凩日記

牧野信一




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 心象の飛躍を索め、生活の変貌を翹望する――斯ういふ意味のことは口にしたり記述されたりする場合に接すると多く無稽感を誘はれるものだが、真実に人の胸底に巣喰ふ左様な憧憬や苦悶は最も原始的に多彩な強烈さを持つて蟠居する渦巻であらう。僕も亦不断に斯る竜巻に向つて戈を構える包囲軍中の一兵卒である。勇敢なる軽騎兵だ。然し僕は、余りに激烈なる突撃のために、屡々自己を見失つて乗馬の鞍から転落する。
 あの、僕の友達の作品が日本美術院の展覧会に出品されたのは、たしか昭和四年の秋かと憶える。「マキノ氏像」と題する青銅の胸像で、僕の真正面向きをモデルに執つたものである。――ありのまゝの己れを見ることの苦しさよ、昨日の己れは綺麗に棄てゝ、明日の己れを樹てたきものよ! と悶掻くことの迷信から、僕はそれを浮浪青年なる八代龍太が保管を引き享けるといふがまゝに、二度とは対面したくなきものと呟きながら彼の腕に托し棄てた。僕はそれに向つて、作品としての価値は問ふことなしに、単に己れの姿を眼前に引き据えた傷心から、罵りと共に永別を告げた。龍太は僕の罵り声が次第に激しく(何故なら僕はその後龍太に出会ふ毎に、激しく毛嫌ひするマキノ氏像を思ひ出すので。)なると、終ひに彼は僕の意のある所を忖度し損じ、彼を僕が憎むかの如き誤解から罵倒を返して立ち去つた。以来龍太の行衛は不明であつたが、不図二三日前、三田の露路裏の質店の中で二人は顔と顔とを突き合せた。
 僕は、空想の驢馬から転落して重傷を負ひ、おそらく消極的な喪心の廃兵だつた。僕は、心象の飛躍を索める夢も消えて土竜の心であつた。新しく移つた貸室館の屋上で、寒空の星を眺めるより他にせん術もないと嘆き疲れた上句望遠鏡を購ふべき金策に現れたのであつた。一体俺のあの顔は何んなであつたか――そんな過去の己れを思ふことほど、憐れに消極的な寒さはまたとあるまい。龍太は、僕の姿を見ると同時に小声で、アツ! と叫んだが、利息の言ひわけを済すと慌てゝ逃げて行つた。僕は龍太の後を追ひかけた。永別を告げた筈のあの青銅像に突然の未練を強ひられたのだ。忘れた己れの顔をもう一度眺めたら、気力がとり返せるか! と、それは絶望の淵に臨んで思ひ浮べる、矢張り最後のひとりであるかのやうだつた。

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 三丁目を左に折れて三田通りに出ると既に龍太と僕の距離は凡そ二十メートルであつたが、向方は故意に遁走する脚であり、こちらも懸命に追ふ身ではあるものゝ心の重傷を堪える上に、逃げる彼の姿の上に僕は「逃げる己れの姿」を錯覚する迷信から脚が震えて、二三歩毎に二人の距離は一、二メートル宛は遠ざかつてゐた。終ひに僕は一散に街上を駆け出した。同時に龍太も一目散に逃亡を劃てた。泥棒だ/\! といふ喚声が挙つて弥次馬の蹄が騒然と鳴り出した。

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 漸く僕が彼の肩先に蟷螂のやうな鉤型の腕をひつかけて、待つて呉れ! と飛びつくことが出来たのはいつか夕暮時の土星の瞬きが影を没してアンドロメダ星雲が甍の上に燦びやかな翼を拡げてゐる公園の五重塔の下であつた。逃げる彼は断じて泥棒ではない、僕の正直な友なのだと僕は弥次馬に途中で説明したので、既に彼等は四散して、五重塔の薄闇の中に二人は夫々の相手の顔だけを見出し、何か古風な舞台面の決闘の場で、人物の姿はシルエツトの切り抜きのやうに梢から洩れる星空からの逆光線の中に佇むでゐた。
「何故君は逃げるのだ。僕はたゞ君に預けたあの青銅像ブロンズの、これこそ正銘に何時も同じ顔だけを保つてゐる僕の顔に、君を見るやいなや突然会ひたくなつたゞけのことだ。少くとも今夜は、あれを君が保存して呉れた労に満腔の感謝を抱いてゐる。有り難う、龍太よ。即刻君の部屋へ、この僕を、おゝ此処に立つてゐる僕は夢を失ひ、性格を滅ぼして、魂も抜けたシルエツトだ。この薄闇からこれを切り抜いて運んで呉れ、そしてあの像の前に立てかけて、兎も角生命の絶対性を知らしめて呉れ。」
「その理由が想像出来た故に僕は逃走を劃てたのだ。面目ない、あやまらずには居られないのだ。」
「――? 若し僕に此処で追ひつかれなかつたならば、君は何処までも雲や霞の中へと逃げ終せる覚悟だつたか?」
「問はるゝまでもない。――然し公園に達してからの君の追跡は宙を飛んで風に乗り、あはやの間に捕縛された。」
「魂さへも失してゐる風の身である故に軽かつたのだ。然し君があのまゝ雲や霞の中へ消え失せて、僕が再びあのブロンズに出会へぬことを思ふと、僕はゼンマイの絶れたロボツトであり忽ちこの場で、土の中へ分解してしまふであらう。救はれたよ。」
 そして僕が龍太の腕を執つて、一刻も速かにその部屋へ案内せよと促すと、
「それが――」
 と彼は唸つた。「かなふ位ひならば僕はあんなに慌てゝ逃げ出しはしなかつた。あれは今の質屋の蔵に在るのだ。」
 あちらからこちらへと須臾の間もなく貸室から貸室へと渡り歩いてゐる龍太にとつては、真にあの青銅像は実際の重量よりも十倍も重かつたのだ。龍太は、それを預ける蔵敷料を、それを抵当として二年間分を計上したが、抵当としては一ヶ月分の蔵敷料より商人は諾んぜなかつた。漸く彼は奇智を弄して、実はこの像こそは泰西の大詩人の像であつて、さる貴人の注文に依つて小生が(と彼は画家であつたが彫刻家に変じて――)作成したのであるが洋行中の注文者が帰朝すれば千金に価するのだからと弁じて、辛うじて二年分の蔵敷料を前払ひしたのだが、恰度当月で期間が絶れた。これは全々彼が事実を捏造したわけではない。彼は或る貴人の注文に従つて、その詩人の像を描いてゐた。僕は何故か、その詩人の名前を明記するのが憚られてならぬのだ。憎しみからとおもへばいとしみで、いとしみからとおもへば憎しみで、知らぬと見れば知つて居り、知れりと見れば何んにも知らぬ、転がさうよ転がさうよこの樽を、これからあれへ、あれからこれへ、セント・ヂオジゲネスの樽のやうに――そんな意味の詩を書いた大詩人である。
 僕の青銅像は褐色をかけた泥黒色で、僕自身だつていきなりそれを見せられて、これは誰か? と訊かれても途方に暮れるであらう。題名次第に依つては、ドンキホーテとも三銃士の一人とも、乃至は、いや、何の像としたつて、点頭かれさうな単に曖昧たる凹凸の武悪面だつた。
「蔵敷料の他に僕は何回かに渡つて自分の絵具料や食料を借り足してゐる。あのまゝ抵当流れになり得るものならばと僕は寧ろ君の為に希つたこともあるのだが、何しろ代物が代物である為に商人としても僕としても絶対に処分は出来ぬのだ。今日君が、そんな魂になつてゐると云ふならば、その点だけは安心だらう。今や僕はあの利息の重味のために、精魂を枯らしてゐる。厄介なものを預かつたと苦しんでゐる。」
「その君の苦しみは当然僕も負担すべきだ。――いつそ眼の前にあれを眺めるよりも、安全な蔵の中へあれが据つてゐることを時々に想像したら、時々の落馬の傷心を医すべきよすがとなるだらうよ。兎角、在りのまゝの物体を在りのまゝに見すぎると喪心するものだからね……」
 好くも斯んな細い声が出るものかと吾ながら驚かされる程の細い声で、僕は呟いだ。星空には風が出て五重塔の下は暗闇となり、二つのシルエツトは蝙蝠のやうに抱き合つた。僕は蔵の中にある自分にしつかりと抱きついた因果な力を感じた。

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 僕は夕暮時になると屋上に出て空を仰ぐのだ。――これ(僕か……)から、あれ(土星……)までの距離が十五億キロメートル、それからあれは毎日毎日時計のやうに絶え間なく、時計の短針はりが二たまはりする間に、二百万キロメートルづゝこれ(地球……)から遠ざかつてゆくとか。
 利息の支払ひで望遠鏡は購ひ損つたが、この眼をこのまゝ眼鏡に擬しても、この頃の夕暮空のあれ位ひならば、きらきらと光り輝く有りさまが手にとるやうだ。今のところでは二百万キロメートルづゝの遠ざかりも眼には映らぬが、もう近い間にあの輝きを消す頃であらう。
 一ト間の部屋に三人住ひ、何うかすると五人にもなつて僕は余儀なく屋上へ去るほどの斯んな部屋に、持つて来られたとしてもあんなブロンズなんて置所もなく、といふてあのまゝに放擲しても処分の術もなく、利息は時計の針に従つてグルグル回り、そしてもうあんなものは僕にとつては十五億粁の先ともなつたが、やはり折にふれては肉眼に髣髴とする絶対の存在だ。魂を寄せるにしては遠きに過ぎ、近くに拉して棄て去るべき手段は無い。重味は百倍だ! と僕は呟くのであつた。どうやらこの重味には星に準ずる運行も見出せぬではないか、この身が十五億粁の彼方にあいつを追ひかけて煙りとならぬ限りは――。
 移り気な晩秋の空に出没する星の瞬きも移り気な頃である、あまりに低く垂れさがつて、地上からの蒸気のためにあの星の姿は稍ともすれば灰色に閉されながら光つてゐるが、やがて深い夜気が天地を撫で、一抹の筆に闇を流しはじめると、あれは追々と西の彼方へ沈んで行つた。すると間もなくアンドロメダの渦状星雲が見るも壮麗な大幅を拡げて輝きはぢめるのだ。あまりに巨大な翼の拡がりに眼を視張つて、その大幅を訊ねるならば何と光りの速さをもつてしても端から端へ達するためには三万年の旅路を要すとか。
 僕が龍太を追つて五重塔の下に達した晩から、未だ三四日の日数が経つてゐないが、土星の沈み具合は眼に見えて距離の遠さが指摘されるらしいが、風があるので隠見の度が不正確となり、視覚のほども怪しいものだ。
「あの晩は、空だけは静穏極まりなかつた。五重塔の下に映り出た影法師が、たゞ踊つてゐるやうな過去の影像となつて浮ぶ、あんな坊主に嘆きがあつたかと思ふと信ぜられぬ、嘆きと悩みはたゞ此処に空を仰ぐひとりの男の上にのみ重い。宜なる哉、ストア尊者のオレリウスは僅かばかりの愁ひの面持で呟いだ。これは(生活)格闘といふべきよりは寧ろ舞踊と称びたい。」
 龍太が遥かの旅先から呑気と悲しみに充ちたやうな文句を誌して舟のエハガキを寄した。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「中央公論 第四十八巻第十二号」中央公論社
   1933(昭和8)年12月1日発行
初出:「中央公論 第四十八巻第十二号」中央公論社
   1933(昭和8)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
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