或教授の退職の辞

西田幾多郎




これは楽友館の給仕が話したのを誰かが書いたものらしい、
而もそれは大分以前のことであろう。

 初夏の或晩、楽友館の広間に、皓々こうこうと電燈がかがやいて、多くの人々が集った。この頃よくある停年教授の慰労会が催されるのらしい。もう暑苦しいといってよい頃であったが、それでも開け放された窓のカーテンが風をはらんで、涼しげにも見えた。久しぶりにて遇った人もあるらしい。一団の人々がここかしこに卓を囲んで何だか話し合っていた。やがて宴が始まってデザート・コースに入るや、停年教授の前に坐っていた一教授が立って、明晰なる口調で慰労の辞を述べた。停年教授はと見ていると、彼は見掛によらぬはにかみやと見えて、立つて何だか謝辞らしいことを述べたが、口籠ってよく分らなかった。宴が終って、誰もかれも打ち寛いだ頃、彼は前の謝辞があまりに簡単で済まなかったとでも思ったか、また立って彼の生涯の回顧らしいことを話し始めた。
 私は今日を以て私の何十年の公生涯を終ったのである。私は近頃ラムの『エッセー・オブ・エリヤ』を取り出して、「老朽者」という一文を読んだ。そしてそれが如何にもよく私の今日の心持を言い表しおるものだと痛く同感した。回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴにべられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、うたた水の流と人の行末という如き感慨に堪えない。私は北国の一寒村に生れた。子供の時は村の小学校に通うて、父母の膝下で砂原の松林の中を遊び暮した。十三、四歳の時、小姉に連れられて金沢に出て、師範学校に入った。村では小学校の先生程の学者はない、私は先生の学校に入ったのである。然るに幸か不幸か私は重いチブスにかかって一年程学校を休んだ。その中、追々世の中のことも分かるようになったので、私は師範学校をやめて専門学校に入った。専門学校が第四高等中学校と改まると共に、四高の学生となったのである。四高では私にも将来の専門を決定すべき時期が来た。そして多くの青年が迷う如く私もこの問題に迷うた。特に数学に入るか哲学に入るかは、私には決し難い問題であった。尊敬していた或先生からは、数学に入るように勧められた。哲学には論理的能力のみならず、詩人的想像力が必要である、そういう能力があるか否かは分らないといわれるのである。理においてはいかにも当然である、私もそれを否定するだけの自信も有ち得なかった。しかしそれに関らず私は何となく乾燥無味な数学に一生を托する気にもなれなかった。自己の能力を疑いつつも、遂に哲学に定めてしまった。四高の学生時代というのは、私の生涯において最も愉快な時期であった。青年の客気に任せて豪放不羈ふき、何の顧慮する所もなく振舞うた。その結果、半途にして学校を退くようになった。当時思うよう、学問は必ずしも独学にて成し遂げられないことはあるまい、むしろ学校の羈絆きはんを脱して自由に読書するにくはないと。終日家居して読書した。然るに未だ一年をも経ない中に、眼をんで医師から読書を禁ぜられるようになった。遂にまた節を屈して東京に出て、文科大学の選科に入った。当時の選科生というものはじめなものであった、私は何だか人生の落伍者となったように感じた。学校をえてからすぐ田舎の中学校に行った。それから暫く山口の高等学校にいたが、遂に四高の独語教師となって十年の歳月を過した。金沢にいた十年間は私の心身共にさかんな、人生の最もよき時であった。多少書を読み思索にも耽った私には、時に研究の便宜と自由とを願わないこともなかったが、一旦かかる境遇に置かれた私には、それ以上の境遇は一場の夢としか思えなかった。然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓すいばんによってこの大学に来るようになった。来た頃は留学中の或教授の留守居というのであったが、遂にここに留まることとなり、烏兎怱々うとそうそういつしか二十年近くの年月を過すに至った。近来はしばしば、家庭の不幸に遇い、心身共に銷磨しょうまして、成すべきことも成さず、尽すべきことも尽さなかった。今日、諸君のこの厚意に対して、心ひそか忸怩じくじたらざるを得ない。幼時に読んだ英語読本の中に「墓場」と題する一文があり、何の墓を見ても、よき夫、よき妻、よき子と書いてある、悪しき人々は何処に葬られているのであろうかという如きことがあったと記憶する。諸君も屍にむちうたないという寛大の心を以て、すべての私の過去をゆるしてもらいたい。
 彼はこういうようなことを話して座に復した。集れる人々の中には、彼のつまらない生涯を臆面もなくくだくだと述べ立てたのに対して、嫌気を催したものもあったであろう、心窃に苦笑したものもあったかも知れない。しかし凹字形に並べられたテーブルに、彼を中心として暫く昔話が続けられた。その中、彼は明日遠くへ行かねばならぬというので、早く帰った。多くの人々は彼を玄関に見送った。彼は心地よげに街頭の闇の中に消え去った。(昭和三年十二月)





底本:「続思索と体験『続思索と体験』以後」岩波文庫、岩波書店
   1980(昭和55)年10月16日第1刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集第十二巻」岩波書店
   1950(昭和25)年
初出:「思想 第八十三号」
   1929(昭和4)年4月
入力:nns
校正:土屋隆
2006年3月20日作成
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