私は元来自分で読物を書くなどと云う
考は無かった。
唯だ私の叔父が裁判官であって、私は子供の時から、色々裁判に関することを見もし、聞きもして、
能く「誤判例」などを読んで、悪人で有った者が死後には善人で有ったり、或は善人だと思って居た者が、大悪人で有ったりする事実を知り、
其方に
大に趣味を懐くことに
為りました。
左様いうことを世人の誤ら無いように為るには、実際に必要だと思って居りました。
殊に其頃の新聞に発刊停止が
頻々と下って随分裁判の不公平が有りましたから、其れを一つ当て
擦って、裁判と云うものは社会の重大なるものぞと云うことを知らせてやろうと思いました。それで自分が「絵入自由」に居た頃、筋書を話して其頃の戯作者則ち小説家に書かせました。所が、当時の戯作者は爾ういう物語を書く時には、
何時も編年体であって其人物の
生立から筆を立てゝ、事実を順序正しく書くものですから、最初から悪人、善人、盗賊と知れて了って、読者を次へ/\と引く力が無い。即ち面白い
縺れ合った事を真先に書き出して置いて、乱れた
環の糸口を探るように、其の原因に遡って書くと云うことが出来なかったのでした。遂に其の小説は読者の非難が多くて中止をしなければ為らぬ事になって、それで私に書けと云われたものでありましたから、然らばとて始めて是に著手して見ました。私は全然編年体
[#「編年体」は底本では「編作体」]を改め、先ず読者を五里霧中に置く流でやりましたが、意外にも大当りを致しました。是が翻訳小説の処女作で、題目は「法廷の美人」、前に中止した方は「
二葉草」と申しました。それから
今日(明治三十八年二月頃)までに翻訳した小説は七十余種に上って居ります。
(春陽堂『明治大正文学全集』第八巻昭和四年二月所収)