父を売る子

牧野信一




 彼は、自分の父親を取りいれた短篇小説を続けて二つ書いた。
 或る事情で、或日彼は父と口論した。その口論の余勢と余憤とで、彼はそれ迄思ひ惑うてゐたところの父を取り入れた第一の短篇を書いたのだ。その小説が偶然、父の眼に触れた。父親は憤怒のあまり、
「もう一生彼奴とは口を利かない。――俺が死ぬ時は、病院で他人の看護で死ぬ。」と顔を赤くして怒鳴つたさうだ。だから彼は、それを聞いて以来、往来で父の姿を見かけると慌てゝ踵を回らせた。彼等はひとつの小さな町に住みながら、父と母と彼と夫々別々の家に住んでゐた。
 それ故彼は、もう父親には破れかぶれになつてゐたから第二の短篇は易々と書いてのけた。その上、今も彼が二ヶ月ばかり前から書きかけてゐるのは、またも父親を取り入れたものだつた。それが若し滞りなく出来あがつたら、彼はそれに「父を売る子」と称ふ題名を付ける気でゐる。――次の話は彼が未だその第一の短篇を書かなかつた頃のことである。


 その晩も彼と父とは、酒を酌み交しながら呑気な雑談に耽つてゐた。晩春の宵で、静かな波の響きが、一寸話が止絶とぎれると微かに聞えた。――父の妾の家の二階だつた。
「貴様の子供はいつ生れるんだ?」
 忘れツぽさを衒つて、父は彼にそんなことを訊ねた。二人とも、もうイイ加減酔つて、口角をそろへて親類の悪口を云ひ合つてゐたが一寸止絶れたところだつた。
「六月ださうだ。」と彼も父の態度を模倣してわざと空々しく呟いた。
「いよいよ親父になるのか、貴様が!」
 父はさう云ふと、傍の女を顧みて仰山に哄笑した。
「そして――」と彼は云つた。この阿父さんは――と云ふのは具合が悪かつたので、眼だけで父を指摘して、
「いよいよお祖父ぢいさんになるんだよ。」と云つた。
「ばかア――」
 でれでれした太い声でさう云つた父は、云ひ終つてもあんぐりと口を開けた儘、笑ひ顔で彼と女とを等分に眺めた。
「貴様は幾つだ?」
「二十七だ。」
「未だ二十七か。」
「阿父さんは空つとぼけるから厭になつちまふ。」
「だが、二十七は……一寸早えな!」
「僕も内心大いに参つてゐる。」彼はさう云つて、安ツぽく首を縮めてにやにやと如何にも愚かし気な苦笑を浮べた。
「尤も貴様が生れた時は俺は、何でも二十……」
「えゝ、と?」
 彼は眼をつむつて額を天井に向けた。五十一から二十七を引くと幾つ残るか? を考へたのだが、容易にその答へが見出せなかつた。
「二十――二三だらうよ。」
「随分早えな! ハッハッハ。」
 彼は、今更の如く軽い心易さを覚えて、音声だけ景気好く笑つた。――尤も斯ういふ調子にならなければ、この家の変に乱れた空気と調和しないので彼は殊更に甘い粗暴を振舞つてゐるのだつた。親爺はともかく倅の態度が、それにしても過ぎたることを思ふと、これは決して他人には見せられない光景だ――と彼は思ふのだつた。初めのうちは彼達の対談をはたの女達も不思議さうに眺めたが、今では逆に慣々しくなつてゐた。おそらく彼の母は、他所で彼等が斯んな振舞ひをしてゐるとは想ひも及ばなかつたに違ひない。
「この頃俺は毎晩毎晩酒にばかし酔つてゐて自分の仕事は何もしない。これぢやどうもいけない。皆なは俺が東京に居るうちはとても仕様のない暮しばかりしてゐたやうに思つてゐるが、この頃みたいに斯んなにだらしがなくはなかつた。第一酒などをそんなに飲まなかつた――」
 ふと彼はそんなことを口走つた。少々怪しくなつて来たぞ――彼は自分をさう思つた。
「皆な親爺が悪いから、といふわけかね。止せよう。」
「阿父さんも仲々厭味を云ふことが上手になつた。」
 頭の鈍い父と息子は、こゝでさもさも可笑しさうにゲラゲラと笑つた。
「だつて――」と父は笑ひが止まると、一寸白々し気に云つた。「貴様は今は仕事がないんぢやないか。夏あたりから例の会社に出る筈なんだから、まアもう暫く遊べ/\。」
「あゝ、さうだね。」と彼は軽く点頭うなづいた。彼が心では、どんなことに没頭してゐるのか? まして文学に思ひを馳せてゐるなんてことは父は少しも知らなかつた。――下らねえ月給取りなんて止せ止せ、それよりも近く俺が材木会社を初める筈だから、そこに勤めろ――常々父はさう云つて、そんなことでは励まされない彼を励ました。いろいろ奔走もしてゐるらしかつたが、彼は父の仕事は解りもせず、寧ろ信用してゐなかつたので、上の空で聞き流すだけだつた。
「今日は珍らしくお客がないね。」と彼は女に訊ねた。会社に関係する人々が大概この家に出入してゐた。さういふ相談をするには、どうしても斯ういふ家を持つてゐないと都合が悪い――父は彼の母によくそんなことを話して、嫉妬深い母親の心を却つて苛立せて、閉口することが多かつた。
「いゝえ、もうさつきまで三人いらしたんですよ。」と云つて女は含み笑ひをもらした。「若旦那がいらつしやるといふことを聞いて皆さんお帰りになつちやつたんです。」
「若旦那、男前をあげたぞ。」
 父はさう云つて彼をからかつた。五六日前彼は、母と細君に煽動されて、酒の勢ひで来客中のこの家に怒鳴り込んだのだ。
「此間はね。」と彼はテレ臭さうに、女に弁解した。「ありやア大芝居なんだ。……だつて阿母と周子の奴が煩くてやり切れなかつたんだもの……」
「お前えの女房もおつに気取つてやがるね。俺嫌ひだア!」
 父は、彼の母のことを既にのけ者にして云つた。
「俺も嫌ひになつたア。」と彼も云つた。「鼻が低くて、眼がまがつてゐる!」
「口が達者で、お上品振りだ。」
 そこに二人坐つてゐる若い芸妓達が、口をそろへて「ほんとに此間は、随分妾達も怖かつたわ。」――「若旦那は、お口は拙いけれどどこかお強いところがあるわね。」
 彼女達が軽蔑してさう云つたのも知らず彼は、これは俺の威厳を認めたに違ひない――と早合点して、一寸好い気持になつて、
「ハッハッハ。」と鷹揚な作り声で笑つた。そして痩躯を延し、胸を拡げて、
「おい、お酌をしろう。」と眼をかすめて命令した。そして尚も自分の身柄も打ち忘れて、太ツ腹の男らしさを装ひ、
「うむ、お前達は仲々別嬪だな。」などとお神楽の役者のやうな見得を切つて点頭いた。
「ひとつ取りもつてやらうか。」彼の父は、彼の馬鹿さ加減に擽られて堪らぬらしく、失笑をおさへて彼を煽てた。「ほんとうだよ、女房なんてにこびりついてゐるのは……」
「駄目?」と彼は、皮肉なつもりの眼を挙げて、にやりと父の眼を視あげた。さういふ言葉を父に吐かせてやらうと思つてゐたのだ。
「親に意見か!」
 父は、ペロリと舌を出して平手でポンと額を叩いた。――彼は、厭な気がしてつと横を向いた。すると、眼眦まなじりが薄ら甘く熱くなるのを感じた。
「親爺は……親爺は……」この俺の酔ひ振りがいけないんだ、これが失策のもとなんだ――さう気附けば気附く程、彼の上づツた酔の愚かな感傷はゼンマイ仕掛けのやうに無神経にとびあがつた。
「親爺は馬鹿だア!」
 女は、居たゝまれなささうな格好でぢつと膝を視詰めた。
「俺は親爺の真似はしねえぞう。」と彼は更に口を歪めて叫んだ。だが、さう云ふと同時に心の隅が極めて静かに――おツと、これは云ひ過ぎた。御免々々、あつぱれな口は利けぬ、――などと呟きながら、そしてたゞイイ加減に――まア、いゝさいゝさ――と誰の為ともなく吻ツとした。
「おい、よせ/\、解つてる/\。」彼の父は手を挙げて彼を制した。
「解つてゐればこそ、か。」彼は自分でもわけの解らぬ独言を、憎々しく洩した。――父は一寸、心から気持の悪さうな表情をした。
 だが直ぐに気持を取り直して、話頭を転じさせるやうに、
「貴様の子、俺の孫には、何といふ名前をつけようかね。」と云つた。彼は、救はれた気がしたには違ひなかつたが、そんなに想像を楽しむと云つた風な言葉を、嘗て父の口から聞いた試しがなかつたので、擽つたく情けなかつた。で、ぶつきら棒に、
「だつて男か女かも解らないし――」と手前勝手な不平顔を示した。
「多分男だよ。尤も俺は両方考へてゐる。」
 彼の心は、容易くほぐれた。
「嘘だア!」彼は、女が親しい友達に厭がらせでも云ふやうに、狡猾にへつらつた。
「いゝえ、此間うちからいつもそんなことを云つてゐらつしやるんですよ。」と女が傍から加勢して、一寸彼の父をテレさせた。
「何でも家ぢや長男には英の字をつけなければいけないんだつてさ。」父は、軽く慌てゝ、それでもう孫を男と決めて、ごまかさうと試みた。
「阿父さんはしきたりが大嫌ひなんでせう。」
「此頃、少し俺もかつぎ家になつた。」
「第一阿父さんや僕は、長男だが英ぢやないぜ。」
「英の字をつけないと碌な者にならないんだつてさ。」さう云つて彼の父は、彼の顔を見た。――そして二人は思はず噴き出した。
「さう云つて見れば弟の方が僕より質が好ささうだね、学校なども何時も優等で――」
「さうだなア、ともかく今度は間違ひなく英の字を付けようぜ。」
「さうしようかね。」彼もその方が好ささうな気がした。「おぢいさんの名前は鉞太郎英福ヒデトミだね。」
「鉞太郎か!」彼の父は久し振りで自分の父親の名前を聞いたといふ風に斯う繰り返したが、直ぐに妙なセヽラ笑ひを浮べた。
「おぢいさんは、どうだつたの、僕にはとても優しかつたが――」彼は、そんな出たらめな質問を発した。
「俺とはとてもお派が合はなかつた。」
「ぢや品行方正なんだらう。」
「臆病で、ケチ臭さかつた。」
「その前は作兵衛英清だね。」
「うむ、さうだ。」
「作兵衛英清を、阿父さんは知つてるの?」
「知らない。」
「作兵衛英清は少しは偉かつたんぢやないの?」
「どうだか……」話が少し抽象的になつてくると、源は自分にあるくせに彼の父は直ぐに退屈な顔をした。彼の母が、よく意味あり気な夢の話などをすると返事もしなかつた。その点彼はいくらか母に近かつた。
「だつて僕のちひさい時分は、正月などにはきつとおぢいさんが、僕達を作兵衛英清の懸物の前に坐らせてお辞儀をさせたぜ。」
「チョツ、下らねえ。」
「英清の前は――」
「よくお前えはそんなことを知つてるな。」
 彼は得意気に、
「定左衛門英経。」と云つた。
「ふゝん――。どうでもいゝや。作兵衛英清は何でも下ツ瑞の剣術使ひだとよ。」
「それぢや英の字もあんまり当にならない――となるかね。」彼は、父があまり好い気な冷笑をして独り好がり過ぎる気がしたので、その初めの提言をからかつてやつた。
「まア、いゝさ。そんな夢みたいな話は止さうぜ。」父の酔は、がつくりと一段高まつた。
「そこへ行くと俺は偉いぞう。」
「そこへ行くと――とは怪しい言葉だ。」彼も次第に酔ひが増して、しみつたれの酔つぱらひらしく言葉尻にからまつた。
「いや俺は日本人たア量見が違ふんだ。頭が世界的なんだ。それを……だ。貴様の阿母の兄貴なんて、第一俺を馬鹿にしてゐる。俺はお稲荷様見たいな位ゐは無いよ、だが大礼服の金ピカや勲章が何でえ、△△サーヴァントぢやないか、えゝおい……だからだ……」
「僕はまた、さういふ世界的は滑稽に思ふよ。金ピカだつて奇麗だから、無いよりはいゝと思ふね、月給取を軽蔑したり、何とかサーヴァントだとか何とか、何だつていゝぢやないか……と、そんなことは云ふものゝ僕は何も保守的な若者のつもりぢやありませんぜ。」
「俺ア、肚は社会主義だア。」
「どうも阿父さんの肚は小さいやうだ。」
「いや、貴様よりは大きい。」
「比較して僕は云つたんぢやない、批評したのさ。」
「あゝもう俺は解らん/\。――だからだね、いや、だからも何もないが、さういふわけでさ、俺はうちつながりは皆な虫が好かない。俺が死んだつて泣く奴なんてあるまいよ。たゞ、だね、貴様も馬鹿でさ、俺よりまた馬鹿だから、俺が死んで困るのは貴様だけだぞ。」
「いくら酔つたつてそんな下手なことを云はれちや閉口だ。気が遠くなる。」
「それが馬鹿だ、といふんだ。」
「あゝ、気分が少し暗くなつた。」
「気分とは何だい。貴様の頭は提灯か?」
「うん、提灯だ。」
「提灯とは驚いた。不景気な奴だな! サーチライトにしろ。」
「さうはいかない、生れつきだもの。」
 さう決め込んでしまふのも因循すぎるか? 彼は斯んな冗談にふとこだはつて見ると、生れつきなんていふ言葉を用ひたことが、そして若しほんとにそんな気を持つたら大変だ――と思つた。
「ところで、もう一遍子供の名前だがね。」と彼の父は、傍のつまらなささうな女に酌をされながら酔つた体をゆり起した。
「俺の名前の雄をとつて英雄ヒデヲとしようか? 男だつたら。」
英雄エイユウふ普通名詞があるんで弱る。」
「ぢや、お前のイチを取つて英一とするか? だがそれぢや弟の英二郎とオンつくからな?」
ユウを取るのとイチを取るのと、どつちが縁起が好いだらう?」
「さて、さうなると?」さう云つて彼の父は余程の問題を考へるやうに首をかしげた。彼も何か漠然と考へた。酔つた頭が、風船のやうにふはふはと揺いでゐるのを微かに感じた。
「それはさうと、今晩はどう? 帰る?」彼は、いつもの通りこの夜も母の手前を慮つて父親を伴れ帰す目的で此処に来たことを思ひ出した。
 父は、居眠りをしてゐた。彼は、父が孫の名前を案じてゐるのかと思つてゐたが、父は慌てゝ眼を開くと、
「どつちが好いだらうな? だが、まアそのことは考へて置かうよ。」と呟いた。
「いや、もうそのことぢやないんだよ。――今晩家に帰るか、帰らないかといふこと。」
「今晩は遊んでしまはうや、いゝよ、気になんてしないだつて!」彼の態度が生温いのを悟つて、父はさう云つた。
「さうしようかしら。」
「さう/\、家に帰るのは閉口だ。」
「俺も一寸今日は……」
 その時父の傍の女が、何か用あり気に席を離れて階下へ降りて行つたのに彼は気附くと、その後ろ姿を見送つてから、
「あんな女何処が好いんだらう。」と云つた。
「あれは少々抜作だ。おまけに面も随分振つてゐるね。」父は大きな声で笑つた。斯う云ふものゝ云ひ方も、斯うあくどく繰り返しては愛嬌にもならない、厭味だ――と彼は思つて、自分にもさういふ癖があつていつか友達から大いに非難されたことのあるのを思ひ出した。
「阿母は偽善者だ。」
「阿母さんは、阿父さんのことを口先ばかりの強がりで、心は針目度のやうだと云つてゐたよ。」
「これから出掛けて、飲まう。」
「うむ、出掛けよう。」と彼も変に力を込めて云ひ放つた。だが父が先に立つて此方を甘やかすのに乗ずると、後になつて蔭で面白がつて彼の行為を吹聴することがあるので、彼はそれを一寸憂慮した。
「だが、今日のことは阿母さんには黙つてゐてお呉れ。」彼は低い声で頼んだ。
「誰が喋るものか、馬鹿野郎!」父は怒鳴つてふらふらと立ちあがつた。


 庭の奥の竹藪で、時折眼白が癇高く囀つてゐた。周子は縁側の日向で、十日ばかし前からやつと歩き始めた子供の守をしてゐた。梅の花びらが散りこぼれてくると、子供はいかにも不思議さうにぢつと立ち止まつて眼を視張つてゐた。周子はそのさまをしげしげと打ち眺めて、
「この子は屹度悧口な子供に違ひない。」と呟いた。そして思はず苦笑を洩した。何故なら彼女はさう思つた時すぐに――少くともこの子の父や祖父よりは――といふ比較が浮んだからだつた。
 彼女の夫は次の間の四畳半に引き籠つて、机の前で何やらごそごそと書物の音をたてたり、何か小声でぶつぶつと呟いたりしてゐた。彼はもう四五日前から、子供とも細君ともろくろく口を利かず自分の部屋にばかりもぐつてゐた。彼女は、彼が何をしてゐるのか無頓着だつた。この頃はあまり夜おそく帰ることもなく、酒に酔ひもしないので、清々といい位ゐにしか思つてゐなかつた。
 暫くすると四畳半で、
「えゝツ、くそツ!」と彼が何か疳癪を起したらしく、どんと机を叩くや、びりびりと紙を引き裂くのが聞えた。そして彼は、
「とても駄目だ。」と独りちながら、唐紙を開けてひよろ/\と縁側へ出て来た。
「どうなすつたの? 顔色が悪いわ。」彼があまり浮かぬ顔をしてゐるので、周子はお世辞を云つた。
「顔色が悪い? さういふ不安を与へるのは止して呉れ。さういふことを聞くと俺は何よりも悄気てしまふ。」彼は軽く見得を切つてイヤに重々しく呟いた。周子は笑ひ出したかつたが、彼の様子が案外真面目らしいので努めて遠慮した。
「悪いと云つたつて種々あるわよ。変に顔色がまつ赤なのよ。」
英雄ヒデヲのやうか。」彼は気拙さうに笑つて、子供を抱きあげた。
「何か書いていらつしやるの?」
 彼はうなづいただけで、横を向いた。その意味あり気な様子が、周子はまた可笑しかつた。それにしても此間うちから厭に不機嫌で、莫迦々々しい我儘を振舞つては、机にばかり囓りついてゐるが、一体斯んな男が何んなことを考へたり、何んなことを書いたりするんだらう……さう思ふと彼女は、どうせ碌なことではあるまいといふ気がすればする程、間の抜けた彼の顔に好奇心を持つた。すると彼女は、一寸彼を嘲弄して見たい悪戯心が起つて、
「創作なの?」と訊いた。
 周子は彼がおそろしく厭な顔をするだらうとは予期してゐたにも係はらず、彼は、おとなしく、そして心細気にうなづいた。
「小説――と云つてしまふのは、おそらく狡猾で、下品なまねだらうが、……」彼は聞手に頓着なく、あかくなつて独りごとを始めた。「俺は此間うちからいろいろ自分のうちのことを考へてゐたんだ。親父のこと、阿母のこと、自分のこと、そして英雄ヒデヲのこと……」
「あなたでも英雄ヒデヲのことなんか考へることがあるの?」
「黙れ! 考へると云つたつて……」と彼は険しく細君を退けたが、今自分が云つたやうに重々しくは、家のことだつて親父のことだつて阿母のことだつて……そんなに考へてゐるわけでもない――といふ気がしたが、
「主に親父のこと……」と附け足した。「そして到頭やりきれなくなつた。」
「何が?」
「貴様とは考へることの立場が別なんだから余計なことを訊くな――今、清々としてゐるところなんだ、やりきれなくて止めたので――」
「……」周子は、ぽかんとしてゐた。
 彼は、さう云つたものゝ、浅猿あさましい自分の思索を観て、醜さに堪へられなかつた。たとへ周子の前にしろ、うつかり斯んな口を利いて、己が心のよこしまな片鱗を見透されはしなかつたらうか、などゝいふ気がして更に邪まな自己嫌悪に陥つた。……あゝ、自家のことなんて書かうとする不量見は止さう/\……彼は、さう心に誓つた。今迄彼は、稀に小説を書いたが、それは主に幻想的なお伽噺とか、抒情的な恋愛の思ひ出とかばかりだつた。だが此頃それには熱情が持てなくなつた。
 それならば止めたらよからう――彼は、斯う「新しい熱情」を斥けた。
「ちよつと家へ行つて来ようかな。」
「どつちの家?」周子は立所に聞き返した。彼が出掛ける時には、周子は必ずさういふ問ひを発するのだつた。そして若し彼が、親父の方だ――と云はうものなら、彼女はさながら夫の悪友を想像するやうに顔を顰めるのだつた。尤も彼が、出掛けるといふ時の目当は、大概父親の方だつた。
「阿母さんに一寸用があるんだ。」
「嘘、嘘。」と周子は笑つた。この邪推深さは酷く彼の気に喰はなかつたが、事実はうまく云ひあてられたので、
「嘘とは何だ。」とあべこべに如何にも無礼を詰るやうに叱つた。いや、阿母のところにも一寸寄るかも知れない――などと自分に弁明しながら。
「今日これから、あたしお雛様の支度をするんですが、手伝つて呉れない?」
「あゝお節句だね、もう。」
 彼は、嘘を塗抹した引け目を感じてゐたところなので、周子から見ると案外朗らかな返事を発した。「男の子なんだから、お雛様なんてをかしいぢやないか。」
「あたしよ/\。」
「ふざけるない。子供がることはみつともねえぞ。」
「あなたに買つて貰ひはしないから余計なお世話よ。」
 斯んな無神経な手合にかゝつては此方がやり切れない――彼は自分の鈍感も忘れて、愚かな力を忍ばせた。斯ういふきつかけで喧嘩をすることは、もう彼はあきてゐた。その代り肚で一層軽蔑するぞ――と決めた。これがまた彼の狡さで、ほんとは彼女の言葉を最初にきいた時は、雛節句の宵の女々しい華やかさに一寸憧れたのだつた。
「ぢや御馳走を拵へるのか?」
「お客様も二人ある筈よ。だけど肝心のお雛様がとても貧弱であたしがつかりしてるの。」
「お雛様なんて紙ので沢山だ。――それぢや阿父さんと僕もお客にばれようか。」
「お父さんは真平――。白状すると、怒つちや厭ですよ……、あなたもその晩は居ない方が好いんだが……」
「ハッハッハ……そんなことぢや俺は怒りはしないよ。その代り俺、あさつては昼間から阿父さんのところへ行くぞ。」
 英雄ヒデヲはいつの間にか彼女の膝に眠つてゐた。
「ちよつと行つて来るよ。」
「また始まつた。」
 彼は、何か口実を設けて出掛けようと考へた。
「あゝ今日は珍らしく気持がさつぱりとした。」彼は、そんなことを云つて蒼い空を見あげた。「テニスに行かうかな。」
「テニスなら行つてらつしやいよ。」
「ぢや行つて来るよ。」
 彼は、しめたと思つて立ちあがつた。
「シャツがもう乾いてゐますよ。」
「今日は、ラケットの袋の中にパンツもシャツも容れて持つて行く。」
「怪しい/\。」と周子は云つた。コートに着物を着換へる場所がないので、いつも彼は家から外套の下に仕度をして行くのだつた。――彼は、思はず度胆を抜かれて、
「そんなら着て行かうよ。」とふくれて云つた。海岸の××といふ料理屋に東京のお客と一処に来てゐるんだが、其の人にお前を紹介したいから――といふ意味の使ひを父から彼はうけてゐたのだ。彼は、十日ばかり前父と一処の席で出会つた若いトン子とふ芸者が好きになつて、またトン子に会へると思つて内心大いに喜んでゐたのだつた。そして斯ういふ機会の来るのを待つてゐたのだ。
 彼は、破れかぶれな気で、細君からパンツとシャツを受け取ると、情けなく、手早くそれを身に纏うた。
「ジャケツ? それとも外套?」
「和服の外套にしようかしら。」
 細君は笑つて相手にしなかつた。彼は本気で云つたのだ。
 彼は、頭がぼつとした。ズックの靴を穿いて庭に飛び降りると、物置から自転車を引き出した。そして往来に出ると、ヒラリとそれに飛び乗つて真ツ直ぐな道を煙りのやうに素早く走つた。この儘、海岸の料理屋へ行くことを思ひきつたのである。


 最近彼は、また書きかけた小説「父を売る子」を書き始めた。一度不仲になつた父との関係が偶然の機会で、もとに戻つた。現在の感情だけに支配されてゐる此頃の彼は、もう「父を売る子」を書きつゞける元気がなくなつた。此間彼が出京する時の彼と父とは、この小説の第一節と殆ど同じ場面を演じて別れたのだ。「父を売る子」が書きつゞけられないので、出京後彼は、題は考へずにこの小説を書き始めたのである。三つの家のことを夫々書かうと思つたのだつた。そしてこれはもつと長くなるのだ。
 この小説の第二節の半ばまで、漫然と書いて、これからもつと鋭く父の事を書かうとして、彼はペンを置いた。三月初旬の月の好い晩だつた。――前の晩友達と飲み過して、気持も落着かなかつた。
 彼は、その晩父の訃報に接した。
 脳溢血で、五十三歳の父は突然死んだ。

「父を売る子」は勿論、この生温い小説すら彼には続ける力が消えた。
「父のことは、もう書けさうもない。」彼はさう思つた。「張り合ひがない。」
「此頃君は事務怠慢か? さつぱり訪問に出かけないね。」
 最近雑誌をやり始めた彼に、友達が云つた。
「何となく気おくれがするんだ。」
「はツはツは、道理で此頃は酔ツぱらつても唱歌を歌はないと思つた。」
「うむ、さう云へばさうだ。」
「独り静かに酔ひ給へ、夜。それが一番君がフアーザアの冥福を祈ることになる。」
 親切な友達は彼にさう云つて呉れた。彼は、慌てゝ手を振つた。「いや、御免だ/\。もう二三日経てば屹度元気を出すよ。他愛もないんだ。俺なんて」
「父親小説は、もうお終ひか?」
「うむ、お終ひだ。」
 彼は、尤もらしく顔を顰めて、うなつた。
 それで彼は、この題の考へてない小説に、「父を売る子」を奪つてつけることにした。
 もう直ぐに父の四十九日の忌日が来る。彼は、またあの厭な親族達に会ふことを思ふと辟易したが、此度は急に一家の主人公になつたのだから、ひとつ大いに威厳を示してやらうなどゝ思ひ、その日に云ふべき言葉の腹案と態度のことを今から夢想してゐる。
(十三年四月)





底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷発行
底本の親本:「父を売る子」新潮社
   1924(大正13)年8月6日発行
初出:「新潮 第四十巻第五号」
   1924(大正13)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
2011年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード