本月もまた特に評論して見たいと思うほどの評論が見つからない。ただ一つ『先駆』五月号所載「四月三日の夜」(
それは、四月三日の夜、神田の青年会館に文化学会主催の言論圧迫問責演説会というのがあって、そこへ僕らが例の
しかし、そんな事はまあどうでもいいとして、ただ一つ
演説会での、僕らのいわゆる弥次、もしくは
先日、神戸で賀川君と会った時、賀川君もしきりに僕らのいわゆる弥次を批評し、堺利彦君の言葉まで引き合いに出して、あんまり世間の反感を買わないようにと深切らしく忠告までしてくれた。
僕らの弥次に対して最も反感を抱いているのは警察官だ。
警察官は大抵仕方のない馬鹿だが、それでもその職務の性質上、事のいわゆる善悪を
僕らの弥次に反感を持つものは、労働者のこの常識から推せば、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間だ。僕らは、そんな人間どもとは、
元来世間には、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間が、実に多い。
たとえば演説会で、ヒヤヒヤの連呼や拍手喝采のしつづけは喜んで聞いているが、少しでもノオノオとか簡単とかいえば、すぐ警察官と一緒になって、つまみ出せとか
奴らのいう正義とは何だ。自由とは何だ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ。
僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが
それにはやはり、何よりもまず、いつでもまた
この発意と合意との自由のない所に何の自由がある。何の正義がある。
僕らは、新しい音頭取りの音頭につれて踊るために、演説会に集まるのじゃない。発意と合意との稽古のために集まるんだ。それ以外の目的があるにしても、多勢集まった機会を利用して新しい生活の稽古をするんだ。稽古だけじゃない。そうして到る処に自由発意と自由合意とを発揮して、それで始めて現実の上に新しい生活が一歩一歩築かれて行くんだ。
新しい生活は、遠いあるいは近い将来の新しい社会制度の中に、始めてその第一歩を踏み出すのではない。新しい生活の一歩一歩の中に、将来の新しい社会制度が芽生えて行くんだ。
長せりふは昔の芝居の特徴で、新しい芝居では短い対話が続く。芸術は社会の鏡だ。世相が芝居という鏡に写ったのだ。
人の
音頭取りの音頭につれて踊る社会では、学校でも演説会でもそうだが、講壇や演壇の上の人は、一人で長い独白を続けて、下の人々に教える。下の人々を導く。しかし人間がだんだん発意を重んずるようになると、その長い独白がちょいちょい聴衆の質問や反駁に
演説会は討論会じゃないという。またそうなっては会場の秩序が保てないという。そして弁士の演説に一言二言の批評を加える僕らを、その演説会の妨害か打ち毀しかに来たものと考え、警察官と主催者と聴衆とが一緒になって騒ぎ出す。馬鹿な事だ。
しかし、一番早く分るのは、聴衆だ、民衆だ。僕らのいわゆる弥次に、最初は盛んに
いつかの晩だってそうだ。最初僕らが弥次り出した時には、聴衆のほとんど全部が
僕らはその勢いに乗じてますます弥次った。弁士の言論の
最後に僕が演壇に起った。最初僕らをつまみ出せの、気ちがいめのと罵っていた聴衆が、今までの弁士に対するよりも
僕は演壇の上と下との会話や討論を弁士として試みようと思った。実は、僕自身にとっても、数百もしくは数千という会衆の前では最初の試みであったのだ。僕のどもりと
が、僕は演壇に上るとすぐ、すっかりいい気持になってしまった。何を話しするかの準備も何もなかった。僕はただ、今現に会場のすべての人の間に実際問題となっている、会場の秩序そのものについて、みんなと話し合おうと思った。しかしその話し合おうと思った事が、既にもう、みんなの間に立派に了解されてしまっていたのだ。新しい秩序の気分が全会場に
ぼくはふだんの
弁士と聴衆との対話は、ごく小人数の会でなければ出来ないとか、十分にその素養がなければ出来ないとかいう反対論は、これでまったく事実の上で打ち毀されてしまった。
僕らのいわゆる弥次は、決して単なる打ち毀しのためでもなければ、また単なる伝道のためでもない。いつでも、またどこにでも、新しい生活、新しい秩序の一歩一歩を築き上げて行くための実際運動なのだ。
怒鳴る奴は怒鳴れ、吠える奴は吠えろ。音頭取りめらよ。犬めらよ。