうだ、と言う。僕は手をさし出しながら、僕はこうこうだと言えば、彼は僕の手を堅く握りしめながら、そうか、よく来た、と言って、すぐ日本の事情を問う。腰をかけろという椅子もないのだ。

「どこか近所のホテルへ泊りたいんだが。」
 と言うと、
「それじゃ私が案内しましょう。」
 という、女らしい声が僕のうしろでする。ふり返って見ると、まだ若い、しかし日本人にしてもせいの低い、色の大して白くない、唇の大きくて厚い、ただ目だけがぱっちりと大きく開いているほかにあんまり西洋人らしくない女だ。風もその辺で見る野蛮人と別に変りはない。
 とにかくその女の後について、[#「ついて、」は底本では「ついて、、」]二、三丁行って、ちょっとした横町にはいると、ほとんど軒並みにホテルの看板がさがっている。みんな汚ならしい家ばかりだ。女はその中の多少よさそうな一軒を指さして、あのホテルへ行って見ようと言う。看板にはグランドホテル何とかと書いてある。が、はいって見れば、要するに木賃宿なのだ。今あいているという三階のある室に通された。敷物も何にも敷いてない狭い室の中には、ダブル・ベッド一つと、鏡付きの大きな箪笥一つと、机一つと、椅子二つと、陶器の水入れや金だらいを載せた洗面台とで、ほとんど一ぱいになっている。そしてその一方の隅っこに、自炊のできるようにガスが置いてある。すべてが汚ならしく汚れた、そして欠けたり傷ついたりしたものばかりだ。ちょっといやな臭いまでもする。が、感心に、今まで登って来た梯子段や廊下はずいぶん暗かったが室の中はまずあかるい。窓からそとはかなり遠くまで広く開いている。
「なかなかいい室でしょう。」
 と連れの女は自慢らしく言う。とても、お世辞にもいいとは言えない。実は、今までもあちこちのいろんなホテルに泊っているんだが、こんなうちは初めて見たのだ。が、フランスへ行ったら労働者町に住んで見たい、もしできれば労働者の家庭の中に住んで見たい、とはかねてから思っていた。
「いいでしょう、ここにきめよう。」
 と僕も仕方なしに、ではあるがまた、ここに住むことについて大きな好奇心を持って答えた。
 そしてまず、一カ月百フラン(その時の相場で日本の金の十二円五十銭)という室代の幾分かを払った。東京の木賃宿の一日五十銭に較べればよほど安い。ガスは一サンティムの銅貨を一つ小さな穴の中に入れれば、三度の食事ぐらいには使えるだけの量が出て来るのだそうだ。
 すると、こんどは宿帳をつけてくれと言う。今までも、どこのホテルでも宿帳はつけて来たが、そしていい加減に書いて来たが、ここではカルト・ディダンティテ(警察の身元証明書)を見せろと言うのだ。何のことかよく分らんから、連れの女に聞いて見ると、フランスでは外国人はもとより内国人ですらも、みなその写真を一枚はりつけた警察の身元証明書を持っていなければならんのだと言う。勿論そんなものは持っていない。で、仕方なしに、その女と一緒になって、いい加減にそこをごまかしてしまった。
「フランスはずいぶんうるさいんですね。」
 僕はホテルを出て、社へ置いて来た荷物を取りに行く途で、女につぶやいた。
「ええ、そしてあの身元証明書がないと、すぐ警察へ引っぱって行かれて、罰金か牢を仰せつかるんです。外国人ならその上にすぐ追放ですね。」
 が、僕は女のこの返事が終るか終らないうちに、社のすぐ前の角に制服の巡査が三人突っ立っているのを見た。みな社の方を向いて、社の入口ばかりを見つめているようなのだ。
「おや、制服が立っていますね。」
 僕は少々不審に思って聞いた。
「例のベルトン事件以来、ずっとこうなんです。」
 と言って、彼女は、最近に王党の一首領を暗殺した女無政府主義者ジェルメン・ベルトンの名を出した。そしてその以前からも、集会は勿論厳重な監視をされるし、家宅捜索もやる、通信も一々調べる、尾行もやる、遠慮なく警察へ引っぱって行く、という風だったのだそうだ。
「はあ、やっぱり日本と同じことなんだな。」
 僕はそう思いながら、たぶんその巡査どもの視線を浴びながらだろう、ル・リベテエル社の中へはいって行った。
――一九二三年四月五日、リヨンにて――
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パリの便所



 パリにつくとすぐ、仲間の一人の女に案内されて、その連中の巣くっている家の近所の、あるホテルへつれて行かれた。
 その辺はほとんど軒並みに、表通りは安キャフェと安たべ物屋、横町は安ホテルといった風の、ずいぶんきたない本当の労働者町なんだ。道々僕は、どんな家へつれて行かれるんだろうと思って、その安ホテルの看板を一々読みながら行った。一日貸し、一夜貸し、とあるのはまだいい。が、その下に、折々、トレ・コンフォルタブル(極上)とあって、便所付きとか電燈付きとかいう文句のついたのがある。便所が室についていないのはまだ分る。しかし電燈のないホテルが、今時、このパリにあるんだろうか。僕は少々驚いてつれの女に聞いた。
「ええ、ありますとも、いくらでもありますよ。」
 と言う彼女の話によると、パリの真ん中に、未だ石油ランプを使っているうちがいくらでもあるんだそうだ。僕はそんなうちへつれて行かれちゃ堪らないと思った。そしてそのトレ・コンフォルタブルなうちへ案内してほしいと頼んだ。
 彼女と僕とは、グランドホテル何とかいう名のうちの、三階のある一室へ案内されて行った。なるほど、電燈はたしかにある。が、便所は、室の中にもそとにもちょっと見あたらない。
「便所は?」
 僕は看板に少々うそがあると思いながら、一緒に登って来たお神さんに尋ねた。
「二階の梯子段のところにあります。」
 お神さんは平気な顔で答える。僕も便所が下にあるくらいのことは何でもないと思って、平気で聞いていた。
 が、その便所へ行って見ておどろいた。例の腰をかける西洋便所じゃない。ただ、タタキが傾斜になって、その底に小さな穴があるだけなのだ。そしてその傾斜の始まるところで跨ぐのだ。が、そのきたなさはとても日本の辻便所の比じゃない。
 僕はどうしてもその便所では用をたすことができなくて、小便は室の中で、バケツの中へジャアジャアとやった。洗面台はあるが、水道栓もなくしたがってまた流しもなく、一々下から水を持って来て、そしてその使った水を流しこんで置く、そのバケツの中へだ。僕ばかりじゃない。あちこちの室から、そのジャアジャアの音がよく聞える。大便にはちょっとこまったが、そとへ出て、横町から大通りへ出ると、すぐ有料の辻便所があるのを発見した。番人のお婆さんに二十サンティム(ざっと三銭だ)のところを五十サンティム奮発してはいって見ると、そこは本当の綺麗な西洋便所だった。
 貧民窟の木賃宿だから、などと、日本にいて考えてはいけない。その後、パリのあちこちを歩いて見たが、こうした西洋便所じゃない、そして幾室あるいは幾軒もの共同の、臭いきたない便所がいくらでもあるのだ。そして田舎ではそれがまず普通なのだ。
 僕はまた、西洋便所とともに、西洋風呂も気持のいいものだと思っていた。が、このトレ・コンフォルタブルな安ホテルでは、どこの看板にも風呂付きというのは見たことがない。そしてまた、普通のうちで風呂なぞのあるのは滅多にない。男でも女でも、みんな一カ月に一度か二カ月に一度、お湯屋へはいりに行くのだ。しかもそのお湯屋だって、そうやたらにあちこちにあるのじゃない。ちょうど、有料の西洋便所とおなじくらいの程度に、ごく稀れにぶつかるだけだ。幸い僕は、このお湯屋もすぐ近所に見つけたので、二、三日目には二フラン五十(三十五銭ばかり)奮発して、そこのいいお得意様になった。もう一フラン出せば、その辺では立派な夕飯が食えるんだ。


 しかし僕だって、そんな安ホテルで野蛮人のような生活ばかりしていたんじゃない。大して上等でもないが、とにかくまず紳士淑女のとまるホテルへも行った。
 実は、前のホテルが仲間の巣のすぐ近所なので、その辺を始終うろついているおまわりさんのぴかぴか光る目がこわかったのだ、そしてそうそう逃げ出したのだ。
 こんどは、室の中で栓一つねじれば、水でも湯でも勝手に使えた。西洋風呂もあった。西洋便所もあった。
 僕は、猿またの捨て場所にこまって、そっとこの便所へ突っこんで、うんとひもをひっぱってドドドウと水を流して見た。うまく流れればいいがと思いながら、大ぶ心配しいしいやったんだが、何のこともなく綺麗に流れてしまった。
「なあに、そんな心配はないよ。フランスの便所は赤ん坊の頭が流れこむだけの大きさにちゃあんとできているんだからね。」
 僕がその話をしたら、友人の一人がこう言って、そしてドイツでやはりこのでんをやって失敗した話をした。猿またが中途でひっかかって管がつまってしまったので、お神さんに大ぶ油をしぼられた上に、その掃除代まで取られたんだそうだ。
 が、そのほかにもう一つ、室のすみっこに何だかわけのわからんものがあった。白い綺麗な陶器でできているんだが、ちょうどおまるのような大きさの、そしてまたそんな形のもので、そのきんかくしにあたるところに水と湯との二つの栓がついている。そしてその真ん中ごろの両側が瓢箪形に少しへこんで、そこへ腰をおろすのに具合のいいようになっている。が、おまるにしては、固形物の流れるような穴はない。また立派な西洋風呂のあるのに、こんなもので腰湯を使うのも少しおかしいと思った。試みに栓をねじると、恐ろしい勢いで、水か湯かがジャジャジャアと出て来る。そして僕は、夜中になるとよく、となりの室でしばらく男と女の話し声が聞えると思ったあとで、このジャジャジャアのおとを聞いた。
 寝台は大きなダブル・ベッドだ。枕はいつでも二つちゃんと並べてある。これは前の安ホテルででもやはりそうだったが。
 パリについた晩、近所のうすぎたないレストランへ行って、三フラン五十の定食を食った。日本の一品料理見たいなあじのものだ。で、しかめつらをして食っていると、日本ではとても見られないような、毛唐と野蛮人とのあいの子のようなけったいな女がはいって来て、ココココと呼びかける。坊やというほどの意味だ。僕は恐ろしくなってさっそくそこを逃げだした。
 が、そとへ出ると、すぐおなじような女がそばへやって来て「いかがです」てなことを言う。ホテルの前のかどでも、そんな女が二人突っ立っていて、いきなり僕の腕をとって、何やかやと話しながら一しょにあるいてくる。よくは分らないが、「五フランなら」というような言葉がその中にあったように思う。実は、このベルヴィル通りの労働者街を逃げ出したのは、おまわりさんもこわかったが、この五フラン女もこわかったのだ。
 それからパリの中心のグランブウルヴァル近くのあるホテルへ引っこすとすぐ、夕方その辺をぶらぶらしながら、ちょっとはいるのに気がひけるようなある大きなキャフェへはいった。キャフェは実にうまい。僕は二、三ばい立てつづけに飲んだ。そして「もう一ぱい」とボーイに言いつけている間に、ふと五つ六つ向うのテーブルにいる若い綺麗な女が、僕の顔を見ながらニコニコしているのに気がついた。これはまた、日本ではとても見られないような、本当の西洋人の目のさめるような女だ。
 僕はきっと僕があんまりキャフェを飲むんで笑っているんだろうと思った。それともまた、色の浅黒い妙な野蛮人がいるなと思って笑っているのかともひがんで見た。どっちにしても、僕にとっては、あんまり気持のいいことではない。僕は少々赤くなって、すましてほかの方を向いた。
 すると、そこにもやはり、一人の若い綺麗な女が、僕の顔を見てニコニコしているのにぶつかった。少し癪にさわったので、こんどは度胸をすえて、こっちでもその女の顔をじっと見つめてやった。
 が、笑っているんじゃないんだ。目がうごく、口がうごく、何か話しかけるように。
 僕は変だなと思って、こんどは前の女の方を見た。やはりニコニコしている。そして今の女よりももっと、しきりに話しかけるようにして、顎までもうごかす。
 僕は少々きまりが悪くなって、急いでキャフェを飲みこんでそこを出た。


 翌日は、ちょっと用があるんで昼からタクシーでそとへ出た。自動車で道が一ぱいなので、車はよく止まる。そして、ぞろぞろとまた、歩くようにして走り出す。僕は急ぎの用じゃ自動車では駄目だなと思った。
 こうして、ある広場の入り口でちょっと道のあくのを待っている間に、僕は、一人のやはり若い綺麗な女が、ニコニコしながらのぞきこんでいるのを見た。まど越しなので言葉は聞えないが、何か言っているようにすら見える。が、その言葉を聞きとろうと思って耳をかたむけている間に、車は走り出した。
 その日は大奮発をして三十フランばかりの夕飯を食って、また大通りをぶらぶらしていると、何とか嬢の何とかの歌、何とか君の何とかの話というような題をならべた、寄席のようなものがあった。はいった。歌も話も、割りによく分るのでうれしかったが、それがあんまりつまらないくすぐりばかりなので、いやになってすぐ出た。
 そして、また大通りのショー・ウィンドウのあかあかとてらしたところや、キャフェのテラスの前を、ぶらぶらとあるいた。テラスというのは、キャフェの前の人道に椅子、テーブルを持ち出して並べてあるところだ。そこでは、大勢の男や女ががやがや面白そうに話ししながら、何か飲んでいる。そしてところどころに一人ぽっちの若い女がいて、それがほかの一人ぽっちの男にいろいろと目くばせしたり、前を通る男に笑いかけたりしている。
 道を通る女という女は、ほとんどみなその行きちがう男に何か目で話しかけて行く。そして、おや見合ったなと思っているうちに、もう二人で手を組んだり、あるいは肩や腰に手をかけたりして、ペチャクチャ何か話ししながらあるいて行く。
 女はみな、あの白い顔にまた綺麗に白粉をぬって、その上にところどころ赤い色をぬって、唇には紅をさし、目のふちは黒く色どっている。そしてその顔をまた、いろんな色の帽子と着物とでかざっている。
 その女のうしろ姿がまたいい。すらりとした長いからだの、ことに今は長い着物がはやっているのでなおさらすらりとして見えるのだそうだ、肩や腰をちょこまかとゆすぶりながら、小足で高い靴の踵を鳴らして行く。
 僕はそういうのにうっとりとしていると、一人の女にぶつかった。ぶつかったんじゃない。あっちから僕の前にのこのこ出て来たんだ。そして、
「どう、今晩私と一しょにあそばないか。」
 と首をかしげて、細いしかしはっきりした可愛い声で言う。
 悪い気持じゃない。しかし少々面くらった僕は、あわてて、ちょうどその前を通っていたやはり寄席のようなうちの中へ飛びこんだ。
 ドアをあけて、はいるにははいったが、切符を売るようなところがないので、ちょっとまごついていた。すると、ボーイらしい男がやって来て、
「いい席にいたしましょうか。」
 と言う。
「ああ、一番いい席にしておくれ。」
 僕はどうせ高の知れたものと見くびって大見得をきった。ボーイはすぐ僕の前に立って案内した。
 もう一つドアをあけると、そこは広いおどり場だった。盛んなオーケストラにつれて、十人あまりの女が今踊っている最中だ。僕はその一番前のテーブルに坐らされた。僕はボーイに二フランの銅貨を一つにぎらした、ボーイはしきりにお礼を言いながら、何か低い声でささやいた。僕はちょっと聞きとれないので聞き直した。
「もしお望みの娘がいましたら、ちょっと私に相図して下さい。すぐ呼んで来ますから。」
 ボーイはそう言って、何か小さな紙片を置いて行った。そして、それと入れかわりに、またほかのボーイが来て、大きな紙片を一枚テーブルの上に置いた。見ると、シャンパンのメニュだ。五十フランとか六十フランとかいう値段が書いてある。これや大変だ、と思いながら、前の小さな方の紙片を取って見ると、それには入場無料、飲物是非、とかいてある。
「ちょっと待っておくれ。」
 僕は踊りの方に夢中になっているような顔をして、一とまずそのボーイをしりぞけた。そして、短かい裾を盛んにまくりあげては足を高くあげて見せる、その何とか踊りがすんで、そしてこんどは見物の男や女がおどり場一ぱいになって踊りだしたのを機会に、シャンパンの註文をききにくるボーイの来ないうちにと思って、とっとと逃げ出してしまった。


 今パリではミディネットが同盟罷工をしている。
 このミディネットというのは、字引をひいてもちょっと出て来ない字だが、ミディすなわち正午にあちこちの商店や工場からぞろぞろと飯を食いに出てくる女という意味で、いろんな女店員や女工員を総称するパリ語だ。そしてこのミディネットがやはり、正午のやすみ時間に、本職の労働以外の労働をするという話を聞いた。実は、僕がミディネットという言葉を覚えたのも、その話からなのだ。
 が、今罷工をやっているミディネットは、その中のお針女工だ。八千人ものこのお針女工がもう四週間も罷工をつづけて、大勢大通りをねってあるいて示威運動をしたり、罷工に加わらない工場へさそい出しにいったりして、あちこちで警官隊と衝突している。
 僕はそのミディネットの一人に会った。そしてその生活状態も聞いて見た。
 彼女はまだ若いし、腕も大してよくはないので、一週間に六十フランしかもらっていなかった。が、この一週間五、六十フランから一カ月三、四百フランというのが、まずパリでの一般のミディネットの普通の収入なのだ。パリの貧乏人の女は、娘でも細君でも、大がいみなこうして働いている。
 そして彼女の毎日の支出は、その鉛筆で書いて見せた表によると、ざっとこうだ。
             フラン
朝食(キャフェとパン)……0.60
電車(往復)…………………0.35
昼飯……………………………4.50
夕飯……………………………3.50
洗濯……………………………0.80
室代……………………………2.00
雑費(病気や娯楽)…………2.00
被服……………………………2.00
―――――――――――――――
 合計………一日………… 15.75
 同…………一週…………110.25[#「110.25」は底本では「110.00」]
 同…………一月…………441.00
 同…………一年………5,292.00
 収入………一年………3,120.00
―――――――――――――――
 不足………一年………2,172.00[#「2,172.00」は底本では「2,172.20」]

 昼飯は友達と一緒に食うんで、日本人のお茶の、葡萄酒が少しはずむんだ。二フランの室というのは、安ホテルの屋根裏だ。そしてパリのミディネットは、親のうちにいるものはごくまれで大がいはみなこの安ホテルの屋根裏ずまいだ。
 そこで、問題は、この一年二千フラン余りの不足が、どうして補われるかということだ。あるものは自炊をして、昼も晩もパンとジャガ芋かスープで済ます。洗濯と娯楽と被服とをうんと倹約する。あるものはいわゆる「おアミだち」の男と同棲する。夫婦共かせぎする。そしてあるものは、正午のやすみ時間に働く、いわゆるミディネットになる。
 イギリスの『タイムス』では、ミディネット等が「生活費や絹の靴下や白粉が高くなったので」罷工した、と冷やかしていた。実際、絹の靴下をはいているものもかなりある。また白粉をつけているものもかなり多い。しかし、パリの町の中をあるいている女で、そうでないものがどれだけあるだろう。そして大がいのミディネットは、その商売上、雇い主からそう強いられるのだ。
 また、この罷工中のミディネット等が、胸に箱を下げてあちこちのキャフェへ寄附金募集に歩くと、
「おい、そんなことをするよりゃ、往来をぶらぶらしろよ。」
 とからかう紳士がずいぶんある。この紳士等の望み通りにミディネットに「往来をぶらぶら」させるためには、そしてやがてそれを本職にさせるためには、彼女等の賃金は決して上げてはならないのだ。
 そしてこの紳士等の淑女は、往来やキャフェをぶらつく若い綺麗な女どもとその容色をきそうためには、決して子供を生んではならない。貧乏人の、あるいは乞食のような風をしたあるいは淑女のような風をした、どちらの女も、これまただんだん高くなってくるその生活のためには、決して子供を生んではならない。
 この頃発表されたフランスの人口統計表によると、この現象は最近ことにはなはだしい。
 一九二二年すなわち去年は、出産数が約七十五万九千だが、一昨年は一昨々年よりも約二万一千へり、そして去年は一昨年よりもさらにまた五万三千へっている。
 それをもう少し詳しく言うと、一九二二年には、

  出産数………759,846[#「759,846」は底本では「759,946」]
  死亡数………689,267
   差引……  70,579

 であるが、前二カ年には、この差引が、

  1921…………117,023
  1920…………159,790

 になっている。
 そして死亡数はほんの少しずつ減ってくるのだ。しかもそれは、多くは早死する。貧乏人の子供の上にだ。
 結婚の数もへった。

  1920…………623,869
  1921…………456,211
  1922…………383,220

 この結婚の数を人口一万に対する比例にすると、ちょうど次のようになる。

  1922………….195
  1921………….233
  1920………….318

 避姙は貧乏人にはちょっとむずかしい。サンガー女史が一番有効なものとして推奨しているカプセルは、一つ五十フランするのだが、それも長くは使えない。また、前に言った瓢箪形のビデなどは、貧乏人の夢にも思えるものじゃない。
 労働者にはかなり子供ができる。僕の知っている労働者で、五人六人、または七人八人と子供をつくったのが、かなりあるが、その多くは、まだ赤ん坊の間か、あるいはほんのまだ子供の間に死ぬ。往来をぶらぶらするいかがわしい淑女達でも二十歳前に生んだ子供を一人ぐらいは持っているのがおおい。
 そこで、前に言った赤ん坊の頭ぐらいはやすやすと通れる、大きな穴や管の便所が必要になってくる。相応の医者へ行けば、五百フランぐらいで、勿論ごく内々で何の世話もなく手術をしてくれる。しかし貧乏人にはそうは行かない。
 堕胎はフランスでは重罪だ。が、こんど、それを軽罪にしたかするとかいう話を、四、五日前の新聞で見た。そこには毎年のこの犯罪数などもあったのだが、今その新聞が手もとにないので、詳しいこともまたはっきりしたことも言えない。
 これは貧乏人にとって、よほどありがたい改正のようだ。が、実際はそうでもないらしい。今までは、重罪だったので、陪審の人たちが多くは被告に同情して、容易にそれを有罪にさせなかった。また、よし有罪ときまっても、容易にその執行をさせなかった。それがこんどは、軽罪のお蔭で、陪審もなくなり、また裁判官の同情もよほどうすらごうと言うのだ。そしてその改正の目的も、実はやはり、そこにあるらしいのだ。
――一九二三年四月三十日、パリにて――
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牢屋の歌



パリに
すきなこと二つあり
女の世話のないのと
牢屋の酒とたばこ

 へたな演説には、きっと長口上の、何やかの申しわけの前置きがある。歌だってやはりそうだろう。と、まず前置きの前置きをして置いて、さて、そろそろと長口上に移る。
 パリの女の世話のないことは、前の「パリの便所」の中で話した。が、そこでは、物がちょっと論文めいた形式になったために、大分かみしもをつけて、その中の「僕」という人間がいつもその世話のない女を逃げまわっているように体裁をかざっていた。
 が、体裁はどこまでも体裁で、事実の上から言えばそれは真赤なうそだ。逃げまわっていたどころじゃない。追っかけまわしていたくらいなのだ。
 その追っかけまわしていた女の中に、ドリイという踊り子が一人いた。バル・タバレンと言えば、パリへ行った外国人で知らないもののない、あまり上品でない、ごく有名な踊り場だ。そこの、と言ってもちっとも自慢にならないのだが、とにかくそこの女の中でのえりぬきなのだ。
 僕はその踊り場のすぐそばに下宿していたのだが、どうもパリは危険らしい様子なので、三月のなかばにこのわかれにくいドリイにわかれて、リヨンへ逃げた。そしてすぐドイツ行きの仕度にかかった。
 それにはまず、ドイツ領事のヴィザをもらう前に、警察本部の出国許可証をもらわなければならない。それが、警察へ行くたびに、あしたやる、あさってやる、という調子でごく小きざみに延び延びになって、一カ月あまり過ぎた。むしゃくしゃもする。もうメーデーも近づく。パリもなつかしい。ちょっと行って見ようとなってまた出かけた。
 そしてその翌晩、夕飯を食いがてらオペラの近所へ行って、そこからさらに時間を計ってドリイに会いに行こうと思った。が、そのオペラの近くのグラン・キャフェで、前に一度あそんだことのある、そして二度目の約束の時に何かの都合で会えなかって、それきりになっているある女につかまってしまった。
 その翌日はメーデーだ。今晩こそはドリイと思っていると、その日の午後、こんどはとんでもない警察につかまってしまった。
 秩序紊乱、官吏抗拒、旅券規則違反というような名をつけられて、警察に一晩、警視庁に一晩とめられて、三日目に未決監のプリゾン・ド・ラ・サンテに送られた。
 のん気な牢屋だ。一日ベッドの上に横になって、煙草の輪を吹いていてもいい。酒も葡萄酒とビールとなら、机の上に瓶をならべて、一日ちびりちびりやっていてもいい。
 酒のことはまたあとで書く。その前にドリイの歌を一つ入れたい。

独房の
実はベッドのソファの上に
葉巻のけむり
バル・タバレンの踊り子ドリイ

 窓のそとは春だ。すぐそばの高い煉瓦塀を越えて、街路樹のマロニエの若葉がにおっている。なすことなしに、ベッドの上に横になって、そのすき通るような新緑をながめている。そして葉巻の灰を落しながら、ふと薄紫のけむりに籠っている室の中に目を移すと、そこにドリイの踊り姿が現れて来る。彼女はよく薄紫の踊り着を着ていた。そしてそれが一番よく彼女に似合った。


パリの牢のスウヴニルに
酒の味でも
飲み覚えよか
Caサァ vaヴァ ! Caサァ vaヴァ !

 僕はもう五、六年前から、ほんの少しでもいいから酒を飲むようにと、始終医者からすすめられていた。
 が、飲めないものはどうしても飲めない。日本酒なら、小さな盃の五分の一も甜めると[#「甜めると」はママ]、爪の先まで真っ赤になって、胸は早鐘のように動悸うつ。奈良漬けを五切れ六切れ食べてもやはりおなじようになる。サイダーですらも、コップに二杯も飲むと、ちょっとポオとする。
 ただウィスキーが一番うまいようなので、毎日茶匙に一杯ずつ紅茶の中に入れて飲んでいたが、それだけでもやはりちょっと苦しいくらいの気持になる。
 フランスに来てからは、いや上海からフランス船に乗って出てからは、食事のたびに葡萄酒が一本食卓に出るのだが、最初ちょっとなめて見てあんまり渋かったので、その後は見向いてもみなかった。
 けれども、牢にはいってみて、差入れ許可の品目の中に葡萄酒とビールの名がはいっているのを見出して、怠屈まぎれにそのどっちかを飲み覚えようと思った。ビールはにがくていけない。葡萄酒も、赤いんだと渋いが、白いんなら飲んで飲めないこともあるまい。女子供だって、お茶でも飲むように、がぶりがぶりやっているんだから。と、きめて、ある日、差し入れの弁当のほかに、白葡萄酒を一本注文した。
 Ca va ! Ca va ! というのは、よかろうよかろうくらいの意味だ。

きのうは大ぶ渋かったが
きょうは少しあまし
飲みそめの
Vinヴェン blancブラン

 Vin blanc(白葡萄)でも渋いことはやはり渋い。が、ほんのちびりちびり、薬でも飲むように飲む。そして、ほんのりと顔を赤らめながら、ひまにあかして一日ちびりちびりとやって、いい気持になってはベッドの上に長くなっていた。

三日目に一本あけた
大手柄!
飲みそめの
Vinヴェン blancブラン

 一本といっても、普通の一本じゃない。アン・ドミとかアン・カアルとかいう半分か四分の一の奴なのだ。
 そして入獄二十四日目の放免の日には、警視庁の外事課で追放の手続きを待っている半日の間に、このアン・ドミを百人近くの刑事どもの真ん中に首をさらされながら、一本きれいにあけてしまった。

そのたびになつかしからん
晩酌の
味を覚えし
パリの牢屋

 僕は日本に帰ったら、毎日、晩酌にこの白葡萄酒を一ぱいずつやって見ようときめた。


Vin blanc ちびりちびり
歌よみたわむる
春の日
春の心

 春の心、と言っても、春情じゃない。牢やの中では、いつも僕は聖者のようなのだ。時々思いだしたドリイだって、実は一緒に寝たには寝たが、要するにただそれっきりのことだったのだ。
 ――Faire l※(アキュートアクセント付きA小文字)mour, ce n'est pas tout. Ju es trop jolie pour cela. Je t'adore.
 というような甘いことを、実際甘すぎてちょっと日本語では書きにくいのだ、子守歌でも歌って聞かせるような調子でお喋舌りしながら寝かしつけていたのだ。
 そしてまた、それだからこそ、時々彼女を思いだしたのだろうと思う。リヨンではたった一人のそして停車場まで夜遅く送って来た女のことも、メーデーの前の晩会った女のことも、またいつも赤い帽子をかぶっていたところから僕が「赤帽シャポオ・ルウジュ」とあだ名していた女のことも、その他本当に一緒に寝た女のことは一度も思いだしはしなかった。
 そんなことじゃないんだ。ただ春の心なのだ。本当にのどかな、のんびりとした呑気な気持なのだ。いつも忙がしい、そして大勢の人との交渉の多い生活をしている僕には、実際何の心配もないたった一人きりの牢やの生活ほどのうのうするところはないのだ。もっとも、それがあんまり長かったり、時々すぎたりしては、そうばかりも行くまいが。ことに春の日の牢の中はいい気持だ。そして、それが、ちびりちびりのヴェン・ブランでなおさらにいい気持にあおられていては堪らない。へたな歌もできよう。呑気なことも考えていられよう。
 が、これは出るとすぐ、仲間の新聞で知ったのだが、その頃この牢やでこんな呑気をしていては、知らんこととは言いながらはなはだ相済まなかったのだ。
 僕がまだフランスに来る途中の船にいた頃、共産党の首領カシエン以下十数名のものが、ルール問題の勃発とともに拘禁された。そしてその中には、ドイツの共産党代議士何とかというのと、もう一人のやはり何とかいうドイツの共産主義者とがいた。みんなやはり僕と同じこのラ・サンテの牢やにいたのだ。
 ところが僕がはいってから、カシエン以下のフランスの共産主義者は保釈で釈放されたが、ドイツの二人だけは残された。二人ともフランスの法律に触れる理由は何にもなく、ただその政治上の都合でおしこめられていたので、たださえ二人は大ぶ憤慨していたのだが、ほかのものがみんな出されて自分等だけ残ったとなると、すぐ釈放を要求してハンガー・ストライキを始めた。そして、それを知った同じ牢やの政治監にいる既決囚の無政府主義者四、五名も、それに同情のやはりハンガー・ストライキを始めた。
 ドイツの二人は十幾日間頑強に飲まず食わずに過ごした。そしてほとんど死んだようになって病院に移されて、僕が放免になった二、三日後にようやくのことで釈放の命令が出た。
「僕も知っていれば……」
 と、僕は自分の太平楽を恥じかつくやんだ。
――一九二三年七月十一日、箱根丸にて――
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入獄から追放まで



 どうせどこかの牢やを見物するだろうということは、出かける時のプログラムの中にもあったんだが、とうとうそれをパリでやっちゃった。

 実は、大ぶうかつではあったが、このパリでということは、最初はあまり予期していなかったのだ。
 日本では最近にヨーロッパへ行ったことのある誰とも話はしなかったが、支那ではほやほやのフランス帰りの幾人かの人達と会った。
「なあに、フランスへあがりさえすれば、もう大丈夫ですよ。」
 その人達はみな同じようにそう言った。そして旅券なぞも、途中はもとより、マルセイユ上陸の時ですら、なければなしで通れるほどに世話がない、という話だった。
 もっとも、とにかく僕は、国籍と名だけはごまかしたが、しかし正真正銘の僕の、しかもその時の着のみ着のままの風の写真をはりつけた、立派な旅券を持っていた。その旅券からばれるというようなことはまずないものと安心していた。現にフランスの領事館でも、またイギリスの領事館でも、僕自身が出かけて行って、何のこともなくヴィザを貰って来たのだ。その旅券を、わざわざ余計な手数をかけてまで、見せずに通すほどのこともあるまいと思った。
 途中での僕の心配はもっとほかのことだったのだ。そしてそれはあらかじめ何ともすることのできないことなので、もし間違ったら仕方がないとあきらめるよりほかに仕方がなかった。
 しかし、それが無事に行って、フランスにはいりさえすればまず大丈夫だということは、僕も日本にいた時から思わないではなかった。ことにフランスの領事館へヴィザを貰いに行った時に、受付の男が僕の旅券を受取ったままちょっと引っこんだかと思うと、すぐにまたそれを持って出て来て、幾らかの手数料と引換えに渡してくれたのなぞは、その官憲の無造作にむしろ驚かされた程だった。
 このフランスの自由については、その後、船の中ででも大ぶ聞かされた。
「まあフランスへ行って御覧なさい。自由というものがどんなものか本当によく分りますよ。」
 モスクワ大学出身の女で、かつてパリに幾年か留学したことがあり、その兄が社会革命党に関係していたことから彼女までもツァーの官憲から危険人物扱いされたことがあるという、マダムNが何かの話から話しだした。彼女はしばらく日本にいて、今僕と同じようにやはりフランスへ行くのだった。
「まずどこかのホテルへ着いてですね。一番気持のいいのは、うその名刺でも本当の名刺でもとにかく名刺を一枚出しただけで、それっきり何一つ尋ねられることはないんでしょう。日本やロシアではとてもそんな訳には行きませんからね。」

 しかるに、このマダムNと一緒にマルセイユに上陸して、あるホテルに着いた時、フランスのこの自由はすぐさま幻滅させられてしまった。受付の男が活版刷の紙きれを持ちだして、そこへ何か書き入れろと言う。見れば立派な宿帳だ。しかも日本の宿帳なんかよりよっぽどうるさい宿帳だ。マダムと僕とは顔を見合した。そして二人で一々書き入れて行ったが、最後のカルト・ディダンティテ(身元証明書)の項で二人とも行きづまった。
「これは何でしょうね。」
 僕はマダムに尋ねた。
「さあ、何ですかね。」
 マダムもちょうどそこでペンを休めて考えていたのだ。
「いや、もしカルト・ディダンティテをお持ちでなければ、パスポオルでもいいんです。」
 二人は番頭にこう注意されながら、まだその「パスポオルでもいいんです」というのが何のことかよく分らなかった。が、ただそう書き入れればいいのだと分って、二人は二階の一室へ案内されて行った。
 マダムはそれだけのことでもういい加減その顔をくもらしていた。が、二人ともまだ、そのカルト・ディダンティテがどんなものかということはちっとも知らなかったのだ。
(前の「日本脱出記」の中では、パリで初めてこのカルト・ディダンティテの問題にぶつかったように言ってあるが、あの時にはまだどこをどうしてフランスにはいったかをその筋に知られたくなかったので、わざとああ書いたのだった。)
 その翌日(これも今となってはその日にちを明らかにしてもいいのだが、僕は一月五日にフランス船のアンドレ・ルボンというのに乗って上海を出て、二月十三日にマルセイユへ着いたのだった。)僕はマダムと別れて、リヨンへ行った。そこには僕の仮り国籍の同志が数名いて、僕はそれらの人達にあてた上海の同志からの紹介状を持っていたのだ。そしてヨーロッパにいる間その国籍の人間として通って行くには、まずそこの同志のいろんな厄介にならなければならなかったのだ。
 僕はパリへの旅を急いでいた。そしてこのリヨンには、またあとでゆっくり来るとしても、こんどは一晩か二晩とまってすぐパリへ立つ予定でいた。が、リヨンの同志はそれを許さなかった。
「ここには大勢僕等がいて、いろいろと便宜があるんだから、ここを君の居住地ときめて置いて、まずカルト・ディダンティテを貰って、それからどこへでも行くといい。」
 と言うんだ。僕は支那からフランスに来るという旅券しか持っていないので、さらにフランスからヨーロッパ諸国へ廻る旅券を貰う必要があった。そしてそれには何よりもまずこのカルト・ディダンティテが必要なのだ。それに、フランスに二週間以上滞在する外国人は、すべてその居住地の警察のカルト・ディダンティテを持っていなければならないのだ。そしてどこへ行くんでも、いつでも、必ずそれを身につけていなければならないのだ。それがなければ、すぐ警察へ引っぱって行かれて、もし申し訳が立たなければ、すぐさま罰金か牢だ。そしてその上になお追放と来る。
「まあ、犬の首輪と同じようなものさ。」
 と、同志のAは説明して聞かせながら、ポケットから自分のカルト・ディダンティテを出して見せた。写真もはりつけてある。両親の生年月日までもはいっている。そしてそれにフランス人が二人と同国人が二人保証人に立っている。
 このカルト・ディダンティテを貰うのに一週間ほどかかった。そしてその間に僕は、ある日、新聞で見たその晩のフランス人の同志の集会に案内してくれないかと頼んだ。が、それもやはりA等に許されなかった。そんなところへ行こうものなら、すぐあとをつけられて、カルト・ディダンティテはもとより、ヨーロッパ歴遊のパスポオルも、また僕自身のからだも、どうなるか分らんとおどされた。

 ここにおいて、初めて僕は、戦後のフランスの反動主義がどんなものかということが本当に分った。そしてこのフランスにはいればもう大丈夫どころではなく、かえって危険がすぐ目の前にちらついているように感じた。


 手帳のようなものになっているカルト・ディダンティテの終りの幾ページかは、出発、到着、帰還の二字ずつを幾つも重ねた表で埋まっている。要するに、その居住地からどこかへ旅行するには、一々それを警察へ届け出て、その判を押して貰わなければならないのだ。
 が、僕はそんな面倒はよして、すぐパリへ出かけた。そしてベルヴィルのフランス無政府主義同盟へ行くと、そこは「日本脱出記」に書いたような警戒ぶりなのだ。
 さらにまた、同盟の事務所からごく近くのホテルに泊ると、そこでは普通に宿帳を書かした上に、カルト・ディダンティテの本物を見せろとまで言うのだ。
 僕はいよいよあぶないと思った。そしてリヨンから一緒に来た支那の一同志と、パリの郊外や少し遠い田舎にいるやはり支那の同志等を訪ね廻って、四、五日して帰って来ると、僕等をその宿へ案内した、そして自分もそこに下宿していたイタリアの若い女の同志が、急いで引越し仕度をしていた。警察がうるさくするので逐い出されるのだと言う。
 リヨンの同志はすぐ帰った。僕はその女と相談して、どこかもっと安全な宿を探して貰うことにきめた。そしてその晩は一緒に同盟の機関『ル・リベルテエル』の催しの民衆音楽会へ行った。会場のC・G・T・U(統一労働総同盟)事務所の入口の前は、十名ばかりの制服の憲兵が突っ立っていた。
 その翌日、ル・リベルテエル社へ行っていると、痩せこけて、髪の毛や鬚をぼうぼうのばして、今にも倒れそうになってはいって来た男があった。口もろくにはきけない。よく聞いて見ると、ハンガリイの同志で非軍備運動のために六カ月牢に入れられて、出るとすぐひそかにフランスに逃げこんだのだが、パスポオルのないためにまた捕まって三カ月牢に入れられて、今日放免とともに追放になったんだと言う。
 その晩は前から会う筈になっていたロシアの若い同志を訪ねた。いくら室の戸をノックしても返事がない。いないのかなと思いながらまた念のためノックしたら、ちょっと待ってくれという慄え声の声がする。やがて戸が開いてその同志は僕の顔を見るといきなり飛びついて来てだきしめた。どうしたんだと聞くと、いや、実は、いよいよ来たんだなと思って捕まる準備をしていたんだと言って笑いだした。この男も旅券なしで、ロシアからドイツに、そしてまたドイツからフランスに逃げて来ていたのだ。
 このロシアの同志もすぐまたドイツへ逃げ帰ろうと言うし、僕もこんなフランスに逃げかくれているんじゃ仕方がないと思って、それよりは大ぶましらしいドイツへ早く行こうときめた。僕の目的の国際無政府主義大会は、四月一日に、ベルリンで開かれることになっていたのだ。そこでは、本名を名乗らなければならないし、そこで捕まるのは仕方がないとしても、それまでにお上の手にあげられるのは少々癪だと思った。
 そこへ日本人の友人のSが訪ねて来た。日本を出て以来、日本人はいっさい禁物として絶対に会わない方針にしていたのだが、このSにだけはごく内々で僕の来たことと宿とを知らしてあったのであった。
 Sは、それじゃすぐ引越ししようと言って、新しい宿を探しに行った。そしてその日のうちに引越した。Sもしばらく田舎へ行っていたのをまた出て来たので、僕と一緒にそこへ宿をとった。
「集会にも出れなければ、ろくに人を訪ねることもできないんじゃ、仕方がない、せめてはパリ第一の遊び場に陣取ってうんと遊ぶんだね。」
 二人はそう相談をきめて、モンマルトルの真ん中に宿をとったのだ。そして予定通り昼夜兼行で遊び暮しながら僕はリヨンからのたよりを待っていた。ヨーロッパ歴遊の新しい旅券が手にはいれば、すぐ知らしてよこす筈になっていたのだ。そして僕はその知らせとともにリヨンに帰って、すぐまたドイツへ出発する手続きにかかる筈だったのだ。
 一週間ばかりしてその知らせが来た。まだ遊び足りないことははなはだ足りない。それにようやくまずこれならと思うお馴染ができかかっていたところなのだ。が、その知らせと同時に、僕にとっては容易ならん重大事がそっと耳にはいった。それは、日本の政府からパリの大使館にあてて、Sの素行を至急調べろという訓電が来たということだ。僕はこれはてっきり、Sを調べさえすれば僕の所在も分るという見当に違いない、と思った。
(これはあとで、メーデーの日の前々日かに、パリでそっと耳にした話だが、実はその時すでに、日本政府からドイツの大使館に僕の捜索命令が来て、そしてその同文電報がドイツの大使館からさらにヨーロッパ各国の大使館や公使館に来ていたのだそうだ。)
 僕もSも持っていた金はもう全部費いはたしていた。が、ようやく借金して、大急ぎで二人でパリを逃げ出した。

 Sはもとの田舎に帰った。僕はリヨンの古巣に帰った。そして、あちこち歩き廻って来たことなぞは知らん顔をして警察本部へ行ってドイツ行きを願い出た。その許可がなければ、ドイツ領事にヴィザを願い出ても無駄なのだ。
 警察本部とはちょっと離れている裁判所の建物の中に、外事課の一部の旅券係というのがあった。そこへ行くと、四、五日中に書類を外事課へ廻して置くから、来週のきょうあたり外事課へ行けば間違いなくできていると言う。で、僕は出立の日まできめて、すっかり準備して、その日を待っていた。ドイツに関する最近出版の四、五冊の本も読んだ。ドイツ語の会話の本の暗誦もした。おまけに、帰りにはオーストリア、スイス、イタリアと廻るつもりで、イタリア語の会話の本までも買った。
 ところで、その日になって警察本部の外事課へ行って見ると、またもとの裁判所の方の旅券係へ廻してあると言う。そしてその旅券係では、同じ建物の中のセルビス・ド・シュウルテという密偵局へ廻したから、そこへ行けと言う。そしてまた、その密偵局では、二、三日中に通知を出すから、そしたら改めて出頭しろと言う。うんざりはしたが、仕方がないから、帰ってその通知を待つことにした。
 二、三日待ったが来ない。四日目にとうとうしびれを切らして行って見ると、きょう通知を出して置いたから、あしたそれを持って来いと言う。
 そのあしたは密偵局でいろいろと取調べられた。旅券や身元証明書は願書と一緒にさし出してあるんだが、それを見ればすぐ分ることを始め、フランスに来てからの行動や、ドイツ行きの目的や、その他根ほり葉ほり尋ねられた。大がいのことはいい加減に辻褄の合うように返事していれば済むんだが、一番困ったのは身元証明書の中に書き入れてあることの調べだ。親爺の名とか母の名とかその生年月日とかは、国での二人の保証人のそれと同じように、みなまったく出たらめのものだった。その出たらめを一々ちゃんと覚えているのは容易なことじゃない。が、それもまず難なく済んだ。
 ただ済まないのは、目的の許可証がいつ貰えるかだ。その日には、あさってと言われたので、あさって行って見ると、またあさって来いと言う。こんどこそはと思って、そのあさって行って見ると、こんどはあしただと言う。そしてそのあしたがまたあさってになり、そのまたあしたになりあさってになりして一向らちがあかない。
 その間に僕の宿の主人も三、四度調べられた。そして一晩そこに泊ったSのことも、いろんな方面から取調べているようだった。
 僕はだんだん不安になりだした。そしていっそのことそんな合法の手続きはいっさいうっちゃって、パリで会ったロシアの同志のようにそっと国境を脱け出ようかと思った。この合法か非合法かの問題は、僕がフランスに来た最初から、僕とリヨンの同志との間に闘わされた議論だった。そんな七面倒臭いカルト・ディダンティテなどは貰わずに、勝手に駈け廻る方がよくはあるまいか、というのが僕の最初からの主張だった。が、もし何かの間違いがあれば、当然その責任は僕の世話をしてくれたそれらの人達の上にも及ぶのだからと思うと、僕はいつもその人達の合法論にふしょうぶしょうながら従うほかはなかった。こんどもまたそうだ。
 そして僕は、こうしてほとんど毎日のように警察本部に日参しながら、不安と不愉快との一カ月半ばかりを暮した。


 実際いやになっちゃった。
 四月一日の大会はまたまた延期となって、こんどは八月という大体の見当ではあるが、それもはたしてやれるかどうか分らない。ドイツの同志からは、とてもベルリンでは不可能だ、と言って来ている。するとヨーロッパのどこに、その可能性のあるところがあるんだろう。ウィーンという一説もあるが、それもどうやらあぶないらしい。
 愚図愚図している間に、金はなくなる。風をひいて、おまけに売薬のために腹をこわす。無一文のまま、一週間ばかり断食して、寝て暮した。
 ようやく起きれるようになって思いがけなく家から金が来たと思うと、こんどはまた例の日参だ。あした、あさってと言われるのにも飽きて、少々理窟を並べると、フランス人の癖の両方の肩を少しあげて、「俺あそんなことは何にも知らねえ」と言ったまま相手にならない。その肩のあげかたと、にやにやした笑顔の癪に触るったらない。行くたびにむしゃくしゃしながら帰って来る。
 春にはなる。街路樹のマロニエやプラタナスが日一日と新芽を出して来る。僕は郊外の小高い丘の上にいたのだが、フランスの新緑には、日本のそれのようには黒ずんだ色がまじっていない。ただ薄い青々とした色だけだ。その間に、梨子だの桜だののいろんな白や赤の花が点せつする。そして、それを透かして、向うの家々の壁や屋根の、オランジュ・ルウジュ色が映える。それは、ほんとうに浮々とした、明るい、少しいやになるくらいに軽い、いい景色だ。が、その景色も少しも僕の心を浮き立たせない。
 それに、よくもよくも雨が続いて降りやがった。
 もうメーデー近くになった。僕はほとんどドイツ行きをあきらめた。そしてひそかにまたパリへ出かけようと決心した。パリのメーデーの実況も見たかった。もう一カ月ばかり続けているミディネット(裁縫女工)の大罷工も見たかった。ついでに今まで遠慮していたあちこちの集会へも顔を出して見たかった。いろんな研究材料も集めて見たかった。また新装をこらしたパリの街路樹の景色も見たかった。女の顔も見たかった。

 四月二十八日の夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞してひそかにまたパリにはいった。そしてル・リベルテエル社のコロメルを訪ねて、メーデーの当日、セン・ドニの集会でまた会おうということになった。
 メーデーの屋外集会や示威行列は許されてなかった。労働者のプログラムの中にもそれはなかった。共産党の政治屋どもや、C・G・T・Uの首領どもは、警官隊との衝突を恐れて、できるだけの事勿れ主義を執ったのだ。さればその屋内集会も、パリの市内ではわずかにC・G・T・Uの本部の集会一つくらいのもので、その他はみな郊外の労働者町で催された。イタリアの同志サッコとヴァンセッティとがアメリカで死刑に処せられようとするのに対する、アメリカ大使館への示威運動ですらも、共産党はむりやりにそれを遠い郊外へ持って行ったのだった。
 セン・ドニはパリの北郊の鉄工町だ。そしてそこの労働者はもっとも革命的であり、そこの集会はもっとも盛大だろうと予期されていた。コロメルはそこでフランス無政府主義同盟を代表して演説する筈だった。
 メーデーの朝早く僕は市内の様子を見に出かけた。が、パリはいつものパリとほとんど何の変りもなかった。ただ多少淋しく思われたのは、タクシーが一台も通らなかったくらいのことだ。店はみな開いている。電車も通っていた。地下鉄道も通っていた。
 そしてその電車の中は多少着飾った労働者の夫婦者や子供連れで満員だった。僕はこれらの労働者の家族が郊外の集会に出かけるのだとはどうしても考えられなかった。
「おい、きょうはメーデーじゃないか、お揃いでどこへ行くんだい。」
 僕はすぐそばに立っている男に話しなれた労働者言葉で尋ねた。
「ああ、そのメーデーのお蔭で休みだからねえ。うちじゅうで一日郊外へ遊びに行くんさ。」
 その男はあまり綺麗でもない妻君の腰のあたりに左の手を廻しながら呑気そうに答えた。そしてその右の手にはサンドウィッチや葡萄酒のはいった籠がぶら下っていた。
 僕はその男の横っ面を一つ殴ってやりたいほどに拳が固まった。
 あちこちの壁にはられてあるC・G・T・Uのメーデーのびらは、みなはがれたり破られたりしていた。そしてそのそばには「メーデーに参加するものはドイツのスパイだ」というような意味のC・G・T(旧い労働総同盟)のびらが独り威張っていた。

 セン・ドニの労働会館は、開会の午後三時頃から、八百人余りの労働者ではち切れそうになっていた。
 演説が始まった。予定の弁士が相続いて出た。ルール占領反対、戦争反対、大戦当時の政治犯大赦、労働者の協同戦線、というような当日の標語モットオが、いやにおさまり返った雄弁で長々と説明された。聴衆の拍手は段々減って来る。大きな口のあくびが見える。ぞろぞろと出て行くものすらある。
 時々聴衆の中から、「もういい加減に演説をよしてそとへ出ろ」という叫び声が聞える。会の始まる前に『ル・リベルテエル』や『ラ・ルヴィユ・アナルシスト』(無政府主義評論)なぞを会場で売り歩いていた連中だ。が、それに応ずる声も出ない。そして演壇の上からはしきりにその叫び声を制している。
 僕はコロメルの演説がすんだら、一緒にどこかへ行って、ある打ち合せをする筈だった。が、そんな打ち合せはもうどうでもいいような気になった。そしてこの「外へ出ろ」の叫びを演壇の上から叫びたくなった。
 いよいよコロメルの順番になった。僕はコロメルを呼んで、君の後でちょっと一とこと喋舌りたいんだが、と耳打ちした。コロメルはそれを司会者のたぶん共産党の何とかいう男に通じた。司会者は僕のそばへ来て、何を喋舌りたいのかと聞いた。共産党や無政府党が共同で何かやる時には、いつもその時の標語についてだけ演説する約束のあることは知っていた。で、僕はただ、日本のメーデーについて話したい、と答えた。コロメルは僕を日本のサンジカリストだと紹介しただけなので、司会者は僕の名も何にも知らなかったのだ。
 コロメルの演説の間、僕は草稿をつくっていた。そしてその演説の終り頃に演壇の上の弁士席についた。コロメルがルール占領の張本人である王党の一首領を暗殺した若い女の無政府主義者ジェルメン・ベルトンの名をあげて何か言った時、演壇近くにいた四十ばかりの一人の女工らしいのが涙を流し流し、泣き声で「セエサ、セエサ」(そうです、そうです)と叫んでいた。
 僕は司会者に言った通り、日本のメーデーについて話した。
「日本のメーデーはまだその歴史が浅い。それに参加する労働者の数もまだ少ない。しかし日本の労働者はメーデーの何たるかはよく知っている。」
「日本のメーデーは郊外では行われない。市の中心で行われる。それもホールの中でではない。雄弁でではない。公園や広場や街頭での示威運動でだ。」
「日本のメーデーはお祭り日ではない。(五字削除)。(二十八字削除)。」
「(八字削除)飛ぶ。(七字削除)光る。」
 僕の多少誇張したこの「日本のメーデー」は、わずか二、三十分ながら、とにかく無事で終った。そしてさっきの四十女が時々「セエサ、セエサ」と叫んでいるのが目にも耳にもはいった。

 そして僕は演壇を下って、「そとへ出ろ、そとへ出ろ」という叫び声を聞きながら、一人でそとへ出ようとしたところへ、四、五人の私服がぞろぞろとやって来て、「ちょっと来い」と来た。


 警察はすぐ近くだ。僕は手どり足どり難なく引っぱって行かれた。
 やがて警察の前で大勢のインタナショナルの歌が聞えた。叫喚の声が聞えた。警察の中庭に潜んでいた無数の警官が飛びだした。僕は警察の奥深くへ連れこまれた。
(これは後で聞いた話だが、会場の中の十数名の女連が先頭になって、ただ日本の同志だというだけで名も何にも分らない僕を奪い返しに来たのだそうだ。そして警察の前で大格闘が始まって、女連はさんざん蹴られたり打たれたりして、その結果百人ばかりの労働者が拘引されたのだそうだ。警察の中ででもなぐったり蹴ったり、怒鳴りわめいたりする声が聞えた。)
 僕は国籍も名も何にも言わなかった。旅券も身元証明書も、そんな書類は何にも持っていないと言いはった。その他の取調べに対してはほとんど何にも答えなかった。
 が、やがてそこへコロメルがはいって来た。僕を貰いに来たのだ。そして僕に旅券通りの名を言うようにと勧めて行った。そのあとへまた、司会者の男が二、三名の連れと一緒にやって来た。そしてやはりまた同じようなことを勧めた。要するに何でもないことなんだから、名さえ言えば帰されると言うのだ。
 僕はちょっとのすきを窺って、ポケットの中の手帳を司会者の手に握らした。それは一度警官の手に取りあげられたんだが、司会者等のはいって来たどさくさまぎれにまた取り返して置いたのだった。が、また取調べが始まった時、一人の私服がその手帳のないのに気がついた。そして僕を責めた。僕は知らないと頑ばった。すると、もう一人の私服が、それじゃきっとさっきのムッシュ何とか(司会者の名だ)に渡したんだろうから、行って取って来ようと言いだした。
「なあに、もう持っているもんか。誰かほかの人間に渡しちゃったよ。」
 最初の私服がそう言ってあきらめているらしいのに、もう一人の奴は「でも」とか何とか言って出て行った。そしてやがてそれを本当に持って帰って来た。最初の私服は大喜びでそのページをめくり始めた。
 それを一枚一枚よく調べて行けば、どこかに僕の偽名が出て来るのだ。少なくとも、何かの際の覚えにと思って書きつけて置いた、カルト・ディダンティテの中の出たらめ、たとえば僕の両親の名や年齢なぞが出て来るのだ。それでなくとも、それからそれへの手づるはいくらでも出て来よう。僕は警察へ引っぱりこまれるとすぐ、水を飲ましてくれと言ってうんと飲んだ上に、さらに小便が出ると言って便所へ行って、まず第一にそれを破り棄てようと思ったのだった。が、その中にはいっている名刺や紙きれを破っている間に巡査に来られて、それを果すことができなかった。
 仕方がない。まだ少し早すぎるようだが、とにかくみんなの勧めに任して、偽名通りの名を言ってしまおう。僕はそうきめて、某国の某というものだと答えた。そして旅券や身元証明書は、ドイツ行きの許可証を貰うためにリヨンの警察本部にあずけてあると事実ありのままを言った。職業は新聞記者だ。主義はサンジカリズムだ。なぜ日本人だと紹介さしたと言うから、日本には長くいてその事情にも詳しいし、日本の話をするには日本人だと言った方が効果が多かろうと思ったからだと答えた。
 それで、リヨンの警察へ問い合せられてその実際が分り、本当になんでもなくって放免されるならそれもよし、そうでなくってこの上何とかされるならそれももう仕方がないと思った。

 一応取調べは終った。もう、とうに夜になっていた。
 一人の私服がちょっと室のそとへ出たかと思うと、すぐ四、五人の荒らくれ男の制服がやって来て、いきなり僕の両手を鎖でゆわいつけて、引っぱり出した。
「いよいよ監房かな。」
 と思っていると玄関の方へ連れて行かれて、そこには一台の大きな荷物自動車と十人ばかりの巡査とが待っていた。そして、しゃにむに僕をその箱の中に押しあげて、十幾人かの巡査どもが続いて乗りあがるとすぐ自動車は走り出した。
 高い屋根のある大きな箱だ。中は真暗だ。僕は両手をゆわえられ、両腕や肩を握られながら、その片すみにあぐらをかいていた。
 折々奴等の吸う煙草のあかりで、奴等の顔が見える。どうもヨーロッパ人くさくない面つきの奴が多い。あるいはアフリカあたりの植民地の蛮民か、それとも植民地の兵隊との相の子か、と思われるような奴等だ。奴等はみな今どこかで喧嘩でもして来たような、ひどく昂奮した勢いでいた。そして何だか訳の分らない言葉でキャッキャッと怒鳴っていた。
 やがて、僕の一方の肩をつかまえていた奴が、熊のような唸り声を出して、僕の肩をこづき始めた。僕は形勢不穏と見てとって眼鏡をはずしてポケットに入れた。すると、僕のすぐ前にいた奴が、狐のような声を出しながら、僕の顔をげんこで突っつき始めた。そして、
「この野郎、殺しちゃうぞ」とか、
「支那人のくせにしやがって」とか、
「ドイツ人に買われやがったな」とか言う。
 多少はっきりしたフランス語のほかに、何のこととも分らないあるいは熊のような、あるいは猿のような、あるいは狐のような、いろんな唸り声や鳴き声が、僕の上に浴せかけられた。
 中には、サックの中からピストルを出して、それで僕の額を突くやら、剣を抜いて頭をなぐる奴まで出て来た。
 しかし行くさきはつい近くだったものと見えて、自動車はすぐにとまった。そして奴等は半分は前から僕を引きずりおろしながら、そして半分はうしろから僕をなぐるやら蹴るやらして、ある建物の中に押しこんだ。そこは同じセン・ドニの、ただ南北の区の違う、別な警察だった。そして入口のすぐ奥の広い室にはいると、そいつらが一どきに僕に飛びかかって来て、ネクタイやカラーやバンドや靴ひもを引きちぎって、そのまた奥の監房の中へ押しこんでしまった。
 僕はそのままぐっすりと寝た。
 翌日は朝早く二人の私服に護送されて、こんどは普通の自動車で警視庁へ行った。
 一日またきのうと同じようなことの取調べだ。そして僕が前にパリにいた時の宿屋をいつまでも頑ばって言わなかったら、四、五人で一緒に自動車に乗っけて、どこへ行くのかと思ったら、一々僕のもといた宿へ寄って、そこの主人やお神に顔をたしかめさせた。みんなもう知っていやがったんだ。
 そして帰って来ると、外事課の大きな室のそばに一室を構えている、たぶん課長だろうと思う、警視が、
「君は大杉栄と言うんだろう。」
 と図星をさしやがった。そこまで分っているんなら、もう面倒臭い、何もかも言ってしまえときめた。
 その警視が何かの用でちょっとほかへ行っている間に、さっき自動車で一緒に行った私服の一人が、
「日本でも、うんとメーデーをやったようだから安心したまえ。」
 と言いながら、共産党の日刊新聞『ユマニテ』のある小さな一部分を指さして見せた。「数十名の負傷者あり」というような文句がちらりと見えた。また、サン・ドニの僕のことに関する一段あまりの記事も見えた。
 それにはもとより僕の本名は出していなかった。それがどうして分ったのかよく分らなかったが、あとで聞くと、日本の大使館からあるいは僕じゃあるまいかというので誰かやって来たのだそうだ。そしてその前か後か知らないが、内務省の役人一人と兵庫県の役人一人と都合二人で、僕を探しにパリに来ていたのだそうだ。
 その私服は、まだ若い男だったが、その前後にもよくいろいろ親切にしてくれた。そこへ来る途中で買った煙草がもうなくなって困っていると、フランス出来のいやな煙草ではあるが、自分の持っているのを箱のままくれたりもした。また、あとでスペインの国境に向けて追放されようとした時にも、マドリッドよりもバルセロナの方に君等の仲間は多いんだからと言って、わざわざ地図や時間表などを探して来て、そこへ行く道筋や時間を教えてくれたりもした。
 が、その男のほかにもう二、三人代る代る僕のそばへ来て番をしている私服がいたが、そいつらの一人は実にいやな奴だった。
「おい、わざわざリヨンから出て来て演説したんだから、大ぶ貰ったろう。」
 というようなことを、たぶん戦争で受けた傷だろうと思う口のそばの大きな傷あとを妙に下卑て動かしながら、その口さきをすぐ僕の顔近くまで持って来て尋ねて見たり、また、
「おい、これはドイツで買ったんだろう。」
 と言いながら、僕がシンガポールで買って来たしかもイギリスのセフィルド製のマークのついているナイフを取りあげて、いつまでもそう頑ばっていたりした。そしてこれもドイツで買ったのだと言って、それと同じようなのを出して見せたりした。それがその証拠だと言うんだ。そして僕はドイツ政府から金を貰ってフランスの労働者を煽動しに来たのだと言うんだ。
 その他あんまりうるさい馬鹿なことばかりを言いやがるんで、お前のような奴とは話はごめんだ、あっちへ行ってくれ、と言ったら、大きな握拳を僕の顔の前に突きだして、
「このボッシュ(ドイツ人)の野郎!」
 と怒鳴っておどかしやがった。
「うん、なぐるならなぐって見ろ。」
 僕も少々癪にさわったんで、そう言って身構えしたが、さっきの私服がやって来てそいつをほかの室へ連れだした。
 本名をあかしたあとの取調べはごく簡単に済んだ。そして僕は一人の私服に連れられて、ほかの建物の中の五階か六階かの上の方へ連れて行かれた。そこで裸になって、身体検査を受けて、写真をとられるのだ。
 日本の警視庁では身長や体重を計って指紋をとるくらいのことだが、フランスではさすがもっと科学的に、頭蓋の大きさや長さを人類学的に調べた。そして指を延ばした手と前腕との長さまでも計った。写真も、横向きになって椅子に坐るとその椅子が自然に廻転して、正面に向くまでの間の全瞬間を活動的にとる仕掛になっていた。
 それが済むと、また別な建物の予審廷へちょっと行って、判事のごく簡単な取調べのあとで、またもとの建物の下の監房へ連れて行かれた。持物はみんな取りあげられたが、ただ煙草とマッチだけは持たしてくれた。
 僕はこの二つのことに感心しながら、すぐベッドの上に横になって煙草をふかしているうちにいつの間にか眠ってしまった。
 大ぶ疲れてもいたんだろうが、警察や警視庁の留置場へぶちこまれた時にはすぐ横になって寝てしまうのが、僕の長年の習慣になっていたのだ。


 その翌日、すなわち三日の朝には、十五、六人の仲間? と一緒に、大きな囚人馬車二台でラ・サンテ監獄に送られた。
 ラ・サンテ監獄は、未決監であるとともに、また有名な政治監なのだ。僕がまだ途中の船の中にいた頃に、どこでだったか忘れたが、フランスからの無線電信で、首領カシエンを始め十幾名の共産党員がそこにおし籠められたことを知った。それもまだいる筈だった。また、僕がフランスに来てからも、その以前からいる幾名かとともに、十数名の無政府主義者がそこにはいっていた。

 煙草とマッチとはやはりまた持ってはいらした。そして日本だと、星形の建物のまん中のいわゆる六道の辻から布団をかつがして行くのだが、ここではいずれも薄ぎたない寝まきのシャツらしいのと手拭らしいのとを持たして行く。
 僕は監獄のひやかしのような気になって、広い廊下の右や左をうろうろ眺めながら、看守をあとにして歩いて行った。
 僕の室は第十監第二十房という地並みの大きな独房だった。二間四方だから、ちょうど、八畳敷だ。それに窓が大きくて明るい。下の幅が五尺ぐらいで、それが三尺ぐらい上までそのままで進んで、その上がさらに二尺ぐらい半円形に高くなっている。
 こんな大きな窓は、僕が今まで見たあちこちのホテルでも、一流の家のほかは滅多になかった。もっとも、惜しいことには、それがようやく目の高さぐらいの上の方から始まってはいたが。
 その後運動の時に知ったんだが、こんな窓は地並みの室だけで、二階三階四階の室々のはその半分より少し大きなくらいだった。
 窓からはすぐそばに高い塀が見えて、その上からそとのマロニエの梢が三本ばかりのぞいていた。もう白い花が咲いていた。
 西向きのこの窓の左には壁にくっついて小さな寝台が置いてあった。ちゃんと毛布を敷いてあったが、ちょっと腰をかけて見てもスプリングはかなりきいていた。毛布も僕が前にいたベルヴィルの木賃宿のよりはよほどよかった。
 右側の壁には、やはりそれにくっついて、テーブルが備えつけてあった。そしてその前には、行儀よく、木の椅子が坐っていた。
 このテーブルに向って左の入口の方の壁には、二つの棚が釣ってあって、そこに茶碗だの、木のスプーンだの、やはり木のフォークだのが置いてあった。
 そして同じ壁の入口の向うの、寝台の足の方の隅には、上に水道栓が出ていて、その真下に白い瀬戸物の便所が大きな口を開いていた。便所の上で食器も洗えば、顔も洗える仕掛になっているのだ。これだけは少々閉口だなと思った。
 床板はモザイクまがいに、小さな板きれをジグザグに並べた、ちょっとしゃれたものだった。
 なるほどこれなら、アナトール・フランスのクレンクビュが、「床の上で飯を食ったっていいや」と言ったのももっともだと思った。そして、いつかパリで見たクレンクビュの活動写真で、このボテふりの親爺が初めて牢に入れられて、ポカンとしたしかし嬉しそうな顔をしながら室の中を眺め廻している姿を思いだした。
 僕はまずこの室がひどく気に入ってしまった。そして一と通りの検分がすむと、さっきスプリングを試して見た寝台の上にごろりと横になって、煙草に火をつけた。

 しばらくすると、看守が半紙二枚くらいの大きさの紙を持って来て、それをテーブルの上の壁にはりつけて行った。
 活版刷りだ。「酒保売品品目および価格」と大きな活字で刷って、その下に「消耗品」と「食品」との二項を設けて、いろいろと品物の名や値段を書きつけてある。
 インク、紙、ペン、頭のブラシ、着物のブラシ、鏡、石鹸、スポンジ、ポマード、タオル、巻煙草、葉巻、刻み煙草というように、普通の人間の日常要るものは大がいならべてある。
 また、パン、ビフテキ、ローストビーフ、ソーセージ、オムレツ、ハム、サーディン、マカロニ、サラダ、キャフェ、チョコレート、バター、ジャム、砂糖、塩、米というように、普通の食品を二十ばかりならべた上に、なお数種の果物と葡萄酒とビールとまでがはいっている。
 そしてその上になお、毎日酒保から食事をとりたいもののために、一週間の朝晩の献立表が出ている。ちょっとうまそうな御馳走が一品ずつならべられて、それでもまだ足りないもののために、夕飯にはもう一品ずつの補いをつけ足している。
 もっとも、これはすべて未決の人間にだが、しかし既決の囚人にでもほんの少々の制限があるだけのことだ。たとえば、一週間に三回しか肉類の御馳走は与えないとか、葡萄酒やビールには一日六十センチリットルを超えてはいけないとかいうくらいのものだ。
 僕はさっそく入口の戸を叩いて、廊下の看守を呼んだ。そしていろんな日用品を注文した上に、食事も毎日とってくれるようにと頼んだ。
「それはうちのレストランからかい、それともそとのレストランかい。」
 兵隊あがりらしい、面つきやからだは逞ましいが、そしていつも葡萄酒の酒臭い息を吐いているが、案外人の好さそうな看守が、よほど注意して聞いていないと分らないような変ななまりのフランス語で尋ね返した。
 僕はうちのよりもそとの方がいいんだろうと思って、そとのだと答えた。
 すると、やがて普通のレストランのボーイのような若い男がやって来て、メニュの小さな紙きれを見せて、昼食の注文をしろと言う。見ると、十品ばかりいろいろならべてある。僕はその中から四品だけ選んで、なお白葡萄酒のごく上等な奴をと贅沢を言った。ボーイはかしこまって引き下った。
 僕はすっかりいい気持になってしまった。この分だと、月に四、五十円もあれば、呑気にこうして暮して行けそうなのだ。

 が、その白葡萄をちびりちびりやりながら、昼飯の四品を平らげて、デザートのチョコレートも済んで、また寝台の上で、こんどは葉巻きを燻ゆらしていると、初めてでもないが、とにかくうちのことを思いだした。
 もう今頃は新聞の電報で僕のつかまったことは分っているに違いない、おとなどもはとうとうやったなぐらいにしか思ってもいまいが、子供は、ことに一番上の女の子の魔子は、みんなから話されないでもその様子で覚って心配しているに違いない。
 いつか女房の手紙にも、うちにいる村木(源次郎)が誰かへの差入れの本を包んでいると、そばから「パパには何にも差入物を送らないの」とそっと言ったとあった。彼女をだますようにして幾日もそとへ泊らして置いて、その間に僕が行衛不明になってしまったもんだから、彼女はてっきりまた牢だと思っていたのだ。そして、パパは? と誰かに聞かれても黙って返事をしないかあるいは何かほかのことを言ってごまかして置いて、時々夜になるとママとだけそっと何気なしのパパのうわさをしていたそうだ。僕はこの魔子に電報を打とうと思った。そしてテーブルに向って、いろいろ簡単な文句を考えては書きつけて見た。が、どうしても安あがりになりそうな電文ができない。そしてそのいろいろ書きつけたものの中から、次のような変なものができあがった。

魔子よ、魔子
パパは今
世界に名高い
パリの牢やラ・サンテに。

だが、魔子よ、心配するな
西洋料理の御馳走たべて
チョコレートなめて
葉巻きスパスパソファの上に。

そしてこの
牢やのお蔭で
喜べ、魔子よ
パパはすぐ帰る。

おみやげどっさり、うんとこしょ
お菓子におべべにキスにキス
踊って待てよ
待てよ、魔子、魔子。

 そして僕はその日一日、室の中をぶらぶらしながらこの歌のような文句を大きな声で歌って暮した。そして妙なことには、別にちっとも悲しいことはなかったのだが、そうして歌っていると涙がほろほろと出て来た。声が慄えて、とめどもなく涙が出て来た。

 しかし僕も、はいった初めから出る時まで、こんな御馳走ばかり食べていたのではない。
 ちょうどはいる前の日に、『東京日日』の記者から原稿料の幾分かを貰っていたものだから、二、三カ月はどんなに贅沢をしたところで大丈夫だと思っていると、四、五日して看守がもう僕のあずけ金がないと言って来た。そんな筈はない、と言いはってなお調べさせて見ると、はいる時に持っていた金の大部分は裁判所で押えてしまったのだと分った。やはりドイツからでも貰った金だと見たのだろう。
 仕方がない。それからは当分牢やのたべ物でがまんした。
 朝八時頃になると、子供の頭ぐらいの黒パンを一つ、入口の食器口から入れてくれる。黒パンである上に、さらに真っくろに焦げつかして、まだ少し暖かみがある。が、味はない。ぼそぼそもする。僕は二た口か三口でよした。
 前にベルヴィルの貧民窟にいた時、自炊をして、よく近所のパン屋へパンを買いに行ったのだが、黒パンはどこのパン屋にもつい見かけたことがなかった。パリではそんなパンを食う人間はまずないのだ。
 それから一時間か二時間すると、大きな声で「スープ! スープ!」と怒鳴りながら、ガラガラ車を押して、そのいわゆるスープをくばって歩く。アルミのどんぶりの中に、ちょっと塩あじのついた薄い色の湯が一ぱいはいっていて、上にあぶらがほんの少々ながらきらきら浮いてい、下には人参の切れっぱしやキャベツの腐ったような筋が二つ三つ沈んでいる。これも初めの日にはちょっと甜めて[#「甜めて」はママ]見たきりで止した。
 さらに午後の三時から四時頃になると、やはり同じようなどんぶりに、こんどは豆の煮たのを持って来た。そしてその次の日にはジャガ芋の煮たのを持って来た。僕は豆も芋も好きなので、これだけは初めから食った。そしてさらにその次の日には、米のお粥の中に牛肉のかなり大きな片がはいっているのを持って来た。が、その肉はとても堅くて、噛んだあとは吐き出さずにはいられなかった。
 このお粥と肉は一週に二度ついた。
 これが牢やの御馳走の全部なのだ。最初の間はそんな風でろくに食べずにいたが、しかしそれでは腹がへって仕方がないので、辛棒しいしいだんだんに食って行った。そして終いには、一日分の筈の黒パンも来るとすぐにみな平らげてしまい、二度のどんぶりも綺麗に甜めずって[#「甜めずって」はママ]しまったが、やはりまだそれだけでは腹がへって仕方がなかった。そしてお湯一つくれないので、つい幾度となく水道の水をがぶりがぶりとやっていた。


 はいった翌日、トレスという弁護士から手紙が来た。共産党のちょっとした名士で、いろんな革命派の人々の弁護をいつも引受けている弁護士だ。僕も名だけは知っていた。コロメルが頼んだのだ。
「予審判事へ僕が君の弁護を引受けたことを知らしてくれ。そしてもし予審廷へ不意に呼ばれるようなことがあったら、僕が立合いの上でなければいっさい訊問に応ずることはできないと言え。」
 この手紙は封じたままで僕の手にはいった。僕はそれも面白いと思ったが、それよりもなおこの「立合いの上でなければ」というのが面白いと思った。
 僕はすぐ判事と弁護士とに手紙を書いた。判事の方のは開き封のままだが、弁護士への分はやはり封じて出せとのことだった。
 その後トレスが面会に来たが、弁護士との面会は監視の役人なしだった。お互いに何を話そうと、何を手渡ししようと、勝手なのだ。
 これなら、金さえあれば、いくらでも、偽証もでき、また証拠の湮滅もできそうだ。泥棒がその盗んだ金を弁護士に払って、それで無罪になって、また新たに弁護士に払うための新しい金もうけの仕事にとりかかるようなことができそうだ。

 差入れの食事もとれず、煙草も買えず、読む本もなし、となってからは、毎日ただベッドの[#「ベッドの」は底本では「ベツドの」]上で寝てくらした。よくもこんなに寝れるものだと思ったくらいによく寝た。
 真っぴる中寝床の中へなぞはいっていては悪いんじゃないかしらとも思ったが、叱られたら叱られたその時のことと思って、図々しく寝ていた。
 が、日本の牢やとは違って、看守は滅多にのぞきに来なかった。朝起きるとすぐ、それも何の相図も号令もないのだが、看守が戸を開けて、中のごみを掃き出させる。それが一と廻り済むと、運動場へ連れて出た。それからは前に言った三度の食事にたべ物を窓口まで持って来るほかには、ほとんど誰もやって来ない。日本のようには、朝晩のいわゆる点検もない。ただ、夕方一度、昼の看守と交代になる夜の看守がちょっと室の中をのぞきに来るぐらいのものだ。
 看守されているんだというような気持はちっともしない。本当に一人きりの、何の邪魔するものもない、静かな生活だ。
 しかし、そうそう寝てばかりいれるものでもない。時々は起きて、室の中をぶらぶらもする。その時の僕の呑気な空想を助けたものは、四方の壁のあちこちに書き散らしてある落書だった。
 大がいはみな同じ形式のもので、
Ren※(アキュートアクセント付きE小文字) de Montmartre(モンマルトルのルネ)
 tomb※(アキュートアクセント付きE小文字) pour vol(窃盗のために捕まる)
   1916(一九一六年)
 とあるようなのが普通で、そのルネという名がマルセルとなったり、モオリスとなったりして、そしてそのモンマルトルというパリの地名は多くはそれかあるいはモンパルナスだった。そこは、ちょうど本所とか浅草とかいうように、そういう種類の人間の巣窟なのだろう。
 また、その名前の下に、
dit l'Italien(通り名、イタリア人)
dit Bonjours aux amis(通り名、友達によろしく)
 というようなあだ名がついていた。このあとのは殺人犯だったが、まだ同じ殺人犯の男で、「鉄腕」というあだ名があったり、その他いろんなのがあったが、今はもう忘れてしまった。
 その他にもまだ、
Encore 255 jours ※(グレーブアクセント付きA小文字) taire.(まだ二百五十五日だんまりでいなくちゃならない)
Vive d※(アキュートアクセント付きE小文字)cembre 1923.(一九二三年十二月万歳)
 といったように、放免の日を待ち数えたのや、また、
Ah ! 7 ! Perdu !(ああ、七だ、おしまいだ!)
 と書いて、そのそばに四の目の出た骰子と三の目の出た骰子と二つ描いてあるのもあった。何か不吉の数なのだろう。
 それから、これは日本なぞではちょっと見られないものだろうが、
Riri de Barbes(バルブのリリ[#「バルブのリリ」は底本では「何とかのようなやくざものの」]
Fat comme poisse(何とかのようなやくざものの[#「何とかのようなやくざものの」は底本では「バルブのリリ」]
Aime sa femme(その妻)
dit Jeanne.(ジャンを愛する)
 というのや、また、
Emile(エミル)
Adore sa femme(命にかけて)
pour la Vie.(その妻を恋いあこがれる)
 という熱心なのもあった。
Ce qui mange doit produire(食うものは生産せざるべからず)
Vive le soviet.(ソヴィエト万歳)
 とあって、その下にわざわざボルシェヴィキと書いてあるのもあった。
 僕も一つ面白半分に、
E. Osugi.(エイ、オスギ)
Anarchiste japonais(日本無政府主義者)
Arr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字) ※(グレーブアクセント付きA小文字) S. Denis(セン・ドニにて捕わる)
Le 1 Mai 1923.(一九二三年五月一日)
 と、ペン先きで深く壁にほりこんで、その中へインクをつめてやった。

 予審へは一度呼び出された。
 まだ弁護士の来ない間に訊問を始めようとしたので、さっそく例の手で両肩をあげて見せた。判事はあわてて書記に命じて弁護士を探しにやった。
 取調べは実に簡単なものだった。というよりもむしろ、大部分は判事と弁護士との懇談のようなものだった。
 警視庁からの罪名書きには、暴力で警官に抵抗したという官吏抗拒罪や、秩序紊乱罪や、旅券規則違反罪や、浮浪罪などといういろんな出たらめが並べてあったが、予審判事はその中の旅券規則違反についてのことだけしか尋ねなかった。そうする方が一番面倒もなかったのだろう。

 そしてどこからどう聞いて来たか、あなたのお父さんは陸軍大佐だったそうですね、といったようなことを大ぶ丁寧に聞いた。実は少佐なのだが、せっかくそんなに大佐をありがたがっているものならそう思わして置けと思って、僕もそうですとすまして答えた。その他にも、もと相当な社会主義者で東洋方面の社会運動に詳しい、そして今は保守党の『レクレエル』という日刊新聞の主筆になっている何とかいう男が、僕のことを大ぶえらい学者ででもあるかのようにその新聞で書き立てたそうなので、判事も大ぶ敬意を払っていたのだそうだ。

 最初弁護士の話では、裁判所側はリヨンの方やその他いろんな方面を取調べなければならんので、公判までにはまだ一、二カ月かかるだろうということだったが、予審の日に弁護士が保釈を請求して、いろいろ判事と懇談の末、保釈は却下されることとなってその代りすぐ公判を開くことに話がついた。
 公判は、予審の調べから一週間目の、五月二十三日に開かれた。
 十四、五人の被告がボックスの中に待っている間に、傍聴人がぞろぞろと詰めかけて、やがてリンの響きとともに、よぼよぼのお爺さん判事が三人とそのあとへ検事とがはいって来た。
 裁判官等のうしろの壁には、正義の女神の立像が、白く浮きぼりに立っていた。
 裁判長はすぐそばにいる僕等にすらもよく聞きとれないような、歯なしのせいのただ口をもぐもぐするような口調ですぐ裁判を始めた。
「お前はいつ幾日どことかで何とかしたな。……よろしい。それでは……」
 とちょっと検事の方を向いて、そのうなずくのを見ると、こんどは両方の判事に何か一こと二こと言って、
「それでは、禁錮幾カ月、罰金いくら。その次は何の誰……」
 というような調子で、一瀉千里の勢いで即決して行く。
 僕の番は六、七人目に来たが、やはりそれと同じことだった。
「お前はいつ幾日か、にせの旅券とにせの名前でフランスにはいったに相違ないな。」
「そうです。」
「それについて別に何か言うことはないか。」
「何にもありません。」
「それじゃその事実を全部認めるんだな。」
「そうです。」
 それで問答はおしまいだ。検事は何も言うことがないと見えて、黙って裁判長にうなずいた。
 そして弁護士が二十分ばかりそのお得意の雄弁をふるったあとで、
「よろしい。禁錮三週間。罰金いくらいくら。次は何の誰……」
 裁判長がそう判決を言い渡すと、僕等のうしろに立っていた巡査の一人が、さあ行こうと言って一緒にそとへ連れて出た。
 フランスでは、未決拘留の日数は三日間をのぞいたあとをすべて通算する。で、僕はその日に満期となって、翌日は放免の訳だ。
 あっけのないことおびただしい。

 裁判所の下の仮監では、この日同じ法廷で裁判される四、五人の男と一緒にいた。
 裁判の始まるのを待つ間、みんなガヤガヤと自分の事件についての話をしあっていた。実はこうこうなんだが、そこをこう言ってうまく逃げてやろうと思うんだとか。いや、実につまらん目にあいましてな、こうこう言うつもりのがついこんなことになってしまいましてとか。なあに、そんなことなら何でもない、せいぜい三月か四月だとか。話は日本の裁判所の仮監のとちっとも違いはない。そしてその大がいは、何百フランとか何千フランとかをどうとかしたという、金の話ばかりだ。それも、ちょっとした詐偽だとか、費いこみだとかの、ちっとも面白くない話ばかりだ。
 で、僕は黙って、薄暗い室の中の壁の落書を、一人で調べていた。
A bas l'avocat officiel !(くたばっちゃい官選弁護士の野郎)
 というのが二つ三つある。その他は牢やの監房で見たのと同じようなことばかりだ。女房の誰とかを恋するとか、生命にかけてブルタニュ女の誰とかを崇めるとかいうのも、幾つも書いてあったが、その女房かブルタニュ女かの肖像をなかなかうまく描いているのもあった。変な猥※[#「褒」の「保」に代えて「執」、113-3]な絵もあった。
 そんなのを一々詳細に読んで行く間に、
「おい、君は何だ、泥棒か。」
 と、僕の肩を叩く奴がある。さっきからしきりに、みんなに、君は幾カ月、君は幾カ月と刑の宣告をしている、前科幾犯面の奴だ。
「あ、まあそんなものだね。」
 といい加減にあしらってやると、
「そうか、何を盗んだんだ。君は安南人か。」
 とまた聞く。そうなって来るとうるさいから、僕も、
「いや、僕は日本人だ。」
 と、こんどは本当のことを言う。
「日本人で泥棒? それや珍らしいな。いつフランスへ来たんだい?」
 前科幾犯先生はますますひつこく聞いて来る。僕はこの上うるさくなってはと思って、
「まだ来たばかりさ。そしてメーデーにちょっと演説をして捕まったんさ。」
 と、本当のまた本当のことを言った。
「そうか、じゃ政治犯だね。」
 先生はそう言ったきりで、また向うをむいてほかの先生等と何か話ししはじめた。
 すると、今までみんなの中にははいっていたが、黙ってほかのもののおしゃべりを聞いていた、一方の手の少し変な四十ばかりの男が僕のそばへやって来た。
「あなたもメーデーでやられたんですか。僕もやはりそうでコンバで捕まったんですけれど、あなたはどこででした。」
 その男は見すぼらしい労働者風をしていたが、言葉は丁寧だった。コンバと言えば、C・G・T・U本部のすぐそばの広場だ。そしてそこにはル・リベルテエルの連中の無政府主義者がうんと集まっていた筈だ。で、僕はこれはいい仲間を見つけたと思って、そこの様子を聞こうと思った。
「僕はセン・ドニでやられたんだが、コンバの方はどうでした?」
「それや、ずいぶん盛んでしたよ。演説なんぞはいい加減にして、すぐ僕等が先登になってそとへ駈けだしましてね。電車を二、三台ぶち毀して、とうとうその交通をとめてしまいましたよ。」
 この男もやはり無政府主義者で、もとは機械工だったんだが戦争で手を負傷して、今は何やかやの使い歩きをして食っているのだった。そして、去年もやはりコンバで大ぶあばれたんだそうだが、その時には一人も捕まらずに済んで、彼も無事に家に帰った。が、ことしは警察がばかに厳重で、あばれかたは去年と大差はなかったのだが、百人近く捕まったのだそうだ。
「ことしは警察も大ぶ乱暴だったが、裁判所も厳重にやるって、弁護士が言ってましたよ。あなたの方は、それじゃ、追放だけで済むんでしょうが、僕はまあ半年ぐらい食いそうですね。」
 こんな話をしている間に、みんなは法廷に引きだされたのであった。そして僕が仮監へ帰って来ると、間もなくその男も帰って来た。
「あなたもすぐ出れますね。僕も今晩出ますよ。やっぱり六カ月食うには食ったんですが。でも、この名誉のてんぼのお蔭で、弁護士がしきりにそれを力説しましてね、お蔭で二カ年間の執行猶予になりましたよ。」
 彼は嬉しそうにしかし皮肉に笑いながらはいって来て、僕の手を握った。そして、間もなくまたみんなは仮監から出されて、馬車で監獄へ送られた。


 翌二十四日の朝、巡査に送られて裁判所の留置場へ行った。
「グラン・サロン(大客室だいきゃくま)へ!」
 と言われたので、どんなサロンかと思って巡査について行くと、前にいた留置場のそばの、やはりそこと同じような鉄の扉をがちゃがちゃと開けて押しこまれた。
 なるほど大広間には違いない。椅子をならべて演説会場にしても、五百や六百の人間はらくにはいれそうな広さだ。昔は、この裁判所は、そのそばの警視庁などと一緒に、何とか王の宮殿だったのだそうだから、その頃の何かの大広間なのだろう。床はたたきになっているが、そこに大理石の大きな円柱が三、四本立っていて、天井なんぞもずいぶん立派なものだ。はいって見ると、あっちにもこっちにも、五、六人乃至七、八人ずつかたまって、何かおしゃべりしている。僕はその一団の、少し気のきいた風をした若い連中のところへ近づいて行った。
 みんなはフランス語で話ししているが、その調子にどこか外国人らしいところがある。顔もフランス人とは少し違う。
「君も追放ですね。」
 その中の背の高いイタリア人らしいのが、僕の顔を見るとすぐ問いかけた。
「ああ、そうですか、僕等もみんな追放なんです、まあ、一ぷくどうです?」
 そしてその男は煙草のケースをさし出しながらこう言った。
 いろいろ話はして見たが、別にどうという悪いことはした様子もない。が、とにかくちょっと牢にはいって、今追放されるのだと言うんだから、いずれ旅券か身元証明書の上の何かの不備からなのだろう。そしてその色男らしい風采や[#「風采や」は底本では「風釆や」]処作から推すと、どうも「マクロ」らしく思われた。マクロというのは、淫売に食わして貰っている男のことだ。
 が、その男等は誰一人として、イタリアやスペインやポルトガルなぞの、自分の国へ帰ろうというものはない。また、そのほかのどこかの国へ行こうというものもない。みな、このままフランスに、しかもパリに、とどまっているつもりらしい。
「追放になっても、国境から出なくっていいんですか。」
 僕は、みんなあんまり呑気至極に構えているので、不思議に思って尋ねた。
「ええ、追放になって、出て行くような奴はまあありませんね。今から上へ呼ばれて行って追放命令を貰って、それでもういいからって放免されるんでしょう。あとは、どこへ行こうと、どこにいようと、勝手でさあね。」
 その男は、彼等を不審がっている僕をかえって不審がるようにして、答えた。そして彼等の中の二人までも、これで二度目の追放なのだと附加えて言った。
 僕はまた、追放と言えば、いつかロシア人のコズロフの時に見たように、一週間とか幾日とかの日限を切って、その間多少の尾行をつけて厳重に警戒するのだろうと思っていた。ところが、何のこった。ただ一枚の書きつけを貰って、さあ勝手に出て行け、と突っぱなされるのなら、実際幾度食ったって何のこともないと思って安心していた。
 やがてその男等は呼ばれて、上へ行った。そして順々に、今からどことかの監獄に送られるのだといういろんな奴が呼ばれて行ったが、僕は最後まで残された。
 ついに僕の番が来た。が、僕は上へは連れて行かれずに、最初来た時に持物を調べられてそれを預けて来た、入口の小さな室に入れられた。そしてそこには、さっきの外国人どもが、もうその所持品を貰って出かけようとしているところだった。
「上の方は済みましたか。」
 色男のイタリア人が尋ねた。
「いや、まだです。」
「それじゃ、君は追放じゃないんです。すぐ自由になるんですよ。」
 色男等はそう言って出て行った。僕は、それを信ずることもできなかったが、しかし僕だけこうして残されるのはどうした訳だろうかと、こんどは少々不安になった。

 そしてはたして僕はそのまま放免はされずに、所持品を受取るとすぐ、また一人の巡査に連れられて警視庁へ行った。そしてしばらく、また初めの時と同じような身体検査や何かでひまどって、昼頃になってようやく官房主事のところへ行って、そこで内務大臣からの即刻追放の命令を受けた。
 本当の即刻なのだ。今からすぐ、尾行を一人連れて、出て行けと言うんだ。
「とにかくすぐフランスの国境から出ればいいのだが、都合で東の方の国境へは出ることを許さない。すると西の方だが、それだとスペインへ行くほかない。それでどうだ?」
 どうだもへちまもあるものじゃない。行くほかはない方へ行くより仕方はないのだ。が、スペインなら結構だ。ぜひ一度は行きたいと思っていた国だ。
「結構です。しかし、スペインへ行くにしても、勿論日本の官憲の旅行免状が要るんでしょう。それはどうするんです。」
「それはこっちで大使館とかけ合って貰ってやる。それじゃ向うで待っているがいい。」
 ということになって、僕は前にもお馴染の外事課の広い室に連れて行かれた。

 百人近くの私服どもがそれぞれ机に向って、みな同じような紙きれを袋から出したり入れたりして調べている。その袋の表には何の誰という人の名前が書いてある。きっとそれがみんな日本で言えば要視察人とか要注意人とかいう危険人物なのだ。一つの袋の中には幾枚もの紙きれが、どうかすると十枚も二十枚もの紙きれが、はいっているようだ。
 みんなは、その室の真ん中に腰かけさせられている僕を時々じろりじろりと見つめながら、その紙きれを調べている。やはり、日本のそうした奴等と同じように、ろくな目つきの奴は一人もいない。みなラ・サンテの監獄で見た泥棒や詐偽と同じような、あるいはそれ以上の面構えをしている。
 が、もう正午だ。みなぞろぞろと昼飯を食いに出かけ始める。僕はすぐそばにいた男に、俺の昼飯はどうしてくれるんだ、と尋ねた。その男は主任らしい男のそばへ立って行った。そして帰って来て、何でも欲しいものを言え、とって来てやると答えた。それじゃ、と言って、僕は例の贅沢をならべ立てて、それから極上の白葡萄酒を一本と註文した。
 四、五人は代る代るに残っていたが、二時頃にはみんなまた帰って仕事を始めた。
 大使館へ行った使いの私服はまだ帰って来ない。僕は幾度も官房主事のところへ使いをやったが一向要領を得ない。
 待ちくたびれもし、たいくつでもあり、始終ぎょろぎょろといろんな奴等に見つめられているのも癪にさわるので、僕はろくに飲めもしない葡萄酒を絶えずちびりちびりとラッパでやっていた。
 四時頃になって、ようやく官房主事からの迎いが来た。そしてその室へ行って少し話しているところへ、背の高い大男の、長い少しぼんやりした顔の日本人が一人、先きに大使館へ使いに行った男と一緒にはいって来た。かつて名だけは聞いていた大使館一等書記官の杉村何とか太郎君だ。
 杉村君はちょっと官房主事と挨拶したあとで、僕と話ししたいのだが許して貰えようかと尋ねた。主事は僕等のために別室の戸をあけた。
「今ここからの使いで初めて追放ということを知って駈けつけて来たんですが、僕もできるだけはあなたの便宜のためにここと交渉して見ようと思うんです。」
 杉村君はこう言って、何とか取りなして見たいということを詳しく話した。大使館は日本の政府から僕にいっさいの旅券を出すことを禁ぜられたのだ。したがってスペイン行きの旅券も出すことはできない。で、僕については大使館で責任を持つことにして、もう数カ月間追放を延ばして貰おうというのだ。
 杉村君はそのことをすこぶる鄭重な言葉で主事に嘆願するように言った。が、主事はいったん出た命令はどうしても取消すことができないと頑ばった。
 で、杉村君はもう一度大使館へ行って相談して来ると言って帰った。

 僕は主事に、大使館で旅券をくれなければ、よし僕が今フランスの国境を出たところで、スペインの官憲がその国内に僕を入れるかどうかと尋ねた。
「さあ、それはよその国のことだから、僕には分らない。」
「それじゃ、もしスペインで僕を入れなければ、僕はどうなるんだろう。」
「僕の知っているのはただ、君がそれでまたフランスの国境内にはいって来れば、すぐつかまえて牢に入れるということだけだね。」
 僕は主事のこの返事を聞いて、昔、語学校時代に、フランス人の教師が話して聞かしたちょっと面白い話を思いだした。それは、泥棒が国境近くでつかまえられそうになると、向うの国境内へ逃げて行って、そこから赤んべいをしたり舌をだしたりして、どうともすることのできない巡査を地団太ふましてからかうと言うのだ。そして僕は、
「そうなると僕は、スペインの牢にはいるか、フランスの牢にはいるか、それともスペインとフランスとの国境にまたがっていて、スペインの巡査が来たらその方の足を引っこまし、フランスの巡査が来たらその方の足を引っこまして、幾日でもそうしたまま立ち続けるようなことになるんだね。」
 と笑ってやった。が、主事は、
「まあそんなものさね。」
 ときまじめに済ましていた。

 僕はまた二、三時間もとの室で待たされた。そしてはたして杉村君がまたやって来たのかどうか分らなかったが、たぶんそのとりなしのせいだろうと思う、また主事室へ呼び出されて、これからすぐマルセイユへ出発しろと命ぜられた。
「誰にも会うことはできない。すぐ私服と一緒に停車場へ行って、第一の汽車で出発するのだ。」

 ガアル・ド・リヨンの停車場へ自動車で着いたのは、ちょうど八時幾分かの急行の出る少し前だった。
 私服は汽車の出るのを見送って引っ返したようだった。
 マルセイユの警察へは僕の出発と到着との時刻を電報してあるからと言うのと、生じっか立寄ってまた迷惑をかけてもと思って、リヨンには寄らずに、翌朝マルセイユに着いた。が、マルセイユでは、別に制服も私服も迎いに出ているような様子はなかった。
 僕は宿をとるとすぐ、領事館へ行った。領事の菅君はまだ新任早々で、一週間ばかり前までは杉村君の下に働いていたのだった。
 菅君はマルセイユの警察へ行って、第一の船で出帆するという命令のその「第一」というのを日本船のと念を押して来、また郵船の支店へ行って旅券なしで切符を買える談判をして来て、ちょうどそれから一週間目に出る箱根丸で日本へ帰る都合をつけてくれた。
 僕はその間にうちへも電報を打ち、パリやリヨンの友人等にも電報や手紙を出して、その日までに立てる準備をした。そして僕が何の心置きもなく安心してその準備に取りかかれたのは、僕の友人や同志が誰一人僕のまき添えとしての迷惑を大して受けていなかったことだ。

 即刻追放というんで、パリではあんなに厳重だったのだから、ここでもたぶん警戒がうるさかろうと思っていた。そして、そのうるささを多少でも避けるつもりで、ことに選んで一番いいホテルに泊った。
 が、一日い、二日いして、いろいろと注意して見ているのだが、何の警戒もあるらしい様子がない。ホテルででも取扱いに何の変りもない。そとへぶらぶらと出ても、別に誰もつけて来る様子はなく、帰ってもどこへ行って来たとも誰も尋ねない。
 領事がそれとなく警察で聞いて見たのだそうだが、実際停車場へは誰も僕を迎いには出なかったとのことだ。もっとも、ちょうどその汽車の中で大きな泥棒があって、そのために大ぶごたごたしてはいたそうだが、それが僕を迎いに出なかった理由になろうとも思われない。そして、到着早々僕は警察に出頭しなければならない筈なのだそうだが、それもわざわざ領事が行っていろいろと話しして来たのだから、この上出頭するにも及ぶまいという領事の話だった。
 こうなると、僕は裁判所下のグラン・サロンでの、色男等の話を思いださない訳には行かなかった。特別に大ぶ厳重だった僕の追放が、人なみのいい加減なものになったのだ。そう言えば、いつか、ル・リベルテエル社へ来た、ハンガリイの同志なども、追放になったとは言うものの、僕がその近所にいた四、五日はまだ呑気にぶらぶらしていた。また、弁護士も、判決のあったあとで、「それじゃまた……」とか何とか呑気なことを言って、出て行ってしまった。
 これが普通なのだとなれば、何も「即刻」なぞという言葉を真に受けて、あわてて出て行くこともない。いったんは、もう帰されたっていい、とも思い、またそう思ったので演説なんぞをやっても見たのだが、こうなるとまた未練が出て来る。
「うちからか、パリからか、どっちかから金の来次第、一つ逃げだしてやろうか。そしてこんどは、まったくの不合法イルレガルで、勝手に飛び廻ってやろうか。パリへも帰ろう。ドイツへも行こう。イタリアへも行こう。その他、行けるだけ行って見よう。」
 僕はこう考えて、一晩ゆっくりとその計画に耽った。と言っても、別に面倒なことはない。かつてもそれを考えて、その方法をいろいろときめたことまでもあるのだ。要するに、少々の金さえあれば、らくに行けることなのだ。
 僕はほとんどそうきめて、それからは毎日、半日か一日がかりのちょっとした遠出を試みて、警戒のあるなしをさらにたしかめようとした。
 警戒はたしかにない。そして僕はマルセイユのある同志を訪ねて、そっとその相談をした。方法はたしかにある。
 これなら、金のつき次第だと思っているところへ、僕がまだ捕まらない前にうちから寄越した手紙が、ある方法で僕の手にはいった。それで見ると、どうしても急に帰らなければならないような、いろんな事情だ。で、仕方がない、おとなしく帰ろう、と残念ながらまたきめ直した。

 いよいよ船の出る前々日、次のような借用証一枚に代えて、横浜までの二等切符を一枚、領事から受取った。

   借用証
一金五千何法也
右正に借用候也
 月 日     大杉 栄
  菅領事殿

 そしてその翌日、うちから、三等の切符代とすれすれぐらいの金が来た。で、それで大急ぎで女房や子供等への土産物を買って、船に乗りこんだ。
 いよいよ船に乗りこむ時には、ちょっと警察へ挨拶に行く方がよかろう、という領事の話だったので、まず差支えのない荷物だけを持って夕方警察へ出かけた。船はあしたの朝出るのだから、それまでにあとの荷物は友人に持って来て貰うことにした。そしてとにかく警察へ行って、それから船へちょっと行って室だの寝台だのの番号をたしかめて、さらにまた引帰してもう一晩友人等とお別れの遊びをしよう、というつもりだったのだ。
 警察では、パリの警視庁から来た長文の電報を前に置いて、いろいろと取調べのあった末に、私服を一人つけて、船へ一緒にやらした。
 僕は船の中でのいろんなことがきまると、友人等と一緒に飯を食う約束のうちへ行こうと思って、船から降りようとした。すると、さっき僕について来た私服が、ほかに三人ばかりの私服と一緒に昇降口の梯子のところに突っ立っていて、通さない。
「もう船に乗った以上は、降りることはできない。国境から出てしまったんだ。降りれば、再びまた国境にはいったものとして、六カ月の禁錮に処する。」
 そんな馬鹿なことがあるもんか、それならそうと何故さっきそう言わないんだ、といろいろに抗弁して見たが、要するに何とも仕方がない。
 僕は船のボーイに電話をかけさせて、友人等にそのことを知らせて、そして自分の室の中に寝ころんだ。
 船は六月三日の朝早く碇をあげた。
――一九二三年八月十日、東京にて――
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外遊雑話



 いつも旅をする時には、行きは大名帰りは乞食、というのがおきまりなのだが、こんどは例外でそのあべこべに行った。帰りはマルセイユの領事館で二等の切符を買ってもらった。それもうまく行けばほんとうのお大名の一等のをもらえる筈だったが、パリの大使館で誰かがもっとも千万の三等説を持ち出したので、その間をとって二等ときまったのだそうだ。が、行きは、ちゃんと身分相応ふところ相応の三等で行った。
 もっともフランスの船の三等というのは、ちょうど郵船の特別三等みたいなもので、二人部屋と四人部屋とあるのだが、僕はその二人部屋にはいった。相客は支那の若い学生だった。
 支那の学生は、そのほかに、女二人と男が八人ばかりいた。そしてそれらの人達と僕とが食堂では同じ一つのテーブルについた。みんな少々英語を話す。日本語も一人二人はちょっと話せた。が、どうしたものか、僕はそれらの人達とはあまり仲よしになれなかった。そして僕は、同じ三等のそれらの支那人や、その他の人々とは離れて、大がい四等のデッキ・パセンジアの仲間にはいっていた。
 この四等には、最初、上海から乗った支那の労働者二、三十名と、フランスの水兵十名ばかりとのほかに、十五、六名のロシア人がいた。そして僕がさっそく仲間になったのは、このフランスの水兵の中の一人と、ロシア人の中の若い学生十人ばかりとだった。
 フランスの水兵は、揚子江上りの砲艦に乗っていたのだが、満期になって国へ帰るのだった。始終一緒になって、何かの鼻歌を歌いながら、デッキの上を散歩していた。その中に一人、いつもみんなとは別になって、どこかの隅に坐って本を読んでいる、まだごく若い利口そうな顔つきをした男がいた。
 僕はまずその男とすぐ知りあいになった。フランス語の会話のけいこにと思って、ボンジュル・ムッシュ(こんにちは)とか何とか話しかけたのがもとだった。
 僕は年は二十八、社会学専攻の一学生、労働問題研究のためのフランス留学、という触れこみだった。したがって、その水兵との話は、お互いの身分や行くさきの問答のあとで、すぐフランスの労働運動のことにはいった。
 彼自身が何等かの運動に加わっていたのでもなし、また特別に研究したというほどでもないので、その話から得るところといっては何もなかった。が、この男の、兵役や戦争に対する峻烈な攻撃は、その身分がらずいぶん面白く聞いた。
「ヨーロッパの大戦だって、もう半年か一年続いて見たまえ。フランスなんぞはすぐ滅茶苦茶につぶれてしまったんだ。(五行削除)」


(三十一字削除)この水兵の話やまたその後フランスへ行ってからのいろんな人達の話で、そのずいぶん範囲の広かったことや大げさだったことに驚いた。
 そのために殺されたものもかなり多い。また牢にはいって今まだそこにいるものも大ぶある。そしてまた、今でもまだ逃げ廻って、日蔭者でいるものも少なくはない。
 そして戦争中のこれらのいわゆる犯罪人や、またその後の反動政治の犠牲等のための大赦運動が、前々からもまた僕が行っている間にも、盛んに行われていた。しばしば示威運動もあった。メーデーの要求の中にもそれが大きな一個条になっていた。
 政府は幾度か大赦の約束をした。が、それはいつもただ約束だけのことだった。
 水兵のジャン君が話した、いわゆる Mutinsミュテン de La Merメエル Noireノワル(黒海の謀叛人)の首領、共産党の何とかという男は、まだ牢にはいっていたが、僕がフランスを出る数日前に、パリ近郊の下院代議士補欠選挙の候補者として、未曽有の投票数で当選した。反対諸党は合同して一人の候補者を出す筈であったのだが、この謀叛人側の前景気がばかにいいのに恐れをなしてまったくひっこんでしまったので、本当の一人天下で当選したのだ。そしてこの選挙にもう一つの面白い現象は、棄権者が全有権者の半分以上もあったことだ。近郊と言えば大がいは労働者町なのだ。フランスの労働者は、少なくともパリ近郊の労働者は、半分は謀叛人に組みし、残りの半分はまったく政治に興味を持たないのだ。
 この「謀叛人」はまた、それとほとんど同時に、やはりパリ近郊のある町から、市会議員としても選挙された。
 が、はたして彼が、かくして労働者の望み通り代議士または市会議員となって釈放されたか、あるいはまた、政府の望み通り当選無効となってまだやはり牢やにいるか。その後のことは知らない。
 しかし、兵役を攻撃したり、戦争に反対したり、またこんな謀叛人の話を得意になってするからといって、ジャン君は決して共産主義者でもなければ、またその他の何々主義の危険人物でも何でもない。
「君も一種の社会主義者だね。」
 何かの話の時に僕がこう言ってひやかしたら、
「そうだ、社会主義者だ。」
 と立派に肯定して置いて、そして彼自身のいわゆる社会主義なるものを説明して聞かした。それによると、要するに彼は、資本家と労働者とのいわゆる利益分配で十分満足しているようなのだ。
 ヨーロッパで社会主義者ソシャリストだと言っている人間は、まあ大がいそんなものと見ていい。昔僕は、ドイツの社会党首領ベーベルなぞは、大隈の少し毛のはえたくらいのものだろうと言ったことがあるが、今ではもっともっと社会主義者の値うちは下落している。共産主義者だってだんだん下落して来ている。
 そしてジャン君は、ひまさえあれば、シェークスピア全集の英文の安本を字引を引き引き読み耽っていた。そしてまた時々、一尺もの高さの手紙やハガキの束を引きずり出して、一人でにこにこしながら読んでいた。そのいいなずけだという、同郷ブルタニュのある百姓娘からよこした文がらなのだ。そして彼はこのいいなずけと一緒に、もとの平和な百姓の生活にはいるべく毎日日数を数えていた。


 このジャン君と一、二度話ししている間に、もうその友達になっていた、若いロシア人の連中とも話しあうようになった。みんな少々ずつ英語を話せたのだ。
 そのロシア人等は二十歳前後から二十五、六歳ぐらいまでの青年で、みなハルピンから来たのだった。そしてその年かさのものは、みな兵隊に出て、まずドイツやオーストリアの軍隊と戦い、さらにボルシェヴィキの赤衛軍と戦って、ヨーロッパ・ロシアからシベリアに、シベリアからハルピンに逃げて来て、今はあるいはドイツに、あるいはフランスにそのもとの学業を続けに行くのだった。
 僕はこのロシア人等とすぐに一番いい友達になった。そして僕は、彼等のことをペチカ(ピヨトルをピヨちゃんと言うようなものだ)とか、ミンカ(ミハエル)だとか呼び、彼等もまた僕のことをマサチカ(彼等の間では僕は日本人として正一まさいちという変名でいた)と呼んでいた。
 みな元気で快活で、よくしゃべり、よくお茶を飲み、よく歌を歌い、よくふざけ、よく踊り騒いだ。そんなのはこのロシア人の連中だけだったのだ。
 僕も毎日そのお仲間入りをしていたが、しかし僕が一番興味を持ったのは、彼等の中の四、五人、ことにペチカやミンカがよく話しだすロシアの内乱の話だった。そしてまたことに、彼等がヨーロッパ・ロシアやシベリアのいたるところの反革命軍に加わっていながら、帝政復興とか反革命とかの思想や感情を少しも持っていないことだった。
「じゃ、なんで、反革命軍なんかにはいったんだ?」
 と聞くと、要するに彼等は、農民に対するボルシェヴィキの暴虐に憤って、農民等と一緒に武器をとって立っただけのことなのだ。
 ボルシェヴィキが食料の強制徴発に来る。農民がそれに応じない。すると、その労働者と農民との政府は、すぐに懲罰隊をくりだす。全村が焼き払われる。男はみな殺される。女子供までも鞭うたれる。そして最後の麦粉までも、また次の種蒔きの用意にとって置いた種子までも持って行かれる。山や森の奥深く逃げこんだ農民等は、いわゆる草賊となって、ボルシェヴィキに対する復讐の容赦のないパルチザンとなる。
 彼等はこの絶望的の農民と一緒になったのだ。そして、やはりまたその農民等と一緒に、帝政復興とか反革命とかの考えは少しもなしに、ただボルシェヴィキに対する復讐と自己防衛とのために、そのボルシェヴィキと戦う唯一の力だと思われた反革命軍に加わったのだ。
 これもその後フランスへ行ってから詳しく知ったことだが、こうしてロシアの反革命軍は、いたるところで農民のパルチザンを併せて、ボルシェヴィキと戦った。そしてその反革命の野心を見やぶった他の農民のパルチザンとも戦った。そしてまたこの最後のパルチザンは、それと同時に、ボルシェヴィキの赤衛軍とも戦っていたのだ。そしてさらにまた、この赤衛軍の中には、まったく強制的に、そのわずかばかりの財産とともに、からだまでも徴発されて行った農民がずいぶんあったのだ。
 こうしたまったく混線の内乱の中で、いわゆる革命のために、ロシアの農民は何百万とかの生命を失ったと言われている。しかもその内乱は、ほとんどみな復讐と復讐との重なりあいの、聞いただけでも身の毛のよだつような容赦のない残忍の、猛獣と猛獣との果しあいだったのだ。


 この若いロシア人のほかに、まだ七、八人の、多少年輩のロシア人やポーランド人やチェコ人やユダヤ人がいた。細君や子供のあるものはそれを三等に乗せて、男どもだけが四等にいた。
 その連中の中に、細君一人だけ三等に置いて、もう二十歳ばかりの息子と一緒にいた六十歳ぐらいの老ロシア人があった。品も何もない本当の百姓面に、両方のを合せると一尺あまりになる胡麻塩の太い口髯だけ厳めしそうに延ばして、きたない背広のぼろ服の胸に青だの赤だのの略章の勲章を七、八つならべていた。細君もきたない風の、やはり品も何もない顔の、お婆さんだった。そして、その息子は、大ぶ低能らしく、いつも口をぽかんと開いていた。
 この三人はいつも三等のデッキで籐椅子の上に横になっていたが、ある日、お爺さんが僕の前へ来てこんにちはと日本語で挨拶して、あとは何だか分らないロシア語でぺちゃくちゃとやった。が、しきりに胸の勲章を指さしては何か言っているようなので、よく注意して聞くと、ヤ・ヘロ、ヤ・ヘロという言葉が時々繰りかえされる。ヤは俺で、ヘロは英雄だ。僕も仕方なしに、ダ・ダ・ヴィ・ヘロ(そうです、あなたは英雄です)とやってやった。それからなおよく聞いて見ると、ゲネラル(将官)で、日露戦争にも出たと言って、たぶんその時に貰った勲章なのだろう、胸の略章の一つを指さして見せた。
 あとでペチカに聞くと、実際ヘロはヘロで、一兵卒から将官にまでなって、豪勇無双なのだという。が、ペチカの連中は誰もこのヘロのことなぞは相手にしていなかった。
 相手にしないと言えば、ユダヤ人に対する仕方なぞはずいぶんひどかった。
 ある日、ポーランド人の若いピアニストが何かのことから支那の労働者を怒鳴りつけて、支那人なんかは人間じゃないんだ、奴等にはどんなことをしたっていいんだ、と傲語しているところへ、ペチカ等が来た。そしてペチカ等はこのピアニストに食ってかかって、支那人だって人間だ、われわれロシア人やポーランド人と同じ人間だ、と言って、その半日を両方真赤になってこの議論で暮した。
 そのペチカ等が、ユダヤ人だと言うと、まるで見むきもしないのだ。そして僕が時々そのユダヤ人等と話ししているのを見ると、その日一日は僕に対してまでも不機嫌な脹れ面をしているのだ。
 僕はこのペチカ等のあるものの紹介で、一等にいた一人のロシア人の女とも知りあいになった。この女はモスクワ大学の史学科を出て、パリにも留学したことがあり、大ぶ進歩した自由思想の持主で、いつも僕と一緒に上陸してはできるだけ遠く田舎へドライヴして、土人の生活を見るのを楽しみにしていた。そしてマダムはそれら土人の生活を心から愛していたようだった。
 しかるにこのマダムが、アフリカのヂブチに上陸していろいろと買物をしようとした時、もう夕方で大がいの店はしまっていて、ただユダヤ人の店だけ開いているのを見て、とうとうそこの名物のそしてマダムがしきりに欲しがっていた駝鳥の羽も何にも買わずに船へ帰ってしまった。最後の一軒の店なぞでは、ここはそうらしくなさそうだからと言いながらはいって行ったのだが、主人らしい男の少しとんがった鼻さきを見るや否や、青くなって、慄えるようにしてそこを飛び出した。そしてこんな汚らわしいところには一時も居れないというような風で、少々呆気にとられている僕の手をとって、大急ぎで帰った。


 フランスの船は、海防ハイフォンとか西貢サイゴンとかの、仏領交趾支那の港に寄る。そして、そこからまた、満期になったフランスの下士官どもや兵隊が大勢乗った。
 ただの兵隊はみんな飲んだくれで、どうにもこうにもしようのないような人間ばかりだった。前に言った水兵どもは、みんな若くて、多少の規律もあり、薄ぼんやりした顔つきはしていたが、人間らしさは十分にあった。が、この兵隊どもになると、もういい加減の年恰好で、豚のようにブウブウ唸りながらごろごろしている奴か、あるいは猛獣のような奴か、とにかく人間というよりはむしろ畜生どもばかりだった。
 その中で一人、それでも一番人の好さそうな男だったが、いつもふらふらした足つきで僕等のそばへやって来て、ろれつの廻らない舌つきで何か話しかける男があった。
「俺あこういうもんなんだ。」
 と言いながら、その差しだす軍隊手帳を見ると、読み書きはできる、ラッパ手、上等兵とあって、その履歴には、ほとんど植民地ばかりに、あすこに二年ここに三年というように、十八年間勤めあげたことが麗々しく書きならべてある。懲罰の項には何にも書いてない。が、褒賞の方には何かいろいろとあった。そして今は病気のために除隊するのだとある。
「それでもこれっぽちの金しか貰わないんでさあ。」
 彼はそう言いながら、破れた財布の中から十フランの札を四、五枚パラパラとふって見せて、
「アハハハ。」
 と笑った。それが不平なのだか、嬉しいのだかすらも、ちょっとは分らないほどに。
 が、この飲んだくれの兵隊どもはまだいいとしても、がまんのできないのは三等に乗りこんだ下士官どもだった。そいつらは、まったく熊か猪かの、猛獣のような奴ばかりだった。そしてそいつらの女房どもまでが、ろくでもない面をして。
「あれはこいつらがやったんだな。」
 僕はそいつらの顔を見るとすぐ、その日陸で読んだある新聞の記事を思いだした。
 安南の土人がやっているフランス文の日刊新聞の中に、大きな見だしで、ある殺人事件を論じてあった。事件はごく簡単なもので、土人の一商人が川の中に溺れ死んでいた、というだけのことだ。が、それがただそれだけで済まないのは、そうしたことがずいぶん頻々とあって、しかもその原因がいつもちっとも分らない、いや分ってはいるがそれをはっきりと公言することができない、そこに妙な事情がからんでいるからだ。
「ええ、あいつらは何をするか知れたもんじゃない。恩給と植民地の無頼漢生活とをあてに、十年十五年と期限を切って、わざわざこんな植民地へやって来る。本当の職業的軍人なんだからね。」
 フランスの水兵のジャン君もすぐと僕の直覚に同意した。そして僕は、デッキででも食堂ででもいつも傍若無人にふるまっているそいつらとは、とうとう終いまで、ただの一度も「お早う」の挨拶を交わしたことがなかった。
 その後僕はフランスに着いてから、あちこちの壁に、この植民地行きを募集する陸軍省の大きな広告のびらを見た。三年間はいくら、五年間はいくら、十年間はいくら、十五年間はいくら、というようにだんだんその率のあがって行く、給料や恩給の金額も、ことさらに大きく太い文字で書きならべてあった。


 たぶん香港ホンコンからだったろう、一人の安南人らしい、白い口髯や細いあご髯を長く垂らして品のいいお爺さんが乗った。
 僕はこのお爺さんと一度話しして見ようと思っていたが、とうとうその機会がなくって、西貢かで降りてしまった。海防から乗った若い安南の学生に聞くと、もとの王族の一人で、今も陸軍大臣とか何とかの空職に坐っているのだそうだ。ロシアの旧将軍が三等で威張っているのは、ちょいと滑稽だったが、これは何だか傷ましいような気がした。
 それでもこのお爺さんは、温厚らしいうちにも、どこか知らに侵すことのできない威厳をもっていた。が、一般の安南人となると、見るのもいやなくらいに、みな卑劣と屈辱とでかたまっているように見えた。そしてこれは、安南人が他の東洋諸民族にくらべて顔も風俗も一番われわれ日本人によく似ているようなのでなおさらいやだった。
 海防や西貢の町を歩いて見ても、安南人はみな乞食のような生活をして小さくなっている。ちょっとした店でもはって、多少人間らしくしているのは、支那人かあるいはインド人だ。そして、フランス人はみな王侯のような態度でいる。
 西貢で、マダムNと一緒に田舎へ行って、路ばたのある小学校を見た。バラックのような四方開けっぱなしの建物を二つにしきって、三十人ばかりずつの子供がそこで何か教わっていた。僕等がはいって行くと、生徒は一斉に起ちあがって腰をかがめ、先生は急いで教壇から降りて来て丁寧すぎるほどにお辞儀した。それだけで僕はもう少々いやな気がした。
 先生はマダムNの質問に答えて、生徒には絶対に漢字を教えないで、一種のローマ字で書き現した安南語を教えているということを、非常な得意で話した。勿論、それは悪いことじゃない。大いにいいことだろう。が、フランスの植民政府がそうさせる意味と、この先生がそれを得意になる意味とには僕等の同意することのできないあるものがあるのだ。
 安南人の子供等は、こうして教育されて行って、だんだんにフランス語を覚えて、その中の見こみのありそうなものはフランスへ留学させられる。そして帰ると、学校の先生かあるいは何かの小役人にさせられる。僕が前に言った若い安南人というのも、やはり以前フランスに留学して、帰ってしばらく役人もやって、今また再度の留学をするのだった。
 僕は支那で、外国人のところに使われている支那人が、その同国人にいやに威張るのを見た。それと同じことを、この若い安南人はそうでもなかったが、やはり安南ででもあちこちで見た。ことに安南人の兵隊や巡査なぞはなおさらにそれがひどかった。
 が、このフランス留学には、それと違った妙な意味あいからもある。安南人と言っても、そうそう卑劣と屈辱とにかたまっているものばかりじゃない。いろんな人間が出て来る。そしてフランスの官憲は、彼等に多少の言論の自由を許さなければならないまでに、余儀なくされている。しかし、その人間どもの中で、少し硬骨でそして衆望のあるのが出ると、すぐにそれをパリへ留学させる。そして毎月幾分の金をやってどこかのホテルの一室に一生を幽閉同様にして置く。
 その一人に、パリでそっと会う筈にしていたが、やはりいろんな面倒があって、とうとうそれを果すことができなかった。


 英領やオランダ領の、マレー、ジャワ、スマトラなどの土人も、みな安南人と同じように乞食のような生活をしている人間ばかりのように見えた。シンガポールでも店らしい店を出しているのはみな支那人かインド人かだった。土人はほんの土百姓かあるいは苦力クウリイかだ。
 その支那人やインド人やはみな泥棒みたいな商人ばかりでいやだったが、道で働いている労働者の支那人やインド人は土人と同じような実に見すぼらしいものだった。ことにインド人が、あの真黒なちょっと恐そうな目つきをしていながら、そばへ寄って見ると実に柔和そうないい顔をしているのには、なおさらに心をひかれた。この支那人やインド人や土人の苦力どもは、まるで犬か馬かのように、その痩せ細った裸のからだを棒でぶたれたり靴で蹴られたりしながら、働いているのだ。
 これは、帰りの船の中でスマトラから来た人に聞いた話だが、時々この主人どもに対する土人等の恐ろしい復讐がある。土人の部落の中にだけで秘密にしてある、ある毒矢で暗うちを食わす。椰子やゴムの深い林の中から、不意に、鉄砲だまが自動車の中に飛んで来る。虎だの犀だのの被害のほかに、こんな被害も珍らしくはない。
 が、そうした個人的復讐ばかりじゃない。スマトラの土人の中には、すでに賃金労働者として目覚めた労働者の大きな労働組合すらもある。そしてその中の鉄道従業員組合が、ちょうど僕等がそこを通る少し前の五月から六月にかけて、一カ月あまりの総同盟罷工をやった。
 オランダの官憲は、急に法律を改正して、いっさいの集合はその一週間前に届出ろと命じて、ほとんど労働者の集合を不可能にした上に、さらに主なる首領等を一網打尽的に拘禁した。そして警察力のほかに兵力までも動かしてそしてようやくのことでそれを鎮定した。
 この土人の組合は職業的にも組織されているが、また宗教的にも組織されて、ことに回々ふいふい教徒はもっとも強固に団結している。そしてそこには、賃金奴隷からの解放のほかに、民族的や宗教的の独立という意味までも加わって、なおさらにその熱烈の度を高めている。
 土地の新聞の言うところでは、そこにはまだいわゆるボルシェヴィキの煽動や影響はないが、広い意味での社会主義的思想は十分にはいっている。もしそれが、さらにインドや支那の同じ教徒等と結んで、英領やオランダ領の各地で事を挙げるようなことがあったら、それこそ大変だ、そうだ。
 さきに僕は香港の港を眺めながらの、支那の学生等の愛国的憤慨の言葉も聞いた。また、それらの学生の、安南をフランスから取返さなければ、という気焔も聞いた。そしてある時なぞは、フランスの下士官どもが、船の中へはいりこんで来た支那人の泥棒(?)を血だらけになるほどなぐったり蹴ったりしたのを見て、みんなキャビンにはいりこんだまま飯も食わずに憤慨しているのも見た。しかしまた同時に、彼等が同じ支那人の苦力の車夫を、ちょっとした賃金の問題から大勢でいきなりなぐったり蹴ったりするのも見た。そして彼等に対する同情がまったく失せてしまった。
 救いはこんな愛国者からは来ない。


 コロンボ近くなった頃だと思う。無線電信で、ルール地方占領とフランスの共産党首領カシエン等の捕縛とが伝えられた。
 戦前のドイツ対フランスと、戦後のドイツ対フランスとは、少なくともその軍備においてまったく正反対になっている筈だ。ドイツの軍隊はほとんどまったく破壊されてしまった。そしてフランスは、その生産力の恢復よりも、軍備の充実により多くの力を注いだ。とてももう相撲にはならない。したがってドイツが急にこの挑戦に応じようとは考えられなかったが、軍国主義と反動主義とのお塊りのようになっているフランスが、その勢いに乗じてどんな無茶をやらんものでもないということは、十分に考えられた。そして僕は、そこから起る結果についての、ある大きな期待をもってフランスにはいった。
 が、フランスは、マルセイユでもリヨンでもパリでも、実に平穏なものだった。今にも戦争が始まりそうだとか、こんどこそはとかいうような気はいは、少なくとも民衆の生活の中にはどこにも見えない。みんな何のこともないように呑気に暮している。
 僕は、大戦争およびその後も引続いて盛んに煽りたてられた狂信的愛国心が、まだ多分に民衆の中に残っていると思った。が、そんな火の気は、王党の機関紙『ラクション・フランセエズ』を先登とする三、四の新聞でぶすぶすとえぶっているくらいのもので、どこにも見えない。
 この『ラクション・フランセエズ』ですら、フランスで一番保守的でそして一番宗教的な大都会のリヨンで、しかも郊外とは言いながら寺院区カルティエ・デグリズとまで言われているある丘の上で、僕は六軒も七軒もの新聞屋を歩き廻ってとうとうその一枚も見出すことができなかった。
「ええ、戦争中にはずいぶん売れたもんですけれどもね。この頃はもうさっぱりですよ。で、売れないものを置いても仕方がないもんですから……。」
 新聞屋の婆さんはどこへ行ってもみな同じようなことを言った。
 そして、こうして歩き廻っている間に、これはその他のどこででもそうなのだが、片っぽうの手がないとか義足で跛をひいているとかいう不具者の、五人や六人や、九人や十人には会わないことはない。勿論みな大戦の犠牲なのだ。こういうのを始終目の前に見せつけられながら、今さら戦争でもあるまい、とも思った。
 しからば、このルール占領や戦争に反対している共産党やC・G・T・Uの方はどうかというに、要するにただ、新聞や集会でのえらそうな宣言や雄弁だけに過ぎない。時々の示威運動もあるが、一向にふるわない。占領を止めることはもとより、占領軍の横暴を少しでも軽くすることにすら、何の役にも立っていない。
 兵隊自身も、一九二一年に二カ年の約束で召集されて、ことしの三月には満期になる筈のが、一カ月二カ月と延びて、さらにいつどこへどう送られるようになるかも知れないのに、これという反対運動一つどこの兵営にも起らない。共産党の『ユマニテ』なぞは、毎日それについて何か書きたてているのだが、大した反響も見えない。もっとも、この際官憲に乗ぜらるようなことがあってはいけないから、みんなできるだけおとなしく反抗しろと戒めてはいたが。
 そしてこの兵隊さんらは、日曜ごとに、女の大きなお臀を抱えながら、道々キスしいしいぶらぶらと市中を歩いている。
 天下泰平だ。


 僕がフランスに着いてからの主な仕事の一つは、毎朝、パリから出るほとんど全部の新聞に目を通すことだった。
『ユマニテ』には、僕が着く早々、北部地方の炭坑労働者の大同盟罷工が報ぜられていた。そしてその罷工の勢いが日ましにはなはだしくなって行って実際七、八万の坑夫がそれに加わったようだった。しかるに、多くの資本家新聞には、毎日ほんの数行その記事があるくらいで、しかも毎日坑にはいって行く労働者の数がふえて行くように書いてある。罷工者の数も大がいは何百とかせいぜい何千とかあった。
 その後パリで八千人ばかりのミディネット(裁縫女工)の罷工があった時にも、資本家新聞を読んでいるだけでは、まるで分らない。きのうもきょうも、幾百人ずつの女工の幾組もが、あちこちの工場へ誘いだしの示威運動に行って、いたるところで警官隊と衝突しているのに、新聞ではほんの数行、しかももうとうにその罷工が済んだように書いてある。そして新聞ではもう幾度もみんなそれぞれの工場に帰っている筈の間に、C・G・T・U事務所の罷工本部では、それら数千の女工連が笑いさざめき歌いどよめいていた。
 こうした新聞の態度を、労働者はその運動の上に使うサボタージュという言葉で言いあらわしている。資本家新聞は、あらゆる労働運動の上に、実によくサボる。
 が、それは当然のことで、何の不思議もある訳ではない。それよりも、そら罷工だ、そら何とかだ、と言ってちょっとしたことでも騒ぎたてる日本の資本家新聞の方が、よっぽど可笑しいくらいだ。
 しかし、同盟罷工そのものをサボる労働者が、労働団体が、あるのには少々驚かされた。それもかつてはその革命的なことをもって世界に鳴っていたC・G・Tがだ。石炭坑夫の罷工の時には、このC・G・Tの首領等が、目下の独仏の危機に際して石炭業の萎縮を謀るのは敵国のためにするものだ、というようなことを言い廻って、坑夫等をなだめていた。
 僕は日本に帰るとすぐ、最近本所の車輛工の同盟罷工で、友愛会の労働総同盟がそれに似た罷工破りをやった話を聞いて、どこもかもよく悪いことばかりが似るものだと感心した。
 共産党やC・G・T・Uが何かやれば、社会党やC・G・Tがサボる。そしてその共産党がまた、無政府党のやることとなると一々にサボる。
 僕がメーデーに捕まった時には、『ユマニテ』では一段あまりの記事を書いた。が、その翌日僕が日本の無政府主義者と分って以来は、裁判のことも追放のこともついに一字も書かない。まったくの黙殺だ。そして王党の『ラクション・フランセエズ』なんかになると、最初から最後まで、「例の殺人教唆の無政府主義者」云々で押し通していた。
 サボタージュにも、「安かろう悪かろう」の意味の消極的のものもあれば、「生産妨害」の意味の積極的のもある。
 最近の『東京朝日新聞』に、そのパリ特派員の某君の記事の中に、王党の一首領を暗殺したジェルメン・ベルトンのことを「例の政治狂の少女」と書いてあった。それくらいならまだいい。彼女は、フランスの資本家新聞では「淫売」であり、「ドイツに買われた売国奴」であり、また「警察の犬」でもある。
 そしてフランス無政府主義同盟の機関『ル・リベルテエル』は、ほとんど毎週、彼女の弁護のために発売禁止され、その署名人と筆者とはラ・サンテにほうりこまれている。


 パリに着いた晩、夕飯を食いに、宿からそとへ出て見て驚いた。その辺はまるで浅草なのだ。しかも日本の浅草よりも、もっともっと下劣な浅草なのだ。
 貧民窟で、淫売窟で、そしてドンチャンドンチャンの見世物窟だ。軒なみに汚ないレストランとキャフェとホテルとがあって、人道には小舎がけの見世物と玉転がしや鉄砲やの屋台店が立ちならんでいる。そしてそれが五町も六町も七町も八町も続いているのだ。
 黒ん坊の野蛮人が戦争している看板があげてあって、その下に、からだじゅう真黒に塗った男や女や子供が真っ裸と言ってもいいような恰好をして、キイキイキャアキャア呼びながら槍だの刀だのを振り廻して見せている。その隣りは、「生きた人蜘蛛」という題で、顔だけが人間であとは蜘蛛の大きな絵看板がかかげてある。そしてその次には、玉転がし、ぶん廻し、鉄砲、くじ引き、瓶釣り、その他あらゆるあてものの店がならんでいる。普通にものを買える店は一つもないのだ。そしてさらにまたその次には、ぐるぐる廻る大きな台の上に、玩弄品おもちゃの自動車だの馬車だの馬だの獅子だのを乗せて、騒々しい楽隊の音と一緒に廻らしている。そして、いい年をした大人がそれに乗っかって喜んでいる。下が小さな船の形をしたブランコがあって、そこへ若い男と女とが乗って、その船がひっくり返りそうになるまで振っている。大きな輪のまわりに籠が幾つもぶらさがっていて、そこへ一人一人乗って、輪が全速力でグルグル廻る。前の籠と後の籠とがぶつかり合う。みんなキャッキャッと声をあげて喜んでいる。往来に人を立たして置いてパッと写真をとる大道写真師もいる。
 そしてこの連中がみな、一団ずつ、電車の小さな箱くらいの車をそばに置いて、その中に世帯を持っている。この車でフランスじゅうをあるいはヨーロッパじゅうを歩き廻っているのだ。
 僕は前に浅草と言ったが、それよりもむしろ九段の祭りと言う方が適当かも知れない。もっとも僕はもう十年あまりも、あるいはそれ以上にも九段の祭りは知らないのだが。
 そこへうじょうじょと、日本人よりも顔も風もきたないような人間が、ちょっと歩けないほどに寄って来る。実際僕はヨーロッパへ来たと言うよりもむしろ、どこかの野蛮国へ行ったような気がした。
 そしてその後、日本の浅草よりももっとずっと上等の遊び場へ行って、そこの立派な踊り場やキャフェの中にも、やはりこの玉転がしやぶんまわしがあるのにはさらに驚いた。
 そしてさらにその後、リヨンで、町の人達がよく遊びに行くリイル・バルブへ行った。翻訳すれば羊の鬚島だが、リヨンの町の真ん中を通っているサオヌ河の少し上の、ちょっと向島というようなところだ。が、そこには白鬚様があるのでもなし、ただ小さな島一ぱいに、パリの貧民窟のと同じドンチャンドンチャンがあるだけの話だ。
 それから、このリヨンの停車場前の広場が何かで大にぎやかだというので、ある晩行って見るとやはり同じドンチャンドンチャンと、玉転がしと文まわしと鉄砲とだ。そしてそこをやはりパリのと同じように、五フランか十フランかの安淫売がぞろぞろとぶらついている。
 フランス人の趣味というものはこんなに下劣なものだろうか。





底本:「大杉栄全集 第十三巻」現代思潮社
   1965(昭和40)年1月31日発行
※本作品の冒頭部分は、山根鋭二さん入力、浜野智さん校正ですでに公開してきた。ただしこれは抄録であるため、「パリの便所」以降を、kompassさんに入れていただいた。既登録部分も、kompassさんが入力底本とされた「大杉栄全集」と対照し、あらためて校正した。
入力:山根鋭二、kompass
校正:浜野智、小林繁雄
2001年11月27日公開
2011年1月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「褒」の「保」に代えて「執」    113-3


●図書カード