私は或は人から沢山の書物を読むとでも思われているかも知れない。私はたしかに書物が好である。それは子供の時からの性僻であったように思う。
それでも若い時には感激を以て読んだ本もあった。二十少し過ぎの頃、はじめてショーペンハウエルを読んで非常に動かされた。面白い本だと思った。しかし年を経るに従い、そういう本はなくなった。ニル・アドミラリというような気分になってしまった。私には或人の書物を丹念に読み、その人の考を丹念に研究しようという考が薄い。
しかし偉大な思想家の思想というものは、自分の考が進むに従って異なって現れて来る。そして新に教えられるのである。例えば、古代のプラトンとか近代のヘーゲルとかいう如き人々はそうと思う。私はヘーゲルをはじめて読んだのは二十頃であろう、しかし今日でもヘーゲルは私の座右にあるのである。はじめてアリストテレスの『形而上学』を読んだのは、三十過ぎの時であったかと思う。最初ボンス・ライブラリの訳と次に古いフィロゾフィッシュ・ビブリオテークのロルフェスの訳で読んだ。それはとても分らぬものであった。然るに五十近くになって、俄にアリストテレスが自分に生きて来たように思われ、アリストテレスから多大の影響を受けた。私は思う、書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。一脈相通ずるに至れば、暗夜に火を打つが如く、一時に全体が
例えば、アリストテレスならアリストテレスに、物の見方考え方というものがある。そして彼自身の刀の使い方というものがある。それを多少とも手に入れれば、そう何処までも委しく読まなくとも、こういう問題は彼からは斯くも考えるであろうという如きことが予想せられるようになると思う。私は大体そういうような所を見当にしている。それで私は全集というものを有っていない。カントやヘーゲルの全集というものも有たない。無論私はそれで満足というのでもなく、また決してそういう方法を人に勧めもせない。そういう読み方は真にその思想家の骨髄に達することができればよいが、然らざれば主観的な独断的な解釈に陥るを免れない。読書は何処までも言語のさきざきまでも正確に綿密でなければならない。それはいうまでもなく万人の則るべき読書法に違いない。それかといってあまりにそういう方向にのみ走って、徒らに字句によって解釈し、その根柢に動いている生きものを掴まないというのも、
私は最初にいったように、覗くという方だから、雑読といわれるかも知れない。老いるに従って理解が鈍くなり、印象も浅く記憶が悪しくなり、一度読んだ本であっても、すぐその内容を忘れてしまうことが多い。それでもちょうど私の考えている所に結び附いて来る書物であると、非常にそれが面白いと思い頭に残るようである。私はこれまで殆んど人類学的な書物を読んだことがない。然るにこの夏マリノースキやハリソンなどいうものを読み、それらの人の書いている原始社会の構造というものが、私がローギシュ・オントロギシュに考えていたものと結び附き、自分の考が実証的に証明せられた如くに思い、面白く感じた。
何人もいうことであり、いうまでもないことと思うが、私は一時代を劃したような偉大な思想家、大きな思想の流の淵源となったような人の書いたものを読むべきだと思う。かかる思想家の思想が掴まるれば、その流派というようなものは、